1114 謀殺 14

天海僧正の素性

 その日七月一日、つまり三代将軍の宣下を受け、家光は小御所から戻ってきた日。
着慣れぬ束帯や冠も煩わしかったが、戻ってくると「新将軍就任祝賀」の者共が、ぎ
っしりと伏見城大手門前に伺候していた。
「な、なにも、お、俺は顔見せになど来たんじゃないわえ」
と家光は不快さを露骨に出した。
 なにしろ人に逢うのが、幼い時から大嫌いだからである。
「なれど、せっかく、京の町より参った者共にて、大御所様の頃より、この伏見城へ
よく参賀して参った衆ゆえ、ここは、まぁ、まぁ‥‥」
と、京所司代の板倉重宗が、取り持ち顔で口添えをしきりにしてみたが、
「う、う‥‥」
と唸りを発した侭、不快さを叩きつけるように、家光はまた、
「う、うるさい」
と怒鳴りつけてしまった。激しいくらいの癇性ぶりだった。額に青筋まで立て、実に
いやな表情をしてみせた。
「‥‥おとなしいと思った和子さまも、やはり三代将軍家ともなられますると、なか
なかの貫禄でござる。それでおよろしゅうござりまする」
と、脇から寄ってきた天海僧正が直垂の袖を引っ張った。
 だから家光は、その言葉に頷くなり板倉重宗など振り向きもせず、そのまま大手口
へ馬を向け、さっさと脇目もくれてやらんと、城門をくぐって中へ入ってしまうと、
ほっとした顔色で下馬した。
 しかし、これまでは上洛するにあたって、
「何事も、この春日の言う事と思い、これなる僧正の指図に従われませ」
と、つけてよこされた天海という坊主を、まこと迷惑と考え、顔が合えば家光はいつ
もその視線を避けていたものである。
 ところが、不快なところを助けだしてもらったような立場になったので、下馬する
なり初めて家光は、
「すまぬ」
と吃らずに礼を言った。
 口をきいたのは、おそらくこれが初めての事でもあろう。
「‥‥これは恐れ多い」
と坊主は頭を下げたかとおもうと、そのままの恰好で家光の耳許へ口を寄せてくるな
り、天海僧正は、
「‥‥恐れながら、やはり大広敷へこれから通られて、初めからそこに板つきにて座
られた侭、次々と参賀の者共を案内させて拝謁を許し、順ぐりに彼らを退出させたら
いかがにござりましょう」
と、早口で、低いが一息で囁いてきた。
 聞かれた方が、きょとんとさせられるくらいの素早さだった。離れている者には、
到底、私語しているとは見えぬ有様らしく、誰もが天海僧正はお辞儀をしているもの
とばかり思っているらしかった。あたりを見廻してみて、それに気づくと、この恰好
がまた家光には気に入った。
 彼は自分で喋るにも嫌いだったが、他人から話しかけられるのも、好きな方ではな
かった。だが、こういう具合にもってこられるのなら、何の障りもなく、抵抗も感じ
なかった。
「よしなにせい」
と、だから家光はすぐさま返事をしてやった。
しかしである。すぐ、
(はて‥‥?)と迷った。
(俺が参賀の者共に逢うのを厭うのは、直垂姿に笏をもって、少し猫背になって歩く
のを、よい恰好とは思えぬから、あまり他人に見られとうないからじゃが‥‥それを
天海の云うようにすれば、こちらは腰を下ろしたままで動かんと逢える。つまり不細
工な立ち振舞を人目にふらさせんですむ)
だからして、
(重畳と請け合ってしまったが、さて、あの坊主め、どうして、そないこちらの気持
ちなど、いつの間にちゃんと見抜いていたのであろうか)
と、少し呆れ気味に家光は考え込んでしまい、
「ふぅむ」
と、一人で感心しきってしまった。
 だから天海僧正に案内されて、大広敷上段のこしかけにかけるなり、離れようとす
るのを止め、慌てて自分も早口に、
「坊主も、ここにいよ」
と、家光にしては珍しく、にこっと白い歯を見せた。
 もちろんこれまで毛嫌いして、てんで口もきかなかった相手を、急に頼りにするの
を、自分でも内心照れてしまっての笑いだったが、天海僧正も、それに応えてにこっ
と頷いてくれた。
 それは、まるで、
(過ぎた事は気にせんでもよろしゅうござる)
と、言っているような、そんな感じがした。だからして、変な話だがその瞬間、
(この男、まことは俺が父親ではあるまいか)
とさえ思えたくらいに、それは肉親的な、妙に血の流れが脈打ってくる腥い感じをし
た奇妙なものだった。
 なにしろ表向きは父という事になってはいるが、秀忠に対してなどは些かも、これ
まで感じた事もないような、それは無言のうちに通じ合う何かがあるような感じ方さ
え、その瞬間にはドキリとさせられてしまった。といって、まさか、
(‥‥卒爾(そつじ)ながら、もしかすると、その方は、この身の父親ではなかろう
か?)
