1119 謀殺 19

二人が一人

 天正十八年七月五日、小田原が落城した。
そこで、十三日に秀吉は、
「おことの祖先本貫の地ともいうべき、関東八ヶ国を進上しよう」
と、これまで北条氏が押さえていた関八州の領土を家康へよこした。その代り、それ
までの駿三遠の三国は家康から取り上げた。ていのよい交換である。
 八月一日に家康は江戸城へ入った。しかし、よく開墾された三国とひきかえ、八国
は東へ進むにつれ草ぼうぼうの荒野だった。
 だから、まず江戸城の改築、江戸府内の町作りに追われた。
二年たつと、文禄元年の秀吉の朝鮮征伐が始まり、家康は国許に落着く暇もなく、九
州の名護屋へ詰めきりだった。
 だから、家康が世良田二郎三郎の昔に戻って、懐かしい世良田郷の故郷へ錦を飾る
ごとくにもその姿を見せたのは、ずっと遅れて慶長三年(1598)八月に太閤秀吉
が他界した後だった。
「去る天正三年に武田方の一向宗徒が襲撃してきた際、己が身を棄て江田郷を守り通
したとか申す修験者がいたは、あれなる真言院であるか‥‥」
 青鹿毛の五歳駒に跨った家康は、新田郷の大利根堤に沿って進みながら、柊(ひい
らぎ)林の先を竹鞭で指差した。供の旗本の安部四郎五郎や近藤登之助は、案内役の
土地の長吏に、
「その真言院なる堂は、今いかようになっておるのか?」
と、聞き糾(ただ)した。
「はい、天台山門宗の侭でございまするで‥‥今では御齢は不明なれど、延暦寺東塔
南光坊よりまわされて来なすった方がおられ、里人は皆ただいまでは南光坊様と、そ
ない申しあげておりまする、はい」
と、それに返事をした。
「ふむ、それでは相当のご高齢の御坊だな」
早呑み込みの安部四郎五郎が、すぐさま家康の側へ寄っていき報告した。
「そうか‥‥真言院へは廻る予定ではなかったが、高齢な者であるなら、討死した修
験者の最期なども存じいよう‥‥いわばこの家康の守り神のような者の事ゆえ、話を
聞いてから懇ろに供養などせん」
家康は馬に一鞭くれ、林の中を駆け抜けた。
 そして、茅葺きの真言院の建物を見つけるが早いか、鞍から降り、無造作に、
「誰か、いてか‥‥」
と、堂の入口へ近寄っていった。すると、
「はあ、ここに御座候」
連子(れんじ)仕立ての板戸の蔭から声がした。
「うん‥‥」
誘われる如く中へ踏み込んだはよいが、陽光に照り輝いていたまぶしい戸外から、い
きなり薄暗い堂内へ入ったゆえ、
「暗いな‥‥何ものも見えよらんぞ‥‥」
泳ぐように家康は前へ手を差し伸べた。
 それでも前に出した足で何か柔らかいものを、ぐんと踏んづけていた。
(叩頭し、前についている手の甲であるな‥‥)
とは、すぐ気づいた。だから、
「‥‥粗忽、許せ」
と足をひっこめた。
 が家康は相手の事より、己が身をおもんばかり、
(坊主めの手ゆえよかったが、これが床下から植えつけてある槍の穂でもあったら、
こっちの足裏が突き刺されてしまうところ‥‥太閤は死んだとは申せ、石田治部ら五
奉行や西国大名は、皆この家康の仇敵みたいなものゆえ、こりゃ、もそっと用心せな
あかんぞ‥‥)
自粛自戒、そんなつもりで考え込んだ。だから、平伏している相手の事も、つい失念
の恰好になった。
 しかし、また前へ足をもってゆくと、屈みこんでいる肩先に当たったので、おもむ
ろに家康はそこで、
「その方が、この堂に住まう南光坊と申す者か」
