1123 徳川家康  3

「次郎、無事だったかや、起きれ‥‥」一郎につつかれて、やっと眼をあけると、
「お疑いがはれて御放免じゃ‥‥ぽんと銭を放って下されたらよいものを、なまじ気
取って反古などにくるんで投げて下さったばかりに、とんと怪しまれていかい難儀し
たが、文字のあるお役人さまが読まさっしゃったら、なんでもないお経とかいうもの
で四角い字ばっかりじゃったそうな」
 屈みこんで泥をはらってくれながら、親方はいってくれた。次郎は立たされると、
これまで堪えきっていたために、その場でわあわあ泣いた。
「‥‥このちびは土性骨の太いやつでな、いくら責めよっても、うんもすんも言いよ
らなんだぞ」
 先刻まで次郎を殴ったり蹴りつけた番衆が側へきていて、照れかくしのように口を
挟むと、
「これはお役人さま、こやつめは吃りますので滅多に口はききしません‥‥すまんこ
とで」
 次郎の頭を押さえ力まかせに下げさせると、親方は自分が代りに詫びを入れ、
「ここのお城下で、なんといってもお貰いの多いのは、さっきの馬出し曲輪前の広場。
またあそこでやってよろしゅうござりましょうか‥‥向こうのお頭さまにはお許しを
頂いて参りましたが」おそるおそる伺いをたてたところ、
「ならば、良かろうが‥‥」
 ひいひい次郎がまだ泣いているのに唇をまげ、殴った番衆は仕方がないといった顔
でうなずいた。
 外へ出ると、もう陽は西へ傾きかけ、松の影が長く尾を曳いていた。
「痛むかや‥‥」ときかれ、すこしうたた寝しているうちに足腰のひきつれがおさま
り、どうにかひとり歩きができるようになった次郎が、こっくりそれにうなずくと、
「ならば、また鉦叩けや。せっかくさっきまで稼いだ銭は、みなお取り上げになった
で‥‥、たとえいくらでもお貰いせんことにゃ、今夜の粟粥もすすれんことになるぞ
え」
 さっきの草っ原へ戻ってくると、小鼓を肩にくくりつけ、また、ちゃかぽこ小刻み
に両手で叩き、
「----男獅子女獅子さてもやさしやテント、手づかいは花に戯れ蝶をめがけ、庭の干
草に背をすりよせ頭をふり、さながらに狂う姿のしおらし可愛やテント、これにて拝
めば無病息災。獅子のご利益にて満願成就は疑いなしテンテン」とやりだした。
 一郎がそれに合せて身体をふって、両手にかざした四つ手をカチャカチャ鳴らすか
ら、次郎も円光寺でおっさんがお経をあげる脇で、ポコポコ木魚をうっていたのを想
い出し、そのこつで提げている鉦をキンカンコ叩いていると、柿渋染めの被衣をかぶ
った女がすうっとよってきた。
 次郎は小さいから下から覗ける。姿や恰好は違っているが、途端にげえっと愕いた。
 先刻ここへ市女笠をかぶって現れ、大きな声で怪しい奴らだと絶叫し、城から番衆
どもを呼んで捕えさせた女にそっくりだったからである。びっくりし慌てて声を出そ
うとしたが、なにしろ不意にはさっと声が咽喉からは出ない。そこで次郎が、もどか
しそうに鉦を叩きながら口をあけ、ああと息をはずませ吃らせていると、その間に女
はすり足でさっさと親方の側へまで寄ってきてしまった。
(またやられる。恐いお城の番衆を呼んで、なんか作りごとの出たらめを言いつけら
れる)
 次郎は動転してしまって泣き出しそうになった。しかし寄ってきた女は何も口もき
かずで、親方が前においておいた陽よけ笠の中へ、さりげなく掌の銭をぽんと一枚つ
まんで落した。
(親方も側まできたのだから、いくら衣を頭から被っていても、先刻の女と判りそう
なもので、とっくんで押さえつけ、叱りとばすか横っつらでもひっぱたいて、さっき
の仕返しをすればよい)と少年はいらいらして地団駄ふんでいるのに、親方ときたら
銭を貰ったせいか、何もせず何もいわず黙ってぺこりと頭を下げたきりだった。
 だから女はなにくわぬ様子で、そのままさっさと清水口の方へ向かっていった。
 何度も生唾をぐうぐうと呑みこんで咽喉を濡らし、やっと声が出るようになった次
郎が、
「い‥‥いまの女ごは」と指さして親方に教えたところ、
「‥‥ええのや」脇から一郎がひっぱってとめた。
 だから次郎としては、さっぱりわけがわからなくなって、ぽかんとしてしまうと、
「しっかり鉦を叩かんかい」かえって親方からどやされてしまった。
 暗くなって双葉山の裾へ向かってゆき、葭草編みの小屋へつれてゆかれると、次郎
はもう一度、あっと出せるものなら声をはりあげたかった。というのは、なにしろ、