などとも切り出しかねた。
 だから、妙な気がしながらも家光は、じっと座って次々と一列になって腰を屈めて
入ってくる祝いの参賀者が揃うのを、心が落着かぬままに待っていた。やがて、一同
が揃ったところで、
「‥‥京、伏見、堺の者共、お祝いに参ってござりまるる。ご色代(あいさつ)名簿
(みょうぼ)、ならびに各々の献上目録は、これに」
と、板倉重宗が、ところの所司代として、家光の前に白木の三宝に白い美濃紙の綴り
をもってきて披露した。そして、それを土井甚三郎が受け取るなり、抑揚のない声で
次々と読み上げた。
「三代将軍徳川家光公よりの、お言葉ではある」
といきなり背後から声がした。言ってる方は参賀してる者に呼びかけたろうが、当人
の家光にしては、まるで自分に命令されているようで、とても鼻持ちならぬ不快さが
した。なにしろ、座って拝謁を許す事までは、天海僧正と段取りができていたが、喋
る文句までは教わってもいなかったからである。げえっと思った。眉をしかめた。
 これでも、何か云おうとするとすぐ上がってしあって、言葉がつかえ吃ったりして、
なかなか出てこない自分を知っているだけに、はたと家光は戸惑ってしまった。
 すると、その時、天海僧正が脇から寄り添うように、にじり寄ってきた。そして家
光に一礼してからが、
「‥‥上様は、馴れぬおん土地にて夏の風邪を召され、お咽喉を痛めてござる。よっ
て大手門先にて、御拝謁のご予定のところも、かくは風のこぬ大広敷に変改したわけ
である。つまり上様ご病状のご様態なれども、本日はかくも動座され特に御憐れみを
もって目見得を許されたのである‥‥かかる事は、とても関東などでは考えられもせ
ぬ仕儀ではある‥‥よって皆の者は、冥加を謹んで有難く思うがよい」
と、そな言い方を、お説教のように有難くゆっくりとした。
 その間に、やっとの事で家光も、少し落ち着きが出ていた。自分で、これなら喋れ
るとも思った。だから唾を口中に溜めて、滑りのよいようにと、そっと唇をよく舐め
まわしておいてから、坊主の話が一区切りついたところで、
「‥‥余は当地において、そちらに逢え、満足に思うぞよ」
と言ってのけた。
 そして、この分ならば、吃らずにもう少しいけそうじゃが、さて何を話せばよいの
かと思いながら、また口を開けかけようとすると、さも、
(もうよいではありませぬか)
と、坊主の表情がこちらを向いてた。止めてよいと言っていた。
(そうか)
と、せっかくはりきりかけた家光も、にやりとして止めた。まぁ無難である。
 ところが、その笑いを自分達のためにしてくれてものと、参賀の者達は勘違いをし
たらしい。
(関東の将軍家といえば、苦虫をつぶしたような恐ろしいお顔しか、お見せなさらん
もの)
と初手から思い込んでいたらしい者共は、二十歳の三代将軍の家光が片頬にえくぼを
みせ、にこりとして微笑をしてみせたのに、すっかり感激をしてしまったらしい。そ
こで周囲の侍から制止を受けながらも、てんでに、
「将軍様」「御三代様」「おめでとう存じまする」
などと、口々に嬉しそうに歓呼の声をあげた。
 はじめ家光はびっくりした。なにしろ、
(俺は人に好かれるような生まれつきではない)
と幼い時から確固たる信念をもっていたからである。
 だから面食らわされて、当初は怪訝な顔をしていた。しかし人々が自分に向けてい
る好意溢るる表情を眺めまわしていると、家光も釣られて自然と唇のあたりが綻んで
