1129 徳川家康  9

「どうにか武具の見通しは段々についてきたが、さてこれからどうするか」
 鍛冶屋を手伝って汗まみれになった連中が川へ行って、そこで水浴びをすませ納屋
へ戻ってくると、こういう話が夜ごとに皆の口から出るようになった。
 初めのうちこそ、今川義元の上洛する軍勢に加えて貰って、そこで、ひと働きと思
っていたのだが、なんとか自分らの手で武器や人数も揃えられる見通しがついてくる
と、
「鶏頭となるも牛後になるなかれという諺がある‥‥」といい出す者の出てきて、
「なんとか我々だけで、一旗あげようではないか」みなそういう望みをもちだした。
 さて、新田義貞の末脈が、江田、世良田、徳川の三つに分かれているのを聞かされ
てから、幼い時に自分を置き去りにしていなくなった父の江田松本坊の姓をとるのは、
(あれから苦労して愚痴ばかりいっていた母や、祖母の源応尼に悪い)と考え、次の
「世良田」姓をとって、ここに「世良田二郎三郎」を名のるようになっていた次郎は、
「‥‥みんなが、そういう意見なら、こりゃア、やってやれないこともなかろ」
と、いろいろ考えたすえらしくいい出した。それゆえ、
「して、その案とは?」酒井浄賢が一同を代表して尋ねると、
「尾張の織田信長との間に盟約ができ次第、近く始まる駿河御所御上洛の出陣にあた
って、どうも先陣をいいつけられるのは、今まで同様に三河党とみるべきだろう」ま
ず次郎はいってのけた。
「‥‥いかにも仰せ通りであろう」これには安倍大蔵も同感らしく、うなずいた。す
ると、
「‥‥これまでは当主の松平蔵人元康どのを狐ガ崎の人質屋敷へ入れておき、今川勢
は松平の家臣ばかりいつも弾丸よけにまっ先に押し出し使っていたが、今度は松平元
康その人を戦さにだし、首尾よく先駆けの役目をはたせば三河岡崎城を戻してやろう
と、そないな飴で釣って働かせよう魂胆‥‥といわっしゃるのじゃろ」
 大久保甚四郎が口にした。板倉弾正もそれまで眼をとじ、ひとりでうなずいていた
が、
「上洛の軍勢は駿河遠江三河、そして尾張までは無事に通れても、伊勢路から京へか
けては、みすみす次の足利将軍になろうとする今川義元を、素通りさせようとする者
はなく、その辺りで激戦の一つや二つはあるが当然‥‥すりゃ、先駆けの松平元康は
無事で済もうはずはない」と口をはさんだ。
「そうじゃ。そこのところじゃ‥‥松平元康どのが今川の走狗となって討死すれば、
義元は子飼いの旗本や譜代の血をあまり流さず、おのれの勢力をそのまま無事に京都
へもってゆけるし、また三河一国も元康さえなきものとすれば、まるまるおのれの領
国にさせられるというもの」
 酒井浄賢もそれにうなずいた。すると、伊勢の白子浦から掛塚へきたまま、新しく
この一党に加わってしまった榊原小平太が、
「これまでの三河は、当主を人質にとられ、領米はみな岡崎へきている今川衆の手で
駿府へ送られ、侍どもは戦さのたびに棄て殺しにされ、野末の露とされ草葉の肥やし
にされ‥‥まったく踏んだり蹴ったりの目にあわされている。なのに、この上とも、
その当主を失うとあらば、こりゃどうなるのじゃろ‥‥のう」首を傾げていたが、そ
こで一同をぐるっと見渡すと、
「いくらなんでも当主を失って穏やかですむわけはない‥‥三河は一揆になるに相違
ない」
 はっきりいってのけた。すると浄賢が、赫ら顔をつきだし、
「ならば、今の内に、元康さまのところのあの和子をば‥‥」次郎に向かって声をか
けた。
「うん。三河の当主の跡継ぎを、われらが押さえておけば、こりゃ三河一国をやがて
は握れるだろう」
 いまは世良田二郎三郎と名のる次郎も、これには合点した。そして、
「よし、そうと話が決ったからには、これから、あの和子を頂きにゆこう。なにしろ
わしは、あの屋敷に出入りして、柿の実などをとってやり顔馴染じゃから大丈夫‥‥
それに乳母として勤めておるものもわしの縁者ゆえ、こりゃ委しておいて頂こうかい」
