1115 謀殺 15

 さて、天海僧正によって再興され、慶長十六年十一月、徳川家康の命によって酒井
備後守忠利が四万八千坪の地に縄張して造営されたという、武州川越の仙波喜多院の
客殿の奥まったところに「無量寿殿」と呼ばれる「家光公誕生の間」が今も現存して
いる。
 天井や襖は一見しても判るように、京の二条城や昔の伏見城と同じ様に枠型貼りこ
み彩色絵板である。完全な京風建築のもので江戸前のものではない。喜多院の由来説
明書では「江戸城紅葉山の別殿を移した」とあるが、これは京から運んできたものに
間違いない。
 襖紙の絵は「狩野探幽」の筆とある。すると、安土桃山時代のもので、やはり秀吉
の頃の京のもので伏見城内からと見るべきであろう。秀忠や家光が、古い絵をもって
唐紙に仕立てたとは考えられぬし、それに、襖には襖寸法というのが決まっている。
掛軸の絵が気に入ったからといって、その絵を持ってきて引き伸ばして唐紙に仕立て
ようとしても、それはできない寸法なのである。
 さて、この「伝教」という額が、違い棚に置いてある家光誕生の間の無量寿殿に向
かって、その左側に極彩色の花鳥風月の絵が残っている杉板戸がある。そして、その
廊下の突き当たりに問題の厠があるのである。

<まことおかしな話だが、山岡荘八の『徳川家康』の本がブームになる以前は、『家
康公の厠』と説明の木板が出ていたが、現在は『家光公の厠』と変わっている。ここ
三、四年の変化だから、気づいて首を傾げた人も多かろうと思う。
 江戸期の『川越風物詩誌』にも、
『武州喜多院は古刹にて、神君家康公のおん指料(さしりょう)の橘友成作るところ
の糸巻太刀など宝物殿にあり、又神君御使用と伝わる杉竹箕の下厠などもあり』
というのがある、
 だから、家光が生れた産室の脇に、家康公の厠がついていたのは、徳川三百年を通
し明治、大正、昭和とその侭だったらしい。しかし、山岡荘八の家康ブーム後は、
『家光は秀忠の子』と思う人が多くなったから、『家光の産室の側に秀忠の厠ならわ
かるが‥‥当時は駿府にいて、江戸にはいない家康の厠があるのは妙だ』とも、寺へ
苦情を云いにいったのだろう。
 寺でも『伏見城から移した』という事は判らず、『家光ならば江戸生れ』と思って
いるから、これを『江戸城紅葉山文庫からのもの』と説明するたてまえから、『家康
の厠』という長年の看板をおろして、当たり障りのないように『家光公の厠』と書き
かえたものらしい。
 しかし産室の隣に本人のWCがあるというのは、どういうものであろうか。
現今のように、頭のよい子に育てられる人口栄養ミルクをもって哺育した子供でも、
オギャアオギャアの内は、当人が立ってつかつかと便所などは行かないものである。
おむつという軽便なもので前後の始末はしている。まして現在の『家光公の下厠』と
明示されているのは床上四十センチだった痕跡がある。
 すると、家光は生まれながらにして五尺以上つまり一メートル五十五センチぐらい
の身長もある健康優良児だった事になる。そんな馬鹿げた話はまずないから、家光が
成人後に使用したものを見ると、
『徳川三代将軍家光という人は、長じた後も、尿意を催すたびに、堪えて溜めて放出
は自分の誕生した産室まで行って、そこの厠で用を足していた』
という、世にも変てこな結果になってしまう。>

 さて、その左端にその厠があって、中央奥に家光の産室がある右側は、寺の祀壇が
飾ってあるが、この建物に木立隠れの軒廊があって、それに続く二階建ての天井の低
い堅牢な居室が、現在は喜多院の客室に用いられているが、「春日局の居間」と明示
されている。これも家光が寄進して、春日局の死後にその冥福を祈ったものだとされ
ている。
 しかし、春日局は江戸、湯島の天祥院。京には麟祥寺という大きな伽藍を、自分で
その生前に己れの死後供養にと造営させている。だったら、その両院のいずれかに、
春日局の居間なるものは移して冥福を祈ってやるべきが至当と思うのに、家光はなぜ
か天海僧正の木像と一緒に、ここへ春日局の居室を移している。つまり俗っぽい思考