その小屋蓆のたれ戸から頭をだして迎えてくれたのが、さっきの女で、見違えもない
昼間の市女笠の女だったからである。
「まあ初めにあれだけ騒いで調べられときゃあ‥‥もうお城の番衆もよお顔を覚えと
らっせるでよぉ、これからは何をやらしても怪しまれせんわね」と尾張弁で女はにこ
にこしながら、粟と稗のごった煮の粥を椀にもってくれてから、あら塩を上につまん
でかけてよこした。
「このちびは新米じゃというたらしいが、まあ厄落としを前に済ませておきゃあ後が
楽だ」
 親方は熱い粥をふうふう吹きながら、にやにやして、
「わしらがいいつかってきたのは、この那古野だけだがよぉ‥‥いったい他所から、
どれぐらいの兵が入っとるんじゃろな。なんせ五日で調べて戻らないかんでよぉ、せ
わしゅうていかんわ」
 低い声で女をつかまえ、ぼそぼそ、そんな事をしゃべっていた。


武者奉公

 親方が食あたりで死んだのは次郎が十五、一郎が十六のときである。その時は尾張
の瀬戸山から仕入れた陶器を天びんで担いで、
「土器(かわらけ)より丈夫で‥‥すべすべした火入りの碗はどうかね」と三人で売
り歩いていた。
 夜中に右の腹の下をおさえ俄かに苦しみだしたから、何処ぞで今日のんだ川水に当
ったか、昼間かじった青梅のせいじゃろかと、痛がるのを二人がかりでさすってみた
が、七転八倒の苦しみかたをした。しかし明け方にはすこしおさまったのか親方は、
「お前らは‥‥わしが死ねばもう自由な身だでよお、一郎は親んとこ次郎はおばばの
許へ戻ってもええが、なんせお前らもこの長年あっちゃこっちゃで見てきた通りに、
どこもかしこも地獄の沙汰じゃ。えらいさまのお役人は、たらふく飯も食いなさるし
酒も飲ましゃるで、みな元気がええ。それに戦さをやれば立身出世もするで、あけく
れ人集めばかりしんさる。
 しかし地家(じげ)の者は戦さのためじゃいうて片っ端から税をかけられ、みんな
食うてもゆけんで、寄り集まっては共食いのようなみじめな暮しをしとる。口べらし
に子を売り、しまいには飢えた子供らの口へ、せめておのれの肉なりと入れてやろう
と、自分の首くくりをする親さえいる。そないなところへ戻ってもなんにもならんじ
ゃろう。二人してわしのあつをついでゆけや‥‥なんせ鐘打部落は一つの宗旨で、皆
で助け合い何もかも皆で同じように分けあって、仕事も一つこと食も一つことで、他
とは比べもんにならん所じゃからのう」
 左右の二人にゆっくりいってきかせた。これまで次郎は前からいる一郎が、いつも、
おとうおとうと呼んでいるからして、てっきり親方の実の子かと思っていたが、やは
り何処からか売られてきた子だったと、初めて知らされた。しかし、いくら二人で力
を合せてやってゆけといわれても、親方にもしものことがあっては心細くてならない
から、
「そんなこと気にせんでもええから、すこし寝て、身体を楽にせないかんぎゃあ」
 長話をする親方をやめさせ、二人がかりで寝かしつけた。そして、
「おらたちもすこし寝るとすっかッ」十五と十六では眠たいさかりの年頃である。そ
のまま一郎と次郎もごろりと横になった。
 ところが二人が眼をさましたときは、散々苦しがって暴れて、それで気力も使いは
たしてしまっていたのか、親方は口をあけ洟汁をたらして、もういくら揺さぶっても
動かなかった。
 お寺さまの宗旨は土葬だが、親方は違うから、二人で遺骸をかついでいって原っぱ
の窪みで火葬にした。ところが、いくら落葉や枯葉をのせても、じゅうじゅう煙って
は火がたち消えになってしまう。
 そこで二人は汗をかきかき薪あつめをし、どうにか骨にしたのを渋紙袋にいれ、駿
河の白山にある部落へ戻ることにした。しかし途中で、棒の両側の瀬戸物をかたかた
音をさせながら横をむき、
「ちょっくら‥‥親方の遺言じゃが‥‥俺がおばばは比丘尼をしてござるが、もう年
よりじゃ。おりゃ、やっぱりそっちへ戻って、なんぞ働いて面倒みてゆきたい」と次
郎はいいだした。すると一郎は、
「おみゃに去られては、一人では親方の後などつげっこないじゃろ。今までは男三人
いたからこそ、長吏さまから今度は鋳掛け直し、次は茶碗屋といわれても、部落の他
の衆と同じようにやってこられたが、一人ぼっちではやってゆけんぎゃあ」あわてて
足をやすめ、引き止めにかかった。
 しかし次郎としては、いくら止められても年寄りの源応尼のことが気にかかる。そ
