1125 徳川家康  5

 元旦、ニ日、三日とたっても、平手の家からは、馬を曳いてくるどころか、素手で
さえ年頭の賀詞に誰もやって来ない。だから堪りかねた信長は、弓衆の浅野又右と槍
衆の堀田左内に人数を率いさせ、
「力づくでも構わんから、当主の平手の爺めを引き立ててこい」といいつけて出して
やった。
 だから四日の昼すぎになって、渋々と平手政秀は、まるで追い立てられるような恰
好でようやくやってきた。だが人払いをさせた信長とニ人きりになると、祖父として
の権柄づくな面構えを取り戻し、二十歳にもなる信長に、
「これ三郎(さぶ)、わりゃ殿様になったと、でっかい面しとるが、少しはいろんな
事を考えてみい。わしゃそなたのやり口には料簡ならんわい」
 まるで子供を叱るような高飛車な態度で、連れてこられたのが不服そうに、ぐっと
白く飛び出た眉毛で睨みつけた。
 呆れ気味に信長が黙っていると、それをよいことにし、続けて政秀は、
「今のままでこうしていてみい。わりゃ嫁女の奇蝶の尻に敷かれっぱなしじゃから、
そのうちに残り少のうなったこの尾張も、すっかり美濃に押領され併呑されてしまう
は眼にみえとる。そりゃ婿養子同然のわりゃは、それでもさしつかえもなかろうが、
それでは他の尾張者はどないなるかや‥‥みんな美濃関の金山(かなやま)へ連れて
ゆかれ、そこで穴掘り人足にでもされてしまうが落ちじゃろうがのう」一息に言って
のけた。
「・・・違わぁい」そこで負けずに信長もそれに言い返した。
「去年俺が鳴海の赤塚へ出陣した折も、合力してくれるとはいったが美濃衆の助けは
断わり、この城の者だけで山口の伜の軍勢と槍合せしたの、は爺とて知っておろうが
‥‥」
 なにも美濃の助けばかり受けているのではない、ということが口にしたくてそう弁
解したのだが、
「じゃによって、このお城の衆は馬乗り武者だけでも三十も討たれ、山口勢の上槍
(うわやり)突き崩しに追い捲くられ、わりゃ、逃げ戻ってきたではないか」
 猪古才なといわんばかりな表情で、平手政秀は鼻先でせせら嗤った。そして、
「‥‥なんせ山口父子は名だたる武勇の誉れあつき武辺者。それに駿河の今川や三河
の松平の後楯がつき勢いづいとる‥‥いいか、昔から前門の虎に後門の狼という言葉
もあるが、うぬが舅の道三入道とて隙あらば、この国を押領せんと企てておる。つま
り今わりゃは、腹背に敵をもっとるのを自分で知りくさらんのか」頭ごなしである。
「爺に教わらんでも、それぐらいのことが判らいでか」
 あまりのいいぐさにむっとした信長が、ぐっと睨みつければ、
「だったらこの際、悪いことはいわん。神信心はすて御仏の加護を願うしか、わりゃ
の生き抜く道は他になかろう‥‥儂じゃとてもうこの齢じゃ。なにも己が娘の生んだ
孫が憎うて疎略にしとるわけではない。改心して宏大無辺な仏の恵みに転宗(ころ)
んで縋る気さえあるのなら、長島の『門徒構え』にも話しの仲立ちはしてやる‥‥あ
そこに同類して、わりゃも仏門に仕えてみい。大坂の石山本願寺からも越前の加賀門
徒からも、兵もくれれば銭も貰える。そうすりゃ駿河や三河の者に横領されとる土地
とてわけなく取り戻せるし、日蓮宗の斎藤道三入道とて、同じ仏門の領国には仏罰が
恐ろしゅうて、よもや手は出すまい‥‥なぁ勘考さっせ。この爺が孫の不為になるこ
となどなんで言うものか」
 意見するように政秀は、ここをせんどとまくし立てた。そこで、
(言われてみればこの窮地を打開するには、ものの道理のようにも受け取れる‥‥)
 信長も思った。現在住まっているこの那古野城さえ、すぐ鼻先にある中村城が駿河
方ゆえ枕を高くして寝られぬ昨今である。いつ何時なりと攻め込まれるが判らぬのが、
信長の今の立場だった。
 それに、尾張本城の清洲の斯波家の重臣共が父信秀の在世中には、その武威を畏れ
て縮こまっていたのが、近頃になるとどうも若年の信長を侮り、動きがおかしくなり