きた。そして、
(これは魂消たことではある。この身とて、所変われば品変わり、人に好かれる土地
もありしか‥‥)
まるで同郷人か何かの歓迎を受けるような温かさに、これまでの家光の頑な心地もす
うっと薄らいでいった。
 が、別に悪い気がするわけではない。つい、又ニコニコとしてしまった。そして、
何とか言ってやりたかったけれど、そうそう違った文句などは思いつかないから、
「余は満足に思ぞよ」
と繰り返してみた。心の底から突上げてくるみたいなものを感ずればこそ、家光は口
にしたのである。

「私は早口でござりまする‥‥なんせ人間というものは、頭の中で物事を考え、それ
を口先にて弁じたてるものでござりまするが、えてして脳味噌の回転の速い者は、考
えてから喋らず、同時に口の方も動かしてしまいまする。また、やはりお頭(つむ)
のよろしき方は、一つの事を口にするのに、いくつもの言葉が同時に無意識に浮かび、
よって声になされる前に選択に迷われ、つい、一つきりの言葉ではないゆえ、すうっ
と出ずに吃ってしまいがちなものにござりまする‥‥亡き大御所様もお吃りなされた
が、古来英雄と云われ頭脳優れた御方様に、お口が重いか速いかが多うござるのは、
そのわけにてござりまする」
と、自分から早口だと断るだけあって、一気呵成な話し方だった。
 その早く動きまわる天海僧正の口許を見つめながら、家光はすっかり歓んでしまっ
て、
「そ、そのようであるか」
と、慌てて言った。内心きわめて満足に重いすぎ、少し口のきき方を又焦ったからで
ある。
 これはいかぬと、間をおいて、落ち着きを取り戻してから、改めて嬉しそうに家光
は、
「そのような話は初めて聞く。いたく満足である」
と、そんな言いまわしで礼を述べた。
(いったい、春日が、自分の身代わりにつけてよこした、あの天海僧正という坊主は、
いかなる出自の者であろうか)
と、それから家光は考え込むようになった。が、まさか当人をつかまえ、
「そちゃ、どんな男なんじゃ」
とも聞きかねる。そこで家光は、やはり側近に仕えている年寄りを呼び、わざと恐い
顔をしてみせてから人払いして、
「この事は一切、他言無用ぞ」
ともったいぶって口にした。
(‥‥何事か)
と、恐れ入った年寄りは両手をついて平伏したままで、
「手前存じよりの事なら、なんなりと包み隠さず申し上げまするによって、なにとぞ
それにてご容赦下さりませ」
と、まだ何もききもしないうちから、畳に額をすりつけた。
 だから、家光は少し脅かしすぎたかなとも思い、言葉使いを改めて、
「すこし教えて欲しいんじゃが‥‥天海とか申す坊主の素性を知っているだけ云うて
みいや‥‥」
と、もちかけてみた。すると、その年寄りは何だとほっとしたように顔を上げ、
「天海僧正様ならば、奥州者で芦名氏の家門にござりまする」
と、まず言ってから、
(叡山へ十四歳で篭り、延暦寺の塔頭神蔵(じんぞう)寺の実全(じつぜん)の許で
修行。後、甲斐の国へ赴き、小田原御陣の時は、旧主家芦名盛重のために常陸の国の
信夫庄(しのぶのしょう)を領地として秀吉から貰い受け、自分は天正十七年より神
君に仕え、傍ら武蔵仙波の無量寿寺(むりょうじゅじ)の豪海に師事。その後、慶長
四年には仙波北院(のち喜多院)の住職。そして下野の宗光寺の住持も兼ねて、また
比叡山へ戻り南光坊に住み、家康様の命令によって慶長十八年にニ荒(にこう)別所