すぐにも出かけようとした。すると浄賢が、
「多人数でゆくは人目についてまずいが、それかといって唯の一人では心許ない。ま
あ、このわしだけはお供につれて行きなされ」新しい草鞋を二つもってきた。
「今川家で張り番をつけている人質屋敷から、和子をひそかに連れだすとなると、二
人では心許ない」
 大久保甚四郎などは心配して、自分らも同行しようとしたが、
「なんの、なんの」次郎は頭でっかちの顔をふって、浄賢を二人で、さっさと白いウ
ツギの花の咲きだした丘から、駿河の府中へ向けて出発してしまった。

「どうじゃろか、巧くいってくれればよいが‥‥」
「なんせ、われらの大将になられる方が、じきじきの出馬ゆえ、こりゃ待っておる方
が気がかりじゃのう」見送って出したものの、さすがに気になって榊原小平太が、安
否如何と待ちかまえていると、三日目の夕焼け空が赤くもえている頃合い、
「ばあ、ばあ、よし、よし」とあやしながら次郎が二歳になる和子を背負って戻って
きた。
 一同の者は愁眉をひらいて、
「よおこそ、ご無事に‥‥」てんでに納屋からとび出して行って迎えたが、
「‥‥あんたァ」血相をかえたあいが母屋の方からとび出してくるなり、
「こない隠し子を大きな顔して連れ戻ってくるとは、あんまりな」
 いきなり次郎にむしゃぶりつき、
「くやしい‥‥」といいざま、わんわん声をはりあげて泣き喚きだした。
「‥‥これさ、違うのじゃわ」あわてた浄賢が脇からなんとか宥めようとしても、そ
こは初めに一旦こうと思いこんだら、もう変えようのない女のこと、
「うらめしや」「だまされた」と騒ぎだし、鍛冶屋の平太夫婦もとび出してくる始末
となった。
 ----さて、この時の事。次郎は大河内源三郎の妻である乳母の協力のもとに、竹千
代を拐して、慈悲尾の増善寺へひとまず逃げこんで、ここで二日程匿れていたあと、
その寺の等善坊の助けで小舟をかりだして、寺男の瀬平が葛篭(つづら)に竹千代を
匿し、共に石田湊にでて掛塚へ戻った。
 次郎が徳川家をもって天下を征圧したあと。
 等善坊は、この時の手柄で遠州可睡斎という拝み堂を新築して貰い、土地では、
「恩禄をえた有徳な修験者」として評判だった。寺男瀬平も、神君より召し出されて、
「味知」という姓を道案内の故事から賜って安倍川の西の持舟山一帯の朱印状をもら
った。
「神君御難のとき背負いまいらせた名誉の者の家柄」というので、この子孫は幕末ま
で連綿として続き、苗字帯刀だったと『駿府志』にも記載されている。
 しかし、これらは運の良い方の話である。ひどい目にあったのは、誰が松平の世継
ぎを奪って逃げたかすぐ判ったから、乳母の大河内源三郎の妻や次郎の祖母源応尼が
それぞれ捕えられ殺された。
 桶狭間合戦は永禄三年五月十九日だが、その当時のことゆえ狐ガ崎の刑場で殺され
た源応尼の屍は部落の者にわけられ、内臓や脳味噌がそこの唐人薬屋へ渡されたのは、
華陽院の墓碑銘によると「永禄三年五月六日」となっている。つまり桶狭間合戦の十
三日前に源応尼が処刑されたのだから、次郎が松平竹千代を奪取したのは四月という
ことになる。そして、
『松平啓運録』に「狐ガ崎の知恩院に尼を葬り奉りのち、慶長十四年にこれを移す」
とある静岡市の玉桂山華陽院府中寺の寺宝になっている徳川家康自署という掛額がこ
の間の事情を裏書きしている。
前にすこしだけふれたが、ここに長くても原文のまま引用する。

是斯梵刹也者、祖母源応尼公之旧地也、初メ今川義元、略ニ東海之諸州_、
居ニ府城_之時、為ニ厳父君_遠出ニ三州_而質ニ於府下_寓ニ居於禅尼之家_、
禅尼慈ニ愛之_、頗紹ニ于所生_而受ニ恩於尼公_、従レ幼至ニ志学之後_、
「既シテ始発ニ義軍於浜松_、而征ニ数州_、禅尼思レ之傷メリ矣、于時永禄三庚申夏五月、聞
ニ訃轅問_不レ堪ニ哀慕之情_然如ニ之何_、使レ人送葬ニ于此_」
然行戎役未レ息墳墓唯為ニ鬣封_而巳、爾後歳序屡遷、寺宇往々廃壊、
