1139 秘聞 柳生石舟斎  2

ふうなとふうま

「柳生の若は‥‥」
 丹生神宮寺の若葉は、社務所へ出てくるなり、つぶらな瞳をみはって野鳩のように
くっくと胸を音させながら尋ねた。
「もはや、お立ちにござりまするが‥‥」
 後事を託された郎党頭の佐平が寄っていって答えたところ、
「まあ‥‥」
と言うなり十六歳の娘は、その黒目がちな瞳に、ぽつりと白いものを噴き出して、
「お目もじに間に合わずじゃったか‥‥」
低く訴えるように恨めしげにつぶやいた。そこで佐平も、はっとして、
「姫様と、手前方の若の新介さまは、丹生の宮と夜支布の宮の神符をとりかわしたる
許嫁の仲‥‥なのに、お目にかかっては後髪ひかれよう、未練が出ようと、情剛(じ
ょうこお)うも挨拶せずに行かしゃったとみえまするな」
 新介を庇いつつ、眼前の姫を労るように、その場をとりなした。しかし若葉は、
「私さえ早うにここへ出てくればよかったのじゃ。それを女心の悲しさに、髪をとか
さねばなるまい、着ているものも見た目によう映えるものにしたやと手間どっている
うちに、つい時を逸してしまい、間に合わん事になってしもうたのじゃえ」
屈みこむようにうずくまって、両手で顔を覆った。だから佐平もおろおろしてしまい、
「もう今からでは崖っ鼻へ出たところで影も形もみえますまいが‥‥行かしゃった先
も判っておりますゆえ、いずれそのうちには、お元気で戻ってござらっしゃろう程に」
と慰めた。
 するとそこへ、
「おう皆の衆、朝粥をすまされたら‥‥もし筒井の衆が見廻りにきた時の用心に、ひ
とまず洞谷の方へ身をひそませていたがよいとの、宮司さまのお達しじゃえ」
と、ふれに来た正覚坊が、泣き崩れている若葉をみつけ、
「こりゃまた何と‥‥」
野太い声で気にして寄って行こうとするのへ、佐平が遮るように立って、その耳許へ
口を寄せ、
「姫には、うちの若がお別れもせんと、さっさと行ってしもうたを怒っていなさるの
じゃ」
とささやいたところ、正覚坊は大きくうなずき、任せておけといわんばかりに、若葉
の側へ行き、
「なれば姫‥‥この正覚坊の背におぶさりなされませ。丹生神宮寺修験堂に伝わる天
狗飛び切りの術で、お前様を背負って阿吽のうちに、柳生の若のところへ、すぐ後を
追いつけるよう、野をとび山を越え、羽ばたいていって御覧に入れまするぞ」
と声をかけた。すると若葉は急いで袂で顔を拭い上げ、
「これは尾篭なところをみせてしまって‥‥」
恥ずかしそうな微笑をみせ、
「もう泣かぬ‥‥姫は山の娘‥‥どこへも行かんと、ここにおとなにして待っている」
低い声だが、はっきり言ってのけた。それを聞いて佐平もほっとしたように、
「うちの若様はきっとここへ戻ってこられまするで、それまでお待ちなされましょう
ぞ」
 頭を下げて後へ下がり、まだもたついて佇んでいる柳生の者達を、
「さあ、洞谷へみんな行ったり行ったり‥‥丹生の衆の親切に甘えて、迷惑をかける
でないぞ。それ急げ」
 まるで放れ駒を柵へ追い込むよう、両手をひろげてせきたてていった。
若葉はそれを見送り、柳生の者達が崖下へおりていってしまうと、
「のう正覚坊‥‥わらわがここでべそをかいていたなどと、父どのや他の者にも、構
えて言うまいぞ」
まだ幼さの残るあどけない顔をきっとさせて言った。そこで、
「はい、はい」
正覚坊も合点し、まるで己が娘のように最愛のまなざしを差し向けながら、
「今のところ、柳生の長吏頭の新左どのも、伜の殿の新介さまも、いったいどこへ落