かけてきていた。
 去年の鉢月十六日には、清洲城から討って出てきた清洲の坂井大膳らの軍勢と、や
むなく十九歳の信長は戦ったことがある。海津口、松葉口でかろうじて敵を食い止め
たものの、その時信長は二ヶ所に及んで矢傷を負わされてしまった。だが国内の敵は、
なにも清洲城の斯波の重臣ばかりではない。
 もともと織田一族とはいえ、たかが分家の家来筋にあたっていた織田信秀に、ぐっ
と頭をおさえつけられていた織田本家の連中が、もう今やみんな敵にまわっている。
信秀が死んで若年の信長が跡目につくと、彼等は口を合せ、
「三郎信長は生れついての馬鹿者ゆえ、あんな者は立てられん」と、まず尾張上半国
の守護代の織田彦五郎が宣言した。仏の教えに帰依している尾張下半国守護代の織田
伊勢守も、それに合わせて、
「自分の父親の葬式に遅参し、勿体なくも御本尊の仏体に乱暴狼藉の沙汰を働くよう
な愚鈍者(うつけ)は、古今にその例もきかない。あないな者は廃嫡せねば、尾張の
国の大事であろう」と、その居城の岩倉城に反信長の者共を集めているという噂がも
っぱらである。
 これに呼応して、信長には肉親の叔父にあたる守山城の織田孫三郎までが、
「亡兄の織田信秀はえら者じゃったが、こんこん馬の信長めは、親に似ぬ不肖な伜‥
‥あれでは危のうて見ておられん。儂が亡兄の跡をついで、尾張八郡を恢復してみせ
よう」と宣言しだした。
 ----だから、それらの情勢を噛みしめて考えれば、まったく孤立無煙にも均しい信
長は、
(これは平手の爺が言うように、白の字を頭につけた白鳥神社の熱田源太夫の宮や、
昔ながらの白山明神への信心を棄て、仏果を願って発心するのが今となっては唯一の
道かもしれん)と、すっかり迷ってしまった。なにしろ父の信秀さえ仏教徒の軍勢と
戦うときは、相手の勢いをそごうと、「南無妙法蓮華経」の髭題目の旗を陣頭に押し
進めては、
「仏を使っての嘘は方便として許されるげな‥‥」などと言ったりしたそうだ。
 そして平手一族のように、たとえ三、四百でも同勢の集められる豪族の娘なら、父
信秀は仏信仰の者と承知でもそれに子を生ませ、その一族を己れの寄騎にし、味方に
繰りこんでは己れの戦力を増していった。だからそうした父のやり口を思い出し、あ
れこれと考えだすと、まだ数えで二十歳になったばかりの信長としては、心に迷いが
生じてしまい、
(わしとてなんで孫の三郎が憎かろう。これも、お前が可愛いからこそ言ってやるの
だ)とお為ごかしに政秀から、訥々とやられては、つい考え込まされてしまうという
ものである。
 だがしかし、死んだ母の事を想うと、
(この爺や伯父どもに、母じゃは成敗されて殺されたくさいんじゃ)と、その口惜し
さといまいましさが、ぐうっと胸許にこみあげてきて、信長としては何くそとばかり、
烈しい敵意の焔がむらむらして、
(よし、今の俺にはそれしか途がないとて、誰が改宗などするものかや)と燃えたっ
てくる。
 それは幼い頃の事である。だから信長には、たいして明確な記憶ではない。
ただ腹病みがすると、母がいつも蒼い顔をしていたのは覚えている。
 いつの戦さか知らない。だが屋敷内の男はおろか、女までが従軍していって空っぽ
だったから、さぞそれは大きな戦だったろう。信長が六つか七つと覚えているから天
文九年六月の、父信秀の三河攻めの時で、安祥別所の者を一味させ、安祥の松平の城
を陥した時かも知れない。
 そういえば、白い入道雲が、もこもこと雪達磨のように、大空に転げてみえた気も
する。
 幼い信長は紺屋の葭簀(よしず)の掛垂れをめくった。すると母が菰の上に横たわ
っていた。そして傍らに、というより、母の体に蔽いかぶさるように、見知らぬ男が
いた。その時母はこう言ったものだ。
「この御方さまは薬師(くすし)さまで‥‥塩梅を診て貰うておる‥‥わりゃ外で遊
んでこう」と。
 だから、びっくりして駆け出した。ぎらぎらする陽射しの中で幼かった信長々はミ
