1133 徳川家康 13

                 浜松曳馬城

犬居攻め

 現在の新浜松駅から市役所にかけ、紺屋町、連尺町、伝馬町、肴町、鍛冶町の一区
画がある。今は目ぬきの中心地だが、三世紀半前は、ここは町名でも知られるように
原住民部落だった。
 駿遠鉄道では、ここから二つ先に、曳馬の地名が残っているが、増築されて浜松城
になる前の曳馬城というのは、今の静岡大学教育学部のある「名城」から「亀山」へ
かけての、こじんまりしたもので、この時代は飯尾連竜の持城だった。つまり小高い
丘の上が城で、その下の沼地につながった日照りの悪い窪地の一帯が、「鐘打七変化」
のような村落になっていた。
 この飯尾連竜というのは、『松平記』や『家忠日記』によると、永禄八年十二月二
十日に今川義元の跡目の氏真によって、駿府ニの丸曲輪内の飯尾邸を包囲されて殺さ
れたとあり、『浜松御在城記』や『武徳編年集成』には、このとき飯尾の妻が薙刀を
ふるって今川方の百騎を手痛く斬り伏せたという、その女傑ぶりを讃えた話もでてい
る。そして、これらの徳川史料では、
「永禄十一年のこと。城主の飯尾連竜をうたれた後も、曳馬城を守っていた飯尾の家
老の江間安芸守や加賀守の三人が手引をして、家康は引佐郡細江の名倉赤八の案内で
遠江へ忍び、浜名郡宇布見(うふめ)の中村源左の世話で、川船で小薮村へでて、名
残にある普斉寺へ入り、そこで曳馬城の者だけではなく、堀江の大沢左衛門、頭陀寺
の松下加兵衛、久能の久能三郎左らの遠江の国侍を集めて、自分が曳馬城主になって、
これを大きく増築し浜松城とした」ということに作ってある。
 しかし家康を迎えた迎えたことになっている江間安芸守は、
「弟の加賀守を殺したため、自分もその家臣に突き殺されて城は無人になり、家康が
わけなく城とりした」という説も、『譜牒余録』や『菅沼家譜』にはでている。どっ
ちみち巧い具合に永禄十一年には、のち浜松の城とりをしたらしいが、このときはま
だそれより八年前のことである。

「おう、みんな早うに勢ぞろいせいや‥‥」と、桶狭間の先の田楽窪で今川勢の遺棄
死体から剥いできたり、放って逃げた武器物具の類を馬の背につけ分捕ってきた二郎
三郎の一行は、ひとまず曳馬の鐘打部落へ潜りこんできて、そこの男共に物具をつけ
させ槍をもたせると、
「われら軍勢が、一度に五百人にも増えよった」といった有様になった。それに、
「義元の本陣にあった安陪金山より掘りだした上洛用の軍資の金櫃を、そっくりこれ
また頂戴してきているゆえ、この分にては千あまりの軍兵を催すも、今となっては、
これはたやすき事」
「あの時、信長の後追いかけて褒美など貰うより、この方が良ろしゅうござりました
な」
 みな喜び勇んで元気づいた。そこでまた隴(ろう)を得て蜀をのぞむ心地か、
「あれにみえる曳馬の城など欲しゅうござる。これだけ頭数が増えては、やはり足場
とする城が入用でおじゃれば‥‥」などと口にする者もでてきた。
 二郎三郎とて思いは同じこと。五百からの家来をもつ身となると、やはり一つに纏
めていれておける建物が入用だし、またそうでないと、せっかく骨を折って集めてき
た武器をもたせても、今のままでは逃げだされないとも限らない。そこで、
「どうじゃろ。駿府の今川義元公のあのあえなき最期で、今や、この遠江もかなえを
わかつような大騒ぎ‥‥この混乱に乗ずれば、あの曳馬の城を攻めとるごときは、い
と手易いことと思うが」
 主だった者を集めて、一同に図った。すると血気にはやる大久保党の面々は、
「仰せのごとくにござ候。早速、てまえらに先駆けを御命じなされませ」
 今にも土居をかけ登って討ちこみそうな気負いをみせた。また、伊勢白子へひとま
ず戻って若者を集めてきて己れの手勢としている榊原小平太も、やはり同じことで、