ちてゆかれたかは見当もつきかねまするが、修験道の者は各地に散らばり、また山野
を馳せて行き来が激しゅうござりますれば、そのうちに消息は我らの許へも届くはず
‥‥ご休心なされましょう」
 やさしくいたわるように言いきかせた。それゆえ若葉も機嫌を直し、傍らの黄色い
花をつけた松葉草をそっと摘むようにして手折りながら、
「わかった。もう泣きはせぬ。その代り恥ずかしいゆえ、さっきも言ったように、今
ここで泣いていた事はお願いじゃによって誰にも言いやるな」
甘えるように正覚坊に言い、にっこり白い糸切り歯をみせた。

 しかし、そのころ。
熊笹の茂みから足を掬(すく)う羊歯(しだ)の群生した山道を、転がるようにして
新介は、腕だけでなく頬や額にも引っ掻き傷をたくさんこしらえ、
「うおっ、うおっ」と野獣よけに、己れも獣のごとく吠えながら、東へ東へと、風の
吹き加減で方角の見当をつけ、ただ一目散に駆け続けていた。
 なにしろ山者とか山がつの名で当時呼ばれていた柳生や丹生の者達には、足軽、足
早やの異名もあった。これはなぜかというと、仏信心の方は寺がでんと真ん中に構え
ていて、その周りに寄進百姓が住みつき、鐘楼の鐘さえゴオンとならせば、それっと
すぐに寺へ集まってくる仕組みになっているのに比べ、神信心の社の方は、その信者
が四方に散らばり、隠れ住んでいた。
 そこで、お札を配るにしろ、何か伝達をする場合も、寺のように鐘をならして人集
めをするという事ができず、社の者が手分けして信徒の許を飛び回らねばならなかっ
た。
 このため胸に紙をあてて走っても落さないだけの速度が必要となり、長年のうちに
訓練されて、子供の頃から、かもしかと駆け比べといったように馴らされていたので、
彼等の事を「夫馬」----それ馬の如しといった呼び方もする。が、この文字が後には
いろいろ宛字をされて、「風間」となるくらいはよいが、大衆小説などでは「風魔」
といったようにもなり、風魔小太郎などというのまで現れてくる。
 しかし、そうした呼称は関東のもので、関西へ行くと、三河以西では「風那(ふう
な)」つまり、風の如く速いからと。風のようなといった言葉があてられる。
 だから、歌舞伎でも、
「フナじゃ。フナじゃ。フナ侍じゃ」という罵り言葉の出てくるのがあるが、あれと
て魚の鮒をさしているのではない。江戸時代にあっては鮒という魚は、どちらかとい
うと高級なものとして使われ、小串にさして焼いたものには「寒雀(かんすずめ)」
といった風流な名がついて、今日の鮎の塩焼きぐらいに馳走扱いされていたものであ
る。つまり鮒ではなく、風那の事を意味していたのだろう。
 だからこそ言われた方はかっとして、いきなり抜刀して斬りつけるのである。
つまり寒雀の方の鮒であるならば、これは誉め言葉ゆえ怒る筋合いはないからして、
相手からそう呼ばれたなら、
「いや、それ程でもござらぬ‥‥」と、頭でもかく程度ですみ、殿中で刃傷沙汰など
起す気遣いはないのである。
 が、それも、神仏混合の策をたて、寺の下へ社を合併統合しようと企図した五代将
軍綱吉の元禄時代の出来事だが、この天文十三年の時点も十年前に細川晴元の軍勢が
大阪中之島において、本願寺の僧兵に敗北して以来、その二年後に将軍義晴は本願寺
光教と和を結んだものの、仏教勢力の滲透は凄まじく、反仏的な神社をまつる土地は
次第に寺側に蚕食されだしていたのである。

幼き日の秀吉
「なんじゃ、野猿のごとき色黒き、それなる童(わっぱ)は‥‥」
