1135 徳川家康 15

「なんともならぬな」
 平岩七之助、石川四郎、大久保甚四郎と、残った数をかぞえながら二郎三郎は肩を
落して唸った。
 なにしろ河原では百五十はいた頭数が、またしてもその半分に減っていた。
 広瀬城の三宅光貞の軍勢は此方の棄て身の戦法に泡をくったものの、やがて対岸に
岡崎兵がきているのに気づくと、後を委せて引あげていった。すると後を引きうけた
岡崎城の松平元康の兵は、舟を集めて陸続と此方へおし渡ってきた。
 二郎三郎の兵は、せっかく山へ逃げ込んだのに、またしてもすっかり包囲されてし
まい、向こうは山狩りのような大きな環をつくって攻め登ってくる気配。
「ここへひとまず匿れ、木の実で餓えをしのぎながら立てこもろうとしたが、向こう
が息もつかずに、こう押し寄せてくるのでは、なんともなりませぬな」
 馬上から突かれた額のかすり傷を手拭で縛りつけた酒井浄賢が、さすがに閉口たれ
たような弱気を洩らした。ただ年若な榊原小平太だけが、大神宮の護符を眉間にくく
りつけた顔を突きだし、
「なあに、これしきのこと‥‥大事をなすに当っては、何かと邪魔が入るは知れたこ
と。苦労せねば何事もならざるがこれ人の道」などと気ばっていいだした。そこで二
郎三郎も大きくおなずき、
「とかく人の世というは、荷を背負って坂道を登って行くようなもの、片時なりと気
をゆるせば転げ落ちてゆくというが‥‥ちいと今日は難儀にすぎたのう」溜息とも吐
息ともつかぬものを洩らした。
 なにしろ明け方までは、一兵も損せず三宅の四つ城を攻め意気軒昂だったのが、う
っかり葭っ原の茂みで仮睡していたばかりに、このていたらく。
「人生はあざなえる縄のごとし‥‥と子供の頃に教わったことがあるが、朝までは凱
旋将軍で今は敗戦の将。また何をかいわんやじゃのう」
 すっかり疲れきった二郎三郎は顎をあげ、襟首を肩の間にねじこむようにして、次
第に茜色に染まってゆく夕焼け空を仰いだ。
「なあに暗くなるまでの辛抱‥‥陽さえ落ちてしまえば、なんとか此処は切り抜けら
れ、中島砦へ戻れましょう。彼処まで戻れば今川義元本陣より持ってきた金銀の櫃も
あるし、それに留守番の板倉弾正には二百の兵が預けてありまする」と、鳥居元忠父
子がしきりに慰めをいった。
 だが、さて暗くなっても、山をとりまいた岡崎兵は引あげるどころか、篝火をたい
てぐるりと取り巻いたまま、すこしも包囲の手をゆるめようとはしない。
 次の日も、じわじわ山へ攻め登ってきて、夜になっても引続き篝火をたいて見張っ
ている。
 だから山ごもりして三日目。あたりの野あけびの実や、若いどんぐりまで食いつぶ
してしまった一同は、もはやなんともならなくなって、みなが、
「このままで餓死するよりは、いっそ切り死したい」ということになった。
「済まぬ。俺のような年弱な者を、新田義貞公の裔というので名主(みょうしゅ)に
立て、その采配に従ってくれたばっかりに、この思いもよらぬ土壇場」と、さすがに
二郎三郎も一同に頭を下げ、
「おれに縄をかけて向こうへつれてゆき、それで其方らは命乞いして、思い思いに散
ったらどうか」とまで口にした。しかし酒井浄賢は、喘ぐように咳払いをしてからそ
れに激しく首をふり、
「岡崎衆が欲しがっていなさるは、おまえさまの命ではのうて拐された和子の方じゃ。
よって、その首をとったところで、ここから吾らを勘弁して、とき放ちなどは致すま
い‥‥」言い切った。
「そうか。というて、せっかく手に入れたあの和子を岡崎へ召しあげられてしまって
は、われらにはもはや夢も希望もないことになるな」これには榊原小平太も頭をもち
