1138 秘聞 柳生石舟斎  1

※いわゆるカッパノベルズの一つで、影丸が八切氏から直接いただいたものを
 タイプしました。

                      1996年3月23日 登録
                       影丸(PQA43495)

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八切止夫著 「長編時代小説 秘聞 柳生石舟斎」
昭和四十六年 五月三十日 初版 光文社発行  350円


「著者の言葉」[カバー折り返しにあるキャッチコピー]
講談では荒木又右衛門は伊賀上野・鍵屋の辻で、三十六人斬った事になっている。
だが、藤堂家の記録によれば、又右衛門は二人を倒しただけで、相手の若党に刀を折
られたうえ、頭をたたかれて失神している。この作品で私は、若き日の柳生石舟斎を
描いたが、講談調ではなくシリアスなものを狙ってみた。つまり、おもしろさとは、
なにも、誇張や、もっともらしさをてらわなくても、ありのままの真実をさらけ出し
たものの中に有るはずで、むしろ、本当であればあるほどおかしい、という事を実証
したかったのだ。


               柳 生 の 民

筒井勢の柳生攻め

「やあやあ、柳生のやつばら覚悟を致せ‥‥われこそは大和一国の軍勢を預かる筒井
順昭(じゅんしょう)なり、いざ出あえ、出あえ」
 金輪冠(かぶ)りの法師頭巾の下から大音声によばわりつ、大薙刀をふり回し、
「紅葉館(もみじやかた)の長吏頭(ほりがしら)新左(しんざ)のしゃっ首を取っ
てきた者には、これなる柳生の庄を恩賞としてくれてやらす」と味方の者を励ました。
 そこで率いられて来られた軍勢も勇気百倍し、
「おのれ人外の奴ばらめ、降魔の利剣をうけてみい」とばかり勢いだって柳生谷を取
り囲んだ。
 なにしろ、この天文十三年というのは、足利将軍義晴が管領細川晴元と和議を結ん
だため、ひとまず洛中は平穏になっていた。だが、山陰地方では尼子晴久が伯耆・因
幡の国々を切り従えている最中であったし、東海地方では、前年に今川義元を三河小
豆坂で破って大勝した織田信秀が、美濃の国を家来の斎藤道三に奪われ、頼ってきた
元守護の土岐頼芸のためにというより己れの侵略の野望のため兵を集めていた矢先で
ある。
 つまり、どこもかしこも戦雲のたなびいていた時代ゆえ、殺伐の気がみなぎってい
た。
 さて、この時の合戦の次第は‥‥
 奈良興福寺多聞院の英俊和尚が、その日記の天文十三年(1544)七月二十七日
の条に、
「筒井(順昭‥‥順慶の父)どの兵を出され、柳生を攻めたもう」と書いている。
 もともと、この柳生の庄というのは、楊生(やぎう)とまだ呼んでいた建武の頃に、
笠置山へ立てこもった後醍醐帝の許へ、中坊(なかのぼう)が衆徒を率いて味方した
手柄により、中興の時にこの地を賜ったものであるとされている。
 しかし建武の中興が失敗し、足利の世となったので、中坊は逆徒として追われる立
場になり、兄永珍がそれに代わった。
 しかし柳生の里は元来が農耕の民の住み着いていた所ではないゆえ、田畑は少ない。
だから一帯の大檀那寺である興福寺の筒井へ年貢を納めるということもなく、京七道
の辻の者と同様に長い間「除地(のけち)」となっていた。
 しかし、筒井の方でも、そのままでは柳生の一帯だけがまるで別天地の様な形にな
ってしまって思わしくないから、せめて課役に人夫なりと差し出すようにと、何度も
交渉の使いをよこしてきていた。
 そこで、当時、長吏頭として紅葉坂の館にあった永珍の裔の新左衛門(「柳生家記」
では美作守家厳(いえよし)としている)は、やむなく信貴城主松永久秀の手を通じ三
好長慶の庇護を求めた。
 それを知った筒井順昭は、
「えい、やぎう者めが‥‥」と五百の兵を催し、魔利支天山(まりしてん)と霊源峠
