1136 徳川家康 16

「かくなる上は一日も早く、不愍なわしの子を取り戻さねばならぬ」と松平蔵人元康
は、
(まさか吾が子が、信長の許で実子と同じように可愛がられ、二歳になるその子も、
子供の遊び友達ができ、喜んで一緒になり、キャッキャッと愉しげに遊んでいる)
とは知る由もないから、さぞかし人質にとられ虐待されているものと思いこみ、
「いで尾張へと打ちこまん」と兵を率いて国境を越して守山へ向かった。
 その五年前に、信長の伯父である守山城主の織田信光が、不可解な急死をとげたあ
と、今では信長が己れの家来を城代におき、それと信光の遺臣の間が巧くいっていな
いから、元康はそれを狙って一挙に屠り、足場にしようと押しかけてきたのである。
「ことは、てまえより起きたこと‥‥われらに先手を仰せつけなされませ」
 二郎三郎は勿論このとき申し出た。しかし、
「わしの子を助けだすのに人手は借りぬ」元康はにべもなく断わった。しかし側近の
重臣は、
(第一線に自分らがかり出されるよりは、山中城の二郎三郎の寄せ集めの連中を向け
る方が助かる)
と、
「そういわれんと、せっかくの申し出ゆえ、お供をお許しなされませ」と元康に意見
をした。
 そして二郎三郎の手勢の人質として、今ではそちら方へ入っている安倍大蔵の伜の
弥七郎を、元康の本陣へ加えて伴っていった。
 さて、伊吹おろしの寒風をついて守山城へ近づいたが、岡崎を夜明けに出陣してき
たから、小旗ヵ原で暗くなった。とても、これでは城攻めなどできるものではない。
「今宵はここで野営じゃ」と元康は命令した。
 さて、行軍してきた時は、二郎三郎の軍勢は最後尾だったが、野っ原で野営すると
なると、なるべく一つ所にかたまって寝る方が温かいので、元康の本陣の近くに二郎
三郎達も槍を柱代りに地面にたて、それに幔幕をくくりつけて屋根を作り、夜露と寒
風を避けて眠ることになった。
 しかしである。そうたやすく寝つけるものではない。
「元康公のおん手で守山城を落し、それと引換えに和子をといえば、信長も否応なく
返すであろう。そうなると吾らは夢も希望もなくなる」と、寝つかれぬ榊原小平太が
低い声だがいまいましがった。
「如何にもそうじゃ。われらに先手をいいつけられるなら、他より何によらず真っ先
にやれるゆえ、信長より和子を届けてきたら、それをさあっと掻っ払って逃げてしま
う手もあるが‥‥」
 しゃがれた声で安倍大蔵も力を落したように呟いた。
「あの和子を吾らの掌中の玉となし、三河一国を握らんとせし、せっかくの計画がこ
れでみな御破算になったのか‥‥」うたた感慨無量な呻きを二郎三郎も洩らした。
「それでは‥‥これまでの皆様の努力も水泡に帰しまするのか」
 鳥居忠吉も、手持ちの米殻をすっかり投げ出し一味に加わってきただけに無念そう
だった。
 すると酒井浄賢が暗がりの中で、むっくり起き上がり居住まいを正し、
「ことここに到っては、このままでは‥‥われらは松平元康どの寄騎より上へは這い
上がれぬこととなり、行末は危ない所へ矢玉よけの楯代りに出されて、いずれは棄て
殺しにされるが運命(さだめ)」
 しおからい声をだして、とつとつと言ってのけ、
「かくなる上は、一か八か、賭けるしかありますまい」といいだした。
「賭けるとは‥‥」二郎三郎が聞き返すと、
「思いの外に此処まで手間どり、ここで野営となったが、これぞ天の与え給いし好機」
 浄賢は低い声だが、きっとして答えた。
「やるのか‥‥元康を」
「いかにも。今夜から明朝にかけては、すぐ近くの幕の内ゆえ、その機会もありまし
ょうが、明日以降は守山の城をすぐ落すにしろ、あるいは一両日かかるにしろ、もそ
っと用心され吾らは近づけなどできますまい」
「うん‥‥」二郎三郎は唸った。しかし榊原小平太は勢いこんで、
「われらにお委せなされませ‥‥突きこみ隊を選りすぐって夜討ちをかければ、元康
めを殺すは訳のないこと」とりきんでみせた。が、鳥居忠吉はそれに向かい、
「まあお待ちなされませ、首尾よう討っても、その後が大変じゃ。われらは四百人余
りなのに、岡崎からの衆は二千人もある。囲まれて『御主の仇じゃ』と矢を射かけら
れたら、わしらは皆殺しにされてしまう。それでは、なんで首取りしたか意味もない
