1128 徳川家康  8

「どうするか、こりゃなんともならんことになったぞ」
 まっ先に、若いだけに次郎が我慢性がなく、むくれだしてしまった。
「なんせ、こう話がくい違っとるとは思わなんだわい」浄賢も当惑したように頬をし
ぼりあげた。
 なにしろ葛尾城主村上義清が、信州白山明神総氏子代表で、兵を集めていると駿河
白山町の白山神社への達しがあったので、次郎や浄賢は、大蔵や宗哲の他十人あまり
の者をまとめて信州路へ入ってきたところ、肝心な義清はすでに武田勢に追われて越
後春日山へ救いをもとめて脱出したあと。
 今度の募兵のふれというのは、先に千曲川べりに海津城を築き陣どっていたものの、
やはり武田に追われた義清の長子の村上国清が、
「近く上杉勢の力をかりて信州奪還の軍をすすめるに当って、その前に橋頭堡(きょ
うとうほ)をもうけたいから」と秘かに信州へもぐりこんできて神官に相談したとこ
ろ、
「それでは、神さまのお告げとして、近くの白山神社へ伝達しましょうわい」
と出された通達だったというわけで、来てみたら、すでに葛尾城も武田方にとられて
いるし、肝心な坂城白山神社も神官も、
「越後春日山の上杉勢がこちらへでてくるは、どうも来年のことになりそうゆえ、そ
れまで何処ぞに潜って、時機を待っていなさるがよい」というだけである。
 あたら雄図を抱いて乗りこんできたのに、このていたらくではなんとも仕様もない。
「‥‥むじなや、もぐらではあるまいし、何処ぞに潜っておれといわれても、飲まず
食わずで穴の中に入って冬眠などできるものか」
「そうじゃ、人里のあるところなら、鉦をたたいて祈祷して回れば、火にも温まらせ
て貰えるし、熱い雑煮の一杯にもありつけようが、うかつに村方へおりてゆけば、武
田方に見つかって、こりゃ縛り首になるは必定」
「というて、こない山の中を震えながら歩いていては、その内に飢えと寒さに参って
しまい、こりゃ行き倒れになるは目にみえたこと」
「たしか今日は、おおつごもり‥‥これでは明日の元旦も迎えられるかどうか判らぬ
て」
 口々にぶつぶついいながら、根雪をさくさくふみしめ、山の中を、互いに転ばぬよ
うに気をつけあって進むのだが、なにしろ二日というもの食物を口にいれていない。
 だから、しまいには、ものをいう気力も次第になくなってしまい、木についている
樹氷を折って口へ入れ、どうにか水分だけはとって、吹きっさらしの寒風の中を、と
ぼとぼ進んでゆくのだが、
「おりゃあ、もう駄目だ。とても歩けん」と悲痛な叫びを洩らす者まで出てくる始末。
「なむ白山大明神、八幡大明神」と浄賢や宗哲は拝み屋だから、歩きながらもお祈り
をあげているが、さてそれで寒気がうすらぐものではなく、へりきった腹がくちくな
る道理もない。
 かえって、あべこべに灰色の空から、また白いものが、ぽたぽたと落ちてきた。
「こりゃ、いかぬ。このままでは雪にうずまって、みな凍え死をしてしまう」
 みる間に積もってきた雪で、頭にかぶった麦わら編みの二つ折りを、まっ白にして
しまった面々がすっかり狼狽しきっていると、遠くに聞えてくるのは、
「ウオッ」「ウオオ」の山犬の叫びだけ。これではならじと次郎が他の者を励まそう
として、
「信州へくりゃ、白いええ女ごがおると浄賢にそそのかされてきたが、白いのは女ご
じゃのうて、雪じゃった」などと口にしたが、誰も笑うどころではない。
 なにしろ、降りだす前は根雪でけだったから、かさかさ音がして、踏みつけて歩け
たが、牡丹雪がひしひし積もってきだした後は、みる間に重なってしまって、一歩ず
つ足をひきぬき前へ進まねばならない。それに、もう視界がすっぽり根雪に包まれて
しまって、どの方角へ向かっているものやら見当もつかなかった。ただ前へ前へと十
人の者が歩いてはいるのだが、これが何処へ進んで行くのか、さっぱりわけがわから
ない。
「なんか堂々めぐりをして同じ所を回っているような気がする」と、言い出す者もで
