1118 謀殺 18

 さて、本能寺の変の知らせが堺まで聞えたのは、陽射しが中天をやや過ぎた頃だっ
た。松井友閑の家来共が蒼ざめ狼狽している隙に、本多忠勝らは武者草鞋をつけ、
「さぁ、門を開きませぇ」
と、家康を守って外へ出た。しかし夷島から大浜へ駆け走り廻ったが、小舟までが住
吉浦に持ってゆかれ、一艘も見つからない。やむなく、伊賀の出である服部半蔵の案
内で、陸路避難する事にして、ひとまず河内の飯盛へ出た。
 そして神山から伊賀の丸桂、柘植(つげ)を抜けて加太(かぶと)越えをし、伊勢
の関から亀山へ行き、そこから白子の浦へ出て、榊原康政が手配した十四杯の鰯舟に
分乗し、伊勢湾を渡り西尾に近い浜に上陸し、そこから岡崎へ向かった。
 さて、この日、六月四日。
家康は、その居城の浜松に行かず、直ちに三河の兵へ動員令を出した。
そして、本能寺で信長を毛髪一本残さず吹き飛ばしてしまった内蔵介を救援するため
に、自ら兵を率いて尾張の鳴海ガ浜へまで出陣した。しかし、先鋒の酒井忠次の隊が
津島まで進んだ時、
「秀吉が備中(岡山)高松から引き返し、既に山崎円明寺川で斎藤内蔵介を庇った明
智光秀を討った」
という知らせが入ってきた。
 しかし、家康は光秀の事より、斎藤内蔵介の安否の方が気掛かりだったゆえ、秀吉
から何度も使いがきて、長谷川秀一も口を酸っぱくして、しきりに引き揚げを慫慂
(しょうよう)したが、頑として兵を返そうとはしなかった。
 そのうちに、当時の権中納言山科言経卿日記によれば、その六月十五日の条に、
「この度の謀叛随一(本能寺の変の首謀者)斎藤内蔵介、近江堅田に篭りあるを尋ね
出され、京洛中を車にて引き廻し本日六条河原に誅さる」
と書かれてあるような情報が家康の耳へも届いた。
 そこで、山崎合戦も済んだというのに、八日後まで布陣したままで待機していた家
康もやむなく二十一日には軍を戻し、自分も一ヶ月ぶりに浜松城へ戻った。
 その六日前に明智秀満が坂本城で自爆し、光秀の妻子や秀満の妻は爆死したが、四
歳の白妙丸だけが城外へ逃れ、ひとまず比叡山へ連れ去られた事など、その時の家康
はもちろん何も知りようもなかった。


征夷大将軍

 比叡の山から見る空はいつも青い。春になって蒲公英(たんぽぽ)が黄色い碁石の
ような花を散りばめる頃になると、真綿のようにふかふかした雲が、東から漂うごと
く流れてくる。
「青空が透けて白い蜘蛛の巣のような‥‥」
白妙丸は薄紫の筒形の花房をたわわにつけた桐の樹につかまりながら雲を見ていた。
 天正十六年。京では戻橋角から二十町四方の町屋を立ち退かせ、さながら延暦の昔
の平安京大内裏にも匹敵しようと噂される広大な敷地に、贅をこらした目一杯の建物
が建ち、「聚楽第」と秀吉は命名した。
 が、やっと十歳になったばかりの白妙丸には、見たこともない荘厳な建造物より、
眼の前の繊維のような薄い白雲の方が心を惹く。
 そして、
(持萩中納言の姫と前帝後奈良帝との間に生れた秀吉こそ、正しい皇位継承者である
と正親町帝へ譲位を求め、皇太子誠仁親王へ信長殺しの冤罪をかぶせ、その御命を絶
ったものの、親王の怨念が雷になって荒れ狂い、各所へ山火事を起し、やがては我が
命も危ないと脅かされ、せっかく新御所に聚楽第を建てたものの、秀吉は己が即位す
るのを断念し、亡き親王の十六歳の御遺孤をもって新帝とし、落成した新御所は献納
するかわりに、四月十四日から五日間だけ御滞在を願った‥‥)
