1122 徳川家康  2

 さてこの物語は、単なる読物ではないから、そうすらすらとはゆかないのである。
ここでひと息なんとか入れていただきたい。かつて私の書いた、『信長殺し、光秀で
はない』は自分のみた目から、これまでの史料といわれたもののでたらめさをつき、
絶対に光秀でないことを解明したものだったが、続の『謀殺』は春日局と江与の方の
対立をエリザベス女王とメアリ・スチュアート女王との対決において信長殺しを説こ
うとしたものである。『信長殺し、秀吉か』では信長の弟の有楽の立場から、織田一
門はあくまで秀吉こそ本能寺の変の黒幕ではないかとみていたのを書いた。
 だからすぐ続けて、この「信長殺し、家康か」ともいうべき本書でしめくくりをつ
けねばならなかったが、これを書くと従来の徳川家康像が一変してしまうので、書き
出してから二年経過してしまい、途中明智光秀からの立場で、『正本織田信長』をエ
ンタテーメントとして、これまでの総ざらえのように判りやすいものをかいた。それ
らによって天正十年六月二日の本能寺の変は、江戸期まで日本には輸入されなかった
新開発のチリー硝石によるフェリッペ二世の新黒色火薬によって、信長はじめ家臣団
の小姓らは誰も槍も刀も振るわず、みな一瞬に髪毛も残さず吹っとばされたことを証
明した。
 そしてマカオやヴァチカン法王庁、イベリヤ半島であさってきた当時の記録書簡で
は、信長が当時のイエズス派に悪魔のごとく睨まれていた事実から、ここが火薬の出
所であることは疑いない。
 もちろん国内的には、ときの正親町帝のおおみことのりを奉じた光秀が、さながら
その責任をとらされた恰好に、張り合った秀吉にされてしまっているものの、徳川家
康その人にしろ、
「これは光秀遺愛の槍である。汝も光秀にあやかれ」と、その家臣の水野勝成に手ず
から与えた記録がある。もしこの時代に、信長殺しが明智光秀とみられていたなら、
水野勝成は槍をうけとった瞬間に、家康をぶすっと刺したろうが、彼はそんなことは
しなかった。家康の死後も徳川家に忠義をつくし、島原の乱の時には、備後福山の城
からはせつけ討伐している。
 ----だから家康でさえ信長殺しを光秀とみていなかったこれは証拠であろうという
のは、これらの拙書に対する故日本歴史学界会長高柳光寿博士の説でもあった。
 そこで、「光秀でなければ、信長殺しは誰だろうか」ということになるが、直接に
本能寺へ向かったのは、以前は信長の寵臣でありながら、当時は不興をこうむって不
遇の身となり、明智光秀の軍へ目付に左遷されていた斎藤内蔵介その人であることは、
これは間違いない。ところが、である。この内蔵介の末娘の福を、なぜか家康は探し
だしてきて、これを有名な「春日局」にしたててしまった。
 そして俗説では、春日局は家光の乳母ということになっているが、総理府の内閣図
書館にある「家康公遺文」では、家光のお腹つまり生母は彼女であった秘密が書き残
されている。すると信長殺しの内蔵介の娘の子供に徳川家を継がせたのは、家康その
人の意志ゆえ、ここに、「信長殺しは家康」の推理が出てくるのである----これは
『謀殺』でもふれておいたが、それは家光や忠直の立場よりだったから、この本では
家康当人と信長自身の対決から説きたいと思う。なにしろ、これまで各角度からとら
えた既刊四点が、三十余万出ているのに、なかなか入手できないそうだから、そのう
ちの前述二冊は「八切日本史」の1、2で再刊したが、一応の概略の説明がしたかっ
たのである。
 もちろん私の本などが多く求められるのは、それは、この数年来、「すべての既成
概念を投げうって本当のところは、真実とはなにかということを、今こそ根源的に見
直し追求すべきではなかろうか」といった風潮がたかまってきているので、おそらく
その影響によるせいでもあろう。
 さて、そうなると一応は何故こんなに、これまでの歴史と私の書くものとが相違す
るのか‥‥と疑問をもたれる方も多いだろうから、その言いわけも少しさせてほしい。
 他の国では「歴史学」というものが独立しているから、歴史博士とか歴史修士とい
った学位もあるが日本にはない。瀬戸物の研究や修辞学で文学博士をとったような人
たちが(‥‥ゴキブリや蛙の研究で医学博士になった人が平気で大切な人間を病気を
診察するみたいに)「歴史家」になっているからかもしれない。ボウイックだって、
理論が教えることのできない知恵を教えるもの、それが歴史だとはいっているが、
「歴史学教授の説くものが歴史だ」などとはいっていない。
 しかし日本では、学校の本にでているのがみな「正史」ということになっている。
もちろん学校の先生の教えるもとになる教科書なのだから、みな正しいものだろうと
