1126 徳川家康  6

道三入道
 わざわざ会見場所を僧院の正徳寺と指定してやったのに、それに、悪びれもせず白
衣の神信心の装束で、背のところへ御幣までさしたてて押しかけてきた信長に、
「噂にまさる‥‥こやつ強情な小伜め‥‥」斎藤道三は、まず舌をまいて驚いた。
 そこで六十歳のこの男は、孫のような二十歳の信長をなんとかからかってみたくな
った。そこで、
「古来、人の噂では、尾張の者は他所着(よそぎ)には気張って良い衣服を使うが、
平素は煮染(にしめ)のような粗衣をつけ、とんと身なりには構わんそうじゃが‥‥
今もお見うけしたところ、むさい布子に御幣をたて、しかも注連縄まで、いくら信心
とは申せ帯代りに締めてござるは、ちいとばかり、こりゃ異様じゃなかろうかのう」
わざと信長に聞えよがしに、だが面と向かって当人にはいえぬから、脇にいた美濃武
者に声高に話しかけた。
 すると信長も、伴ってきた白衣の家臣を振返ってから、
「われらは、美濃の道三入道どのは吾が妻奇蝶の親父の殿ゆえ、自分の父親も同然と
考え、わけ距てなしの心積りで平素と同じ身仕度のまま拝謁しようとしたところ‥‥
舅の殿は他人行儀に、われらに他所行きの仕度をせいと、いっとられるわ」
 さり気ないふうにいってのけてから立ち上がり、ふふと含み笑いをしながら、すう
っと隣りの控部屋へ引込んでしまった。そこで呆気にとられた道三入道が、如何した
のかと眼をぱちくりしていると、控えを間の戸があき、また信長がでてきた。しかし、
その恰好たるや、
「あっ‥‥」さすがの道三も眼をまるくとびださせた。
 なにしろ信長のいでたちたるや、神主みたいに白麻の直垂を着、手に笏まで捧げ、
厳かな顔つきで、
「たかみくらに、おわします八百万(やおろず)の神々に、謹しみ、謹しみ申さん」
 祝詞を浴びせかけるような剣幕で、大股で近よってきたのには、
「‥‥まあ待ってくれ。雑言はいてこの儂が悪かった。
 これには道三入道も面喰ったらしく、両手をふってあわててやめさせた。すっかり
毒っ気を抜かれてしまったらしく、暫くは茫然としていた。
 だが、まさか何時までも黙ってはいられぬと思ったのだろう。やおら道三は笑顔を
浮かべ、
「まあ来世は儂は四方極楽浄土。そなたは宗派違いの神信心ゆえ、東方の白山の頂き
にある天界へと、離れ離れにそりゃなろうが‥‥この現世に生きとる間は舅と婿の仲
ではないか、まあ誼(よしみ)をともにしようぞ」白けた座をとりもつよう急いで膳
を運ばせ、酒を進めた。
 しかし気になるとみえ、おもむろに声を落し、不審そうに、
「つかぬ事をきくが‥‥皆の者も腰に提げている瓢箪は、まさか水や酒が入っておる
ともみえんが、ありゃ何じゃ‥‥」
 首を傾げつつ、信長の吊るしているのに指をさした。すると信長は、すこし改まっ
た顔つきになり、つと立ち上がると庭前へでてゆき、泉水きわの敷石をめがけ、腰の
瓢箪をひっぱがすようにとるなり、目にも止らぬ早業でこれを叩きつけると、庭一面
にまるで幕でもはったような灰神楽がたった。
「御覧(ごろう)じめされたか‥‥もしも美濃衆が、慮外なことを計られた節は、わ
れらはてんでにこれを投げつけ、槍をふるって屍山血河となし入道さまのおん首をと
って退転する肚でござった」
 ありのままのことをしゃべったのだが、それを道三は、どうとったのか。瓢箪の中
には、灰ばかりでなく近頃噂にきく煙硝ともいうような、恐ろしい火薬など填めてあ
るとでも考えたのか、首をすくめてしまい、ほとほと感心して、
「怖い婿どのを持ったもの‥‥見ると聞くとは大違い。噂では『たわけ殿』じゃそう
だが、さてさて実物にあってみれば、こりゃ出来過ぎた男じゃよ」
 すっかり感にたえたように側近の者共と呟きあっていた。二十歳の信長は、勘違い
している相手が、「蝮の道三」とまで謳われ、父の信秀ださえ頭の上がらなかった斎
藤山城守だけに、
(なんと大人とは他愛ないものよ)と背中で話をききながらおかしくて堪らなかった。
 だから寺の庭石か立木に、一つ残らず家来共に持たせてきた「投げ瓢箪」をみな叩
きつけてやって、もっと盛大にあたり一面を灰神楽にしてしまい、それで美濃衆の度
肝をぬいてやろうかとも思った。
 しかしそんな種明しを行って全部瓢箪の中身が灰だと教えてしまい、ただの目潰し
だけだと判ったら、この道三に逆襲される心配もないでもなかった。そこで信長は子
供っぽい悪戯心は押さえ、
「唐より渡来という火薬は、この瓢箪一つ分で、せいぜい馬三頭を弾き飛ばすぐらい