てきたが、足痕などはすぐ埋って判らなくなってしまうから、この見分けもできない。
「えい、もう歩くのはかなわん。このままで俺はじっとしとる‥‥」身体の大きな安
倍の大蔵が、ねをあげてしまって座りこむと、他の者もへたへたになって、崩れるよ
うに雪の中へ埋くまってしまった。
「ウオッ」「ウオオン」すると鋭い声が近づいてきた。これにはさすがに聞き耳をた
て、
「山犬じゃ。食い殺される前に、こっちが捕えて食ってしまえ。もうこうなっては、
なんでもいいから口へ入れんことには、背と腹がくっついてしまう」
 槍をもってきている者は、鞘にしてあった藁づとをはずし、打ち刀のものはひき抜
いて身がまえた。しかし次郎は、
「防ぐはよいが‥‥はたして身軽な獣に、こちらからかかってゆけようか‥‥この雪
で人間の匂いも消えていよう。なろうことなら、おとなしく山犬をやりすごすが分別
かも‥‥」
 齢に似合わぬ落ち着いたことをいいだした。しかし、獣の方は雪の降る中を、
「ウオッ」「ウオオ」と、もう間近に迫ってきていた。
(こりゃ事によったら敏捷な獣ゆえ、こちらの方がニ、三人は食いつかれて怪我する
やも知れん)
 次郎も打ち刀を凍えそうな両手で握りしめ、喘ぐように白い息を洩らしていると、
「ウワアッ」と眼の前に赤黒い大きな獣がとびだしてきた。
「それッ」と浄賢が、雪のつもった穂先をくり出そうとしたとき、
「キャンキャン」と獣は悲鳴をあげて飛びのいた。すると、その声をききつけ、かん
じきをはいた蓑笠の人間が追ってきて、
「これ、タロウ、如何したか‥‥」
 大声でよばわると、くだんの獣は後向きになって、その主人にワンワン吠えて訴え
た。
「これは、これは、おてまえの犬でござったか‥‥山犬か狼と間違え、すんでのとこ
ろ」
 浄賢もたちあがって詫びをいったが、なにしろ、山犬と思い込み刺し殺して生肉で
も齧りつく気でいたところだから、すっかり落胆したように、一同の者はがっくりし
た。
 ところがその犬の主人は、浄賢よりも次郎の才槌頭の面体を、ふる雪の中でしげし
げとみていたが、
「おまえさまは薬師寺十二神将の内の神達羅大将の御尊像さまにそっくりな貴相をし
てござらっしゃる。今はまだお若いが行末は、きっと天下に名をなさせられる御方さ
までありましょう。てまえの蘆屋はこの山の麓で、ここからはさほど遠くもありませ
ぬゆえ‥‥まぁなにもありませぬが、火になどあたられて暖をとられるがよい」とい
いだした。
「これは有難い、さながら地獄で救いにあったような心地が致す」次郎も言葉つきを
改め、
「では者ども、ついて参って御厄介になるがよい」と振返って一同にいった。
 俄かに十八歳の次郎が重々しく口をきき、ふんぞり返りだしたのには、面白くない
感じを抱いた者もいるが、この場合のなりゆきでは、次郎が居たおかげで救われたよ
うなものだから、否応いっていられる場合ではない。一同の者は、
「ははっ、かしこまって」残っている元気をしぼりだして、犬に先導される恰好で山
をおりた。
 しかし、案内された山小屋の中へ入って、いろりで火に温まらせて貰い、椎の実の
えがらっぽい雑煮だが、まる二日ぶりの食物にめぐりあうと、これまでの疲れがでて、
そのまま身体を寄せあって誰からということなしに寝てしまった。
 さて翌朝。永禄三年[1560)]庚申の正月元旦。
 次郎を初め十人の者が雪どけの初水で洗顔をすませて戻ってくると、
「あけましておめでとうございまする」きび餅の入った雑煮を振舞われた。
「これは美味」と感心すると、藤助と名のるこの家の主人が、
「昨日のタロウめが今朝早く雪中でつかまえて参りました野兎を、だしにしました羹
(あつもの)にござりまする‥‥心なき犬でさえも、あなたさまが並々ならぬ方と拝
して、献上のために捕えてきましたもの。四つ足にて気味悪うてもひとつ堪えて食し
てやって下さりませ」と挨拶した。
「昨日の赤茶の犬めが、これをとってきてくれたので‥‥」