遂転為ニ士人第宅_焉、今新蒙ニ征夷大将軍綸命_握ニ闔邦兵馬之権_、
祖母在以白レ斯焉、不幸而無レ有レ神然霊猶在歟、幸当ニ五十回之辰_、故旧之情未レ遣、
及ニ于寺基興復之事_、重表ニ尼公之墳墓_松樹之繁見而息牟、抑憂ニ此状_亦慶、
仍而改ニ于旧号府中寺_、為レ不レ遣ニ于其恩恵_、
故唱ニ院於華陽_唱ニ山於玉桂_永可レ為ニ法要梵刹_者也。

   龕 慶長十四年春三月
                          大将軍   翁   印

 さて、この中で問題になるのは、「自分は遠州浜松で義軍をあげ数州を征した」の
個所で、すこしも三河岡崎でとは書いてない事と、すぐそれに続いて、
「禅尼(源応尼)が、このことで思いを傷め心配した」という一句である。
 家康が武門の出身なら、岡崎でなく浜松であったとしても、旗あげしたなら、
「こりゃ、めだたい」と賞めるべきであって、祖母の源応尼が心配するというのは変
である。
 つまり徳川家康の出身が、祖先は新田義貞であったにせよ、この祖母の頃はぜんぜ
ん武門の家柄ではなかった証拠であろう。つまり、
「‥‥とんでもないことを次郎めはしおった‥‥おかみに逆らうようなことをしでか
して、申訳けもないことになったわい」と源応尼は案じていたことが、これでもよく
判る。さて、
「轅門(えいもん)」というのは「陣中」のことであるからして、この文面では、
「永禄三年の五月に源応尼が亡くなったのをきき、自分は悲しんだが、陣中にいたの
で如何することもできずそこで秘かに人をやって葬らせた。が、後も戦がつづき仮埋
葬のままだったが、今や自分は征夷大将軍となって天下の兵馬の権を握ったから、五
十回忌にあたってここにまつる」となっている。
 ----しかし、江戸時代に作られたものを、そのまま踏まえている今日の俗説では、
「今川家の人質となってゆく途中を奪われ、松平竹千代は尾張の織田家へやられたが、
天文十八年十一月、今川義元と織田信秀が三河の安祥で戦った際、人質にとられた信
秀の長子と交換で竹千代は今川へやられた。この竹千代が成人して、やがて松平蔵人
元康となって、義元の死後岡崎城を回復し、やがて徳川家康になる」ことになる。ど
ちらが真実かは読者の判断にまつよりない。
 竹千代というのは代々世襲の幼名だったから、「松平蔵人の幼名が竹千代」でも差
し支えないが、尾張へ行っていた竹千代が、その蔵人であったとは思えない証拠がは
っきり現存している。
 天文十六年というと、織田信長十六歳、その時の竹千代は八歳になる勘定だが、
「寛政二年戊四月加藤忠三郎書出し書」という尾州候へ提出の文書があって、その中
に、
「てまえ祖先加藤隼人佐妻よめが、竹千代をお守りした時に作ってさしあげた雛人形
二対及び賜った桐の御紋の盃を、今に至るも家蔵している」というのが、今も、『尾
州藩史料』に入っている。
 しかし、女児ではあるまいし、八歳の腕白坊主に、お雛さまをつくってやって遊ば
せていたというのはどうであろうか?と疑問が生じてしまう。
 俗説の家康がこれでは八歳で変てこだが、もしこれを、松平蔵人の跡目の竹千代。
つまり、後の「岡崎三郎信康」とみれば、彼ならば世良田二郎三郎や酒井浄賢が盗み
だしてきた時は、まだ二歳だから、これならばお雛さまでも遊ばせられたはずである。
 また、その幼児がのちの徳川家康なら、上州新田郡世良田村は一名「葵村」と呼ば
れるように葵が多く茂り、徳川は「葵紋」を採用したが、松平の方は、代々ずっと桐
紋しか用いていない。
 だから文中の盃の紋からしても、預けられた子は俗説の家康でなく松平元康の子の
信康であることは間違いないであろう。


遠州白須賀党

「のう、あい、この和子を預かっていてくれまいか」と、そうにか武具その他の整っ
た日。
 世良田二郎三郎は、二歳の幼児を鍛冶屋平太の家において出かけることとなった。
