1121 徳川家康  1

 この作品では、有名な村岡素一郎の「史疑」をベースに、八切氏が独自に調査した
結果の推理を加え、通説とは全く異なった家康を示してくれています。
 現代のところ、この線の「家康」の小説は八切氏の他には、村岡素一郎のお孫さん
にあたられる榛葉英治氏の、
「異説 徳川家康」(日本経済新聞社 1991年11月初版)
ISBN4-532-17019-2 C0093 P1400E
などがあります。
 榛葉氏は作品をお書きになるにあたり、参考文献として「史疑」の他に、
八切止夫「徳川家康は二人だった」(日本シェル出版、昭和51・8月)
木宮高彦「徳川家康 上・下」(学陽書房、平成元・7月)
をあげられています。その中で榛葉氏は、

「村岡素一郎は『史疑 徳川家康事蹟』で書いている。家康の実相については、後世
に『史眼炳々、椽筆トウトウ[漢字が出ないので]』、研究調査する人の現われるこ
とを望む、と‥‥。
 私[榛葉氏]は『史疑』の思想を受け継いで書いた歴史小説として、以上のニ書を
挙げたい。
 故人、八切氏は、私の友人であった。
 木宮氏の作品は、調査が周密で、私が参考にしたことを付記する」

と書いておられます。

 さて、三者のオリジナルである肝心な村岡素一郎の「史疑 徳川家康事蹟」は原文
が漢文で読みにくいのを、榛葉氏が現代口語訳されたのものが、
「物語歴史文庫24 史疑徳川家康物語」(雄山閣 昭和47年3月発行)
などでしょうか
 この本も、その後絶版になっていたのを、平成3年に「史疑」として雄山閣から新
装版が出版されており、現代でも入手可能です。なお、「史疑」原文の復刻は、批評
社から出ています。

 この作品は1983年発行とはなっていますが、以前の再版もののようで、内容的
には「徳川家康は二人だった」(番町書房)と、ほぼ同じようです(神田の古書店で
番町書房版をパラパラ読んでみました同一内容でした)。
 例によって日本シェル出版版の本をくるんだカバーを外してみると、本体の背部分
には「徳川家康」というタイトルが印刷されているだけです。
 カバーにあるキャッチコピーは、
「『世変りすると徳川期の暴露だが絶対にしないこと』慶喜は条件付き新政府献金
よって家康の部落出も江戸時代すべて三回に及ぶ慶喜の甲州埋蔵金で蓋隠し」
とあります。
 1983年版の方が、掲載写真も豊富なようですが、残念ながら写真はここにアッ
プできませんので、そのキャプションのみです。

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                           謎 の 徳 川 家 康

読みやすくなっていますが本書はフィクションではありません。戦前の浜松以来50
年かけて調べた確実なもので、反証写真も13枚巻末[に収録]。


目次

何故ならば
 革命児誕生 売られてゆく 鐘打七変化 ささら者 殴られ蹴られ 武者奉公
尾張の信長
 奇蝶御前 投げ瓢箪 道三入道 牛一と源内
願人坊主
 酒井浄賢 白旗党余類 瀬名姫 大久保党 美人谷 遠州白須賀党
美濃反乱
 那古野騒動 信長出陣 飯尾一門 その前夜 桶狭間へ 今川義元
浜松曳馬城
 犬居攻め 山家三方衆 三河三宅一族 一夜に四城
松平元康と対決
 岡崎兵包囲 家康と元康の決戦 森山崩れ 清洲城盟約 贋もの本もの
元康と家康とは別人の裏付け写真史料
附記 すべて隠されている理由

「寺院の門らしい写真」
「われ義軍を浜松に発す」の家康直筆があった華陽院だが曳馬城主飯尾豊前が今川氏
真に駿府で殺された後で乗りこみ家康は浜松城となした。

「屋根つきの四基の墓の写真」
戦前の天竜市二股清竜寺の岡崎三郎に殉死の右より青木又四郎中根平左大久保忠世吉
良於初三河侍の墓。戦後は客寄せに五輪塔になっている。

家康自身の告白談
 慶長十七年八月十九日、御雑談のうち、むかし御幼少のとき、又右衛門某という者
 あり、銭五貫、御所を売り奉るの時、九歳より十八九歳に至るまで、駿府に御座の
 由、談らせ給う。諸人伺候、衆、みなこれを聞く、云々(駿府政事録)