思いたいが、私も大学で講義をもっていた時、どの教授もすこしも勉強はせずに、古
いノートで教えておられたのにびっくりしたが、これでは高校中学となれば教科書を
鵜呑みにして教えるしかないかも知れない。それに日本では、(歴史は過去のもの)
という観念から、(古くから伝わっているものこそ正しい)というのが根本をなして
いる。しかし古いからといっても、これは限度があるから何時頃かというと、正直な
ところ、どうもそれが作られたのは、江戸期あたりにできたものによるらしいのであ
る。
 ところがこの江戸時代こそ(神君家康公の御為に)というのであろうか、講談本で
は名奉行さまの大岡越前守が江戸町奉行になってから、「みだりに新説はとなへまじ
く候。もし御当家(徳川)につき何かと書き候は法度たるべきこと」といった出版統
制をしき、奥付に著者発行人の名を明記させ検問のためとそれから奉行所へ納本制を
とらせた。それが、昭和の戦前までも続いてきたのである。
 前にもふれたが、それだから、もっともらしい歴史全集がいくら出版されても、は
っきり日本歴史というのは徳川中期で線がひかれてしまい、それ以前のことは本当の
ところは今ではあまり判らなくなっているのが、どうも常識的には正しいようである。
 なにしろ徳川家にとって都合のよい御用学者や、こびへつらうものは出版を許され
伝わっているが、そうでないものは、もしあっても内容がすっかり歪められてしまっ
ているとみえる。そして一般大衆には、知らしむべからずの根本政策がとられてきた
関係で、「眼学問は芝居、耳学問が講談浪花節」といったのが、かつてのお国ぶりだ
ったのでもある。そこで、今でも幕末の講釈本の種本を、「史料」としたり「史実」
とするようなおかしなのが堂々とまかり通っている。だからでもあろうか、
「日本は義務教育で文盲は一人もいない。しかしフランスは十二パーセント以上の文
字を読めないのがいる」とはいうが、だからといって日本人の方がフランス人より文
化的だとは誰もいわない。
 なぜかというと、みんな文字が読めるということは、それは悲しいことだが、押し
つけられた活字を誰もが読まされているということにすぎないからである。
 つまり日本人が活字に弱いといわれるのは、誰も彼もがまあ読めるからして、活字
になってしまったものには批判精神もおきず、文字通りにそれを鵜呑みにしてしまう
危険性があること、これをさすのだろう。
 四十五年二月二日付『東京新聞』に、テヘランにいる日本イラン研究所長本田実信
の談として、「こちらに十三枚、十四枚の浮き彫りが見つかっているから、‥‥十六
枚のもあります。わが国の菊のご紋章がペルシャからの渡来と立証できればと思い、
帰国までには突き止めます」
と掲載されているが、菊のご紋章がペルシャからとなれば、天朝さまの御遠祖は今の
シュメール昔のスメラのそちらからだとなるかもしれないが、そこまでは書いてない。
だから眼につく活字しか頭に入らない人が多いので、これについて何もいう者がいな
いといったようなことになるのと同じである。
 というのは、なにしろ自分がそれまでに覚えていることを既成概念として「教養」
と思っている人が多いから、習ったり聞いたりしたのと異質の事柄には、頭ごなしに
これを斥けたがる傾向が多いからであろう。しかし数学や物理と違って、歴史という
ものには定理などありはしない。
 かつての騎馬民族国家説にしろ、その反対意見も、日本・朝鮮・中国といった陸路
の線をひいての考究にすぎない。だがワットが蒸気機関を発明するまでの地球は、と
くに島国で四方を海に囲まれていた日本は年二回交互に吹く季節風と貿易風によって、
その交通はなされていたものである。
 信長の頃はマカオ=堺間に定期航路がひらかれていて、火薬輸入をしていた事実も
ある。
 それより四世紀前の壇の浦合戦で、平家の軍船がみな鎖でつなぎあっていたのを、
今日の歴史家は安定性を図るためだったというが、これから海戦をしようというのに
何十何百もの船を一つにつなぎあわせるという馬鹿げたことをするはずなどなかろう。
あれはなんのためだったかというと、ちょうど南支那海やペルシャ湾の方角へ向かっ
て、今まさに季節風が吹き出しそうとしていた時期であったのだ。
 正倉院御物のペルシャ渡来の物を、シルクロードを通って陸路で入ってきたものと、
今日ではみな説明しているが、そのシルクロードのできた年代までにはふれていない。
つまり安芸の厳島神社の宝物になっている太刀は、いわゆる日本刀ではなくサラセン
の細い剣であるし、彼らの船はガレリ船であった。つまり従来となえられている騎馬
民族の他に、船舶民族というのが西暦四、五世紀から十一世紀にかけて日本へ漂着し