の威力でござるが、先年九州へ南蛮から渡来した鉄砲の玉薬は、親指の先ぐらいで、
人間一人を吹き飛ばしまするそうな‥‥」
 まるで、さも瓢箪の中身が、道三が誤解している物らしく、それを匂わすような話
し方を信長はわざとした。だから道三は、ますます感心してしまい、
「‥‥われらは、この正徳寺を会見の場所に選んだため、御利益を頂いて命拾いさせ
て貰ったようなもの。これ、みなご祖師さまの御功徳じゃ‥‥もし野っ原や河原で会
見し、些細な行き違いがもとで、ぽんぽん瓢箪を投げられたら、われらはみな今頃さ
ぞかし木っ端微塵であったろう」びっくりしたようにお題目をあげだした。そこで、
「何を仰せられてか‥‥最前はすこし意気がって心にもないことを申しあげましたな
れども、この信長はなんと申せ、お前さまのお子の一人も同然の立場‥‥それに尾張
の跡目にして頂いた重恩もござる。敵が入道さまを狙うような時こそ、この信長は楯
となって瓢箪も投げお守りいたしましょうが‥‥」
と信長は笑いながら頭を下げた。
「おう、よくぞ申してくれたぞ」これには道三も喜んでくれた。
 こんな具合だったから、無事に舅婿の対面はつつがなく終了できた。陽の高い裡に
織田勢は引き揚げてこれた。だから暗くならない裡に木曽川をわたり城へ戻ることが
できた。
「無事に戻ってこれたわい‥‥」と大手門を入るなり信長はしみじみ嘆息した。
 しかしそうした感情を、いま会ってきたばかりの道三入道の実の娘の奇蝶によみと
られたくはなかった。だから上へあがらず草履ばきのまま庭先へ入っていった。する
と、
「‥‥お戻りなされまし」
 転がるように信長を出迎えに駆けよってきた者がいる。みれば蜘蛛の巣がべったり
くっついた白髪頭のような様子なので、初めは見分けがつかなかったが、例の小男だ
った。そこで見下ろしながら、
(こやつめ縁の下に今まで潜っておったのか)
 残していった小男がいわれなくともいいつけ通りにしていたのを、信長は満足した
が、さて恭々しくさし戻されてきた鹿角の火薬入れに眼をやると、きっとして、
「どうして、そない変色させおったか‥‥」厳しい口調で頭ごなしに怒鳴りつけた。
 なにしろ、その乳色のようにすべすべした白い肌合いを、こよなく信長は珍重して
いたのである。
 ところが、ふと目をやると、今返された鹿角はむさくるしい小男同様に汚れていた。
だから信長は、手をのばして指でこすってみたが、それでも鹿角についた飴色のしみ
はとれなかった。
 だから血相をかえキンキン声を出してしまったのだ。頭ごなしにどやしつけられ狼
狽しきった小男は、首をひねって考えこんでいたが、やっと思い当たったらしく、
「申しわけねえです」地面に身体を投げだすようにしてひれ伏してしまった。
「この不埒者め、なんとしたか‥‥」信長は大切にしていた鹿角だけに、肚だちもひ
としお大きく、いきなり足をあげた。蹴り倒された小男は仰向けに転んだ。
 だが小男はあわてて起き上がるなり、藤蔓織りの仕着せ衣の胸をひろげ、肋骨のす
く胸板のところを指さしながら、
「火薬は温めておかねばならぬときき、ここんところの肌につけ置きましたゆえ、そ
んで汗が滲みつき、そないに色変りしたのでござりましょう」情けない声をだした。
「‥‥えっ」そう聴かされると信長の方があわててしまい、
「すると、うぬは、もしこの俺に異変があったと知らされたら‥‥懐中に蔵った火薬
角の栓をあけ、自分の身体ごと点火し、爆発させる気で、ずっと肌身につけ温めてい
たのか」
と、うわずった声をかけてしまった。
「はい、愚図つき仕損じてはなりませぬ‥‥それに信長の殿を失うてしまえば、尾張
もこれ全土が法敵の坊主共の天下となりましょう。そうなれば、もはやそのようにな
った土地に生き延びるよりも、こりゃいっそ死ぬが分別かと心得ました」
 小男は地べたに額をすりつけながらそんな言い方をした。
「‥‥済まんかった。俺の短気を許せい」二十歳の信長はまだ素直だったから、すぐ
十八歳の年下の小者に詫びをいってやり、照れ臭そうに声を落してから、
「なんぞ呉れてやる」埋め合わせのようにいった。だが、さて何も持ち合わせがなく
腰に提げているのは投げ瓢箪ばかりだった。そこで仕方がないから、その一つをはず
して、
「これでも良いか」と聞いてみた。
 すると、やっと四角く座り直した小者は、
「頂けるものなら、なんでも有難く‥‥」如才なく両手をさしのばした。だから信長