「この先陣は、われら伊勢衆にお委せなされて下されえ」とはりきった。
 しかし渥美半島の大久保党や伊勢の榊原党と違って、土地者の遠江の連中は、それ
に対して、あまり双手をあげては賛成をしなかった。安倍大蔵のごときは難しい顔を
して、
「この浜松の庄というは、東は天竜、西は浜名湖、南は遠州灘から北は三方原の湿地
と四方を天険に囲まれた要害の地で、遠く鎌倉時代は天朝さま御直領。のち永仁四年
(1296年)より西園寺卿の領地。これを南北朝のとき、足利氏が奪って一門の吉
良さまの領地としたゆえ、のち寛正六年(1465年)に今川義忠が府中(静岡)城
を攻めたとき、吉良家で築いたのがあの曳馬城の初め。ところがその五十年後に、尾
張の守護職斯波氏を迎えた吉良の代官大河内備中守が、この曳馬城をもって今川に楯
をついたために、今川義元の父氏親が飯尾賢達と共にここを攻め、大河内を殺し斯波
氏を捕虜となしたるゆえ、ここは飯尾氏の持城となったる由緒ある城‥‥」
と縁起を説き軽挙をいましめ首をふれば、
「それに玄黙口の左右は、底なしといわれる古い溜池で囲まれ、名残口はこれまた深
沼で舟で出入するしかなく、ここの清水谷から、すぐにも手が届きよじ登れるように
みえても、塀の裏側には巨石や材木が積んであって、もし此処から攻めたてれば、上
の支え綱が切って落され、落下する石や材木の下敷にされるは必定」板倉弾正が指さ
しながら説明した。しかし二郎三郎は、それでも承服せず、
「要害の地を占める由緒ある城ゆえ、わしは欲しいのじゃ」といいはった。
 しかし板倉弾正は手をふってそれをおしとどめ、
「あくまで御執心なら、われらも尽力しまするが、今といって直ぐは無理な話‥‥城
内から手引してくれる者を見つけ、巧くやらねば入手できませぬゆえ、それまではお
待ちなされましょう」
と諌言をした。すると新しく徒党に加わった鳥居忠吉父子が、
「秘かに三河松平の跡目を掛塚においていられる由なれば、われらはそれを奉じて三
河へこそ討ちこむがしかるべく‥‥」遠慮しがちに進言した。しかし、これには鵜殿
五郎とよぶ、この部落の若者頭が、
「三河などより、やはりこの遠江にて御運をひらかれるこそ肝要」腕まくりして前へ
進みでるなり、
「遠州周知郡の犬居城へ、先般ここの部落の者二十名が薪とりという名目でつれてゆ
かれ、城内におりますれば、われらさえがその気になって巧く彼らと連絡をとれば、
向こうは手引して城内へ導き入れ、赤子の手をねじるよりたやすく城とりはできまし
ょう」といいだした。これに酒井浄賢が、
「そりゃ何よりのこと」と膝頭を叩き、
「噂によれば城主天野宮内右衛門というは、昨冬より病の床にあって明日をも知れぬ
身とか。よって今般の今川義元の上洛にも、御免こうむって代理をたて参軍しなかっ
たとかの話‥‥城主が病気の犬居城内に、此方の者が入りこんでいるとあっては、こ
りゃ鬼に金棒」
 すっかり満足そうに一同を見渡した。そのため話のあらかたを聞いていた一座の者
も、
「願ったりかなったりの良き話。ものは最初が肝心と申すゆえ、攻めにくいのを無理
じいして落すより、まず手始めは取りやすい城をこそ攻めたてん」すぐさまこれに同
意した。
「しからばみんなの者の望むように、ではそうすることに致そうか」仕方なく二郎三
郎もうなずいた。
 そこで夜の内に天竜川の流れをわたって、人目につかぬよう分散して薬師堂へでた。
 そこで、その先の白馬部落から荷物かつぎと飯たきに百名あまりを雇い入れ勢揃い
させたところ、
「どうせ攻めれば、すぐさま落城するは眼にみえたこと‥‥すりゃ新しい住いになる
ことゆえ、新しい薪など持って行くに限るて」みな引っ越しのように、それぞれ大荷
物を背負い、中には世帯をすぐもてるように女連れの者たちも混じっている有様。
