1134 徳川家康 14

 この三河の三宅氏というのは、今や没落してしまって、その名も残っているのは、
『広済寺旧記』ぐらいのものであるが、百済国から日本へ渡ってきた部族が、備前の
児島半島に上陸して、これの一族が南北朝時代に活躍し、中でも、「備前三郎高徳
(たかのり)こと通称「児島高徳」は、今でも架空の存在と歴史学上されているが、
「桜の幹に十字の詩」として昔の修身の教科書にでていたくらい著名な人物で、これ
は、『赤松再興記』にもでている話である。
 さて明治時代の故渡辺世裕の解明によれば、
「大永四年に前南禅寺の九峰宗成筆の宇喜多能家像の賛にあるから、動かしがたい事
実だが、備前の宇喜多の先祖は児島高徳であり、その祖はさかのぼれば百済よりの三
宅氏である」となっている。
 今でも三宅姓を名のる者は美男美女として知られているが、備前の児島半島に上陸
した三宅氏の一部が、南北朝の頃に蒲郡(がまごおり)あたりから三河へ上陸し、こ
れを、『三宅系譜』では、
「児島高徳が、その子の高貞(勘解由高盛という)のため興国年間に、現在西加茂郡
猿投町大字東広瀬とよばれる矢作川に臨んだ高さ五十メートル周囲四百メートルの孤
立した天険の地をえらび築城し、その後この西加茂一帯を征圧していた」となってい
て、没落したのは三宅右衛門高清のときとある。
『松平記』によると落城のとき、三宅氏の奥方が矢作川へおり巨巌の下へ隠れていた
ところ、唐国渡りの狆が慕って吠えたからそれで運悪く見つかってしまったという話
もある。
 が、この二郎三郎が頼まれた時は、まだ三宅氏の勢いは凄まじく、本城はこの広瀬
だが、同じ猿投町大字殿貝津には、高清の弟の三宅清宣(きよのぶ)の伊保城。
 いまはトヨタ自動車で知られる豊田市の梅坪三丁目にある丘には、高清の伯父の、
「三宅右近太夫光貞の梅坪城」
 そして同じく今の豊田市挙母(ころも)町大字城本町には、三宅高清の義兄にあた
る者の、「挙母城」の、つまり四つの城が三宅氏にはあったのである。それゆえ、
「相手が三宅一族とは、こりゃ由々しきこと‥‥なんせ彼らは一向門徒と結び、何処
の寺にてあれ釣り鐘をゴンゴオン打ち鳴らせば、近在の百姓が直ちに武器をもって寺
ごとに寄り集まり、すぐさま檀那城へ駆け集るのが古来のしきたりとか。うっかり、
まともに戦っては、われらは彼らに捕えられて、首をくくられ吊るし柿のように鐘楼
へ並べられるは眼にみえたこと‥‥」
 石川四郎と平岩七之助が、林左京亮の立ち戻ったあと、二郎三郎へしきりに諌言し
た。
 同じく東三河出身の鳥居忠吉やその伜の忠元も、
「まともに坊主どもと衝突するようなことがあっては、これは命とりとなるは眼にみ
えたこと」やはりそれと同じ意見を申しのべた。しかしである。それに二郎三郎は黙
然として暫く考えてはいたが、
「われらが掛塚の鍛冶屋にて日夜話しあってきたことは、楽して手柄をあげよう、危
ない橋は避けて進もう‥‥努力せんと立身しようなどと、そない虫の良い相談をして
きたのでは、なかったはず」
 唇をきっとかみしめそうにして言葉を発し、断固たる表情をみせた。
 しかし、心配そうに、いつもの赫ら顔を蒼くした酒井浄賢は顎をつきだしてからが、
「坊主も厄介じゃが、三宅氏が数百年にわたって吉良氏と対抗してきた実力も侮りが
たいもの。われらの三百の兵力にて、四つに城を相手にやられまするのか‥‥」
 できれば翻意してほしいといわんばかりの口をきいた。だが二郎三郎は静かに、