(れいげんとうげ)の両方から挟み討ちに柳生を攻めたてて来たのである。
 ----今でこそ剣聖柳生但馬守宗矩(むねただ)だの、その父柳生但馬守宗厳(むね
よし)、別名柳生石舟斎というと、名前だけでもいかめしく感じるが、これはまだ天
文十三年ころの事である。柳生石舟斎とて、まだ新介とよばれていた十七歳の当時の
話。
 なにしろ、この柳生一帯の者は、南朝方についた者の子孫ゆえ、足利の世にあって
は反体制の民として扱われ、それにもともと稲作をしていないため、山で鹿や狼を捕
らえてその皮を剥ぎ、肉は塩漬けにして鷹の餌用に売り歩いていたからして、「今昔
物語」の中にも歌詠みに月ガ瀬に来たのが、若草山の麓から柳生谷へ降りてしまい、
道に迷って暗くなり、人家の明かりを見つけて立ち寄っても、「いかなる所へ迷いき
たれるか、いぶせき人の住まいは餌取(えと)りの棲家ならんかと空恐ろし」と書か
れるような土地柄だったらしい。
 今は名称が変わっているが、かつて「夜支布(やぎゅう)社」の名で祠堂があった
頃は、このあたりから大和や洛中へ入り込んでいた者達を「夜支」から転化させたの
か「夜叉(やしゃ)」とよんで、都の者達は恐れ蔑んでいたというから、筒井順昭が
軍勢を率いて押し寄せた時も、
「おのれっ、やぎう者めっ」と口汚なく罵って、
「刃向かって来る者は容赦せず、みな突き殺して谷底へ落としてしまえ」と下知し、
それに、
「かしこまって候」と薙刀や長柄をふりかぶった家来の者達が、さながらインディア
ン狩りをする青服の騎兵隊の如く、
「この庄一つ賜らんには、なんじょうもって命など惜しがることやあらん」
「いざ励み候え」と、みな必死猛死(ひっしもっし)に矢をつぎつぎと飛ばし、相手
のひるむところを見計らっては、
「それ、討ってこませ」とかかってゆく。
 しかし柳生の面々とても、なにしろ夜叉とも呼ばれ、悪鬼羅刹の如く里人に怖れら
れていて、一騎当千から当百ぐらいの連中も揃っているゆえ
「法師武者の口ほどにもなき攻めようや、来るなら来てみろ赤とんぼ」
 宝蔵院の朱槍隊が真っ先かけて押し寄せてくるのへ、てんでに悪態をつきつつ、か
ねて用意し積み上げてあった切石の尖ったのを手に手につかんで、
「これでも、くらい候え」とばかり、霰(あられ)のごとくに礫(つぶて)打ちする。
 だから寄り手は飛来する小石の激しさに、前進できかねたじろぎ、
「弓衆代わりてあれ」と、宝蔵院の衆徒は引き下がり、代わって重籘(しげとう)厚
重ねの強弓を持った面々が、
「いざ、我らが‥‥」と正面へ出て、弦(つる)音を嵐の如く鳴らしては一斉に射か
けてくると、それを望み見て、
「おう弓衆とは望むところ。我らお相手つかまつらん」と柳生の郎党も弓幹(ゆがら)
を引っ張りだすと、これにすぐさま弦を張りつけにかかる。
 なにしろ、やぎう者は「夜叉」の他に、かつては「箭弓(やぎゅう)」の別名もあ
って、後醍醐帝をお守りして戦った笠置山合戦においても、「大平記」に、
「足助の次郎と箭弓の面々、ここを先途と戦いにけり」と出てくるのが、当時の箭弓
者のありさまだが、山者ゆえ大弓ではなく半弓を使う。
 今では新蔭流の方が有名になって、柳生といえば刀法だけのようにも思われがちだ
が、「吉田流射術伝書」という弓術の本によれば、
「楊生の里よりあみ出されし半弓にて長矢をひくの術、今は楊弓(ようきゅう)とい
いて広まりたるが、至極その扱い易き利便さにより、両国広小路にて『矢場』などと
称す商い店できて、この楊弓にて市井の徒に若干の銭にて的を射させ、当たれば阿堵
仏(あとぶつ)を授け、もって射倖心(しゃこうしん)をそそるなどの語さえ出ずる
に至る。これ斯道(しどう)のためまこと嘆かわしき事にてあれという他はなし」
というように出ている。
 「矢場女」という私娼が生まれたのは文化文政の頃で、形ばかりに客に半弓を引く
真似事をさせ、表向きを取り繕っていたものと思っていたが、これによるとそうでは