あげて近寄り、
「どうあっても、たとえ四つ這いになってでも中島砦へ戻らねば」いたって狼狽気味
に、口にした。
「かったるい餓え腹をかかえて、ここで動けぬまま岡崎城の兵に殴り殺されるよりは、
這っても転がっても、この囲みをぶち破って脱出せねばなるまいて‥‥」
 他の者も、みな同意して、最後の気力をふり搾って、みな二郎三郎の許へいざりよ
ってきた。
「よしッ、また此処におる人数が半減するかも知れぬが、こうと話がきまったからに
は、日没を合図に敵の手薄な方角をみつけ、何としてでもここから抜けでよう」
 そこで砥げそうなざら石を探して、錆つきかけた槍の穂先や打ち刀の刃をてんでに
こすってから、
「そろそろ篝火をたく頃合いじゃ‥‥火と火の間を目標にして、山を降りてゆこうぞ」
 まっ先に二郎三郎が槍を杖に立ちあがれば、
「ああ‥‥この山も今宵限りなるか」
 無念そうに成瀬八郎がすぐ後に続いた。しかし雑木林の茂みを抜け出た途端。
 どうして見破られたのか、早々ともう岡崎兵が囲んできていて、
「三河武者の腕前を教えてやろうかい」
「このくたばり損ないのやつらめ、逃げおおせると思いおってか」
 わあっとばかりに口々に喚きながら、槍を並べて一斉に突きかかってくる。しかし
これを、
「おのれ邪魔だていたすか」
 二郎三郎は、銀色にきらめく槍の林の中へ、手にした槍を右に左にまわしながら、
これを薙ぎ倒して駆けこんでゆく。そこで酒井浄賢を初め大久保甚四郎らなども、横
から突きこんでくるのを、
「えい、どけ」とばかり型っぱしから突きたて、刺しこみ、しまいには撲りつけなが
ら、その後を走り抜け追いすがってゆく。だが、中島砦へ逃げてゆくものと見てとっ
ていたのか、そちらの方角へ進むにつれて、次第に岡崎兵たちの壁は厚くなって、
「これでは、とても突き破ってまで、もはや進めはできぬ」ということになった。
 中島へ戻れないとなると、後は、掛塚へ行き、鍛冶屋平太の小屋へ戻るしかない。
「よし、てんでに切り抜けえい。めぐり逢う所は掛塚ぞ」
 もうこうなっては一丸に塊ったままで、敵中突破はできなくなったから、
「みな力の限りここを踏んばって、めいめいに脱出せいやい」と、蘇芳を浴びたよう
な成瀬八郎が血槍をふるって飛び出す後から、二郎三郎も返り血をあびた物凄い形相
で、
「人間は一度死んだら二度とは死なぬ‥‥いいか、ここが男の死に場所ぞ」
 がに股の身体をこまめに大頭をふりふり突きかかってゆく。初めは酒井浄賢や林藤
介も側についていたが、もうこうなっては、てんでんばらばらになってしまって、群
がる敵中へ一人ずつになって吸われるように消えこんでしまった。さて、この時の状
況を、
『大成記』には、
「神君は辛うじて敵中を切り抜けられ給い、三州設樂郡長篠まで辿りつかれ、その地
の郷民に頼み舟をもとめ、遠州掛塚の鍛冶の家に落ち着かせられしが、この間の御艱
難御辛苦の程は、筆にも詞にもつくしがたい」とでている。
 これは八代将軍吉宗の頃大岡越前守によって出版統制令のでる前に書かれたものだ
からして、
(天正十年六月の伊賀越えが神君の生涯一度の大難)という通史とは違って、この時
の方が大変であったという確定史料にさえなるのだろう。さて、ところがである。
 これだけ苦労して、それぞれが、さて、ようやくの思いで掛塚へちりぢりに戻りつ
いたところ、
「‥‥申訳ありませぬ」と板倉弾正がすでにきていて、二郎三郎をみると両手をつい
てあやまった。
「如何せしか」とびっくりして愕き尋ねると、