 浄賢は自分が刺し殺しかけた犬のことなので、さすがに感にたえぬように木の枝で
作られた即席の箸で肉をつまみあげ、
「有難いことでござる」と頭を下げ、口中へ入れた。
 ----この時の赤犬はどうなったか、それは不明であるが、人間の藤助の方は、次郎
が浜松城主になったとき、よびよせられて、「林藤助」の名で、供物方(くぶつかた)
とよばれる料理方の役人にとりたてられた。
 そしてその後、徳川三百年の間、江戸千代田城で毎年元旦に「天下泰平、家運長久」
を祝う新年の吉例嘉儀に、かならず兎の羹の雑煮が祝われる仕来りができたのは、こ
のときの故事をしのび、
「神君御開運のめでたき祝い」であるとされている。


大久保党

 渥美半島というのが愛知県にある。
 今では伊良湖岬が観光コースになっているから、遊覧客の多いところだが、この半
島は、「えびす、大黒」といった七福神に、島全体が区切られている。各所に、その
福神ののぼりがはためいているのが珍しがられているが、この長頭や大頭の七人の福
神というのは、「蘇(素)民将来」とよばれる日本原住民系にとっては、一番古い神
さまである。
 さて、この七福神の中で弁天さまだけが今は女だが、次郎の頃は、えびすの女神だ
った。
 北方系だった日本原住民系が女天下だったのは、「えびす」が何を意味するのかで
も明白であるが、大正時代には「エビスビール」というのがあり近くリバイバルされ
るそうだが、それが満州樺太へ出荷されたところ、どうした訳が一本も売れなかった
という話がある。
 なぜかというと、えびすという言葉は今でも向こうの人たちが、女性自身をさす用
語だからである。
 現在、関東方面で、それに当る言葉の語源は、「あま将軍」の名をほしいままにし
た北条政子の権勢をおそれかしこみ、その名に、おの敬語をつけそれ自身をよんだも
のである。
 いうまでもないが彼女が政務をとっていた所は、「政所」と書くが、これは「まさ
どころ」とはいわない。つまり名前も本当は「まさ子」ではない。
 また関東以西などで、女性自身をよぶ言葉も、原住民が昔いれられていた「別所」
の発音から訛った「おべっちょ」とか祖宗を意味する「おそそ」といったものが多い
のもこのわけである。
 さて大黒さまも俵にのって、大国主命などといわれているが、あのニ俵はホーデン
だったらしい。つまり、えびす大黒は女男ニ神の言い伝えからきているようである。
 そして、これらの七福神が、印度の、「被占領国民=賎民」という思想が入ってき
てからは、理由もないのに差別されて、弁財天など祀る島は、えだ島とか、えの島と
いったよび方までされている。
 つまり七福神信仰のある土地というのは、白山神社崇高よりも、もっと古くから人
間が集まっていた地帯ということになる。
 さて、永禄三年庚申の正月に兎の雑煮を祝われて、信州から戻ってきた次郎の一行
が、駿河へ戻られず渥美半島へ向かったのは、この地帯が、神徒系の土地で安全だと
いうこともあるが、また、それゆえ同志を集めるためにでかけたものともみられる。
 だから今でも渥美の中村には、「お手かけ原」という地名が残っている。江戸時代
には、「神官が通りかかって馬をとめられた聖地」ということになっているが、十九
歳になったばかりの次郎が馬にまたがって、では格好がよすぎる。それに馬をとめて、
お手かけもおかしい。
 これは通りかかった村娘かなにかに、お手をかけた原っぱということでないと、意
味が通じない。
 伊良湖の燈台の近くの旧家には、この時の墨付なるものも伝わっているというし、
小松原の東観音寺には、一行の誰かが残していったという占いのぜい竹も宝物になっ
ている。
 しかしここでの最大の収穫は、のち講談で有名にされた大久保彦左衛門の大久保党
が、これに加わったことである。もちろん彦左衛門が生れたのは、この十五年後のこ
とで、この時は大久保甚四郎(忠員)らの一党だが、今でも、「大久保」とよぶバス