 これには二郎三郎も眼をむいたが、せっかく士気軒昂としているものを押さえだて
することもない。
「まあ確かりやれ、よいな」と、これを率いて、折からの満月を幸いに夜行軍して、
日の出前に犬居城へと近寄った。
 いまは森町になっている辺りで、なだらかな土地だから、犬居の城というのは小高
い所をえらんで、そこへ土をもりあげ固めて、上に平屋の館が建っているきりのもの
である。
「夜通し歩いてきたゆえ、たとえ一刻でもニ刻でも寝て、それから城攻めすべし」
と二郎三郎は用心したが、はやりたった連中は、みな競いあってしまって、
「高がこれ位の小城、こりゃ朝飯前の仕事でござる」てんでに城を四方から取り巻い
てしまった。

 犬居城主の天野宮内右衛門は今でいう呼吸器疾患、当時でいう労咳で、これで年余
病床についていたが、突如として、「ワアッ」ときこえてきた矢声に、さすがにきっ
として身体を起すなり、
「何やらが押しよせたぞ」と呼ばわった。それゆえ傍らに寝ていた妻の阿也が、
「ただ今みて参りまする」すばやく白晒の寝間着に襷をかけ、長押(なげし)の薙刀
をおろして抱えこみ、
「みな、起きや」とよばわりつつ、まだ夜明け前の冷んやりする廊下を駆けてゆけば、
侍女どもも、
「‥‥すわッ一大事」とばかり、頭に鉢巻をしめて、その後を追った。
 しかし夏の空は明けやすいから、物見櫓に登った頃は、まだ丸い月が残ってはいる
ものの、薄紫色に空も明るみをみせ、じっと眼をこらしていると、やがて城の四方に
群がっている敵の姿が朧げながらみえてきた。
 それゆえ阿也は、きっとはしたが、
「押しよせてきたは命令をうけつつ参軍せなんだ意趣ばらしに、今川さまが攻めてご
ざったのかと思えば、丸にニ引きどころか、なんの旗指物さえ見当たらぬ‥‥こりゃ
何としたことか」
 すっかり首を傾げてしまい、後を追って櫓へ登ってきた侍女や武者共に、
「そなたらは、あれなる敵を何とみるかや」尋ねたところ、みな小手をかざして眺め
回したあげく、
「はっきりは判りませぬが、旗も馬印もなく、それに四方よりめいめい抜け駆けにて
攻めよせて参りまする具合では、隊伍の整った軍勢とも見えませぬ」
 誰のみる眼も同じらしく、どうも野伏りの一揆ではなかろうか、ということになっ
た。
 それをきくと阿也もうなずき、
「わらわも同じに思う。由なき一揆ばらに包囲されたとて何程の事やあらん‥‥これ
しきの事にて病床の殿をお騒がせ申しては、お身体にさしさわるやも知れぬゆえ、こ
こは吾らだけにて追い散らしてみせん」と櫓の上に集った者共にいえば、
「殿の御身をいたわって、この一年余りつきっきりの介抱をされていなさる奥方さま
の、お情けあつきそのお言葉‥‥喜んでわれらも追い散らしてお目にかけるでござろ
う」
 武者大将が一同を代表するように、それに答えてから、
「敵は何百ありとても、すべて烏合の衆なるぞ」と部下の者らにいってきかせ、
「親代々弓矢とる身が、一揆ばらにやられる事やある。一人残らずひっとらえ、頭を
かちわって脳味噌をとって団子とし、乾しかためてしまえ」と、虎髭をひねりつつ大
音声に呼ばわると、
「押しよせてきた奴らの着ている布子や桶皮胴‥‥それに武器の類も仕止めた者に預
けまするのか」
 念押しをするように声をかけてくる者もいたが、それには阿也が、
「分捕った品は、それぞれの取り分。頭をかち割って取り出した脳味噌は、唐人(か
らうど)の生薬屋に卸して銭にかえ、それで皆に酒(ささ)など振舞って進ぜよう程
に」と受けあった。
 すると、阿也には聞えぬように、そっと、武者大将のほうへおそるおそる伺いを、
「女の姿もみえまするが、あれもわれらの勝手次第でござりましょうか」と、たてる
者もいた。
「いうにゃ及ぶ。手柄次第で、捕えた女は回してつかわす」と答えれば城兵は勇みた
ち、
「とんで灯に入る夏の虫とは、このこと。ようも、わざわざ押しかけてきたものよ」
