1116 謀殺 16

起請文誓紙(きしょうもんせいし)

 暫くして、また盃を重ねてゆくうちに西国者は口をもごもごさせていが、やがて、
「‥‥権現様は、借りをお返しなされたのでござりまするよ」
と、妙な事を口走った。
「えっ‥‥なんで借りを返しに子を孕ませたりするか」
と、盃を落さんばかりに忠長が驚くと、
「こりゃ失言‥‥とんでもないことを」
と自分でもしたり顔で手を振って取り消しはしたものの、もはや、のっぴきならぬと
でも思ったのか、やけくそのような声を出して、
「天正十年六月二日。信長様殺しの、本能寺の変の借りにてござりもうす」
と言い切った。
 これには忠長も二の句が継げず、ただ眼をぱちくりさせた。
なにしろ自分が生れる前より二十四年も前の出来事である。もちろん生母の江与が、
信長の姪にあたっているぐらいはしっていたが、それ以上は何の知識もなく、ただ呆
気にとられていた。
「あの年の五月の晦日‥‥織田信長様が安土から京の本能寺へ出てこられると判ると、
権現様は這々のていで船便のある堺へと逃げなされ、後の事は春日局の親爺にあたる
斎藤内蔵介に『一生の恩にきよう‥‥その方の血脈に徳川の家を継がせる』とまで云
いなされたそうな。そして、船を求めようにも、既に信長様家来の松井友閑が、堺の
政所として船という船を押さえていて乗り組みできぬ侭に、伊賀の鹿伏兎(かぶと)
越えをして万死の一生をえて三河に入り、すぐさま斎藤内蔵介の合力に兵を催し、鳴
海まで出てござったが、既に手遅れ‥‥よってやむなく陣払いはなされましたものの、
内蔵介の娘の於福を見つけだされると、これを夫と縁切りさせて伏見城内へ匿し、そ
のうちにお手をつけられて、今の将軍様がお生れなさったのでござりまするぞ」と一
気呵成に喋ってのけた。
「ふうむ‥‥」
忠長は唸ったが、すぐ、
「信長様と権現様は仲良しで、桶狭間合戦の後からすぐ聨合されて、生涯一度も仲違
いなどなさらなんだという‥‥それが何で天正十年六月になって、信長様は権現様を
追っかけ、権現様は窮鼠かえって猫を噛むみたいに、明智の家臣の斎藤内蔵介など使
嗾して本能寺を囲ませ、信長様殺しなどしたんじゃろ」
と腑に落ちぬ顔をしてみせた。
「‥‥仲良う見えたのは、信長様が堺を押さえ、マカオ舶来の火薬を一手占めにされ、
権現様はそれを分けて貰っていなされたゆえ、手向かいなどはできなんだのでござる。
なんせ甲斐の武田勝頼でさえ山国の悲しさは港のない憐れさで、満足に輸入火薬が手
に入らず、昔ながらの弓と槍では、天目山の露と消えるしかない有様を、権現様は見
ておられるによって、信長様を怖れられていなされたのでござりますよ」
と、手短に経緯を話してから、
「まあ、事の発端というのは、その桶狭間合戦の後(永禄五年正月)権現様が清洲へ
行かれた時でござりましょうのう‥‥」
と、その後に付け加えた。
「なんじゃ、その話‥‥なんで初めて逢うた時が、そもそも二人の衝突の種になるの
じゃろ」
怪訝そうに顔をしかめ、紀伊に目顔で西国者の盃を次々と満たしてやりながら、忠長
は尋ねた。
「さぁ‥‥話してよろしいものやら、どうやら‥‥」
と、ここまでくると流石に西国者は口を噤(つぐ)んだ。
「こらッ、申せ‥‥」
と、堪りかねて忠長は額わきの青い血管を膨らませ腰を浮かすなり、
「そこまで口にしておいて、後は知らぬ顔をしようとは言語道断。ぬかせ‥‥云わぬ
と成敗する」
とまで口にした。脅しだけではないらしく、脇差の鯉口をねじるようにコキンと音さ
せた。
 だから、その剣幕に驚いたのか、すこし破れかぶれ気味に、西国者は膝の上に両手
を揃え、
「申し上げまする」
と咬みつくように顎の古傷を突出し、
「お人払いを‥‥」
とまず云い、
「この事、かまえて、御他言は無用に願い上げまする」
と、紀伊の細っそりした後姿が見えなくなってから、西国者は困惑しきったような歪
んだ表情を引きつらせた。だから忠長も聞き出したい一心で、
「うん、誓って、この場で聞き流そうぞ。心配すな」