と声をかけ、
「うへえっ‥‥」
畏まる相手に向かって、
「‥‥去る天正三年に、ここで討死せしと聞く修験の者を、その方は存じおるや」
と聞いた。
 すると意外にも、もそもしした声で、
「死せし者ありなどとは存じよらぬ儀‥‥」
薄暗い床から答えがはねかえってきた。
 これには家康も面食らってしまい、
「わしを誰だと思う‥‥冗談(てんごう)はせぬものぞ」
叱りつけた。それでも頑なに、
「存じよらず‥‥」
と、相手は言葉重ねをした。
 そこで家康は誰にも知られている修験者の死を知らぬと言い張るのは、こりゃ高齢
者だという話であるし、事によったら、
(修験者は死んだようになっているが実は後から蘇って、自分でも具合が悪いゆえ、
知らぬ存ぜぬを通しているのかもしれぬ‥‥当人なのかも)
と考えた。
 つまり、堂内の南光坊を、かつての修験者の生き長らえたものと間違えてしまった。
時に家康は五十七歳。薄暗い堂内で、当時の事ゆえ老眼鏡も照明もなかったから誤っ
たとして、これはやむを得ない事だった。
「些少じゃが、寄進する」
と、家康は内懐から渋塗りの巾着を取出して与えた。
「‥‥有難く」
南光坊は顔を上げて恭しく頂戴した。
 が、もうその時には家康は堂を出ていた。
遅れて追ってきた安部四郎五郎や近藤登之助らが、家康の乗馬の手綱をとって迎えに
きていて、不審そうに、
「もう‥‥お話は済みなされましてか」
と尋ねかけてきた。しかし家康は、
「うん、もう老体で弱っとった。あれでは話を聞き出せんじゃろ」
言い残すなり、曳いてきた馬の背に跨った。そして、
「陽射しあるうちに常陸の信田(しのだ)まで行かねばならぬ‥‥急げ」
と、馬に鞭をくれた。
 堂の戸を少し開け、砂埃を蹴立てて去って行くのを見送っていた南光坊は、
「砂金を一袋も気前よく置いていきおった今の武将‥‥何処のどなたでおわすや」
不審そうにというより、薄気味悪げに用心するごとく、声を殺し独り言をもらした。

上州不動院

 上州館林は徳川領で、家康は伊勢白子出身の榊原小平太康政に与えていたが、境を
接する常陸は当時、佐竹義宣領で、下妻から結城にかけ、その臣多賀谷重綱の土地だ
った。
 そこで境界争いが起きていたので、家康は自分が立会いの許に解決しようと、その
信田の森へと急行したのである。
 しかし、佐竹側では家康と事を構えたくないという配慮からか、多賀谷は因果を含
められていて、森の境地一帯を譲渡してよこしていた。そして、近くの江戸崎城の佐
竹義勝の許へ、
「どうぞ、おくつろぎあれ」
と家康の一行は案内された。
 佐竹相手の交渉ゆえ、一筋縄ではゆくまいと家康も覚悟して来たのだが、難無く解
決し、すこぶる上機嫌のところだったから、酒肴をすすめられ、
「当地不動院は昔からの名刹。今般、堂を再建しましたが、よき行者のお心当たりが
あれば、ひとつお世話を願いたい」
と申し込まれると、
「それは、たやすい御要件‥‥ならば世良田真言院の南光坊を、ご推挙つかまつろう
‥‥実はここへ伺う途中、立ち寄って逢って参ったが、なかなか権識のある修験者」
と答えた。
「ほう、徳川様御自らの御目利きとは、こりゃ願ってもない話‥‥では早速に」
と、ここで話が決まってしまった。
 そこで常陸水戸城主佐竹義宣の弟義勝の江戸崎城から改めて南光坊の許へ、