「墓一基の写真」
「四基の墓の写真」
 家康生母於大が久松へ再嫁後は育てていた祖母於大こと源応尼は宮の前の人外地よ
 り狐ヶ崎河原で刑死したのを華陽院として家康は祀った。下は尼の甥源三郎や七右
 衛門ら縁に繋がる四人も獄に入れられ、ついで今川氏真に断罪にされた、

 このようなことは、家康公自身だけではなくて、公の母堂の伝通院殿が伏見にいた
頃にも、その寝殿には、つねに帷簾を垂れ、奥女中たちでさえ、その顔を見ることが
できなかった。このために、時の人は、母君のことを、<簾(すだれ)御前>と呼び
ならわしたという。「史疑・徳川家康」

「一基の墓の写真」
「寺院の写真」
 浜松市広沢町西来院の空襲前焼亡以前のもの静岡県令となった関口隆吉が旧幕臣ゆ
え私費で、獄中で刑死をまっていた三才の時に生別した実母すだれ御前於大 義父野
武士久松土佐を秘かに助け渥美半島へ逃がしたその墓だったのが松平記や山岡荘八の
現代訳で築山御前と今はされる。


                何故ならば

革命児誕生

 世をあげて、これ乱世である。
 府中の町並みでは、美しい唐衣(からぎぬ)を頭からかぶり、供をつれ歩く栄華な
女たちも見られるし、たらふく飯を食い、酒の香さえぷんぷんさせて、大路をわが物
顔をして歩く狩衣姿の武者もいて、そこだけ眺めれば、まこと天下泰平のおもむきで
あるが、一歩でも辻をおれて裏町へ入ると、そこは地獄さながらの餓鬼道である。い
くら田畑を耕しても取入れの作物のあらかたをまきあげられて、いまは逃散してこの
町へと逃げ込んでいる者、あいつぐ合戦で人狩りにもってゆかれ傷つき不具になった
者や、戦のものいりに貢をますますひどくかけられ、年ごとの物価高で喘ぐ庶民の群
れが飢えて押し流されるごとく集まり、吹きだまりの落葉のように積み重なってひし
めいていた。
 さて、この駿河、遠江、三河の三国は、今川氏真が大永六年(1526年)に、
「仮名目録」三十三条という法令を出したが、今川義元が家督相続して十七年目の天
文二十二年[1553]二月二十六日には、追加二十一条までを制定した。
 しかし法令というのは、いつの時代でも人民を守るために出されるものなど一つも
あるはずはなく、そのあべこべのものである。「富国強兵」のために、今川義元は、
点役(天役、転役)とよぶ均等割税を人頭税のごとくかけ、棟別銭という固定資産税
をもうけ、その他に、四分一、押立という人夫役、戦に出す軍夫の割当、つまり血税
もかけ、徴兵猶予を願い出る者からは命代をとりあげた。この他、桑役、船役、湊役
など数えきれないくらいに、なんでも片っ端から税をかけた。といって、
「酷税である」と、百姓が一揆を起せるようになったのは、徳川時代にはいってから
のことで、戦国時代にそんなことをしたら村中が皆殺しにされてしまう。だから、て
んでんばらばらに逃げてきた連中が、この駿府の宮ガ崎から八幡小路あたりに蓆小屋
をつくったり、蒲の穂や萱草で屋根をふいた掘立て小屋をつくり、泥みたいに疲れき
ったまま、「世直しをせえへんと生きてゆけすか」その日その日の暮しにいな喘ぎき
っていた。