力を出せば、
「死んでからも来世も仲よう睦まじゅう」
といったようにも見受けられる。
 しかも、家光の産室を挟んで、天海と春日局となると、これは何を象徴しているの
であろうか。
 しかし、表向きには、産室についている厠が「家康公御愛用」となれば、これは江
戸期にあっては、
「三代将軍家光公のお腹様(生母)の寝ていられた御産室に、家康公も寝ていられた
からこそ、権現様専用の厠もついていた」
という説明にもなって、
「家光公は、権現様のお種」
というように思われていたらしいふしがある。
 四代将軍家綱、五代将軍綱吉が、共に家光の子で異母兄弟であったから、二代将軍
秀忠と三代将軍家光が、共に家康の子で異母兄弟であったとしても、一向に差し支え
はなかったらしい。

<なにしろ、『春日局』というのは個人名ではなく、これは『征夷大将軍の側室にて、
小御所へ伺候し得る者の官名をこれを、春日局と呼ぶ』
と、『足利年代礼記』にもあり、足利将軍には代々の春日局が十五人もいて、最後の
十五代将軍足利義昭の春日局のごときは、『土井兼覚日記』の天正十二年二月十四日
の条にも、
『昨年来、義昭将軍は、その春日局をもって上洛させ』
とか、『毛利家史料』のうちの『吉川家文書』にも、
『(足利義昭)将軍、その春日局をもって出洛させ、毛利家の待遇良からざるを云い
ふらし迷惑至極』
といった個所がある程だし、斎藤内蔵介の娘の春日局にしろ、徳川家康も征夷大将軍
になっているから、その側室であったとしても、これは別に官名詐称にはならないも
のらしい。
 しかし、徳川家光を神君家康の子ではなく、秀忠の子としない事にはまずかった理
由は、家光及びその子の家綱、弟の綱吉の三代にわたって、神徒系の徳川家が全く仏
教系に変わってしまい、『神仏混淆』という時代に変遷してゆく為の糊塗策ともみら
れる。>



              彼こそ信長殺し

駿河大納言忠長

「はっは‥‥さようであろうのう」
と珍しく忠長は笑った。
 世間では未だに「駿河大納言様」などというが、それは今となっては昔の事である。
母の江与の方が生きていた頃には、まず甲府三十万石を授けられ、信州の小諸城も貰
っていた。そして寛永元年には、亡き大御所のいた駿府城に変えられ、駿河と遠江の
五十五万石の太守となって、大納言の官位にも昇った。
 が、江与の方が寛永三年の九月に亡くなってしまってからは、転落の石である。
寛永七年の十一月になると、
「御素行よろしからざるをもって、きっと御謹慎、なされ申さるること」
というので、以前は城主でもあった甲府城へ押し込められてしまった。
「莫迦々々しや」
と、日夜酒で憂さをまぎらわしていると、又しても去年の寛永八年の九月になって、
今度は、
「その後、お身持ちを慎みなされざるは、懈怠(けたい)至極につき」
という名目で、次は、上州高崎五万六千六百石の、吹けば飛ぶような安藤重長の小さ
な城へと移されてしまった。
 もはや駿河大納言様どころの話ではない。国松の昔に戻ったようなものである。
いや、それより、もっと待遇は悪いかも知れない。
 なにしろ、国松と呼ばれていた頃は、附け人というのが十四人から十六人はいたが、
今となっては女どもは四人。男のごときは、いくら家来どもが願っても許されていな
いのである。だから安藤の家臣で、付き添いというか見張り番の形だけの者だけが、
忠長には酒の呑み相手なのである。
 もともと、この安藤の家というのは、先代の重信の代はまだ馬にも乗れぬ端武者だ
った。それが長久手の合戦で兜首を一つとったのが出世の始まりで、それでやっと
『馬乗り五百貫」と呼ばれる騎馬武者になれ、慶長九年に千石どり。同十五年には上
野の多胡で五千石。
 その後、秀忠の側衆に召されたのが開運のもとで、慶長十七年には下総の小見川と
下野の結城を貰って一万六千石の大名に成り上がり、大坂冬の陣に従軍したとき、軍
さ目付となって、糒庫(ほしいぐら)に隠れていた秀頼母子が助命を求めるのもきか
ず、発砲させて始末したのが大手柄という事になって、一足飛びに五万六千石に加増