を日光山と改名し、元和二年の家康様の亡くなる前に大僧正を特に許された)
といった経歴を、ぼつぼつ喋った。
「‥‥坊主は大嫌いじゃった大御所に特に許され、しかも側近に召され使われていた
とは、これは妙である‥‥延暦寺で修行したなどというのは、事によったら、まやか
しではあるまいか」
と、その年寄りの話を、家光としては、そうそうは頭ごなしに信ずる心地にはなれな
かった。
 だが、小田原御陣の時、つまり天正十八年七月に、秀吉に目通り願って、天海が芦
名家へ領地を貰ってやった事ぐらいは、伏見城に在番の者でも、年嵩のいった者は皆
知っていた。
 とはいえ、徳川家康に仕えたのは天正十七年などという古い事ではなく、それより
二十三年後の慶長十七年の四月十九日に、当時はもう駿府にいた家康の許へ京から東
下りして、「比叡山南光坊の天海」として初めて目見得を許されたというのである。
 なにしろ薬師寺派の東光宗の方なら、これは神信心の者が変ったものゆえ、家康が
懇ろにしたというのも納得できるが、天海は信長や秀吉とは全く異教徒にすぎない延
暦寺だという。
 だからして、相手が仏徒の秀吉あたりならば、すぐにもわけなく目通りなども許さ
れようし、天海とても寄進でも貰うているものならば、頼まれて秀吉と芦名の仲立ち
もしたであろう。
 が、なんで、家康ともあろう人間が、そんな坊主に目通りを許し、あまつさえ徳川
発祥の地であるニ荒別所を日光などと改名までさせたのかという疑問がここに残る。
「‥‥まこと、おかしな噂にござりまするが、あの天海僧正様と申される御方様は、
天正十年六月十五日に六条河原で斬首されたという斎藤内蔵介様に、そっくり生き写
しの由‥‥先日ここへ慶賀に参上仕りました京の者が、たち戻りましてより、そない
噂をしてますとか、口さがない京童どもの風評にござりまするが‥‥但し、ご他言の
儀はひらにご容赦下さりませ」
と、家光の気に入りの土井甚三郎利勝が、声を忍ばせて、そっと教えにきたりした。
「ま、まさか。埒もないこと」
家光は言下に言った。苦笑をしてみせた。
 なにしろ天正十年の本能寺の変といえば、四十と一年も前の事である。当時の斎藤
内蔵介は男盛りの四十七ときくから、もし存命ならば八十八歳の高齢である。それに
しては天海は血色もよく、六十代のようにしか見られない。
 しかし念のため、何食わぬ顔つきで、その翌日のこと、天海と顔を合わすなり、
「して、御坊は何歳にはなる?」
と、まったく他意ないような顔つきで尋ねてみた。
 すると白い眉毛をつきだすように、ぴょこんと立てた老僧は、
「もうかれこれ百、いや九十にはなりましょうか。なんせ長く生きすぎましてござり
まする。これも煩悩のせいか、前世の業にて有りつるものと心得まする」
と、いと平然とこたえた。
 しかし九十に近いときくと、家光はぐらっと胸に込み上げるものを感じた。といっ
て天海が思ったより年寄りなので、劬(いたわ)りの感慨を抱いたというのではない。
事によったら、
(斎藤内蔵介とかいう信長殺しの発頭人と同じ人間ではなかろうか‥‥年格好の勘定
が合うが‥‥)
という、危惧にも似た怖れであった。そこで家光は、天海には何も尋ねはせず、又ぞ
ろ土井甚三郎を呼ぶと、密かに手分けさせ、自分の生れたという慶長九年の七月から
遡って、その十月十日前にあたる慶長八年九月前後の、この天海の足取りを、あたら
せてみた。
 すると、