てきて、これが建築その他の高度の技術をもって当時のエリートになったことは、こ
れまでの歴史では解明していないが、疑えない事実であろう。
 また後になって信長や家康の十六世紀というのは、ヨーロッパではスペインやポル
トガルまで押さえていた回教徒が、白人の十字軍に追われた時代である。だから日本
の戦国時代というのは源平時代と同じように、十字軍の戦火をさけた民衆が貿易風に
流され、流入してきたのが戦乱の原因の一つかも知れない。しかし、これは香港の蛋
民(たんみん)がその末裔かもしれぬが、その裏づけするものが彼らにはなく、私も
スペインの古都トレドまで、なにか手掛かりはないかと行ってきたが徒労だったので
触れられないが、戦国時代の馬印にサラセン風の物があるから私は今も疑っている。
 さて、神君家康の死後三百五十年かかって、大阪の立川文庫では、「おのれ狸親爺
めッ」ぐらいに扱われてきたのが、最近は反動で経営の手本みたいにもされているし、
またとるにたらぬフィクションの小説をもっともらしく引用し、それを反証すること
によって、家康は一人であると説くのもいる。だが後年の徳川家康と、松平蔵人元康
はどう考えても、いくら調べてみても、間違っても同じではない。
 案外に男というものは、いくら豪くても賢くても経験のまったくないことは出来な
いものである。だから元康のように十九歳まで今川家に幽閉されていたきりの人間が、
家康のように千軍万馬の英雄になれるとは考えられもしない。秀吉と互角に太刀討ち
できたのも、彼も諸国を歩きまわるような成長の仕方をしてきて、耳目で知恵や学問
をつけてきたせいからだとしか考えなかろう。
 また徳川家では、三河出身は一万石以下の旗本として冷遇され、伊勢出身の榊原康
政とか、駿府出の井伊直政や酒井忠次、遠江の本田忠勝が、「徳川四天王」となり、
他国者だけ大名に立身した謎も、三河の松平元康と、他国者の家康が別人と判れば、
よく納得できるし、そのわけも呑み込め信長殺しの手がかりともなる。つまり私は、
経営学の手本になるような社長家康ではなく、夢と希望だけで、苦労して努力してゆ
く男一匹の家康を人間的に書いてゆきたいのである。そのために特殊な当時の社会状
態から初めに入らなければならない。埋め合わせに後は面白くするつもりである。


鐘打七変化

「これから行くところは、そう力仕事なんどせんでもええんじゃ‥‥」又右はつれて
きた子供に言った。来る途中で柿の実を一つもいでもらい、それをゆっくり齧らずに
歯であけた穴から、ちゅっちゅっと吸っていた子供は、それに「うん」うなずいたき
り黙り込んでいた。
「すこし冷たいが水あびしてけ、よぉ顔や頭を浸けるみたいに洗うがええ」
 安倍川の渡しの手前の州のある浅瀬のところで、又右は子供に言いつけた。
 しょっちゅう人を殺したり、殺された人間の腹の中へ手をつっこんで、黒豆とよぶ
臓物や、死んでも当分はハッハッと動く肺臓を抜き出し、肝臓を唐人に売った後は、
自分らが食っている連中の堂の中にいたこともある子供だけに、又右はここまでつれ
てくる間にも、
「この児は血生臭い匂いがしみついとる」妙に鼻にかかってならなかったから、(売
物じゃから)と水浴びさせて匂いを抜いてゆこうと思いついたのである。
 ところが子供は腰までの水の中に仁王立ちになったまま、水をすくって頭へあびせ
つつ東へ向かうと、「おとうやぁ‥‥」とよびかけ、西の方へは「おかあ」と喚き、
今やって来た北を振りむくと、「ばあちゃあ‥‥」と叫んでは顔をうつぶせにして水
をかぶっていた。又右が、
「これさ‥‥もういい、風邪でもひいてはいかんずら」
 上へよびあげると、その子供は赤い目をしていた。だから又右は、
(この児は目病みじゃったのか)とびっくりしたが、よく覗きこむと、そこには露み
たいなのが一粒ずつ溢れだしていた。そこで、
「おみゃあ川ん中で泣いてきたんか。そんで恥ずかしいで顔へ水を浴びせかけてきた
んずら。だで、見い、耳ん後はまっくろすけじゃ」と、又右はあやすように笑いかけ
た。しかし子供は、
「お、おらあ泣いてなんかいねえ‥‥こ、これ川の水がたれたんだずらよ」
 頭でっかちのちびのくせに、吃りながら一人前の口をきいた。そこで又右は、萱草
をひっぱってむしり取ると、それで小さな身体をこすってやりながら、左手で頭を一
つどづくと、
「おみゃあ、もそっと可愛がられるようにせないかんぞ‥‥おみゃあを売った銭を、
ばあちゃあの所へ届けにゆくとき、そりゃ心配しとるで、いろいろ聞かっせるだろう
が、こない憎ったれ口きいたとは、とても言えんずらよ‥‥」と耳のところへいった。