 さて、この当時駿府の牢は横田町にあったが、現今のように刑務所内で印刷をやら
せたり家具を作らせて収益をあげられる時代ではなかった。だから、早く叩き殺して
解体した方がそれだけ食い扶持が助かったし、もうかった。どんどん捕えたものは早
く殺していたが、またこれにはわけがあった。
 なにしろ今と違って薬がなかったこの時代は、唐人や韓人が関西から駿府へも入り
こんできていて、「生血は卒中や中風の特効剤」「生肉は天刑病や労咳(肺結核)の
薬」「生き肝は腹の病用」「生きた脳味噌をまるめた六神丸は気つけの妙薬」と売り
ひろめ、原料のはいりやすい処刑場の側で小さな薬品製造業をやっていた。
 ----今でも漢方薬を「生薬(きぐすり)」というのはこの頃の名残りで、黒焼とし
て売り出したのは生肉では遠くまで売りにゆけぬから、営業上これをかえ、明治以降
は取締まりがうるさいから、猿の黒焼、いもりの黒焼となった。しかしまだ明治中期
までは、レプラには生きた人間の尻の肉が特効薬であると、刀をもって斬ってまわっ
た野口男三郎というのがいて、世間でも業病には生肉と思っていたから、その点をお
おいに同情され、「ああ世は夢か幻か‥‥」といった演歌が流行して、当時の女性を
失神させるくらいに、おおいにみなを泣かせたものである。
 さて横田町の牢から狐ガ崎の河原にある斬首場へ、囚人をつれて行っては斬首し、
「落し頭ごと、こみでいくら」と唐人に払下げをするのだが、そう一日に何人もある
ものではない。だがそれでは製薬工場の唐人が原料難で困る。そこで今日の血液銀行
みたいに生きているのを引っ張ってきて、脳味噌をとったり、生の肉をはぐというよ
うな事になるが、いくら唐人に、やれやれといわれても、そう通行人を物陰にかくれ
て、ぶん殴って連れてこられるものではない。
 だから、この辺りの女は頭の毛を布に包んで比丘尼(びくに)というのになり、合
戦の旅にも従軍して、味方のとってくる首を水洗いしたり奇麗にして首実検にさしだ
す仕事をする。そして終ると手間賃として、その生首を貰ってきて、これを唐人に売
ってその銭で生計をたてていた。
 しかし合戦にあけくれあって、月に何個と決って生首の定期収入があれば、それで
暮し向きも安定するが、なにも今川義元は比丘尼らのために戦いをするのではないか
ら暮し向きはそうよくならない。だから比丘尼というのは年末や年始には竹の割った
のをカチャカチャ鳴らして、
「さっても、めでたい節季ぞうろ」などといって銭を貰って歩き、あとは山の中の同
族の「ささら者」が作って卸しにくる竹ごし笊(ざる)、蓑や味噌こし、お茶の茶筅、
茶くみなどを売り歩いて過ごすのだが、なにしろ後に京へ上って天下の将軍となろう
とする野心家の今川義元の時代だから、酷税すぎて民家は暮し向きに困っているから、
あまり貰いもよくないし、彼女らの専売品の竹細工も値よくは売れない。
 そこで痩せ衰えきった比丘尼の源応尼は、その娘の於大に対して、いつものことだ
が、
「こりゃ、働き者の男をみつけてその嫁になるが、女にとっては一番ええ仕事口じゃ」
と教えた。
 しかし若い女に男を見る目などあろうはずもない。於大が選んだのは、やさしそう
で親切そうにみえるが、その当時のアウトローともいうべき流れ者の江田の松本坊と
いう旅の願人だった。
 これは「坊」とはつけるが、一遍上人が開いた時宗の遊行衆のような阿弥陀派では
ない。つまり西方極楽浄土を説く普通の仏ではなく、反対に東光さまを説くお薬師さ
ま畑で、信心よりも祈祷の拝み屋である。そして、「おどま勧進、勧進」の乞人(ほ
いと)が、「願人」と呼びかわっていたきりでもある。
 ----古い昔にさかのぼると、彼らは仏教や回教をもって船に乗って渡ってきた文化
民族に追われて、山の中へとじこめられた原住民族である。白旗をたてて、かつては
鎌倉に幕府をもうけた事もあるが、北条氏にまんまと権力を奪われてからは、その一
族の梶原や佐々木も次々と滅ぼされて、諸国に離散した。のち後醍醐帝の御代、おお
みことのりにつつしみ蹶起したものの、またやぶれて新田義貞の子孫らは上州大利根
の畔に隠れ住み、これが足利氏をはばかって、江田、徳川、世良田の三流になったと
いうけれど、足利時代には、そんな名など呼ばれずに、「白旗党余類」として扱われ、
やがて応仁の乱の人手不足で山から狩り出されはしたものの、「悪党」と呼ばれ「足
軽」という前線用の消耗品にされた。しかし生きのびた者は戦場で槍や鎧を自力で略
奪して、これがいわゆる「戦国武者」になっていった。
 しかし足利将軍家の血脈である今川の領内では、こうした白旗党の余類にはそうし