ないらしく、大弓でなくても箭弓流の楊弓なら、弓幹(ゆがら)が楽にたわむため、
初めての者でも的を射るのはさほどまでに難しくないため、町人も矢場に入り浸って
互いに銭を賭けあい、当初は博打の一種として賭弓をしていたものであるらしい。
 つまり、そうした柳生独特の箭弓流ともいうべき弓術がこの里には伝わっていて、
それによると軽い楊弓で大きな太い征矢(そや)が射返せるから、筒井方の面々が一
列になって、
「いざ、いざや」と篠つく雨のように射込んできても、それをものともせず、落ちた
矢を拾い集めてきては、
「返し矢にて候ぞ」
とばかり、楊弓ゆえ手軽に扱えるから、かなたこなたに身を匿しつつ、ひょうひょう
と射って落とす。
 そこでどうしても、一列に並んで飛ばせるのに比べて、樹の上や茂みの蔭から狙っ
て射るほうが効果が上がるから、寄り手の中には己れの矢筒へ入れて背負ってきた矢
で、あべこべに自分がしとめられてしまうといった不運な者も出てきて、筒井方の弓
隊はひとまず後退のやむなきに至った。
 しかし、せっかくここまで攻めてきて、おめおめと今更引き返すわけにはゆかぬ筒
井順昭は、鐘が池に近い正木坂に本陣を据え、
「後手(応援隊)を呼び候え」と、すぐさま使いを飛ばせた。
 そこで結果的に七月二十七日の力攻めは、双方ともに一進一退で勝敗はなく、この
ために翌二十八日いっぱいかかって、筒井方は怪我人の手当をしたり、加勢のくるの
を「今か、今か」と待ちながら、そのまま動かずに夜を迎えてしまった。


夜支布(やぎう)神徒

「これ新介‥‥今や天下は麻のごとくに乱れ、西に東に戦火の止むときもない。まさ
に己れの働き次第でこの国を切り取ってもゆけるは今これからぞ。よって、かかる山
堺(やまざかい)の柳生の庄にあって、あたら国軍筒井一族の兵と相戦って潰(つい)
えてゆくは、まことに口惜しく、残念な話ではある。それに武門の意地というより、
われら柳生の神信心の者が、興福寺の仏門に下るは、こりゃどないしても出来かねる
事‥‥」
 陽焼けして色黒な顔をかっと上にむけ、父の新左は唇をかみ、前日よりの戦の疲れ
をみせつつ、
「かねてより今日あるを予期し、三好長慶様のお足許に縋ってはあったが、ただいま
三好様は近江へ軍勢を催し出向されて御不在。じゃによって、筒井めはその間隙を狙
っての俄の討ち込み‥‥昨日は郎党、部落の者、みな一丸となってよく戦ってくれた
が、手負いで動けぬようになった者や、衰え命を失った者が、数えたところ百に近い。
既に我らは蓄えの石も矢も使い果たし、人間とて昨朝の半分にも足らぬ減りようとい
う事になる。本日は朝から遠くより取り囲んだまま、向こうがちょっかい出してこぬ
は後詰(ごづめ)を待ち、そのうえで改めて攻め寄せてこよう算段とみえる。ゆえに
新介、われは何も言わんと今夜ここから落ちて行け」
 きっぱりした口調で言ってのけた。しかしそう言われても、
「はっ」と素直にも言いかねた新介は、
「相手が後詰を待って攻め寄せもせず、休んでいるはもっけの幸い‥‥生き残った者
が一団となって夜の闇に紛れ、古城山へ登ると見せかけ、柳生川より丹生(にう)川
へ出て、それより木津(きづ)川を渡って北の笠置へ逃げ込んでしまえば、九死に一
生が楽に得られるというもの。何も好んで筒井方が加勢を呼ぶのを待ってやって、決
戦することもありますまいが‥‥」と、真っ向から反対し、
「念のため最前、川中に潜り、囲みの外へ出て、それとなく当たりをつけてきました
なれど、敵の面々は昨日の戦に思わぬ痛手を受けたとみえ、みな元気をなくしてしょ
ぼくれいるありさま‥‥けっして、やってやれぬ事ではありませぬ」
 しきりに父の新左をかきくどいた。しかし、話をしている間は、うなずきつつ黙っ
て聞いていたが、新介が口をとじると、
「うん、その方の言うことは一応はもっともである。しかし闇に紛れて我らが消え去