初めは何処かの隠し女に生ませてきた児かと嫉妬していたあいも、事情が判ってから
は自分の子か弟のようにして遊ばせていたから、
「あとの事は気にせんでええで、よお頑張ってこないかんで‥‥」手をふってこれを
見送った。
「よしッ、壮士ひとたび易水を渡る。もし志ならずんば、死すとも帰らじ」と、難し
いことを板倉弾正が口ずさみ、これに浄賢から安倍大蔵、大久保党の面々に新参の榊
原小平太までの一行が、
「おう、おう」と武者声はりあげ、寺脇から大畑へと、いぬわらびがびっしり生えて
いて青臭い匂いのする山道を進んでいった。この先の馬込川の流れのてまえに、白羽
(しろは)部落というのがある。ここでは白羽神社とよぶ、そこの白山さま境内に対
岸の明神野から集まってきた若者が百人ぐらい待っているのを、供回りに加えるため
である。
 今日では、白羽浜と米津浜というのが、遠江灘に向かって埋め立て工事で延びてい
るが、この時代は、いまの海岸はまだ水中で、中田島とか屋島とよぶのが浮かんでい
て、押しよせる波の潮騒に耳が聾するほどの有様だった。そこで出迎えにでてきた神
主も、
「これはようこそわたらせられた。長年にわたって抹香くさい仏門のやつばらに荒さ
れていた、この神の土地の遠江も、これでようやく昔を今になすことができ申そう」
 掌で口のところへ筒をつくって、よく聞えるようにと話した。そして、
「これは有難いお神酒でござりまするぞ」
 素焼きの土器に瓶子から酒をついでくれたが、これへも眼にみえぬ浜の砂が舞い込
んできて、押し頂いて酒を口中へ流し込むと、舌がざらざらする有様だった。

 もともと遠江というのは、文和三年(1353年)十二月に、ときの後光厳帝から、
その三十三郷が、紀州熊野速主(はやます)社の御領所とされ、「講談次郎長外伝・
秋葉の火祭り」で名高い遠州二俣や、井伊大老の出生地の遠州井伊谷は、もともとが
社領。浜松の庄も、これは蒲御厨(かばのみくりや)の神領。
といった具合に神さまの土地だった。
 ところが南北朝の世に入ると、これも後年赤穂義士の討入りで有名になる吉良上野
の先祖の吉良氏の所領にされ、室町時代に入ると、初めは今川氏、応永年間からは尾
張の斯波氏が守護。
 しかし今川義元の父の氏親が永正十三年(1516)に、浜松城の前身の引馬城を
攻め落してからは今川領。さてそうなってからは、昔からの神信心の者は仏徒今川の
家来に圧迫されつづけていた。
 だからして駿府の鐘打七変化部落から、「白山神社」の神示をえた一党が、
「遠州の世直しに現われてくる」と土地の白羽神社から布令されると、中国の言葉で
いえばさしずめ、「造反有利」といったかけ声とともに、
「それッ」とばかり、このとき次郎の傘下に集まってきたのである。
 ----今日の神主さんは、地鎮祭に出かけてゆくか、神前結婚式のときに御幣をふる
位だが、昔の神主は馬に跨り氏子を従え異教徒の仏門の者とはあくまで抗戦しつづけ
るぐらいの気力のあったもので、この「小笠郡の白羽神社」も、のちの三方が原合戦
の前哨戦である一言坂合戦には、徳川家康の味方として、「権大僧正」の位をもち石
山本願寺門主の義姉を妻にしていた仏門の武田信玄勢を迎えうって戦ったが、残念な
がら戦い利あらず。よって、
「元龜三年十月十四日付け」をもって、武田信玄からの白羽神社の神主宛に、
「敵対をやめるというにおいては赦免し、もと通りに神社へ送りかえしてやるが如何
するや」
という文書も残っている程で、これは故高柳光徒寿博士の『戦国戦記』にも引用され
ている。

 さて白羽から沼田池をまわって、さいかちの森で知られた若林から東海道へ入れば、
篠原から舞阪。
 現今の弁天島で右が浜名湖。左は遠州灘。渡し舟で対岸の新居から、そのまますす
んでゆくと、今川義元の祖父にあたる氏忠が討たれたという、昼なお暗い潮見坂の森。
「この辺はよく用心せぬと、古来より待ち伏せされる難所‥‥」
