1137 徳川家康 17(最終)

[続いて写真数葉と説明文が載せてあります]

「河原の写真」
 世良田二郎三郎(徳川家康)が寄せ集めの三百にて松平元康のプロの三河勢四百に
 初めて挑戦し、相手はプロゆえ一敗地にまみれた古戦場跡

「山の写真」
 二度目は渥美半島や駿河者も集め四百で戦ったが、寄せ集めゆえ又もや敗け、今で
 も権現山とよぶ対岸の山に匿れた[ことは]宗春の『章善院目録」に明記

「守山らしき写真」
 P273の愛知県守山市小幡ヶ原で、今も江戸時代そのまま柵をたてて、立入禁止
 の縄も張られ松平清康[元康なのでは?]が殺された結果、家康になれた記念の地
「鳥居の残骸を擁する、寺か神社のような写真」
 アメリカ爆撃前の浜松八幡小路に現存していた東照院で、家康のいた堂。五代綱吉
 の神仏混合令で栄光山と寺になり、鳥居は拝み堂当時の名残り

[古文書の引用文がありまして‥‥]
五輪石の内三つ掘出し候処、何歟文字も相見へ候に付洗ひ候へども、はきと読兼色々
といたし見候処、清之字に相見へ、其下の字原の字の形にも相見へ、宗旨御役人中被
相越見分有之、色々被相考、当院へは清康様尊碑も有之、御朱印も有之事故、猶又土
等も洗落し見候処、康の字に読取れ候間、一同恐入、(中略)其後御領主より、色々
と御尋ねも有之候得共、御朱印の儀は何故被下候儀と申訳、本寺にても一向存知不申
云々。

寛政七年乙卯、四月                      本寺 養樹寺
寺社奉行、青山下総守 御中                  本寺 観音院


「ぼろぼろの墓三基の写真」
「うっそうとした木々の中の鳥居の写真」
 今はトヨタ自動車だが昔は西尾城主松平和泉除地。三墓の一つが築山御前の夫で岡
 崎三郎[の]実父清康の墓。
 神仏混合令で近くの堂や社を押さえた鳥居の寺の戦前写真。五五の桐紋があるから
 松平家に相違ない長縄院観音院

[また引用文があります]
大日本国駿州城府文時鐘銘并序
欽惟
今也天下文明、家国興盛、復ニ礼楽於三代_、施ニ仁政於一時_、
万邦仰ニ其徳_如ニ斗山_、四海沽ニ其恩_如ニ旱雨_、
仰亦駿陽州者就中東照大権現垂迹地也、具以膺ニ千寛永倉竜甲戌夏_第三代征夷大将軍
源氏長者、左大臣家光尊君、命ニ土井大炊頭利勝朝臣_、以ニ倉陣一万五千石_、
賜ニ当国総府之民衆_可レ謂ニ盛事_也

「寺院らしき写真ニ葉」
 春日局こと斎藤内蔵介の末女於福が吾が子が生んだ竹千代を約束通りに三代将軍家
 光に生前から決めてくれたのを感謝し、土井甚三郎に命じ鋳造させた有名な駿府城
 の鐘銘の始まりだが家康が生まれ育った地と明記。左[写真の事]は明治期に移さ
 れた東照山円光院[第二次大戦での]爆撃前[の写真]で、私[八切]の撮影。

「墓ニ基の写真」
「墓数十の写真」
今は町名改正で浜松市日吉町だが江戸期は伝馬町で牢獄のあった人外地。守山崩れで
三河の松平清康[元康?]が殺され今川の人質の三郎信康がここに住まわされていた
のを当時19才の世良田二郎三郎は同じ部落内ゆえ救出というか、拐して逃げたが今
川の追手におわれ海路伊良湖岬のある渥美半島へ脱出。
田原城主戸田康光と左[上]の墓碑の戸田五郎の軍勢に辛うじて助けられた。その時
に討死した百余名の墓が徳川開運の基礎よと埋められ戸田墓として今も現存。大久保
彦左も此処の兵助畑の出身。

[古文書の引用]
「一 雛人形二対
 右者東照宮様御幼年之時、今川駿河守義元為人質奉迎之時、三州田原城主戸田弾正
 正忠憲光子息五郎、於三州塩見阪奉奪之、織田信長公へ奉送之、依而加藤図書之助
 加藤隼人佐両人へ、宜敷可奉養育」
五々の桐紋つき箱に入った紙びなの箱書だが永禄三年のこの時は東照宮は19才でヒ
ナで遊ばされた後の岡崎三郎信康は2才。信長は27才で若かったゆえ世良田二郎三
郎が松平元康と名のって清洲城へ来た時にも気づかず信康を返し和平同盟。