「若者よ大志を抱けとは、この事でなく何であろう。われらが四つの城を相手に曲が
りなりにも挑戦すればよし、さもなくば‥‥もし怖気をふるって逃げてみい。すりゃ
この後、なんの顔(かんばせ)あってか‥‥この三河の山野にまみえん」眼をとじた
ままゆっくりいった。
 すると今ではここの一党に加わっている信濃の地侍林藤介光政が、このときとばか
り、
「仰せの通り虎穴に入らずんば虎児をえずの譬もありまする。わられがもし野心を抱
かずば、なんの功など得られましょう。なんと申せ若者どもなればこそ無謀にみえて
も勇を振わねばなりますまい」
 大きなどら声をはりあげた。すると大久保党の面々も、
「われらが後生大事に守っておわす御方は、三河松平家の跡目の幼君ゆえ‥‥いずれ
行先にはわれも三河に落ち着くことになるやも知れぬ。そうなると、ここで昔から根
をおろし勢力を張っている三宅氏と戦うは、後で気まずくなるやも知れませぬが、今
の場合、ことの成行き上こりゃ一矢むくいて蹴散らすしか、他に手だてとてござりま
すまい」と、これに言葉ぞえをした。そこで酒井浄賢も、
「いろいろと思案すれば、こりゃ、どうあってもやらねばならぬ戦さ。といって長び
いて坊主や百姓に追われては、元も子もない話になる。まず手始めは広瀬の本城から
離れた梅坪と挙母の城を‥‥」
と、そこで改めて一同は軍議をひらいた。


一夜に四城

「大切な兵力じゃ、たとえ一兵といえども失ってはならぬぞ‥‥」と二郎三郎からい
いつかった大久保党を主とする百名は、挙母の城へ近づく前から、乾藁を肩に背負い
桐油を竹筒に入れて持って行ったから、
「朝からよく吹いていたが、ますます大風じゃ」
と永禄三年九月一日、折からの強風をもっけの幸いに、油を滲ませた藁束に石をくく
りつけ、それに点火すると、城壁や板塀めがけてなげつけ、あとは一目散に梅坪へと
んで帰ってきた。ついで、
「よし次は、この城じゃ‥‥この大風は天の助け」二郎三郎は此方へも持ってきた乾
藁に、
「あまり早うに油をかけず、城のきわまで寄ってからにせいやい」
 下知しながら、この藁の束を四つ割りにした青竹にくくりつけさせてから、風上に
回って、
「いいか吹いてくる風にのせるようにして射ちこめば、青竹とはいえよく飛ぶものぞ」
 まっ先に自分が火をともした細竹を、ぴゅうんと唸らせ、風にもってゆかせるよう
に射ちこめば、此方に待機していた二百の者達も、
「よっしゃ‥‥挙母城を火攻めにしてきた連中に負けてなるものか」
 みな出来るだけ城の土塁に近づいて、次から次へと射ちはじめた。
 鉄砲伝来から西国方面は弾丸よけに壁土で塗るようになりだしたが、三河の山中の
三宅氏の持城は昔ながらの板壁や板塀だから、これに何百本もの火矢がとんでいって
は、折柄の烈風に煽られ、あちらこちらで火がつく。それゆえ城主の三宅右近太夫は、
思いがけぬ奇襲に烈火のごとく立腹し、
「おのれ不敵なやつばらかな‥‥いざ引っ捕えてくれんず」
 すぐさま先祖伝来の大鎧に身をかため、城門を八の字に開いて馬に跨りうって出よ
うとした。
 しかし既に城の裏手が火を吹いて燃えだしていては、
「敵を追うより、まず火を消す方が大切にござりましょう」
 家来の面々は竹帚で叩き落したり、水を桶で運んで浴びせかける方に気をとられて
いて、
「早うに集れや」いくら喚いても寄ってこない。やがて燃えるところは燃やしてしま
い、それでもどうにか鎮火させて、それでようやく城兵が、煤塗れの真っ黒な顔で勢
揃いしてきたから、
「怪しからぬやつばらめ、一人残らず討ちとってしまえ」