 頭数だけは百名をこえたものの、なにしろ駿府の人質屋敷から、松平蔵人の幼児を
拐してきている弱味があるものだから、酒井浄賢が、薄気味悪そうに行手の雑木林を
見つめると、
「この辺りは朝比奈三郎兵衛の掛川の陣屋のあるところ‥‥いつ何時とりこめにあっ
て襲撃されるかも知れぬ」安倍大蔵も油断なく、
「いつでも射てるよう仕度しておけや」弓をもっている連中にいいつけたりした。が、
「やっぱり、居りましたぞ」
 身軽なところから人足先に向かっていった榊原小平太が、ふっとんでかけ戻ってく
るなり、
「てにした槍の穂先を、木の葉がくれの陽光にきらめかせ、人数はさだかに判りませ
ぬが‥‥待ちうけておるは伏兵の様子」と、振返って、慌ただしく指をさしつつ報告
をした。これには次郎も、
「そうか。やはりこの難所で、われらを捕えんと待ちかまえていたか」才槌頭をふっ
て唇をかんだ。
「よっしゃ、かくなる上は一泡ふかせてこまそ」
 板倉弾正は槍をかまえて、新しく同勢に加わった明神野の若衆を率い突撃しかけた
が、
「待て、はやまるでない」と、次郎が大声をはりあげてそれを止めた。
「では、なんと」酒井浄賢が赫ら顔をつきだして尋ねると
「遠州掛川五万石朝比奈勢を、正面から相手にしては、こりゃ無理というもの、ひと
まず引返すか、ここから坊勢の山へ入りこむが上策であろう」用心深く次郎はいった。
 手柄をきそって自分らだけでも突入しようとしていた大久保党も、そういわれてみ
れば、
「せっかく苦労して武器を整え人集めしてきたは、なにも朝比奈陣屋へ攻めこむため
ではなかった」
「うん、いかにも左様、この場は大事をとるにしくはあるまい」
 大久保甚四郎や新八郎が話しあって踏み止ったとき、
「‥‥ありゃッ」安倍大蔵がすっとん狂な声をはりあげ、
「ごろうじなされませッ、陣屋の奴らめ誰かに追いまくられて逃げて行きまするぞ」
と指さした。
「えっ、何者が、われわれの代りに陣屋を攻めたてているのか」浄賢がびっくりした。
「かくなる上は‥‥」と、次郎もこうなっては、用心ばかりもしておれない。
「よしッ、事ここに至っては‥‥われらに加勢してくれている同志を放ってはおけぬ」
 鍛冶屋平太の仕事場で自分らが鍛えてきた槍の突き味を試してみようと、
「それッ者共ッ‥‥」と砂埃のたった一本道をかけてゆくと、すでに朝比奈陣屋の連
中は、鶴翼の紋所のついた楯板も放り出して、一人残らず逃げだしてしまった後らし
く、
「お手勢に加わる前の一と働き‥‥みな吾々にて追い払ってござる」と、物陰からそ
こへ、どかどか迎えにでてきたのは、汐やけした逞しい大男ばかり。
「‥‥うん」眼をみはって次郎が、
「おぬしらはなんじゃ」と声をかけると、先頭の髯つらが地面に片膝をつけ、
「これまでの坊主支配の遠江を、おまえさまが解放(ときほぐし)にござるというで、
神の御威(みいつ)のもとに仲間に加えて頂きたく、かく参上仕りましたるは遠州白
須賀(現在静岡県小笠郡大須賀町)の住人にて、加賀爪甚十郎」と名のり、つづいて
その脇から、
「てまえも弟もろとも、かくはお味方にはせ参じました」
と、三メートルもある大身の槍をたててひざまずいたのが、同じく遠州白須賀別所の
坂部三十郎。
「てまえも白須賀馬伏塚の久世(くぜ)三四郎」と、遠州白須賀衆だけでもそこには
五十人もいた。
 ----この連中の孫あたりが同名をそのまま代々うけつぎ、白衆だと誇らしげに旗本
白柄組となって、やがて寺男の幡随院長兵衛らの連中と争うようになるのだが、それ
は後日の話。
「駿河御所今川義元の軍勢は三河岡崎城へ向かって、昨日ここを通り抜けて参りまし
たぞ。さあ、わららの力で遠江を回復するのは、この機しかありませぬ、とりあえず
引馬(のち浜松城)など城とり仕ろう。おそらく留守居ばかりにて、たいした事はあ
るまじく」
 新しくここで加わった白須賀衆は、朝比奈陣屋を蹴散らした勢いに乗じて進言して
きた。