ってみよ。大和一国だけでなく他国にまで、『やはり、やぎう者よ、夜支布のご神体
を担ぎ出し命欲しさに消えうせたか』と、もの嗤(わら)いの種になるは必定。ここ
はひとまず我らが命より、わが柳生の名こそ惜しまん心得と、わが存念を悟れぞかし」
 剽悍(ひょうかん)な顔を振って新介を見据えると、からから笑ってみせた。そし
て、
「男は死ぬるも仕事のうち。じゃによって、わしはこの紅葉館にとどまり、明日にも
奴らがかかってくれば、あくまでも討死覚悟で、最後の最後まで戦い、これまで侮ら
れてきたやぎう者のド根性をみせてやる‥‥が、それで寸法(ずんぼう‥‥恰好))
はとれるが、この柳生の庄は筒井のやつらに取られてしまおう。そこで、われ新介が、
どんな策を弄してもかまわぬゆえ、またぞろ、この柳生の地を筒井から取り戻し、わ
が後生を神に願ってくれたら、それで夜支布明神も嘉したもうであろうぞ」
と言い切った。そこで新介は仕方なく、言い争っても無駄かと、(諒承)といわんば
かりに、こっくりうなずいてみせた。が、腹の中では、
(無茶をこかっせる)と思った。だから、無意識のうち、それが顔に出たものらしい。
「‥‥不服か」
重ねて新左は聞いてきた。そこで新介も、最前の合点を取り消すように、いきなり大
声を出し、
「あ、当り前のこと」とそれに答えた。
 いつもだと、すぐ口より早く拳固がとんでくる父親なので、またぞろ殴られるかと、
少しひるんだが、それではならじとひと膝のりだし、
「伜めを落としてやって、おやじどのは居残って討死さっしゃる‥‥そりゃ人聞きは
よろしゅうござりましょう。だが、おやじ様はじめ一族郎党が揃っていてさえ、守り
切れぬ事となったこの柳生を‥‥わしは守って死んだる、うぬは若いゆえ生き延び、
なんとしてでも取り戻せ、いかなる策を弄したとてかまわんくらいで、おっぽり出さ
れ、なんでこの新介が堪りましょうや」
かみつくように言ってのけてから、
「自分だけええ恰好をせんと、逃げるならば親爺様も、わしの言うことをきいて下さ
って一緒に笠置路へ‥‥それが無理なら、この新介も外へ放り出さずここにおき、共
に討死させてつかわしませ」
と、その場に両手をつき頭を下げた。
 いくらやぎう者と蔑まされ、他から白眼視されるのに馴れているとはいえ、新介は
まだ十七歳である。これまでは、他でかまわれても逃げ込む所があったからいいよう
なものの、この本貫地の里を失ってしまっては、どうといったあても、身を寄せる先
とてなく、死なば諸共とばかり、父新左に縋りつくようせがんだのである。
「阿呆ぬかせ。生きるも死ぬも親と共にしたいなどとは女(め)の子のような‥‥そ
ないに心弱き事は申すでないぞ。男というはいかなる場合であろうと一人で、何もか
もせねばならぬものを。もっとよう落着いて勘考してから、言うことは腹からぬかす
ものじゃえ。わかるかや」
「はあ、と言わしゃっても‥‥」
「なんじゃえ、まんだ言いたい事があってか‥‥しょむない奴めが」
 いらいらするのか新左は次第に険しい顔つきになってきた。
だから新介の方も泣きそうになって、
「この柳生の里があってこそ、我らは大和路や京へゆけば、ありゃやぎう者じゃ、物
とられるな隠せと、辻の物売りからは泥棒扱いされ、そうかと思えば、やぎう者は臭
いと道ゆく者にはからかわれ、餌取りじゃ餌売りじゃと、さながら人外のように扱わ
れている我らが‥‥この里を失って、いかに生き延びよと仰せなさるのか。なあ教え
なされ。親ならば言うて下されませ」と、まとわりつくごとくにせっつけば、
「‥‥うむ」と、これには新左も眼を閉じ、しばらくは考え込んでいたものの、やお
ら優しく静かに言い聞かせるごとく、
「じゃによって、やぎう者の意地にて、われらは逃げ延びんで、ここにて討死こそす
るのだが‥‥残るその方もかんがえてみれば不憫じゃのう。なあ新介、なればいっそ