 そこで、繰りだした頃には、もはや火つけを済ませた二郎三郎の軍勢は何処にも見
当たらなかった。

「えッ‥‥これから、またしても‥‥」
 大久保甚四郎も二郎三郎によばれていいつけられると、びっくりして聞き返した。
なにしろ挙母城に火をつけ梅坪へ集ると、そこでも手伝わされ、すっかりくたくたに
なってしまっている。なのに頭ごなしに、
「早うに、また伊保の城へ先刻の百名を率いて飛んでゆけ。われらは、これから三宅
氏の本城の広瀬へ押しよせる」と命令されては唖然とするしかなかった。酒井浄賢も
見るに見かねて寄ってきて、
「いくら天与の大風とはいえ、すでにニ城をすませての帰路。またこれから猿投山へ
向かうとは、いささか過激にすぎたる御下知」諌めるように中止させようとした。
 しかし二郎三郎は、吹きとばされそうな突風なので大声をはりあげ、
「今夜のうちならば、挙母や梅坪をやられたのが通報されず、向こうも油断していよ
うが、もし明日になってみい、広瀬の本城はいうに及ばず伊保の城にてもあれ、おそ
らく濡れ莚など塀にかけ防火の仕度はするわ、要所に兵を隠して、われらの近よるを
捕捉せんと企むは必定‥‥苦しくても、この満月を幸いに是が非でも強行せねばなる
まいて」といわれて色黒の大久保甚四郎も、
「そう仰せられれば、これぞ物の道理というもの。一日おけば向こうが用心し、われ
らが罠にかけられるは眼にみえたこと。こりゃ辛うても今夜のうちにかたづけるが上
策」
 ようやく納得したものの、さて困ったように、
「背負って参った藁束も桐油も、もはやすっかり使いはたしてしまってござるが‥‥」
 当惑しきった表情をみせた。すると二郎三郎は、また大声をはりあげ、
「この先の千本松原の中に、虫くいにやられて枯れた松が数多くあったのを、そちゃ
来る時に見てこなんだのか‥‥あの根株を掘り起こして細かく裂いてみい、すぐ松仕
手(まつしで)ができる。松脂の油は臭いが初めから滲みこんでいるものゆえ、こり
ゃ火持ちがよいぞ」
と、呵々大笑をした。これには大久保甚四郎もすっかり感心してしまい、
「どうもわれらごときとは人間のできが違うのか。お若いのに殿はすぐれた頭の働き
をもってござらっしゃる‥‥こりゃ、いずれ天下を握りなされるやも知れぬ」
 舌をまいて大久保党を初め信濃の林藤介らを率いると、ひと足先に松原へと駆け出
した。
 さて二郎三郎は残りの二百を率いて矢作川の川べりへでると、川ベり沿いに猿投山
へ向かった。
 が、広瀬の城は、今でも城山とよばれるぐらいの高所にあるから、いくら風が烈し
いとはいえ、下から上へ火矢を射こめるものではない。そこで山下までゆくと、酒井
浄賢に向かって二郎三郎は、
「鐘打七変化部落からつれてきている皮はぎと竹細工の者を、これへ呼べ」といいわ
たした。
 そして、それらの者が集まってくると、
「いいつけてあった獣の皮は持参してか」大声をかけた。
「はあッ、なめして持参しました」
と皮はぎの者が、銘々まるめて筒のようにして腰に挟んできた皮を前へひろげると、
「竹細工の者はすぐ手伝って、それに裏打ちの枠をしこめ」と指図し、
「他の者はいちびや蔓草を長く切って、これを丈夫な細縄になって付けるがよい」
 早口に次から次へと命じたので、脇から酒井浄賢が妙な顔をして、
「‥‥皮で凧を作らせまするのか」と尋ねると、
「うん‥‥」大頭をふって若い二郎三郎は悪戯っぽい表情をみせ、
「手のあまった者には、どんどん蔓や長草で縄を作らせ長くこしらえさせるのだぞ」
と命じた。