こで、
「なら一人でもやれる商売にかわったらええ。願人坊主になれや。あれなら、ずうっ
とひとつことをやっとりゃあええし、鉦を叩いて回って歩きゃあ、まあ顎だけは大丈
夫。くいっぱぐれのない商売じゃもんなあ」と一郎の袖をつかまんばかりにして曳っ
ぱって知恵をつけてやった。すると、
「うん‥‥」とは答えたが、一郎はそれでも、
「なら、おみゃあは、おばばのとこへ戻って何をやる気じゃい。俺に願人になれとい
うくらいなら、おみゃあは自分で何か当てをもうつくっとるんじゃろまいかのう」
 腰を屈めて道端の草をひっぱって抜きながら、すくうような眼差しで聞き返してき
た。
「うん。おれがいた頃の宮ガ崎は湿地で蝿や虻ばかりぎょうさんにいたが、裏に土も
りしてからこのかた、最近では家が建つようになった。今はあの高台には小田原の北
条さまや三河松平の若殿ばらの住いができとるがね‥‥」
「ありゃ、みんな人質の衆じゃろ。だいたい狐塚の河原に近く住まわされていなさる
のは、もしもの時、つまり逃げたらすぐひっ捕えてしまえと牢屋の者や首斬場の者に
見張りをいいつけ、番をさせておくために、あそこへかためておいていんさるんじゃ
ろが‥‥」
「うん。そりゃそうじゃ。だが、おばばの小屋からは、ほんのひと跨ぎで近うてええ
わ」
「おみゃあ吃りはやっとか直したが、今度は、変てこなことを考えやぁすな[名古屋
弁で『お考えになるなぁ』の意]‥‥、そんな人質衆の近くに、おばばの小屋があっ
て、なんでいいね」
 一郎は首を傾げて不審がるので、うっすらと笑いを浮かべながら、
「おりゃあ槍ひとすじのお武者になるんじゃ。だが、鐘打七変化の部落にいた者とな
れば、何処でも乱波素波(らっぱすっぱ)の細作(しのび)ぐらいにしか扱ってくれ
んじゃろ。とてもじゃないが、まっとうなとこでは相手にしてくれるわけがないで。
ところが人質にきとる衆なら、お国許へ帰られれば若殿さまでも、この駿河では囚人
(めしうど)同然、人手がいっても表むいては雇入れもできぬ立場。そういうとこな
ら、こない俺かて奉公できようというもの‥‥」
「へえ、こりゃあ、たまげた‥‥」
 一郎は返事をしたものの、感心してよいのか呆れてよいのか、とまどった顔をして、
「おみゃあは捕われ同然の北条や松平の衆に自分を売り込んで、将来その衆が小田原
や岡崎へ戻らっしゃるまで辛抱し、それから取り立てて貰う所存かや‥‥さても気の
長い話じゃな」
 引き抜いた草を口にはさんで、またひっぱった。
「ええずら、なにごとも啼くまで待とう‥‥ということじゃ。おりゃあ、あせらん」
 次郎は背中にくくりつけた親方の骨袋に流し目をくれるようにしながら答えた。し
かしそれでも、
「だが武者奉公というは、ひとつ間違うと命がけだぞお」一郎は案ずるように口にし
た。
「ええんじゃ。武者にならいでも、こないに戦さが多うては、田畑を荒され取入れを
なくした者や、住いを焼かれて暮せなくなった衆がどんどん死んでゆく世の中じゃ。
どっちみち殺されるのは同じこっちゃろうに‥‥」そんないいかたで、ずんぐりした
身体をもちあげた。

 駿府の町へ入ると、ひとまず荷物の売れ残りの茶碗類を部落の長吏に届け、親方の
骨袋もおさめてから、次郎は久しぶりに源応尼の小屋へとんでいった。
「これ‥‥山ん中で見つけた熊ん蜂の巣じゃぞ」中の蜜をしゃぶって舐めてくれるよ
うにと、持ってきた手土産をさしだすと、
「そりゃ珍味‥‥これはこれは」すっかり喜んですぐ手を出したものの、
「これを持ってくるからには、さぞ蜂に追っかけ回されて刺されたであろうが‥‥」
 しょぼしょぼした眼で成人した孫を見返した。だが次郎はにたにたして、
「なあに風上からあつめた乾柴に火をつけ、その煙でいぶり出してから木へよじ登っ
てとり、逃げるときも、火のついた柴をふりまわし走ったから、蜂も追っかけてはこ
なん」と教えると、
「おみゃあは物覚えもええし、よお気のつく児で、出来ぶつじゃったと円光寺のおっ
さんもいうとられたが、ほんに頭がええのう」嬉しそうに一人でこっくりうなずいた。
 そこで次郎は、源応尼の機嫌のよいのを見すましてから、
「おばば、おりゃ親方が死んだで戻ってきたが、ひとつ商売がえしてお武者になった
る。どうだろまいか」と持ちだしてみた。
 しかし、源応尼がそれにうんもすんもいわないものだから、次郎は業を煮やしたよ
うに、