のこと、ここを発足したら、そのまま大和を出てしまって引馬(ひくま)へ行け。彼
の地には薬師寺東海総本山頭陀寺十二坊の構えがある。あちらはこなたの破石の薬師
寺の本山にもなっているゆえ、やぎう者とて人外扱いなどせず庇うてくださるじゃろ
‥‥」と教えた。
 ----今では、薬師寺派も仏教の一派のごとく見られているから、そこへ夜支生社や
丹生神宮寺社らの信徒である神信心派の柳生新介のようなものが頼っていくのはおか
しく思われよう。
 しかし、薬師寺派というのは、仏教には相違ないが、「西方極楽浄土」を説く浄土
宗や真宗とはまったく異質のものであるところの「東方瑠璃光如来」を祀って、東方
にこそ光はあると教える東光教で、西方浄土を説く他の仏教とは本質的に違っていた。
 だから聖武帝天平十三年(741)三月二十四日に、詔して国ごとに国分寺を設立
した時、原住系の民が寄り集まっている地域には「西方を拝め」というのも至難のわ
ざであろうというので、「東方を拝めばそちらにも浄土はあろう」という、この薬師
寺をその本尊とさせた。
 それから何百年と星移り年変わっても、別名を「医王仏」とよび、「医王山」とも
号する薬師寺は京にも根城を設けて各地に広まった。
 柳生谷のような神信心の者も、薬師だけは何の抵抗もなく信仰していたものらしく、
この天文十三年頃は、今は「夕日観音」のあるあたりまでの一帯に、薬師寺の信徒が
多く集まって居住していたようである。

興福寺対大乗院
 天文十三年七月二十九日朝、夜を徹して駆けつけてきた三百の新手の軍勢を、その
指揮下におさめた筒井順昭は、体勢を整えるなりいきまき、
「こしゃくなり、一気に踏みつぶしてしまえ」
とばかりふるいたって馬に跨り、
「風上より火を放って、人外者の最期を、地獄の業火にて責めさいなんでくれんず」
 集めておいた枯れ草や乾藁の束を持ち出させて、これを紅葉坂の新左の館を取り巻
くように並べさせると、折りからの西南の強風に、しめたとばかり順昭は自らの手で
火をつけた。
 勿論、館の中の者どもは流れる木津川の支流柳生川の水を汲んできては消火につと
めたが、濛々たる黄煙には誰もがむせ返ってしまい、
「しっかりせい」と励ます新左も、眼にしみる煙と、咽喉のいがらっぽさにはかてず、
昼過ぎまではなんとか持ちこたえはしたものの、とうとうしまいには、川に潜ってい
なくてはどうしようもないありさまとなった。
 そこで筒井順昭は、
「矢も石も飛んでこぬところをみると、いかに夜叉の群と呼ばれ、大和のみならず洛
中の人々をも恐れさせたやぎう者も、もはやかなわぬところと皆、煙にまかれ熱気に
吹かれ、どうやら死に絶えてしまったらしい」
 すっかり勢い込んで、左右に従えた大乗院の法師武者の面々に、
「興福寺のご威光をものともせず手向かいおった奴ばらの死にざま、いざ踏み込んで
見てくれんず」と下知した。
 ----何故そこまで、後に山崎合戦の際、洞が峠の話で有名になる筒井順慶の父の順
昭が、むきになって課役拒否から、いがみ合いとなった柳生の者達を蛇蝎視したかと
いうと、これにはわけがある。
 この時より百五年前の、「大乗院寺社雑事記」の長禄三年(1459)六月十六日
の条に、
「五ヵ所法師原(輩)の面々来たりて、筒井(この時代は順昭の五代前の筒井順永の
とき)より陣長夫(軍課役長期人夫)を差し出すよう、割りあてられてきましたが、
除地の我々に課役とは前例もない事ゆえ、いかがしましょうやと、北御門の内の大乗
院奉行へ訴え出てきた」といった箇所がある。
 この五カ所法師原というのは、大和に近い御陵五ヵ所の墓守である守徒部落、つま
り宿村(しく)とよばれて、歴代の天皇の御陵を守るために、生ける埴輪として奴隷
同様にそこへ定着させられた住民で、これは「延喜式」にも明示されているが、その
うちに髪剃り小法師といった名にされ、仏家に縁のない衆生が死んだ場合に限り、死
者の髪を剃ったり、火葬にするような業務にも携われるようになった。このため、足