「泥棒をみてから縄をなうというが、頭の上に敵城を仰いでの縄編みじゃ。遅れまい、
急げや」
 大音声をはりあげ、見て回りながら叱咤激励をした。
 だから判刻もったぬ内に、獣の皮をぴんと張った革凧が長い紐をつけて三十程もで
き上がった。すると二郎三郎は使番のようにいつも自分の脇に控えさせている成瀬八
郎(のち犬山城主成瀬隼人正)に、
「田楽窪で今川の本陣より奪ってきた火薬や火縄の類を、そちに宰領させてある。持
ってきていよう。あれをここへ」といいつけ、それが運ばれてくると、
「凧の下に乾草を葉のようにたらし、火薬をその間に埋め火縄をつけるがよい」
 まず見本を自分で作ってみせてから、これを各自の凧に仕掛けさせた。
 そして用意万端すべてが整ったところで、頃合よしと酒井浄賢が、
「では火縄に点火し、凧をあげまするか」と聞いてくると、二郎三郎は首をふり、
「いや、その前に川を渡らせ、できている縄を幾重にも一間幅の間隔をとって、これ
を張りめぐらすようにするがよい」大きな声で指図した。しかし意味がわからず一同
はまごついた。
 それでも命じられたように、浅瀬を探して断崖絶壁のような城山の下へでて、そこ
の雑木の間に、二重三重に縄をはりおえ、その連中が、また水飛沫をあげてこちらの
岸へと戻ってくると、
「よし、風具合をみて、それ、凧をあげい」この時とばかり二郎三郎は割れ鐘のよう
に叫んだ。
 やがて吹き荒れる突風に遥か山上まで持ってゆかれた三十の皮凧が、火縄が燃えて
ゆくに従って、広瀬城のてっぺんから、ドドン、パチパチ火の粉をふかせ、火薬の力
で、それぞれ、
「ダガン、ドガン」の轟音凄まじく火炎の塊となって次々と落下しだした。これには、
「やや、大風で枯枝や何かが飛んでくるのは判るが、火の玉が降ってくるとはこれま
た何じゃ」
 現在は「御鍬社」の社堂が祀られている頂上の本丸では、すっかり城兵共が周章狼
狽した。
 まだ瓦屋根などはなく、城とはいえ茅葺きだった頃ゆえ、これに火の塊が落ちてき
ては、折柄の台風のように吹きまくるのに煽られて、みるみる内に丸焼けになるのは
判りきっているからして、
「さっさと早うに屋根へよじ登って‥‥火を消せや」
 てんでに風に吹きとばされそうになりながら、必死になって這い上がったところ、
これまた数が多く登りすぎて、屋根を支える棟木が折れてしまうという有様。そこで
あわてて城からとびだした連中は、矢作川の上の断崖にはられた縄にひっかかって水
中へ落下する者数知れずということになった。
『愛知県史』では、「永禄三年徳川氏に攻められ、城主三宅右衛門尉高貞は討死。城
は陥落しこれより廃墟となる」となっているが、このとき城はいくらか忘失したが、
実際に討死して落城したのは、実はこの三年後のことである。
 しかし、『愛知県史』というのは家康の第九子徳川義直が尾張徳川の始祖になった
藩史を採用しているが、それでも、「徳川」と「松平」を同一に扱わず、これを別個
に扱っている特徴がある。
 また、桶狭間合戦で今川義元を倒したのは織田信長一個の奮戦ということに通史は
なっている。
 しかし、お膝元の尾張徳川家では、
「信長を勝たせたのは徳川家の力である。神君家康公のお力添えとお導きによって織
田は今川に勝ち、またわが徳川家もあの戦さで開運の基をひらいたのだ」
という観念がはっきりしていたから、天明二年に藩学明倫堂をおこし、細井平州が学
館総裁になった時も、その後、文化八年[1811」に家田大峰が朱子学派を斥け総
裁になった時も、