ことになるではないか。くわばら、くわばら」
 おじけをふるって反対した。二郎三郎も、
「うん、それもそうじゃ‥‥討ちこんでゆけまい。まずいな」たしなめるように浄賢
はいった。
 すると、そのとき、
「窮余の一策‥‥てまえ伜の弥七郎が、元康さま本陣へ連れてゆかれておりまするゆ
え、あれに乱心を装わせて斬らせましょう。なれば吾らに追手を向けてくることとて
も有りますまい」
 顔を伏せたままだが、安倍大蔵がきっぱりいいきった。
「そりゃ乱心のていたらくとすれば、弥七郎の一存ということになって‥‥われらは
怪しまれずに済もう。が、その代り弥七郎を見殺しにせねばならん。助けにゆけば、
元も子もなくなるというもの」
 唾をのみこみ、浄賢がいってのけた。
「覚悟でござる。わが伜なれど弥七郎が人柱になるは、親として承知の上のこと。お
許しなされましょう‥‥」さすが震えた声で低くはあったが烈しい語調だった。
「そうか‥‥」二郎三郎は闇の中で、仕方なくうなずき、
「今からでは怪しまれるゆえ、夜明けを待って弥七郎に連絡せい。そして他の者は、
弥七郎が巧く仕止められるよう、本陣脇につないである馬の綱をみな切り放ち、騒ぎ
を起こしてこれを手助けするがよい‥‥」やはりしめりがちに指図をした。
「しくじりました節は‥‥」
「俺がまっ先に斬りこんで、本陣にある鉄砲を奪う。そしてその時の元康は殺さんと
生かして人質に山中城へ連れ戻り、そこで改めてその後の事は勘案するか?追われた
ら構ったことはない。織田方へ逃げ込んでしまって、それから善後策を講じようぞ」
きっぱり二郎三郎は話の決断をつけると、
「もう皆の者の寝よ‥‥そうせぬと明日の正念場に遅れをとるぞ」まっ先に手足をの
ばし、ころりと横になると、狸寝入りかも知れないが、すぐ鼾をぐうぐうかきだした。

 だから、その次の朝。
「ヒヒイン」「ヒヒイン」けたたましい軍馬の嘶きに、びっくりして跳ね起きた元康
は、
「奔馬じゃ‥‥誰ぞ起きておらぬか。鎮めえ」
 なにしろ戦さをするのに馬はなくてはならぬものゆえ、びっくり仰天して小袖のま
まで寝所の外へ走りでた。近習の者は一斉に、寝ぼけ眼で取るものもとりあえず、裸
足のまま駆け出していった。
 あたりに人影のなくなるのを待っていた安倍弥七郎は、この時とばかり、
「お覚悟ッ」背後から躍りかかって打ち刀を引き抜きざま、肩から斜めに浴びせかけ、
父大蔵にいわれたように、返す刀で、
「ご免候え」うつ伏せに倒れた耳の下から、切先を突きこみぐるりと回しえぐって止
めをさした。
 が、このとき元康の使番上村新六郎が駆けつけ、屈みこんでいる弥七郎に対し、
「おのれッ」と、そばに立てかけてあったうるし塗りの長槍で、腰を思い切り突きた
て、かけつけてきた者共と寄ってたかって、弥七郎を滅多斬りにした。

「初めて御意を得まする」と、知らばっくれて挨拶する二郎三郎に、
「元康殿の死を隠し、その夜明けに陣払いなして、つつがなく全軍を引き上げさせて
きたは、重臣(おとな)の者より聞きました。ご苦労でした」築山御前は涙ではれぼ
ったくさせた瞼を指先で押さえていたが、声音だけは落ち着かせねぎらいの言葉をか
けた。
「恐れ入りまする」二郎三郎は頭を下げ、
「亡き殿元康さま御遺骸は、菅生山にて茶毘にふしてござれば、間もなく御遺骨も此
方へ戻ってこられまするが‥‥」といいさし、築山御前の顔を仰ぎみた。
「世が世であれば松平家七代目の御当主、いかに不慮の難にあわれ非業の死をとげら
れたにせよ‥‥盛大に葬儀など営まねばなりませぬが、なんせ世継ぎの若が今は捕わ
れて尾張にあり、ここで元康どのの死を表向きにするは、とてもかなわぬ仕儀」
「はい、それゆえ御遺骸をここまで運び奉らず、秘かに人目につかぬ菅生山の奥へと
お匿し申しあげたのではござるが‥‥御方さま、これから何となされまするや」
「さあ、どうして良いか‥‥恥ずかしながら余りにも意外な椿事で、すっかり取り乱
して、良き知恵も浮かばぬ。重臣(おとな)共もみな此処へよんでくりゃ」
 無情にも雨にうたれた海棠の花のような白い顔(かんばせ)を伏せ、青く静脈の浮
く首すじを震わせながら、さすがに耐えきれなくなったのか、鳴咽をあげるような響
きをきかせた。