され、先代は感激のあまり元和七年に死んでしまって、今は伜の重長の代。
 だから、家来といっても代々奉公しているようなのはいない。みな変名したり身許
を匿して新参奉公にきているような素性の判らぬ手合いが多い。だからして、酒の相
手などさせて酔わしてやると、色々喋りだして、まことに面白い。今の忠長にとって
は、これが唯一の憂さ晴らしなのである。
 今日の相手というのは、西国者だという男で、千軍万馬の古強者(ふるつわもの)
のなれの果てらしく、手首にも頚筋にも槍の突き傷、外れ傷が白っぽく引きつりにな
って残っていて、それが酒が廻るにつれて、
「もういけませぬ、頂けませぬ」
と手を振り、首を振るたびに白っぽい傷痕が薄桃色になる。
「遠慮すんな。この忠長めに今のところ自由がきくのは、この酒(ささ)だけじゃ。
ぐんぐん呷れや」
と言ってやると、もう呑めぬというのが、へっへと嬉しそうに、
「それでは、もう一献だけ‥‥」
と、同じ言葉を繰り返しては盃を乾し、そして又ぞろ、
「もう駄目でござります」
と言っては尻ごみしてみせ、そのくせ注がれると、
「では、御言葉にあまえて、もう一杯だけいただきまする」
と、吸い込むように口へ流し込んでいた。
 だが、そのうちに酒気がほどよく廻ってしまったものらしく、いきなり肩を怒らせ
ると、四角く座り直し、
「‥‥悪い奴は、春日局にござりますよ」
などと言い出してきた。そして、
「あの女めが稲葉一鉄の孫養子の正成の後妻となって、正勝、正定、正利の四人の子
をなしてから、去り状をとって、こちらの将軍家へ奉公しくさったのを、御存じでい
らせられられまするか」
と、薮から棒のような事を出し抜けに口にした。
 忠長にしてみれば、白壁の土蔵のように厚塗りした春日局なら、国松の頃からよく
見馴れて知ってはいる。だが、四人も子供をぞろぞろ連れて歩いているところなど、
まだ見たこともない。そこで黙りこくって微かに首をふった。すると、
「ええい‥‥かくなる上は思い切って、お教え仕りまするが‥‥お手前様には、未だ
に春日局めは、ご当代将軍家の乳母(おんば)と思し召しあってか?」
と開き直らんばかりの口のきき方をなし、今度は自分から催促するがごとく盃を突出
した。
 だから忠長は眼顔で注いでやれと女小姓に言いつけてやりながら、ぐっと顎を突出
し気味に、
「その今洩らしおった裾の子‥‥末っ子の正利の乳離れせぬうちに、京にて乳人(ち
ちうど)入用の話をきいて応募し、それから東下りしてきて採用となり、正利とかい
う子に呑ませるべき余り乳にて、あの竹千代めを育てたのであろうがのう。それぐら
いの事なら知ってもいるぞよ」と一息に言ってのけた。
「アッハッハ」
と酔ってもいるから、その西国牢人上りの家来は、いきなり大口を開け、ふきだすよ
うな笑い方をした。
「おのれっ、無礼であろう」
と、まだ二十六の忠長は、自分は酔うほどには呑んでもいなかったから、
(おれが駿河大納言の身から、このような押し込めの身に零落れているから、かよう
な身分の卑しき者よりも嘲られるのか)
と、僻みも出てきて、ぐっと眼を据え、はったと睨みつけた。すると、相手は、
「これは、これは‥‥そない、恐ろしい顔をなされまするわ‥‥平にご勘弁なされま
せ」
と、泳ぐように手を振ってから、ぺこりと叩頭し、さて顔を上げると、
「じゃによって最初にこのお振舞酒の肴に、よしなき事なれど、お教え申そうと言う
たではござりませぬか」
と絡んできて、さて口にしていうのには、
「恐れながら‥‥お言葉の末子の正利の余り乳と申すのなら、その前夫との子は慶長
九年七月生れの家光様より、せめて半年、長くて一年の間でなくば、話の筋が立ち申
すべき筈もござりますまい」
と、そんな言い様で掌をひろげ指を折ってみせた。そこで、
「当り前ではないか」と、忠長も、
(こやつ食べ酔って、ばかを申しおる)
と鼻白んだ顔色になってきた。
「ところが‥‥手前縁辺の者が、いま稲葉家の録をはんでおりまする。奥向きに勤め
おりまるるゆえ、申すことは間違いとてこれなく‥‥それの話によりますると、末子