 すると九歳の子供は、もう辛抱しきれなくなったように、虫くいの歯を出し、「‥
‥おんおん」声をたてて立ったままで泣きだした。そこで周章てて、
「よせってば‥‥渡しをわたって、これから奉公先へゆくんじゃろに‥‥」
と励ましはいったものの、父に逃げられ母には嫁にゆかれ、残った祖母からも、こう
して売られてゆかねばならぬ子供だけに、又右もすっかり不憫になってきて、
「おみゃあさえ精出してよぉ働けば、やがては、おばあとも暮せる。おっかも戻って
くる」
 また耳のところへささやいてやった。すると、
「‥‥お、おとうも来るけ」聞こえるか聞こえないかの低い声で、吃りながら子供は
聞いていた。
「そんなに逢いたいものかのう」又右は唸りながら、
「くる、きっと戻ってきゃあすわ」うけあうように寺の仕着せの苧殻(おがら)(麻
幹)編みの短衣を着せてやり、縄帯もひろってしめてやった。すると、
「え、えらくなったるぞお‥‥」銀色に川面に照り輝く隅に向かって、色黒な子供は、
吃りついでといったように喚きかえした。そこで又右も励ました手前があるから、
「うん、人間やる気になりゃあ、なんでもやれるずらよ」またうけあった。
 だから仔犬みたいに片足ずつ上げて、股ぐらの雫をきりながら子供は、
「な、ならな、いかんがなァ」心細そうに又右を振りあおいできた。
「よぉ守り神の白山さまを拝めや。おみゃあの信心次第でどないに豪うもなれるずら」
 又右は自分なりに言いきかせたつもりで、黒い子供の顔にうなずいてやった。
 このとき。
 九歳の子供が又右の手で売られていった先というのは、鐘打部落であった。
 安倍川を渡って駿府へ入る入口にあるのが白山町。そこにその部落があった。

 大正時代までは栃木の足利市や神奈川県藤沢市の新市街には、部落ごと残っていた
が、鐘打といってもなにも火の見櫓をもうけて半鐘をジャンジャン叩く消防署のよう
なものがあったのではない。これは藤沢の方は旧幕時代からは、「大鋸(おおのこ)
部落」と名が変っていたように、表向き本業は木挽だったが、これは番匠役で、この
他に酒作り、干魚、鉦を叩いて勧進して廻る仕事など六つも七つも、個人個人ではな
く部落ごとでもっていた。足利市のほうは「鐘打七変化」という名前そのままで有名
だが、こちらは鋳掛屋、飴屋、御祈祷、札売り、たが屋(桶屋)も部落中で一つにな
って兼ねていたから、この名があったのである。
 今でこそ職業は自由であって何でもできるし、資本さえあればどんな商売でもやれ
るが、幕末まではそうではなかった。 参考までにあげてみると、今と違って石切、
炭焼、渡船、染色、左官、庭師、易占、能楽、舞踏、曲馬(サーカス)、マッサージ、
帽子屋、蓑作り、茶碗土器、鋳物製鉄、鮮魚干魚、それに鉦や鉢を叩いて銭を貰って
歩くのや、大道芸人、それに現在の警官や看守にあたる捕方牢番。ガードマンなみの
番太郎、といった職業は、お寺に人別帳とよぶ戸籍簿のある人間にはなれなかった。
 寺の坊さんに来世を預けて布施をもってゆく人間というのは、現世では村方だと、
納税や人夫役のために名主や庄屋の支配下にあって、ところの領主に隷属しなければ
ならなかったし、旅行するのにも一々道中手形という旅券兼身分証明書が必要だった。
 さて特定の職業の方は、これは名主庄屋に支配もされず、ところの領主にも納税は
しなかったが、その代り各地に彼らを統轄する長吏がいて、この方に人頭税みたいな
ものを納めていた。だからその長吏からの証明書さえあれば諸国往来は自由であった。
 なにしろ関所の役人も同類だから、彼らには道中手形の必要もなかった。故子母沢
寛の、『駿河遊侠伝』に出てくる安東の文吉親分というのは、別名を「首つぎ親分」
といわれるくらいで、この親分にすがれば普通なら関所で捕えられて首をはねられて
しまう悪者(わる)でも、無事に関所が通り抜けられたのを、
「仁慈のあつい親分で、さすがの清水の次郎長も、この親分のいる方角へは生涯足を
むけて寝なかった」などと書いているが、これは安東の文吉というのが、代々長吏の
家柄だったから、関所の役人も文吉支配下と心得てフリーパスにしただけの話で、仁
慈でもなんでもなく、そういう慣習があったのを子母沢寛氏がご存じなかっただけの
話である。
 今日では誤られて、人別帳に入っていないものは、これすべて「無宿者」といった
考えをされている。だが、これは間違いで、生まれが寺の管轄だった者が、処罰とし
て人別から削られた時に限って、「抜き」とか「非人」とされたものである。
 よく寺の坊主が破戒したからとか、心中をしそこなった男女が見せしめのために、
晒しものにされた後、人別を削られて非人にされるといった話があるが、ああいう形