「永禄三年庚申の年こそ徳川家発祥の年」というのが極めてはっきりしていたらしく、
室鳩巣が、
「その文章が簡易平実。条理をつくす」と激励した堀杏庵が、次子道隣を尾張宗春へ
仕えさせるため名古屋へきた時に著述したという『庚申闘記』にも、これは明白に書
かれていることである。が前述のごとく亨保七年(1722)十一月に、大岡越前守
忠相が日本最初の出版統制令をしき、
「権現さまの御儀は勿論、すべて御当家の御事の版行並びに写字本は自今無用に仕る
べく候」
 家康のことに一切ふれてはならないと厳罰令をしいたのも実は尾張の宗春侯に対し
てであった。
(松平蔵人元康が名をかえたのが徳川家康だ)と通説を林道春が『本朝編年史』で設
定してしまった後なので、
「若き日の神君二郎三郎が深謀をもって、信長を今川義元の本陣へ導いて裏切らせ殺
させた‥‥」
という尾張徳川家の所説は異端になるからして、林大学頭の朱子学派より苦情がでて、
御三家とはいいながら、ついに一人も尾張からは江戸の将軍家にはなっていない。そ
れ処か、その後は、宗春の子孫には六十二万石は継がされず、田安や一橋からの養子
が入って尾張領主になっている。
 さて私も尾張徳川家書物奉行が、代々受書をだして、名古屋城幅下(はばした)三
の丸の書庫で厳重保管されていた門外不出の、『厳神史巻・重代記』をみせて貰う迄
は、その大岡の布令は江戸時代の市井の作家へ下しおかれたものと思いこんでいた。
 ところが、重代記中の『章善院目録』によれば、その法令が出された目的相手たる
や、尾張七代宗春で、彼は筆墨や一切をとりあげられて「行跡好しからざるをもって
謹慎処分」と閉門にされているのである。
 故野村故堂の『万五郎青春記』を初め、多くの大衆小説はみな「宗春は次男で部屋
住みの頃、公儀に対して大活躍をした。そのため紀州の吉宗と将軍職を争って破れた
後は、放蕩三昧で天下御政道に楯をつき、元文四年「1739]に謹慎押込めにされ
たもの」とするが、実際は、前将軍家宣がその世継ぎにしようとしたのは、彼の兄の
継友の方であり、宗春は次男でも部屋住みではなく、「通春」の幼名で十四歳の時か
ら、奥州梁川三万石を継いでいたのである。
 そして兄の死により亨保十五年[1730]に尾張六十ニ万石の当主になると、
『温知知要』をまず著述したが、彼は自分は家康の玄孫にあたるという血の流れから
か、当時まだ尾張三河には、家康の伝承が数多く残っているのを、侍臣儒臣を動員し
て調べさせ、今でいう郷土史家の持っている史料を、殿様の権威で徹底的に集めさせ
たのである。ところが、
(松平家康は長顔だったのに徳川家康は丸顔だったとか、二人の家康は石ガ瀬と和田
山で再度戦さをしている)と、書物奉行付堀田恒山名で発表したものが、「徳川家の
御先祖が二人もいてはかなわん」と徳川宗家の忌諱にふれ、版木どころか筆墨や判紙
までとりあげの上で閉門に下されたのである。
 このため同じ御三家でも水戸学派は、『大日本史』の仕事で認められたが、名古屋
学派は、おかしな事を書く、裏目だといった具合に遇された。それゆえ維新に際して
も、かつて尾張の儒者で塙保己一の塾頭で盲目の師をたすけて『群書類従』を編纂し
た石原正明が、「本居宣長の古事記は、為にせんための手作りの歴史である」と例証
をあげ論難したのが、当時の神学国学派に嫌われ、名古屋学派は黙殺され今日に至っ
ている。
 しかし、「名古屋は日本の真ん中で別嬪さんが多いは、日本一」とか「名古屋は日
本の中京で」といった唄を幼時きき、のんびりと育った私にも、「尾張六十二万石を