「その頃は、もはや関東の下野から延暦寺に入って、琵琶湖に面した比叡山の塔頭に
いられた」
という説もあったし、
「いや、まだ関東にござった」とか、
「京の何とかいう寺におったのだ」
と、諸説紛紛としてとりとめもなかった。だから土井甚三郎も当惑げに、すっかり自
分も難儀しきった顔をして、
「てんで、皆目、なにが何やら判りませぬ」
と匙をなげたような報告をなし、
「おかしな風評ではございますが『天海僧正は、明智光秀のなれの果て』というよう
な取り沙汰さえ、延暦寺の坊主共には弘まっておりまするそうな‥‥なんせ信長とい
う一は、叡山や高野山を『仏徒は不倶戴天の仇』と焼き討ちし、皆殺しにまでなされ
たお人‥‥よって延暦寺においては仏敵の信長を倒され仏果のある功徳のある人物ゆ
え、御仏の加護をもって、ずうっと匿っていなされたのじゃ、などと密かにそない云
うてもおりまするが」
とも、声をひそめて囁きかけるようにも報告をした。
だから家光は呆れ返ってしまい、
「まこと埒もない事どもを‥‥色んなふうに申すものではあるな」
とわざと難しい顔をしてみせたが、内心では悲鳴をあげたい程に困惑しきっていた。
 斎藤内蔵介とかいうのが天海ならば、これは春日局を名乗る於福の父であり、明智
光秀となると、斎藤内蔵介の主人という事になってくる。共に天正十年六月二日の本
能寺の変に関係があるどころか、内蔵介なら、「謀叛随一」という信長殺しの首謀者
であるし、光秀にいたっては内蔵介の主人であるという建前から、六月二日以後は事
態収拾のために、畏きあたりから沙汰されて、俗に「明智三日天下」と、征夷大将軍
の宣旨さえ賜ったと云われさえした男である。
「‥‥そない信長殺しと、この徳川家光が、なんで今になって、一つに結びつかねば
ならんのじゃろうか」
と、全く混乱しきってしまう。そして、家光は、自分が生れるよりも二十年も前に起
きた織田信長殺しには、さほど関心はもたないが、幼い時から身近にいる春日局とい
う者と、この天海僧正との繋がりには何かしら引っ掛るものを感ぜざるを得ない。
「だが‥‥天海僧正の前身が、あの春日局の親爺の斎藤内蔵介という事はあるまい」
とは、まず思う。家光だって二十歳ともなれば、男女の途ぐらいはよく判る。どうも
父娘にしては些か腥(なまぐさ)いものが二人の間にはありすぎ、それが今も漂って
いそうな気がするのである。なにしろ、それは勘違いかもしれないが、家光の立場か
らすれば、この二人は親身というか、どうも押しつけがましい程に気を遣ってくれす
ぎる。時には煩わしいくらいにも感ずる。
「他人や家来なら、そこまではするものではない‥‥ありゃまこと不審じゃのう」
と、家光は考える。不思議でならない。
 だから、天海僧正の前身が明智光秀であれ、奥州の芦名の一族であれ、そんな事は
構ったことはないが、この方の引っ掛りは困る。伏見城在番の土地に馴染んだ者を又
呼び寄せ、くどいとは思ったが、
「極秘の事ではあるが、何とかして慶長八、九年頃の、あの天海僧正の足取りを探索
せいや」
と繰り返して言いつけ、三代将軍になったばかりの家光は、重々しく声を落して、
「これは天下の大事である」
と云い添え、何とかして努力させようと励ましをしたものである。
 しかし、なんといっても京には洛中洛北とも寺院は多すぎた。それに今と違って二
十年前の、まだ無名だった天海の消息などは、いかんせんはっきりとはつかみ出しよ