                 美濃反乱

那古野騒動

 のちの家康が遠州掛塚で鍛冶屋平太の仕事場を軍需工場にさせトッテンカンとやっ
ていた頃。
 それより八歳年上の織田信長も、やはり領内の尾張鍛冶屋を動員し、しきりにトッ
テンカンをさせていた。なにしろ父織田信秀の在世中には、岡崎城に向き合う安祥ま
で掌中におさめ、今川義元と松平広忠の軍勢を、三河の小豆坂で二度まで撃破し、お
おいに威をふるっていたものだが、その死後はからっきし駄目になっていたからであ
る。
 妻奇蝶の里方の斎藤道三の助力で、辛うじて押し寄せてくる今川や松平勢をくいと
めてはきたが、それでも尾張八郡の内、すでに今川に半分を奪われ、残りのうちの、
今の長島温泉のある川内郡さえ、今川と結びあった一向門徒に横領され、今や腹背に
敵をうけ挟み討ちの有様だった。
 そこで自分の生れた古渡城や那古野城さえも危なくなってきてしまい、それに困っ
た事に、これまでのように美濃から武器や軍勢が借りられぬという羽目になってしま
った。そこで自給自足のため、鍛冶屋にトッテンカンを始めさせていたのである。と
いうのは、正徳寺で道三と信長が対面してから一年半たった弘治元年に話がさかのぼ
るが、とんでもない騒動が美濃でもち上がったのである。
 もともと道三入道という男は、油屋になる前は、日蓮宗四十四本山の京妙覚寺の所
化(しょけ)上りである。
 だから、どうしても仏門帰依の武者だけを大切に扱う。それに自分が京の生まれだ
から、やはり上方筋の牢人を多く召し抱え、これを側近にする。ところが美濃は、そ
の昔の土器部(はじべ)の者が、「土岐氏」になった国柄だから、土着の美濃武者は
ほとんど神信心で、関から源氏野にかけ、木曽川べりの茜から、飛騨の白川郷にわた
って、ほとんどといっていいくらいが仏嫌いである。
 だから道三の武威に押さえられ、縮こまってはいるものの、隙あらばと狙っている
裡に、弘治元年十一月二十二日のこと、気を許していた道三入道が、わずかの伴だけ
を連れ鷹狩りに出かけて行った。だから「時節到来」とばかり、神信心の武者共は、
しめし合せて城の大手門を閉ざした。
 稲葉山の頂上井口城の曲輪の中には、当時、道三の伜が三人いた。長男の義竜は道
三に追放された前国主土岐頼芸の側室だった女の子で、道三の伜とはいえ、どうも産
み月から算えかねて土岐の種と噂されていた。そこで美濃武者共は、当時病臥中だっ
た義竜だけは助け、これを当主に仰ぎ、あとの道三の伜は処分した。そして、ついに
反道三の旗を上げた。急をきいて、驚いた道三入道が駆け戻ってきたが、もう後の祭
りだった。散々に矢を射かけられ追い払われてしまった。
 やむなく道三は、ひとまず長良川を渡り、空城になっていた大桑城へ入ったが、な
にしろ武器弾薬から粮食まで、井口城にはびっしり積みこんであるのに、空城だった
方には何一つといってもよいほど、蓄えの物はない。
 そこでとりあえず粮食を集めに掛った。ところが、美濃は、神信心の者が多い土地
だから、
「仏の衆は、放っておけ、渡すな」とばかり、相手にされず、思うように穀物を入手
できない。
 矢を作ろうと、矢竹にする薮を探しにゆけば、これも先にと刈られてしまう状態。
 もとより道三に味方する者は、他国者で、ここを離れては、また牢人するしか途も
ない連中なので、必死になって、「因果応報、来世渇世」とばかり、極楽成仏を願っ
て勇ましく戦いはするものの、これに次々と倒れられてしまうと、あとの補充がきか
ない。それに引きかえ土地者の軍勢には、
「われらの怨敵の仏法信徒を撃滅するは、これ、この時ぞ」と、各神社で、氏子総代
を集めて、次々と新兵を送り届けてくる。だから今日百人討死すれば、明日は二百に
あんって新手の加勢がくるという有様。
 もちろん、美濃の国にも僧院は多い。どの寺でも、仏法護持のため、山法師と呼ば