「岡崎より松平大炊助好景(三河深溝城主)が攻めて参り、無念や中島砦は焼かれて
しまい、岡の砦まで退がって防ぎましたが何ともならず宝飯郡左脇まで落ちのび、そ
こから此処まで逃げ戻りました」
 当てにして戻ってきた中島砦の兵も、蔵ってあった金銀もすっかり失ったことを、
口惜し涙にむせびつつ報告した。
『三河後風土記』という本は、よく史料と間違えられて引用されるものだが、元禄年
間に、「贋系図作りの名人沢田源内」が書いたものだとは前述したが、しかし、その
中にも、
「板倉某の篭りし中島郷山砦に対し、岡崎より松平大炊助好景攻めきたり、よって板
倉防ぎ切れずして岡の城へ逃ぐ、ここの支えきれず逃走」とあるから、まだまだ元禄
時代までは、板倉内膳正の先祖のことも松平と徳川とが戦ったという事実もうすうす
一般には知られていたものらしいことが判る。
 さて、負けて中島砦から逃げ戻っていた板倉弾正を初め一同は、みなうなだれてし
まい、しおれかえってしまっていた。この有様では、
「これから何とするぞ‥‥」
 さすがに二郎三郎も、げっそりした面持ちをみせ、大きな才槌頭を共にたれ、考え
こんだ。
 しかし酒井浄賢は、作り笑いであろうが、「ワッハッハ」と呵々大笑。げんなりし
た一同に向かい、
「閉口たれてはいかん。女ごは都合のよいことばかり考えて生きてゆくものじゃが、
男はあべこべに、いつも困難を覚悟して辛酸を堪える所存で世に処してゆくものじゃ
ろが‥‥」
 一同を眺め回してから、元気づけた。そして、
「かくなる上は当ってくだけろ‥‥と申すではないか。追われ縮んでしまっては道は
ひらけぬ。思い切って突っ込んでゆくしかないわえ。男の世の中は、退いて匿れてし
まうより、ぶつかってゆくしか方法もないでのう」と言い放った。すると、
「そうだ、われらには岡崎の若君という取っておきの奇貨がある。あれをもって切札
となし、この難局を切りひらかん」榊原小平太が直ちに唸ってすぐさま同意した。
「この際は、それしかあるまい」そこで、二郎三郎も、決断をし、
「母屋の鍛冶屋へゆき、あいに和子をつれてくるよう言うてこい」といいつけた。
 ところが、逃げのびてきていた中島砦の兵が、
「ここにおられました和子さまなら、当地より向こうが安全じゃろとの、あいさまの
お言葉にて、中島へおつれ申しました」末座の方から申し出た。だから二郎三郎は、
(あいも女ごじゃな‥‥あれは俺が子ではなく松平元康の跡目と教え、よくわきまえ
ておるはずなのに、最初に怪しんだのが頭にこびりつき、己が手許へ置くのを嫌がっ
て、さては留守中向こうへやってしまったのか)愕然としてしまい、
「して、その和子は?」と、畳みかけるよう板倉弾正にせっついて聞いた。
 すると板倉弾正は、またしても両手だけでなく上半身まで放り出すようにして、
「なんともお詫びのしようとてありませぬ」平あやまりに頭を下げ放しで答えた。
「えッ、では乱戦にまぎれ、幼いものを殺してしもうたのか」暗然として二郎三郎が
息をのむと、
「お命は別条ないものと思いまするが、宝飯郡佐脇から此処へ落ちのびてくる途中、
敵の目をくらまさんと回り道して塩見坂を抜けてくる道すがら、遭遇した輩共に和子
は奪われてござる」と答えた。
「では野伏せりの徒にか‥‥」ときけば、
「田原城の戸田弾正の手の者といいおりました‥‥」
 このやりとりを聞いていた榊原小平太は、
「なんともならん‥‥」舌うちして、いまいましげに目くじらをたて、
「うぬ、その責めをなんとしくさる」まだ頭を下げっ放しの板倉いくいつきそうにい
った。
 この時の咎めを板倉弾正はひどく気にし自責の念にかられ、のち、まっ先かけて討