松下加兵衛(まつしたかへえ)は見馴れぬ子供に目をやって、弟の源太郎の方を振り
向いた。
「弥右とか申す猿飼(さるごう)が連れ参った小伜にござりまするが、弥右めが毒魚
を食してそれにあたり、死におりましたで、今ではみなしごにござりまする」
「さようか‥‥まだ頑是ないに親を失うたとは、さても不憫な者であるな」
加兵衛はうなずき、近寄ってゆくと、
「うぬ、名は‥‥」と尋ねた。
「へえ、ひえよし‥‥と申します」
犬みたいに持ち上がった口先をつきだし、子供は吠えるような言い方をした。
「可哀想じゃが、あまり可愛げのある子ではないな」
と、ひとり洩らしつつ、加兵衛は、
「猿飼の子にひえよしとは、猿は日吉権現の使いというから、それからとっても日吉
かな」
と口にしたところ、源太郎は、
「いや、なかなかもって、そない勿体ない名ではなく、稗などであれ、飢えずに食し
てゆけるようにと、親の情けでつけた名でおじゃりますそうな‥‥なんせ死んだ弥右
めの在所の尾張中村在は、こまかい川が縦横に走っているため、しょっちゅう水が溢
れて田畑がながされるとかで、米よしだの、粟よしという名も珍しゅうないそうで‥
‥」
つけたして説明してくれたが、当人の稗吉はぽつねんとして、何かくれるのか、くれ
ぬのかといった顔で黙ってつっ立ったままだった。
 ----猿飼というと、江戸末期を扱ったテレビや映画では、薄汚い旅人宿の大広間へ
詰め込まれた、しがない旅芸人の一人として、みじめったらしく登場するが、江戸期
でも神徒弾圧が始まる五代将軍綱吉の頃までは、まだ「神人」の待遇をされていた。
だから天文十三年の頃は、後世の猿回しのような安っぽい扱いではなく、もっと大切
にされていたのである。
 というのも、その頃は今のように動物園やモンキーハウスといったものはまだ存在
せず、よほどの深山幽谷へ入らねば野猿とは遭遇しなかった時代なので、猿は珍重さ
れていたし、そのうえ「馬屋神(うまやがみ)」という名さえあった。
 まだ人間の病でさえろくに診察出来なかった時代だけに、大切な家畜である馬が病
気になっても獣医などなかった。そこで、猿を馬の許へつれてゆき、白紙を切った御
幣を振らせれば、それで馬の諸病は治ると言い伝えられ、「猿飼部族」というのは、
厩の病を一切治し、浄めるものとして、猿と同様にそれを飼育する人間の方も、神様
扱いされていたのである。
 だから父の弥右衛門に死別したとはいえ、稗吉は少しも卑屈になることはなく、こ
の頭陀寺十二坊の薬師寺本山を守る砦主、松下加兵衛の許へ出ても、悪びれもせずつ
っ立っていたのである。
「こないこまいのを他の者と一緒にさせておいては、大人どもに先取りされてしもう
て、なかなか食物が廻り切れぬやもしれぬ‥‥よし、娘の千賀(ちが)のところへつ
れてゆかせるがよい」
 飢えさせるのは可哀想だと気をつかい、松下加兵衛は弟に指図した。
しかし、源太郎は、この九歳の貧相な小童が、行く末どんな大物になるかなどは、て
んで知る由もないからして、
「早う、こっちゃ来い‥‥おまえがようにちょこまかする餓鬼は、大人どもの溜りへ
入れておいても、他人の食物をこそ奪えど、とられて泣くような事はあるまいと思う
が、せっかく兄じゃが気遣うてくださるのじゃ‥‥とっとと、ついて来んかい」
 医王坊構えの裏手になっている、からたち垣の中の加兵衛の娘千賀の館へつれてゆ
くなり、
「おう‥‥ことづかって猿飼の子を連れてきた。犬なんか飼うたつもりで、余り物で
も食させてやりなされ」と声をかけた。
