1127 徳川家康  7

 さて、次郎が頭ごなしに浄賢坊をつかまえ、
「願人坊主がお武者に、この国ではなれっこないずら‥‥」といったのにはわけがあ
る。
 ----これまでの歴史の本や小説では、百姓でもなんでも狩り集められて戦にゆき、
そこで手柄さえたてたら出世して、一人前の武者にまれたようにもなっているが、あ
あいうことは実際にはあり得なかった。中央集権の足利将軍家の力が弱まったために
戦国時代に入ったということは、反足利勢力が抬頭(たいとう)したことを意味する
が、足利氏が仏教政権だから、反対勢力は反仏で、これが各地で起きて旧勢力と争っ
たのである。
 ところが駿河御所とよばれた今川家というのは、
「一に吉良たち、ニに今川たち」ときめられていたように、足利将軍家の血脈がたえ
た時には、まず三河の吉良氏から入って跡をつぎ、もし適当の人材がなければ今川か
ら入って、将軍家をつぐという、江戸時代の「御三家」にもあたる家柄であった。
 ということは、駿河、三河、遠江の三国では、国家主権の今川氏が仏教系だからし
て、浄賢坊のような本当は神徒系の者でも、「神主」とか「禰宜」という立場はやた
らとれぬからして、僧侶まがいものとして、「願人坊主」という、祈祷師になってい
たのである。
 だから、いくら浄賢が、<赤と黒>のジュリアン・ソレルのように、本当の軍人で
ある武者になりたがったとしても、仏教系の今川軍団が反仏出身の彼を採用しても楯
代りの足軽で、それ以上出世させるわけはないと、次郎はこれをいましめたのである。
 ----後に次郎が三河を征圧しようとすると、「一向一揆」の名で仏教徒が一大集結
をして、それにおおいに悩まされるようになるのも、彼があべこべの体制をとったか
らである。神徒対仏徒の執拗な反目はこれまで未研究、未開発の分野だからして、前
もって、ここの解明をさきにわかりやすくしておかねばならないだろう。

 日本列島へ海を渡って、五、六世紀に伝来してきた仏教は、「輪廻」の説をもって、
まず人民に臨んだ。これは前述したごとく、
(車輪がぐるぐる回転するように、人間は死んでも、その霊魂が転々と、他の生を受
けついで生まれ変ってくる)という説である。だから、どんなことがあっても家門を
絶やさぬようにし、その檀那寺へ供養を欠かさずにして、付け届けをしないことには、
(死んだ者の霊魂が、油のきれた車軸のように軌んで宙に迷ってしまう)というので
ある。
 だから、仏門を奉ずる家門は、たとえ、その子女を犠牲にしても、その家というも
のを続かせ、寺へ回向料を欠かさず持ってゆけるようにと、懸命に必死の努力をした
ものである。
 そこで、寺というのは坊主丸儲けで、儲かって仕方がない時代が続いたから、現在
と違って、その頃には名僧知識が続出した。
 さて、である。
 大陸から、仏教という宗教を旗印にして、ボウズという頭に毛のない宣教師を、日
本列島へ送り込んできたとき、この島国に住まっていた原住民たちは、頭の毛髪の長
いのを尊び、それを「カミさま」と崇めて暮していた。
 ロングヘアーとはいわずもしれた女性のことである。そして女は執念深いから、死
んでからも、やはり「カミさま」と祀られ、この列島に君臨していた。だから、この
時代のことを振返って、
「太古の女性は、太陽であった、神だった」と青鞜社の平塚らいてう女史などは叫ん
だものである。
 確かに、大陸から侵略されるまでの日本列島は、ミカドも女帝、カミはもちろん女
人という、厳然たる女尊男卑の国だった。しかし、女が威張っているようではたかが
知れている。
 だから次々と、クレオパトラ女王に国へシーザーが乗りこんでいったように、大陸