死した。
 そこで信長殺しのあった天正十年六月の後。
「香誉宗哲」を名のって出家していた弾正の末弟をみつけ出し、小田原合戦が済んで
関東へ入国する際に家康は彼を伴ってゆき、まず千石を与えた。そして還俗させ、板
倉勝重と名のらせ、関東代官、江戸町奉行につかせ、関ヶ原合戦後は一万六千六百石
の知行を与えて京所司代にとりたてた。
 そして、その長男が京所司代として有名な、三万八千石の板倉重宗。次男は島原の
乱の時に征討使となって討死した一万五千石の板倉重昌なのである。

「渥美半島の田原へ、これからおもむき、なにがなんでも和子を取り戻さんことには、
われらの行末は、お先真っ暗じゃ」
 一晩だけは屋根のある所で手足をのばして横になったものの、翌朝になると二郎三
郎は、むっくり、あいの許から起きだして、納屋へ顔をだした。
 だが追われて逃げてきた疲れで、一同はまださながら死んだように熟睡しきってい
たところゆえ、
「お先真っ暗より、まんだ戸外も黒々してござりまする。そうせかせんと、まあここ
へ入られ、もうすこしまどろまれたがよろしゅうございましょう」
 寝とぼけた声で榊原小平太は答え、二郎三郎を己れの脇に寝かしつけようとした。

家康と元康の決戦

 この年、桶狭間合戦が春にあった永禄三年(1560)は、のち徳川家康となる二
郎三郎は十九歳。
 家康と改姓改名したことにされる松平蔵人元康は二十四歳。そして尾張の織田信長
は二十七歳。
 戸田弾正の手で拐されてきた松平竹千代こと、のちの「岡崎三郎信康」は時に二歳
だった。
 むつきをようやく外したばかりのまだ幼児だったが、拐されて今は尾張へ送られて
きていた。
 初めは、古渡城をとりこわした後に作った熱田砦の加藤図書之助と隼人佐の兄弟に、
「面倒をみてつかわせ」と信長は、その竹千代のことをいいつけた。
 さて、永禄四年辛酉の正月である。
 この年は、四月には信長が初めて美濃へ攻めこんで敗退したり、九月には川中島で、
長尾景虎と武田信玄の激戦があったという有名な年だが、まだ正月はのどかだった。
「ご年賀に‥‥」と加藤隼人佐の嫁の代女(よめ)が、竹千代を背負って清洲城へ伺
候した。
(嫁のよめ‥‥)では語呂合せみたいだが、前述の「寛政二年戌四月、加藤忠三郎書
上げ書」では、
「加藤隼人佐妻よめは義兄図書之助の娘、つまり姪にあたる者と一緒に幼君のお守り
を申しあげていました。その姪というのが私めの祖母にあたります」とある。おかし
な名でも実在では仕方がない。
「女共のいる奥の間へゆくがよいぞ‥‥」
と信長にいわれ、代女が軒廊を伝って坪根垣内へゆくと、そこには正月のことゆえ、
「七歳の奇妙丸(のち織田信忠)」を筆頭に、「四歳の三助(のち茶せん丸、信雄)」
、「当歳の女児やや」の三人が、お腹の生駒将監蔵人の後家娘の侍女共にあやされて
いて、「板御前」とよばれる伊勢神戸の、後の城主小原民部を生んでから尾張へきて
いた女人は、「三七(のちの織田信孝)」を抱いていた。
 さて子供というのは、なんといっても子供が好きなもので、小さな仲間をみつけた
竹千代は、口から涎をたらしつつ、「きゃあッきいきい」代女の手をはなれて、よち
よち突進していった。
 熱田砦では、紙でおったお雛さまぐらいしか玩具がないのに、ここには張子の虎や、
がらがら、吹けばピイとなるしょうの笛の類があって面白かったからだろう。
 しかし信長の子供らにしてみれば、散々に遊びあきた手回りの玩具である。だから
取り合いするのでもなく、二歳の竹千代が昂奮して、玩具を抱えこむのを、ぼおっと