「おりゃ九つの齢から今まで、親方に伴われて諸国を回って歩いたが、どこもここも
いけすかね。そこでひと思いにおりゃがお武者になり、えらいさまになって、みんな
がどうにか楽に過ごしてゆけるような世直しをしたるんじゃ‥‥」息まいた口調で肩
をいからせながら話してみると、
「おみゃあのおやじの松本坊がいうとったことを思い出した‥‥」と、前置きしてか
ら、
「なんでも松本坊の先祖さまというは、つま黒の白旗をたてて、天子さまの御為に鎌
倉を攻めて滅ぼし、のち北陸で戦って死なせった義貞(新田)とかいう人じゃそうな。
おみゃあのお袋は、このばばがひねり出した於大じゃが、田に棹入れして実らせたは
松本坊。すりゃおみゃあの身体には、天子さまに忠義をつくして死なっせた御先祖さ
まの血が流れとるはず‥‥それでかのう」
 指をつきつけるような恰好で一気にいわれてしまい、
「なんのこっちゃあ、薮から棒に‥‥」呆気にとられて、しなびた源応尼の顔を見返
すと、
「おみゃあの方こそ薮から棒じゃろが‥‥」とたしなめ、改まった調子で、
「急にお武者になりたいなど言い出すは‥‥まさしく御先祖義貞さまの霊が、この乱
世をみかね、あの世にじっとしておられんことになって、おみゃあの身体にのり移っ
てこられたんじゃ」
 もごもごした口のききようだが、それでもきっぱりいいきった。そして、
「御先祖さまは一人で稲村が崎から攻めこんで大勝ちなされた大将さまじゃ。おみゃ
あもお武者などと吝くさいことをいわんと、大将さまになれや。そして天子さまの御
為に奉公するんじゃえ」目頭を押さえながら説教をした。


                尾張の信長

奇蝶御前

 次郎が十五歳の時から話は少しさかのぼる。のちの織田信長がまだ十四歳で吉法師
とよばれていた秋のことである。
 隣国美濃の守護職土岐頼芸が、京から流れこんできた油売りの斎藤道三に、その国
を奪われてしまうということが起きた。いくら守護職でも城を追われては仕方がない。
そこで頼芸は止むなく木曽川を渡って尾張へ逃げこみ、今川義元と何度も戦って連戦
連勝していた信長の父の織田信秀の許へ、
「‥‥合力して下さらぬか。ぜひ助けてほしい」もう見栄も外聞もなく頭を下げ頼み
にきた。
 さて、三年前に信秀は美濃へ攻め込んだ事があった。ところが斎藤道三の伏兵に不
意に囲まれて、一斉にワアッと突きたてられ、散々な負け戦をして、命からがら逃げ
戻ってきた事がある。忘れもしない天文十三年(1544)八月二十日の合戦である。
だからして信秀は大きくうなずき、
「お任せなされえ」とこれをすぐ引き受けた。復仇の志があったからである。そして、
「いつぞやの合戦には、美濃衆の先手(さきて)として吾らを迎え撃った道三めは、
この不敗を誇る信秀に対し、きつい煮え湯を呑ましてござれば、この仇をいつかは晴
らしたい所存で無念の歯がみをしておったが、さてさて、待てば海路の日和とか、守
護職のおみさまが吾らを訪ねてござったからには、お力をかして美濃へお戻しするた
めに道三と決戦するは、天下に対して大義名分もたとうというもの。この信秀にとっ
ては願ってもない機会。よって今度こそ会稽の恥をそそぎ申そう」すぐさま出陣の仕
度を命じた。
 ----もともと尾張守護斯波の家来織田の一族とはいえ、信秀の家門は織田の分家で、
俗に「下織田」ともよばれていた軽い身分。津島に近い勝幡の城に生れたが、ここは
土を盛り上げた上に荒板張りの丸太組みの粗末な建物で、砦のような名ばかりの城だ
った。
 だが二十三のとき、当時尾張を押さえていた今川が築いていた「柳の御所」を奪い、
これを那古野として、尾張を今川から独立させると、今の名古屋の上前津の古渡へも
城をこしらえていた信秀は「海道一の弓取り」とさえ、その頃は謳われだしていた。
 なにしろ信秀は、今川松平勢を三河小豆坂で前後二度まで撃破し、「小豆坂七本槍」
と、その家来共の勇名までが諸国に鳴り響いている有様だったからである。
 その信秀がこれまでただ一度の負け戦というのが、斎藤道三との三年前の合戦だっ
たから、その無念さが怨み骨髄に徹していて、それで即座に引きうけたのだろう。

 そこで天文十六年九月二十ニ日の夜明けに、境目の木曽川を渡ると、織田勢四千は、
まっしぐらに目指す井口城のある稲葉山へと進んだ。
 「土岐頼芸の旧臣共が、長良川の河原の茂みに秘かに集結し、われらが渡河して討