から流れ者の連中が仏教をもって入ってきたのだ。しかし、この日本列島に当時住ま
っていた女性は、髪は長かったが、クレオパトラとは違い、どうも鼻はあいにくだっ
たようである。
 当時は整形手術の隆鼻術もなかったから、残念ながら毛髪ほど立派ではなかった。
だからシーザーとクレオパトラのような恋物語は起らずに、片っ端から追い払われて
しまった。しかし、「鼻低きがゆえに尊からず」と追われた原住民系の女は、この侮
辱に対して、もちろん決然として怒ったものらしい。そこで彼女らの先輩である八百
万(やおろず)の神々に対して、
「女に、顔のことで、とやかくいう輩は、この地上から消してしまいたい」と祈った。
 当時の神々はあらかた女神であらせられるし、そしてどの女神もみな鼻低きがゆえ
に、この日本列島には西欧のような「愛の女神」などという、なまやさしい神はいら
れるはずもなく、みな勇猛果敢なオカミさん達であった。そこで、「やってしまえ」
と神宣が下ったのだろう。
『続日本紀』によれば、まず秋田のアタマロとよぶ女将の率いる軍勢が、延暦二年六
月蹶起し、大陸からの進駐軍のいる出羽国の雄勝と平鹿の二郡をうち、彼らの東北管
区司令部のあった多賀城、即ちいまの宮城県あたりまで「キイ」「キイ」と雄叫びな
らぬ雌叫びの喊声をあげて突入してきた。
「これは大変である」
 進駐軍政権はびっくり仰天した。なにしろ大陸からきている連中は、これは男尊女
卑である。
 女性を玩具のように考えている者共で女の足をテン足といって幼児から固く布で巻
きつけ、畸型にしてしまったり、あきがきたら並べてこれを奴隷に売り払ってしまう
ような一夫多妻系で、日本へ渡ってくるまで、女性を蔑視しきっていたから、
「オンナとは、かくも怖ろしいものだ」ということを、あわれ知らなかったのである。
 所変れば品換るというが、日本列島の女性が、かくもたくましく強いとは知らなか
ったから、
「アレヨ」「アレヨ」といってる間に多賀城は落されてしまい、やがて女軍は箱根の
険をこえて、ついに富士のみえる地域まで進出してきたのである
「これはいけない」と進駐政権は、山背国の長岡の険に、延暦三年六月に政府を移転
させ、巻き返しで攻め込んできたアタマロ女軍に、唐絹や銅鏡などを贈物として歓心
をかい、由ヶ浜の清見潟をもって国境線にした。仕切りのため木柵をずらりと張りめ
ぐらしたと当時の記録がある。
 つまり現在の、朝鮮と韓国の三十八度線のようなものであったらしい。
 しかし、せっかくの国土を半分に区切られたのでは面白くないから、延暦七年十二
月七日、進駐政権は平和協定を無視して女軍掃討を、紀古左美征東将軍に命じた。
「女ごときと戦うのはいやである」と断わるのをむりやりに殿上に召して、勅書と節
刀をわたした。
「かくなる上は、誓って討ちてしやまむ」五万の兵を授けられやむなく勇躍出動した。
 清見潟の柵にもたれて、贈られた唐繭の糸を紡いでのんびりしていた女軍は、
「あら、初めと話が違うじゃないですか」
 おおいに狼狽したが、怒涛のような進撃の前には、もはや手遅れだった。
 敗走千里。ついに平泉まで追い詰められてしまった。だが、日本列島の女は、ここ
において徹底的にまきかえし作戦をとった。この結果が、この時の記録として『続日
本紀』には、
「延暦八年三月九日、諸国軍多賀城より賊地に入る」
「同年六月三日、征東将軍紀古左美戦況を奏し、賊の頑強を奏上す」
「づ年同月九日、征東将軍再び奏して新しき策を奉る」
「同年七月十七日、征東将軍に激励の勅を送られる」
「同年九月八日、紀古左美将軍、芳しからざる軍状を奏し節刀をかえす」とあり、