眺めていたらしい。そして、この時代のことゆえ、「投扇興」といって、扇面をたて
て飛ばし狙った物を落す。今日のボーリング遊びのミニチュアのような遊戯を始める
と、この竹千代も熱田でこれで遊ばされていたから、涎を糸みたいに垂らしつつ、結
構うまくやってのける。
 すっかり人気者になって、ちやほやされているところへ、奇蝶御前が姿をみせた。
美濃国主斎藤道三の一人娘で気位が高く、滅多に側室やその子のいる所へは姿を見せ
ぬ御前だが、正月のことではあるし、なにしろ余りにも、
「きゃっ、きゃっ」面白そうにはしゃぐ声がするから、つい覗きにきたのである。
「あれなるは何処のお子ぞ‥‥」よちよちしたのが真剣に、自分の顔より大きな扇を
的に向かって投げているから、思わず吹きだし笑いをしながら尋ねてみると、
「はい、あれなるは隣国松平元康さまの跡目なれど、田原の戸田の者らが略取、ご当
家へ人質として納めましたるお子」という返事。
「いくら乱世とは申せ、まんだ年弱な者が拐されて連れてこられるとは不愍なものよ」
 子供のいない奇蝶御前は、それぞれの児を抱えた側室に対抗する女の意地なのか、
「これ、代女とやら、それなるお子を私に預けてはくれぬかや」といいだした。
「はあ」加藤隼人佐の嫁としては否応はない。なにも好きで預かっているのではなく、
もし寝冷えさせたり食当りでもさせてはと、絶えず心配して育てていたところゆえ、
すぐさま承知をした。
「では一月おいた後位に、てまえの方から頂きに参ります」ほっとしたように戻って
いった。
 信長にしても、一つ違いで口うるさい妻が、子供を抱えて、それで気がまぐれおと
なしくなってくれる分には文句はない。他の子らも遊び仲間が一人増えたのだから、
一緒になって犬の仔みたいに転げ回っては遊んでいる。
「こうなると、竹千代も、まるで当城の子のようだな‥‥」生母お平手御前に早く死
なれ、第四郎信行を生んだ土田御前に冷たく扱われた覚えのある信長は、竹千代に哀
れを催したが、
「こっちゃ来う」抱いてやるような事もあった。そして幼い子五人が仲よく遊んでい
るのに、
「すその女の子が成人したら、この竹千代の嫁にしようぞ。そうすりゃ、この五人が
何時までも、一つ兄妹として仲ようやってゆけよう」とまで口にするようになって、
やがて女児の名を、「五徳」とつけた。これは火鉢のまん中へ入れ鉄瓶などをのせる
物の名称で、(五人が輪になって、織田の家を守れ)といった信長の願望の現れだっ
たのであろう。
 これまでの通俗史では、この時代を信長の父信秀の代にして、徳川家康がこの拐さ
れてきた幼児であるとし、名古屋の万松寺天王坊にとりこめられていたが、それを哀
れんで信長が見舞いにゆき、やがて竹馬の友として遊んでやったようになっている。
 しかし信長と本物の家康では八歳違いである。竹千代を家康とみるなら四歳の時に
は、信長は十二歳。いくら少年時代に、「うつけ」とか「阿呆」と言われていたにし
ろ、十二歳の信長が四歳の児と竹馬の友となって遊ぶというのでは、知能指数が低す
ぎて、精薄ということにもなってしまう。
 だから三、四年ずらしてみても、竹千代は七歳から八歳でしかないのに、その頃の
信長はすでに奇蝶を美濃から嫁を迎えて、もう一人前の夫である。それでは、女房持
ちの男が小学一年生ぐらいな友達をもつこととなって変てこで、これまた、とても不
自然にすぎ、どう考えてもこじつけでしかない。
 どうしても、この場合の竹千代は、やはり岡崎三郎の方でなくては辻つまが合わな
い。
 さて拐された竹千代は、清洲城と熱田砦を往復して、可愛がられたから問題はなか