「へえ‥‥して、どんなお子じゃ」
珍しそうに顔を出した千賀は、
「まあ‥‥まるで梅干の種のような」
稗吉を上から見下ろすなり、くっくっと吹き出し、しまいには大声で笑い始めた。
 しかし九歳の子供の方は、根っからの色好みか、それとも早熟(わせ)のせいか、
ぼおっとしたように千賀を仰ぎ見て、
「ええ器量しとるぎゃあ‥‥」
思わず溜め息をつき、赤黒い顔をよけいに色こくさせて、恥ずかしげに身をくねらせ
た。
 だが、そうした仕草を色気ととる者はなく、源太郎も、子供ながら照れていると思
ったのか、
「もたもたしとらんと、庭先の掃除ぐらいはしてこませ」と叱りつけた。
「へえ‥‥」
言われて稗吉は、庇の下に立てかけてある背丈よりも大きな熊手を持ち出してはきた
が、まだぽおっとしたように色白な千賀の素足の爪先に眼をやり、
「ううん」と、切なそうに幼い思慕の吐息をはいた。
が、源太郎はそれにかわまず、
「何をしてさらす‥‥とっとと落葉ぐらい早うにかき集めんか」
叱るように言いつけてから、さっさと、からたち垣の外へ出てしまった。
 しかし、怒鳴られても稗吉は、
「ええとこへ連れてこられてよかったぎゃあ‥‥あんな、ええ女ご、これまで見たこ
とないで、いかんわね」
ぶつぶつ口の中でしきりとつぶやいていた。
 父弥右衛門にぽっくり死なれてしまった後は、中村在の母親が恋しく、何とかして
尾張へ行く衆があったら連れて行ってもらいたやと、そればかりを思い焦がれていた
稗吉だったが、千賀をみた途端、そうした思いも一度に吹きとんでしまったのである。
「おらあ尾張へなんぞ戻らんと、ここで精出して働こ。親の跡継ぎの猿飼なんかやめ
てしもうて、松下様のご家来になったろまいか」
とも子供心に決心をつけたのである。
 だから、千賀の気を引こうと、好いてもらいたい一心で、それからは、
「なんでもやったる、どんな事でもしたるぎゃあ」
と小さな身体に鞭うつごとく、稗吉は掃き掃除だけでなく、軒廊の板の間磨きもせっ
せとやった。
「あらやだ‥‥あんまりつるつるさせたので、滑ってしまいそう」
千賀に声をかけられれば、軽い文句を言われているのだと考え分けるどころではなく、
ただもう嬉しくなって、
「ヒッヒッ」と白い歯をみせて悦ばしそうに声をはりあげ、はしゃいで、雑巾片手に、
独楽鼠のように館中をとびまわった。
 しかし十三歳の千賀には、
(面白い子)とは眼に映ったが、まさか九歳の猿飼の子が、自分に恋心を抱いて、そ
の表現にとんだり跳ねたりしているなどとは思いもよらなかった。
 だから女の子の意地悪さで、
「あの木のてっぺんに登って、実をもいできてほし」などと、手を滑らせたらまっ逆
さまに落ちるだろう事も承知の上で、小さな子に無理難題を言った。
 凍りつくように風が冷たく吹いてきた日には、
「泳いでいる魚をこれに取ってきてほしや」
と小さな木桶をもたせて、濠に続く川へやった事もある。
 しかし何を言いつけられても、厄介な事を言われれば言われるほど、かえって稗吉
は、まるで己れが試されているとでも思うのか、
「やれるがねえ‥‥ちびでも肝があるでよお」
喜び勇んで高い木へよじ登ったり、素っ裸になって川へ潜り、唇を紫色にしながら小
魚をすくっては戻ったきた。
侍女ばかりの千賀の館に、男は己れ一人だけという気負いで、子供ながらに張り切っ
ていた。

遠州浜松在
 今は浜松とよばれる引馬の里は、温暖な遠江灘に面しているので、頬に冷たい風が
吹いてくるのは十月の末。