利時代に正式な僧としては認められず、法師(つまり江戸時代の願人坊主や修験にあ
たる)とよばれ、彼等は寺につく百姓ではないから、年貢や人夫の割当てもなく、住
まっている所は除地といわれる特殊扱いをされていた。
 そうしたところへ筒井順昭が、もとは興福寺の衆徒とよばれる僧兵の警備隊長だっ
たのが、その頃にわかに勢力を伸ばし大和一国のほとんどを従えていたので、それに
乗じて除地として手をつけぬという約束の夜支布(やぎう)、丹生(にう)の長吏頭
である柳生の先祖へも課役を申し付けてきた。
 そこで彼らは、これは違法である、我らは古来別扱いの民であるから、そうした百
姓並みの取り扱いには応じられぬからと、沙汰してきた筒井家の春坊なるものを訴え
出たというのである。これに対し、興福寺の裁きを受け持つ大乗院側では、
「五カ所法師原の者らは、他とは通婚交際をさえ忌み嫌われて、ひっそりとその定め
限られた土地に住むものである。よって、領主といえども彼らの宿村は領内にあって
も領有に入れてはならず、まして課役するごときは違乱である。それゆえ筒井どのも
彼らに手をつけざるようにと、当院沙汰衆水坊が先方の筒井家春坊へ通達をなして解
決した」
と、その案文に経過を述べている。
 つまり、柳生一族の先祖が筒井家の命令に背き、大乗院へ訴えてまで争ったという、
これはその例証である。

 さて、すべてがもはや死に絶えたものと、
「仏果のありがたさも知らんと、やれ東光の、夜支布神社がどうのと言いおって、我
らの下知に従わんと、年貢の米の代りの竹も出さず、人夫すら断りおった横着者めが、
見るも無惨な灼熱地獄で黒焦げになったは、国人への何よりの見せしめ。いざ長吏頭
新左めがしゃっ首を土産に持ち帰らんず」
 まだ余燼くすぶる紅葉館の焼け跡へ、愛馬を乗り入れた筒井順昭は、
「蒸し焼きになっている屍体の中より年の頃なら四十ニ、三。いかつき面だましいの
者を探し出せや」
 法師武者の面々に言って聞かせつ、焼け落ちた木っ端や藁束が引っ掛かったまま浮
いている川の側まで来たところ、
「やあっ」と一声。川の中から九尺槍を支えに、水面に飛び上がりざま、むんずとば
かり鞍の上の順昭に組みついてきたものがある。
 びっしょりと重い濡れ鼠のままゆえ、馬も驚きヒヒインと嘶(いなな)きをあげた
が、背後から羽交絞めにされた順昭もは仰天し、
「えい離せ」と喚きつつ、
「‥‥誰ぞある。出あえ、出あえ」と呼ばわった。
 まさか柳生の生き残りが川の中に潜んでいて、長槍を杖に蝗のごとくとびだしてこ
ようとは、付き従っていた法師武者たちにも思いもよらず、皆びっくりして、
「やや、なんたる」と慌てふためいて駆け寄ってきたが、うっかり槍先で突いては、
順昭をも刺してしまいかねないと躊躇していたところ、かねて順昭が太刀持ちに使っ
ていた稚児小姓の菊丸が、咄嗟のことゆえ、
「おのれっ」と黄色い声を張り上げ、転がるように走り寄ると、
「降りろ」と背から跨っている曲者の足にしがみつき引っ張った。
 たかが子供の力ゆえ普段なら大した事もなかったろうが、馬が竿立ちになって平衡
を欠いているところだったから、
「うむ、無念‥‥」
と言うも口の中。濡れ鼠さながらの髭男は、まるでずり落ちるように馬の琵琶股の所
を滑りつ、あっというまもなく地面に叩きつけられた。
 そこで馬から飛び降りた法師武者の面々は、てんでに槍先を構えて、
「不届き千万なる痴れ者めが‥‥」とか、
「御主(ごしゅ)に取りつくなど、この罰当たりめが、覚悟さらせ」
 寄ってたかって突きまくり、とどめをさすなり、その髭面の首を、
「よっっしょ、わっしょ」と鋸引きにして切り離した。
 思いもよらぬ逆襲に転倒の思いで、ひとまず摩利支天の本陣へと引き上げていた筒
井順昭は、法師武者が届けにきた首へ、
「‥‥最前の乱暴者はこやつでありしか」