れる僧兵も抱えている。だが、こうなっては山門を閉ざし、白旗を立て押し寄せてく
る打ち毀しの里人たちを追い払うのが、どこでも精一杯である。
 もともと僧院は何処の寺にも鐘つき堂というのがあって、非常の際には、この梵鐘
をゴオンゴオン打ち鳴らし、近在の寺百姓を呼び集め、乱暴しにくる異教徒を防ぐの
が、たて前にはなっていた。
 だが、道三が本城を乗っ取られてしまってからは、百姓共が後難を怖れてしまい、
鐘がなっても寺へは寄りつかない。
 これでは美濃の寺々は、檀家総代を集め、兵力を道三方に供出するどころの騒ぎで
はない。
 やがて年が改まって、弘治二年になると、土地者の義竜側は、兵力一万八千。他国
者の道三方は、わずか二千名と、その兵力の格差が、はっきりついてしまった。しか
も戦うたびに、増援のこない道三方は減る一方なのに、相手方は各地から白旗をもち
御幣を担いで、新手がどんどん増えてくる。
(これでは、長く続けては不利になる。早いとこ決戦に持ちこまねば、いかぬわい)
 さすがの道三も、四月に入るとついに覚悟した。そこで隣国の織田信長に使者をだ
した。
「あやつは娘婿とはいえ、宗旨違いの神信心ゆえ、ふつうでは出てこんかも知れん」
と考え、
「もし、味方に駆けつけてくれるなら」と条件つきで、わざわざ、「美濃一国を、お
まかせしよう」という、国譲りの証文まで、書いて届けさせた。そして信長を安心さ
せるために、人質として、たまたま城外にいたため命拾いをした末子の新五郎を、こ
れに添えて送ってやった。
 しかし、道三には自信があった。生涯数十度の合戦に、負けた事のない誇りがあっ
た。
 数からゆけば兵力が十倍も違うが、道三はさほどまで念頭には入れてなかった。
 というのは義竜側に集まっているのは、あらかた土民なのに、道三の手持ちは小数
とはいえ、みな歴戦の根っからの武者ばかりだったからである。それに、道三の本心
では、援軍は求めたが、まだ二十二歳の未熟な信長を、それ程まで買っていなかった。
唯、出陣してきて、背後に尾張の加勢のある事さえ、義竜側に見せつければ、それだ
けで良かった。だから、使いの者にも、
「尾張勢が姿をみせ、それに気をとられた義竜側が気を呑まれ、浮き足立ったところ
をば、われら軍勢がただ一文字に突きこみ、見事な大勝をして御覧に入れる」
と、斎藤道三は、戦さをするのは吾らだけで充分に勝算がある。だから信長は、ただ
出てきて見物していてくれたら、それでよろしい‥‥とまでいい含めて行かせたので
ある。
(いくら神徒で宗派違いとは申せ、跡目をとらせてやった後も、いろいろ面倒はみて
やっている。だから信長は、いわれた通り出陣してくるだろう。そうすりゃ、儂の大
勝利じゃ)信じて疑わなかった。
 斎藤道三が鷹狩に出かけたばっかりに、美濃に大騒動を起した頃。尾張の方でも、
やはり同じような変事が起きていた。
 その前年の天文二十三年[1554]の七月十二日。
 斯波管領家の当主斯波義銀(よしかね)が暑気払いに川狩りといって、五条川の掻
掘りに出かけたあと、重臣の坂井大膳たちが、留守を狙って叛乱をした。城を乗っ取
った。そして織田本家の彦五郎を、坂井は仲間に迎え入れ、これを清洲城の守護代に
した。
 当時、信長は、居城の那古野城が、山口左馬助の中村城や、すぐ間近の村木砦の駿
河勢に脅かされ、疎開せねばならぬ立場にあった。だから弘治元年四月十九日に、秘
かに叔父の守山城主織田孫三郎と密約を取りかわした。
 それは駿河勢に攻めこまれる心配もない奥地の清洲城を、斯波家の旧臣を集め奪取
する方策である。
「‥‥ところで本家の彦五郎や坂井大膳を倒せば、旧斯波家直領や織田彦五郎の領地
がそっくり浮く勘定だが、これは、どうするか」
 叔父の孫三郎は虎髭をなぜながら、気になるところを、その席でづけづけと口にし
た。すると、
「‥‥叔父上に、そっくり進上仕ろう」信長は慾のないところをみせ、