停があって、その近くに彦左衛門の幼名をとった「兵助畑」というのがある。

「なあ次郎さん‥‥」
 これまでとおりの呼びかけをした浄賢は、「こりゃあ」あわてて自分の頭を叩いた。
 一緒に駿河をでてくる迄は、どっちかといえば、浄賢の方が年齢も上だったし、昔
から気やすく、次郎さんといっていたのだが、この正月の兎の羹の一件からは話が違
って来た。
 それに、どんぐりの背くらべみたいに十人が同等の口をきいているよりは、次郎を
たてて後の者達が家来にまわっている方が、人集めをするにしろ銭を借りだすにしろ、
恰好がつく。だからして浄賢も他の者同様に今では、「殿ッ」などと次郎をよぶのだ
が、いわれる方も照れているが、時たまには声をかける方も、つい昔の癖をだしてし
まう。
「ご無礼をッ」と、そこで浄賢は頭をかきかき、わびをしてから、
「さて、大久保党が加わりまして、これで人数も増えましたゆえ、今度はこちらから
越後春日山にいる村上義清に使いをだし、しかと初めからよく段取りをきめてのち、
われらも出陣しましょうわい」
といいだした。ところが宗哲の名を改めた板倉弾正が、
「白山さま御神示とは申せ、雪中であれだけの辛酸をなめてきた上は、もはやまた行
くこともありますまい。村上義清に尽くすため上杉に合力して武田と戦ったところで、
わしらに酬いられるところは、たいしたことはございますまい」と安倍大蔵に意見を
求めた。
「いかにも左様。かくなる上は信州へなどゆかず、やはり地元でこそ‥‥」
 よほど雪中で道に迷って腹をへらしたことが、この男にはひどく閉口たれたらしい。
 他の者も、兎の羹を振舞われて涙ぐんだ覚えのある者は、一人残らず、
「ご運を試されるのに、なにも遠い信州へなどゆくことはありますまい」といいだし、
「噂によれば駿府の今川義元公には、近く大軍をもって上洛なされる由。すりゃ駿河
の国は空っぽも同然、この機を逸せず吾らが立って奪ってしまったら如何であろうか」
と勇ましくいうものもいた。
「まさか‥‥」そこで次郎も苦笑しながら、さて改まって、
「いくら三遠駿の三国から兵を集めたとしても、京へのぼって足利将軍家に自分がな
ろうとするには、人手はたらぬ位‥‥よって御進軍のときに募集もあろう。これまで
今川家では仏家か、その仏縁につながる者でなくては、武者にはとらず、またこれま
では奉公もさせなんだが、上洛のための入手集めとあれば、もはやそのような差別待
遇もせんじゃろ」一同の者を見渡してから相談した。すると、
「そりゃ、おおせられる通りじゃが、われらが今川の陣場狩りの恰好で出陣すれば、
こりゃ弾丸よけの仕寄せ垣の代りに、まっ先に出されて楯にされるだけのことずらよ」
 安倍大蔵が気ずかわしそうな口のききかたをした。しかし大久保党の甚四郎は、
「といわれても、これだけの人数では、何をするといっても、まだ吾らだけの一人立
ちは無理というもの。やはり駿河御所の軍についてゆき、あとは道中で何かと思案す
るしかござるまい」
といいだした。すると板倉弾正も、
「むさい身なりをしたり、まちまちの武器などもって加われば、そりゃ軽う扱われも
しようが、それさえ心得ていれば、まさか楯代りにされてすぐ殺されるようなことも
なかろうと存ずる」
 四角い顔をふって自分の意見をのべた。すると、それを聞いて浄賢も膝を叩き、
「今川義元公御進発の行列に加わってゆくことにすれば、われらの人集めもこれなら
巧くゆく‥‥やはり、これしか他に策とてありますまい」と、次郎に向かって進言し
た。そこで、
「よし、そうときまったら、今川の軍勢が上洛を始める前に、われらは見くびられぬ
ように人数も揃え、槍や弓も揃えねばなるまい」ということになった。
 だが銭でもしこたまあれば問題はないのだが、次郎や浄賢たちに、そんな余裕があ
ろうはずはない。
「あたら千載一遇の機会なのに、武具の用意さえ心にまかせぬとは残念である」