は笑ってしまい、
「これは六つ割にしてあって水もくめん。まあせいぜい柄杓にしかならんが、それで
もよいのだな」
 断わりをいいながら下げ渡してやったところ、
「構いませぬ。おん大将よりの最初の拝領物‥‥末長く家宝として大切にし、もし、
この小者が行く末ひとかどの者になれた節は、この瓢箪を馬印に致しまする」たちど
ころに返事をした。
「‥‥瓢箪を馬印にか」びっくりして信長が聞き返せば、
「はい、もし豪うなりましたら、その節は、この拝領のものに金箔をはって、金成瓢
箪の馬印にしまする」とまでいった。が、それを聴くと信長はさすがに顔色をかえ、
(詰まらん物を承知で貰いおって、それを故意に大袈裟に喜び、あまつさえ大言壮語
し己れお売り込もうとは、新参者のくせに油断のならぬ者め‥‥)すっかり不快にな
ってきた。だから、
「もうよい。うのはとっとと彼方へ行け」その小者を追払ってしまった。
 そして水浴びをして身体を拭ってから、ことづかってきた奇蝶への道三入道よりの
手土産物を近習に持たせ、つかつかと本丸御殿へ昇ってゆくと、その信長を待ちわび
ていたように、
「つつがなく、お戻りなされませ、祝着至極」
 すでに式台まで美濃御前と呼ばれている奇蝶が、侍女どもを従え迎えに出ていた。
「うぬが親父の道三入道め。聞くと見るとは大違い‥‥怖しい男じゃと、もっぱらな
噂じゃったが、会うてみればお優しく、ほんに邪気もなく他愛ないお人じゃったぞえ」
 道三に自分がいわれてきたような事を、信長は口移しみたいにしゃべった。そして、
「俺が、目潰し用に沢山つくらせ、持たせて行った『投げ瓢箪(ふくべ)』を、まさ
か中身が木灰とは気づかず、火薬と思うて度肝を抜かされ、桑原々々とばかり盛んに
題目をあげてござったぞ」
 いつも道三入道の娘というのを鼻にかけ威張っているのをへこますのは、この時と
ばかり大きな口をあけ信長はカラカラ笑った。すると奇蝶も、それに合わせてケタケ
タ笑いこけた。
 暫く二人で互いに笑い興じていたが、眼と眼が重なったとき、信長は、
「箸が転げてもおかしい年頃とは申せ‥‥正徳寺へ行ってきた俺が笑うは良いが、な
んで留守していたそなたが、自分の父親のことを嗤ったりする」と咎めてみた。
 しかし奇蝶は、また涙まで浮かべ、さも苦しそうに、ケタケタと、小袖で顔を包み
つつ笑い崩れた。
「いくら女夫(めおと)の仲とて、そうそう夫に付き合って‥‥おのが親を笑いもの
にはせぬものぞ」
 あまりのことに信長も呆気にとられ窘(たしな)めてみた。すると、やっと顔をあ
げた奇蝶は、眼をこすりながら、まだ笑いが止らぬ顔つきで肩をゆすぶり喘ぎながら、
「‥‥投げ瓢箪の思いつきを、信長どのは、ご自分の考案と思うてござらっしゃるが、
あれは昔からある京の山崎男八幡さまの護符瓢箪(まもりふくべ)と同じこと‥‥え
ごまやひごまの油を商う所では出火が多く、というて油火事に水を掛ければ広がるば
かり、それかというて砂をひっ掛けるよう叺(かます)に入れておけば、これはすぐ
湿って塊りとなりますゆえ、油屋では、火消し用に乾砂を割瓢箪に入れ、湿気どめに
消炭で栓をして柱にたんと掛けておくのは慣しとの由‥‥わが父の道三は若いころ、
ずうっと松波屋とか申すその油屋渡世をしておじゃったのでござりますぞえ」
 涙をこぼして奇蝶は身体を捻って、さもおかしそうにまだ笑いころげながら、
「信長どのが得意満面になって、投げ瓢箪をたんと持って行かれたので、さぞ父道三
も当惑して、おとぼけするのに、きつう苦労したでござりましょうな‥‥」
 顔を両手で覆いながら、またケタケタ笑い続けた。だが聴かされた方は、しゅーん
とした。
(笑い事ではない)と信長は眼をむいた。(俺を庇ってくれたのかも知れんが、さて
さて道三は怖ろしい奴)と思い、なんとか処置せねばなるまい‥‥信長はそんなふう
に考えこんでしまった。

牛一と源内
 従来の織田信長像とここに現れてきた信長とは、家康同様に大変に相違している。
だからここまで読んでこられて、とまどっておられる方もいられるかも知れない。
 それでは従来の信長像は何をよりどころにしてできあがっているかというと、この
種本は、『信長公記』である。そして、これが従来信用されてきたのは、信長の祐筆
を勤めていたといわれる太田牛一の作と伝えられてきたせいである。なおこの自筆本
とうたわれるのが前田家に伝わった一巻。それに筆写本の町田本十六巻、他に内閣文