の正利と申すは、寅年の由にござりまするが‥‥もって如何となされまするや?」
と、続けてきた。
「‥‥なに、寅じゃ」
と、云われて忠長も指を繰ってみた。家光が生れたのは辰年であるから、卯年を一年
とばさぬ事には、寅年にはならない。だからして、
「面妖な‥‥ならば、春日は家光が生れるよりも、二年も前に子をなしていた事にな
るが‥‥女ごの乳とは、そない何年たってもまだ出るものなのか」
と、不審そうに酌人をしている侍女にきいた。

<なにしろ、ここは講談『春日局』にかかると、
『さて、慶長九年七月のこと、月にみちて丸々と太った和子さまが誕生遊ばされると
なると、これは、しかるべき京のご婦人がよろしかろうという事になり、そこで江戸
城から民部卿(みんぶのきょう)の局という御中臈さまが遥々と京へまで出かけ、さ
まざまと物色しましたが、なんせ乳母というのは、これはお乳が出ていなくてはいけ
ません。
 と申しましても、当今のように便利な瞬間湯沸かしみたいに、ヒネればお乳がシャ
ーというわけにはまいりません。どの御婦人も、たいてい胸のあたりに二つずつはお
持ちのようではありまするが、これはあるから出るとは限りません。なにしろ、その
御婦人自身がお産を遊ばされて授乳中という期間でないと、ひねっても押してもシャ
アーとは出ないとか申します。
 ですから、遥々と江戸から出て参った民部卿の局という豪い奥女中様も、出るか出
ないか覗いて歩くわけにもゆきませんから、
『目下のところ、乳がすぐ問い合う女ごというは、どうしても、今子持ちの者‥‥こ
れが眼と鼻の所なら我が子と御若君様への掛けもちもできようが‥‥江戸へ東下りと
なると、まさか己が子を背負って乳母にも行けず、さりとて自分の産んだ子を放りっ
ぱなして出かけようという、無情な母もいまい‥‥そりゃ授乳中にその子を亡くした
というて、乳が余っているという女はいるが、そのような女は不吉と申すか、その乳
の中に毒があって赤子があたって死んだものやも知れず‥‥さてさて思案に困るわい
な』
と、京所司代の板倉勝重の許へ相談に参りますと、当今ならさしずめ、
『求む、乳母。当方将軍家につき高給優遇』
などと新聞の募集広告にも出すところではござりましょうが、なにぶん、時は慶長年
間。まこと遺憾に存じまするが、ニュース・ペーパーもなければ、テレビやラジオの
スポット広告なぞもありません。そこで智慧者の勝重も、はたと当惑して
『うむ‥‥』
と腕組みして考え込んでしまいました。なにしろ、将軍家の大事。うかうかしていま
すと、江戸で生れた若者はまだ赤ちゃんゆえ、とても『腹が減っても、ひもじゅうな
い』などとはおっしゃられず、おっぱいなしでは飢え死にをなさろうやも知れずと考
えられ、色々と勘考されたあげく、
『では、よしなに、求人広告などをすぐにも仕ろう』
と、街道すじの粟田口に、ずらりと高札を立てさせ、それにて乳母至急求めたしとの
一般広告をしましたところ早速にも、
『お乳がなくては、和子さまが可哀想ゆえ、この身が応募しまする』
といって現れてきたのが、これが後の春日局。
 男の勝重は遠慮したが、女の民部卿の局がテストしましたところ、湧出量は申し分
なく、温度もよろしく、分析してみましてもカルシュウム分何パーセント、脂肪分は
どれだけと、決して、蛋白質が足りないよ、というような事も別になく、まぁ申し分
のない検査結果。それで、
『まぁ、正式採用は江戸へついてから』ということにし、命短し恋せよ乙女、せめて
オッパイ枯れぬ間にと、東海道五十三次を、まるで駆けるように走るように、二本の
脚を交互に動かして江戸城へは到着。すぐさま大奥へと伴われ、ひもじさにアンアン
泣いておられた赤ん坊の竹千代君に、
『さあ、お呑みあそばせ』と、お乳を差し上げたので、むさぼるように息もつかずに
しゃぶられ、それからおもむろに、『ああ、余は満足である。この恩はとても一生忘
れられるものではない』と、心に固く思し召されてか、やがてこの竹千代君が後三代
将軍家光公になられると、三つ子の魂は百までの譬どおりに、この春日局を大切にな