 次郎も沈痛な表情で腕組みをした。なにしろ駿河遠江に三河の三国では、近く上洛
して大進発があるという噂で、武具類が一斉に値上がりしていた。だから、みなに一
人前の仕度をさせるとなると、これはなまやさしい段取りではできかねる話である。
 といって竹槍をかついだり、棒の先に利鎌などをくくりつけた武器をもって行った
のでは、初めっから馬鹿にされ、弾丸よけに使われるか、荷物運びの人夫にされるの
が関の山とは知れている。
「はて、どうしたものか」そこで思案に困って互いに首をひねっている最中、ふと思
い当たったように浄賢が、
「うちの鐘打部落から出た者で、遠州掛塚の在で、鍛冶屋をしている平太という者が
おる。ひとつ、これを頼ってゆこうではないか」といいだした。
「では‥‥」と他にこれという案もないところからして衆議一致した。


美人谷

「いくら同信心の衆じゃいうても、そりゃ無茶というもんじゃ」
 鍛冶屋の平太は、ふいごで火をおこしながら滅相もないと首をふった。側から妻の
さいも、
「矢にはめる矢尻一つというても、鉄を真っ赤に焼いて鍛えてこしらえるものゆえ、
一日に何個とは打てはせぬ。それに知ってもいようが、山からくる鉄土(かねづち)
の中から鉄をふきわけるが、またひと仕事。よって矢尻三個で鍛代は米一升が相場じ
ゃ‥‥槍の穂となったら、こりゃ米一俵。粟なら五俵でも、今は注文が多くて、さば
き切れぬ有様」難しい顔をして、恨めしそうな口をききかたをした。
「なにも、ただで用立てしてくれというのではない。ちゃんと銭も払おう。米でとい
えば俵をどんどん運んでもこよう‥‥しかし、今すぐというわけにはゆかぬ。すこし
待ってほしいのじゃ」
 そこで浄賢はあわてて手をふり、両手を合せて拝む真似までしたのだが、
「‥‥槍の穂の一つ位なら、同じ鐘打七変化の部落の出ゆえ、都合せんでもないが、
何十といわれては、こりゃ所詮は、あまり無茶苦茶な申し出で、やはり断わらせて貰
うしかあるまい」
 平太はどうしても首を縦にふらなかった。
 しかし、せっかくここまできて、拒まれたからといって引き返すこともできない。
そこで浄賢は、
「こちらにいなさる次郎の殿とこのわたしは鐘打部落にいた者ゆえ、鋳掛け直しはや
ったことがある。だからまんざらの素人というわけでもない‥‥そこで物は相談だが、
あれなる納屋をわれらに貸して住まわせてはくれまいか。どうじゃろ」と、きりだし
た。これには平太も呆れたような顔をして、
「見よう見まねで、自分らで槍の穂を鍛え、矢尻をこしらえようとなさるのか」
と、一同の者を見回した。板倉弾正も、こうなったからには他には考えもなかろうと
覚悟をきめ、
「如何にも左様‥‥」鉄てこを振りおろす所作までつけ加えた。
「まあ、そこまでいわっしゃるのなら、こりゃあ止めようもない。仰せの通りに納屋
だけは貸して進ぜよう」渋々ながら平太もそこまでは承知してくれた。
 だが、さて納屋の中の物をかたづけ、中に入って落ち着いてみると、朝から食して
いない。
「槍を作ることや矢尻を自分たちの手で鍛えることも大切じゃが‥‥さて、その前に」
とみなげんなりしきっていた。
「なんせ腹が、ぐうぐうなってきて、こりゃ辛いことになったわい」
「うん、こりゃ食物の算段をせんことにゃあ、なんともならんわい」
 大の男が青葉に塩でぐったりしてしまった。そこで、みんなが口々にいいだすのを
聞きかね、
「まあ待つがよい。なんぞ工面して来ようではないか」
 浄賢と板倉弾正が昔とった杵づかで、鉦たたきの勧進をしに出かけ、それでなんと
か食物を集めてこようといいだした。他にはなんの方策とてなかったからである。
「おどま勧進、勧進に行くものなら、わしとて一緒に行こう」と、次郎も出かけてゆ
こうとしたが、
「いかん、いかん、お志は嬉しいが、昔と違っておまえさまは、今ではわれらの名主
(みょうしゅ)」
 安倍大蔵が反対すると、大久保党の者も、
「われらも揃って、みんなで出かけ手分けして貰い歩けば、この掛塚は入江になって