と、懇願するあいてに安心させてやった。
「なら申し上げまする‥‥永禄五年の戌年に松平元康として清洲へ赴かれ、そこで津
島の熊野明神や白鳥神社の牛頭天王の起請誓紙を互いに血判して交わし合われたる御
方は、何を隠そう今は亡き権現様にて、元康様ではござりもうさなんだ‥‥
 と申しますると、面食らわれましょうが、松平元康様は信光入道様後裔にて、根っ
からの一向宗。それが、清洲城へ赴いて棄仏の誠を示され、数珠を切ってまでみせら
れたので、疑い深い信長様も、やっと胸襟を開いて互いに神信心の同志として提携の
厄を結ばらましたなれど‥‥実はこの時、本物の元康様は家臣の安部弥七郎という者
に誤って斬殺され、既にこの世の者ではなく、当時その元康様の跡目の後の岡崎三郎
信康殿が、まだ幼少の身を熱田の加藤図書の許に拐され、その頃は清洲城内へ移って
いましたによって、何とか乗り込んで取り戻そうと松平党の者は難渋‥‥そこを見込
んで権現様が、あまり面体を知られていぬを幸いに、まんまと死んだ元康様になりす
まして奪い返しにゆかれましたのでござります」
と、一息いれた。
「ふうむ‥‥権現様なら、仏というても一向宗ではのうて鳳来寺の薬師派の東光系‥
‥念仏宗の数珠を引きちぎるくらいはたやすいこと‥‥そこで、どうした」
「はい、当時の信長様は二年前の桶狭間合戦では勝たれたものの、その前年五月の美
濃合戦では斎藤竜興に大敗‥‥よって、権現様も、その場逃れの便法で、まぁ一時し
のぎに起請を取り交わし、人質の三郎信康殿を連れて戻られほっとなされたと思いま
すが、さて信長様は、その年また五月に軽海ヶ原(各務原)へ出兵して負けなされて、
また翌年も美濃攻め。次いでまたぞろ永禄七年の八月には、とうとう四年目の正直で
勝ってしまわれ、美濃を占領すると岐阜城を作られるという豪勢さ‥‥こうなると三
州岡崎の松平党も、『まさか、いつぞや清洲へ行って誓紙を取り交わしましたる元康
の殿は、判こは本物でござりまするが、人間の方は代理』とも云いかね、そこで権現
様をば、松平元康の殿の代りに、織田方への恰好上で、岡崎城主になっていただき、
権現様も、まさか死人の「松平元康』の襲名は困るからと、先に『家康』と改名され
ていたが、もはやこの時より姓も本当のものにされ『徳川家康』と名乗られたのでご
ざります‥‥
 まぁ、この時は姓も名も変えたことゆえ、思い切って起請誓紙の書き直しをしてし
まえば、それでよろしゅうござったが‥‥なんせ言い出し難くて、その侭二十年近く
ずるずるべったりになったのでござりまする」
「ほう‥‥するとだな、それが露見したら、まんまと信長を権現様はニ十年近くも瞞
していられた事になるから、こりゃ詐欺じゃが、だいたい死人の名で取り交わした起
請文など、何枚書いて取り交わしたとても、そりゃ無効じゃろう」
と、忠長も眼の色を変えた。
「‥‥はあッ仰せの通り。そこで、天正八年三月に信長様は一向宗の本山の石山本願
寺をかたづけ一服されるやいなや、二十年近くも前の古い事をもちだし、林佐渡や佐
久間信盛らを領地召し上げ追放なされるのを見てとるや、古傷をもつ権現様も心配な
され、天正十年五月に、詫び金三千両を持って僅か百名の家来と共に安土城へ行かれ
たのでござる‥‥ところが訪れての初めの両三日はよかったらしゅうござるが‥‥備
中高松から救援の使者が来るや信長様は、『出陣して中国征伐しにゆく前に、一掃せ
にゃならんもんがある』と洩らされたというのが、権現様の耳に入ったから‥‥
こりゃ、昔信長様が可愛がっておられた岡崎三郎信康を殺しているゆえ、その嫁だっ
た五徳が安土へ戻って口惜しさのあまり、もうこっちの正体をばらしてしまい‥‥そ
れで全て信長様は知ってござってか)と、権現様は周章狼狽。とるものもとりあえず
京へ逃げられると、それを追いかけるようにした信長様も本能寺へ出てござったので
ござる‥‥」
「判った!」
そこまで聞くと、忠長も、キッと眼の色をすえた。