 あたりの緑の木の葉がすっかり黄ばんでしまう頃合である。
「むさくるしい奴め‥‥わりゃなんじゃ」
番衆が六尺棒をつきだし、寄せつけまいとして、
「胡乱(うろん)臭い奴め‥‥近寄るでない。とっとと消え失せてしまえ」
蓬髪に、まるで海藻(みる)でもまとったような、ぼろぼろの相手を叱りつけた。
 しかし男は臆する色もなく、
「野越え山越え、夜露にうたれる野宿を重ね、やっと大和の国からここまで辿りつい
たもの‥‥途中で大切に持ってきた破石薬師寺様の添状は紛失しましたが、大和柳生
の庄の長吏頭新左めの伜新介といえば、当頭陀寺の松下加兵衛殿とて、名ぐらいは存
じてござらっしゃろ。まあ、そう目くじらたてて追(ぼ)わんとほし、取り次がっし
ゃい」
胸元を押さんと突き出してくる棒の先を、逆に掴んで引っ張り寄せ、番衆の耳許へ囁
きかけた。
 そこで、いまいましげに、
「よっしゃ、乞食(ほいと)のくせに大口を叩く生意気な奴め‥‥それ程までに言う
のなら、まあ伺ってきてやるが、それまではここを動きさらすな」
と中へ駆け込んで、番衆がその旨を松下加兵衛に訴えたところ、
「夜支布神と丹生神を大和の興福寺が眼の敵にして、滅ぼしにかかっているとはかね
て聞いている。同宗薬師寺派の者であれば、丁重に案内し、中へ通してやるがよい」
と即座に許しを出したところ、弟の源太郎は、
「山者をこちらの館へ入れては、他の者とうまくゆかぬやもしれませぬで、この前の
猿飼の童と同じく、からたち館の方へ、ひとまず入れておかれたら‥‥」
脇から助言するように言葉をはさんだ。
「うん、それもそうじゃな。話どおりに道中なにかと苦労して来たものならば、何の
気兼ねもない千賀の許で手足を伸ばさせてやるのも、また良かろうというもの」
加兵衛もそれにうなずいたので、源太郎はすぐさま番衆に、
「こちらへの目通りは急がずともよいから、まず旅の疲れなどいやすように、それな
る者へ言いつけ、案内してつかわせ」てきぱきと命じた。
 さて、追い払えと下知されるものと思いきや、案に相違して、丁重に扱えなどと言
われて、少しむくれ気味の番衆は、
「‥‥あないむさいのを姫様の館へお通しし、虱など運びましては」
忠義顔で反対した。しかし源太郎はそれに頓着せず、
「ならば、その者を裸にむき濠へつけ、縄だわしでこすってから連れていけ」と言い
つけた。
 おかげで仕事が増えた番衆は、不機嫌に頬を膨らませつつ、
「これさ旅の者‥‥」と大門まで戻ってくると、新介を顎でしゃくり、
「お言いつけじゃ、それなる濠へ飛びこまっせ」
青く水藻の浮いた水面を顎でしゃくり、
「当引馬の地は海続きで水に縁のある土地。多少は水潜りができぬようでは、砦内へ
出入りかなわぬが掟。すこし肌寒かろうが思い切り水中へ入って頭まで浸けてみせな
され」
なるべく自分の手は煩わさぬように、わざと七面倒くさい顔をしてみせた。
 言われて新介も初めは何の事やら判らず、奇妙な顔をしていたが、柳生川から木津
川へかけ、息をとめて川底を歩くような訓練までしてきた若者だけに、
「よっしゃ」とばかり着ているものをその場にかなぐり捨てかけた。
すると番衆はあわてて、
「そのまま、そのまま‥‥裸で水潜りなら誰でもやれる。着たままでどぶんといきな
せえ」
手を振って、また着ろという真似をしてみせた。
新介は、ますますわけが判らなくなり、
(寒いから着たままではというのであろうが‥‥どっちみち水中へ入ってしまえば、
同じ事ではないか)と迷ったが、
「えい面倒くさい」