「われらは此処に、かしこまって揃いおりまする‥‥」
 が、板戸を左右にそっと引きあけ、沈痛な声で重臣共がよびかけてきた。
 だから瀬名姫の築山御前も、はっとしたように袂で顔を拭いあげ、これではならじ
とわれが我が身を鞭うつように引き吊ったかすれ声で、
「皆の者、大儀じゃった‥‥中へ入りゃ」と、きっとして命じた。
「はあッ‥‥」一同が膝でにじり寄るように入ってきて、かしこまると、築山御前は、
「如何しようぞ‥‥」口にした。しかし重臣たちも動転しきって、みな押し黙ったま
まだった。
 すると、
「元康の殿が亡くなられたのを隠し通すためにはこの際、誰ぞ身代わりが必要じゃろ
‥‥和子が事の起りは自分ゆえ、わしでよくば責任をとって‥‥」まだ十九歳だが、
じじむさい声をだした。
 いわれて二郎三郎を、まじまじ見直すと、頭でっかちで眼光が鋭く、端正な顔だち
だった元康とはまるっきり違うが、ふけてみえるからして、
「お年恰好もほぼ同じでござる‥‥」と重臣はうめきをあげた。すると二郎三郎はう
なずき、
「もし御前さまさえ御承引下さるなら、今度は兵は出さず、てまえが単身で清洲城へ
のりこみ、和子を取り戻して参るとしましょう」はっきりいってのけた。
「えッ、そりゃ、まこと‥‥」
 その言葉に築山御前は思わず顔をあげて、ひと膝前へとにじりよった。重臣たちも
こうなると、
「では、おてまえさまが、われらを伴わず見事に和子を奪い返して下さるのか」
と互いに顔を見合わせてから、ほっとしたごとく、
「われら一同、異存はござりません‥‥御前さまも、お跡継ぎの和子さまが戻ってく
るとあれば、ここは御諒承下さいますよう」と頭を下げた。吾が子を取り戻したい母
親の愛情で、
「その方らが、そない申すのであるなら‥‥」築山御前もすぐさまそれに応じた。


清洲城盟約

「ほう、おてまえが松平元康どのなるか‥‥」
 信長はいった。きんきんした甲高い声である。二郎三郎は悪びれぬふうを装って、
「いかにも、初めて御意をえまするな」わざとそんな口調で平静をみせた。
「そのうちに、吾が子を取り返しに弓矢をもって掛け合いにこられるものと思うたら、
平服のままで堂々と乗り込んでござったは恐れ入ったな‥‥」信長は自分は下戸で、
己れの大盃は縁(へり)を舐めたきりなのに、元康と名乗る二郎三郎にはしきりに酌
させ、重ねるようすすめさせた。そして、
「酔うと本性を現すとか申すで、ひとつそこをば見せて貰いたい‥‥」あけすけに露
骨にいった。
 だから二郎三郎は背筋にぞっとするおくびを感じ、こりゃ危ないといやな予感がし
た。
 しかし、それを顔に出してしまっては、何とも引っ込みがつかぬので、
「お戯れを‥‥それでは、まるで狸のいぶり出しのようではござらぬか」
 あっけらかんと笑ってみせた。すると、
「狸か‥‥そういやあ頭でっかちで色が黒うて、眼がちょこまかし‥‥そっくりじゃ。
うん三河の殿は、狸若衆じゃな」ひとに渾名をつけて、さも面白そうに、自分でにこ
にこしだした。
(そういう自分はなんだ。のっぺり色が白くて大きな鼻をしおって‥‥)
 顔の造作の棚おろしを面と向かってされたのには、若いだけに二郎三郎もむかむか
してきた。
 しかしである。桶狭間で酒井浄賢に手引の案内をさせた時、もしかしたら自分は信
長から見られているやも知れぬといった心配がこみ上げてきた。そこで、
(おどま勧進、勧進だが、この信長めは尾張では名門の織田一族‥‥ええ衆なんじゃ)
と思う心の劣等感から、さりげなく装ってみせ、
「これはこれは、心憎いことを仰せられる」
 つるりと己れの顔を逆撫でしてから、他意ないように歯をみせ、
「それでは御所望により、狸が化けの皮を現しますかどうか、なにとぞお試しなされ
ましょう」
 改めて注がれた0.9リットル入りの五合の大盃を両手でもちあげ、これをごくご
く咽喉ふるわせ、何度も一息ずつ入れ、辛うじて呑みほした。しかし二郎三郎はまだ
若い。無理して重ねて呑んだから、
「ご無礼ッ‥‥」口許を押さえて濡れ縁までとび出すと、敷石めがけて今ようやく咽
喉から送りこんだものを、すっかり吐きだしてしまい、もう出る物がなくなっても、
犬みたいに腹ばったまま、肩をぜいぜいさせ、口を開けっ放しにして苦しがっていた。