た立身の機会もなく、女は比丘尼、男は願人か、ささら者としか扱われていなかった
のである。
 さて、天文十一年[1542]壬寅十一月二十六日。
 於大は松本坊との間に男の子を生んだ。ところが、
「せっかく子ができたが、なんせこの駿府の今川さま御領内では、わしらはとんと芽
がでぬ。少し他所へ行って目鼻をつけ、それからお前ら母子を呼ぼうかい」
 そう言い残すなり松本坊は蒸発してしまった。於大は子供を育てつつ待ったが、な
かなか戻ってこない。そこで源応尼も困りはててしまい、
「ちょっくら‥‥おみゃあは男にうまいこと言われて、その気になって、子を生まさ
れて、はいそれまでよで逃げられてしまってどうするね‥‥それでええずらか」
 しきりに愚痴をこぼしたが、もはや出てきてしまった子供を、もとのところへ戻す
こともできない。
 しかし子を抱えては食ってゆけない。そこで於大は、子供を残して、有度郡石田村
の富士見馬場の久松土佐という家へ、後妻にと貰われていった。すぐ、のち三郎太康
元と名乗るようになる異兄弟がそちらでできてしまったので、やむなく前の子供は祖
母の許で育った。
「ばあちゃん子は三文安」という言葉もあるが、父に蒸発され母に置き去りにされた
子供は、ひいひい泣いてばかりいたらしい。
 しかも祖母の源応尼は戦いがあれば首を拾いにゆかねばならないし、またお貰いし
なければ食ってゆけない。そこで他行するときには預けてゆく所もないから、処刑場
の側のお堂へおいていった。
 もともとここのお堂というのは、なにも処刑人の回向を葬ってやるといった殊勝な
目的のためにあるのではなく、唐人の生薬屋に原料をいれるため、斬首される人間が
出ない時に、その埋め合わせに、部落の人間が他所からさらってきて生きたままこれ
を処分するのに、人目につくのを恐れて作った小屋なのである。だから、子供は幼い
時から人殺しの場面に何度も立ち会って見馴れてしまったらしい。
 後年この子供が成人したのち、冷酷無比とか残忍きわまりなしといった評価もされ
るが、「三つ子の魂百まで」というから、これまた仕方もないことであろう。
 さて、この堂は、戦前までは八幡小路に現存していた円光寺の末寺というほどでも
ないが、まあ管轄下にあった。後世は浄土宗になったから月見山円光寺の名であるが、
「駿河誌」の掲載寺記によると、初めは東光系のもので、「東照山」となっている。
この例証は「咬雑物語」に、
「神相大君ご幼年のみぎり一寺に学びたまい、みずから東照院と命名され、のち江戸
にその僧を呼び、これに一寺を造り与えたまう。これすなわち栄広山東照院興源寺な
り」
とあるのでも判るが、いくらなんぼなんでも、三つ四つの子供が東照院と命名したと
いうのは大げさすぎる。さだめし初めからその名であったものらしい。
 さて円光寺の智短和尚は、狐塚の河原の堂で拐してきた人間や部落の中で病気にな
った者を、よってたかって押さえつけ、生きながら切りこみをつけ、そこからしぼっ
て血を搾って竹筒に入れ、
「とりたてのほやほや温かいよぉ」と売りにでかけたり、頭の骨をまさかりで叩き割
って、味噌を芋の葉に包んで唐人の許へ売りにゆくのを見かね、いつもここまで見回
りによっては口を酸っぱくし、
「いい加減にせんかい」何度もたしなめはしたものの、なにしろ幽鬼のような連中で、
腹をさいて肝をとったあとは、餓鬼のように塩をつけ生のままの肉をひきさき、それ
を互いに奪いあうようにして齧っているような有様だからして、あまりのことに、
(これも世の中が悪いのじゃが‥‥)と諸式高で普通では食してゆけず、みな浅まし
い畜生道に落ち入っているのを嘆き悲しんでいたが、なんといっても気になるのは、
いつも血みどろの堂の中にちょこなんと座っているちびの子供である。
 聞けば父に去られ母に置いてゆかれて孤児だという。そこで和尚はかねてより、
(こういう所へ幼児を置いておくのは、教育上よろしくない)といった配慮よりも、
「小さくとも頭には味噌があるし、腹中には肝も入っていよう‥‥だからそのうちに
獲物のない時は、切羽詰まった飢えたやつらに叩き殺されて食われてしまうやも知れ
ん」
と不憫になって東照山円光寺の方へつれ戻ってきた。もちろん小僧代りに引取ってき
たのだから、ろくな物も食わされず、身体より大きな帚をもたされ、きっと掃除もさ
せられたろう。
 しかし、そんな生活でも、この子供には生まれて物心ついた時から、最高に仕合わ
せだったらしい。
 でなかったら、彼が七十五歳で死ぬとき自分から遺言して、わざわざ「東照宮」だ
とか「東照大権現」などと名づけたり命名させるいわれとてなかろう。