さったという『情けは、人の為ならず』真面目に働けという報恩美談の読みきりの一
席。
という事になる。
 しかし、異説によると、
『春日局は夫の正成が下女とか妾に手を出していたのを知って、その女を刺殺した為
に夫と別れ、末子を抱えて京へ出ていたから、生計に困って応募した』
という、穿った話もある。
『本採用されるか、どうかも判らぬのに、てくてく京から江戸まで面接に歩いて出て
くるのはおかしい』
というのであろうか、また、別口のものになると、
『追手に追われていて、京所司代板倉重勝の許へ逃げ込み、それで勝重が身許を調べ
てから、京では人気のある斎藤内蔵介の娘と判ったから、その生家といい、養家とい
い、夫といい、はたまた自身も、ズバリ人殺しできるという武勇すぐれた女人は、め
ったに他にはいない。これぞ将軍家の乳人としては申し分なしと推奨した』
という類の話も伝わっている。
 なお、春日局の産んだ末子の正利が慶長七年で、家光と二歳違いというのは、
『春日局を葬った江戸湯島の天祥院や、彼女がやはり生前に作った京の麟祥寺では、
毎年正月十六日と十月十六日の年二回に、(春日局御供養)という施餓鬼を行い、当
日に限り御影堂にその頌徳(しょうとく)額をかかげる。
 その額というのは春日局の末子の稲葉内記正利の書いたもので、「貞享三年(16
86)丙寅九月十四日、老叟八十五翁」と最後についている』
と幕末の『天保見聞記』にも残っている。
 つまり、この年号から逆算していっても、内記正利の正しい生年は、1602年つ
まり慶長七年壬寅ということになる。すると、春日局は、末子が三歳にもなっている
のに、まだ乳が出ていて、それから一年の余も家光に哺乳したということになる。た
だし、現在の粉末ミルクが発明され製品化され、罐入りで普及したのは、オランダの
ゴーダミルク会社のパンフレットによると、同社が世界で嚆矢で、1891年の事だ
という。よって春日局の頃にはドライミルクはまだなかった。>


乳なき乳母

「乳も出ぬ女が、乳人になるとは‥‥はっは、おかしやのう」
と忠長は笑いとばし、大いに興がって酒を呑みほした。
 だが、酔いが醒めてくると、ちっとも面白くもおかしくもなかった。
「世の中に、こんな莫迦げた事があろうかや」
と、次の日はぶりぶり腹をたて、額に青筋をたてて、一人息巻いた。
 なにしろ、その乳人のおかげで、自分は今や駿河遠江の五十五万石も棒にふり、憐
れ蟄居の身なのである。そこで、それからよくせき考えてみると、
(乳の出ぬ筈の春日局でも、唯一つだけ乳を出す事のできる途がある)のを、忠長は
見つけだした。
(なんじゃい‥‥前の子との間が二年あろうが三年あろうが、自分が又孕んで子を腹
に入れ、それを産み出したら、涸れた泉が湧きだすよう、また乳袋は膨らんで、汁は
出ようではないか)
 なにしろ男の忠長には体験がない。だから、これだけ考えつくのに三日かかった。
念のために、この新発見を侍女どもにあたって確かめてみたところ、
「それで間違いなし」
と折紙つきで保証された。
 だが、そうなると、
「春日局たるもの、誰の子を仕込んで、さてどの子を産んだのか」
という事になる。そこで忠長は、国松だった頃を思い出し、あれこれ考えてみたが、
瞼に浮かぶのは、しもぶくれした頭でっかちの竹千代だけである。それしか眼の先に
はちらつかぬ、どう記憶を呼び戻してみたところで、他に子供など、あの大奥にはい
よう筈もなかった。
 だから、
(他にいなければ、あれかもしれない)
と、仮説を立ててみた。なにしろ蟄居の身では他にする事もない。暇である。だから
妄想するみたいに、そんな考え方をした。
 すると奇妙な事に、それならば、まるで縺れた糸の緒口を引っ張り当てたみたいに、
色んな謎が解けてきた。
 第一、あの福助人形みたいに頭が大きくて、色黒なところなど、どうみたって春日
局と家光は母子である。よし乳だけの補給にしたら、単にオッパイだけで、あんなに
感染するものではない。
 昔、シャモロ国から来た伊東久太夫の話で、向こうでは牛の乳を用いて子を育てる