 つまり権現様は二十年前の偽りの誓紙で信長様を瞞していたのが発覚したのかと驚
かれ、攻め殺されてはと背に腹はかえられず、京に近い丹波亀山の城代の斎藤内蔵介
や、京の入口の船津桑田をもつ細川幽斎忠興の父子などを、利をもって調略‥‥ご自
身は必死猛死に兵を集めに本国へ戻ったところ、機敏な秀吉は本能寺を囲む二日前く
らいあたりから早耳で情勢を探りあて、権現様より一足早く山崎へ出て明智勢を破り
‥‥まんまと鳶に油揚げを攫(さら)われてしまった結果になった。
「‥‥信長殺しは、この徳川家康である」
とも、権現様は、まさか云いかねて隠忍自重。
 やがて天下を横から奪っていった豊臣政権を根気よく潰し、肩の荷をおろされると、
権現様は、
「今は亡き斎藤内蔵介と、男と男の約束ではある。反古にはできぬ」
と、そこは武士らしく信義を守って春日の子の家光に、徳川の跡目を継がせに老体を
いとわず駿府から出てきて、その翌年に死亡。
「ふうむ。この忠長の五十五万石を取り上げ、場所こそ違え熊本でそっくり、その五
十五万石をそのものを、細川へ払ってやれたのも、信長様殺しの時の約束ごとじゃろ
‥‥なにしろ、よく話の辻褄が合うわ。では、おりゃ、本能寺の犠牲になって‥‥こ
こへ押し込められとるんじゃろな」
と、そこで忠長は天を仰いで酸っぱい顔をして、しばし歎息をしたものである。

 その後、忠長は、
(権現様が信長殺しなら、その信長の姪にあたる母の産んだ俺など嫌っていなされた
も当然じゃ。父の秀忠にしろ、その間の事情を知っておればこそ、やむなく俺を遠ざ
けておられたのじゃな‥‥)
と諦観にも似た心情で、じっと日を送っていた。
 ところがその内に考え込んでいると、はっとして、
「はたして家光というは‥‥あの権現様の子じゃろうか?」
と疑惑を持ちだした。
 というのは、いま江戸城で家光が春日局に母の如く仕えているのは当然だが、天海
僧正という得体のはっきりしない坊主を、まるで父の如く扱っていると聞いたからで
ある。
 もちろん初めは、
(そんな莫迦げた事はあろう筈もない)
と自分でも打ち消していた。
 しかし十一月に入って雪が降った日。
夜半冷えて小用をもよおした忠長が、脇に添い寝している筈の紀伊がいないから、仕
方なく自分で起き出し火打ち石をとって紙燭を灯し、そして厠へ行って戻ってくると
濡れ縁の板戸が少し開いていた。
 はてよと近寄って外を覗くと、雪明かりに足駄の跡がつながっていた。
「はて‥‥」
と、忠長は紙燭を手にしたまま、凍りつくように刺してくる夜風に身をさらし、その
足の跡をついてゆくと、忠長を警備する侍詰所の小屋の前で止まっていた。板戸は雪
でしめって重かったが、すぐ開いた。屈みこんで紙燭で照らしてみると、足駄は紀伊
のものであった。そこで忠長は、
(こない冷える晩なのに、可哀想にこっちまで厠を使いにきているのか‥‥連れ戻っ
てやろうか)
と、そんな気持ちを出して板廊下へ上がった。だが、突き当たりの厠まで行く前に、
右手の宿直部屋の板戸ごしに、紀伊の声と若い家中の侍らしい男の声をきいた。睦語
(むつごと)というのか忍びあうような囁きだった。
 忠長はびっくりし、また雪の道を戻ってくるなり、がたがた震えて、もう冷たくな
った夜具の中へ潜り込んだ。ぐうっと咽喉をならして眼をむいた。
 なにしろ、これまで忠長は、自分が次々と女に手を出すのは何とも思っていなかっ
たが、自分の女が、他の男と寝るなどとは夢にも思っていなかっただけに、まったく
驚かされてしまったのである。
 考えてみれば紀伊はこの家中の娘なので、前から言いかわしていた男がいたのかも
しれぬとは納得もしたが、男の立場からすれば(女が浮気を自分からしに行く)など
とは法外のようにも思えた。
(どんな具合に二人は寝ていくさるのか)
と、忠長はかっかとしてきたものの、まさか(間男された)とも騒げぬ自分の立場に
げんなりして、
(女ごは案外なしろものよ‥‥)
と、ぶつぶつ呟いた。
 すると、自分でもはっとした事ではあるが、突然ひらめくように頭が冴えてきて、