ちこんだら一致団結して敵を挟み打ちにする手筈‥‥今度こそ、道三めを首にしてく
れようぞ」
 意気軒昂たる信秀が、今度こそは首尾よく勝利を得ようと、加納の砦を迂回して攻
め込んだが、川をわたりおえて、ひと息いれていると、先手の部勢から俄かに「ヒイ
ッ」と異様などよめきが、まるで竜巻のように渦をまき、それが風にのって唸りをあ
げつつ、怒涛のごとくに押しかえされてきた。
「なんじゃろ」そこで織田信秀は、すぐさま物見させるため、本陣のてまわりの武者
一騎を駆けさせて調べにやると、これが戻ってきて、泡をくい息せき切って、
「えの木坂の林を一番隊がかけ抜けんとした時、樹上に潜んでいた敵兵が肥え柄杓で、
頭から油をふりかけ、それに滑って馬が転び、武者共が将棋倒しになってつまずきあ
ったり、仰向けにひっくり返り大騒動してござります」報告をした。しかし信秀は、
そのときすこしも騒がず、
「達磨転がしではあるまいし、坂の上で油をかけて足を滑らせようなどとは、道三入
道も子供だましな大人気ない手段(てだて)」
カンラカンラと大きな口をあけ、笑いとばしていたが、
「ヒエーッ」やがて自分も眼をむいて、呼子笛のような声を咽喉もとから発した。そ
して、
「火じゃ‥‥」びっくりして立ち上がった。というのは油まみれになった先頭の一団
に、突如として敵から火矢が一斉に射かけられたのが、信秀のところからもみえたか
らである。
 だから炎の尾を曳いた味方の武者や馬が、紅蓮の大きな塊になって、坂上から転が
りながら本隊へ逃げてくる。こうなっては土岐頼芸を担いでせっかく美濃入りしたば
かりの織田勢も総崩れである。
 またしても惨敗し、信秀は茜の庄で包囲されてしまい、にっちもさっちもゆかなく
なり、とうとう和睦を道三に申し出た。
 そして、このとき信秀は、莫迦者(うつけ)と蔭口をきかれていた三男の信長を不
用の伜と思ったのか、人質とし、ひとまず斎藤方へ引き渡すことにした。ところが、
道三の方では、その信秀の肚を見抜いたのか信長を人質にとらなかった。そして道三
は、己れの娘で信長より一つ下の奇蝶を娶合せる事にし、(将来は、信長を尾張の跡
目にする)と約束をさせ、その上、尾張熱田源太夫の宮の誓紙をとった。
 そして信長が十六の時にまるで押しつけるように十五の奇蝶は、美濃三人衆の安東
伊賀守に介添えされ嫁さまにきた。黒目のぱっちりしたまだ幼さのある貌なのに、あ
またの侍女や家来を伴ってきた道三の娘は(強国美濃の国主の一の姫である)そんな
意識を、ぐいと鼻先にぶらさげて見せていた。
 そして、なにしろまだ部屋住み同様で、那古野の城に二間きりの居間しか持たぬ信
長を憐れむように、奇蝶に伴してきた美濃衆は木曽材を運んで城内ニの曲輪にニ層の
美濃御殿を新しく建て増した。
 そこで信長は、まるで入り婿のような恰好で、そちらへ引っ越しして住まうことを
余儀なくされた。
 だから信長のまわりは、ことごとく侍女も家来も奇蝶に連れられてきた美濃人ばか
りである。ところが彼らは尾張の信秀に二度攻め込まれたが二度とも完敗させている。
だから嫁さまについてきた連中は戦勝国民として那古野城廓内なのに、まるで別天地
のごとく占領軍のように振舞った。
 言葉一つにしてもお国ぶりの美濃言葉を少しも改めず、そのまま大声で喚き散らし
ていた。
 たとえば尾張言葉では、莫迦(うつけ)とか、とろいと言うのを、美濃は一律に
「たわけ」でかたづける。
 だから、その罵声で尾張の下人や下女を叱りつけるのを耳にする城内の尾張武者は
眉をひそめあい、美濃御殿のことを陰ではいまいましがって、「たわけ御殿」とよび、
信長のことさえ、「たわけ殿」とまでいったりした。なにしろ美濃の連中の方が暮ら
し向きが裕福なので、それへの嫉妬、やきもちもあったらしい。もともと美濃は山国
で米もろくにとれぬ所だったが、それを京からきた斎藤道三が治めるようになってか
らは、まず紙すきを奨励しおおいに製紙をおこし、これを、「美濃紙」と名づけ諸国
へ売りひろめて、国内をうるおした。また美濃にも多い蜂屋者に、柿の渋ぬきを教え、
とった柿渋は、作った美濃紙に塗ってこれを渋紙に拵えて売りだした。
 また渋をぬいたあと大柿は乾しかため、これを「蜂屋柿」と名づけ、調味材に遠国
へまで運んで売りさばかせた。だから美濃御殿の連中も美濃紙や蜂屋柿を持ちこんで
きて、これを銭にかえていたから豊かだった。それに斎藤道三が都育ちゆえ、奇蝶に