「同十九日、勅使参向。特に紀古左美の敗軍の罪を許す」とある。つまり、
「敗軍の将は語らず」で、しょんぼり戻ってきた紀古左美を軍法会議にかけて罰する
ところを、寛大な思召しで特に許された。まあ敵が強すぎたから不可抗力とみとめら
れたものらしい。
 さて三十八度線を破って進撃した部隊が全滅とあっては、これは放っておけること
ではないので、
「延暦九年三月四日、勅して征夷のため諸国に命じて革甲二千領」ということになっ
た。四月五日には九州の太宰府で海外よりの鉄甲三千の輸入をさせた。そして、
「翌延暦十年正月十八日。百済王(朝鮮から亡命中)俊哲は、坂上田村麿と共に東海
道を進発す」
ということになっている。このとき通訳兼道案内として従軍し、のち征夷大将軍にな
る坂上田村麿は、当時の大和の朝鮮人部落である高市郡出身の苅田麿の伜で、今でい
えば二世にあたる。

 さて、いかに神々の御加護があっても、大陸からの新鋭火器と物量作戦にあっては、
荒々しく勇猛な女軍も、これに抗すべくはなかったようである。だが精いっぱに奮闘
はした。
 その証拠に、朝鮮征伐の際に耳や鼻を削いで証拠としたように、この時の女軍は敵
の身体の一部を片っ端から切り落としたらしい。
 そこで大陸進攻軍は、布を配給されて、これをもって防護用のものを作って進んだ。
 軍用の布であるからと、これを褌と書き、これが和製漢字の第一号だといわれてい
る。
 さて今でもベトナムの山間民族が、シャツの下に褌姿で銃を背負っている勇姿を見
かけるが、事によると、これは日本から渡ったものの名残りなのかも知れない。
 なにしろ当時のベトナム一帯はシャモロ国。つまり今のタイ国の領土に含まれてい
たが、ここの連中が随分ともに日本列島へ進駐してきたらしいとも考えられる。
 だから今でも北海道のアイヌ系は、内地人のことを「シャモ」とか「シャモロ」と
いうし、当時彼らが持ちこんできた南方系のやせた食用鷄を、軍用だからと今でも
「軍鷄」と書いて「シャモ」とよぶ。
 そして彼らの上層部が衣冠を正して胸に捧げもつ笏のことも、「シャモジ」という。
というのは、その裏面にシャモの字が書いてあり、戦争中はその不用品で飯をもった
せいらしい。
 それくらいだから進駐軍として日本へきた連中の中、褌で防護したお陰で幸い一命
をなくさずに済んだ者達は、そのまま住みついて、子孫を今にいたるまで残したのも
多いらしい。だからベトナム人の写真をみると、まるで日本人そっくりな顔が多いの
もそのせいとみられる。

白旗党余類

 ついで、『日本後紀』によると延暦十三年十月二十ニ日。山背の険長岡へ疎開して
いたのが、平地の、「平安京」いまの京都へと移り、ここを新京とした。
 仏教政権が勝利をしめて新しく造ったものだから、一条から九条までみな入口に坊
門があり、仏都として京都はうまれた。千二百年たった今でも、お寺ばかり多いのは
このせいである。
 さて、勝った方はよいが、負けた方はどうなったか。
 今でも地図をみると、「別所」とか、院内、院地。それに上に「白」の冠字と「ハ」
「蜂」「鉢」のつく地名を散見するが、これが、この西暦八世紀末に各地へ分散され
た原住民族の収容地。判りやすくいうならば西部劇のインディアン保護地にあたるも
のである。アメリカの場合は騎兵隊が火器をもって、「みな殺し作戦」を政府命令で
やって、彼らの土地を次々と奪ってゆくために全滅させたが、人口のすくない千二百
年まえの日本列島では、外来民族はそこまでやる必要はなかったから、
「帰順する者には生活を保証する」といった施政方針がとられた。