(この俺が権現様で紀伊が春日局なら、今、密通しおる奴は天海僧正ではないか)
とも考えた。
(‥‥これは天下の大事である)
と、忠長は自分で思いついて、自分でびっくり仰天した。
(権現様のお胤ならば、徳川の血脈はそのまま神徒系として後世に続くが、もし叡山
の修行僧上がりだという坊主の種ならば、徳川の血脈は家光の代から仏徒系に変わっ
てしまうではないか‥‥)
と、忠長はまさか当人の家光や春日局には出せないから、老中筆頭の土井甚三郎利勝
に対し、
「善処するよう」
と、詳しく自分が耳にした事や気づいた事を手紙にしたため江戸城へ送らせた。
 なかなか返事がこないので十二月六日、いらいらしながら床を離れた忠長が、
「やっと雪があがったらしいぞ」
と侍女に濡れ縁の板戸をあけさせると、安藤の家来どもが雪の中に入ってきて、新し
い矢来を青竹で結びつけだしているところだった。
「いかがしたのか」
と、城主の安藤重長を呼ぶと、
「おそれながら‥‥」
と重長は、
「老中の土井利勝様より『善処あそばされますよう』とのお沙汰にござりました」
と云いにくそうに平伏したまま、おずおず震え声でそれに答えた。
「‥‥そうか」
と忠長はうなずくと、
「善処するのは、こちらの方でありしか‥‥」
と苦笑いをして、
「これ、紀伊」
と、近頃はあまり側へ呼んでいない女を、わざわざ手招きして側へ呼び寄せると、
「この女はようしてくれたによって、余の納戸銀の残りをそっくり下げ渡してつかわ
せ‥‥家中にて親しき者あらば、城主のその方が仲人となって、生涯幸せになれるよ
う、これも善処してやれよ」
と重長に向かっていいつけると、重長と紀伊の二人に、座を立てと顎でしゃくった。
 思いがけない事を云われて紀伊は、その場では恭しく、
「はあっ」
と有難くお受けして、城主の重長の後から引き退がりはしたものの、
(あの晩のこと、もしや見破られたのではあるまいか)
と心が疼いた。
 そこで、どうしても気になった紀伊が暫くして居間へ覗きにくると、白小袖の上に、
三つ葉葵の黒紋付の羽織をかぶって、忠長はまるまっていた。
 そっとめくってみると、脇差で襟首から咽喉をかき切り、白い骨が見えるまで見事
に忠長はもう、自ら斬首をしていた。

<新井白石の『藩翰譜』の『土井利勝伝』にいう。
『大相国台徳院さま(秀忠)かくれさせ給いし時、土井利勝ひとり謀をもって天下を
泰山の安きにおく。もとより、それ秘事なり。よって世人は、その詳細を知らずとい
う』と。
 そして貝原益軒の門人樫原重軒の『養生訓読解例集』に、
『寛永十年十二月十三日。上州高崎城にて御預かりの駿河大納言忠長さま御乱心にて
自尽されし、その初七日の夜。旧御所お庭先松の古木の根方にて安藤重長家来徒士
(かち)頭にて加田五平なるもの腹を割る。
 同人生前は西国者と自称し居たるも、実は権現さま天正十年五月に安土城へ訪ねら
れし時にもお伴せし程の三河武者なれど、生来酒好きにて身を誤り立身することもな
く、忠長さま生前は、その振舞いに預かるべく御座所近くを徘徊し御憐慈を忝(かた
じけの)うす。よって大納言さま御他界後は、飲酒にことかき、苦しまぎれに生涯せ
しものと噂あり。あにおそるべきは酒に溺れる事にてあらめやと、人のいう』
と、この時の西国者の名前や来歴も瞭(あきらか)にされている。>

 さて、シェイクスピアは徳川家康と同じ元和二年に亡くなっているが、同劇団のジ
ョン・ヘミングとヘンリー・コンデルも、二人がスコットランドとイングランドの国
王をかねるジェームス一世陛下の庇護と援助のもとに、日本のハムレットともいうべ
き徳川家光が三代将軍になった元和九年から、そのシェイクスピア戯曲全集の編纂を
始め、十年かかって寛永十年十二月十三日、つまり駿河大納言忠長の初七日に当る日、
奇しくも二つ折りの体裁のこの本は市販される事となった。世にこれを、
「First Folio」という


南光坊天海

 さて、日本原住民が徳川体制下になるや徹底的な弾圧を受けるのは周知の事である