「ポツンと建つ墓一基の写真」
「山林の写真」
天正七年九月十五日に天竜川に面し今も石垣は残っている二股城で、家康がよこした
服部半蔵と天方山城の両名に岡崎三郎信康は殺された。三葉アオイではなく松平家の
五五の桐紋だけの信康の墓。

「武家屋敷らしき建物の門の写真」
征夷の勅命さえ正式に貰えば征夷大将軍になれると京水戸屋敷の鵜飼幸吉父子に、伝
奏姉小路卿に銀をばら[ま]かせ秘かに賜ったのが水戸の密勅事件で安政の大獄の発
端。水戸光圀は済州島出身於玉の子で上州館林10万石の綱吉より、京の有栖川幸仁
親王を五代将軍に迎えようとして大老酒井忠清と共に失脚し、西山の人外地に竹矢来
をはられて隠居処分。その血脈は根絶やしなのに水戸斉昭が昔の光圀の名で大日本史
を作らせた水戸三の丸弘道館の入口の写真。松平元康が家康の前名と初めて書き「松
平記」の原本は幕末に斉昭が将軍家たらんとした野心からの所産。

[古文書からの引用]
「永禄四年十一月一日に、元康の名をしるされ、五年八月二十一日の御書には、家康
 と書せ給ふ(寛永系図、本多広孝家譜)

「岡崎城内の松平氏系図の写真」
「岡崎城内の内部の写真」
松平記をそっくりその侭ひきのばした山岡荘八の家康ものが再三テレビ化され市観光
課で、鉄筋コンクリートの岡崎城ができ外観は良いが内部は鉄パイプと生コンで固め、
裏には家康の産湯の井戸さえ作られている。が[家康が初めて[岡崎に]入った時に
一向一揆と[して]叛乱され、浜松城で過し生涯38日だけ岡崎には在城。だから明
治まで僅か五万石で家臣水野の城。三河譜代というのも本当は荒川の三河島出でのこ
と。

「家康神将七名の絵図の写真」
家康神将七名の図だが、彼の側近に三河人はいない。酒井忠次は浜松。本多忠勝は遠
州掛川。井伊直正や安倍大蔵も駿府人。榊原康政や服部半蔵は伊勢人。大久保忠員は
渥美半島人。


後記‥‥八切止夫
 政権が変ると前体制悪政を誇大に暴露。家康でさえ豊臣の生き残りは九州へ送り
「豊臣松園」といった特別部落名さえ今も残る。さて明治になって新政府は徳川慶喜
に対し「汝その祖宗の地へ戻るべし」と駿府70万石に戻され、やがて公爵に徳川家
達はなり華族会の会長として、
「華族は皇室の藩屏となす」との明治大帝の勅によって明治16年7月7日より権勢
を回復した。
 それまでに徳川時代の真相を暴露しておけば好かったが、なにしろ新政府は学のな
い軽輩ばかりで天下をとった歓びに酒色に溺れ、明治7年の佐賀の乱からは治安維持
に追われていた。
 だから徳川時代の事を調べ直す暇もなく、神祇省廃止で当時の歴史家にあたる国学
者も追放され関知できずだった。長州御傭い教師リースの博士号設定の際に学士会が
設立され権威をもたせるため、華族会の下に入り指示をうけるようになった。だから
築摩書房の「明治史論書」にも入っている村岡素一郎の「史疑・徳川家康事蹟」が明
治35年に徳富蘇峰の民友社より刊行されるや狼狽し宮内省華族会によって買占めて
絶版。よって急ぎ東大蔵書として「松平記」を5年前の刊として青山堂よりだし桐箱
にいれて配布。確定史料とされた為に「天の古代史研究[八切氏の著書]にもある世
良田事件が起き、水平社運動の発端ともなった。村岡の娘の子榛葉英治の現代語訳も
絶版にされた。
 徳川時代の事は何も明白にされず柳沢吉保の胴を混入の元禄小判を京で吉良上野介
に宰配させ堺の中村内蔵介に鋳造させたのが、吉良に口外されてはと挑発させ失敗す
ると、やらせで浪士たちを討ち入りさせ使い棄て。後西帝を今の京都御苑の北隅の竹
矢来の小屋へ生涯幽屏も、京所司代検閲の御所記録では匿されているのは「謎だらけ
の日本史」[日本シェル出版刊]に詳しいが総て浪曲講談が日本史。

[了]