『延喜式』という九世紀初頭の古記録に地方別に詳しく、「何々方面に稲束何万何千
束」と列記されてあるのがこれである。ただし、これまでの日本史では、「八木」と
米のことをよぶのが幕末まで伝わったから、この解釈をあやまってしまって、
「米が八族の木といわれるからには、延喜式にでてくる稲束は、給食用のものであっ
たろう」
と間違えられた結果、その稲束を一年間で割って受給人口をだし、この原住民数を過
小評価しているが、これは違うようである。
 給食用ならば脱穀したものを配布すれば軽便なのに、稲束のままだったということ
は、これは給食用ではなく、苗にするための種米だったのではあるまいか、と考えら
れる。
 つまり『延喜式』に記載されてある稲束を支給された者たちというのは、
「降伏し帰順し、占領軍の奴隷となって農耕を課せられた」素性の者とみるべきであ
る。
『大日本古文書』に収録されている「正倉院文書」などによると、大規模な掃討戦は
八世紀末であっても、すでに六、七世紀から帰順した原住系には農耕が課役とされて
いて、これらの者は、「白」を部族名にしていたところから、これに人間を意味する
人篇をつけた「伯」というのが、のちの百姓を意味している。だからして、「ど百姓」
と明治までよばれていた蔑称はなにも今日当て字されるような、「土百姓」などでは
ない。百姓は土いじりをするから、土がつくのは当たり前で、これでは蔑みにはなり
えない。本当は、奴隷の「ど」をつけたものであったらしい。
「たみ百姓」という言葉があるが、あれも、「たみ=百姓」ではなく、「たみと百姓」
の二通りの人民をさしていうものである。ところが「百姓」という文字づらから、
(百の姓とは、多くの姓。つまり一般大衆をさすのであろう)といった間違いが今で
はまかり通っているが、百姓が奴隷視されていたのは明治まで厳然たる事実で、
「奴隷の主人であるだんな」は仏教の寺だった名残りに、各自に「だんな寺」という
ものをもたされていて、「生れたときすぐ寺に届けでる」というしきたりがあって、
この奴隷台帳が、俗にいうところ、「人別帳」なのである。
 なにも百姓の利便のために寺で戸籍簿をつくっていたのではない証拠に、この人別
帳によって村々の年貢が割当てられたし、「助郷」という人夫割当ての労力奉仕も、
これによって徴用されていた。
「逃散」という言葉があって、江戸時代に百姓が、その農耕地を棄てて他国へ移ろう
とすると、その領主によって他への見せしめのため磔獄門にされたのも彼らが奴隷視
されていたからに他ならない。
 さて、また話は戻るが‥‥天孫民族に終われ捕えられた原住民系の中で帰順し、稲
束をもらって荒地を耕し田作りとなった者には、「編戸の民」という名がつけられて
いるが、これまでの日本歴史の解明では、稲束を種米とみなしていなかったから、こ
れを
(それまでは給食されていた夷狄の民らが、自活するようになって、もはや稲束を貰
わなくても済むようになったもの)
といったようにどの歴史書にも説明され、『延喜式』で各地の給与稲束の数が年々減
じてゆく状態をきわめて甘く解釈してきているが、どうも、これが根本的な誤りらし
い。
 いくら天孫族が寛大であったとしても、捕虜の連中が自活独立できるまで、食糧不
足の時代に年年歳々給食などできるはずはありえない。これは初めから、
「トヨアシハラミズホノ国であるから、汝これを蒔き育てよ。そして取入れは官にさ
し出せ、さもなくば命はないものと思え」
 脅かして彼らを農耕人種の奴隷にかえていったものとみるべきであろう。
「捕虜は使役に用いるか、殺すかのどちらかしかない」という戦争の鉄則は昔からあ
ったものだろう。