 そして睡液をくもの糸のように垂らしたまま喘いで、そのうちに気持ちが悪くなっ
てきて、
「ご、よ、容赦‥‥」となんともならず横になってしまった。
「‥‥なんじゃ。狸の正体がこれか」口では蔑むようにいったが、信長の内心はそう
でもなかった。
 自分が酒好きでなく、体質的に受つけぬからしてほとんど呑まないの信長は、この
酒に弱い男に安心するような気にこの時、初めてなれたのである。
「この前は守山近くの小幡ヵ原まで兵を率いて乗りこんできて、さあっと訳も判らず
陣払い‥‥まこと面妖な振舞いよと呆れておれば、今回は単身で子供を返せと乗りこ
んでくる‥‥まこと底意の知れぬ奴と構えて用心していたが‥‥」と濡れ縁まで立っ
てゆき、
(かかる醜態を他所へきてさらすようでは、そう評判程に警戒することはない。案外、
気のよい男かも知れぬな)と、信長はそう思いながら、もう慾も得もないといったよ
うに、丸まって伸びてしまっている二郎三郎に好意を感じ、
「誰ぞある。背を撫ぜて進ぜよ。酔いざましに梅湯など作って、呑ませて差し上げる
がよい」
 まわりの近習共に気ぜわしくいった。そして、やっと生気を取り戻した二郎三郎が
小さくなって、
「とんだ尾篭な粗相を仕って‥‥」と縮こまるのに対し、
「いやいや、あれ以上呑めば、そうなると知っていて、そこまで義理を立てられた真
面目さには、此方こそいたみ入る次第」と信長は満足そうにうなずいてみせ、
「おぬしは子を返せ、その代り、三河と尾張は手を結ぶと申込みにおじゃったが‥‥
あの和子は当方にとっては人質も同然な大切な切札‥‥だから預ったままなら平和話
を受けてもよいが‥‥もはや、その懸念も無用となった。さあ、こう来ませえ」
 まだ足許のふらつく二郎三郎を奥の間まで案内し、
「あれを見さっせ‥‥大きい三人がわしの子。次の坊が、そなたの和子。仲ように遊
んでおるじゃろが」と指さしてみせた。
 二郎三郎は、ここだと思うから、吐くだけ吐いても、頭がまだ割れるように痛いの
をこらえ、思い切り両手を大きく拡げ、
「これさ和子‥‥父(てて)じゃぞ」とよびかけた。
 もちろんその瞬間。
(もしも昔を覚えていて‥‥その方はなんじゃ、父親の元康ではない。汝は以前に子
守りにきていて、隙をみてわしを掠めさらっていった奴ではないか‥‥)などといわ
れでもしたら、そのときは如何しようかとびくつくものはあった。
 しかし、三つや四つの子に、そんなことはいえもしないし、碌に覚えも残っていな
かったらしく、唯、どうも自分をよんでいるらしいなと、怪訝な顔をして振り向いて
いたが、
「此方やこう、この城の信長どののお許しが出たぞ」
と、二郎三郎に手招きされると、(そうか)といわんばかりに駆け出してきて、
「わあッ」紅葉の葉のような小さな掌で掛塚にいたときのように抱きついてきた。
「あ、逢いたかったぞ‥‥」二郎三郎は固く抱きしめ、ぽろぽろ涙をこぼした。
 別に芝居をしている訳でもなかった。かつて掌中の珠として、自分ら一党の興廃を
賭けていた幼児に再会でき、ひしと己れの双腕の中に抱きしめている感激であった。
「この信長の幼名を与え、三郎とよんでいる。この後もそないに呼んでほしや」
 脇から声がかかってきた。そして、
「今ここにはおらぬが、女の子がおる。それを加えて火鉢の五徳のように仲良うと考
えておる。先の話じゃが、それを三郎の嫁に貰ってくれぬかや」
 可愛くて堪らぬといったように手を伸ばし、三郎の芥子(けし)頭を撫ぜながら信
長はいった。
 だからして二郎三郎も、ついそれに釣られてしまい、
「三州岡崎の城は、これなる三郎とその姫さまの物にしまする」
 立ったままの口約束だが、はっきりいってしまった。
 この時の一言のため、やがて成人した三郎信康は、岡崎を自分の物にせんとする二
郎三郎改め徳川家康の手によって、その母の築山御前と共に、信長の命といつわって
殺され、「五徳姫」の名で嫁入りした娘も、やきもちやきの姫と烙印を勝手につけら
れ、やがて尾張に戻されてしまうようになるのだが、それは後日の話。

「そうか、わしの無理をみな聞いてくれるとあっては、元康殿の申し出も、こちらも
悉皆(しつかい)呑まずばなるまいのう」とは口にしたものの、すっかり懐いてしま