庫に納まっている『原本信長記』という筆写本が、流布されている『信長公記』の底
本となっている。しかし、これが、(頭ごなしに信用されている理由)は何かという
と、まさか太田牛一自身の筆とは思えもしないが、その『信長記』第十三の初めのと
ころに、
「本記事に一点の虚飾なきを誓い、除く箇所なく、また添へる部分もない」と明記さ
れ、「不除有」「不添無」と堂々と謳われているせいだろう。
 そこで薬の効能書ではないが、これが文字通りに信用されてしまい、良質な史料と
頭からきめこまれ、それをもとにして、明治十四年以降、これまでのような信長像が
できたものらしい。つまり、
「----もっともらしい事をいう奴は、みな嘘つきで、さも本当らしい話こそ、みな眉
唾ものだ‥‥」
という当然な論理さえ、これに今まで眼を向けた人はいないから、これまでのような
信長像ができあがってしまったのだろう。
 ただし信長が死んだ天正十年(1582)より四十年あとの元和八年(1622)
四月十一日に、一人だけ反対意見が現われた。それは、三河党の大久保彦左衛門忠教
(ただのり)で、
「子供にこれを譲り決して門外へ出すべからず」と但書つきで彼が書いた上、中、下
三巻よりなる、『三河物語』が、それであって、その中で、『信長記』を読んだ同時
代人の大久保彦左衛門は、
「さてまた『信長記』を見るに、これまた偽り多し。三つに一つはあった事だが、あ
との一つは、似たような事はあったが出鱈目か、他の一つときたら、これはまったく
の根も葉もない嘘っぱちばかりなり」と痛烈に批評している。そして、その具体例ま
で部分的につけて残している。[この辺りの八切氏の記述は、太田牛一の『信長公記』
と小瀬甫庵の『信長記』を混同されているようです]
 ところが後年、この大久保彦左衛門という人は、なんの因果か知らないが、勝手に
講談本の主人公にでっち上げられてしまい、その彦左の虚像と実像を、つまり講談本
をも歴史と間違えるような専門家もいて、彦左衛門のいうことではと、せっかく彼の
書き残したものがあるのに、それを解明の手掛かりにしようともしなかった。 おま
けに、
「天正七年九月十五日遠州二股城において、岡崎三郎信康が殺されたのは、その室で
ある信長の娘の五徳姫の密告によって、信長が家康に命じて殺させたのである」
といった俗説すら真にうけてしまい、
「彦左は徳川の忠臣である。だから信康の死を悼み織田信長を怨んだ。そこで信長記
に書いていることも頭ごなしに、これを非難したのだろう」
という三段論法のもとに今日においても、この『三河物語』の論難は、てんで問題に
されていない。そして今では信長が信康を殺させたのは、
「己れの嫡男の秋田城介(のち中将信忠)よりも、信康の方が優っているのに妬心を
抱いたせい」と解釈されているが、これとて講談式発想でしかなく、徳川政権のもと
で発祥したこじつけである。
「鹿の立物の兜をつけたる織田信忠の働き目ざまし」とは、この時代の戦記にみな出
てくる点で一致し、奇妙丸から菅九郎に名のりをかえた十四歳の永禄十一年の池田城
攻めの時から、二十一歳の時の岩村城攻めでも、いつも信長の長男は、先登になって
突撃している。凡愚であった岡崎信康などとはまったく比べものにはならない。
 信康が死んだとき、その伴をしたのはわずか近習二名であったが、信忠が天正十年
六月二日、宿舎の妙覚寺から二条御所へ移って討死したときは、その伴をした村井貞
勝父子、団平八、みな一城の主ばかり五百人が、これに殉じ、脱走したのは「家康の
生母於大につながると俗称される三河苅屋城主水野宗兵衛と、織田有楽」のわずか二
名という格差でもはっきりと優劣は大きく引き離されている。
 これから考えても俗説のように、その娘をスパイに使ってまで信長が岡崎信康の偉
丈夫ぶりをおそれ、将来わが長子信忠の敵となるのを心配し、家康に殺させたという
俗説はどうもおかしくなる。
 しかし「近江右衛門義綱」の筆名をつかった、近江の百姓の伜の沢田源内という元
禄時代の本つくりがつくった贋本の『三河後風土記』や、それを史料と間違えて下敷
きにした『岩淵夜話』になると、岡崎三郎信康を天晴れな若武者に仕立てあげたのも
残っている。しかし信康に関してはっきりいえる事は、彼についていた岡崎衆を率い
て「東三河衆筆頭」だった石川数正が、浜松や静岡衆を率いていた「西三河衆筆頭酒
井忠次」と同格であったが、信康の死後は冷遇されていたたまれなくなり、信康の娘