「徳川様より御推挙を受け、かくはお迎えに参上」
と家来が行列を仕立てて赴いた。
「えっ、何の事でござる」
当人としては、関知していない話なので、まるで狐狸に誑(たぶらか)された思いで、
怪訝な表情を浮かべていた南光坊も、
(そうか‥‥先日ぬうっとここへ入ってきて、手を踏んづけていかれたのが、徳川家
康殿であったのか)
と、やっと呑み込めたので、
「かしこまって‥‥」
とは言ったが、それでも何故に推薦されたのかと迷った。
 というのは、今でこそ南光坊と呼ばれているが、彼こそかつての白妙坊だったから
である。

 志賀道の蜷川屋敷の物置から曳き出されて叱責された後、白妙坊はまた山へ連れて
いかれた。そして、同行した蜷川の家来から東塔へ苦情が持ち込まれた。
「蜷川様御親類一統には角倉様や京では名うての富貴の方が多く、当山の大檀那であ
る。こりゃ機嫌を損ねぬよう何とかせずばなるまい」
と僧坊では騒ぎになった。
 しかし、御所から密かに目をかけられ、何かと寄進のある白妙坊ゆえ、小坊主とは
いえ勝手な扱いもしかねた。そこで、
「この比叡山へ置くのはまずいから、大和か摂津、河内あたりの寺へ預けては如何」
との意見も、長老の間からは出た。が、
「もしもの事ではあるが‥‥あの白妙坊の素性がばれ、太閤様のお憤りをかったら何
とする所存ぞ」
と心配する者もいた。そこで、
「云われてみれば、もっともの事である‥‥故明智日向守様を、さも御主殺しのごと
く決めてかかって、山崎合戦の大義名分とされとられる太閤様に対し、幼児とは申せ、
その一族を隠し匿ってた事が露見したら、また全山焼き討ちの憂き目にあわぬもので
もない」
と衆議は傾き、いろいろ談じられた末、
「‥‥ならば、秀吉様のお目の届かぬ遠国(おんごく)こそ、好ましけれ」
となった。そして、
「‥‥上州世良田真言院は、その昔、当東塔より豪春坊が参って布教していた所だが、
老衰で死に絶えた後、遠隔地ゆえその侭になっているが‥‥彼処はいかがであろうぞ」
「すこし遠すぎて、まだ年端もゆかぬ者を遣るは不憫のようではあるが、それも、当
人のためには止むを得まい」
話は纏まって、すぐさま白妙坊は脚絆を巻かされて急ぎ旅仕度をさせられた。
 しかし、東国へ行くというだけで、もう胸一杯になり、
(おふくがやられた‥‥ときく美濃路の方であろうか)
すっかりはしゃいで白妙坊は番僧に伴われ街道を東へ下った。
 が、美濃へ曲がる不破の関を素通りして、そのまま上州まで連れてこられてしまっ
たのである。
 近くに住む者を寺男に傭ってはくれたが、まだ十二歳の院主では、白妙坊にしては
泣くに泣けぬ思いの日々だった。
 幸い天正十年に武田勝頼が自滅して以来、一向宗門徒の襲撃こそなくなったが、そ
れでも、
「うお、うお」
夜ともなれば、決まって山犬の遠吠えが喧しく聴こえた。だから、
(どこへでもよいから、逃げて行ける所があれば行ってしまいたい‥‥)
と、悲しみに耐え続けての八年の歳月だった。
 それゆえ若さも燻(くす)んでしまい、まだ二十歳だというのに、まるで中年男の
ように、しょぼくれた感じを逢う人ごとに与えた。
 見かけだけでなく、心の中も、多情多感な年代を、隔絶された土地に押し込められ、
少し依怙地(いこじ)になっていたから、
(なんで江戸崎四万石の佐竹義勝が、このわしを招聘などするのか?)