うもなかった。
 しかし家光は根気よく倦きずに調べさせ、
「なんとか探り出すがよいぞ」
と、命じた者達を督励し続けた。
 というのは、妄想かもしれないが、何といっても自分の生れる一年前に、この天海
がきわめて身近にいたような気がしてならなかったせいである。
 そして、それは奇妙な連想という他はないが、この天海僧正が金襴の頭布冠(とき
んかぶり)をとって、しみのついた赤黒いてかてか頭の地肌を、何かの拍子に露出し
て見せた時、家光は、
「あっ‥‥これは、これではないか」
と、思わず自分の股間へ手をやって己れの物を握り締めてしまったくらいである。
 つまり、その突出した赤黒い肉体の一部を眺めてしまった途端、家光は、今は老い
さらばえて枯れたような天海僧正だが、二十年前には、まだ逞しく隆起していただろ
うものを、そこに感じたのである。しかも、それは自分という者をこの世へ作り出し
た巨大な擂粉木(すりこぎ)としてであった。
 もちろん家光は、自分でもその発想は奇異に思った。あわててしまった。
(‥‥まさか、俺の父親が、こない坊主というわけはあるまいて)
と、無言のまま否定はした。

<『春日局こと阿福が京でただ一人選抜されて東下りしてきて千代田へ来た』という
は講談で、京の伏見城でお産をし、授乳しつつ江戸城へ下ってきたのが本当のところ
だろう。
『天海僧正こそ、生きていた明智光秀なり』といった話は、いかにも謎に満ちた上野
寛永寺の開祖らしいが、信長殺しが明智光秀とする通説は、『敵は本能寺にあり』の
頼山陽の詩が広まったせいのごとくに一般では思われている。
 しかし、実際は江戸時代に各地にひろめられたのは、講話と称する一向宗の浄土真
宗によってである。 というのは、今日の浪花節の原典のチョボクレ祭文が、『サイ
モン語り』と呼ばれた説教節とされているが、その台詞の種本は『松平記』の中の
『石山退去録』である。
 紀州雑賀の鈴木孫市の伜豊若丸が、ずっと篭城している父に逢いにいくと、明智光
秀の詰所で見咎められ捕えられる。そして幼い豊若丸は光秀に苛めさいなまれる。
 やがて悪鬼のごとき光秀より仏に救われて助かり、無事に父孫市と対面するが、仏
罰で信長は殺され、明智光秀も主殺しの罪で地獄へ落ちて因果応報‥‥これを村から
村へ触れ廻ったのが通説の起こりであるらしい。>


川越喜多院

「ここだ。ここに、惹かれる匂いがある」
と、本丸の端になっている作り書院のようなところまで降りていくと、家光は、ひく
ひく小鼻を動かした。
 白いうつぎの花が叢の中に、丁度時季らしく、桔梗にも似た五輪の花を房のように
咲かせていた。その甘い花の香りに、ともすれば迷わされそうにもなるが、確かにそ
の建物の材質には何かがうっすらと嗅げた。建物の横には小さな御小屋(おこや)が
あった。
 しかし、家光が渡り廊下をよじ登って行くと、なんの変哲もない、それは後架(は
ばかり)だった。離れた個所に出張った恰好で突出しになっていた。だが今では何人
も用いていないらしく、簀(す)の子に並べてある竹束も、黄ばむどころか、古ぼけ
て黒ずんでいた。そして、かさかさに乾き切っていた。うかつに踏もうものなら、音
もなく脆く崩れそうにも見えた。
「‥‥なんだ。匂うも道理。便所の古びたのが、くっついていたのか」
がっかりさせられた。謎解きした莫迦らしさに、すっかり気落ちしてしまった。