いる所ゆえ、米や粟の他に雑魚など生臭さも手に入れられましょう。まあ残ってお待
ちなされませ」
 慣れぬ物貰いなのに勇ましく張りきった恰好で、それぞれ納屋から出ていった。
「うん‥‥」見送って、これには次郎もしゅんとさせられた。

 表向きは主従のような恰好にはみせているが、次郎の立場では彼らに一文の扶持を
与えているわけでもない。
 ただ信州の山で道に迷ったとき、藤助という猟師から、薬師如来十二神将の一体に
容貌が似ているといわれて、一宿をめぐまれ、翌日の元旦に、赤犬が自分で野兎をと
ってとって持ってきたのを、藤助が献上でござると汁にして食わせてくれたから、そ
こでこれまで、「次郎さん」とか「次郎」とよびすてにしていた浄賢までが、
「そういえば、おまえが親父というは上州新田の流れの江田とかいうとったそうな。
すりゃ、はしかよけの武者絵になっとる新田義貞公の血の裾(末孫)じゃ‥‥やっぱ
し豪いさまの血脈ゆえ、むさい恰好しとっても犬までに嗅ぎわけられる貴さを身にそ
なえていなさるのか」
 すっかり感服してしまって、今は板倉弾正や安倍大蔵までが、
「われらが天下に望みを託すには盟主がいる‥‥この御方がそない血脈とあれば、わ
れらの奉ずる名主に仰ぐはうってつけ」
と、いいだし、それからは立ててくれて、渥美半島へ人集めに行ってからは、「殿ッ」
とか「だんな」とよびだすようになっていた。しかし当人の次郎の身になってみれば、
「生母の於大が石田村(現在静岡県)富士見馬場の久松土佐へ後嫁に行っている」の
は知っているが、生父の江田松本坊などのごときは、いくら新田義貞末流の白旗党で、
白山崇拝のなかまには有名であるにせよ、てんで顔の覚えすらもない。
 ----この上州新田郷の江田の本家は、徳川三百年の間はその新田系図を徳川家へ貸
していて、維新後はその当主の万次郎が新田男爵となって華族に列している。
 とはいえ、よってたかって自分を庇ってくれている者たちのことを考えると、
(もしも本当に、おれが新田義貞とかいうはしかよけの呪いになっている絵姿の血の
流れならば‥‥いつの日にか、小さな城の一つも持てる身分になったとしたら、今あ
あして、おどま勧進、勧進と物貰いに行ってくれてる連中を取り立て、せめて腹一杯
食えるような身分にしてやりたいもの)
 黙然として考えこんでしまう。また、それしか、一人でぽつんと取り残された次郎
には他になすこともなかった。しかし、
(食物は勧進で集めてきたにせよ、刃物や矢尻は材料の鉄がなくては鍛えもできない。
それはどうしても平太に頼るしかないが、どもあの口ぶりでは都合してくれそうもな
い。さて、どうしたらよかろうか?)すっかり当惑しきってしまい、まるで矢のよう
に突き刺さってくる、板壁の節穴からの白い光を見詰めながら、次郎が腕組みしてい
ると、
「あんりゃ‥‥」ふいに入口の蓆のたれ幕をあけ、納屋の中を覗いたものがある。そ
の気配に、
「‥‥なんじゃえ」次郎も振り返った。
「一人きりか」その小娘は声をかけてきた。
「ちょっくら、おみゃあは‥‥」聞き返すと、
「おらぁ、ここの鍛冶屋の娘で、あいというんじゃがね」
 まだ十五、六らしいが身体はすんなり伸びた娘である。次郎は、うなずいてから、
「中へ入れや。このあたりの話などきかせてほしんじゃ」と笑いかけてから、
「なにを、もじもじしとる‥‥遠慮せんでもええずら」にこやかに声をかけた。する
と娘は、
「ここは、おれが家の納屋じゃもん。気兼ねなど、することないわい」
 大股で莚の上へあがってきた。その近づいてくるところを、次郎はいきなり脚をさ
っとすくった。
 そして武者ぶりつくように上へはいあがった。娘も不意のことゆえこれには面喰っ
て、
「‥‥何するね」起きあがろうと腰をもちあげ脚をひらいた。
 すかさず次郎はその割れ目に自分を押しこんで娘の裾をまくりあげてしまった。
「いかんがね‥‥」びっくりした娘は眼をすえ、