と聴いた時、こちらの侍女どもが真っ赤になりながら、そない四つ足を乳人にしたら
嬰児(やや)も毛深うなって四つ足になりましょう、と言ったら、久太夫は、手前の
子供も牛の乳で育てられましたなれど、鬼ッ子のように額に角など生じてはおり申さ
ぬ。と、たしかに言っていた。
 すると、乳などというものは、何を呑んでも影響はないらしい。という事は、似て
いるという事実は、これは、かつて一心同体だった事になる。
 あの饅頭の日。春日局が駿府から、死んだくそ爺を連れてきて、俺に侮辱を加えた
のも、あいつが我が子可愛さにやった事なら判る。でないと、あまりにもでしゃばり
すぎて、これまでの話なら、どうしても曳っぱり出してきたいなら、京へ行って所司
代でも連れてくる方が順当である。
 さて、そうなると何故、駿府から、翌年はぽっくり死んでしまう家康という爺さま
は牛にひかれて善光寺参りならぬ江戸城へ、のこのこ春日局に連れられてきたのであ
ろうか。ここまでは、合点がゆかぬ
 今は亡き江与の方。つまり死んだ阿袋さまの崇源院は、
「長幼の順をたてるために、それで大御所様はご老体もいたわずに出てこられなすっ
たのじゃ‥‥恨むまい、恨むまい」
と言っていた。
 しかし、先に生れた方が跡取りとは、決まったものではない。それが、何より証拠
には、春日局が亡父の盟友であったとか申して、豊前小倉城主にすぎなかった細川忠
興の跡目に、この十月には肥後十二郡と豊後三郡を加増させ、一躍肥後熊本五十四万
石の太守としたが、その跡目というのは忠興の三番目の忠利である。長男の与一郎忠
隆はぐれて山城の北野にいるし、次男の興秋のごときは山城の東林院で、面あてみた
いに腹を切って死んでいるという。つまり長男が跡取りとは定まっていない。
「つまり‥‥あれはただ、単にこじつけを云うていなさったに違いない」
と、忠長は考えざるを得ない。
 念のためにというのもおかしいが、初めて甲府へ押し込められた時、今と違って人
手もあったし、それに取締りも少しはゆるやかだったから、暇つぶしとなんとも名状
しがたい倦怠から逃れる為に、万石とり以上の大名の跡目が、はたして長男かどうか
調べさせた事がある。すると何処でも世継ぎというのは、その家の将来を考えるらし
く、俗にいう「惣領の甚六」などは避けていた。
 つまり当人の器量というか、はたからみてマシと思われる者を跡目にして、それを
世継ぎと致し、その家の安全を願っているような傾向が強かった。なにしろ関ヶ原御
陣このかた、東西のニ陣営がはっきり分かれていたので、当主が判断を誤ろうものな
ら、その家は没落の途しかない。そこで兄弟を比較して、まともと思われる者に継が
せているようである。
 だからして、忠長は、ますます立腹し、
「国松の昔から、俺の方がずっと秀でとるは、こりゃ衆目のみるところ間違いなくも
ない。それをなんじゃい」
と、腹立ち紛れに少し粗暴になったら、待っていましたとばかりに今度は付け人も減
らされて、この高崎へと移されてしまったのである。しかし、それも今となって思っ
てみると、
(竹千代と同じ兄弟で、向こうが二年先に生れた奴だという観念)から起きた忌々し
さにすぎなかった。
 だからして、ここで改めて、
「‥‥あの三代将軍じゃと威張っとる竹めは、実は春日局の子でも、こっちは御台所
の子じゃわい」
と考え、(まことの兄弟ではないんじゃ)
と性根をつけてくると、ここで頭を持ち上げてくるのは、
(では母が違うとすると、では片一方の父の方はどうじゃろ)という疑問が浮かび上
がってくる。

<これに関しての確定史料は、現在内閣図書館に秘蔵されている『内閣蔵本』の『慶
長十九年二月二十五日付、神君家康公遺文』というのがある。これは明治四十四年刊
の国書刊行会のものに『当代記』『駿府記』といった徳川史料のものと並んで活字本
で収録されている。
 その末尾に、
秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家家光公也 左大臣