ンミン鳴き通す蝉を、その後ずうっと追いかけていた覚えがある。
 また覗いてみたが、母は重態らしく、ずっと薬師の男が、その腹の上にのしかかっ
ては、汗までかいて抱え揺さぶりつづけていた。そして次の日も、その次の日もそう
だった。
 母ひとり、子ひとりの境遇なので、幼いながら信長は、気にしては母の様態を窺い
に行った。だが母はいつも苦しがって「ウウ」とか「アア」と、断末魔にも似たうめ
きを響かせていた。そして時には「死(い)ぬ、死ぬ」とも、声が外まで洩れて聴こ
えた。
 だから心配の余り、つい葭の編んだ隙間からではなしに、狗のように下から潜って、
三郎は頭を中へさしこんだ事もある。すると気配を感づかれて薬師様に振り向かれた。
 怒鳴られるかと、亀の子みたいに三郎が首を縮めかけると、向こうも、白紙を段々
に切って棒に吊るした御幣を振って、なにやらのりとのような文句を声高に唱えだし
た。すると、そんな時、
「おかげで、すこし痛みがとれ‥‥」などと母の声が洩れたりした。
 だからして、そのとき子供心に(白紙の御幣を作って振れば、母の加減が多少は楽
になる)とでも思い込んでしまったのだろう。
 まさか、それが原因で、母がこの世からいなくなってしまうなどとは思いもよらな
かった。まったく、ただひたすらに子としては(良かれ)としか考えていなかったの
だが‥‥
 平手の祖父や五郎右、監物、甚左などが凱旋して戻ってきた後だったのか、それと
も、その前だったのか、其処のところは、てんで覚えていない。ただ餅をくるんで仏
壇にあった白紙が目についたから、そっと鼠みたいに引き抜いてきた。小刀にその畳
んだ紙に交互に切り口をつけてゆき、それを引っ張って木の折れ枝にくっつけたら御
幣らしくなって、とても嬉しかったのを記憶している。
 だから、何本も拵えて遊んでいた。しかし、これは、そうした嬉しさよりも、
(母の腹病を早く治してあげたい)ための子供心の精いっぱいの孝行心だったのであ
る。

 さて、御幣を沢山作ったのに疲れたのか、そうでなければ、何本も出来た歓びに気
が済んでしまって、うとうとと寝てしまったのかも知れぬ。
「御仏に仕える家で、子供が御幣担ぎをして遊びくさるとは、なんじゃい」
 そんな罵声に三郎はびっくりして目を覚ました。だが、ぴかぴか青黒く光る槍を手
にした祖父や伯父供の剣幕が恐ろしくて、また寝たふりをしてしまった。
「ありていに白状さっしゃい‥‥まさか、子供が他家へ行って、御幣の作り方など覚
えて来るはずはない‥‥吾らの留守中に、ここへ御幣を担いだ陰陽師か、神宣言(の
りと)を伝えるとかいう唱門師の類いが紛れ込んで来たに相違あるまい‥‥それも、
ちらりと門口に立ったくらいでは子供が拵え方まで習うはずもあるまいから、ここへ
逗留させたに相違なかろう」
「‥‥なんで、わりゃ、仏門に帰依しとる清い家の中へ、汚らわしい神信心の者など
入れおった。仏罰覿面(てきめん)という事を知らんはずもあるまいが、さぁわけを
吐かせ。そもそも、この平手一族は仏門によって今日まで加護を賜ってきた家柄じゃ。
そちが信秀に乞われた時も信仰違いの男にはくれてやれぬから、吾らは『得度して、
この際いっそ尼になってしまえ』と言ったはずじゃ。それなのに髪毛を落とすのが厭
さに信秀の寵を受け、こない童まで拵えてしもた。そして里戻りしてきてからは、雀
の涙ほどの仕送りを貰うて大きな顔をしていくさるが‥‥我等一族は、うぬが児を産
んだ日から、宗旨違いの法敵信秀めに親類扱いされてしもうて、あけくれ戦付合いで
出陣せねばならんしまつ」
「そうじゃ、一族の中で、そなたのような神信心の異端を出したとあっては御仏の罰
とてあろう。そないになってみい。もはや、われら平手一族は極楽浄土へは行けず、
無間地獄で苦しまねばなるまい。‥‥だが、まぁ、今現世のわれらはそれを宿縁と思