といった僧房の噂に耳を藉すこともなく、
「‥‥白い淡雲の向こうは何だろう」
澄んだ瞳で、じっと桐の樹蔭から、涯しない比叡の大空を仰いでいた。
 なにしろ成人してからなら、六年くらい記憶は鮮明なものだが、まだ十歳の白妙丸
には、四歳の日の覚えはあまりはっきりしていない。
 そこは今住まっている東塔の南光坊ではなく、どうもお城だった事は漠然と思い出
があった。しかし、そこから比叡の山へどうして移ってきたかは、どうしても記憶に
残っていない。
 だから、前が白妙丸だったから、今は「白妙坊」と呼ばれているのだといった経緯
さえ、まったく当人は覚えなしだったのである。
 父母の事も、母が明智日向守光秀の一の姫で、父が会津芦名の血を引く三浦弥平次
こと明智秀満である事など知るよしもない。
”父(てて)さま恋し、母恋し、十万億土の涯迄も親いとしと、杖つきて尋ね探しに
参らばや”
 いつ誰の教わったわけでもないが、遍路の御詠歌が口をついて出かけたりする。
もちろん、遍路廻国は紀州高野山のもので、比叡山では宗旨違いゆえ、口中で詠ずる
のは差し支えないが、声には出せぬのが戒律である。
 でも、十歳の子供にはとても堪え姓がない。
そこで白妙坊は、うっかり声を出しても聞き咎められないところとして、いつもこの
大きな桐の樹に蝉のようにつかまっては、
「ててさま恋し、かかさま恋し‥‥」
口中でかみしめ、咀嚼するような声を出していた。

 延暦寺も他の宗門と同じ事で、この時代は十三、四歳までの者は三つ輪髷を結わせ
稚児として扱ったものだが、白妙丸だけは四歳の時から剃髪して、この東塔へ来てい
た。
 もちろん預かった南光坊の衆徒は、連れてきたのが坂本城へ派遣されていた者ゆえ、
それとなく幼児の素性の程は、問わず語らずでも判っていたらしい。
 しかし、織田信長に全山の焼き討ちをされ、
「未来永劫に再興は許すまじ」
と厳命を受けて、焼板を拾い集めて掘っ立て小屋同然の僧坊しかなかった比叡山へ、
天正十二年五月に、「再建」の許可を出してくれ、おまけに白銀三百枚の寄進までし
てくれた大檀那が秀吉である。
 そして、明智はその秀吉の生前は競争相手、死後は敵役という事にされている。だ
から、南光坊の衆徒達も秀吉への気兼ねというより、露見して罰せられるのを恐れ、
当人の白妙坊はもとより、他へも箝口令(かんこうれい)を厳しくしていたのだろう。
しかし土民の子とは見えぬ白皙な、すずしい目許や、幼いながらも躾の良さは、
「貴種でもあろうか」
と噂されていた。だからして東塔以外では、
「今は備前鞆に隠棲してござらっしゃる足利将軍義昭様の御身よりではなかろうか」
とか、また穿った見方をする者は、
「初め身につけてござった白綸子の召物は京風の仕立てではなく、あれは吾妻仕立て
‥‥事によったら古河公方様の落とし胤では」
などと、いろいろ揣摩臆測もとんだ。
 そのうちに、白妙坊には知らされなかったが、御所の行器所(ほかいじょ)の女嬬
(じょじゅ)から、布地などが名指しで差し入れされる事もあった。
 口さがない僧坊では、いくら秘密にしても洩れる事ゆえ、
「関白秀吉公に害され賜うた誠仁親王様の忘れ形見‥‥今の帝さまには弟君であろう
か?」
などと囁き合う者すらも現れだした。
 しかし、これにはわけがある。
今ではあまり知られていない事であるが、天正七年七月二十日に、時の正親町帝より、
明智光秀は、
「その勤皇の志を嘉し」