 だから『延喜式』で、「九世紀の初めには俘囚料とよばれた稲束が、三万二千六百
八十八束も必要とした土佐」において、それから一世紀後の、「寛弘元年(1004)
十二月二十日土佐国司解」に、
「減省(減じはぶくところ)二万九千七百束=差引二千九百八十八束」とあるのや、
『太政官符』の寛治七年(1093)六月の条に、「延喜式相模国俘囚二万八千六百
束が今や減省分二万束となり、残八千六百束」という記録から推理してみて、
「給食させていた俘囚共も、一世紀から約百七十年後には、どうにか自活できる編戸
の民のようになったが、それでも一割から二割八分程度の者は、平安朝時代になって
もまだ給食されていた」
と今日の歴史ではなっている。だが世界中何処へいっても、捕虜の子孫になにもさせ
ずに一世紀から二世紀にわたって、ただで食させていたというような国がはたしてあ
るだろうか。
 天国ならいざ知らず、こんな事が十世紀から十一世紀の、一般庶民は米など食せな
かった時代に、捕虜の子孫にだけ米を無料配給していたとは常識では考えられもしな
い。
 どう首をひねっても食扶持ではなく種米だったろう。そして何十束ずつか分与され
るのだから、それを受けた時からもはや編戸の氏になったものと考えるべきであろう。
その例証として、
『延喜式』で稲束を分けられてから二十年後の天長五年(828)の『太政官符』に
は、すでに、「豊前国俘囚キミコ部衣良由は酒食を一般百姓三百六十人に与え、豊後
国の同俘囚良佐閉は稲九百六十四束を提出して、不作百姓三百二十七人の種米として
助けた」とあるし、
「肥前国俘囚である白アキミコベ奥家は官舎や道路掃除をよくやり野心はすでに忘れ
て、その善行はほめられるべきなり」とか、その五年後の天長十年(833)の条に
は、
「二月、筑後の阿比登は自分の私稲をもって弊民(平民の百姓)を助く」
とあるように俘囚がすでに自作農になった上に、大百姓になってしまっている事例も
散見している。
 すると貰った稲束を食ってしまったのではなく、これを種にして蒔いていたのに、
一世紀余たっても、まだ俘囚料が必要だったということは、どういうことになるだろ
うか。それは、
(勤勉な者は編戸の民になったが、怠け者はひきつづき生活保護法でお上の厄介にな
っていた)
といったこれまでの解釈のような考えでよいものだろうか‥‥
 もちろん今まで誰一人として出していない異見であるが、私の考えでは、
「天孫系と戦って破れた原住民族の中には、捕虜となって別所へ入れられたり、稲束
を貰って農耕奴隷になった者の他に、もっと大多数の者が山間僻地へ逃げ込んでいた」
 そして、その連中がやがて仕方なく次々と里へでてきて帰順したから、それに農耕
させるために支給する種米として、俘囚料というものが、すこしずつ減っていったが、
平安朝の終りまであったのではあるまいかと思われる。
 しかし大討伐をうけてから百七十年も二百年もたって、なお投降者があったという
ことは、まだまだ帰順することを潔しとせず頑張っていた原住系が山に多かったこと
をも意味する。
 そしてこれは、さかのぼって『類聚三代格』に入っている延暦十七年[798]四
月十六日太政官符に、
「俘囚らはつねに旧風俗のままで野心を改めず、狩猟を業として、農耕や養蚕をしよ
うとはせず、おまけに住所不定で浮遊すること雲のごとし」
とあるように、あくまで土毛(くにつもの)経済(天然にある木の実をとったり獣を
とって暮すやり方)によって、降伏せずに反抗を示していたことになる。つまり原住
系といっても二通りあって、「ど百姓」となって仏教政権に従った連中と、あくまで