い諦めるにしろ、これまでの回向と供養の輪廻で来世から戻ってきかけの御先祖の衆
は、こりゃどうなる。みなこの世へ生まれ変わって出直しかけられる寸前で、足踏み
のまま未来永劫の業苦を受けられてしまうんじゃぞ‥‥うぬ一人の不心得が平手家代
々の魂をみな宙に迷わせ、人魂にしてフワフワ舞わせっぱなしにしてしまうとあって
は、我等は黙過できぬ‥‥死ね。うぬのような女は死んでしまえ。自分で生害できず
ば手を貸してもやろう」
 ----勿論、こんなに、はっきりとは覚えていない。うろ覚えにしか記憶はない。
だが平手の祖父も伯父共も口を揃え、神信心をした異端者としての母を口汚なく罵っ
ていたのは覚えている。
 そして、次の日、母は柩に入っていた。
「‥‥腹病みで死んだのだ」と、幼い信長が喪主にされ、葬儀が出された。
 織田の家の先祖からの血脈とはいえ、信長がこちこちの神信心に凝り固まってしま
い、仏嫌いになったのは、この母の死を転機にした、その時からだったようである。
 老いの一徹とでもいうか、平手政秀は、あくまでも言い分を通そうと、くりかえし
てもごもごとしゃべった。だが、あまりしつこくいわれると、しまいには、
(こりゃあ孫の俺の身を気遣うためとは口にしてござるが、まことは俺を改宗させよ
うため、つまり仏果を願うて己れの功徳にする了簡らしい)と信長も、ついに肚に据
えかねてしまった。そこで、
「‥‥俺の母者は神信心をばして仏を棄てた罰として、苛め殺されたのに、なんで母
の仇の仏に、この俺が帰依できよう」と口を滑らせた。もちろんしまったとは思った。
が、相手の政秀は、
「‥‥えっ」と息をのみ驚きの眼をみはったまま、声を低くし、
「知ってござったか‥‥」がっくり肩を落とした。
(しまった、いわいでもよかった)後悔はしたが、もうあとの、祭りだった。だから、
もはや仕方もあるまいと観念した信長は、それだけにこれまで誰にも口外せず自分の
胸一つにしまっていたものを爆発させ、
「存じよらいでか‥‥寝たふりをしながら一部始終を、ちゃんとこの目ん玉で俺は覗
き見しとった。あの日の事はみな知っとるわい。よって、まだ、たわ事を申すにおい
ては、今は亡き母が妄執を晴らすためにも、平手の一族を皆殺しにしてくれようぞ‥
‥」キンキン声を震わせ怒鳴りまくった。
 すると、その剣幕に恐れをなしたのか、平手政秀は顔を伏せたまま、
「‥‥まあ待ちなされ、一応は屋敷へ戻って伜共とも相談せねば、今この場で老いぼ
れの爺が、いくら平手が家の当主とは申せ、とやかく言い切れもしますまい」急に元
気を喪ったように肩を落としたまま、すごすごと立ち戻って行った。そこで、
「長島へなど逃散されては‥‥」
うっかり口外してしまった信長は、用心して追いかけるように兵を出した。そして平
手の屋敷を厳重に取り巻かせた。だから、それが原因かどうかは判らないが、しかし、
とんでもない結果がもたらされた。もちろん
(ばれて一切が露見してしまったからには、所詮かなわぬ)と見てとったのか、はた
また、
(責めを自分一身に背負いこんでいく心づもりなのか)、そこまでのことはわからな
かったが、翌朝になると、差し向けてあった御弓奉行の浅野又右が急いで駆け戻って
きた。そして顔色を変え、
「平手政秀どのは昨夜のうちに自尽。咽喉を突かれて生害してござります」と報告を
した。
 平手の家からも、昼過ぎになると改めて、
「父政秀こと種々申訳ない仕儀あってとの事にて自尽。跡目の長五郎右も、このため
得度し出家せしにつき、次男監物が相続して御家大切に今後は奉公を仕るべく」と申
し出てきた。つまり改めて降参してきたのである。
「よし‥‥改心して臣従すると申すなら、たとえ一兵なりとても大切な織田家の今日、
よってそのままにて差し許そう」
 信長も憎しみはあったが、祖父の死に動転して平手一族を許し、すぐその囲みを解
かせた。
 ところがである。その隙に出家したはずの長子の平手五郎右が、さっさと供を連れ