(家康というのは、このわしの正体を知っていて、それで親切そうに取り持ちを致す
のか)
疑わしい思いで、迷いに迷ってから江戸崎の不動院へと彼は移ったのである。


仙波喜多院

 常陸水戸佐竹家の檀那寺は、武州川越の当時の仙波院である。星野山無量寿寺とも
号して天台宗八大檀林の一つになっていた。
 南院、中院、北院の三坊があり、関東天台宗の総本山の形で永禄年間までは栄えて
いたが、天文六年に佐竹家と北条氏が戦った際、北条氏綱の兵に焼かれてしまった。
そこで、比叡山から豪海が廻されてきて、北院だけは復興させていた。
 さて、徳川家康の推挙で江戸崎不動院へ白妙坊改め南光坊を迎えたものの、佐竹義
勝は当人に逢ってみると、まだ頬もすべすべした青坊主で、予想外に若過ぎたのにび
っくりした。
(しかし、家康程の人物が推挙するからには、年は若くても世に云う神童の類であろ
うか)
とも考え、教義について二三質問してみた。
 が、なにしろ十二歳から野放し同然の境遇ゆえ、何を聞かれても満足に答えられる
わけはなかった。だからして、佐竹義勝も当惑し、
「難儀な事でござるよ」
と、訪れてきた仙波北院の豪海に洩らした。すると、
「よろしゅうおじゃる。同じ天台山門の者。私めにお任せあってしかべし」
と、南光坊の事は耳にしていて、かねて気の毒に思っていたから、即座に承諾し引き
受けた。
 そこで南光坊は不動院から仙波へ赴き同門同宗の豪海に師資(しし)の礼をとり、
「まず、名から改めよ」
と、そこで天海と命名され、今でいう特訓を受ける事になった。
 そのうちに慶長四年も終り、五年となった。
すると、佐渡金山を会津百万石と取り換えられた上杉景勝は、かねて、
「養子として跡目を継いだ身が、先代が開発なされし佐渡を失うた侭で、よしとして
おられようや」
と、かねて洩らしていたが、秀吉の死後密かに準備を始め、ついに慶長五年、
「われ天下を一手に引き受けて戦わん」
と豪語。越後へ向けて進発しようとした。
そこで越後新発田城主溝口秀勝や、越後本荘城主村上義明は、大坂城へ急を告げた。
 家康はその直属兵団三千人の他に五万五千の兵を従え、六月十八日に伏見を出発し、
東海道を下って七月二日に江戸城へ入り、二十一日に会津へ向かって上杉討伐に出陣
した。
 が、二日後、下総の古河(こが)城へ着いた家康の許へ石田三成らの旗上げが知ら
された。
 こうした混乱しきった時ゆえ仕方もなかったが、七月十九日に、
「水野信元の弟で三河苅屋城主を継いでいた水野惣兵衛忠重が、三河池鯉鮒(ちりふ)
で美濃加賀井城加賀井弥八郎重望(しげもち)に斬殺された」
旨が、ついでにもたらされてきた。
 苅屋城は家康にとっては肝心な東海地区の要の城である。その中継基地が宙に浮い
てしまっては、三成の挙兵に対して策の講じようもない。そこで、忠重の子で親との
折合いが悪く家出し、毛利家の臣三村紀伊守の許に居候をしていた水野藤十郎を捜し
出させ、これを呼び寄せる事にした。
 しかし、当時の事ゆえ、今日呼んで明日来るというわけにはゆかない。
そこで八月五日に下野小山(おやま)から江戸城へ戻り、そこで二十六日間滞在して
待った。
 だから、水野藤十郎勝成が連れ戻され、眼前に現れた時には家康はすっかり感激し
て、
「これは、この家康が愛用している明智日向守遺愛の朱槍じゃが、汝にこれをくれて
つかわすによって、光秀に劣らぬ忠勤を励めや」(と言ったと、故高柳光寿博士の著
作にもある)
 そこで即日、三河苅屋城三万石の跡目を申し付けた。もちろん藤十郎勝成も感激。
この時の関ヶ原合戦では、刈屋から大垣城を攻め降し、大坂夏の陣では後藤又兵衛や
蒲田隼人を討ち、ついでのちに備後福山十万石にまでなった。が、家康の口から、
(明智光秀にあやかって忠勤を盡せ)
と洩れたと聞いて、感激しきったのは水野藤十郎だけではなかった。光秀の孫にあた
る南光坊天海も、すっかり興奮してしまい、
「士は己れを知る者のために死す、というが、僧侶の自分とてやはり、これに酬いね