が、この解明をしてゆくのには、どうしても天海僧正をその俎上にのせるしかない。
 もちろん、徳川期の原住民圧迫は、元禄十一年の江戸大火の際に、それを放火とみ
て、
「これは原住民の者らの暴動である」
と、よってたかって大虐殺を敢行。このため旧足利家の吉良上野などが殿中で「弾正」
の名をもつ浅野の末裔の内匠頭に対し、
「ふなじゃ、ふな侍じゃ」
といった差別的言辞を浴びせかけたことから元禄十四年の事件は起こる。というのは、
関東では原住系のことを、「ふうま‥‥夫馬、風間」または後には風魔とも侮称した
が、三河以西では「ふうな‥‥風那」と言っていたからである。
 しかし、その綱吉の代の圧政の原因をなすのは、三代将軍家光であり春日局である
から、天海を論じなければならない。しかし、彼に関しては正があって異があるので
はなく、従来伝わっているのはみな異説ばかりである。
 例えば、「慈眼大師」の謚号のある南光坊天海なのに、その歿年だけは寛永二十年
(1643)十月一日と一定している、生れた年月には何通りもの説がある。
 「阿倍大学考」では、永正六年(1509)江州生れとするから、これでは百三十
五歳。「宇津宮弥三郎記」では、己が娘が足利将軍高基に嫁して産んだ末子が、後の
天海ゆえ、それは永正七年の誕生であるとする。
 他にも、この永正七年生れの説は多く、「言甚[←この漢字がパソコンで出ないの
で‥‥半角と考えて下さい]泰記(じんたいき)」や「北越軍記」の類は、会津若松
に近い稲荷堂の生れとするが、同じ様に百三十四歳の説をとっている。
 そして、それより若いといっても永正八年生れ、百三十三歳だったとするものには、
「王代一覧」「寛明事跡録」がある。
 さらに、もう一歳若い永正九年生れの百三十ニ歳となると、「足利系譜」をはじめ
とする「足利義真系図」や「足利義実系記」が、皆これであって、
「大師は将軍義晴の子、播州赤松村の館にて永正九年誕生、幼名を亀王丸とよび、十
一歳の大永二年に出家」
と統一されている。
 おそらく徳川時代に入って足利の血を引く者が、天海をその一族に仕立て、体制側
に結びつこうとしての意図によるらしい。
 次に六年とんで永正十五年を誕生とするのには、「本朝続々史記」や「開運記」が
ある。が、それでも百二十六歳になってしまう。
 そこで「参州松平御系図大全」などは、「天文十一年壬寅誕生、遷化享年百二歳。
古河公方高基の四男なり」と若返らせてたり、「浮身観音縁起」では、天文二十三年
生れ、と変えている。
 これらは上野寛永寺、埼玉川越喜多院、総理府書庫にあるものからの引用だが、こ
の他にも種々雑多な異説がまだまだ多い。
 が、人生僅か五十年といわれた昔にしては、百から百三十五歳はどうも変である。
長命になった現代でさえ、百歳以上は滅多にないから、これは一人の人間ではなく、
二人の寿命が一つに合わされたものと思える。
 なにしろ昔は、輪廻の説が盛んであって、一人の人間が何度も生まれ変わってこの
世に現れてくるとされていたから、二人を一人にするような事は、さして抵抗がなか
ったらしく、こうした例はきわめて多いからである。
 さて、慈眼堂宝庫に納められてある「足利系図」などには、天海僧正は足利尊氏十
六代の孫にして義輝将軍四代の嫡孫とあり、同じく蔵本の、「古河御所系図」には、
足利尊氏の血を引く古河(こが)公方左馬頭高基の四男とされている。
「松平御系図」は、これを下敷きにして、まるで同じ記載になっているし、幕末天保
十四年(1843)に書上げて提出された前述の、「宇津宮家譜」では、天児屋根二
十一代の孫を祖とする宇都宮宗園の血脈、十六代正綱の娘が古河公方高基に嫁ぎ永正
七年に産んだ子こそ、後の天海であったと話を合わせている。つまり百三十五歳に統
一されているのである。
 ところが、足利尊氏の直系だとか、古河公方の四男というのでは、あまりにも毛並
みが良すぎて、贔屓のひき倒しであるとするのか、