と、恐れ多くも、おんみずからお言葉を賜り、鹿毛の四歳駒に甲冑一式、香袋をいた
だいた。
 古来、女房奉書や伝奏を経て、その志を嘉賞された者は他にもあるが、天皇自らの
龍顔を直接に拝し、勤皇なりと誉められた者は、
「和気清麻呂、楠木正成、それに、この明智光秀」
の三人しかいないのである。
 だから、この時の天恩の忝さに‥‥
六月二日の朝、丹波亀山城にあった軍監斎藤内蔵介が、甥の長曾我部信親が信孝に討
伐されるのを防ぐため、長谷川秀一が贋造した信長の指図書を用い一万三千の兵を偽
って出動させ、京四条の本能寺を襲った後、便乗した難民が暴動を起し掠奪放火乱暴
の限りを盡して御所へさえ乱入せんとした際、この知らせを聞いて驚き、御所をお守
りしようと、光秀は急ぎ坂本より三千の手兵を率いて、
「大君のへにこそ参らば、お守りせん」
と、義理堅いのも善し悪しで駆けつけた。
 そして御所を警護し、今でいえば「戒厳令」をしいて、京の治安秩序を回復した。
この時、信長の重臣は中国・北陸・関東と、みな遠くにいたし、正親町帝や皇太子誠
仁親王も光秀を信頼されていたから、六月七日に勅使吉田兼見を派遣。光秀は坂本へ
戻って斎戒沐浴し、九日には御所へ伺候し、征夷大将軍の恩命を受けた。これは吉田
兼見が秀吉を怖れ日記を整理し、記録は残っていない。
 が、足利家が代々将軍職を拝命する際、「受禅」の礼金として大徳寺や京五山に銀
百枚ずつ奉納する慣習があるけれど、九日に光秀もその前例にならい銀配りをしてい
る。これは、「知恩院寺日誌」にも記録され伝わっている。
 このため、後には天皇よりも強力になった秀吉は、光秀の後塵を拝するのは不快で
あると、「征夷大将軍」の役にあくまでもつかず、よって関白になったのである。そ
して、競争相手の感があった光秀へ、信長殺しの濡れ衣をきせてしまったのである。

明智風呂

 明智光秀が正親町帝御自らに、「勤皇」とお褒めをいただいた事件というのは、永
禄十一年(1568)、今では京都市内に入って、「花背峠ハイキングコース」とな
っている、当時の山国荘千八百石の皇室御料所の地が、戦国時代の慌ただしさの中で、
宇津左近という者に横領されてしまった事に始まる。
 ここの御料米が入らない事には、恐れ多いが、主上の飯米にも事欠く有様だが、現
在の皇宮警察官に当る北面の武士も、とても攻め込んで回復する程の力はなく、弱り
はてていた。
 当時、明智光秀は足利義昭の臣だったが、その家来百五十騎を山国荘に向かわせ、
宇津左近を懲らしめて横領を止めさせた。
 ところが、天正六年になると、宇津左近は又も山国荘を奪ってしまい、花背峠に砦
まで構築した。
 光秀は、丹波八上城攻めの最中だったが、御所からの知らせを受けると、播磨上月
城の山中鹿之助への救援を言いつかったのを幸いに、出動させた兵を丹波から山国荘
へまわし、宇津左近の花背峠の砦を落した。
 当時の女官が書き綴っていた「御湯殿うえ日記」では、七月二十日に大蔵、立入の
両奉行が下向したとあるから、上旬に占領したのだろう。
 ところが、宇津左近は砦を落された時に、早めに刈ってあった稲束に火をつけ、灰
塵にしてしまった。これでは、せっかく回復したものの、一粒の米も手に入らぬ事に
なる。
 そこで、光秀は律義な性分なので、
「手前の不注意で申しわけなし‥‥」
と、丹波から己れの兵糧米を割いて、千八百石を御所へ納入した。