を貰った連中と共に逃亡して、秀吉の家来になってしまった事実ぐらいだろう。

 さて、その贋本メーカー沢田源内の作った軍記本に『浅井日記』というのがある。
 ところが、これが不思議と原稿用紙に書き写して対比してみると、太田牛一作とい
われる『信長記』と一世紀の距離があるべきはずなのにそっくり同じである。もとも
と源内という男は、重要文化財を寺の執事が盗み売りをして有名になった京青蓮院の、
その当時の尊純法親王に稚児として奉公中に、銀の仏具を盗みだし追放された経歴が
あるそうだから、やはり同じ手口で太田牛一の物を盗作したといってしまえば、これ
はそれまでの話だが、読み比べてみると引っ掛かるものがありすぎる。
 なにしろ源内は、生活上の米塩のために、一世紀前の架空の作者となって、次々と
今でいうベスト・セラーを書いたのだから、もっとも武家に受ける戦国時代のものを
中心にした。
 だが、それを書くとなると、中心人物はどうしても織田信長なのに、彼の贋作リス
トには、<信長伝>とか<織田日記>といったタイトルのものは見当たらない。
 絶対に書いているはずなのに、それが見当たらないということは、これは、どうや
ら源内の<にせもの>が、信長関係だけ本物として通用されてしまったせいではなか
ろうか。どうも、そうした疑惑がわく。<贋本つくり>の、この大作家の沢田源内は
元禄戊辰(1688年)に七十歳で病没したというから、『町田本信長公記』の筆写
されたという寛永期も、彼が二十六歳までの年号であるし、『原本信長記』の方は、
源内の死後六十二年たっての筆写が伝わっている。ということは、年代において、さ
して食い違いのなかったこと、つまり源内が書いたものが写本で広まった証明にもな
ろう。

 これまでの信長像が生まれ出た母胎のような『原本信長記』や『町田本信長公記』
を、太田牛一のものを換骨奪胎した一世紀後の沢田源内の<贋作>と認め、否定する
ためには、これにはまず太田牛一の素性から検討して入らねばならない。冨山房『国
史辞典』によると、
「尾張春日井郡安食村に生まれ、通称又助。近江の代官を勤め、のち秀吉に使え、天
正十七年伏見の検地奉行をつとめ、和泉守に任官、のち秀吉側室松丸殿づきとなり、
慶長十五年八月八十四歳まで生存と『猪熊物語』の奥書にあり『信長記』の他に著書
多し」ということになっている。
 ところが木曽川をこえた岐阜の今の岐南町には<印食上人>で知られるその地名は
あるが、『国史辞典』にいう愛知県春日井郡の東西に、当時もそんな安食や印食のよ
うな所は存在しない。
 これは<尾張万歳>の発祥地とされている、尾張春日井味鋺(あじま)村の間違い
であるらしい。
 山崎美成の『民間時令』に、
「<無住道跡考>に曰く正応五年(1292年)頃より万歳楽と号し、正月の初めに、
寿きの謡をうなり家々にて歌わしむ、正月以外は鐘たたき鉢叩きを業となす」と来歴
がでている部落である。
 沢田源内没後五十年目にあたる天文三年(1738年)の『尾張万歳由緒書上げ書』
にも、
「往古より陰陽師代々あい勤め候者の頭分が十六人これあり」と明記されている。
 つまり太田牛一というのは尾張万歳の陰陽師部落出身。ふつう別所とか<院内>と
よばれ、駿河以東でいう「鐘打七変化部落」と同じ七世紀の頃の原住民捕虜収容所の
出身者である。
 もちろん織田信長とても、やはり同じように、
『荘園志料』、『妙法院文書』は、「越前国八田別所は、平泉寺僧良覚開発の地なり」
と康永三年[北朝・1344]七月の記録にある。ただしこれは南朝年号で[北朝の
誤り?]、北朝の興国三年[実は南朝・1342]つまり1342年に当っている。
そして、これには、はっきりと、
「越前丹生郡織田庄の内の八田別所は、尾張織田家発祥の土地なり」と付記されてい
る。
 だから今でも名古屋には八田とか八坂の地名がのこって、有名な『安国寺文書』に
も、ここの中村出身の木下藤吉郎をば、
「さりとて、八の者にて候」と頭ごなしにきめつけてしまい、この地方は、はちと発
音を上につける蜂須賀、蜂屋といった地侍の集団居住地で『戦国大名』などの著者は
これが判らないからして、
「はたらきもの、と呼ぶ一団があった」などと説明しているが、名古屋市では、あっ
さりと、八の字を○で囲み、これを市章にして今日に及んでいる[尾張八郡に因むと
いうのが通説ですが]。
 信長の父織田信秀のいた勝幡城跡には、今は何も残っていないが、千葉県香取郡小