「それッ、せっかくの獲物を取りこぼしのないように、うまく仕止めないかんずら」
 みな張りきってしまい、土塁の上の板塀の裏へ、かねての分担通りにかけよると、
「さあこい来れ」とばかり、間近まで引きよせておいて、無駄矢のないように狙って
は次々と倒し、土塁の下に重なっているのには、上から石を転がしてこれを押し潰す。
 阿也の方は、ひとまず戻って天野宮内右衛門に、
「たかの知れた一揆ばらゆえ、われらにお委せなされ、お心やすらにお休みなされま
せ」
 両手をついて挨拶してから、鎧櫃の中から天野家重代の笹竜胆の鎧をとりだし、
「これをお借りしますること、ひとつお許しなされましょう」
 侍女に手伝わせて身にまとうと、銀の前立うった、しころ兜を、
「‥‥重やのう」とは口にしながらも頭にのせ、その中へ長い髪毛をまるめてたくし
こむなり、また物見櫓の上へとって返し、大声の出せる者をよんで、これに、
「やあやあ、不意に不意に押し寄せてきおったは一体何処の一揆くずれぞ。かくいう
は、当犬居城主天野宮内右衛門なり。打物とって、いざや見参々々」四方に向かって
繰り返し順々に怒鳴らせた。
 もちろん近くへ寄ってみれば、顔も覗けたろうが、櫓の上で、折からさしてきた朝
日に金具をぴかぴかさせた大鎧をきているから、
「はて、病気で死にかけときいていたに、城主の天野めは、あないにぴんぴんしてい
てか」
 先頭になって押寄せてきた連中は、すっかり肝を冷やしてしまい、まっ先かけて突
進したので、矢に射られたり投石で傷つけられた大久保党のごときは、
「思いの外に手強い抵抗ぶりは、さては城主めが陣頭指揮しおっているせいでありし
か」
 口惜しがって歯ぎしりしたが、なにしろ天野の鎧姿がみえだしてからは、寄手はす
っかり当てが違ってしまい、意気を呑まれてしまって消沈。
「こんなはずではなかったに、えい情けなき味方のやつばら‥‥」
と鵜沼五郎が城内に入っている部落の者に、何とかして連絡をつけ、城門をあけさせ
るか塀の何処かの潜り戸をひろげさせようと、羊歯茂る窪地を這って近づこうとする
が、ビュンビュン石ころがとんできて危なくて仕方がない。そのうちに酒井浄賢が肩
に矢をうけてしまい、気息奄々(えんえん)たる有様で、れんげの白い花が流血で赤
く染まった野原を這うように進んでくるなり、
「とてもいけませぬ‥‥ひとまず引揚げんことには‥‥これでは持ちませぬ」
 二郎三郎の許へきて訴えた。安倍大蔵も投石で頭にこぶをつけられたのをしきりに
撫ぜながら、
「どうもいけませぬな、予想に反して余りにも手強すぎまする」
 弟の四郎平と共に攻撃中止方をもとめてきた。しかし二郎三郎は、
「うむ」といったまま、当惑しきっていた。なにしろ、てんでばらばらに攻めかかっ
て、思いもかけぬ城兵の反撃にあったから、収拾のつかぬ状態に追いこまれていたか
らである。そこで、
「引き鐘でも打たせたいが、鐘一つ持ってきてはおらんで‥‥」
 そうして呼び集めようかと思案しているやさき、犬居城の正門がさあっと観音開き
にあいた。
 鵜殿五郎は、てっきり城内に入っている者共が、秘かに正面の板戸を開けたものと
思ったので、
「それッ、者共ッ続け」とばかり槍を握りしめるなり、羊歯に足をとられながら駆け
こんで行った。
 鵜殿についてやってきた二十名あまりは、一緒に突入していったが、他の者はもう
へたばってしまって後に続くどころではない。
「よしッ、今の内に逃げろ‥‥」とばかりあべこべに光明山の方角へ、たけなすオオ
ハギボウシの白い花の咲く野原を、みな尻に帆かけて駆けだして行ってしまった。
 すると勇ましく城の大手門から飛び込んだはずの鵜殿五郎たちも血相をかえ、
「大変だ、城の中へ入ったら敵ばかりだったぞ」
 飛び出してくるなり大久保坂の方へと逃げた。しかし城の大手門をあけたのは向こ