ばなるまい」
と出府し、神田一石橋の薬師堂において、
「怨敵退散、護国安泰」
の祈祷を催した。
 もちろん天海の修法加持が功を奏したわけばかりでもなかろうが、九月十五日の合
戦は東軍の大勝利に帰した。そこで家康は、江戸城へ戻ってくると天海に目通りを許
した。
 が、明るい所で逢ってみると意外に若い。面食らって、
「その方は、まこと世良田真言院にいた、あの折りの者か?」
と、尋問すると、
「はい、この手の甲に上様をお乗せ致し、ご武運をお授け申せしを嘉せられ、砂金一
袋を有難く御喜捨受けましたるは、この身‥‥」
静かに両手の甲を前へ差し出し、見覚えのある渋塗りの巾着の袋まで出されては、
(天正三年に討死しおったと聴く修験者が、命長らえ存命しよったと‥‥見間違えた
のだ)
とも口に出せず、ふんふん唸っていたが、
「相当高齢らしいが不思議や若う見える。不老不死の人魚の肉でも食しおるかのう」
照れ隠しに空とぼけた言い方をした。
 天海も以前だったら、むきになって否定もしただろうが、豪海の特訓を受けていた
故、
「作麼生(そもさん)」
にこにこし、喝を入れてみせた。
 が、家康には、そんな態度は生意気に見えたのだろう。この時の褒賞は、下野久下
田の新宗光寺一つを授かったにすぎなかった。


虫封じ修法

 おふくは天正十八年に美濃へ連れ戻されると、二年後に母方の親類稲葉市助(正成)
の許へ嫁がされた。夫は二十二歳だったが、おふくも十四歳の幼な妻だった。
 そして慶長五年の関ヶ原合戦までの八年間に、一年おきのごとく男の子を四人産ん
だ。[慶長]六年から一服の状態になったのは、夫市助が、主君小早川秀秋が裏切り
で得た新しい領国備前へ伴をしてゆき、別居を余儀なくされていたせいである。
 さて、御香宮(ごこうのみや)に近い伏見の小早川屋敷の長屋で、四人の子を育て
ながら、夫の戻りを待ちわびている彼女の許へ、
「‥‥天海と申しはべる」
訪れてきた者がいた。
「はて、お坊さまのお越しとは‥‥」
怪訝そうに迎えたおふくも、どこかに幼顔は残っていたとみえ、
「まあ、そなたは白妙坊どの」
と、嬉しそうに声を震わせた。天海も霑んだ瞳で、
「逢いとうございました‥‥」
涙ぐんだ。
 二人は暫しじっと息を詰め、顔と顔を見合せていたが、なにしろ悪戯盛りの子供が
四人もいては、その静寂もほんの束の間だった。
「男はんは、ちいとも変わらしまへんが、女ごはあきしまへん。子を四人も産んでい
ますよって、もう蝉の抜殻みたいでおす‥‥」
騒ぎ廻る子をたしなめて、おふくは寂しげな微笑を見せた。
しかし天海は首をふり、
「まだ二十と五の女の盛り。それに子を何人も産ましゃったで、体内のあくが落ちた
ような色白さは、悲母観音様の御像のようや‥‥」
合掌してみせ、懐かしそうに眼を細めた。
「夫の留守中に殿御をお上げ致すはいけんのやろうが、お寺様やったら大事おへんな
‥‥」
そそぎの水桶を持ってきて、上へ招ずると、
「して、この伏見へ何の御用どす‥‥」
改まった調子で聞いた。天海はそれに、
「いま江戸崎の不動院と下野の方の寺と、掛け持ちをしとるが、仙波の無量寿寺の再
興をせないかんのじゃ。それで御本山の比叡へ行こうと出てきたのじゃが、なんせ、
その前に伏見城におわす家康様に拝謁して‥‥そない思うて参りましたところ、以前
蜷川屋敷に奉公しとった衆に、ひょっこり伏見街道の入口で出会うてな。向こうは覚
えとらんじゃったが、こっちは納屋から曳き出された時、どつかれとるで忘れてぇへ
ん。そんで話しかけたところ、お前様がこっちへ来ていなさるのが判り‥‥もう逢い
とうて矢も楯も溜まらんと、かく罷り越しましたのじゃ」
と打ち明け話をした。
「ほんに十何年ぶりのこと‥‥けど、よぉ覚えていておくれやしたな‥‥嬉しゅうお
す」
少女時代に戻ったように、はにかんだおふくは、手拭いを濡らして持ってきて、
「頭すじに、きつう砂埃が‥‥」
と背後に廻って襟を拭き、
