1120 謀殺 20(最終)

神式仏式

「貴僧は、わしが留守中に四人も子のあるふくめを、人もあろうに、大御所様に取り
持ちなされ、それで出世なされたのゆえ‥‥売僧(まいす)じゃ」
と、稲葉佐渡守が文句をつけにきた事が一度あったが、後は何事も起こらず、おふく
を見つけた手柄によってか、慶長十二年には、
「比叡山、全山内探題執行」
という、延暦寺では台主(だいす)に次ぐ重い役目を家康から貰えた。
 その昔、住まっていた東塔南光坊を、己が院所として山へ戻った天海は、桐の樹の
周りを逍遥しては、そのかみの白妙坊時代の頃を懐かしんだ。
 が、次いで慶長十四年になると、
「故明智光秀の孫にあたる者が叡山へ戻ってきている‥‥」
といった噂が、怖れ多くも禁中へ達したものであろうか。光秀の手によって二条御所
を造営された故誠仁親王の御子であらせられる後陽成帝は、
「逢いたい‥‥」
との勅を出され、小御所において法話の形式で参内した天海は龍顔を拝した。
 また、後陽成帝は夫君故親王の冥福をと、慶長十六年には皇族に限る門跡地の毘沙
門堂を特に天海に賜って、中興一世に任じられた。
 家康もそれに負けぬようにと思ったのか、伏見城へ願い出に行ったのが、その侭に
なっていた仙波無量寿寺の復興許可を九年ぶりに出してくれて、それに銀二百枚の喜
捨もしてくれた。
 が、これだけでは全山は無理だから、師豪海のいた北院だけを増改築し、天海はこ
れへ、「喜多院」の文字をあてた。
 当時、家康は駿府にあったが、おふくの慫慂(しょうよう)によったのか、下野日
光山の地を翌年には「朱印地」として天海に下賜してよこした。
 しかし、慶長十九年の大坂冬の陣に次ぎ、翌元和元年の大坂夏の陣をもって豊臣家
を滅ぼしてしまうと、さすがの家康もがっくりきた。そこで、おふくは先の事を心配
し、
「二代将軍御台所様は、故信長様妹於市御前の末娘の身状(みじょう)‥‥じゃによ
って、その産ましゃった国松君を三代様にするは織田の血にお跡目を継がせるような
ものではありませぬか」
 密かに江戸城を抜け出してゆくと、駿府城で家康に膝詰め談判をした。
(このおふくの親父の内蔵介に、斎藤の血で天下を継がせようと約束したと口外した
を、まだ女のしつこさで覚えていて‥‥そんで云いにきおったか)
と家康も思ったが、織田の血を引く国松より、己れが汗水たらしたつもりの結晶に天
下譲りしたいのは人情。そこで牛にひかれて善光寺参りさながらに、無理をして杖を
つき出府した。
「竹千代が二十歳になったら、将軍職を譲るように‥‥」
 秀忠在世中は、黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝や本多正純が我が物顔に全てを支
配していたのだが、
「竹千代の事は全て天海大僧正にと、大御所様御遺命でござりまするぞ」
とのおふくの一語が全てを逆転させてしまった。
 崇伝や正純は、
「御葬儀は仏式で営まれるべきである」
と、あくまで主張したが、天海は強硬に、
「国内統治のため、仏教もまた可となされておられましたが、御本心は三河の一向宗
徒御征伐以来、まったく仏門嫌いじゃったは、本多殿などよく御存じの筈である」
と反対し、
「東照神」の神号を独断で請い、翌元和三年、天海は己れの朱印地の日光へ家康の亡
骸を移し、神式でこれを葬ってしまった。
 大僧正の位を持つ者が神式というのはおかしいようだが、そのため天海は、後の神
仏混合のはしりのような「一実神道」をこの時に立て、その矛盾を彼なりに解決して
いるのである。
 さて、元和六年六月十八日。家康の遺命で秀忠の娘和子が時に後水尾帝の女御とし
て入内することになった。
 今では個人名のごとく誤られ伝わっているが、「征夷大将軍の側室にして、代理と
して小御所へ参内できる女人の官名」を、春日局というのであって、室町御所の時代
には、足利尊氏の時から代々足利義昭まで十五名もの同名の春日局は有名で、「吉川
家記」や「毛利家記」には、
「当方の扱いにつき春日局殿、悪し様に言いふらされ迷惑このうえなし」
などとある。
 おふくも家康の側室だったので、この<春日局>の号を伏見城の頃に賜っていたか
ら、秀忠夫妻に頼まれ、和子入内の時にはついていった。
 しかし湯島の麟祥院春日局影堂へ、貞享三年(1686)九月十四日付けで、その
孫にあたる稲葉美濃守が奉納したとされる額では、
「寛永六年巴十月春日局入洛参内、この時、西三条大納言実条卿御兄弟(妹)に準ざ
られ、春日局号を賜り御学問所にて天顔を拝し」
とあるが、これは額面通りには受け取れぬ。
 その[春日局の]名を許されたのが寛永ではなく十年前の元和六年だった事は「御
湯殿の上の日記」の慶長十五年寛永二年の間の欠本を埋める「補記元和本」に出てい
る。
 また、常識で考えても、初めて入内する時の付き添いなら判るが、十年もたってか
ら御見舞いにいって、その時初めて天顔を拝するのではおかしい。
「寛永九年にまた参内し、緋袴を許され、女帝を拝し奉って天盃を戴く」
ともあるが、「皇胤紹運禄」では、和子女御が産んだ一宮が七歳で俄かに即位。明正
帝に立たれるのが寛永六年十一月八日の事ゆえ、その奉賀に伺候したものであるなら、
その寛永九年というのも誤りで、六年でなくてはならぬ。
 というのは、緋袴を履かねば参列を許されぬのは、なにしろ即位の御大典だけだか
らである。つまり春日局号が、征夷大将軍の側室称号であるのを伏せておきたい向き
が、額を書き直したり、記録をつける際、その年月を誤ったものらしい。
 また、話は戻るが、二代将軍秀忠は、家康の遺命どおり竹千代が二十歳になると、
自分は隠居して直ちに彼を三代将軍家光とした。
 こうなれば春日局と天海の世である。
上野の忍岡に寛永元年起工、十六年に落成という大伽藍を、金に糸目をつけず建立し
た。比叡山のむこうをはる東叡山寛永寺である。埼玉県川越にある喜多院のほうは天
海の建てたものは寛永十五年に焼失し、現今の堂宇は家光が寄進したものである。
 だからでもあろうか、客殿の奥まった所に、
「家光公、ご誕生の間」
が今も現存する。
 喜多院の由来書によれば、江戸城紅葉山の別殿を移したものとなっているが、襖紙
も「狩野探幽」と、安土桃山時代の作である。
 江戸城ができた頃には既に故人だった者の筆で、それにこの居間の天井や欄間は京
寸法である。だからどうみても京や伏見にあった建物の移築であるとみるべきだろう。
 これは家光が江戸城で生れたと思うからそうした由来書になるのだろうが、改築後
の伏見城で彼が生れ、春日局が抱きながら東下りしてきたものなら、その生誕の間が
京作りであっても、一向に差し支えない話である。