うの都合だった。
 そこで馬にのった阿也を先頭に犬居の城兵共は、勢揃いしてそこからくり出してく
ると、
「おのれ理不尽に押しかけて来おって、勝手に退散してゆく事やある」
「鎧を脱ぎすて、槍を放ってゆけ」
 口々に呼ばわりながら追いすがってくる。
 そこで鵜殿五郎らは逃げながら、「仕方がないわい」と走りながら鎧をはずして脱
ぎ棄て、手にした槍や腰にした打ち刀まで放り出して駆けてゆくと、
「まだ着ている布もおいてゆけ」背後からよびかけてくる。だから、
「命あっての物種じゃ。これじゃあ身ぐるみはいでゆかざぁなるまい」
 てんでに裸になって落ちてゆくと、やがて追いついてきた城兵は、
「唐人の生薬屋に六神丸の原料として、汝らのど頭かち割って味噌をとって売り、そ
の銭で酒を買うことになっとるんじゃ。さあ、そのど頭おいてゆかんしょ」
というので鵜殿五郎ら曳馬部落の若者二十名あまりが、やむなくついに大久保坂の榎
樹のあたりで、あえない最期をとべ、首をもぎ取られた。
 さて、『家伝史料・杏花園随筆』などに、どの時の戦さとは明らかにされてはいな
いが、
「神君家康公御運を逸され申候て光明山の谷間にひそまれ、粟餅にて餓えをしのぎ給
い、やがて染衣をまとわれ駄馬に身をたくし、やがて周智郡より落ちてゆかれしが、
神君御仁慈にましまさば、のち馬をさし出せし者には扇子、隠れ家にて粟餅を奉りし
者には御衣などの授け物をなされ、右の者ら孫代々名誉の品を相い伝え今日に相い到
る」とでているのが、この時の模様である。
 光明谷というのは、大久保坂をおりきった窪地のところなので、犬居の城兵たちは
鵜殿らの首級を手に入れたゆえ、それで満足して深追いはせず引き揚げてしまったの
か。または、この後で、
「飯尾豊前守連竜の妻と並んで、犬居天野の阿也女も、剛力にていつも鎧をつけて兵
を率い戦う」
と、『遠江記』にあるから、折柄の暑さには女人の阿也がへこたれてしまい、
「もはや、これ位で良かろう」と引揚げてしまっていたかの、どちらかであろう。ま
た、
『大成記』に、
「ここに大蔵の弟安倍五郎兵衛忠次(四郎平)は、兄と志を同じゅうするものなれば、
染衣の姿となりて所々を駆けめぐり、さまざまに心をくだくというも、今だに天の助
けるところとならず、ようやく掛塚にまで立ち戻りて‥‥」などと出ているのも、こ
の犬居城攻めで、たかをくくって押しかけたばかりに大敗し、支離滅裂の有様でみな
命からがら逃げのびた状景の一部の描写らしい。
 また村岡素一郎の、『史疑徳川家康』では、あっさりと、
「このとき浜松城(まだ曳馬城)は井伊氏の一族が守っていた(飯尾連竜の間違い)
が、世良田二郎三郎元信の一党は、深夜、城の側の大安寺(頭陀寺の間違い)の大伽
藍に火を放ち、城兵が消火のために門をあけて外へでてきたところへ打入り、ついに
城とりをした。つまり、<始発義軍於浜松>という神君家康の故事はこれをさすもの
である」
となっているが、その頭陀寺文書の永禄七年十二月二日付今川氏真より千手院日瑜
(せんじゅいんにちゆ)宛の判物では、
「曳馬城主飯尾豊前守このたび逆心のところを赦免したが、頭陀寺城にいた千手院は
一味しなかったのは忠節である」と賞めてあるのには、まだ城主は飯尾になっている
し、その三年後の永禄十年三月二十日付の今川氏真の判物で、初めて、
「放火されて頭陀寺城の十二坊は今度悉く焼失。周囲の堂舎も乱入されて大破」
とあるのが現存しているから、初めて義軍を発したのは浜松に近いが負けた犬居の方
であって、曳馬を城どりして浜松城にしたのは、これは七年後の永禄十年三月以降と
みるのが正しいようである。


山家三方衆

「恐れながら、ここにおわせられるは、駿府宮ガ崎の館より移られましたる御幼君に