て長島一向宗の門徒構えへ逃げこんでしまった。
 だからして、しかたなしに後に残ったニ人の者、つまり平手の家を相続した監物や、
その弟の甚右とて、どうも本心から信長に仕える気になどなっていたのでないらしい。
「お守役の平手政秀はいくらら諌言しても、信長が放埒な馬鹿者(うつけ)で、とん
という事をきかぬから、それを案じて政秀は老いの皺腹を切ってまで死をもって諌め
たのだ」
と奇怪な噂までがひろまりはじめた。どうも流布させたのは平手の兄弟らしかった。
 それを耳にすると信長は、
「とろい沙汰をするものだ。平手一族が俺の側へ寄りつきもしなかったこれまでの経
緯は、誰もがよう知っとる事柄じゃろう」信長は歯牙にもかけぬ風情で、外見では笑
い飛ばしていた。
 しかし本人が否定すればする程、こうした風評はまことしやかに伝わるものである。
そこで信長も、内心では内心では相当に腹に据えかねていたのだろう。
 その証拠に、これは後の話だが、家康に救援を乞われた三方ヶ原合戦のとき、信長
は仲が悪くても親類筋にあたる血縁だから、伯父にあたる平手監物を援軍の総大将に
して出陣させた。
 しかし副将の佐久間や水野に言い含め、敵中に監物を放り出し引きあげさせるよう
計らった。
 だから武田信玄に追い詰められたあげく、ついに監物は討死してしまった。すると
信長は、監物の遺体さえ引取る事を許さなかった。
 それゆえ平手監物汎秀(ひろひで)の墓は、戦前まで三方ヶ原の古戦場に、ぽつん
と残されたままであった。
 そのうえ信長は、「かねての業績、芳しからず、粗忽の至りである」と、ついに平
手の家名は、この時をもって廃絶。とうとう平手家を取り潰しにした。
 この時、平手一族は平手の庄を先年の桶狭間の役で今川義元に焼き払われていたか
ら、今の名古屋市北区志賀町に移っていたが、「当主織田信長が、甥なのにむごい」
というのだろうか、一族が口惜がって自決してしまったという。今でもその塚は残さ
れていて、「涙塚」とよばれ、江戸時代から戦前までは眼病の神様として信仰されて
いた。
 だから、信長が政秀の死をしのんで小牧山に政秀寺を建てた、などと、俗に言う
「平手政秀忠臣説」は、江戸中期元禄すぎにでっち上げられ、ひろまった偽物による
作り話しのようである。

 さて、政秀が屠腹して二ヶ月目の三月初めのこと。
「奇蝶を嫁にやってからは信長には逢ってもいない。久しぶりに改めて舅と婿の対面
をしたい」
と、美濃の斎藤道三から死者がきた。さては平手一族がまき散らした噂が美濃まで伝
わり、
(お守り役の政秀が諌死する程なら、よくせきの愚直者(うつけ))と斎藤道三まで
が本気にして、とっくり俺を品定めし直す気だろうかと、すっかり信長は、たまらな
く不快になった。
 だが美濃には、尾張の跡目争いの時に金を出してもらい兵を送ってもらって、それ
で相続できた。つまり厄介をかけた義理もある。それに、奇蝶の母である美濃明智城
から嫁いでいた小見御前(おみごぜ)の三周忌の法要も、ついでに営むのだと申し添
えられては、これは婿として信長の立場では、
「抹香くさい寺へゆくのは、真っ平でござる」などと素気なく断わることもできかね
た。
 だから、美濃と尾張の境目にある正徳寺へ行くことを、渋々ながら信長は承諾した。
 しかし約束の日が近づいてくると、
(道三入道め、平手の噂を真に受けているものなら、この俺を誘きよせ殺してしまう
か、そのまま虜にしてしまうが‥‥どうやらこの話の本筋じゃろ」と勘ぐった。
 なにしろ道三は日蓮宗の京妙覚寺で、法蓮坊と呼ばれ長年にわたって坊主をしてい
た事がある。だから、いま河内郡長島にたて篭る服部の「門徒構え」の一門ともかね
て気脈を通じているらしい。
 おまけに東隣の三河の松平党も一向門徒が多い。だからもし道三が信長を捉え残り
僅かな尾張を併呑したところで、そこは同じ仏信心の仲間同志の誼(よしみ)で、隣