売られてゆく

「せっかくの孫を、あない寺の坊主にただでとられてしまう手はない。取り返しなさ
れ。損をする‥‥」
 源応尼のところへ人買いの又右がきた。そこで、
「あれも、もう九歳じゃからな。ちびでも犬猫よりは使いものになろうのう」
 貧すれば鈍するというが、源応尼もよる年なみで生活は苦しい。いくらかの銭にな
るときくと、孫を売る気になったらしい。背に腹はかえられぬからである。
「よっしゃ」話がまとまると、善は急げと又右は尻からげして、そっと東照山円光寺
の垣根ごしに忍んでゆくと、梅の古木の根元を掃いている小坊主をみつけ、
「おう、おみゃあのおばばが、あんばい悪いでよお、早よきとくれんかというとるで
‥‥」
 そっと、手招きしながら声をかけた。
「本当ずらか‥‥」びっくりして寄ってくるのを、又右はせきたてるように、
「早よ行かな間にあわんぎゃあ‥‥。おっ(和尚)さんにことわって暇を貰うとった
らあかんずら。とっととここから潜って出てこないかん」と、垣根の下から這いださ
せると、
「そのままおぶったる」背中へのせ一目散に走り出してしまった。
 ----林道春が、駿府に引退した後の家康に仕えてからの日常をつけた日記というの
に、『駿府政事録』というのがある。その中に、「慶長十七年[1612]八月十九
日。公御雑談の内に、昔年御幼少の時、又右衛門某という者あり、銭五貫にて九歳の
御所を売り奉りしと、諸人伺候していたるゆえ衆みなこの話はきく」とある。七十一
歳の家康が自分の口から洩らしたというのである。直接に耳にして書いているのが林
羅山の祖先の道春だし、日時も明白にされているから、これは事実であろう。
 だが九歳の時というと、今川義元が天文二十一年(1552)十一月に現在静岡県
駿東郡裾野町の、「佐野郷御検地之割付」という書付が現存していて、これに一反
(約9.9アール)の田への年貢高が、上田六百文中田五百文下田四百文の定めがあ
る。すると五貫という当時の価値は平均の中田一町分の年収にあたる。これでは現在
の二百万円相当だから、九歳の子供の売渡価格にしては変である。
 しかし家康ほどの英雄にしても功なり名をあげた後では、こんな見栄をはって自分
が高く売られたように家来どもに話したかと思うと、人間的な親しみがもててくる。
 まあ百分の一の五十文か、あるいはそれ以下だったろう。私は終戦のとき満州の奉
天にいたが、春日小学校に収容された難民の母親が、毎朝チェンピーやマントウを満
人が商いにくると、それを買いたさか、母子共に餓死するよりはと自分の子を売って
しまうのをみて、それまで、
(母というものは吾子のためならば、どんな犠牲もあえてするものだ)といった浪花
節的概念しかなかったものだから、びっくりして周章てふためき初めは止めにまわっ
たところ、
「子をすてる竹薮はあっても、女が吾身をすてる薮はないものだ」という古来からの
日本の言い伝えを、その時きかされてしまい、しまいにはなすすべもなく子供を満人
に売っては買い食いする邦人の母親の群れを、呆然として毎日眺めて暮したものだが、
その時の相場が女児二百円男児百円だった。だから又右が売った値も、それ位であっ
たろうと思われる。もちろん彼の手数料や儲けもそこから引かれるから、源応尼の手