ついてきた男女も、あらかた西国者だから、着ている物が尾張衆とは、まるっきり違
っていた。
 まだ綿の木がひろまらぬ頃だったから、尾張では誰もがみな藤蔓や芋殻で編んだ目
のすける布子を着て、よほどのえらい様でも山繭(やまこ)の滑らかな着物などは、
他所ゆきに一枚ぐらいしか持っていなかった。
 ところが銭まわりのよい美濃御殿の衆は、婢女でも薩摩小袖と呼ぶ目のつんだ木綿
を着ていた。
 姫さまなので奇蝶は、唐渡りの本物の絹布を上から下までまとっていて、これが歩
くと絹ずれの音がしゃっしゃっと鳴る。
 それだけでも、まだ十六の新郎の信長には聞きなれぬ耳響きでいらいらしているの
に、美濃衆の侍女共は、寄ってたかって、
(‥‥姫御前さまの、お婿さまゆえ)というのであろうか、無理やりに信長にまで、
ぬるぬりした肌ざわりの物を着せようとしだした。これはまこと迷惑な話で、
「いやぁなこっちゃ」いつも信長は逃げて回った。
 しかし美濃御殿にいるのは奇蝶の供をしてきたものばかりだから、いくら眼をむい
て怒鳴りつけても、結局は着がえさせられてしまう。ところが絹物たりやべったり汗
をかいたように体中に貼りつくから、すべすべした物なんか皮膚に馴染まない信長に
とっては、気味が悪くて仕方がない。
「いくら嫁にきて、ここの御殿を建てくさったからといえ、着せかえの人形のように
俺をわやくちゃにすんな」
と奇蝶のもとへ文句をいいにいっても、これまたなんともならない。
 そういう時は、いつも信長は虫に刺された時も、着たままでごしごしこすれば気持
ちのよい、荒目の布子を、そっと探しだすと絹物を脱ぎすて、
(ええ、もう我慢がならぬわい)ひそかに塀を乗りこえ、濠の浅いところへおりるな
り、水の中をわたって逃げ出すことにしている。そうしては、
「ふうッ‥‥」と両手を青空に突きだして、胸一杯に草いきれのする香りを吸いこみ
つつ、信長はせいせいすることにした。齢は一つ下でも権勢づくでお高くとまってい
る嫁の奇蝶も厭なら、それをとりまく美濃衆の者共も信長には虫が好かなかったから
だ。
 美濃御殿にいると窒息しそうな気がしてならなかったからである。そこで、
「いくら親父の殿がころ負けにされたからといって、そんなこと俺が知ったことじゃ
ないわい。なのに俺がそのために散々な目にあうとは、ちとひとすぎる。彼奴め他国
者の分際のくせに大きなつらしくさって、なんじゃい。今に見ておれ、いつの日か、
この信長が美濃者をぎゅうぎゅうの目にあわせ、この仇はとったるがや」いつもぶう
すか尾張言葉でいっていた。
 そして、その日も埃っぽい飴色の道をとことこ大曽根川まで城をぬけだして行った。
そこで信長は魚を追っかけまわす川狩りをやったり、あきたら畑の大根を引きぬいて、
泥のついたまま齧りながら、今度は、やあ寄ってこいやと、年下の 洟(はな)った
れの村童どもを集めて戦ごっこなどして遊んだ。
 なにしろ、ところの領主織田信秀の伜である。多少の悪戯(わやく)をしても、ま
あ大目にみられ文句もいわれぬのを幸いに、桃の木があれば子供をのぼらせてもぎと
らせ、まだ青いのをむしって齧ってみせ、栗の木をみつければ、持ち主がとめにきて
も容赦なく、あたりに落ちているのを、いがごと火にもやして、はぜる実をふうふう
いいながら子供らにわけてやった。もちろんそれ位では腹がくちくならない。
 だから雑煮が欲しければ、大きな農家を探してぬうっとその勝手口からはいってい
って、ぼっさりした恰好のまま、
「ふるまえ」と一言いえば、何処の農家でも、
「まあ、これは城の若さま‥‥お可哀想に、美濃もんに苛められ、飯も貰えんような
仕打ちをされていなさってか、おいたわしや」あわててすぐ鍋から木碗によそって信
長に食わせてくれた。
 これは野放図な信長に対して、どうのこうのというのではなく、当時の尾張では、
信長は尾張にいても美濃の人質にされていると思われていたからであろう。
 なにしろこの辺りの百姓家は、何処でも二度の美濃攻めに、男の一人や二人は死な
せている。だからみな美濃は不倶戴天の仇と心がけてる者が多い。そこで嫁とりした
恰好とはいえ、美濃者に捕えられているような恰好で暮しているまだ十六歳の信長に、
どこの家でもみな憐れみをかけ、
「まあ辛抱さっしゃりませ」などと慰めをいったものである。
 だからして百姓家の雑煮を、うまがってフウフウ貪り食う信長を、寄ってたかって