棒にふってまで、真実を解明しようとした殿様の下で、幕末の田宮桂園に到るまで家
中全体が反骨一途だった名古屋武士道」というものも初めて判ったような気がするの
である。



              松平元康と対決

岡崎兵包囲

 さて、現在は豊橋市を流れる豊川の上流に大村町というのがあって、今では長瀬と
いう地名があるが、そこから当古(とつこ)橋を抜け三上の先へゆくと、「貝ヶ瀬」
というのがある。そしてこの中間の河原が、昔の「石ヶ瀬」なのである。
 川向うに今も「権現山」の名が残って、標高七百メートルの山頂にその霊を祀った
神社もある。
 なにしろ家康と元康が同一人という通説からゆくと、これは世にまことおかしなこ
とになるが、「永禄三年九月二日。岡崎城より攻めてきた松平元康の三河兵」と、
「駿河や遠江、それに伊勢や信濃の寄せ集め三百の兵を率いた後の徳川家康」が、そ
この石ヶ瀬で決戦をしたのである。
『張州付志』を編纂した尾張家書物奉行の松平君山の門人堀田恒山はどうも書きにく
いからして、『石ヶ瀬合戦始末記』なる古老よりの聞き伝え形式のもので残している
が、それによれば‥‥

 一晩に四つの城へ火を放って、ぐったり疲れきってしまった二郎三郎の一行が、当
古の渡しから和田の山へ入り、そこから別所街道へ抜けようとしたが、すっかりのび
きってしまい、
「すこしひと休みしてゆくか」と河原の薮草の茂みの中へ潜りこんで、そのまま綿の
ような手足を突っぱって、うとうと寝こんでしまったところへ、まるで降って湧いた
ように、
「やあやあ、そこなる野盗の類にもの申す。かくいうは松平入道のその昔より、この
三河にては、その人ありと知られし岡崎の松平蔵人元康なり」
という大音声が響いてきた。そこで二郎三郎もびっくりして跳ねおき、
「しまった。松平蔵人元康の姉婿が三宅光貞‥‥そうか、あやつらは義兄弟でありし
よな」
 今さらのように気づいたものの、すでに手遅れ。もはや葭っ原の四方を取りかこま
れ、ビュウン、ビュンと矢が雨のように浴びせかけられてくる始末。
「このままでは一人残らず押し包まれ皆殺しにされてしまう」
と、合図の呼子笛を吹きならし這いつくばって後退りし、河原の石ころのところまで
出ると、
「礫打ちせいやい」
すかさず二郎三郎は怒鳴った。なにしろ二郎三郎方の者は火矢を射ちこむために矢は
使い弓も放ってきているので、向こうの飛び道具に対応できるのは石ころしかない。
「おのれ、これでもくらえ」そこで両手に石をつかんでは、ぶっつけていると、背後
から水飛沫をあげて、「ヒヒイン」聴こえてくるのは馬の嘶(いなな)き。
「うむ。やつらは馬をもっている。蹄にかけられたら、われらは踏み潰されてしまう
わい」
 もはや河原に頑張っていては危ないと、なんとか引きあげさせようとしていると、
大身の槍で、
「おのれが賊徒の張本か」桐の紋を黒漆の胴鎧につけた鎧武者が、突き掛ってきた。
 それを身軽く打ち刀を引き抜きざま、さあっと薙いで払いのけ、
「われこそは新田義貞の末裔世良田の二郎三郎なり。近寄って怪我するなッ」
 下から、くわっとばかり睨みつければ、相手はそれへ、
「何をか申す。われこそは松平蔵人元康なり。いで、この槍先の錆にしてくれん」
 また槍の柄をたぐって、ひと突きにせんと掛ってくる。
 それを二郎三郎は丁々発止と防いでいたが、とても向こうが槍では防ぎきれない。
そこで、
「‥‥この顔をお見忘れにござるか」いきなり顎を突きだしてみせた。