取りは、まあ半分だったろう。しかし人間は飢えにはきわめて弱いものだから、そう
いう局限状態におかれた場合はこれは致し方もないことらしい。
 俗説では家康は三河岡崎城に生まれ(岡崎公園になっている城の裏側には、産湯の
井戸というのも、今は観光用に作られている)、それから今川義元へ人質にとられ駿
府へ行ったことになっているが、寛永年間に釈春外東劫がしたためた「大日本国駿州
城府分時鐘銘」には、時の大老土井甚三郎利勝が、家光の命令で一万五千石の施米を
駿府の民にくばって、亡き家康の回向をした盛事をのべるに当たって、
「そもそも駿府というは中んずく、東照大権現垂迹地なり」と明記されている。
 垂迹というのは「本地垂迹説」などで説くような仏教用語であって、
「仏が民衆を救うため仮に人に化けて現わるること」とあるように、出現とか生誕を
意味している。
 これでは三代将軍徳川家光が、「祖父の家康は駿府で生れたのだ」と、せっかく供
養に一万五千石の米をまいているのに、なぜ昭和の大衆作家が「三河で生れたこと」
にせねばならぬのか、これはまことおかしな話である。
 また『駿府誌』に、
「延喜式神名帳に記載されている小梳(おぐし)神社の社地は、今の伝馬町華陽院境
内なり」とあるが、その玉桂山華陽院府中寺の掛額に、「大将軍 翁 印」の署名捺
印のものがあって、その中に、
「既シテ始メニ、義軍ヲ浜松ニ発シ、而シテ数州ヲ征ス、禅尼コレヲ思ヒ心痛。時ニ
永禄三庚申夏五月、ソノ訃(フ)ヲ陣中ニキク、哀慕ノ情ニ堪ヘズ、シカルニ如何ニ
センカ、使ヲモッテ葬ワススベモナシ」
というのがある。原文は後の方で全文引用するけれど、家康の名はないが、慶長十四
年[1609]に征夷大将軍であったのは彼しかない。
 また現在の誉田(ほんだ)町にある府中寺が、この華陽院であるが、旧幕時代は東
海道を通る大名はこの寺の門前では駕をおりて参拝する習わしがあった。そして、こ
の境内から百メートルぐらい離れた上八幡町の安南寺の西隣の一区画が、俗に、「榊
原越中守拝領屋敷」といわれて、何故か空地にされて、ここに建物をたてることを徳
川時代は許さなかった。しかし明治政府が天下をとると、
「この地は朝敵家康生誕の地なり、もって徒刑場を建つべし」と刑務所用敷地にして
しまった。
 のちには旧幕臣の骨折りで小学校にかえられたが、この一帯が昔の八幡小路であり
宮ガ崎である。
『烈祖成績』に「神祖、宮ガ崎にあり」
『武徳編年集成』は「宮ガ崎を仮りの住いとなされ」
『城塁記事』では「府中紺屋町にあらせられたりとか。宮ガ崎というが、安南寺西隣
こそ正しからん」というような記録が残っているのも、だからであろうか‥‥
 諸説はいろいろあるが、落ちれば同じ谷川の水で、源応尼のいた所は華陽院府中寺
のあたり。於大と松本坊が暮していて子供の生れた地点が、安南寺西隣というのが正
しいらしい。
 が、それより問題なのは、源応尼の死んだのが、永禄三年[1560]五月という
ことであるようだ。
 この年月は丁度いわゆる桶狭間合戦で今川義元が信長に討たれたときにあたってい
る。
 さて、後述するがなぜ織田信長が今川勢を破れたのか、これは正直なところ確かで
はない。『信長公記』によっても、故意に年月を十年さかのぼらせてあったり、岩室