「会津高田の芦名氏の一族で、三浦氏七代の孫である佐原光盛の末なり」
というのが、上野寛永寺の「開祖御伝記」には入っている。これには裏付けがあって、
「四家合考」にも、
「家臣、伊達政宗へ内通。これ芦名家滅亡の緒口(いとぐち)なり、摺上原にて当主
義広戦い敗れる。よって城を棄て逃げる。今の慈眼大師(天海僧正)は当時、その城
内の稲荷の別当職を勤めていたが、急遽、城を出て中野村と一ノ関の間にて義広の殿
に追いつき給う」とある。
 そして天海が、寛永二十年十月一日に他界するに先立って、六月二十四日に、義広
の孫にあたる芦名平三郎なる者を将軍家光に目通りできるよう骨を折り、謁見の際に
献上するように太刀目録その他の進物の肝煎りをしたとの書簡も、その御伝記にはあ
る。
 翌年、つまり天海の死後の正保元年(1644)十月十一日に、芦名平三郎が新規
御取り立ての沙汰を将軍家より賜って、川越仙波喜多院の別院である江戸崎不動院へ
詣って礼をした事は、喜多院保管の「不動院過去帖」の方にある。
 これは江戸中期に、松平越前守臣二本松内膳なる者が、やはりそれにあわせるごと
く、
「てまえ先祖代々奥州二本松にて八万石を領し候処、天正十五年伊達政宗と相戦い落
城。てまえより八代以前の義孝、幼少につき会津江戸崎不動院に匿(かく)れ候は、
同院に親族の慈眼大師が居られし故なり」
といった差出書を提出しているのとも符合する。
 なお、和歌山市にある紀伊東照宮所蔵古文書の中には、紀伊大納言宛の書物を贈ら
れた、天海の礼状が入っていて真筆とされているが、その頃生存していた紀伊家の取
次衆三浦長門守の書き残したものでは、
「寛永元年二月に日光山へ参拝の節に、三浦家重代海老鎖(えびくさり)切りの刀を、
慈眼大師とよばれた天海僧正は、この私めをよばれて賜ったのが、その時に『僧の身
で太刀を持ち大切にしていたのは、さぞおかしかろうが、わしは俗姓は芦名氏で、幼
い時にはいつか、この家重代の佩刀をもって吾家の仇の伊達政宗を討たんと志してい
た者だ』と仰せあって、芦名三浦の家門の裔の私めに下賜された」
とあって、その子孫の者がその刀と天海の添状を今に伝えている旨を申しでている。
 だから、これまでの異説の中では、「足利尊氏の末孫」「古河公方の四男」より伊
達政宗に滅ぼされた芦名三浦の一門で、会津二本松の稲荷の修験者の方が通りがよい
ようだ。
 が、これでゆくと、寛永二十年に亡くなる南光坊天海とは、何処かで結びついてい
ても、別個でなくては、つまり、別人でないとおかしくなる。
 そこで、平凡社百科事典などでは、
「異説が十数説あるが、普通は天文五年に陸奥国大沼郡高田郷、即ち今の若松市西南
ニ里の地に天文五年に生れ、幼名を兵太郎。十一歳の時に高田竜興寺の弁誉舜幸の下
で剃髪。十四歳にて比叡山に登り神蔵寺実全より一流の奥秘を極め、日本書記を読破。
永禄三年、足利学校にて儒学を修め、武田信玄によった。
 そして、天正五年上州世良田の真言院長楽寺にて、住職豪春より葉上流の奥儀を授
けられ、「円密禅」三教一致を計った。天正十八年に常陸(茨木)の信田(しのだ)
の庄の江戸崎不動院が再興され、住持となり、武蔵入間郡(埼玉県)仙波の川越北院
の豪海の弟子となって、天海と改名。のち慶長五年に神田薬師堂にて関が原戦勝利祈
願をなしたのが家康の耳に入り、やがて召される端緒となった」
と、苦労して結びつけている。
 これは、「浮身観音縁起」の説を下敷きになし、生年を天文五年(1536)にし
て百八歳としたもので、現実離れした百三十五歳よりは、まぁ短命になっている。
 が、それでもやはり医学的に無理が有りすぎる。
 それに百八歳にも引っ掛る。これはただ単なる数字だけでなく、三河万歳などが、
「鶴は千年、亀万年、三浦の大助は百八ツ」
と、鼓をポンポン叩きながらやるごとく、物凄い長寿を古来から意味するものであっ
た。
 だから勘繰ればであるが、「芦名三浦氏の出である」となす説も、
(三浦というのは長寿系の氏族である。だから百歳以上百三十五歳となる勘定の天海