これに正親町帝は感激され、優渥なるお言葉や賜り物を下されたのである。
 が、「御湯殿うえ日記」の天正八年十月六日並びに十八日の条をみると、その頃の
光秀は信長の命令で大和へ赴き、柳生石舟斎ら地侍を使って興福寺、東大寺の寺領の
書出しをさせ、土地の検分で多忙だったにもかかわらず、その翌年も寸暇を割いて、
「新米取り入れの頃合である」
と、山城の山国荘へ赴き、自ら収穫した米俵を御所へ搬入し、これを内侍所以下誠仁
親王の住まっておられた二条御所へも届けている。
 それで、それらの新米は十八日には、女中や御乳の方、末の女、女嬬にまで配分さ
れたから、御所の者は一人残らず感謝。正親町帝もいたく喜ばれたと書いてある。
 その後も光秀は、お節介というか誠意溢るるというべきか判らぬが、翌年七月にも
新米納入に立ち会っているし、御所の厄介な事には進んで自分が介入し、骨を折って
いる。
 だから御所の人々は、やがて正親町帝を脅迫するような秀吉の世になると、
「‥‥昔は、ものを思わざりけり、と申すが、あの光秀の生きていた頃は良かった」
と懐かしがる者も多く、それらがひそかに、
「光秀の遺族はおらぬか?」
と探し廻った。
 しかし、光秀の妻子で坂本城にあった者は、一の姫も爆死を遂げているし、二の姫
は夫津田正澄が大坂城千貫櫓で殺された後、その居城近江大溝で秀吉に殺されている。
三の姫の於玉は長岡与一郎(のち細川忠興と改名)に嫁していたので、命は助かって
いたが、舅の長岡藤孝が秀吉に気兼ねして軟禁状態ゆえ、消息の知りようとてもなか
った。
 ところが、そのうちに復興された比叡山東塔に、光秀の一の姫と明智秀満との間の
一子が「白妙丸」の名で匿れていると判ってきた。そこで、昔の人は義理堅かったか
ら、御所の衆も、
「亡き光秀への恩返しに」
と、そっと反物や米穀の類の付け届けをしていたのである。
 ‥‥この御所の光秀への追慕が相当に根強かったものであったらしい事の裏書とし
て、今でも京都花園の妙心寺表参道の右手に「明智風呂」の立札があって、壮大な蒸
風呂の建物が、毀れかけだが手入れよく保存されているのがみられる。
 木札には、
「当時、塔頭に血縁の僧がいて、明智光秀供養のために建てたもの」
と説明されている。
 この僧というのは、玄淋(げんりん)と名乗る者で、寛永八年(1631)六月十
三日付で、
「自分は何を隠そう、明智光秀の伜である。豊太閤時代には名乗れなかったが、御当
代になった故、かくは申し出たものである」
と、「明智系図」一巻を拵え、京所司代板倉重宗の許へ出頭し、差し出している事実
がある。
 既に将軍家光の時代である。なのに何故今更になって贋物の系図を作製したり、現
代でいうPR作戦に豪壮な明智風呂を作ったかというと、これも、御所に光秀追慕の
風潮がまだ濃厚なのを見てとって、あわよくば妙心寺全山の貫主にでもしてもらおう
と野心を燃やし、それで仕組んだ事なのだろうと思える。
 つまり1631年の寛永八年の頃さえ、
「明智光秀は、誠忠無比の勤王の士」
と、大いに認められていた程だから、それより四十三年前の天正十六年当時にあって、
御所の人達が白妙坊の事を聞きつけ、
「可哀想に。何ぞ、その孤児にようしてやるわけにはゆかぬものじゃろうか」
「亡き明智光秀殿への恩返しの万分の一にては候うが‥‥」
と、比叡山へ行く者があるたびに、何かをそっとことづけていたとしても、これは別
に不自然でもなかろうというものである。