見川へ、「織田のはた」をもって分離したと伝えられる織幡(おりはた)には今日で
も遺物があるが、なにしろここは、「別所千軒」とよばれ、往年は栄えたところで、
花見寺には鎌倉期の、常世田薬師堂には平安期の、立派な薬師如来が安置され、織幡
別所の白山権現にも三十センチほどの白山神の神体がある。
 これは仏教を奉じて渡来した天孫族が、反乱する原住民を捉え収容所へ隔離居住さ
せたときの同化政策として仏のうちでも「東方瑠璃光如来」とよばれる原住民むきの
東光説の薬師如来を、彼らに信心させようと当てがった名残りである。

 さて、現代はすべて分業時代であって、「赤ん坊が生まれるとき、七五三のお祝い、
つまり生産メーカーの方と、交通安全その他のセルフサービスなど、生存中は神さま
の領分」
「しかし死亡診断書がでた後は、初七日、四十九日、一周忌、それから忘れられるま
でおこなわれる法事は、お寺さんの方の分担」と一般には分けられ、特にえらい人や
護国の英雄だけが、除外例として、死後もお寺でなく、神社になっている。
 ところが中世紀[期?]というのは、現在のように各宗教が仲よく受けもちを分担
するということはなかった。なにしろ「輪廻」という説が信じられていて、人間は何
度も生まれ変ってくるものと思いこまれていた。だから現在つまり生きているという
ことは「生きるは一定」というぐらいで、生まれ死ぬのを繰り返す内の一部分だとみ
なされ「七生報国」の言葉さえあった。そこで各々その宗旨にこだわっていた。
 仏を信ずる者は西方極楽浄土へゆき、そこで一応は成仏してから、またこの現世へ
舞い戻って生まれ直して来なくては無間地獄で永遠に迷ってしまうことになる。だか
ら、仏徒の者が神徒側へもし誤って死後いったら、もう浮びあがれず、成仏できずに
宙に迷っていなければならない。
 だからヨーロッパでも中世紀はキリスト教と回教徒の殺しあいだったとされたが、
日本でも同じことで神徒と仏徒との戦いだった。だから、この時代の太田牛一が同じ
系統の信長を書くのなら、どうしても書くべき立場というものがあるべきである。こ
れは家康の臣が書いた『天正記』などには、
「家康が東光院へお詣りして、いくら寄進した」などと詳しくでているのに比べても
判るが、牛一作と伝承される『信長記』[信長公記?]には、(坊主と叩っ斬った、
焼き殺した)は出ているが、何処を拝んだ何を寄進したなどとは出ていない。まった
く無宗教的感覚で書かれている。
 しかし神徒であるがため延暦寺を焼討ちにし、高野山の僧俗を皆殺しにした信長を
書いているにしては、あまりにおかしすぎる点が多い。だからして、
(明治から流布されてきたこれまでの信長の種本になっているもの)は、神仏混合時
代に入ってからの贋作と推理され、儒教がひろまってからそれに合わせて筆写された
物が稀覯本として唯の三点だけ伝わり、明治十四年に刊行された『史籍集覧』に珍本
として転載され、これが間違ったまま信用されて史料扱いをうけ、現在の織田信長の
虚像ができてしまったのではなかろうか。
 さて、なぜ織田信長の伝承には故意に神徒系の血筋という、当時としては決定的な
事実であった宗教的な個所が、後世になるとみな抹殺されているのかという疑問。
 次に徳川家康の場合も、北条早雲のごとく前身がまったく判らないまでも一向に英
雄として差し支えないのに、どうして徳川、松平の二つの姓までもたせて、すべてを
隠しこんでしまうのか。
 今日においては織田信長の血統と徳川家康の血脈が、共に足利時代に白旗党余類と
よばれた原住系だったのは判りきったことなのに、徳川氏の儒官は、信長をもって、
「源氏に討たれる必然性のあった平氏の末であった」といったように作って伝えてい
るのは何ゆえか。
 いろいろおかしなことがつみ重なっている。
 江戸末期にいたって『真書太閤記』や「絵本太閤記』は終には出版が許されたが、
信長関係はほとんど発禁だったのは、これまた、どうしたわけだったのだろうか。
 家康自身は信長殺しは光秀でないと認めていたのに、後世の江戸の儒家は幕末の頼
山陽にいたるまで、みな犯人を光秀に仕立て上げる必要があったのは、はたして如何
なるためだったのか。
 あらゆる謎は、やはり家康と名のった人物にあったことは間違いないようである。
 そこでひとまず尾張の信長から、まだ駿府にいる次郎へと話を戻してゆく。



                願人坊主

酒井浄賢

 駿府(いまの静岡市)は、駿遠三の三国を領有する今川義元の居館のあったところ