「うぬは誰でありしか‥‥」これには元康も怪訝そうに聞き返した。
 すると二郎三郎は、からから笑ってのけ、
「その昔、宮ガ崎の人質屋敷に居られた頃、和子さまの遊び相手として参上していま
したる者」と、それに答えた。
「ややッ、それでは吾が子竹千代を誘拐し、逐電なしたるは汝なりしか。いざ返せ‥
‥」
 大身の槍の氷のごとくきらめく穂先を突きたてようとするのを、二郎三郎は後へと
びのきざま、
「おみさまが手前の胸板に、その槍先を突きたてられたら、不愍やお預かりの和子さ
まの御命はなくなるはず‥‥それでもよろしきや」諌めるように手をふって制した。
 これには蔵人元康も人の子の親である。くり出そうとした槍先もにぶってしまい、
「‥‥和子は息災か」さすがに息をのんで尋ねてきた。
「はい、おすこやかに渡らせられてござる」と、二郎三郎がそれに返事をすると、
「早うに戻してくりゃ、頼むぞ」いい残したまま馬にひと鞭、やむなく元康は去って
いった。
 しかし、そんな事とは知らぬ岡崎の兵は、
「ふといやつらだ。みな袋の鼠として叩っ殺してくれん」葭草の茂みをかき分け殺到
してくる。
 そこで二郎三郎の兵は鎧をぬぎすて川へ逃れ、これを泳いで渡ろうとすると、「逃
すものか」と矢をまた射かけられ、今度は河原まで出てきた岡崎兵が、あべこべに石
を拾っては投げつけてくる。
 だから対岸へようやく這いあがって数えてみると、明け方までは一人の怪我人もな
く、無傷だった三百が、今となっては岡崎兵にうたれて、半分もいない有様。
 さすがの二郎三郎も濡れ鼠となって胴震えしながら、
「わが事ここに終われりか」
 無念の歯がみをしていると、やはり命からがら逃げてきた酒井浄賢が、
「あれを御覧じなされませ。天はわれらを見棄てたまわず、ほれッ」と大声をあげた。
 指さす彼方。払楚(ふつそ)坂の方角から見えるは砂煙。そこで疲労困憊しきった
生残りの兵達も、
「われらは昨夜から四つの城攻めをして、くたくたになり、それに一食もとっており
申さぬゆえ、こてんぱんに三河兵にやられたなれど、菅沼より援軍がきてくれたとあ
っては、ここは一番、もう一押し頑張らずばなりますまい」みな元気をもりかえし、
濡らした槍の柄や打ち刀の柄に、すべり止めの砂をくっつけているところへ、
「やあ、やあ」大声をだしながら迫ってきた騎馬武者の面々の先頭の男は、近寄って
くるなり、
「うぬら卑怯にも、よくも空から火の玉を落しくさったな‥‥男らしゅう尋常に勝負
せい。かく申すは広瀬の城主三宅右衛門尉高貞なり」と、大音声をはりあげ恨みつら
みをいった。
「やや、これはしたり田峰菅沼より、われらの危急を知って加勢にきてくれたものと
ばかり思いこんでいたら、こりゃ昨夜、火を放ってきた広瀬三宅の兵か」酒井浄賢は
咽喉をならし声を震わせた。
「戻れば岡崎の兵。前は三宅の兵。われらは腹背に敵をうけた。かくなる上は死中に
活をみつけるしか助かる道はあるまい」二郎三郎は傍らにあった槍をもち直すなり、
「よっしゃ、わしと共に死ねるやつはついてこい」喚きたてるなり、砂塵をまき上げ
て肉薄してくる三宅方の集団めがけ、
「えい、地獄の道づれにしてくれんず」とばかり突入していった。こうなると他のも
のも、ここで取り残されたら、敵に寄ってたかって嬲り殺しにされるは眼にみえてい
るからして、
「ままよ、こうなりゃ」もうやけっぱちで槍をふるい、打ち刀を頭上にふりあげ、
「死なばもろとも」とばかり一団となって、わあっと押しよせる敵のまっ唯中へ殺到
していった。