 初めてその面体をまじまじとみつめ、げえっと咽喉を鳴らした。そして、
「こやつこそ‥‥柳生の長吏頭新左衛門ではないか」
愕然たる驚きをみせ、
「さすが都の者に夜支布と恐ろしがられるだけの事はある。見てみい、この不敵な面
だましいを‥‥」と言いはしたが、無気味そうに眉をしかめ、
「こやつが水中に忍んで、俺を狙ったからには‥‥たしか十七、八の伜の新介も、お
そらくどこかで我が命をつけ狙っておろう。柳生川一帯はもとより、丹生川、共に合
して北の笠置へ流れこむ木津川まで、くまなく川狩りしてこませ」
と大音声で言いつけた。
「仰せの程を畏まってそうろ」
 法師武者は味方の者を手分けさせ、舟を漕ぐ者と川岸を調べる組とに、それぞれ分
担を決め、暗くなるまで川から河原の葦や水中の葦の茂みに至るまで探索した。
 が、どこにも、新介の姿は見当たらず、
(恐らく焼け死んだもの)と筒井順昭へは報告された。

丹生神社
 新介は囲みを抜けるまでは川の中にいたが、丹生川と一つになって木津川へ落ちる
北へは行かず、反対に南の丹生の里へと出ていた。
 そこには「丹生神」という祠(ほこら)があって、土地の者が「洞谷(ほらだに)」
とよんでいる、その昔、丹(水銀鉱)を採掘していた廃坑があったからである。
「ひとまず隠れ、身をひそませるには、どこよりも恰好であろう」
と洞谷へ向かって、夜のうちに山を登っていたのだが、さて空が茄子色に変わってや
がて朱く朝日が出はじめ、そのうち摩利支天に本陣をおいた筒井勢の動きだすのが手
にとるように見えだすと、
「おやじさま‥‥柳生の庄の皆の衆、思いっきり頑張ってつかわせ」
大声で叫びだしたくなった。そして筒井勢が風上に乾藁や枯木を小山のように積み上
げ、それに火がつけられるのをみると、もう新介は我慢がならなくなり、
「卑怯なやつらめ」
と、このまま山をおり、取って返して皆と命運を共にしたいという、強い衝動に突き
動かされていた。
いくら父親から、俺は死ぬ、おまえはかまわず行って身を隠せ、と言い含められてき
たにしろ、眼下の柳生谷で親や一族郎党が焼き殺されて死んでゆくのを、じっと傍観
していられるものではなかった。
「よっしゃ‥‥」と新介が、夜のうちに登ってきた丹生の谷を降りようとしたとき、
「これっ、どこへ行く」と呼び止められた。
 丹生明神七堂の修験者正覚(しょうかく)坊だった。が、顔を合わせると、改めて
驚いたように、
「柳生が跡目どのではないか‥‥」
 眼下の谷間で一昨日来の合戦がのべ広げられかけていた時だけに、怪訝な表情をし
て、
「どうしてこれに‥‥」と尋ね返してきた。
 そこで新介も、命惜しさに逃げ延びてきたようには見られたくない一心から、
「おやじ新左が言いつけて、わしは一人生き残り、何としてでもあの柳生の庄の、取
り返しを言いつかったのじゃ」
と、もはや、火の手がまわった我が家の方を眺めつつ、言葉を震わせて打ち明けたと
ころ、
「はて、柳生の長吏どのには、おてまえ一人だけでと言わっせたのか‥‥」
胡麻塩の顎髭を撫でつつ、奇妙な顔をした。
 そこで新介が、
「そうなんじゃ、昔から親というは、無理扁に拳固と書くともいうが、徒手空拳でそ
れをやれとな」
 恨めしそうに訴えたところ、
「そう親爺様は言わっしゃっても、まんだ年弱なお前様一人でというわけではあるま
い‥‥これから参篭するところゆえ、わしと一緒に、さあ、ついてござれ」
と正覚坊は、新介の肩をひかんばかりに誘った。
「と言わしゃっても、我ら柳生者は大和の国軍筒井様に攻めたてをくっている身。そ
れゆえ、もし丹生の衆に迷惑がかかっては相すまんで‥‥」
 新介は尻ごみして断った。しかし正覚坊はにこにことした温顔を見せて、
「丹生の神宮寺には、すぐ近くの牛ガ峰にも高野山にも、同宗門の修験道の者が群が
りおるし、吉野山の葛城からも何かあれば山越え野越えして、衆徒は味方に馳せ集ま
ってくる‥‥いくら筒井とて、興福寺の僧兵をもって我らが修験道へ敵対してくるわ