「俺は唯、清洲の城さえ貰えて、あそこへ逃げこめたら、それで充分でござる」
と答えた。
「すると、今いる那古野の城は棄てるのか」勿体なさそうに孫三郎は惜しがってみせ
た。
「よければ、貰うて下され。棄て城にしてゆき、中村の山口のために奪われるのも口
惜し」
 信長が無念そうに眉を曇らせたから、
「そうか。だが儂が那古野城主になれば、山口めも怖ろしがって、よもや食指は動か
すまい」
 叔父は、カンラカンラと豪傑笑いをした。そして、いうことには、
「兄の織田信秀が没したあと、年弱なお前らではなく、この孫三郎信光が家督をつい
でおれば、尾張も、これ程までに蚕食されなかったろう」しみじみした声音で憤慨し
てみせた。
「いやはや、面目とてない」と、だから信長は恐縮しきって座り直し、素直に頭を下
げて詫び、
「これから先は、何とぞよろしゅうに‥‥」と懇願した。すると、孫三郎は、
「では、いいつけ始めに、岩竜丸を処分せい」
 いぼた蝋で先を固めた虎髭をひねりながら、低い声だが、強く囁いた。
 岩竜丸とは、清洲城を逆臣に奪われ、いま信長の許に匿われている若い斯波義銀の
事である。
「伯父上の仰せとあれば斯波管領家の血脈を絶つも、不憫ながらやむを得ぬ仕儀‥‥」
信長は指図されるまま承諾してみせた。
「だが急いてはいかぬ。斯波家の御為という触れこみで清洲攻めをするのゆえ、落着
するまでは、通達を儂が出すまでは待っているがよかろうぞ」
 念を入れるように孫三郎は、まだこのときは二十にになったばかりの甥の信長に、
噛んで含めるような教え方をした。それに対して、信長も慎ましやかに、
「叔父上の仰せ、一々もっともでござる。肝に銘じて、御下知のとおりに仕りまする」
 神妙に両手をついて、畏まってみせた。
 そして半月ほどして、孫三郎から馬乗り武者の使者が来て、
「坂井大膳めは取り逃がして駿河方面へ逃げられましたが、彦五郎の殿は追いつめら
れて、われらにはめでたくご生害なされ‥‥よって清洲は乗っ取ってござります」と、
知らされたとき、
 信長は天守の丸櫓に登って行って、
「岩竜丸様、祝着にござる。我ら下織田の面々が力をつくし清洲城を回復してござる」
と、すぐさま移って頂くように挨拶した。
「そうか、嬉しい‥‥」満面に笑みを浮かべた岩竜丸が、櫓の上に張り出した縁板に
足をすすめ、遥か北方の清洲城を懐かしそうに眺めようとしたとき、
「あッ」と、その白面の少年は細い鋭い声を迸らせ叫んだ。
 踏板が腐っていたのか、張板の留め針が抜けていたのか、十七歳の斯波管領家唯一
人の生き残りの少年の身体は、蒼穹をきって頭から、すうっと木の実のように落下し
ていった。驚いた信長は即死した岩竜丸を柩には入れず、白布でぐるぐるに巻きつけ、
添え木をして鞍に立てかけさせ、那古野城千の兵を率いて、供奉する形で清洲城へ向
かった。
 織田孫三郎に協力し、城の内外から呼応して、ついに清洲城奪回に成功した斯波の
家来共は、変わり果てた岩竜丸の姿に慟哭した。
 しかし、死んだ者は、もう戻って来ない。岩竜丸が信長を頼って行った事も知って
いるし、天守の丸櫓で、主君として大切に扱われていた事も、皆知っていたから、
「せっか持城の清洲城を取り戻しできたともうすに、このような姿にてお戻りになる
とは、さてさて御不運な星の下に、お生まれ遊ばされたものだ‥‥」
 それぞれが暗涙にむせんだ。唯一人、忠臣織田信長を疑う者などいようはずとてい
なかった。だからして(岩竜丸さま御遺言)と称して、
「清洲城回復のみぎりは、織田上総信長をもって、城代を言いつけるによって、旧臣
共も異論なく従うよう」
というのを、織田孫三郎から披露されると、斯波の旧臣共はうなずきあって、
「岩竜丸様最後の仰せつけ、畏んでお受けしまする」揃ってみな信長に頭を下げた。
「これでよし」とばかり孫三郎は、信長に眼くばせすると、自分は手勢を率い、急ぎ
空き城になった那古野へのりこみ、そこの城主におさまってしまった。