ござりませぬか‥‥」掛塚の鍛冶屋、服部平太の許を訪れてきたのは、三河の地侍で
石川四郎と平岩七之助を名のる両名であった。
「すわこそ松平蔵人元康のいいつけで‥‥取り返しに来おったのか」
 みな色めきたって顔色をかえた。なにしろ組みし易しと犬居城攻めをしたのが誤り
で、あべこべに反撃されてしまい、せっかく六百余りに盛りあげた人数も四離四散。
仕方なくまた元の古巣に引っ込んでいる一党である。そこで自分らにとって切り札も
同然の松平蔵人の世継ぎを奪われては大変と、
「ここには、そないな若者などおらぬわい‥‥いま婢女が、どんぐりころころと木の
実で遊ばせていたは、これなる二郎三郎の殿とここの阿愛さまとの間のお子じゃぞ」
と、板倉弾正が腕まくりして戸口へ顔を出すなり追いたてにかかった。
 もしも大事になってはと心配した二郎三郎も、大きな顔をのぞかせて、
「あれなる和子はわが伜じゃが‥‥」と、柏の樹の下で、のち岡崎三郎信康となる幼
児を抱え、恐ろしそうに震えている鍛冶屋の婢女を手招きして呼び寄せるなり、
「さあ戻すがよい」と幼児をおのれの腕にかかえ、二郎三郎は顔をつけるようにすり
よせてからが、
「どうじゃ実の父子ぞ。そっくりであろうがのう」と煙にまくように、にこにこして
みせた。
 すると訪れてきた石川四郎(のち石川与七郎伯耆守数正)が、小屋の中の安倍大蔵
を見つけるなり、
「おう懐かしや、ここにいてござったのか」大きな声をはりあげた。すると呼ばれた
方も、
「そういうは四郎ではないか」鬼瓦のような顔を逆撫でしつつ、つかつかと近よって
くるなり、
「おう七もきていてか‥‥」と、平岩七之助(のち平岩主計頭親吉)の肩を叩き、さ
れ改まって、
「これらの者は決してご心配はいらぬ稗組の者らにござりますれば‥‥」と、二郎三
郎に告げ、脇から酒井浄賢(のち酒井左衛門尉忠次)が割り込むようにして、まだ知
らぬ二人を用心しつつ、
「なんじゃ、その稗組とかいうのは」
ときけば、安倍大蔵は二人の方に話してもよいかと眼を向けてからが、
「実は三河の松平蔵人元康さまが駿府へ人質として住まわれてからは、岡崎城へ輪番
に今川衆が城代としてござらっしゃって‥‥これが領内の米麦粟の類までみな取り上
げて駿府へ送ってしまわれ、岡崎城士分で武者別帳にのっている者といえど、ひと握
りの扶持米も頂けませぬ。よって、こうなったら稗などにてあれ食せねば生きてゆけ
ぬと、戦さ御用にばかり狩り出される士分をやめてしまい、俄か百姓に戻ってしまっ
た者らを、三河では『稗組』と申すのでござります」
 二人に代って説明をした。そこで酒井浄賢が居ずまいを正してから、
「今の話は、まことその通りに相違ないか‥‥」
 念のため確かめたところ、揃ってそれに合点してみせてから石川四郎が、ひと膝前
へのりだして、
「桶狭間合戦にて駿河御所さまが討たれ給い、これまで岡崎城の城代をしていた者ら
も駿府へ逃げ帰り、松平蔵人元康さま城主としてお戻り頂けましたゆえ、われは帰参
方を願いにお城へ参りましたるところ‥‥己れの都合にて進退をなし留守番をおろそ
かにし、勝手に土いじりなどしくさっていた奴らは、もはや必要ないとつれない仰せ
‥‥そこでわれらは当代元康の殿さまにお目にかけて頂けないのなら、せめてご幼君
さまに奉公せんと腹をきめ、かくはお探し申して参った次第にござりまする」
と、平岩七之助もろとも頭を深々とさげた。
「なんじゃ。それなら芝居をせんでもよかったのか」
 二郎三郎も苦笑して抱いていた子供を婢女に戻してから、酒井浄賢に、
「われらの手勢も今は人べりしていることだし、これらの者を徒党に加えてやるがよ
かろう」
と言い残すなり、もとへ戻った。そこで浄賢も、すぐさま笑顔となって、
「われらの仲間には三河者があまりおらず困っていたところだが、ご両所のような豪