けはなかろう‥‥まあ心配せんでもよかろうというもの」
 かつては七堂の建物が軒を並べていた丹生神宮寺の鳥居をさっさと先にくぐり、
「朝粥ができておる。栃の実入りゆえ、少しえごいが温かいものを腹中へ入れれば活
力も出ようというもの」
と、本堂わきの藁葺きの社務所の方へと案内した。
 言われるままに仕方なく、後へついてはいった新介は、
「若っ、若」とにわかに声をかけられ、思わず、はっとあたりをみまわすと、
「ご無事にござりましてか」
雑炊なみの栃粥の椀を手にした者達が、木の枝を手折った箸を持ったまま、ぞろぞろ
周りを取巻いてきた。
「なんじゃえ、皆もここへ来ていたのか‥‥」
 館の中へ閉じこめられ、風上から火をかけられ、蒸し焼きにされているとばかり思
っていた柳生の者達が、みな揃って粥を振舞われているのには、驚くやらほっとする
やらで、新介は涙を浮かべてしまい、
「よかったのう‥‥」
と口にしたが、父新左の姿が見当たらぬのに、どきりとして、
「親爺様は、お前らを落として残っておられるのか」
早口でたたみかけるように尋ねた。すると郎党の左平が
「なんの、なんの‥‥」と首をふり、
「恐らく今日は火攻めしてくるじゃろと言われ、館には一昨日の合戦で討死した者を、
敵味方の別なく藁人形のようにして、所々に敵から頭がみえるようもたせかけ、わし
らは長吏頭様と御一緒に夜明け前に逃げてきましたのじゃ」
と手短に脱走してきた模様を話した。
 しかし、いくら見廻しても父新左の姿は見当たらぬから、
「おやじ様は、怪我人や生きとるお前らを、この丹生の庄へ組み込んで隠しにこられ、
ご自分だけは柳生者の意地をみせ、敵将筒井順昭めを討たんと一人とってかえし、燃
える館の中へ入っておられるのではないか」
と集まっている柳生者達へ声をかけてみた。
 すると郎党の中から、
「そういえば、たった一人‥‥急いで戻っていかれたお人がいたぞ」
「まだ暗うて誰だかわからんじゃったが‥‥そういやあ、いやに急ぎ足で引き返して
行った方がいる‥‥では、あれがお頭様であったのか」
と湿っぽい声をあげる者達もいた。
 だから新介は憮然として、柳生谷の見下ろせる崖端に向い、
「あの燃ゆる紅葉館の中に、おやじさまは一人でとってかえし、男の正念場を敵に見
せておじゃりまするのか」
両手を合わせて黙祷した。そして、
「柳生の庄の生き残りの者達は、ひとまずこの丹生の神宮寺に助けられた。こうなっ
たらからには、また谷へ戻って樵(きこり)や柴木売りなどにても、なんとか露命は
しのいでいけよう。さすれば、これからの我が仕事は、おやじ様に言いつかったよう
筒井を倒して、あの柳生の庄をこの手に奪還することだ」
と覚悟を新たにして、
「よし、それではおやじさまの言わっせたとおり、遠州引馬の庄にある頭陀寺とやら
へ、今からでも行こう」
と思い立ったが、長吏頭新左の伜の身としては、そのまま思い立ったからといって、
さっさと行ってしまうわけにもゆかず、また鳥居をくぐって社務所の裏庭へおもむき、
「伯父どのの権平様はおわさぬか‥‥」
後事を頼んでゆこうと声をはりあげた。
が返事はなく、郎党頭の佐平が、
「権平さまはお頭さまの血肉をわけた弟御‥‥事によったら、お頭さまのお後を慕う
て、やはり同じくとって返されたのでは‥‥」
言いにくそうに側へ寄ってきて耳打ちし、
「なんなら手前が、様子を見て参りましょうか」
とも言った。
 しかし黒々とした煙に包みこまれてしまっている館へ、今から見に行ったとて始ま
る事ではない。そこで新介は、
「わしはこれから、おやじ様の言いつけで、遠国(おんごく)へ行く‥‥権平伯父が
戻って来ずば、郎党頭のその方が、神宮寺さまのお指図通りに柳生の者の面倒をみ、
わしが戻ってくるまで、苦しい事も多かろうが、そこは堪え忍び、山の木の根にしが
みついてでも、なんとか生き延びてこませ」と言いつけた。