同 御次男  国松君  御腹 御台所 駿河大納言忠長也  従二位
とあるごとく、生母が春日局と御台所(江与の方)との相違は、はっきり出している。
が、父の方は、「忠長の方は明白に御二男といった用語もあるが、この時代には『猶
子(ゆうし)』といった名前だけの養子であっても、これが跡目と決まると『嫡男』
とか『嫡子』とか書かれたものであって、『一男』とか『長子』という文字がない限
りは、その長男とは認められない事になっている。これは当時の『蔭凌軒日録(おん
りょうけんにちろく)』や『御湯殿之日記』にも、
『嫡男と長男は違い、他から入って嫡男となり、そこの伜共と争う事など』と残され
ている。>

 忠長が庭先の縁側へ出て、白菊を眺めていると、
「恐れながら、この手前どもが拝しまするのには‥‥三代将軍家様は先代台徳院様の
お種ではのうて、大御所様の落し胤ではござりませぬかな‥‥なんせ下々の噂では、
少し猫背のところも吃られるところも、権現様に生き写しの由、そない申す者もある
やと聞き及びまする」
と声がした。振り返ると、いつか酒の相手をさせたら食べ酔って喚いた西国者の家臣
が、今日はしらふのせいか、生垣の向こうに畏まってそっと囁くように、忠長の方を
見上げていた。振り向くと垣根越しに視線があった。
「うん」
頷いてから、それぐらいの事はもう承知していると言わんばかりの顔をして忠長は、
「また振舞おう。遠慮せいでもよい。上へ上がって参れ」
と、山茶花(さざんか)に眼を移しながら言った。
「いや、今日はもう粗相があってはなりませぬゆえ、平に御容赦を‥‥」
とは口にしたものの、立ち去るわけでもなく、うずくまって自分も紺菊の咲き乱れて
いる叢などに目をやっていた。だから、
「構わぬ。上がってこい。この忠長の下知ぞ。わりゃあ、そむくのか」
と忠長が睨みつけると、
「これは難儀な‥‥」
と口ごもりながら、
「うへえっ」
と畏まってみせ、庭先の踏み石からでは恐れ多いというのか、生垣の外で平伏してか
ら、枝折戸(しおりど)をあけ脇の耳門(くぐり)の方の板縁へ廻ってくるなり、
「はあっ」
と蛙のように這いつくばって頭を下げた。そこで忠長は苦笑しつつ、
「酒(ささ)などもて」
と、付き従ってきた紀伊とよぶ女に身仕度を命じた。
 なにしろ甲府からこちらへ廻される時、身の廻りの女どもとて一切召連れてはなら
ぬという沙汰で、この紀伊にしろ後の三人の娘達も、この安藤の家からここへつけて
こられた女どもではある。
 なんせ廻されてきてから、これで一年。他にする事もないから退屈しのぎに、いつ
とはなしに順ぐりに四人とも手をつけてしまったものの、身体が合うというのか、忠
長は、この紀伊だけを他よりも寵愛し、いつも側を離さず召し使っていた。まぁ容姿
も細っそりとして、少し愁いを含んだ眼差しも、寂莫をかこつ忠長にはうってつけの
好ましい相手だったといえた。
「‥‥遅うなりまして」
と紀伊が酒肴の膳を調えてくるとなり、忠長は、まず一献は自分につがせ、すぐ目顔
で、平伏している酒好きな西国者にも盃を与えるように言いつけた。
「‥‥これは、これは」
と、呑みたくて来たくせに、しかめつらしく遠慮していたが、やがて、
「では、お言葉に甘えて」
と、まるで咽喉へ流し込むように、一気に吸い込んでしまった。
 そして、そんな具合に三献、四献と重ねてゆくうちに、西国者の家臣は又しても、
「何故に権現様は、春日局なぞに子種を入れてやりなされたか‥‥御存じにござりま
するか」
と、たて続けに呷ったので、もう酔いが発したのか、妙な質問をしてきた。
 云われてみると、痘痕(あばた)かくしに厚く白塗りしている春日局は、その若い
頃でも、どうみてもあまり好い顔ではない。
 それだからこそ国松の頃からこの間まで、まさかと春日局を乳母くらいにしか、忠
長とても考えていなかったのである。そこで首を傾げてしまい思わず、
「蓼喰う虫も好き好き‥‥とは申すが、権現様の頃には、あない鬼瓦のような女ごが
美人じゃったのじゃろうかのう」
と盃を宙にかまえたまま、忠長もきょとんとした表情をしてしまった。