取り巻いて、
「おうおう、ほんにまあ、いじらしや」眼に泪を浮かべながら見守ったりする女共も
いた。
 だが実際のところは、美濃御殿だって、絹物こそ着せようとしたが、まさか信長に
食を出さず、乾干(ひぼし)になどしていたわけでもなかった。ただ信長の趣好が、
御殿で出される食事より、塩辛い百姓家の雑煮の方が、生まれつき口に合っていて、
こちらの方が食ったような気がしたから、「うまい、うまい」などと満足していたに
すぎないところもある。
 まあ猫にしろ、そば屋で育った猫は、うどんやそばを好いて飯をきらい、ヨーロッ
パの猫がパンしか食さいのと同じことであろう。
 なにしろ信長は那古野の城へ引き取られるまでは、塩っぱい雑煮ばかり母の里方で
食わされて育ってきた。それが城へ移ると今度はひき割り飯に変えられた。麦と玄米
(くろごめ)を混ぜ蒸しあげた強飯(こわめし)である。
 もさもさしていがらっぽいのは、「湯漬け」とよぶように白湯をかけて、サラサラ
と咽喉を通してしまうのだが、焼塩を箸につけて掻きこむのだから、まあ色のつかな
い雑煮のようなものだ。
 それでも、初めは大儀だったが、やっと慣れ、口にも馴染んできた。そこで信長も
自分でほっとして、やれやれと思っていたところ。
 さて美濃から嫁だという奇蝶がやってきて、これが別に住いをたて、その美濃御殿
へ移ったら、その日からまたとんでもない事になったのである。塩からい雑煮のごっ
た煮から玄米にと、まだ慣れた舌先も乾いていないのに、またしても食物が一変した
のである。
 しかも、今までとは違って、てんで口へ押しこんでも、なんとも咽喉を通らぬよう
なものである。
 精白したという白米を、もち米まじりの玄米を蒸すようなやり方ではなく、大鍋で
ぐずぐず煮てあった。粥よりもすこし歯ごたえはあったが、べちゃべちゃ粘っていて、
口中へ入れても舌ざわりが悪くてなんとしてものみこめなかった。まるで糊でもかん
でるみたいだった。
「こんな物は、今まで食いつけておらん」初めはびっくり仰天して箸を投げだして文
句をいった。
 すると給仕をしていた老女が、目尻の皺を鼻の脇までずり下げて、
「白飯は、上っ方の衆しか食べられぬもの‥‥じゃによって今まで口にされていなん
だは、こりゃ致し方もないが、もはや信長さまは、昔の三郎さまではのうて、美濃お
屋形さま一の姫の婿になられた身分にござりますぞ。よってもはや口の果報をなされ
ても、一向に差し支えなどなく、およろしいではござりませぬか」まるで、人をこば
かにしたような憐憫の色まで向けてよこす始末である。
「何をいっとるんじゃ。食べ物なんていうものは、いつも食いつけとるもんが一番う
まいんじゃ」
 口惜しまぎれにいってやって、肚の中では、おのれ舐めるなと思ったが、とことん
思いきりいろんなことをいい返したいにも、嫁の奇蝶までが、その老女のいい草に、
「ふん」「ふん」とうなずいては、これでは女たち相手の口喧嘩になりそうで取りつ
くしまとてなかった。そこで諦めたとはいえ、むしゃくしゃする心で、
「湯をくれ、湯漬けにしてかっこむ」
と仕方がないから碗を突き出せば、注いでくれるのが、これまた白湯とは違って、こ
れまで飲んだこともない口慣れせぬ唐茶とよばれる紅い小便みたいな臭いやつで鼻持
ちならぬ。
「湯の中へ、なんで薬臭いものを入れ居るのか。ふつうの水を沸かしたきりの湯が所
望じゃ」
 情けない話だが、こと食う事では誰しも熱心になる。そこで信長も声を震わせ文句
をつければ、
「白湯などと申すのは、茶の葉が購えぬ貧しい家でのこと‥‥卑しくも信長さまは、
今となっては美濃国主斎藤家の娘婿になられた御身分じゃ。よってそこを考えられ、
はしたないことを口にされては下っ方への手前もござりまするによって‥‥」またし
ても居丈高に老女に睨みすえられた。
 ----なにしろこの当時の信長はまだ若かった。食うのが何よりの愉しみだった。
 それなのに、箸の上げ下ろしに「美濃」「美濃」と言われづめのあげく、てんから
その食い物さえ変えられてしまっては、まったくたまったものではなかった。
 しかし塀を乗り越え百姓家へゆくことも段々とうるさくなってきたので、城の外ま
では出られぬまま美濃御殿を抜け出し、そっと尾張者の本丸へ入りこんでは、そこの
台所の行器(ほかい)所へ行って、
「えごくてとても咽喉へ通らん」と美濃者がいう那古野味噌の雑煮など秘かに貰って