った。しかし渥美半島の田原までまた探しに行った二郎三郎、のちの家康の方は難儀
だった。
「せっかく奪い返そうと来たのに、肝心な和子が尾張へ渡されてしまったとあっては、
なんともなるものではない」天を仰いで嘆息した。
 いくらなんでも、とても尾張へ忍びこめるものではない。それでは何をしていたか
というと、『大三河志』という古写本には、
「神君家康公は、遠州の修験者可睡斎の伯父にあたる篠島の妙見斎の堂に一ヶ月余滞
在」とある。
 そこは現在は渥美半島の突端の灯台が観光名所で、篠島にも新築ホテルがあるが、
当時は、どうしたかというと、その『大三河志』には、
「年あけ海を渡り幡豆(はず)の味沢村へおもむき、白山堂へこもり祠官の春木太夫
が家に滞在さる」
とある。この味沢村のあった地区に、高須という旧家があって、そこの門前にある老
松を、「神君家康公御手植えの松」と称し、幕末までは注連縄がはってあったと『三
河史料』にあるのは前にのべたが、味沢というのは、尾張万歳の味鋺(あじま)村と
同じで、「何々太夫」というのが取締まる区域、つまり別所とか山所といわれた特殊
地帯の名残りを止める、後の橋のない川向こうの土地だったのである。
『巨達咄(こたつばなし)』と題のある古資料本では、
(人外とよばれ治外法権になっていて、他から人の入ってこない特殊地域を利用して)
と、「ここで家康公は弓矢に巧なる若者三百人を糾合され、その中には一キロ先の的
を射ぬく名人六名あり」
などともでている。そして、これらの味沢部落の若者こそ、神君家康公の、「創業佐
命」、つまり建国の大業を助けた勇姿だと書いているが、この写本は、原住系弾圧が
またぶりかえした元禄十一年以後のものらしく、
「三百人の子孫の内、命をまっとうせし者の末は、今もお大名高禄御旗本となり、み
な御恩を忝けのうすれど、故あってその名はここに書かず」と遠慮して明細はさけて
いる。
 さて、この辺りの強い篠竹で弓矢をこしらえた二郎三郎は、その味沢の三百の兵を
率いて出陣せんとしたとき、『大成記基業』によれば、
「鳥居忠吉なる者あり、その子の忠元を使にたて、わが土倉に糧食多くあり。これを
献ぜん、よろしくもって威名を四方に振るわせたまえと申しきたる」
という都合のよいことになっていた。そこで米や粟を担いで、ひとまず掛塚のあいの
許へ戻った。
 すると酒井浄賢は駿府の七変化部落から、百名余り集めてきていたし、石川や平岩
もそれぞれ若者をつれてきていたので、ここに五百の新編成部隊がまたもでき上がっ
た。そこで、
「やあ、ほう」とと奇声を発し三河猿投山の砦を攻め、ついで矢矧(やはぎ)川上流
にある砦を討とうとした。
 これは今川方の砦だが、前年今川義元が死んだ後なので、跡目の今川氏真は、よも
手を出すまいと高をくくったのである。ところがである。駿府の今川はでてこなかっ
たが、岡崎城から今川一族の瀬名氏の姫を妻にしている松平蔵人元康が、またしても
思いがけず、
「おのれ野盗めが‥‥」と直ちに今川方の砦の救援に現われてきた。
 せっかく新しく集めた兵で、砦の一つもとって足場にしようという計画に狂いが生
じて来た。
 しかし、また松平元康が現われてきたからといって、後に徳川家康となる二郎三郎
が、びっくりして逃げるわけにはゆかない。それゆえ、ここで両者は矢矧川の青い流
れを挟んで、また改めて、
「さあ来い、来たれ」と戦った。もし通俗史のように、松平元康が徳川家康と同一人
物なら、ここは一人二役の、同士討ちどころか自分討ちになるところだが、岡崎の兵