接した地域からの苦情の出ようもない。
 多少の宗派の違いはあっても、駿遠三から尾張、美濃の東海道五ヶ国が、一向門徒
墨染めの衣をつける坊主共の天下になるということは、かつては北陸を支配していた
こともある彼らにとっては果報な話だからである。(事によると仏の側の隣国同志で
はすでに話をつけあっていて、俺を亡き者にしようとの提携をしとるかも知れん)信
長はそう思うと肌が粟だった。
 だから、いよいよ出立という日が近づくにつれて、ますますもって不安になり、
「こりゃあ剣呑じゃ」二十歳の信長は逆上気味に、すっかり昂奮しきってしまい、
「俺に、もし不所存な真似を道三がしかけたら、濃(のう)は嫁とはいえ、道三の娘
で、いわば人質だから、これを殺してしまえ」などと秘かに家臣どもに厳しく伝えた。
 濃と信長がいうのは奇蝶のことである。美濃からきて、美濃御殿に住まっていたか
ら、家中の者共は、「美濃御前(みのごぜ)」と呼んでいたが、信長だけは、
(みの字を上に付けるのは敬語じゃ)からと略して、濃とか、濃御前と呼んでいたの
である。
 しかし信長が騒ぐ程には家臣どもは心配しておらず、
「畏れながら道三入道さまは岳父。そのような取り越し苦労の御斟酌には及びますま
い」
 などと諌言するようにも、先代からの佐久間大学あたりは首を振った。
 それゆえ他の家来共もみな眼顔でそれに頷き、「委細承知」などと誰一人いおうと
しなかった。
 だから信長は、彼らをぐるっと見渡しながら、おのれの家来のふがいなさを、
(これは、あかん。どいつも、こいつも、なっとらん)ひしひしと痛感したものであ
る。
(そりゃあ俺にもしもの事があった後でなら‥‥奇蝶に手を出せば、もしやり損じた
にしろ、たちどころに美濃衆から縛り首にされ殺されもしよう。仮に首尾よく仕止め
たとて、恩賞など何処からも出やぁせん。詰まらん話じゃろ‥‥だから利口な奴が引
受ける事じゃないかも知れんが、といって、どいつもこいつも利口者揃いでは、とて
もじゃないが、此方は心許のうていかん‥‥まあ家来には、損得ばかり考えんともっ
と主命通りに動いてくれるような実直な馬鹿者が欲しいもんだ‥‥)
 信長はすっかり考えさせられてしまった。そこで考えたあげくが、白鳥神社、白山
神社といった白の字を冠せた社の神官どもへ回章をまわし、新たにそちらで人集めを
してみた。
 なにしろ恩賞目当てにしか働かぬ武者や、己れの家門だけを大切にする家臣共では、
なんとも扱いようがない。といって他国よりの扶持目当ての牢人共では、もはや尾張
の大半を失い貧乏している信長には、とても召し抱えて養ってなどゆけない。それに
そんな主取り馴れした輩では、また奉公させても、自分への忠義は望み薄だったせい
もある。
 しかし、この信長の俄かの人集めに驚いたのは、一首名(いちおとな)と呼ばれる
先代からの一番家老の林新五郎佐渡守と、その弟の蔵人奉行の美作である。二人はす
ぐさま打ち揃ってやってきて、
「‥‥目下のところニ郡分の取入しかなく、旧来の奉公人さえ満足に扶持はやってお
りません。それなのに、こんなに新規お召し抱えをなされましては、たとえ食わせる
だけにしろ、とても難儀いたしまする」苦情をのべにきた。だがそのときはわざと何
食わぬ顔で、
「なに、美濃へゆくときの景気づけに人数を増やそうための、ただ臨時の雇いにすぎ
ぬのよ」
 信長はしらばっくれて、とりあわなかった。だが各神社から禰宜に伴われて、その
氏子の新募の兵隊が、ぞろぞろ集まってくると、信長はここぞとばかり厳かな顔をし
て、しかつめらしく見渡してから、
「‥‥お前達は狩り集められてきた寄せまぜの兵ではない。みな、産土神さまのお祓
いをうけ洗礼されて来たもんじゃろ。つまり神々に選ばれてきた使徒。天より使わさ
れた兵である。いいか‥‥だから現世では褒美とか恩賞など欲しがってはいかん。唯