 江戸時代の「武蔵風土記」には、
「喜多院は天海僧正創設の古刹にして、神君御佩用の糸巻太刀等宝物殿にあり、また
御使用の杉木竹箕の下厠もその侭にてあり」
とでている。
 家康ブームになってからは、どうしたわけか「家光公の御厠なり」と説明が変わっ
てしまっている。
 誕生の間に続く廊下の突き当たりにそれはある。しかし、嬰児だった家光が、まさ
か厠へ這ってゆくわけもない。
 伏見城から移築されたものならば、赤子の家光や春日局の部屋近くに家康の居室が
あって、その大人用の厠があっても、これは変ではない。
 なにしろ外部に発表されていなかったが、千代田城紅葉山文庫には、
「家光公は春日局の御腹」
といったものが保管されていて、ようやく明治になってから国書刊行会の活字本にも
されている程ゆえ、家光と春日局は実の母子だったとは不自然でもない。
 だがそれより喜多院で、はっとさせられるのは、厠の反対側にある軒廊の続きに、
「春日局居間」
が移築されている事である。
 しかも、そこは天海僧正臨終の室で、今ではその木像が据えられた場所なのである。
春日局の為に家光は京には天祥院、江戸にも麟祥院を建てている。だから代官町にあ
った居間か、千代田城内のものか判らぬが、その部屋を移すなら菩提寺の方へこそ持
ってゆくべきで、わざわざ天海僧正が歿した寺へ解体して運び、また建て直すのはお
かしな気もする。
 ただ信仰だけでの二人の結び付きなら、どう考えても天海僧正の死後、その臨終の
部屋へ春日局の居間を持っていったり、家光自身も、その産室を伏見からわざわざ運
んで建てさせ、三つを一つにするとは、なんだろうかといもいえる。
 故三田村鳶魚の「芝・上野・浅草」には、これまで家光の母とされてきた御台所
(みだいどころ)江与の方の崇源院廟が芝の増上寺境内にあった事さえ、家光自身は
知らなかったとして、彼は親の墓にさえ詣った事のない馬鹿者であったと説かれてい
るが、家光が春日局の実子であったならば、江与の墓など放りっぱなしであっても、
あながち馬鹿だったとはいえまい。
 春日局は慶長二十年九月十四日に、家光、その子家綱、尾張紀伊水戸の御三家、明
正帝よりの勅使にみとられて死去。
 次いで半月後の十月一日に、その後を追うごとくに天海僧正も喜多院で他界、と伝
わっているから、もし同年であるならば共に六十五歳である。これなら天海僧正の没
年もおかしくはない。
 そして、天海が自分の何にあたるかを、家光も生母の口からはっきり聞かされて知
っていたような気がする。
 でないと、なにも三代将軍徳川家光が己が産室を移して、それを春日局と天海僧正
の居間の中央へ、川の字型に並べる必要などないからである。
 表向きは晴れて結ばれる事のなかった二人を、こうした形で葬った家光は決して馬
鹿ではなく、心やさしき持ち主だったろう。
 そして、天海僧正が異説だらけで、これまで本当の事が伝わらなかったのも、やは
りそれは信長殺しの謎が隠されていたからによるらしい。
 そして、せっかく家康らによって樹立された日本原住民系の天下が、もろくも家光
の代から崩れてゆくのが、仏教徒の春日局のためであるとするならば、かつての頼朝
が鎌倉でようやく確立させた政権が、その一代で妻の政子ら北条氏によって仆され、
その結果が、鎌倉由井の長吏頭九郎右衛門の娘の菜摘御前の生んだ頼朝の唯一の忘れ
形見である頼兼でさえ、北条氏の追求を怖れて、当時は草深い田舎でしかなかった江
戸の別所地帯へ逃げ込み、その子孫が足利時代には「室町弾左衛門」を名乗り、やが
て江戸期には非人頭となって隅田川向こうへやられて幕末になって初めて常人に戻さ
れ、「矢野内記」に戻るが、明治維新によって又没落させられていく過程と対比する
と、日本原住民史は深く考えさせられるものがありすぎる。

了