家伝史料

 二年たった。天正十八年である。
この年の三月一日に太閤秀吉は美々しく行列を仕立て、雲霞のごとき大軍を従え東へ
向かった。小田原の北条攻めのためである。
 が、秀吉が出かけて不在となると、京も大坂も、まるで頭上にのしかかっていた暗
雲がすうっと消え去ったみたいに人々はせいせいした。
 京坂伏見の侍達の姿が、あらかた眼につかなくなった所為もある。だから比叡の山
へも、折りから満開の山桜を見物に、弁当持参の女子供までが麓からかたまって浮々
と登山してきた。
 四歳の齢から十二歳まで、いつも抹香臭い僧房に、さながら閉じこめの如く育った
少年には、そうした里の風俗が珍しく、きらびやかな彩りの被衣姿に眼を惹かれた。
 だから、いつもは外へ出ても、桐の樹の幹に寄り添うようにして青い空ばかり見上
げていた少年も、この日は、白い花が咲く若木のところまで行って、まだ薄紫の葉末
の隙間から伸び上がるようにして、
「美しやのう‥‥」
と、とりどりの色彩が山を登って、近寄ってくるのを見下ろしていた。が、
「‥‥白妙坊、いずこにいてか。本日は参詣人が多く、斎(とき)の膳を出す急使僧
が足らぬ‥‥」
兄弟子の青蓮坊に探しに来られ、
「此処におじゃり申す‥‥はい、参上」
と、少年は未練げに山坂の方へ眼を落したまま返事し、金襴草の茂みの中を庫裡(く
り)へ駆け戻った。
 すると、用意された膳の山積みの蔭で、
「多人数様でござりまするな‥‥で、大檀那様は、いずれの方にておわすや」
椀を拭きつつ尋ねている所化僧(しょけそう)の声がした。それに行器の番僧は、
「室町御所の頃は丹波蟠根(はね)寺三万石の城主。のち太閤様の四国征伐の折に土
佐へ行かれ、孫にあたる長曾我部家の付役を仰せつかっておられる蜷川新右衛門長親
様‥‥当東塔にて剃髪得度されてよりは、入道道標様と申し上げる有徳な御方様じゃ
‥‥少しの疎略や失礼があっても相い叶うまい」
と、きっとした声音でそれに注意を与えていた。

 寛政六年十月に、江戸城西の丸紅葉山文庫詰めだった太田南畝が、幕閣の命で家伝
資料を集めた「杏花園編纂」なるものがある。その中の上巻に、
「寛文年間、蜷川喜左衛門自筆書付写し」というのがある。
 喜左衛門というのは、春日局が江戸千代田代官町に五町四方の地面を貰って、己が
休憩所の屋敷を建てた際に京から呼ばれてその工事一切を仕切り、後、その用人格で
相州吉岡三千石の采地の管理をしていた者で、これが蜷川新右衛門の曾孫にあたるの
である。
 そして、その書付には、
「寛文事件として知られる「伊達騒動」の立役者で時の後西帝が、従弟にあたる伊達
綱宗に対して伝奏園池中納言公朝(きんとも)をひそかに奥州へ下し陰謀を企んだの
を摘発し未然に乱を防いだ老中稲葉美濃守の祖父母は、稲葉佐渡守と春日御局様のお
二人であること」そして、
「春日局の父斎藤内蔵介の親は斎藤伊豆守。母が蜷川新右衛門道標の祖父蜷川親俊道
斎の妹で、本能寺の変の後、斎藤一族は本来なら召し捕されて誅されるべきところだ
ったが、蜷川道斎の妹が京一番の角倉了憲(すみのくらりょうけん)に嫁していたか
ら、命代に夥しい現銀を納め許されたのである」次に、
「斎藤内蔵介の妹は四国長曾我部元親に嫁して信親を産んだが、栄春とよぶ末の娘は、
新右衛門道標の妻となった。だから内蔵介の娘である春日局にとって、蜷川道標は伯
父という立場にあたる」
とあり、それから、