と味沢の三百を主とする掛塚の兵は、互いに矢を射ち川原の石を投げあって勝負を挑
んだ。
 さて家康の方が強いとよかったが、なにしろ寄せ集めのアマチュアみたいなものな
のに、岡崎兵は松平入道以来の譜代の兵が多く、それに今川にしごかれ槍をとらせる
と彼らはプロの腕前である。
 川の流れを挟んで戦っているうちは、まあ互角だったが、双方入り乱れての白兵戦
となると、石ガ瀬の時と同じで、比べものにならぬくらいてんで岡崎の方が強すぎる。
 そこで、浪人する迄は松平家の御旗奉行まで勤めていた安倍大蔵が、二郎三郎の軍
使となって、
「あいやしばらく‥‥」と停戦を申し出に松平元康の許へゆくと、
「本心でお手向かいしているわけではありませぬゆえ、まずは話をおきき下され」と
申し出た。
「なんじゃ‥‥」いぶかしくは思ったが、昔の家来のいうことゆえ、追い返そうとは
思ったが、
「早うに訳を話せ」と馬上から浴びせかけられると、それに向かって、
「あれなる世良田二郎三郎なる者は、和子さまを田原の戸田党に奪われ、取り戻すた
め直ちにおもむきましたなれど、すでに尾張へ回されし後。よって何とか織田信長を
導きだし、その隙に奪い返さんと、おてまえさまとの矢戦‥‥つまり双方が戦ってお
れば織田信長が出てくるものと心得ても‥‥」
 弁解するというよりは、せっかくの八百長合戦なのに、岡崎兵が本気になって川を
渡って攻めこんできたのは、人の気も知らない乱暴ぶりといった非難するような口ぶ
りをみせた。
 だから、これには育ちのよい松平蔵人元康は、まんまと引っ掛かり、
「そうでありしか‥‥吾が子を取り戻してくれよう為の作戦でありしか。いわれてみ
れば、川を渡ってこんと、ヤァヤァ矢声ばかりたてておったのう」とうなずき、傍ら
の使番の者に、
「引き鐘打て‥‥戦を休ませい」と命じた。すると、そこへ二郎三郎が馬をとばせて
きた。
 松平元康もこれには、ぎょっとして打ち刀に手をかけ引き抜こうとしたところ、
「あいや、お待ちなされましょう」と二郎三郎は馬を飛び降り、直立すると頭をさげ
一礼してから、
「和子竹千代さまを織田方の手に渡したるは、なんといっても私めの落度‥‥ご無事
に取り戻せまするまで、おてまえを寄騎とし吾らに犬馬の労をお許しなされませ」と
申し出た。
 後年は狸親爺といわれる男でも、この時はまだ十九歳。ひたむきに誠意を示して話
されると、
「うん‥‥」と、坊っちゃん育ちの元康はつられて、その言葉に対して答えた。
 なにしろ、これまでは寄らば大樹の蔭と今川義元の庇護下にあったが、前年死なれ
てからは一人だちみたいな有様、すべてに心許ない元康である。それに一兵でも人手
の必要な乱世の時代。
 五百からの兵力が自分の指揮下に入るというのは、願ってもない話だから、すぐに
も、
(よし)といいたかったが、さて五百からの人間を食させてやるだけの余裕は元康に
はなかった。
 だからいいよどんでいると、その気配を二郎三郎も悟ったか、
「恐れながら、これから山中を攻め、彼処をば、われらの台所入りと致したく、この
点をお許し願いたく‥‥」ときりだしてきた。
「山中城をか‥‥」元康はいい返した。
「‥‥如何にも」二郎三郎はいいきり、
「われら一手だけにて攻め落とす分においては‥‥」大頭をふって、にこにこ白い歯
まで見せた。
 というのは、山中城主松平権兵衛重弘は松平元康の伯父にあたるが、去年今川義元
が討たれた後、織田信長へ秘かに通じ、あわよくば松平の本家をのっとり、岡崎城を
奪わんと兵を集めている。
 だから元康も気にして何とかしたいと思うのだが、相手が伯父だから迷うというよ