で、「駿河御所」とよばれる義元は百万貫の所領を誇り、東海一のお屋形とうたわれ
ていた。
 なにごとも都ぶりにするのが好きな義元は、牛車をひかせたり白銀の金具をうった
几帳で囲った輿にのって、都大路をねり歩くように府中の町並みを通るが、この日も
賎機(しずはた)山の麓にある大竜山へ、今はなき太原雪斎の墓参をすませて戻って
きた義元の行列が、宮ガ崎の向う辻の松並木にかかってきた。
「次郎さん‥‥」昔は一郎と呼ばれていた浄賢坊が呼びにきた。
 別に見たからといって、どういうものでもないが、やはり男として、仰々しい行列
をみると、恐れいるというのではなく、なにか発憤させられるような刺激をうけるせ
いだろう。
 だから次郎とよばれている次郎三郎も、
「ほいきた‥‥」行列をみに駆けていった。
 しかし通り道まで出てしまっては、土下座をしなくてはならないから禄すっぽ見ら
れない。そこで二人とも榎の樹をみつけるなり、
「これなら、ええずらよ」とよじのぼった。そして枝のでているところへ跨ってから、
「駿河御所さまには及びもないが、せめて、ひとかどの武者さまにはなりたやな」
浄賢坊の方が羨ましそうに、薙刀をたてて供奉する武者行列にみとれてまず唸った。
 坊とよばれるが浄賢は、いわゆるお寺さんではない。願人坊主といわれる修験者で
頭もなぜつけに毛をのばしている。一緒の次郎三郎も数年前まではそうだったが、今
では宮ガ崎一帯の町役の走り便い[『使い』の誤植?]をしている。だから延ばした
髪を藁しべを元結がわりにしてくくっていた。
 二人は榎の木の上で富士おろしの風に髪毛をなぶらせながら、
「ここにいちゃあ、とてもお武者にはなれぬで、いっそ他国さ行くべえか」とも愚痴
りあったものの、駿河というところは富士の高根から吹きおろしてくる風は寒いが、
陽あたりは滅法よくて凌ぎやすい。
 それに海が眼の前にひろがっているから、汐のひいた時に沖の岩まで泳いでゆけば
竹串で魚をつきさせるし、わかめひじきの海藻もとってこられる。
 陽気がよくって食物が手に入りやすいということは、どうも他国へはゆきかねる事
になる。
「おりゃ都から旅してござった山伏どのにきいたがのう‥‥ここの御所さまのように
額に朱丸や黒丸をちょこんとつけるは、ありゃ天竺の習俗じゃそうな」浄賢坊がぽつ
んといいだした。

 今では印度でも男はつけず、ヒンズウ教の女性だけ既婚の目印に眉の上に、色紙で
もはったように小さな朱の丸をつけているが、昔は僧院などで、高僧のお手つきの稚
児には、他の者が想いをよせぬように朱丸をつける習慣があったというが、私がこの
春、カルカッタへ行ったとき、グランドホテルの近くの電車道の回教の寺院で、色は
黒いが牛若丸みたいに眉の上に桃色の塗料を二つつけた少年をみかけた。後を追いか
けて写真をとろうとしたが、回教の寺院は靴をぬぎ足を洗って浄めてからでないと、
上へはあがれないから、後をつけて行ったが諦めてしまったことがある。
 今川義元は眉の上に丸をつけていた他に、当時の公卿と同じに口中をお歯黒で染め
ていたといわれる。これはどうも朝鮮や中国の慣習ではなくやはり印度のものである
らしい。
 今でもカルカッタの市中では辻ごとのバラックに、あぐらをかいた男が小さな木の
葉に、びんろう樹の実をつぶしたのに香料をのせる作業を忙しくやって、ずらりとこ
れを並べて売っている。
 それを通行人が次々と買っていってその場ですぐ葉を二つにまげて口中へ放りこん
で噛む。現代では歯を真っ黒には染めないが、それでも噛みながら赤い唾をはいてい
るのを見かけたし、一個買って口へ入れてみたが石灰臭く肉桂みたいな匂いがして、
とても慣れぬ者には噛めなかった。

「天竺でも唐でも、そんなことは構ったこっちゃない。それより今切の浜(弁天島)
から、どんどん入ってくる南蛮の火薬が問題ずらよ」
 輿の回りを警固している丸にニ引きの漆笠の鉄砲足軽の群れを、次郎は見おろしな
がらいった。
「あないに鉄砲を揃え、南蛮からの火薬を手に入れるということは、百万貫の駿河御
所さまでのうてはできんこと‥‥やはり吾らは分相応に雑兵などお取立てを頂き、よ
く御奉公して立身させて貰うしかないじゃろ。とてもすぐとはゆくまいが、うまく手
柄でもたてたら、お武者さまの端くれ位にはなれるかもしれんずら」
 行列が遠ざかってゆくと、浄賢坊は両手に唾をつけて案外身軽にすらすら降り、途