式で生まれてくるものであって、初めから人別帳に無関係なものは、これは非人でも
なんでもない。
 しかし、さて非人とされた者は、もはや寺管轄ではないから、これが人別のない方
の長吏の方へ払い下げられた。これは往昔の「官奴」といった制度の名残りである。
 貰った方は一生ただで飼い殺しで使うのだから、これを牢から死罪人を引きまわす
時の番人にしたり、首斬りの死体の始末をさせたり、まあ人の嫌がる汚いことに使っ
た。もちろん非人たるや、これまた乞食以下の恰好をしていたから、一般から差別待
遇をされた。
 さて明治五年に新政府は、それまで寺で戸口や人口を把握している百姓を中心にし
た人間だけでは、納税や、これから発布しようとする徴兵令に差し支えるから、新し
く日本人全体の人口を調べようと、一斉にこれを施行した。
 これが、今でも問題になっている「壬申(明治五年のこと)戸籍」である。
 初めは一般の百姓町人に、「平民」をつけ、これまで寺の人別帳に入っていなかっ
た者たちは、「源民」とつける予定だったが厄介なことがもちあがった。それはこれ
までの士分の扱いだった。彼らは各大名家の「分限帳」にはのっているが、「人別帳」
には入っていない。つまり今では郷士も浪士も一緒くたに扱っているが区別はあった。
郷士は大名家の方でなく寺の人別帳だったことである。
 それに上の方から旧大名旧公卿を一つにして爵位をつけ、「華族」という位づけを
してくると、上級武士を、「源民」と民扱いではできず、これを華族に準じて「士族」
というのにした。すると下級武士も源民では困ると騒ぎだした。なにしろ明治維新の
原動力は下級武士だっただけに、新政府もおしきられて、足軽仲間小者の身分の者だ
けを、卒族ともできず、一様に士族ということにした。
 つまり「源民」に分類する中から、士族、卒族といったものが抜けてしまったので、
これを平民に対抗する名称でなくそのまま立ち消えとなってしまった。
 さて、明治五年、川路利良が羅卒総長となって薩摩の者を用いることにして、従来
は非人別帳側にあった村役人共をやめさせるにあたって、ここに全国的な騒動がもち
あがった。
 といって御用提灯や十手の返納を命ぜられたから、番太郎や村役人が反抗したとい
うのではない。それまで御用風邪をふかされ脅かされていた一般大衆や百姓が、それ
までの警察官だった通称「八[はち]」とよばれた八部衆や岡っ引を各地で半殺しに
してしまったのである。もちろん今でも、「嘘の三八」とか「嘘っぱち」という言葉
が残っているくらいだから、江戸時代の彼らはでっちあげで罪ばかりつくっていたの
で、そのせいだろう。
 さて、八ばかりでなく、その家族の者まで村や町から追放され、よその土地へ流れ
ていっても、旧幕時代の御用だった前捕方の身分が知れると誰からも相手にされなか
った。これが今も名前だけは残って時々マスコミにものる「村八分」の起りである。
 この結果、前捕方、下引き、牢番、番太郎の前歴があるものばかりでなく、新しい
平民の名称になった昔の人別なしの連中に、平民側の迫害はひどくなって各地で対立
騒ぎがおきた。
「こういう反響的なしこりが国民感情に残ってはいけない」という親心で、「中央融
和事業協会」というものまで、警察の元締の内務省警保局に設置された。
 が、この事業協会は、当時の歴史界の権威喜田貞吉が、いくら江戸時代からの捕吏
とはいえ、これを原因視するのはまずいと考えたのか、「八部はいま部落のように集
団制をとっている地域が多いが、これは朝敵の徳川家がとった政策で、彼らに賎しい
業務に携わらせていたから、それで差別待遇が生れたのである」という学説をたてた
のを利用して、これによってその会を運営していたのである。
 だから寺の人別からはずされた奴隷にわたされた非人が、まるで旧幕時代の、彼ら
のすべてのような誤解を、その後は招いているようである。----ここまで、こういう
ことを書いてきたのは、少年が売られた部落を今の誤った考えで間違えられては困る
からである。


ささら者

 後年の越後獅子のはしりであろう。当時の言葉では、まだ短く「しし舞い」といっ
た。そして部落中の者が、この商売をもって一斉に旅立つことになった。
 もちろん獅子の恰好のものをかぶって、笛をふき太鼓叩いてといった装束は、あれ
は芝居の舞台から始まったことで、実際はもっと手軽に鳴物は竹を四つ割りした物を
両手でカチャカチャと鳴らすだけ。冠り物も、眼かくしに鼻の上へのせるはりぼての
お面。
 だから、この家へ売られてきたばかりの少年も、一つ年上の一郎というのと一緒に、
「つれてくだ」とひっぱり出された。名前は旅へ出るのだからと、この日から少年は、