「‥‥そういうことは嫁さまになってから、することずら‥‥」と拒んだ。
「よし、では嫁にしよう」
 騒がれて仕事場の方から平太や女房が駆けつけてきてはまずいと、次郎は娘の耳へ
囁いた。
「本当け」
「ああ、あいちゃは次郎の嫁になる‥‥」
「そうけ、間違いねえな」
「うん、白山さまのお罰が嘘こついたら当るずらよ」次郎も、ここを先途といいくる
めた。
「なら待て、さきにお袋さまにいうてくる」
「そうはいかん、それは後でええずら」
「なんでやし‥‥」まだ身体を固くしたまま、あいも頑固にきき返してきた。
 しかし次郎が、暴れる娘をもて余しつつ、己がほてった物に触らせ、
「鉄は熱いうちに打てというずら」といえば、そこは鍛冶屋の娘だけに、
「‥‥うん」納得したのか、ようやくおとなしくなった。

「えっ、おまえさまが、うちの一人娘の婿になるといわっしゃるのか」
 平太もこれには眼をまんまるくしたが、それよりおろおろしたのは女房の方で、娘
に向かって、
「おみゃあ、まさか‥‥まんだ‥‥」
と険しい目をみせたが、あいは次郎の肩に身をもたせかけ、
「もう、することはしてますがね‥‥嫁さまになるんじゃから、ええずら」
 羞しそうにいい返した。次郎もその場にかしこまって両手をつき、
「男が嫁とりするとは第二の父をもつこと、これからは平太どのを親父さまと思うて、
おおいに孝養をつくしましょうわい」と、きっぱり誓いの言葉をのべた。
「できてしもうたことは、もはや仕様がない‥‥しかし、おみゃあが、いくら豪いさ
まになったとて、鍛冶屋の娘あがりじゃなどと、このあいに辛う当たったら、このお
かかが承知しませぬぞ」
 娘可愛さに声をはげます女房にも、
「男子の一言、金鉄よりも堅し」
 相手が鍛冶屋だけに、次郎も判りやすくいった。そこで平太もうなずき、
「さても次郎どのがうちの娘の夫となったからにはすぐ引出物として、これまでに他
よりの注文で鍛えておいた槍や刀、矢尻の類も、こりゃ進上せねばなるまいし、不足
の分はご家来衆が戻ってござったら手伝って貰うて、すぐにも鍛えましょうわい」話
が急転直下すっかり変ってしまった。
 だが勧進から戻ってきた浄賢たちは、まさか次郎が男をはって留守中、そういう話
になったとは知らぬものだから、
「信州では心なき犬までが、献上に野兎をくわえてくるわ‥‥ここでは無愛想だった
鍛冶屋の平太が、すっかり了簡をいれかえて尽くしてくれるなど、こりゃ次郎の殿の
持って生れた天性の賜物」と、すっかり感心してしまい、
「われらの仕える主君よりすぐれた方は、この世で外にはいなさらぬかも知れぬ。こ
の御方のため、われらは犬馬の労をとって粉骨砕身の奉公をせずばなるまい」
 てんでに肝に銘じあって、自分らの武具の不足を補うため鍛冶屋の手伝いを始めた。
 そこで、それまでは静かだった村の鍛冶屋も、次郎らの軍需工場になってしまい、
トッテンカン金槌の音も高らかに鳴り響きだした。
「泰平年表」という徳川家の記録に、
「西郷弾正の養女、実は服部平太の娘。竜泉院殿とおくり名して駿州府中(現静岡市)
に一院を新しくつくり、これをその名よりとって竜泉院と申し上げる。のち寛永五年
七月、従一位を贈り、三代将軍家光公これを仏式に改葬のため、宝台院殿と改めける」
とあるのが二代将軍秀忠や松平忠吉の生母であるこのときの、おあいである。
 そして鍛冶屋の平太は、次郎が世に出るに及んで、「服部平太夫」という武士にと
りたてられ、この掛塚の差配をしていた遠州佐野郷(現小笠原郡)西郷別所支配の弾
正の後釜に、平太は昇進したものらしい。だから、おあいも、「西郷の局」とよばれ、
二代将軍秀忠の産土神(うぶすな)の守り本尊の浜松の五社明神社も、この西郷村の
白山社から勧請されたものであると記録に残っている。
 おあいが美人だったかどうかは不明だが、西郷村には幕末まで、
「美人祭り」というのが催されていて、美人谷という部落名まで広く知れわたってい
た。