っているだけに、まだ手放したくなさそうに頭を撫でまわし、三郎に眼を落しつつ信
長は口にした。
「俗に生みの親より育ての親と申しまするが、この子も信長の殿によお馴れてござる」
 二郎三郎も調子を合せ神妙にうなずいてみせ、
「なにも此方の姫さまを成人してお迎えするまで待たんとも、かくなる上は三河と尾
張は一つの国も同じことゆえ、いつでもお呼び下され、三郎を遊びによこしまするで
‥‥」とも口にした。
「そうか、そうだのう‥‥今日はこのままで戻してやっても、またいつでも迎えにや
れるでのう」
「御意のままに仕りまするで‥‥」二郎三郎はばつを合せたが、内心では、
(聞くと見るとは大違い‥‥この信長というは手のつけられぬ悪たれで、大きゅうな
っても腕白坊主そのままとはきいていたが‥‥思いの外の子煩悩。こりゃ事によった
ら案外俺のように、肉親の縁が薄かったのではあるまいか?)などと思った。
 しかし表書院で向き合って座り直すと、信長はこれまでの態度とはがらりと一変し
てしまい、一宮国府神社や津島明神の護符を三方に並べて、二郎三郎の方へ押しすす
め、
「この和平の談合は信長の方よりいい出したり、これを求めたものではなく‥‥御貴
殿よりの申し出によって此方は受諾するもの。よって双方取り換し合うこれなる誓紙
に、もし一個所の相違や違約があった場合は‥‥それは問い糾したり釈明を求めるこ
となく、信長は御貴殿をば直ちに神かけて殺掠する。それで良ろしきや‥‥」ぐっと
語気鋭く詰めよってきた。
「天地神明に誓って違背などこれあるまじく‥‥」押され気味に二郎三郎は答え、
(こりゃ、うつけとか大たわけと陰口をきく者もおるが、恐ろしい相手じゃわい)と
舌をまいた。
 しかし取決めの同文二通に、それぞれ自署捺印の段になって、
(今はこの世の者でない松平元康の名を、この二郎三郎が書いて捺印する‥‥こりゃ
瞞くらかしゆえ詐欺になる。もし露見したらどういうことになろう)
 さすがに手先が震えた。今でいえば私文書偽造だし、他人の名義を詐称しての取決
めなど、なんの効力も発生しないのは、その当時であれ決りきっていたからである。
「如何なされた元康殿‥‥」この期に及んで躊躇の色がみえるとは、やはり初手から
睨んだように怪しい‥‥そんな語気をおびた信長のキンキン声に、
「てまえ悪筆ゆえ、それが恥ずかしゅうて‥‥」わざと照れくさそうにとぼけ、
(えい見つかって‥‥この俺が松平元康でない事が発覚したら、そりゃその時のこと、
あべこべに此方のほうから殺される前に、この信長めを殺してしまえばそれで済むこ
っちゃ)
 性根をつけるなり、筆をつかんで、神妙そうに、
「松平蔵人元康」と、先に信長が自署した後へ、二郎三郎も署名した。
 そしていわれるままに、護符を焼いた灰も誓いの証にぐっと呑みほした。しかし、
(この名前‥‥松平元康の名のりは一刻も早くなくしてしまいたい。また、そうしな
くては千里の堤も蟻の一穴から崩れるというが、なんとも不気味すぎてならぬわい)
とも、おくびを背筋にひやりと感じつつ、二郎三郎はしみじみ自分で感じた。


贋もの本もの

「まあ‥‥和子を本当に無事につれ戻して‥‥来て下されたのかや」
 築山御前は眼から迸り出る涙を拭きもせず、駆けよるなりひしと抱きしめ、嗚咽し
た。
 岡崎衆の家来共も、亡き元康の遺児を迎えて、みな暗夜に一条の曙光を認めたよう
に、
「よろしゅうござりましたな‥‥」
「これで御家は万々歳」などと口々に祝った。
 しかし酒井浄賢坊や榊原小平太らは、山中城から駆けつけてきていたが、
「‥‥なんで岡崎へ、和子をお連れなされました。ひとまずは山中城の方へというの
が、最初の案ではござりませなんだか」など、そっと二郎三郎を蔭によんで詰るよう
にいった。
 なにしろ掛塚に集まった時から、幼君を掌中の珠として握り、それで三河を押さえ
取るつもりだったのは、せっかく尾張から無事につれ戻ったものを、あっさり岡崎へ
返されてしまっては、これまでの計画が台無しになってしまうからである。
「まさかとは思うが‥‥築山御前の色香に迷われ、それで‥‥」とまで浄賢はいった。
 二郎三郎は顔を赤らめたが首をふり、
「まあ委せろ‥‥気になるなら、これからの成行きを見るがよい」と言い放った。