「次郎」とつけられた。のちにこれでは軽すぎるというので、自分で、「次郎三郎」
とつけ、ところの太守今川義元にあやかるつもりか、それに「元信」の名乗りまでつ
けたが、この名は、その後につけた家康の名の方があまりに有名になりすぎたので今
ではあまり知られていない。
 さて親方は急いで連れだしてきたので、何も仕込んでいないから、
「これ一郎や、次郎に歩きながらでも、四つ竹の鳴らし方を教えたれ。それからよぉ、
ものいうとき、尻に『ずら』をつけたらいかんと、それもよお仕込んだれ」
といいつけた。
 もちろん譜面をみて合せるような楽器ではない。割った竹を反対にもって、カチャ
カチャやるだけだから、誰にでも出来そうなものだが、困ったことにチビの次郎は手
許もまだ小さい。とても四つ竹を二つとは握れない。そこで、
「仕方がねえ。じゃ鉦叩きをやれや」親方は自分のをわたした。
 鉦といっても、手でぶらさげる椀ぐらいの大きさだから、これなら叩いて音が出せ
る。それに次郎は円光寺にいたから、仏前のをチンチン鳴らしてきているので、どう
にかすぐ急場の間にあった。
 塩見峠から山道を通り抜け、三河を越えると尾張である。今は人口二百万をこえる
名古屋市だが、当時は那古野といって原っぱである。そして今の名古屋城ニの丸あた
りの所にあったのが、今川家より氏豊がここへきて統治していた頃は、「柳の御所」
といわれたものだが、勝幡寺の織田信秀が、いまの今川義元が駿河の跡目をとるとき
のどさくさにまぎれ占領したから、「那古野城」と名もかえられている。しかし、ま
だ金の鯱などついてなくて、土を上へ盛り上げ掘ったところへ水を流しこんでいるが、
小さな二重だけの城。
 なにしろ白壁などというのは、もう少し後年の鉄砲が流行しだしてからの建築様式
で、まだこの時代は、板を焼いてくさり止めにしたので建ててあるから、遠くからみ
ると黒板塀みたいにみえる。そしてそれへの見越しの松よろしく囲みに木が並んでい
る。
 さて、その広場へやってきた親方は、
「商売じゃ」と次郎には鉦を叩かせ、一郎には四つ竹をカチャカチャ鳴らさせた。そ
して、
「ええい‥‥おししでござい」親方は鼻を下をこすりながら、鳶の舞う青空を見上げ
口上をいった。

 さて、だいたい獅子などというものは東洋からのものではない。サラセン文化の図
案や模様で輸入させた中国だって、「牡丹に唐獅子」程度だったから、後年の越後獅
子みたいに、逆立ちなどさせたかどうかは判らない。もし、そんな芸が多少でも入用
なものなら、売られてきたばかりの九歳の少年がすぐ間に合うわけはないし、また仕
事の方でも江戸後期のように専門化するしかない。
 なにしろ鐘打部落のように、ある時は村中の者が一人残らず、みな一斉にふいごを
もって、「鋳掛け直し‥‥」と底に穴のあいた鍋釜の修理屋になって諸国へ散らばっ
たり、時には、「ええ魚、ひと塩の干物はいらんけ」と背中の連雀板に、乾しするめ
や生干しの鰯や、ひらきの鯖など売り歩く。
 また場合によって何も用意できない時には、竹薮から青竹をどんどん切り出してき
て、これを細く割り裂いたのを、昔の煙突掃除夫みたいに輪にして肩へひっかけ、て
んでにこの恰好で、
「えっ桶のたが直しでござい、桶屋でござい」と、分散して諸国をまわって歩くよう
な部落ではまさか、しし舞いに専念していたとも思えないから、おそらく、この時も
恰好ばかりだったろう。
 ----これは余談になるが、桶屋というと、この出身で有名なのは、戦国時代の荒大
名の福島正則である。今日では職業定着化といった観念から、尾張の中村の何処かに
桶屋の店があって、木片を揃えてはみこみ、とんとん叩いてそれへ竹のたがをはめこ
んでいる職人がいて、そこの伜の市松が小姓に召し抱えられ立身したごとくに考えが
ちだが、当時の人口では、そんなに一定のところで店をはっていても、桶を買いにき
たり修理にもってくるとは考えられぬ。
 だから市松の家も桶屋という当時の限定職業からみて、やはり鐘打部落のような聚
団部族に入っていて、流し商いをしていたものとみるべきだろう。ということは、こ
れと遠縁にあたっていたといわれる豊臣秀吉の出身も、俗説のような普通の百姓では
なく、こうした別個の種族だったことも判ってくる。
 そして秀吉の死後、市松時代からの子飼いの福島正則が、豊臣家から家康の許へ走
った理由も、「同族[同系統?]だった」という観念をもてば判ってくるし、のち秀
忠の時に、正則は咎めをうけたが、徳川家でも他の大名の例のように殺すというよう
な事はせず、彼だけは信州川中島へ流して命のみは助けているのも、この特殊な理由
によるからであろう。
 つまり戦国時代というのは、現在の通俗史的な味方では、あまり何もはっきり判り