と脱いだものを首にまきつけ、垂直に濠の中へ飛び降り、水底に足がつくと、そのま
ま番衆の立っている方角へ歩いてゆこうとしかけたが、横手に洞のようなものがボン
ヤリと開いているのが目についた。
 そこで、なんだろうと不思議に思って、爪先で水底を蹴り、その洞穴の中へ一気に
身体を送り込み、斜めになったまま三つ四つ大きく掻いてゆくと、次第に水の上の方
が明るくなってきた。
 だから息も続かなくなってきたところでもあるし、そのままで上へ、すうっと浮か
び出ると、河童のように顔の尖ったのが桶を片手に泳いでいて、これが突き当たりか
け、
「ぎゃあ‥‥」
たまげたような声をはり上げた。
 新介も話には聞いていたが、河童の実物をみるのは初めての事ゆえ仰天し、尻子玉
を抜かれてはと、肛門をぐっと締め、左手でしっかり押さえながら、右手をぐっと伸
ばし、
「わりゃあ‥‥」と先に掴みかかろうとした。
 ところが、黄色い悲鳴をあげたわりには相手も敏捷なもので、手にした桶を投げつ
けてくるなり、小さな身体で早いとこ水中へ逆立ちするように潜り込んだ。
 しかし潜りにかけては新介も自信がある。おのれ、逃すものかと、後を追って再び
水中へ身を躍らせると、またも洞穴のような土管が埋めこんであって、その中を潜っ
て小さな身体は抜けてゆく。新介もその後を通り抜け、相手が浮かび上がったから、
自分もついで頭を水面に出しかけたところ、河童と思い込んでい追ってきた相手の口
から、いきなり黄色い声で、
「助けてちょう‥‥河童だぎゃあ」と先に喚かれてしまった。
 これには新介も狼狽し、
「何をぬかす、河童はその方ではないか」とやり返していると、
「まこと河童が出てきやったのか‥‥」
 からたち垣の向こうから薙刀を手にした女たちがぞろぞろと出てきた。
そして水中から這いだした子河童の方に味方するよう、新介に向かって、
「かかるお城の奥深き姫様のお館まで、つぎつぎと水門を潜って近寄って来るとは、
まともな人間にはできかねる話‥‥そちゃまこと河童であろうがのう」
と、ぎらぎら研ぎすました薙刀の刃先を突きつけてきた。
 新介もそれにはすっかり往生してしまい、水中から飛びだそうとしたが股間を押さ
えてはっとした。尻子玉を抜かれまいと左手を背の下の割れ目に入れて片手泳ぎをし
ているうち、つい指先にからまってうるさい下帯の端が邪魔っけで、知らず知らずに
解きほぐれてしまったらしい。何も腰の割れ目を覆っている布地がなく、冷え切った
水中だというのに、前の方は直立不動に立ちっぱなしのままである。
 これでは水中から出たくとも、恰好が悪くて飛び出せはしない。
 なのに薙刀の女たちは、
「いつまでも冷たい水中を己が棲家(すみか)同然に心得、這い上がってこぬは水性
の魔物の証拠。さあ、いでや尋常に討たれてしまえ」と交互に刃先をつきつけてくる。
 さすがの新介も、これには泡をくい、
「ご容赦、ご容赦」と、また水中へざぶりと潜り込み、土管から土管へと一直線に泳
ぎ渡って、またもとの濠端へと戻り、
「プウッ」と鯨の汐吹きよろしく水面へ踊り出た。
 仏頂面の番衆も、これにはびっくりしてしまい、まさか一往復してきたとは知らず、
「あまり浮かび出てこんゆえ、水中で虱にでも食いつぶされてしもうたかと案じてい
た‥‥がよく息の続く事よ」と、ただもう呆れ返っていた。

柳生但馬の父母
 ここの松下加兵衛之綱の娘千賀の妹春桃と、新介改め後の柳生石舟斎の間に生れた
子が、「柳生但馬守宗矩」となって。寛永六年三月には従五位下に任官し、一万二千