り、家来の血縁関係が相互に入り混じっているから、うかつに攻められもしなかった
のである。
 が、二郎三郎の手勢だけで攻めるのなら、すべての問題は解決する。
「よかろう」そこで元康はすぐさまその場で承諾した。
 この結果、どうなったかというと、『大久保記松平記』によると、
「三州加茂郡の山中城に対し、酒井、石川、大久保ら息もつかず攻め立てければ、城
兵若干討死にし防戦叶いがたく思いしにや、夜中に篝火を多くたき城兵共は間道より
次々に落ち失せ占領したり。山中城が徳川家発祥の地といわれるは、これがためなり
という」といった具合に説明されている。


森山崩れ

 漢字は明治になっても発音さえ同じなら、つまり音の感じさえ通ずるならそれでよ
かった。夏目漱石の「我輩は猫である」の中でさえ、秋刀魚を「三馬」と書いている
程である。
 だから「森山」の地名は、今の愛知県の東春日井郡の「守山」であるとされている。
が、同じ尾張の蜂須賀党の本貫地の側にも、「森山」の地名がある。しかし尾州藩史
料によると、そこは、
「小旗ヵ原は、万松寺、建中寺、相応寺の輪番支配地。三寺より交替にて番僧寺男を
配して張り番をなし、農耕停止地なり」
 徳川三百年にわたって尾張徳川家で、単なる草っ原を何故そこまで警戒しなければ
ならなかったか?そこまでは秘密にされている。
 が、この小幡ヵ原が徳川家創業の聖地であるなら、いわゆる(森山崩れ)は此所の
ことになる。

 さて通俗史では、安倍大蔵定吉の名を、「阿部大蔵」と変えて、その伜の弥七郎に
松平元康の祖父清康が此処で殺された事になっている。これは大久保彦左衛門の『三
河物語』の上巻にも、清康公の頃の話として書かれているから信頼されているが、内
容がおかしすぎる。
 この事件は天文四年(1535)十二月五日に、松平清康が織田信長の父の信秀を
攻めんと、森山へ攻めこんできた時に殺されたと、三省堂『歴史年表』にも出ている。
しかし、
「天地を響かせ四方に鉄砲をうちこみ、ときを上げさせ給う」とあるが、
「鉄砲伝来が天文十二年」なのは周知の事実で、それより八年前に死んだ清康の頃な
のに、
「バンバン鉄砲をうちまくった」というのでは、てんで話が信用できない。また、
「織田弾正信秀は、清洲に有りといえども云々」
と『三河物語』にはでているが、当時の弾正信秀は勝幡城から古渡城に移っていたば
かりである。
 清洲城に移ったのは信秀の死後五十年たった織田信長の弘治二年[1556]のこ
とである。清洲攻めに森山まで攻め込んだというのなら、天文四年では話が合わない。
どうしても二十余年の相違がでてくる。
 だから、どう首をひねっても、これは信長が清洲城に入ってからの、弘治から永禄
年間にかけてでないと辻つまがあわぬ事になる。また清康の時代なら美濃の国は土岐
政頼の頃で、美濃三人衆などはまだうまれていない。生年別にみて年代が二十年の余
も喰違う。
 つまり大久保彦左衛門は、徳川家康の家臣だから、
「元康と家康を同一人物に仕立てるためにこうした作為的なでっちあげ」を書いたの
か。または、これは明治になるまで公表されなかったものだから、大久保の子孫が元
禄年間以降に、
(真実を書いてあっては、もし見つかったら大久保家断絶になるやも知れぬ)
と、それを恐れて加筆訂正し、矛盾だらけの、そうしたものとなったのであろう。
 だから通俗史は誤りで、実際は天文四年ではなく、二十七年後の永禄四年の出来事
である。つまり年号を二つ後のものに変更し、人名をさかのぼって付けただけにすぎ
ない。