はしないらしい。
 強いのが現れてその個人のバイタリティで、四隣を征服したというような、個人の
武勇をもって、すべてをおしはかろうとする講談的発想では、とても真実はつかめも
しない。
 明治新政府が平民と源氏とに分けようと苦労したような異民族間相互の反発が、明
国と通商条約を結んでいた室町政権の崩壊後に、各地で衝突して乱世になったのだろ
うし、もし後世ならコミュニストとか、アナーキスト、ナショナリスト、ファシスト
といった分類さえも可能な各集団だったろう。
 いうなれば、この時代つまり中世紀[期?]というのは、地球上どこでも宗教戦争
の世の中だったから、日本でも仏教派と反仏教派その他で争ったのだろうとしか想像
できない。
 桶屋の話がでたついでに書くと、この時代の特徴は、皮と同じように竹というもの
は、反仏教派つまり原住民等の専売品になっていた。つまり、種をまいて収穫する作
物というのは、これは耕す百姓のものだが、野生というのか天然自然にあるもの、つ
まり魚や獣、山中にある鉄、原生林、そして山繭、染料や薬になる野草、そして竹、
こうしたものは一切、「土毛物(つくも)」とみなす風習があって、外来して日本列
島へ入ってきた天孫民族が、耕した物を勝手にするのはよいが、それ以前からあった
ものは原住系のものであるという掟、その区別が確固として続いていたらしい。
 つまり土地を耕して取入れするのは、寺に人別帳をおく側のものだが、その土をこ
ねて土器を作ったり茶碗に焼き上げる権利は、原住民のものとする差別である。
 従来ここまでの研究は誰もしていないから、これに関しての引用できる資料はなに
一つとてないが、非寺系の限定職業というのが、みなそれに基礎をおいている点で、
こうした推測は成り立つ。
 さて、天孫系の歴史は「正史」としてあるが、被占領民である原住民の歴史は何も
ないから、矢に関連して矢関係だけでもついでに書くと、古来この連中は部族の中の
戦闘的中核だったらしい。
 「や衆」とよばれる彼らは天孫系が入ってきた時から、あけくれ本土防衛で戦いを
していたから、彼らの築いた城の名残りを、「やしろ」とよんで、これがのちに神社
と扱われた。
 『古事記』や『日本書紀』にでてくる、天孫族に滅ぼされるのが、ヤソタケルとか
ヤソダテと、上にヤがつくのも、や衆のことであろう。
 さて、後になると、「矢衆」とは当時「調度」といわれた弓矢隊になり、近接戦に
得手な「矢利衆」が、当時は「道具」とあっさりよばれた槍隊のことにもなる。
「戦国武者とよばれる新興プロレタリアートが、各別所から発生し、野生のや放牧の
駒に跨り、「矢衆」「矢利衆」を率いて、応仁の乱後から各地の守護大名の目代や代
官を襲ってこれを倒し、とってかわって戦国大名にまでのし上がる者もあったから、
これを今の歴史家は、「下克上」ともよぶが、さて、この「や衆」は、その後どうな
ったかというと、これが江戸期では士分になりそこねた連中が、代官所や奉行所の下
役人や捕方牢番になり、それにもなりそこねたのが、「や師(香具師)」、「や屑
(やくざ)」と変貌していった。旧幕時代の御用聞きとやくざが一身同体だったのは、
このわけであり、国定忠治みたいに寺側の出身だった者は、「はんか打ち」といって、
やくざや捕方からも嫌われていたのは、そのせいだったようである。
 また、「矢衆」の統轄している各地の山林の中で、矢竹として軍用目的に供せられ
る物の外は、「ささら衆」という連中が、その払い下げをうけて竹細工を業とした。
これが桶屋のたがを供給したり、自分でもやっていた。だから、おおざっぱに、鐘打
七変化のようになんでもやる部落の連中を「ささら者」と一括してよぶようになるが、
これは後年の話。しかし何故また部落ごと一つになって年に何回も、いろいろな商売
がえをして、それで各地を分散してまわったのかというと、
(一つの仕事では、人口の少ない時代ゆえ、とても需要が長続きしないから、目先を
かえて、次々と変った趣向で出向く)という理由もあったろうし、また、これが初期
の目的で、手をかえ品をかえて生活の資を得ていたのでもあろうが、戦国時代になる
と、(これに眼をつけて利用する)といった動きにもなった為らしい。現に、一郎や
次郎に四つ竹や鉦を叩かせ、自分も、
「ええ、しし舞いじゃ、しし舞いじゃ。これに銭を一文あげなされたら、常人の眼に
はつかぬ、そなたさまらの怨敵悪魔を払うてしんぜましょうわい」
 ちゃかぽんちゃかぽん小鼓を叩いて口上をのべる親方の側へ、通りすがりのお小者
ふうの男が、面白そうに間のびした顔をみせながら寄ってくると、
「ほい、一文の喜捨で、そないな福を授かり、無病息災でいられるとは有難や」