中から背をむけたまま、ふわっと腰をひろげてとびおりた。
 しかし用心深く樹肌を爪でかきむしるように下までたどり、降りてきた次郎の方は、
「若い者がそんな考えでどうする‥‥弓じゃ鉄砲じゃと得物(えもの)のことばかり
いっとって、そんでええんか‥‥やるというなら徒手空拳でも立たねばいかんずらよ」
ぐっと睨む真似さえした。そして、
「願人坊主が雑兵でもよいから、そちらに取立てて頂いて末はお武者に、とはなんた
る世迷いごとじゃい」意見をしてきた。
 ----法界節をうなりながら、勧進、勧進と回って歩いた江戸末期の法界坊がこの時
代の願人だった。
 が、ふつうの僧侶のように檀家をもつという保護制がなく、この時代は馬の病を治
す霊獣とされていた猿をひいて、馬を飼っている所を次々と回って歩き、お祓いをし
たり加持祈祷をしていた。
 つまり江戸時代の末になると彼らの人口がふえたために、法界坊のような鉦たたき
の物貰いと猿回し、それに幕末の剣豪の千葉周作の父のような馬医者とに分かれてし
まったが、その当時は一つだった。
 なお、次郎三郎がのちに豪くなって天下統一してからも、
「わが家の産土神は、日枝山王である」といって、猿をもって守護神にしたのは有名
である。
「山の王」つまり山王さまというのは猿のことであるし、別名を「庚申(かのえさる)
」といったから、今でも地方へゆくと江戸時代からの「庚申塚」や「庚申待ち」とい
った行事も伝わっている。これは、
『落穂集』の中にも、小田原合戦後関東へ所領更えをいいつかった家康が、太田道潅
の築いた古い江戸城の検分にきたとき、
「この城に守護神なくば鎮守の社に、坂本の山王さまを勧請しようと思うたに、すで
に山王さまの祠が城内に祀ってあるとはめだたいのう」と案内役の榊原式部大輔にい
った。
「まこと奇瑞(きずい)のこと。これは御家万歳武運長久子孫繁栄の吉瑞にござりま
する」
 かしこまって答えたところ、すぐに家康は、
「いかにも、その通りじゃ」御機嫌ななめならず大満悦だったという挿話がでている。
 元禄以降は圧迫されて、かつては神人扱いされていたこともある猿飼部族の願人が
落ちぶれて物貰いになったが、駿府の願人部落だけは、なにしろ次郎三郎や、酒井浄
賢、そしてのちの京所司代板倉勝重らの発祥の地だけに特権があったようである。
 つまり幕末までは府中猿屋町に住んでいた願人や猿回しは、「御用」の提灯をもっ
て東海道をゆききする旅人を検問して、「お猿さまへ」という奉納銭を出さないと、
十手でこづいたり棒で脅し、否応なしに金をまきあげていたのが、太田南畝の旅行記
などにもでている。
 それに、次郎三郎ら願人坊主の部落というのは、
「駿府誌」によると、初めは宮の前町にあり、天正年間に八幡小路、のち延宝年間に
川の辺、馬淵に移されたが、府中の足場として猿屋町が堪り場にされていた。という
のはその傍の横田町に、駿府の牢屋敷があって、そこの取締り首きり方も「御用提灯」
をもつ彼らの仕事だったからである。これの例証として文政元年(1818)書上書
がある。

   われらは駿府御牢屋敷の御役を相い勤めきたり候、元来われらのことを
   「説教者」というは、説教しながら勧進してきたためで、世によろがる
   豊後節、義太夫、文弥 節、外記土佐節、浄瑠璃の類、人形芝居もみな
   同類にてござ候なり
                  文政元寅八月 組頭弥六 名主儀兵衛

 この説教節自体が浮かれ節、ちょぼくれとなり、桃中軒雲右衛門によって浪花節に
なり、人形芝居が今の文楽になったのであるが、「御用」「御用」の方も、次郎三郎
の出身がこれだったから鳥羽伏見戦争でやられ薩摩隼人に警察権をとられるまでは、
徳川三百年の間は各地の願人坊主やささら、茶筅といわれていた連中が、今日の警官
の役割をして文久二年[1862]までは各地おやくざたちが十手捕縄をもっていた。
 よく映画などで、「おのれ不浄役人め」とか、みえをきって、「不浄の縄目にかか
る覚えはない」といったことを明治になってからの芝居や大正の映画で口にしたのは、
これが原因である。
 また彼らは、あて字は鉢、蜂などと色々使われるが、一般には、
「はち」つまり「八」といわれた。だから江戸時代などは、片っ端からでっちあげを
しては犯人をこしらえあげていたので、「嘘っ八」とか「嘘の三八」というのは、三
河の八が各地へ根をおろしていたので、それを縮めてよんだもので、「八部衆」「八
部さま」とよばれた。