も、その一族にしておけば、話の辻つまが合おう)
というので結びつけた牽強付会(けんきょうふかい)かもしれない。

 それともう一つ、家康にとって、三方が原合戦では危うく殺されかけた程ゆえ、武
田信玄というのは不倶戴天の仇敵である。高天神城の匂坂甚内にしろ、家康の臣で、
武田方へ降伏後、戻ってきた者で許された者はいない。みな他への見せしめに死刑で
ある。
 井伊万千代が直政となった時に、武田の残党を許してこれを用いさせたのが、「井
伊の赤揃え」として有名であるが、それでも家康の指示は、棄て殺しの第一線部隊で
あった。
 だから、一向宗石山本願寺裏方の姉三条氏を妻にし、自分も権大僧正の位をもって
いた武田信玄のため武運長久の願をあげていたと思われる者を、いくら慶長五年(1
600)に、「東軍勝利、西軍敗北」を神田薬師堂に祈ったところで、家康が歓び招
くのも変である。
 つまり一人の人間として結びつけず、修験者の方は前の南光坊、そして徳川家光に
大事にされて死ぬ方を、南光坊天海と別々に分けるのが常識であろう。


七福神法

 さて、天正十年(1582)六月十三日夜。
「山崎円明寺川で明智光秀の軍勢が、不意をうたれて敗戦」
と知らせをきいた光秀の女婿明智弥平次秀満は、近江安土城の守備隊として残されて
いた千五百の兵を率い、その翌十四日未明に引き上げてきた。
 講談では、狩野永徳が墨絵で雲竜を描いた陣羽織姿で、颯爽たる明智左馬之助湖水
渡りの一席となる処だが、実際は琵琶湖を迂回して坂本城へ戻った。
 既に敗戦の知らせは広まっていたので、暗くなってからは脱落する者が引きもきら
ず、坂本の城までついてきたのは、安土を出た時の三分の一にも満たなかった。
 翌十五日、秀満の出た後の安土城は、蒲生氏郷を案内にして土山から向かってきた
織田信長の次男信雄によって火をつけらられていたが、坂本城も、三井寺に本陣を設
けた秀吉の下知で、堀秀政が三千の兵で包囲してきた。
 秀満は物見によってその知らせをきくと、それまで坂本城の留守居番をしていが丹
波園部城主荒木山城守らに対して言った。
「もはや、これまでと思し召され、どうぞ、すっかり囲まれぬうちにお引き取りを願
いたい」
 天守閣に蔵ってあった金銀を分け与え、解散させると、次いで国行路の長刀や、吉
光の脇差、虚堂(きどう)の書といった名物は莚で厳重に包んで、これを縄で吊し下
ろし、寄手へ無事に戻るようにした。天下の珍宝を灰塵にしてしまうのは、秀満の性
分として、できかねたのであろう。
 この秀満の事を、「細川家記」は、「三宅出雲の子にて弥平次」としている。
が、奥州史料の「二本松記」の中に、
「三浦弥平次は芦名義広の伯父三浦出雲守の子」
というのがある。
そして、その三浦出雲守は、永正十己卯年(1519)生れである。
となると、天正十年のこの時には六十三歳。
 ところが、六月二十九日に丹波横山で捕われ、七月二日に粟田口で磔刑された秀満
の父の事は「吉田兼見卿の日記」にも詳しく記録が出ているが、当時の「山科言継卿
記」にも六十三歳と明記されている。となると、「細川家記」の三宅は、三浦の誤り
なのであろうか。
 芦名氏の一族だったが、東北から移り、明智光秀の手につき父子で働いていたもの
らしい。なにしろこの時代にあって。芦名一族の三浦氏の出というのは、名門の血脈
である。
 そこで光秀に目をつけられ、荒木村重の長男村安に嫁していたが、天正六年に荒木
村重が、その寵童万見仙千代を信長に奪われたのに立腹し宣戦布告をなした際、
「敵となった信長の下にある光秀ずれの娘など、離縁してしまえ」
と戻されていた長女を、子の弥平次に再嫁させ、明智の姓を継がせて明智秀満とした
ものである。
 翌年この二人の間に男の子が生れた。
天正七年生れゆえ、その時は四歳のいたいけない盛りで、白妙丸と呼ばれていた。
これは光秀が側室に産ませた長子十五郎の幼名が白奇丸だったから、それにあやかっ
て名づけられたものだろう。