「今からでは、もう遅うおすよって、明日早うに伏見城へお行きやしたら」
と、耳許へはずむような熱っぽい声をかけた。
 が、次の日は朝から烈しい雨だった。そして、翌日も篠つく本降りだった。だから
雨の上がるのを何日も待ちわびた。蓑を借り濡れて行ってもよいようなものだったが、
おふくが雨足を見ては、
「もうじき、上がります」
と引き止めるので、つい延びてしまった。
 それゆえ、伏見城馬出曲輪の大門を潜ったのは、木の葉が洗われて綺麗になった四
日めだった。
 天海が目通りを願い出ている時、
「逢ってとらせよう」
何気なく許したが、いつも、じじむさい感じの男が、生き生きしているのを変に思い、
家康はじっと見つめたまま、
「‥‥旅の疲れも見えぬようじゃが、いずこに宿をとっておるぞ」
と尋ねた。
「はぁ、御香宮近くの小早川お長屋、稲葉市助が許にござりまする」
と答えたところ、家康は何か思い当たる節があるのか、さっとそのまま座を立ってし
まった。
 が、小半刻あまりたつと、また顔を見せ、
「市助が女房とは、一体どない女ごぞ‥‥」
と尋ねた。
「はい、当年とって二十五歳。一年おきに四人の男児を産み、みな健やかに育ておる
白皙な‥‥芙蓉の花が開いたような女性(にょしょう)」
まんざらでもない心地で報告したところ、
「女ごには、せっかく身ごもって、いざ産む段にくると産道が狭くて難産し、己れば
かりか子種までも死なせてしまうのが多い‥‥が、隔年に男児を一人ずつ間違いなく
産み、それが皆まめというのは、よくせき天晴れな女ご‥‥よし、逢うてみたい。こ
れから連れて参れ」
むずかしい顔で言いつけられた。そこで、
「はあっ」
と畏まり、立ち戻って話すと、
「この二月に征夷大将軍にもならはった豪いお人が‥‥何の御用だっしゃろな」
おふくは気遣わしそうに眉を曇らせた。しかし天海は微笑んでみせ、
「関ヶ原御陣が終わったとは申せ、まだ殺伐たる今の世の中。産めよ殖やせよが武門
の女ごの誉れとされとるゆえ、一年おきに健やかに子を産み育ておるは、婦女の鑑と
御褒美など賜ろうという次第じゃろ」
あまり気の進まぬようなおふくをせかし、
「何も化粧せんでも器量良じゃから、そのままで大事ない。早うに行こう」
と、子供等は端女にみさせて伏見城へ伴っていった。
 すると、どうしたわけか、
「その方は退がってもよいとの御諚であるぞ」
おふくは伏見城へとめおかれ、天海だけが戻されてしまった。
 次に天海がおふくに巡り逢えたのは、翌慶長九年。飛鳥山から空っ風が吹きすさぶ
木枯らしの頃だった。江戸城大奥より、
「竹千代様虫封じの修法(じゅほう)」
という下命に、川越から行列を仕立て大手門を入ったところ、こちらへどうぞと案内
されて、奥まった白書院で護摩檀をしつらえていると、
「‥‥懐かしやのう」
背後から声がかかった。
はっとして振り返ると、まるで能面の様に厚化粧をしたおふくの顔がそこにあった。
「皆の衆、真言密教の呪法じゃによって、遠慮せいやっ」
と、付き添ってきた腰元どもを退がらせてしまうと、おふくは側へ寄って、
「見て下され、この和子‥‥十四年前に比叡のお山で初めてお目もじをした節の、お
手前様にそっくり生き写しじゃろうが‥‥」
抱えた嬰児をつきつけるように覗かせた。
「‥‥えっ」
天海は覚えがあるだけに、ぎくっとしたものの、信じられぬような眼を向けると、
「表向きは二代様(秀忠)の和子。この身は京より参った乳だし女ご‥‥」
と言いつつ、あたりをはばかるように声を秘めてからが、
「大御所様は、我が父斎藤内蔵介に、きっとその血脈の者に天下を継がせようと約束
されたとかで、かねてこの身を捜し求めていなされた由。よって夫稲葉市助めに手切
れ金として五千石を下しおかれ、稲葉佐渡守正成と従五位下に任官させなすって、わ
らわにはお種つけを伏見の城でせっせとなされましたが、既に六十ニ歳のおん齢‥‥
よって、身ごもってよりいつの頃に[子種が]入ったかと指折り算えてみますれば‥
‥」
と、こづくように背で天海の背柱を突いた。