 家光は仕方なくうずくまった。濡れ縁の上から見廻すと、後架の向こうには、昔は
肥やしがきいていたのか、牡丹刷毛のような桃色の花を覗かせて合歓の樹が、羊歯の
ような細長い葉を密生させていた。そして、樹の幹にとまってでもいるのか、蝉がジ
ンジン鳴いていた。
「犬ではあるまいし、おりゃ何で、小便の古い匂いになど憑かれたのじゃろ。あの天
海僧正めは、早口や吃音の者は脳味噌が良いと申しおったが、あれはお世辞か、それ
とも坊主の世界の事だけで、俗世間には通用せんのかもしれん」
と考え、自分でも家光は(情けなや)と思った。がっかりした。
 しかし、そのくせ莫迦々々しいから、立ち戻ろうとしても、妙に身体が落着いてし
まっていた。
「こりゃ、妙じゃのう。痺れがきたのか‥‥」
と手足を動かしてみれば、そうでもない。なのに脚がつったみたいに動かせもできぬ。
後ろ髪を引かれるみたいに憶劫さが感じる。
「何もないのに去りがたい風情とは何じゃ」
だから(おかしい)とは自分でも思った。首を傾げながら書院の中を覗いた。
赤茶けた縁なし畳が波うって見えるだけで、別に何の変哲もない西日のさす居間であ
る。見廻しても壁にも天井にも何一つない。ただあっけらかんとした八畳の陰気な感
じ。
「つまらん‥‥」
一人だから吃らずに呟いた。
まったく何という事もないのである。だから、
「よっしゃ」
と、たち戻ろうとしたが、そのくせ、たたらでも踏むように動きがとれずに家光は迷
ってしまい、
「‥‥はて、なぜじゃろ」
と不審がった。
 丁度そんな時、
「上様」
と声がした。家光はすっかり狼狽しきった。
「な、なんじゃい」
と返事はしたものの、恥ずかしいところを誤って覗かれてしまい、面食らったように
慌てふためいた。が、相手が天海僧正と判るとほっとした。
 しかし、相手の天海の方は家光とは反対に驚いていた。
(どうしてここへ‥‥?)
と、そんな表情をしていた。
 が、そんな顔をされたとて致し方もない。
といって何か言わない事には体裁が悪いから、この場の始末をつけようと考え、
「気にいった。この建物を江戸城へ運べや」
と、そんな口のききかたで家光は命令した。
「はぁ‥‥」
と天海は言ったが蒼くなった。どうして顔色を変えるのかと気になった。
当惑しているのは隠しようもなく、
「江戸城にては、恐れ入りますによって」
と、すぐ口にした。だから家光にすれば、
(なぜ江戸城へ持ち込むのは憚りがあるか)
いぶかしく感じもしたし、変だった。
 だが、それを老僧に問い詰めるには、自分が何という事はなしに心惹かれ、こんな
奥まった後架づきの所まで一人でやって来てしまったのか、それを言わねばならぬよ
うな気がした。
 だが、その自分の行動が他人にああだ、こうだと説明できるくらいなら、困りはし
なかったが、それはできぬ相談だった。家光も狼狽しきった。
 なにしろ、さて改まってとなると、なんとも口にしようにもなかった。まさか家光
としては、
(何かこう、粘っこい血の匂いみたいなものに魅入られてしまい、それで憑かれたよ
うに毎日のごとく、古い本丸の中をほっつき廻っていたところ、やっと、勘でここら
しいと嗅ぎ当てはしたものの、何の事はない陰気な仄暗い居間だった。しかも匂いと
いえば、古くなって塩をふいている厠がついているせいだった)
などとは、とても気恥ずかしくて言い出せもしなかったのである。
 だからして、見つかった天海僧正から、家光は何かと聞かれたくはなかったから、