「蜷川道標の弟吉兵衛道輪は、斎藤伊豆守の後家である道斎の妹の養子となったから、
斎藤内蔵介の弟となっている。そして、この姉娘が旗本近藤登之助へ嫁し、妹娘が神
道家吉田へ縁づき、その子供が角倉へ養子に入って、角倉了以となる」
と、ややこしい詳述がされている。
 現代は個人の能力で俸給を受けるのだが、封建時代はそうではなく家名や家門に禄
が出された。だから血統が重きをなし、それゆえ血の純潔を守るため、蜷川家は斎藤、
稲葉、角倉の三家としか代々にわたって縁組みをしていない。が、その当時としては、
これは普通の事だったらしい。
 さて、信長時代に栄えたものは秀吉の世では排斥され、秀吉の頃に勢力のあったの
は、徳川になると没落してしまうのだが、京の角倉家だけは違っていた。
 本能寺の変のクーデターの資金源になった功を認められて、角倉了以は今のベトナ
ムにあたる安南方面への御朱印船を許され、莫大な利益を独占していたが、了以が慶
長十九年に死んで伜素庵の代になっても、その子の厳昭の時代になっても、
「春日の御局様の御身内」
の肩書きがものをいって、全長36メートル幅16メートル定員397人乗りの朱印
船を「角倉船」とよばせ、ベトナム、カンボジアへ往復させて荒稼ぎをしていたもの
である。

 本堂脇の大書院の広間に配膳をすませ、白妙坊ら小坊主が行儀よく膝に手をつき、
畏まっていると、法会をすませた蜷川道標は、妻子や娘達をぞろぞろと従え、八ツ手
の葉がすれすれに延びている軒廊から導士に案内されて入ってきた。
 白妙坊は出口寄りに座っていたところ、その受け持ちの膳のところへ、まるで牡丹
の花のようなあでやかな大柄な少女が座った。
(‥‥わしと同じくらいの年頃かな)
じっと両手を膝に揃えた侭で、そっと覗きこんでみた。
 少女も白妙坊の視線に気づいたらしい。白い頬をぽおっと紅色に変えた。
が、周囲を意識してであろう、前付けの鉢をさして、
(何でしょう?)
と給仕役の彼にきくような眼差しをした。
「湯葉です‥‥」
白妙坊は、黄色の椀の中より少女の顔を見詰めつつ答えた。
「そうですか」
少女は、むしって箸で運んだが、煮付けが辛すぎたせいか箸先を変えて、甘柿で味付
けした蓮根のつくね煮を口に入れた。が、次に箸をつけたのが、
「‥‥これは」
百合の根は苦かったらしい。
少女は泣きそうな顔をして、口から出せもせず嚥下してから恨めしそうに尋ねてきた。
 生れて初めて自分と同じ年頃の娘と、向き合って座った白妙坊は、すっかり上がっ
ていたから、まるで自分の落度のように、おろおろしてしまった。
 が、そのくせ、異性を初めて近くに見て言葉を交わし合ったのに興奮しきって、辻
褄の合わぬ事でも喋ったのだろう。
 少女は白い糸切り歯を見せ、にこっとした。面白がって笑ったのだろうが、白妙坊
は、好意を示してくれたものと感極まった思いだった。
 だから、その場でいつまでも座っていて欲しかった。が、正面中央の新右衛門入道
道標が、食後の白湯を喫して立ち上がると、隣に座っていた刀自も腰をあげ、まだ膳
に向かっている姪の娘が眼につくと、
「‥‥これおふく、立ちや」
とたしなめた。
「はい、おばさま」
少女は合掌して、膳の前の藁の円座を離れていった。
 その後を白妙坊も追っかけたかったが、兄弟子はつっけんどんに、
「何をぼんやりしとるか。次のお斎を出さねばならぬ‥‥早うに、ここらの膳かたづ
けをせんかい」
と背後から叱りつけてきた。