五百石の大名にもなるのだが、それはまだまだ後日の話。

「‥‥最前、河童に化けて、まだ幼い稗吉を苛め、あろう事か女ばかりのこの奥庭の
泉水へ、ぽっかり首を出しましたる悪戯(てんごう)は、いったい何ゆえの真似じゃ。
この身が年若ゆえ舐めくさってしやったのか」
 まだ十三歳でも、ここ引馬の頭陀寺十二坊を守る松下加兵衛の娘だけに、千賀は気
強くきっとして新介を睨み据えた。
 脇から稗吉も、他の男を千賀の側へ寄せ付けたくない一心から、
「こんなけったいなのあらすか‥‥ひと息にここの泉水から、大手門の濠端まで潜っ
たまんま泳いで行かっせるなんて‥‥並みの者には出来へんことでいかすか」
と、あくまで河童のせいにしていまいたいらしく、むきになって尖った顔を突き出し、
しゃべりまくった。
 新介はもう阿呆らしくなってしまい、これではこの引馬へ来たのは無益の沙汰、道
中で樵や柴木売りなどして辿りついたのも徒労であったかと、しみじみがっかりさせ
らていた。
 といって、ここをやめて何処か他へ移るといったあてがあるわけでもなかった。
仕方なく、それから「河童」「河童」と言われながら天文十四年をむかえ、そのうち
十五年の新春になった。
 来た当時は、「同じ薬師寺派の者ゆえ、よく面倒をみてやらずばなるまい」と気を
つかってくれた松下加兵衛も、当人が思いの外の若さであり、千賀のからたち館で稗
吉と共にこまめに立ち働いているのを見たり聞いたりしているうち、
「好きなようにさせておけ」と、まるで新介が好んでそうしてでもいるかのように誤
ってしまい、いわば新介は、打ち捨てられたままの形となっていた。
 さて、今も昔もそうであろうが、暑くなると、凌ぎやすい東北や信濃、越前越後へ
と向かう者が多いように、寒い季節になると温暖な遠江や駿河へは、旅回りの者が次
々とやってくる。中には、傀儡(くぐつ)とよばれる土偶(でく)人形や、一人相撲
といった芸事人(げいごとにん)も流れてきて、からたち館の女たちや、頭陀寺に集
う信者達を興がらせ面白がらせたが、荒事の「槍使い」とか「棒使い」といった者達
も、春の日差しを慕うように引馬の庄へ入ってきては、
「北国や東国の海は刺々しいくらいに、白い波頭を鋸引きにして、まるで鮫がかみつ
くようじゃが‥‥このあたりの遠江の灘から弁天海は、波もみえんと春の海、よろし
ゅうござりまするな」
と愛敬を振りまき、棒を用いて相手を叩きのめすには利き腕を叩くに限るとか、その
棒を杖の如くにして、助走して跳べば塀をも越えられるといった術を披露したり、槍
使いは、
「相手を突くには防具のない股間を狙うに限る。ここさえ傷つければ、いかなる荒武
者もいちころじゃ」
 面白おかしく伴ってきた者を相手にしてみせて、きゃっきゃっと砦の者達を喜ばせ
る。
 が、新介がそれらの旅の芸事師の中で、一番心をひかれたのは「矢留の術」という
ものだった。これは飛び来る矢をいかにして防ぐかというもので、実戦には欠かせぬ
事だし、それを教えにきた者も、いざ本番となると、まったく真剣そのものだった。
 まさか本矢は使えぬから、篠竹の切ったのを弓につがえて四方から射かけ、それを
術者が払いのけるのだが、青竹といっても切り口が斜めになっているのも少しはある
から、眼や鼻に当たれば、稽古とはいえ失明もするし、鼻欠けにもなってしまう。
 棒使いや槍使いのように手前味噌の講釈をしつつ、そこで身振り手振りおかしく、
跳んだり跳ねたりしての、おおげさな身体の動かし方や、見得を切るような所作もな