も叛骨をもって山にふみ止っていたものとに分かれる。
 これが一般的には応仁の乱の人手不足の際に、人買いの手によって山から狩り出さ
れ、「足軽」とよぶ第一線の戦場の消耗品にされた。
 しかし祖先伝来の反仏教的連中なので、これは寺院仏閣など荒しまわったから、当
時の公家から、「足軽とよぶ悪党」といわれることになった。
 さて、この連中が戦場で槍を奪い甲冑を自分の力で入手して、上から下までの恰好
をつけたのが、これが当時の言葉でいう、「寸法(ずんぽう)武者」だった。
 ----こういうことを長く書いてきたのは前にもふれたが、「新田の支流が、徳川、
世良田、江田」と分かれたものだといわれるが、その始祖とされる新田氏は『和名氏』
の記録によると、
「上野の新田郡新田郷には、宝泉別所と九合村に属する東別所あり」の宝泉が、その
出生地で、
「新田義貞の祖父新田六郎基氏の三代前の新田の政義」というのが寛元二年(124
4)に執権北条経時に追われてここに匿れ住み、新田党をつくったことになっている
からである。
 それから九十年後の元弘三年[南朝・1333]五月に、新田義貞が旗あげして上
州の兵を率いて鎌倉に迫り、先祖伝来の敵である北条高時を滅ぼしたものの、その良
貞が五年後に越前藤島で足利氏に討たれてしまった後は、やがて室町時代の世になっ
てしまい、彼らは、「白旗党余類」という扱われかたをしだした。そこで新田の残党
は、上州の山から足利末期には、足軽として狩り出されて出てきたり、願人坊主とな
り修験者として里へ現われてきたものの、反仏的な地域へ行った者達は同族として立
身出世もしたが、今川義元の君臨する駿河や遠江あたりに住みついてしまった者は、
次郎や浄賢のごとく、てんで、うだつがあがらなかったのではあるまいか。
 なにしろ今でこそ日本人は一つの民族になっているが、徳川期の前の戦国時代では、
「別所長治記」にもあるように、
「別所小三郎長治は赤松円心の末、播磨東八郡を領し三木の城にあり、門前繁昌、風
俗他とはまったく相違す異人種にして」といった具合に、風俗習慣から容貌まで、仏
教系とは異質であったらしい。それゆえ、次郎や浄賢は異端者として扱われていたの
だろう。
 ----つまり、ここのところを判って貰えないことには、本当の戦国時代も呑みこん
で頂けないし、なぜ次郎のような徒手空拳の者が、やがて徳川三百年の基礎をつくる
かも判らなくなってしまう。
 これは簡単にいってしまうなら、現代の公明党のように信仰心によって一大勢力を
結集していったものとみるべけであろう。『民族と歴史』の第二巻の五にも、これは
はっきりと、
「徳川氏が覇をとなえたのは白山神を中心にした宗教団体で、桜井村大岡村米津村に
住みついていた修験者陰陽師の白木本尊の連中の力に預ること大であった」とでてい
る。
 そこで名のあがっている村は昔の別所系統で、この白木本尊を奉じて徳川氏の世に
してから、彼らは江戸時代には商人で活躍した者も多く、いまの日本橋の東急も、昔
は白木本尊を祀って白木屋といっていた程である。
 なおこれに対して「黒本尊」というのは墨染めの衣まとう浄土宗の仏徒系で、この
ため俗にいう、「黒白を争う」のこれが語源ともなっている。


瀬名姫

「どうだい次郎さん。ここは互いに一番考えようじゃねえか」
 浄賢は思いあまったような眼ざしをしてみせ、唇をまげた顔をまともにもってきた。
「おれは今、お前も知っていよう松平蔵人元康さまのお子のお守をこれからしに行く
ところだ‥‥用事があれば早ういってくれろ」
「そう気ぜわしくせかれちゃあ、なんとも口からでてこんが‥‥、まあ後でいいや」