ひたすらに神に仕え奉って、異国(とつくに)から入りこんできた仏や、それを守る
念仏や題目の奴輩をうち倒し、神の弥栄(いやさかえ)こそを、その賞詞(しょうじ)
と思え。天は、神に尽くせし者にのみ、その門戸を開き給うんじゃぞえ」
 合掌し柏手をうってから白山明神に供えた白酒をもって、次々と新しく主従の固め
の盃としたが、
「お前らは、この地上へ、神々が差し向け給うた神兵。この信長こそ、その神兵の隊
長じゃが‥‥知っての通り今の織田家中には仏教の者もいて、明らかにいたしては対
立となり難儀になる。よって時節到来までは、表むきは神の使徒であり天使であるこ
とは隠しておけや」
 用心するようにいいつけ、その中の蜂屋四郎左(のち蜂屋頼隆)を選んで信長は、
これに新募の者どもの支配をいいつけた。しかし念のために盃をやりつつ、一人ずつ
点検してゆくと、子供のようなのが混じっているのが目についた。
「齢は十八というが、うぬのような小男では、ものの用に立つまい。引きとって帰れ」
と信長が自分の口からいったところ、その小男は、
「滅相もないこったわ‥‥」と、柄に似合わぬおとなびた口のきき方で首をふり、
「わしらの在所の中村はいま山口左馬助さま御支配の今川領。つまりそこへ戻れと仰
せあるは、せっかく氏神さまに選ばれてきた者を、わざわざぼい出しやぁて、なんま
いだの山口さまにでも奉公せよといいやぁす御所存にござりまするか」野猿のように
小男は牙をむいた。
 そして臆する様子もなく顔を上へあげ、二つしか違わぬ若い信長をつかまえ、さも
怨めしそうに、
「おみゃあさん。それでもよ神兵の大将だと、よおいわっせるわなあ‥‥」
 尾張弁まる出しで毒づいてきた。信長もだからこれには面喰いはしたものの、怒る
のもおとなげないと考え、仕方なく、他の新募の兵たちのてまえ見栄をはって、ハッ
ハと高笑いをしてからが、
「面白いやつ‥‥うん、よかろう」そのまま採用することになった。

 さて、その男は、藤蔓織りの仕着衣を貰ったところ、すっかり歓んで有頂天になり、
「藤よし」と自分から名のりをつけたというが、彼が、そっと人目を忍ぶようにして、
信長の側へ近よってきたのは、明後日は出立というあわただしい最中だった。
 なにしろ採用されてからは前とは人が違ったように、すっかり神妙になったその小
男は、
「‥‥畏れながら」うまやごやしの叢の中へ両手をぴったりついたまま、おずおずと
声をかけた。
「なんじゃい」と信長聞き咎めて振返ると、
「洩れうけたまわりましたるところ‥‥美濃御前さまを、万が一の時に討ちとるとい
う大切なお役目が、まんだ決っとらん由にござりまするが、もしお許しを願えますも
のならば、この私めに仰せつけ下さりませ」突拍子もないことを小男はいった。
 どこで耳に入れてきたのか、秘密にしていた話なのにと信長は面喰った。なにしろ、
(誰ぞある。わしが向うで殺されたならば、その仕返しをしろ)と家臣に言い渡した
時、すぐ応じて返事をする者がなく、歯痒かった。が、それでも信長にしてみれば、
(まあ、あれだけ云い残しておけば一人や二人は討手にもなろう。まあ奇蝶めを脅か
すだけでも道三への肚いせにはなる)と考え、そして、それなりにしていただけに、
薮から棒に新規召抱えの者から切り出されては、不意をつかれたようにきょとんとし
た。しかし小男はとんと信長には構わず、
「鹿角に入れた火薬を、私めに二つか三つ、お貸し下されませ。それを抱え御前さま
の座所の縁下に忍びこみ、もしもの時には火をつけ、ふつ飛ばしてしまいまする」
 考えてきたところを一気にいってしまおうと早口でまくしたてた。だから初めの内
こそ、新参者のくせに慮外な奴めと、睨みつけていたが、しまいには、
「‥‥うむ」信長は聴きながら低く唸った。なにしろ小者の口調が真剣そのものだっ
たからである。
(恐らくおれが正徳寺へおもむいた留守中は用心し、警固にきている美濃武者は奇蝶