蜷川新右衛門

まだ十二歳の少年の事ゆえ、恋心といったものではなかったろう。ただ物心ついてよ
り肉親を知らず、女っ気なしの比叡の山に育ったものだから、澄んだ青空に心を魅せ
られるごとく、女人達の紅や黄の派手な被衣や、色とりどりの衣装に惹かれての事で
あるらしい。
 行器所(ほかいじょ)での膳の後片付けのあと。
他の小坊主のするように、釜に残った焦げつきを丸めて生味噌をまぶした握り飯を作
ると、それを南光坊の己が寮へ持ち戻らず、白妙坊は首から提げる頭陀袋の中へ芋の
葉にくるんでしまい込み、そっと山を降りた。
 標高848メートルの比叡山だから、降りるにしても少年の足では容易ではなかっ
た。
 山門口から月輪寺曼珠院まで出た頃には、陽はとっぷりと暮れ、一乗下り松の並木
にかかった頃は、ほうほうと梟が闇の中でけたたましい叫びをあげるのが聴こえた。
 しかし白妙坊は、蜷川新右衛門の名前を覚えていて、吉田山の手前に邸があるのも
聞いていたからして、月の出を待って北白川の萱の中原を、怖いから一気に駆け抜け
た。
 あまり人通りもなかったが、それでも人影が見つかると、走って尋ねたから、志賀
越道に面した蜷川邸は、どうにかあまり迷わず捜してあてる事ができた。
 が、来た事はよいが、どういって案内を乞うてよいやら、そこまでの才覚は浮かば
ずだった。そのうちに銀閣寺の方から流れてくる白川のせせらぎを聞きつけると駆け
てゆき、白妙坊はからからになった咽喉を霑(うるお)し、持ってきた焦げの握り飯
を頬張り噛み砕いた。
 腹がくちくなると疲れがでた。まるで子猫のように丸まってスズナの叢の中へ顔を
ねじ込み、その侭つくなって眠ってしまった。
「ギイーキッ、キッキッ」
鋭く鳴きかわし、群れをなして飛ぶコゲラに眼をさまさせられ、叢の中で伸びをしな
がら寝返りをうって、空を仰ぐと陽はもうまぶしかった。
 アオゲラと山では呼んでいる羽根が薄緑色の啄木鳥(きつつき)も、近くの雑木林
からとんできた。
 白妙坊は、小川で顔を洗い、また蜷川邸へ戻って行った。
しかし、門のところにはいかめしい番衆が樫棒を構え立っている。
 だから近寄りにくくて、ウコギの生垣で囲まれた邸の周りを、行きつ戻りつ彷徨し
ていると裏手の建物から、見覚えのある昨日の少女が、白い素足に竹草履をはいて出
てきた。
「お、おふくどの‥‥」
おばばと呼ばれた刀自がよんでいた名を思い出し、白妙坊は垣根に顔をつけ夢中で叫
んだ。
「‥‥えっ」
少女はどこから呼ばれているのかと、きょろきょろしていたが、生垣越しと気づくと、
不審そうな顔で近寄ってきた。
 そして、相手が白妙坊とわかると、恥ずかしそうに少女らしい嬌羞をみせつつ、
「‥‥忘れ物でも届けにきてくれましたか」
低い声で尋ねてきた。しかし、握り飯しか持ってきていないから、首をふって、
「逢いに‥‥」
それだけ言った。すると、
「わたくしに‥‥逢いに」
十二歳の少女は白い顔を緋牡丹のように赧(あか)らめ、熱っぽい瞳を生垣越しに見
せた。そして、椎の木の根方に生垣の穴があいているのを、指差し数えた。
 白妙坊は、小犬のように、そこから屈みこんで屋敷内へ入り込んだ。
が、向き合っても、別に語り合えるような話題の持ち合わせもなかった。じっと無言
のまま二人は立っていた。
 が、そのうちに少女は白妙坊の手を握った。
だから少年は胸を高鳴らせ、耳へも響く程に烈しく鼓動をうたせたが、手を引っ張ら