 そして築山御前をはじめ松平一門の三木城主信孝や鵜殿城主康孝、松平大炊助好景
の座っている所へ戻ってゆくと、どっかと尻を落ち着け、
「和子はかように連れ戻してはきたが、相手が疑り深い信長のことゆえ‥‥やがては、
この二郎三郎が故松平元康殿ではなく、ただの山中城の一城主にすぎぬと見破ろう。
さすればいつ何時、兵を催し押し寄せてくるやも知れぬは判りきった話‥‥そうすれ
ば、築山御前さま初め皆の衆も迷惑するじゃろ。そこで、今あっちゃで山中城の者ら
とも相談してきたが、吾らは浪人して早速これから他国へと逃げ去ることにする」と
いってのけ、
「ではご免さっしゃれ」頭を下げ、そのままさっさと立ち上がろうとした。そこで、
「待ちゃ‥‥」あわてて呼び止めたのは築山御前である。そして、
「そもじらは何処なりと逃げてしまえば、それで済もうが‥‥残されし者はどうなる
ぞ。まさか肝心な当人が行方不明ゆえ、何事も一切判り申さずともしらは切れまいが」
と怨ずるように声をかけ、
「せっかく和子を連れ戻してくれたは有難いけれど‥‥このままで放りっぱなしで退
散とは、仏作って魂を入れ忘れてゆくような横着な話」
 感情的なものの言い方でなじってきた。すると松平一門の長老の信孝も、
「こりゃ御前さまの仰せなされる通りじゃ。おてまえを逃がしてしまったとあっては、
吾らが責任をとらされるは眼にみえたこと‥‥うかつに勝手な真似はさせられぬ」と
いいだし、
「‥‥やはり亡き元康の殿に化けたままで、和子が成人する迄は当城にいてもらわん
と難儀なことになる」と、康孝も大炊助好景とうなずき合いつつ、わが身可愛さに迷
惑のかからぬようにと申し出た。
「とんでもないこと‥‥」二郎三郎は、中腰のままで断わった。
「十日や半月のことなら、つとめる気さえあれば、どうにか化けられ押し通せもしよ
う。しかし、何年もとなると、そうそうはいくら器用な者でもそれは出来ぬ相談」と
首をふった。そして、
「御一門の中で、しかるべき方が後見人として、築山御前さまと和子を守ってゆかれ
るしか、仕方とてなきことにこそ‥‥」と長老の信孝に押っかぶせるような言い方を
した。
「それは困る‥‥東の今川家が昔日とは違い、義元公亡き後は、われらを庇ってくれ
る当てもないのに、どうして西の尾張の織田と事が構えられるものか」
「といわれても、まさかこの二郎三郎が、形だけ築山御前さまの女夫(めおと)とな
ったり、うわべのみ貴殿らの殿様づらをしたところで、実のないことでは家来にも怪
しまれ、いつかは信長めの耳へ入り、有無をいわさず叩き殺されるはこの身‥‥そん
な自分から墓穴を掘るようなことは、真っ平御免」
 二郎三郎も言い返して睨みつけると、すたすた庭先へおりてしまい、樅の樹の根方
にうずまっている浄賢らの許へ戻った。そしてわざと大声で、
「これよりすぐ山中城へ取って返し、一両日中に何処ぞへ逃げ出さないかんことにな
ったぞ」
 指図して一同を立たせた。これには松平大炊助好景があわてて裸足で濡れ縁から降
りてきて、
「待たっしゃれ」と二郎三郎の袖を押さえ、
「もし、おてまえを本物の殿扱いすれば、残って頂けるのでござるか?」ときいてき
た。
「ぼろが出ぬよう本物にして下さるなら話もまた別じゃろ。なんせ、この場の行きが
かり上、お前さまらを見殺しにして放ってゆくも、やはり気が咎めるでのう‥‥」
 そんなふうに、いやいやながらの答え方をした。
 だから松平好景がまたとり急ぎ戻ってゆくのを見送りつつ、酒井浄賢坊が、
「なかなか巧者な操り方‥‥和子をかっさらわず素直に戻したには戻した訳ありでご
ざったか」
 すっかり舌をまいて驚いた。
「色と欲のニ筋道とは、お若いがたいしたもの‥‥まんまと此方の思う坪にはまって、
あなたさまがこの岡崎城の主に横滑りなされ、築山御前さまを抱かれるなら、われら
にも城内の眉目(みめ)よき女を取持ちなされませ‥‥でないと掛塚のあい殿に早打
ちで告げ口しまするぞ」
 榊原小平太は、もう目当ての腰元でも見つけているのか、にんまり好色そうな笑い
を浮かべた。
 しかし大久保党の面々は苦々しげに、
「それはいかん。吾々も厭々ふうを装わんことには‥‥こりゃ巧くゆくまいて」
 にやにやしている榊原をたしなめた。