 というのは、「日本耶蘇会年報」のルイス・フロイスの所見によれば、この時十三
歳だった明智十五郎は、欧州の王侯の貴公子の如く白皙な美少年だったと誌されてい
るから、
「美しき、よき若武者に育ちそうらえ」
あやからせようと命名したのであろう。
 さて、その母にすれば、すぐ下の妹の「於玉(秀林院)」は長岡藤孝の長男与一郎
(のち細川忠興)に嫁しているし、次の「於勝」は、信長の異母弟信行の遺孤である
津田正澄の許へ嫁入っている。だからして、
「何もこない小さな子を殺さないでも、妹達の力で庇うてもらえるじゃろ」
と、吾が子可愛さに、目案を立てたのかもしれぬ。
 夫秀満が城内の金銀を荒木らに分け、名物を寄手の先陣堀直政へ、己れが先頭にた
って吊り落しているどさくさに紛れて、
「これ‥‥頼まれてくれぬか」
延暦寺から城内に来ていた僧の一人に、銀の袋を遣わし白妙丸の身柄を預けた。
 もともと坂本は、比叡山延暦寺の僧達が息抜きに山を降りてきて、ここで般若湯を
汲み、色子とよぶ蔭間(かげま)を求めて一夕の歓を尽したところで、蔭間で齢をと
った者は、「色衆」の名で女人の客に購われていた土地なのである。
 戦国時代には越後の長尾景虎が、延暦寺の「七福神法」を受けるため、ここ坂本に
長らく滞在していたが、風毒腫という現在の淋毒性関節炎に感染した。
 時の将軍足利義輝より申次衆大館輝氏が、侍医を伴って見舞ったが、景虎の激痛は
治まったものの、それ以後、天正六年に歿するまで跛(びっこ)をひいていた。
その死後の戒名で謙信と呼ばれているゆえ、今では男と誤られている人の事である。
 さて、坂本には、明智光秀が近江守佐山の森三左の砦を移し、あとは自費で壮大な
城を築いた後も、やはり延暦寺の僧達の憩いの場、俗に言う寺町通りがあった。
 だから白妙丸を託された僧は、大手門へは堀秀政の先手の直政の隊が、もう目白押
しに攻め寄せていたから裏手の辰巳門を出た。
 城内の名物を櫓の上から吊り落して、受け渡しをしている程ゆえ、和気藹々とまで
はゆかぬが、堀直政も、
(明智秀満は、城を枕に自滅をなす肚ならん)
と見抜いていたからして、落ちる者は落してやれと、裏手は故意に手を抜き、武士の
情で見逃していたのだろう。
 さて、一切の仕置きを澄ませた明智秀満は、辰の下刻、義母にあたる光秀の妻、そ
れは十五郎やその弟のお腹様などを天守閣に集め、
「お覚悟をなされ候え」
と、運びこまされた火薬樽の周りに座らせた。
勿論、秀満も吾が子の事は気になるから、
「‥‥白妙丸は?」
と聞いたであろう。が、妻は少しも顔色に出さず、
「あまり泣き喚き、聞き分けがありませぬゆえ、やむなく‥‥」
と静かにうつむいた。
「まだ、四歳。頑是ない年頃ゆえ、ただ事ならぬ気配に怯え、かんの虫を起したので
あろう」
明智秀満の心の内では、せめて最後に吾が子を一目なりと見て死にたかったから渋い
顔をしたが、切羽詰まっていた時である。
(いくら吾が手にかけねばならぬとは判っていても、不憫や、むざむざ殺してしまう
とは、酷やのう‥‥)
と思った。が、今更叱っても始まらぬもののことゆえ、
「‥‥よおやった。さすが明智光秀が娘」
口では褒めそやし、脇差を抜き放つと、
「隗(かい)より始めん‥‥」
と、妻の胸元へ、まるで吾が子の仇討ちの如き思いでグサリと突き立て、
「点火するがよい」
と命じ、やがて轟音と共に一族みな粉々に散ってしまった。
 堀直政の兵は、それを合図に大手門を破り、城内へ雪崩をうって突入した。
まだめぼしい物が残っていようと、兵共は略奪の目的で先を争い駆け込んだ。
「----凄い火柱じゃ。大地が揺れおるわい」
 そこで、坂本城天守閣の爆発を、寺町通りの色子茶屋で見上げた僧は、すっかり慌
てて、
「水じゃ、剃刀を貸しなされ」
と喚き立てて、四歳の白妙丸の稚児髷を急ぎじゃりじゃり剃り落してしまった。
 もしも見咎められた時の用心に、災いが己れに及ぶのを恐れて手早く剃ったから、
哀れ小さな頭は傷だらけの青坊主になった。