傑が加わって下さるとは有難いことじゃ。地酒じゃが盃固めに一献まいろう」
と、小屋の中へ招じ入れた。そして一同の顔つなぎの酒盛りとなったところで、
「われらが松平家跡目の幼君を奉じて立つとなると、どうしても邪魔になるのは、あ
の頑固ものの元康の殿」という物騒な話になってしまった。そのうちに、石川四郎が
想いだしたように、
「元康の殿は吾らは不要じゃとお目通りも許されなんだが‥‥安倍大蔵どのは松平家
代々の御旗奉行ゆえ、なんとかして探し出せとの思召のようじゃ。おぬしは帰参がか
なう。ひとつ岡崎へ戻ったらどうじゃ」といいだした。それゆえ平岩七之助も羨まし
げに、
「御旗奉行にまた戻れるとは願ってもない好運じゃ。おみさまは早速に戻られて、蔵
人元康さまに奉公させるがよろしかろうに」
 しきりにすすめだした。しかし、いくらいわれても、これには安倍大蔵も苦笑する
のみで、
「今さら戻り新参をして岡崎城へ仕え、なんとするか」
 歯牙にもかけぬように豪傑笑いをしてしまったが、このとき二郎三郎と酒井浄賢は、
はっと思いついたように互いに顔を見交わして、眼と眼でうなずきあった。

 三河八名郡に白山神社の拝み堂があって、そこらあたりを中島郷とよぶ。
 平岩七之助の伯父が、ここの修験者として住みついているから、
「いつまで掛塚にくすぶっていても仕方がない。我ら星雲の志をもつ者は、進んで事
にあたるしかない」という二郎三郎の意見のもとに、この中島へきた一行は、山がつ
の樵夫に木を切り出して貰い、
「城とりするは難しいが、われらの手で築くのなら」と、ここに山砦を作った。
 さて三河のこの山岳地方には、北設楽(しだら)郡田峰の菅沼と、南設楽郡長篠の
菅沼。それに同郡作手(つくで)の奥平と三つの豪族がいて、これが世に名高い、
「山家三方衆」である。この中の奥平の信昌はのち長篠城主となって有名になるが、
当時この豪族たちは三つ巴になって争っていた。
 つまり長篠の菅沼は今川を後楯にし、奥平は織田方に頼って、この両方が田峰城主
菅沼定継を殺し、この頃は、「小法師」とよばれる十歳の少年が跡目についていた。
 この田峰というのは、信濃からの伊奈街道が曲がる所で、そこから寒狭川をこえた
ところに中島郷がある。だから、この小法師が家来の者を従えて遠のりにやってくる
と、中島の白山堂のところで大勢の人間が、皮付丸太を組んだり縄で縛って、しきり
と工事をしている。
 子供のことなので小法師は、つかつかと側へよってゆき、
「これは何をしているのか」と近寄っていった。この豊川の流域には道井と野田の中
間には、「新城(にいしろ)」とよぶ小法師の砦もあることなので、子供ながら怪し
んで誰何(すいか)をしたのである。
 しかし工事の宰領をしている二郎三郎は、まさか少年が田峰菅沼の当主だとは気づ
かぬから、
「おう、ここへござれ、抱っこしてつかわそう」
 掛塚へおいてきた二歳の幼児のようなつもりで、心やすく手招きして呼びよせた。
すると、小法師も子供のことゆえ、なんの気もなしに側へ寄ってゆくなり二郎三郎に
抱かれた。
 これには付き従っている菅沼の家来の方がびっくりしてしまい、
「これ殿ッ」あわてて小法師を叱った。しかし、これには二郎三郎の方が面喰らって
しまい、
「と、との‥‥というのか」すこし吃って聞き返した。そこで家来共は、きっとして、
「それにおわすは‥‥田峰の菅沼小法師定吉の殿であるぞ」と二郎三郎にいいわたし
た。
 のち小法師は刑部少輔を名のり家康に属するようになるのだが、少年とはいえ五万
貫の跡目だから五万石の大名に当り遥かに身分が高い。そこで二郎三郎だけでなく酒
井浄賢らも一斉に手をついて、
「うへえッ」と挨拶したところ、小法師についてきた年輩の一人が、
「わしらは双瀬(なうぜ)の砦を預かる菅沼の重臣で、林左京亮というものである」
と自分から名のり、