 やがて、今度は好景の代りに鵜殿城主の康孝が庭先へおりてきて、
「御評定は相いすみ‥‥おてまえさまを吾らの殿の松平元康さまとなすとなすことに、
築山御前さまはじめ皆の意見が相いまとまってござる」といいにきた。

 すでに三人の子を生んでいる女だが、さすが駿河御所一と謳われもした瀬名氏一族
関口家の姫だけあって、肌はぬめりがあって柔らかく、それに透るような美しさだっ
た。だからして、
(同じ女でも、鍛冶屋のあいとは、えらい違いじゃ)すっかり二郎三郎は満足した。
 そして、まだ未通娘(おぼこ)だっただけに、あいは初め一晩じゅう手こずらせた
が、築山御前は馴れているだけに、まるで戸をあけ中へ吸い込ませるように、自分か
ら手さえ貸して持ち添えまでした。
(うん、女ごというは、やはり馴れとらんのより、よく馴れてる方がええのう)と、
このとき思った。
 だから、その後、家康はもっぱら経験者ばかりあさった。
(家康は後家専門だった)などといわれるのも、この時のせいなのかも知れない。
 そして二郎三郎が徳川家康と改名してしまうのは、正確には判らないが、『寛永系
図』というのに採録されている『本多元孝譜』には、
「永禄四年十一月一日には元康の御名で、手紙類を出されていたが、翌五年八月二十
一日付よりの送信や文書からは家康と改められた」と、当時の秘書役にあたる「物書
き方」だった当人が、はっきり書き残しているし、これは徳川家公認の指出(さしだ
し)系図を集めたものだから、
「まだ徳川初期の寛永年間にあっては、上州新田郡世良田村の二郎三郎という者が、
神君東照権現にならせ給うまで、初めは元康と名乗られたが、すぐ翌年夏からは松平
家康。そして次に、上下とも変えて徳川家康とならせられた」というのは公認されて
いた事実のようである。
 この徳川という姓は、上州新田別所出の新田義貞の生残りの一族が、世良田、新田、
徳川、日光と分かれ、元禄年間より本家は、新田を蔭姓として岩松と変ったが、代々、
徳川家へ系図を貸してやり手当を貰っていた。が幕末、皮肉な話ではあるが、徳川家
が倒れると、今度は本家の岩松満次郎が、祖先の功を嘉され賜うて「新田男爵」とな
ったのは前述した。
 また元禄年間以降に編まれた徳川家の歴史では、「松平清康---広忠---元康」とな
っているが、岡崎の大樹寺に葬られている広忠には、「瑞雲殿広政道幹大居士」とな
っているが、慶長十六年の寺の過去帳では、広忠の供養のために建立された寺だから、
「大樹院殿大居士」となっている。
 一人の松平広忠に二つの法号は変だが、同じ岡崎の松広寺にも広忠の墓があって、
そこではこれは「成烈院大林寺居士」とあるし、別に広忠には、内装のとき法蔵寺院
主が謚号(おくりな)をしたという、「慈光院大林居士」の法号もある。
 唯の一人きりの死者に、同じ狭い岡崎で、四つも戒名があるというのは複雑すぎる。
これは松平元康が徳川家康になったという元禄以降の仮説をもっともらしくするため
には、
「元康の墓や戒名があってはいけないから、四つの戒名を一つにして、広忠にしてし
まった」のだろう。つまり、本物の松平元康は、家康の前身とされてしまったばかり
に、死んでいるのに戒名も墓も判らなくさせられてしまったのであるらしい。
 俗史では家康が三河へ入ると一向一揆がおきて、三河武者の大半がそれに加担し家
康に反抗したとなっているが、この真相も、「他所者の家康を追い払おうとした当時
のレジスタンス」であろう。
 なにしろ家康になってからの二郎三郎は、松平一族の長老の、「松平蔵人信孝」を
明大寺村で殺し、「鵜殿康孝」も殺し、「松平好景」も明丹宮で殺してしまい、それ
までの松平一族はほとんど全滅させてしまい、全然無縁の連中に改めて「松平姓」を
つけて糊塗したり、やがて、「岡崎三郎信康」が成人すると、これに三河一国を返す
のが惜しくなって、武田へ通謀といったことにして、うるさい築山御前と共に始末し
ている。
 俗史では、信長が、わが子に比べ三郎信康が利口なのをやっかんで、家康に命じて
殺させたというが、本当の妻子だったら家康も殺すはずがないし、信長もそんな命令
を出すわけがない。
 あまり知られていない話だが、岡崎三郎は信長の猶故、つまり養子身分になってい