れ、
「人に見られたら、いけませんでしょ」
庭隅の物置小屋へ連れていかれた。そして、
「‥‥ここやったら、大事おへん」
中へ押し込まれ戸を締められた。
が、昼過ぎになると、竹筒をくりぬいた水呑みと粟餅をそっと少女は届けに来た。
次の日も、やはり同じ様に呑み水と食物を持ってきた。
 しかし十二歳の少女の才覚では、白妙坊を匿ったものの、どうしてよいか思案が浮
かばず、誰かに打ち明けて相談したのでそれで露見したのか、はたまた、挙動を怪し
まれて監視され、それで発覚してしまったのか、三日めに、
「これ‥‥おふくっ。こっちゃ来う」
と蜷川新右衛門の居間へ呼び込まれた。
いつもは優しく叱ってくれるおばばまでが目尻を釣り上げ、
「まんだ女ごの証(しるし)さえもない小娘のくせに、男を引き込み隠してくさると
は末恐ろしや‥‥」
おろおろ声を震わせて烈しく叱責した。
 しかし、おふくにしてみれば、山を降りてきて行先もないらしい少年に親切にした
だけの話で、そうがみがみ云われる覚えはないつもりゆえ、平然とぼけっと落着いて
いた。
すると、そこへ柴田源左衛門へ嫁いでいる一番上の姉が、二条から駆けつけてきて、
「‥‥あの小坊主どのの素性を知っていてか」
険しい声で噛みつきそうに云われた。
「えっ‥‥」
なんだか判らぬが吃驚した。
「聞いてたまげるでない‥‥あの小坊主どのは、太閤様によって信長殺しと決めつけ
られていなさる明智日向守光秀殿が、一の姫の御子じゃえ‥‥」
と言ってきかせ、
「まだ年端もゆかぬ足弱が、一人で山を降り、この邸へ潜入してきたは、さだめし誰
ぞに、まことの信長殺しは明智一族の知らぬ事と知恵をつけられ、よってその仕返し
に内蔵介の娘であるおふくを狙って来たのやもしれぬ‥‥もし、そうならば、御厄介
になっているこちら様へ御迷惑をかけるばかりでなく、縁に繋がる我らも夫も、とん
だ災難にあう事になろうが‥‥」
おんおんその場に泣き崩れてしまった。
 座を外していた蜷川新右衛門も、やがて戻ってくると、
「おふくは美濃清水城へ移すしかあるまい」
きっぱりした口調で言ってのけた。
 おふくの母斎藤内蔵介の妻は、美濃三人衆と呼ばれた稲葉一鉄の兄道明の娘である
が、その頃は一鉄の息子の代で、そちらは美濃曾彌城から郡上四万石に移っていたが、
道明もまだまだ堅固で清水二万三千石の城にいた。だから母方の祖父の許へ戻してし
まおうというのである。
 さて、何かあれば一族こぞって誅罰される時代にあって、当人の斎藤内蔵介こそ洛
中引き廻しの上で斬首されたが、その子女や親類一同は豊臣体制下にあっても、のう
のうとしておれたという事実は、秀吉も信長殺しの黒幕だった紛れもない証拠であろ
う。
 が、十二歳のおふくにはそこまではわからない。
 しめしだ草の茂る物置から白妙坊が曳き出され、比叡山へ送り戻されるところなの
か、椎の木の方へ連れていかれるのを見ると、
「‥‥待って」
と、濡れ縁から裸足のままで飛び降り、
「うち‥‥美濃へ行かされますんよ」
訴えるように駆けだそうとした。しかし、蜷川新右衛門が怖い顔をして、
「止めぇ。押さえい」
と叫んだから、おばば付の腰元どもが慌てて転げるように、
「お、おふくさま‥‥」
と庭へ降りて走り寄った。
「いやっ」少女はもがいたが、引き戻され、
「うおっ‥‥」
吼えるように泣き叫んだ。
白妙坊の振り返った眼にも三月の陽射しを反射する光がその睫毛(まつげ)に宿って
いた。