「ここへ砦を築くからにはわが領分、よって其方らは吾らに協力してくれねば相なる
まいが‥‥」
 じっと二郎三郎に眼をそそぎ、さておもむろに、
「西加茂の鈴木重教が、われらに叛き征伐せねばならんところだが。ひとつ、やって
くれぬか」
と、薮から棒に話をきりだしてきた。これには一同びっくりした。


三河三宅一族

 鈴木重教の守っている寺部城というのは、今は豊田市寺部町二丁目になっていて跡
形もろくに残っていないが、この時の二年前の永禄元年に今川義元から松平重吉をさ
し向けられたが、これを撃退したという要害である。つまり林左京亮は、二郎三郎の
一党を風来坊とみてとって、鈴木征伐に、これを棄て殺しにするつもりでいいつけた
のだが、
「あわれ父を殺され十歳の子が殿さまでは、さぞかし大変であろう。義をみてせざる
は勇なきなりとは、このことならん」と二郎三郎は義侠心から引きうけてしまう羽目
となった。
 さてそこでその昔、由良党の立篭っていた砦跡に塀をはりめぐらし、そこへ棒杭を
うって俄か仕立ての物見櫓をたてて、ここも中島砦を預けた板倉弾正に命じて共に守
らせた。
 いざという時の足場にするのには、数が多い程よいと用心したためでもあった。そ
して出来上がると、
「それッ」とばかり、犬居城攻めの生き残りや逃げ残りの三百あまりの手勢で寺部城
へおしかけた。
 だが、なにしろ前でこりているから、今度は慎重に竹笛をつくって、これを呼子笛
にして連絡をとることにし、城へ近よっても一気に攻めかかるようなことはせず、
「まず‥‥枯枝や枯芝の類を集めい」と、てんでに手分けして燃えそうなものを集め
て、これを風上にもっていって山のように三ヵ所に積み上げると、
「火をつけい」と、一斉に点火させた。燻しだしてしまおうという焼討ち作戦である。
 これには城主鈴木重教もびっくりして、
「何奴であるか。煙たいではないか」
 すぐさま風下になっている追手門をあけ、討って出たが、初めから此方から出撃し
てくることは判り切っていたから、点火する前に秘かに落し穴をいくつも掘っておい
た。
 そこで煙に追われてむせびながら出てきた寺部の城兵は、あちらこちらにある落し
穴に、
「しまった」と次々に転げ落ちると二郎三郎は、ここぞとばかり「ピイッ」と呼子笛
を吹きならす。
 すると葉隠れに匿れていた連中が、
「わあッ」おどり出してきて、穴に落ちた連中を上から盲滅法に槍で突き刺し片づけ
てしまい。
「これは幸先よろしゅうござる。この分ならば、寺部の城を落してしまうも、わけな
きこと」
 すっかり酒井浄賢は喜び勇んだが、二郎三郎は、
「深追いして、また犬居城の二の舞をすることやある。ここは田峰に頼まれての懲ら
しめのための出陣‥‥これだけ苦しめれば充分であろう」というので、頃合いを見計
らって呼子を、
「ピイッ、ピイッ、ピイッ」三度鳴らして兵を集めると、さっさと加茂の山道を中島
の砦へ引きあげてしまった。
 軍監という軍さ目付の恰好で、これについていった林左京亮の家来はすっかり仰天
してしまい、
「あれはとんでもない者共です。流れ者の浮浪のつもりで同行しましたが、二郎三郎
という若い大将の命令一下、まるで糸であやつられるような駆引きぶりで、寺部城の
外板塀まで焼いてしまって、城兵を外に導きだしたが、これを前もって掘ってあった
落し穴にはめてしまう始末。さすが強気の城主鈴木重教も散々なていたらく‥‥」
と、戻ってくるなり報告をした。
 これには林左京亮も半信半疑ながら舌をまき、今度は前と違って礼を厚くし、小法
師からとして中島砦へ白米百俵を荒し子の者らに運ばせ、その労をねぎらってから、
「ひとつ、ものはついでといっては恐れ入るが、われらにとっては眼の上の瘤の三宅
の城を、ひとつなんとかお力によって‥‥」両手をついて、二郎三郎に頭を下げ頼み
こんだ。