て、信の字を名につけて貰っているぐらいだから、これを信長が殺せというわけがな
い。天正二年に家康は長子秀康を「あい」につくらせたが、天正七年には、のち二代
将軍となる秀忠も生まれてきていた。
 もうこうなると、信康やその母の築山御前は邪魔だから、産後のひだちも良好で秀
忠がよく育つと見きわめがつくと、その年の八月二十九日に築山御前を殺させ、九月
十五日には信康を始末してしまったわけである。もちろん色々と体裁を作ってごま化
したろうが、これが信長に知れ、やがて、
「永禄四年に取り換わした誓紙の松平元康名が詐称だったこと」まで明るみにでかけ
た。そこで、びっくりした家康は、五千両の黄金をもって天正十年五月十五日に、安
土城へ命乞いにいった。
 半額だけでも受け取ってもらえてその場は納まったが、家康が京へゆくと、五月二
十九日に信長は小姓三十騎だけを連れ、突如として上洛してきた。家康はあわてて船
便を求めにその日に堺へ逃げた。しかし堺取締の松井友閑は、一隻の舟も自由にさせ
ず、家康の一行を軟禁した。
 三日目の六月二日。本能寺の変が起きた。そこで、『フロイス日本史』では、
「三河の王(家康)を討たんとして信長は兵を集めた。しかし集まった者は裏切って、
信長自身を髪毛一本残さず吹っとばせた」とある。
 伊賀山中をこえて逃げ戻った家康は、すぐ兵を出して愛知県の鳴海に本陣、前衛を
津島まで出した。
 しかし秀吉が十三日、山崎円明寺川で、ライバルの明智を全滅させてしまった。
 ところが家康はその五日後に到るまで鳴海で頑張っていた。
 勝った者向いといった勝ち抜き戦の有様なので、この時家康は秀吉を討ちたかった
らしい。
 しかし、スパイ網をはりめぐらしていた秀吉に、(信長殺しは家康のさしがね)と
いう弱点をつかまれていたので、やむなく二十日に陣払いして戻っている。そして、
(他へは知られたくない急所)を握られていたばっかりに、家康も秀吉の在世中は諾
々とその命令下にあったものらしい。
 なにしろ用心深い秀吉は、三河衆の筆頭石川数正を引き抜きして、いざという場合
の生き証人にさえしていた。そして、その石川だけでなく、亡き岡崎三郎信康の娘を
妻にした、(長女の夫=小笠原兵部少輔秀政)(次女の夫=本多美濃守忠政)の二人
も、同行して秀吉の臣となってしまっていたので、これでは家康としては、「信康殺
し、信長殺し」と続けてぼろが出てしまうことともなるので、鳴くまで待とうホトト
ギスと時節到来まで辛抱していたのだろう。
 だから秀吉が死ぬと、昨日の忠臣も今日は逆臣とばかり、大坂城を滅ぼし天下をと
った。
 そして、その間に、信長殺しをさせた斎藤内蔵介の娘阿福が他へ嫁し四人まで子が
あるのに、これを伏見へ引き取って子をしこませて、やがて生れた子と共に江戸の秀
忠の許へ送り込んだ。
 家康としては、信長の異母妹於市の方の生んだ達子の子の国松には、織田の血脈が
流れているから、「あれに徳川の家をつがせるなどとは、もっての外である」と、春
日局の子の竹千代をもって三代将軍家光とした。秀忠も、自分の生れた年のことなの
で知りようもなかったらしいが、老いた父の家康から、信康殺し、そのために止むを
得なかった信長殺しの顛末をきかされると、
「徳川家の恩人斎藤内蔵介の娘の子」つまり異母弟にあたる家光が二十歳になるのを
待って、直ちに将軍職を譲ってしまった。四代将軍家綱の時も、跡目を異母弟の綱吉
に継がせているが、家康は己れの晩年の子の家光を三代将軍に決めて駿府へ戻ると、
安心したのか翌年に大往生をとげた。
 しかし三河の人間ではないから駿府の久能山へ葬るよう遺言した。
 ところが家光は、「自分を将軍にしてくれた父家康の恩にむくいるため」に、まず
織田家の血を引く名目上の弟(実際は甥)の駿河大納言忠長を上州高崎で殺させ、そ
の母の達子(江与)を押し込め同然にし、やがて死ぬと「崇源院」と謚名したが、自
分は葬式にも出ず生涯お詣りもしなかったのは故三田村鳶魚の考証にもある。
 ついで家光は世良田村の奥に昔ながらの日光別所があるのに目をつけ、ここへ、今
の現存する日光東照宮を建てた。戒名も墓も判らぬ松平元康にくらべると、二郎三郎
家康は仕合せであった。

(本文了)