などといいながら、反古のようなものに銭を包んでぽんと投げてよこした。そして手
を合せ拝む仕草をしてから、とっとこ行ってしまった。
 するとである。見物人の中に混じっていた市女笠の女が、いきなり側へ寄ってくる
なり、まるで飛燕のように手をのばし、親方が懐へねじこもうとしていたのをいきな
り横合いからひったくった。
「何をさっしゃります。無法な‥‥」あわててその手から奪い返そうとすると、
「‥‥何処ぞよりの細作(しのび)にござりまするぞ。お城の衆よ。出てござれ」
 金切り声をあげて女はよばわった。すると眼と鼻の先が那古野城の馬出し曲輪ゆえ、
「なんじゃ、なんじゃ」棒を手にした番衆共が、わいわい言いながら駆けよってきた。
「不届き者めが、逃しはせじ」と親方ものとも三人は城の中へひったてられてしまっ
た。

殴られ蹴られ

 子供だからといって容赦はされなかった。あべこべに子供だからこそ、手軽だから
叩かれ蹴られた。
「これさ、ええか‥‥なにもかも知っていることを、ほざいてこまそ」調べの者は恐
い顔をした。そして、ぶんなぐってひっくり返った子供を足で踏んづけた。しかし子
供は又右に売られ、すぐしし舞いに連れてきたのだから、いくら責められても返事の
しようもなかった。だから無言でいると、踏んづけた足に力をいれ捻りこむように爪
先をごしごしやって地面にこすりながら、
「うぬのようななりのこまい童(わっぱ)を求めたというは、おおかた何処ぞへ忍び
こませたり滑らせるのに好都合ゆえ、それで購われたものとみえる。よって、そない
な訓練を受けてまいったか。それとも、もう何処ぞへ小さな身体で入り込んだことが
あるか、そこのところを申上げてみい、正直にいうたら助けてとらせる‥‥が、さも
ないと踏みつぶして殺したるぞ」
 肩の骨が折れてしまいそうに力をいれてくる。だが、子供にすれば何も知らないと
いうことは、いくら苛められて責められても、それに対して方策もなく、どうともし
ようもないことである。ただ土の中へめりこんだ顔から、涙をぽろぽろ流すしかない。
「しぶとい奴じゃ。何も言いよらん。こまい癖してこない強情ぶりでは、こやつ行末
は、とんだしろものになるやも知れんな」いまいましそうに手をやいて、捨てでりふ
をはき、折檻していた大人はひきあげていったが、子供は土の中に埋まったままだっ
た。
 なにも反抗して、すねて意地をはって、わざと転がっているのでもない。まだ固ま
っていない子供の四肢の骨は、散々に大人の足で踏みにじられ、すっかり覚えなしに
なっていたのである。
 身体の節々は感覚を失ったように麻痺しきっていたが、頭は冷んやりした地べたに
すりつけているせいか、それともこぼした涙で濡れたせいか、冷てえと意識があった。
(なんで、こないに打擲されないかんのじゃろ‥‥)何をされても、どうしようもな
い無力な子供だけに、そんなことばかり考えた。口の中がもぞもぞするから、ぺっと
吐いてみたら、砂粒かと思ったら蟻だった。死んでいるとみえて土の上へ転がりでた
が、動きもしなかった。
(大きな猫や犬じゃったら、よお殺されなんじゃったろに、蟻はこまいから、そんで
死んでしもうたんじゃろ)そう思った。だから、
(おりゃもこまいから、こんなに蹴られ踏んづけられ、ひどい目にあわされるんじゃ。
早よ大きゅうならないかん)手足をぐっと伸ばそうとしたが、痛くてそれどころでは
なかった。
 しかし、ついでに顔をすこしあげて地面にすれすれあたりを見回すと、大人の足が
みえないので、子供心にも逃げるんなら今のうちじゃが‥‥とは考えた。だが手足が
きかなくては這っても動けそうもなかった。そこで子供は泥まみれにうつ伏さったま
まで蟻の屍骸をみつめながら、
(おりゃも、もうじき殺され、ど頭を割られて味噌をとられ、臍んところから山刀を
さしこまれて腹をさかれ、中の胆や心臓(はつ)を抜かれ、後は食われてしまうんじ
ゃろ)
 狐塚の河原のお堂で散々に覗き見しているだけに、子供はそんな形で死というもの
を見詰めた。
 なにしろ息のあるうちこそ暴れたり、女などは自分から前をめくって、こっちで勘
弁さっしゃりませなどと騒ぎもするが、よってたかって押さえつけられ脳天の眉間の
真ん中を薪ざっぱで割られると、そのまま眼ん玉をむいて動かなくなる。それを、早
よせな肉や骨が硬ばって固くなると、てんでに山分けして切ったりむしったりしてし
まうと、いつの間にか、さっきまでいたのが姿をまるっきり消したみたいになくなっ
てしまう。それを思い出すと子供心に、
(死んだら何もかもなしになってしまうだけじゃろに‥‥)諦めというか、よお見知
ってわきまえているだけに、そのまま泣き寝入りの恰好でうとうととしてしまった。