は信長は隠れ食いをしていたが、これとて長続きはしなかった。なにしろそのうちに
この事が美濃御殿にばれたらしく、いつも信長に雑煮をふるまってくれた台所方の小
者達が追放されてしまったのである。
 さてそうなると、もうそれに懲りてしまったのか、それとも取締りが厳しくなって
きたせいなのか、これまでどおりに、
「おう、食わせろや」そっと信長が忍んで行っても、新しい小者共は、平つくばって
しまって、
「恐れいりますが、まだ何も作っておりませぬし残り物とてありませぬ‥‥」
となってしまった。これでは仕様もない。そこで信長は荒縄をよじ合わせて築土塀脇
の梢にかくしておき、そっと抜け出すと、その縄をひっぱりだして行き、またしても
見栄も外聞もなく、
「おう何んぞ食わせろや」顔馴染みになっている近在の百姓家を回って歩き、そのふ
るまいばかり食べ歩いていたのである。そして信長は、(食い物の怨みは恐ろしい)
というけれど、
「今に見とれ。大きゅうなったか仇をとってやるわい。あいつら美濃の奴らに、えご
い那古野味噌をなめさせてくれようぞ」
 なんとかして、この仇をとってやろうと、非力の人間の誰もがするように、美濃攻
略の白日夢にばかり耽っていたものである。そして、もし美濃を押さえる日がきたら、
「彼奴らにゃ白い飯どころか、黒い飯とて当てがってやるまい。栃の実や椎の実の炊
き出し雑煮しか食えんようにしたるぞ。そして呑みしろにしろ、茶はおろか白湯さえ
も飲めんようにしたって、冬でも、氷のはった水を、ヒイヒイいわせながら飲まして
くれよう」と、そんな事ばかり胸に描きだして、まるで自慰行為でもするように、己
れの肚立ついまいましさを紛らわせたり、押さえたりしたのである。
 というと、信長は、あけくれ腹の立つ事ばかりだったようだが、それでも生涯に一
度だけ、美濃者の力で助かった事がある。有難いと思わされたことがあった。
 それは、信長が十八歳になった時、突如として持ち上がった跡取り騒動だった。
 信長の父の織田信秀は、まだそのとき男盛りの四十二だった。だから、まさか不意
に、そんな事態になろうとは、これはおそらく誰一人として予測しなかった。
 だが。
 天文二十年[1551]三月三日、白酒祝(しらきいわい)に食べ酔わされすぎた
か、この年あちらこちらに流行した伝染病のためか、その日の夜半過ぎて、親父どの
信秀の殿が倒れられた。
 信長も馬を駆けさせ、那古野の城から、今は上前津になっている古渡の城へとんで
いったが、もう死目にすら間に合わなかった。遅れて次々と兄弟共も詰めかけてきた。
 長男一郎はさきの小豆坂合戦で討死していたから、その跡目に幼い一郎次郎がきた。
次男の次郎信広は、安祥別所の砦を守っていたのを、さきごろ今川の太原雪斎に攻め
られ捕虜にされ、事もあろうに雪斎和尚のため助命はされたが坊主にされていたから、
これは頭布を被って、やっては来たものの、きまり悪そうに隅の方に小さくなってい
た。
 嫌な奴は、末森城から馳せ参じてきた弟の四郎信行。眼ん玉のぎょろりとした強そ
うな従兄の大男柴田権六と、母方の阿古井の豪族土田久安を伴ってきていた。そして
喪主づらをして、あれこれ小生意気に古渡の者共に指図していた。
 他の弟や妹はまだ童(わっぱ)だし、みなその母に当たる御前どもに手を引かれる
か、抱かれるかして、うろちょろしているだけだったが、四郎信行は、それらの弟妹
にも横暴な顔つきで、手当たり次第に呼びすてにして、可愛い顔をしている於市が甘
えるように側へ這いよっていっても、
「うるさい」とか「静かにせい」などと文句をいって叱りつけてばかりいた。
 まあ、それはそれで良いとしても、信長には承服できぬ事ができた。葬儀である。
(勝幡城に生れた父は、津島国府宮の氏子に当る素性だし、先祖は勝幡別所の日光川
に臨んだ白山明神に祀ってあるから、国府宮か、熱田の社で式を営んでから、白山さ
まへ弔うもの)とばかり信長は考えていた。それなのに、仏教徒の土田御前を母にも
つ四郎信行は、大声をはりあげ、
「葬儀は、社ではのうて、寺でやる」と、まるで宣言するような言い方をした。する
と神信心の素性なのに、今川の太原雪斎に虜にされてから、命惜しさに転向して坊主
になっていた二郎信広が、
「それが良かろう、仏式で営むが何より」すかさず、四郎の機嫌をとるような口のき
き方をした。