 丸い顔をひっこませると鉦をチンチン叩きながら、赤松の丘へのぼっていった。
 次郎は、三河の跡目で此方へ養子にきている蔵人屋敷の裏口から、
「へえ‥‥」と身体を縮めて顔をだすと、いま丁度、下女共に指図しながら粥でもつ
くらせていたとこらしく、木の匙で鍋からすくいあげたものを口にしていた瀬名姫が、
「おう手伝いの者か‥‥」と、やさしく声をかけてくれた。そこで次郎は、
「うへえッ」と土間に額をこすりつけながら、
(今川さま御一門で駿河の国は有度郡持舟の領主、関口刑部少輔さまの姫さまでも、
嫁さまとなられると、やはり御台所のたばねをなされまするものなのか)そんな事を
考えたが、やはりそれより、
(なんと麗しい女ごじゃないか、お袂の袖口から覗く二の腕など透けるみたいな美し
さ‥‥世の中に女ごは多いが、これほど綺麗な女人はたんとはおらんずらよ)
と滅多に、顔などみられない瀬名姫だけに、声をかけられて感激してしまった。
 なにしろ次郎が、ここへ出入りできるのは、おばば源応尼の甥の大河内源三郎の妻
というのが、「はしかよけの乳」をだすという評判から、雇われ乳母として通ってき
ているせいである。
(‥‥これは静岡江尻の信康首塚の寺記にでている話である)
 名目は子守でも、次郎のごときは乳母が縁者ゆえそれにくっついて入りこみ、なに
しろ相手が二歳の幼児ゆえ木の実を叩き落したりして遊ばせる、いわば子守りの手伝
いみたいなもの。だから台所口であまりものの雑煮など食させて貰うのが一日の駄賃
というところ。
 さて、この岡崎から人質としてつれてこられ、住まわされている松平元康邸の左は、
やはり小田原から人質としてこちらへきている北条の屋敷。そして右隣りには、この
岡崎と小田原の人質屋敷を警戒する見張り役として、今川義元の臣の孕石主水(はら
みいしもんど)の宅がある。
 いざという時の用心でもあろうか。丸に二引きの今川の定紋を染めぬいた青い藤蔓
織りの仕着せをきた番衆が、樫の棒をついては双方の人質屋敷を覗きまわっている。
 脱走されるのを用心してのためらしい。神経質な松平元康はこれが気に入らぬらし
く、
「小うるさき奴ばらめ」と時おりは濡れ縁まで出てきて舌うちをする。
『国史眼』という古い書では、
「松平氏は、参河東加茂郡松平村よりでて、次第に三州吉良氏の内輪争いによって勢
力をひろめ」となっているが、今川義元が強くなるまでは、三河一国を代々領してい
た家柄である。
 それが時世時節とはいいながら、三州岡崎城をとられ、こうして人質にされていて
は、面白かろうはずがない。近頃はもちろん、ひとりごとではあるが、「おごる今川
久しからず」などと平気でいい放つことさえある。そこで次郎としては、元康の子供
を庭先でよちよち遊ばせながら、
「恐れながら、てまえはどちらさまの御家来とも定まっていない気安い身分‥‥もし
岡崎へお使いなどたてられまするときは、人目につかぬ、このやつがれを」などと、
そっと告げたこともある。
「うん、その時は‥‥」
 捕われのような身では、たとえ一人でも味方は欲しいらしく、元康もうなずいてく
れたりした。
 そこで次郎としては、いつかは用いられる時もあろう。その節には手柄をたてて、
なんとか立身の足場にしたいものと考えた。もちろん浄賢に対しても、
「そのときは相棒として、運を分け与えよう」ともいっていた。
 そこで浄賢も当てにして、まだかまだかと待っていたのだが、肝心な松平元康が、
(うかつな振舞いにおよんで発覚でもしたら、今や日の出の勢いの駿河御所のため、
いかなる目にあわされるや)と案ずるのか、陰ではぶつくさ文句ばかりいって、美し