く、
「飛来する矢を払いまするに、道具と言われてる槍では長くて重たくて思うにまかせ
ませぬ。よって、これは打ち刀に頼ることしかござらんが、刀身で己れの前に楯をつ
くるは、一寸二分の刀の幅を十倍にもせねばならぬゆえ、これを阿吽の呼吸のうちに
十回振らねば役に立たず、というて、それも口で言うは安く行うは至難。よって右手
だけでなく左手にも刀を持って、これを交互に振れば十回は五回ずつですむが、これ
とてよほど、左右の手を同じ様に動かせるようにしておかなければならず、それには
修練する外には何ものとてもありませぬ」
といった理詰めの術だった。そして、
「もろこしの国には軽い鉄が産出しまするで、それにて左手に持てる楯を作り、右手
に戟をもって矢を避け突入しまするが、本朝にては鉄は槍の穂や刀身を鍛えるだけに
て手一杯、よって楯は古来、樫や欅(けやき)の八分板で作りまするゆえ、並べて寝
板に致すにはよろしけれど、いかに大力の者とて、これを片手にひっさげ、それにて
も突進などは思いもよらず、どうしても、この矢留の術が不可欠のものとなりまする
のじゃ」
 矢留双心斎を名乗る老人は、新介がいつも熱心に側へくっついて教えを乞うのに対
し、できるだけわかりやすく説明した。
 稗吉もたまには傍へ寄ってきて、判るのか判らぬのか、「ふんふん」小鼻を鳴らし、
神妙な顔をして聞いていたが、まだ二十一になったばかりの悪たれでは、うなずく程
には判らぬとみえて、いつの間にかすっと消え去っていた。
 頭陀寺砦の面々も、初めのうちこそ興がって、矢を叩き落すところは見物にきたが、
それでも各自てんでに、
(自分は戦場へ出ても矢になど当たりっこない)
と、一人決めにしているらしく、「稽古」となると、みな面倒がって、
「当る当たらぬは運賦天賦の致すことじゃ」
「阿呆らしゅうて、そないな稽古ができるものか」
 みな勝手に散らばっていってしまい、残るのは新介一人といったような事が多かっ
た、
 それでも矢留双心斎は、
「まあ芸事はなんにせよ、その天分‥‥持って生れた人の持ち味による‥‥木の上か
ら松カサが落ちてきて、こつんと当たってから気づくか、当る寸前に気づいて身を避
け得るか。はたまた、それより間一髪早く感じて手を伸ばし、受け止めてしまうかの
差じゃ」
と熱心にさとしてくれた。つまり言うところは、今でいう反射神経の問題だった。
 修練や稽古では多少は身軽にもなるし、動作も機敏にはなるが、なんといっても根
本問題は本人の持って生れた運動神経の資質のいかんによるという体験談である。
(こうした芸事は遊芸武芸みな同じ様なものだが、どの師匠もせっかく入門させた弟
子を失いたくないと、束修(月謝)を払う金の蔓を大切にとの一心で、やれ筋がよい
の見込みがあるのと、気を引くような事を言い、さも稽古しだいで上達するように言
って励ますが、音痴がいくら学び励んでも歌が上手になどなれっこないように、矢留
の術も生まれつき運動神経が鋭敏に備わっていない者には、いくら稽古をしても無駄
なことだ)
という割り切った話しぶりに、新介は、
「その通りでござりまするな」
我が意を得たりと心から納得し、
「ぜひとも、手前をよろしく」
改めて両手をついて頼んだ。という事は新介が(わしは他の者とは違い、生来反射神
経が、打てば響くごとく備わっているのだ、運動神経が天性よく備わっているらしい)
と、はっきり自信をもてたからであり、双心斎の方もそれを認めたからであろう。