の身辺を十重二十重(とえはたえ)に守護するだろう。だから俺がもし道三に殺され
たと伝わり、それッと織田の近習共が突きこんだにしろ、とても五人や十人では瞬く
間に突き伏せられてしまおう。まあとても正面きって襲うなどはいたすまい‥‥だが、
この小男の考えついてきたやり口なら狭い縁下へ巧く潜りこめさえしたら、そこで火
薬に点火をすれば、いくら一騎当千にもあたる美濃武者が犇(ひし)めきあって警戒
していたところで、縁の下から奇蝶もろとも噴きとばしてしまうことはできよう‥‥
こりゃあ名案というものじゃな)
 すっかり舌をまいて感心しポンと膝でも叩きたかったが、なにしろ、そうやみくも
に、「それが良い」もいいかねた。
 なにしろ出発を二日後に控えた信長は、今となっては留守の事よりも、これから出
かけて行く自分の身の守りで、もう精いっぱいのところだった。このとき信長が考案
したのが、「擲げ瓢箪(ふくべ)」で、これをどんどん作らせているところだった。
 乾燥した瓢箪を六つ割に縦に裂き、これに湿気のない木灰を一杯に入れ、上から薄
い雁皮(がんび)紙で継ぎ目を貼り、栓には消炭をはめこんだ物である。
 力まかせに叩きつければ濛々と灰神楽のたつ目つぶしであった。
 これを考え頭からひねり出したのは、五、六千は出向いてくるだろう美濃勢のまっ
唯中へ、たった数百の供廻りで押しかける信長の立場では、もしもの事があっても、
とても戦をしたところで勝てる見通しなどあるわけもないから、そこで考えに考えた
あげく、
「如何にして血路をひらき、なんとか逃げてこられる方法はないか」と、これを作っ
てみたのである。
 つまり逃げる時の用意に、敵に目潰しをくれる投擲兵器を考え、これを新募の兵達
に、秘かに多量に作らせていたのである。
 ----俗説ではこのとき、信長が鉄砲五百挺を担がせて富田の正徳寺へ行ったから、
道中で変装して隙見していた道三入道が仰天し、のちに嘆息して「わが伜共は、信長
の門に馬をつなぐだろう」つまり家来にされてしまう、といったとかの話が伝わって
いるが、常識的にこれは嘘だろう。
 鉄砲がポルトガル人によって、初めて九州の種子島に伝来したのが天文十二年で、
僅かこの十年前である。本場の九州の大友義鑑でさえ、天文十九年二月に殺された時、
鉄砲は数挺しかなかったと「大友記」にあるぐらいなのに、その三年後とはいえ、九
州からは離れた尾張で、しかも当時は落ち目だった信長が五百挺も揃えていたという
のは、いくら作り話にしても大げさすぎる。後年は鉄砲好きになる信長だが、このと
きはまああっても恐らく一挺あったかなかったか。まあ全然手持ちなどないとみるの
が正しいだろう。原始的な目つぶしが精いっぱいである。

 同行して伴って行く者に仏信仰の者が混じっていてでもしたら、(後生安楽)を願
って、道三方に裏切りしかねず、こと大変である。そこで信長は新募の神社の氏子を
行列の中核にした。
 神社から借り出してきた白衣をみなに着せ、信長自身も白装束をした。
 瓢箪作りにおわれ、青竹をきり出して水筒を拵えている暇はなかったから、咽喉の
渇きを防ぐために、みな生の大根を一本ずつ背に差し込ませて出陣した。勿論このと
き信長も、尾張名物の巨大な大根を背につけて馬をすすめたのである。
 ----大根を名古屋では今でも「でえこん」というが、関西では、男の陽物を「だえ
こん」という土地が多い。だからそれからの間違いでもあろうか、信長が、
(男根の絵柄を背につけた帷子(かたびら)をきて行った)などと面白おかしく綴る
講談もあるが、何も信長は嫁とりや二号探しに行った訳ではない。男根をシンボルに
する必要はない。
 またそうした俗書では、投げ瓢箪を知らないから、
「信長は腰に瓢箪をいくつもつけて、奇妙な恰好をしていて、人目を驚かせた」とい
うが、いくら冗談にしても、そんなふざけた真似をする余裕など、この時の信長にあ
るはずとてない情勢だった。