い瀬名姫をてこずらせはするが、これという沙汰も次郎にはない。だから今日も、こ
こへくる道すがら、
(仕方がないから、ここらで一番考え直さないかん‥‥)つまり、岡崎の松平を当に
するのは止めようではないかと、しびれを切らした浄賢が声をかけ相談をもってきた
のである。
 そこで次郎も台所口で、(‥‥ああ美しや)と瀬名姫をみて胸をときめかしたのを、
今日の収穫として、あとはいつものように幼児の遊び相手を形ばかりにすましてから、
(瀬名姫さまじきじきに味見をされたのだ)と残り物の雑煮を勝手口の隅で立ったま
ま押し頂くなり、さっさとひきあげ、浄賢のこもっている鐘打七変化部落へ足を急が
せた。

「信州川中島の村上義清さまが兵を集めていなさる由で、坂城(さかじろ)の白山さ
まより布令がきた」
 浄賢は同じ信仰の白山神社よりの布令だから、この際、同信心の者はお召しによっ
て直ちに参上すべきではないかと、次郎を迎えるなりきりだした。
「なんせ、あちらへゆけば、こちらの今川さまと違うて、白山さまの勢力範囲ゆえ、
われらのような神信心の者にても、戦さでいっぱしの働きをなせば、武者さまにもな
れようというもの」
「うん、そりゃそうじゃが‥‥」まだ十八の次郎は、そんな遠い所へゆかんでも、此
方で立身できそうな気がしたから、才槌(さいづち)頭をふりふり躊躇したが、
「善は急げじゃ‥‥明日の朝にもたとうではないか」すっかり浄賢はもう乗り気にな
っていた。
「しかしその村上義清というは、信州の白山さま氏子総代の身分には違いないが、信
濃更級(さらしな)の葛尾の城主で、信濃六郡と越後一郡の七郡の領主‥‥そこへ合
力しても、たいして出世はできぬのではなかろうか‥‥」
「そんなことはない。いま次郎さんの通うとる松平元康どのよりは、ずうんと増しで
はないか」
 いいだしたからには浄賢も強情っぱりだから、ひっこまなかった。そこで次郎が、
「おれとおみゃあさんの二人っきりで押しかけていっても、たいしたことはないずら」
 まだ気のりしない口ぶりをみせると、
「以前は三州岡崎で武者奉公をしていたこともある安倍川の大蔵。その安倍川に近い
鞠子の拝み堂にいる宗哲(のちの板倉勝重の兄の板倉弾正)などみんなで五人あまり
は、もう一緒にゆく仲間はつくってある」と、いいだした、これには、
「手まわしがええ」さすがに次郎も呆れてしまったが、浄賢はそれにおいかぶせるよ
うに、
「今川義元さまお膝元では、一生うだつのあがらぬ者ばっかりじゃから‥‥いつかは
他国へでて一旗あげねばならぬことになっとるが吾らの身のさだめ」まずいってから
次には、にやっとしてみせ、
「たとえ七郡の村上義清さまとはいえ、さる天文十七年[1548]の二月には、一
向宗の墨染めの衣をきた仏門者を率いて押しよせた甲斐の武田信玄を、信濃上田原の
合戦でうち破りなさった御方じゃから、きっと白山明神さまの御加護がついとるで、
われらもそれに合力すればさだめし神のお鑑識(めがね)にかなって、よき出世をす
べしとわしは思う‥‥すりゃ、ええ女ごを嫁にもとれようというもの」
「うん、ええ女ごか‥‥」これには次郎もつりこまれてしまい、
「ええ女ごというと‥‥信州には、瀬名姫さまのような臈(ろう)たけた女人もいる
ずらか?」
 つい口をすべらせてしまった。すると浄賢は、
「ああ、いるとも、いるとも。信州は佳い女が、はいて棄てる程にいるというぞ‥‥」
 太鼓判をおすように受けあった。
「そうか。瀬名姫さまのようなのが、たんといてか」
 まだ十八歳だが、生まれつき女人の好きな次郎は、その一言ですっかり肝をすえて
しまい、そこで、
「‥‥よっしゃ行くべえ」今度は自分の方からきりだした。