重休以下近習数名のみを従えて出かけていった信長が、いったい誰の手引きで奇勝を
得たのか。このとき従軍したらしいと想像される者は、のち粛清されてしまい、いわ
ゆる信長の家臣団というのは、この戦後に採用されたと思われる新参の連中によって
のみ、その後は編成されてゆく‥‥という奇怪さがある。
 俗説では松平蔵人元康がこのとき今川の先手となって、大高城へ兵糧入れをした手
腕が当時評判となった。松平元康は義元の死後、三河岡崎城の自分の旧領を取り戻し、
ここに「徳川家康」と改名してしまったことにされているが、それは義元の死んだ永
禄三年より実際は二年後のことである。
 源応尼の亡くなったのが今川義元の死んだ永禄三年五月と同じだということは、こ
れは偶然の暗合とみればそれまでの事であるが、もし義元の死のために、彼女が殺さ
れたものとみるならば、彼女の孫は、今川義元の死に一枚加わっていた、つまり信長
と組んでいたことにもなるだろう。
 そうでなければ直接に協力していなくても、義元を死に到らしめるような状態にも
ってゆく下地を作っていたことでないとあまりにも偶然すぎてつじつまが合わないの
である。
 だからして、ここに信長と源応尼の孫とのひっかかりは、やはり永禄三年五月とい
う時点に結びつくから、これが後の天正十年六月二日の信長殺しに、まったく関係が
ないとはいえぬような位翳を濃くひくことになる。
 そしてあらゆる謎は、源応尼の孫で九歳の時に又右に売られたと自分で告白した家
康と、彼と同一人とされている「松平蔵人元康」なる者が、はたして同一の人間かと
いうことになってくる。
 その永禄三年五月のとき、家康の方ならば逆算して十九歳。現行の満年齢なら十八
歳である。
 しかるに松平元康の方は瀬名姫との間に、二歳の岡崎三郎信康の上に、長篠城主へ
のち縁づいた五歳の長女阿亀、本多家へ嫁した次女三歳までいた。こうなると同一人
物なら「おさな妻」ならぬ「おさな夫」で、十八歳で五歳の娘以下三人の子持ちとは
十二歳で受胎させてしまったことになる。
 しかしそれでは変ゆえ、この作品の中での徳川家康は享保二年[1717]二月二
日に大岡越前守忠相が、徳川吉宗に登用されてから作りかえてしまった東照権現さま
のイメージとはだいぶ違う事になろう。
 なにしろ、その後二百五十余年たった今でさえ、江戸時代そっくりそのままな家康
像が氾濫しているので、これを読んで違和感をもたれるむきがないでもないだろうが、
「徳川家に対し奉っての異説はお咎め厳罰のこと」という、既に死んでしまった大岡
越前守の政令などに、もはや気兼ねすることもないだろうから、私なりにこつこつ調
べあげた家康を書いてゆくことにする。
 資料としてとったものは、明治になって新田男爵となった上州の新田義貞の後裔で、
徳川家に系図をかしていた当人の「万次郎日誌」と、その同志であった金井允恭の手
記。それに日本橋蠣殻町に明治二十年頃に住んでいた村岡素一郎の『史疑徳川家康』
も参考にしたいが、これは労作であるが、『後三河風土記』よりの引用が多すぎる。
しかも後述するが、これは贋本で史料ではないのである。
 しかし、徳川家康と築山御前や岡崎三郎信康とは赤の他人だったことは、徳川家が
瓦解した後、すぐ明治時代からいわれていたという立派な証拠でもあろう。