自分の方も口をつぐんでしまい、話は避けてしまった。
 とはいうものの、それは薄ぼんやりした勘ではあるが、
(自分が伏見城で産まれ、京が故郷であるらしい)
という事は、どうも朧気ながら判っていたらしい。
 もちろん土井利勝の他に、のち若州小浜(おばま)の領主に昇進する酒井忠勝など
をそっと督励して、天海僧正の素性を洗わせていたので、その線からも、これは内密
に割り出せるかもしれないが、「懐郷」の念は強かったようである。だからして家光
は、二十歳の時に上洛した後も、何度も京へ行っている。
 もちろん、自分の出生の謎を探り出そうという、そんな悲願もあっても事であろう
が、京を生れた土地として愛し「誰か故郷を思わざる」という心境もあったらしい。
夥しい金銀をもっていては、これをくまなく配布している。なにしろ、寛永十一年七
月十一日の上洛の時などは、
「銀十二万枚を京の町々へ軒並み、みな公平にと下しおかれ、これ一戸あたりにては、
百三十四匁八分ニ厘なり」というくらいの豪華さである。現在の換算でいくと、一軒
あたり三万円弱にもあたる。
 国家主権者というのは、いつの時代何処の国でも、彼らは人民から重税を巻き上げ
るもので、家光のように自分からもっていって、それを配給するというのは珍しい。
おそらく彼の体内の血の流れが、そうさせたのではあるまいか。俗間でいう「故郷に
錦をかざる」という類であろうか。
 東京の山手線の池袋から東上線に乗ると四十分で川越駅につく。そこからバスに乗
ると「喜多院」の門前へ出る。大宮や浦和からも直通バスがある。
 ここが天海僧正の復興した、昔の「仙波北院」で、現在の「川越大師の喜多院」な
のである。
 元和二年に徳川家康が亡くなって翌年、その遺骨を駿河の久能山から日光へ移すと
き、天海僧正は、この自分の寺に四日間もとどめて大法要を営んだという。
 寛永十五年(1638)一月二十八日の川越大火のため、喜多院も厄にあって、山
門・経蔵・鐘楼門・本堂(現在は上野寛永寺本堂)の他は灰塵に帰した。
 しかし、春日局の命令によって、家光は堀田加賀守正盛を工事奉行にして、新たに
東照宮、多宝塔を新築させ、江戸城内の客殿や書院、庫裡(くり)なども、ここへ移
した。今日、徳川家康が江戸城を作った時の書院作りの建物で、現存している建築物
はこれだけであるというので「国宝建造物」に指定された事もある。
 前方後円式の古墳の上に、徳川家光の発願で建てられたという開山堂は、別名を
「慈眼堂」ともいい、家光が自分から天海僧正の像を刻ませ、それを、ここへ祀らせ
たものだという。
 そして、家光の世子の四代将軍家綱は、寺領五百石のこの喜多院に、更に二百石の
加増寄進までしている。どうして天海僧正に、家光の子までが、そこまで追慕の念を
示さねばならないのだろうか。
 なにしろ「徳川実紀」「柳営婦女伝」「編年集成」など、あらゆる徳川資料では、
「寛永二十年九月十四日、春日局  歿
 同    十月一日  天海僧正 歿」
と、半月ずらしてあるものの、まるで二人が手に手をとって死んでいったような記載
をしている。
 そして、家光は慶安元年四月には、天海僧正のために「慈眼大師」という謚名まで、
朝廷に乞うている。だから家光というのは、天海によって仏教に帰依していたのかと
いうと、そうでもないらしい。おかしな事になっている。

<仏教と公家の連携を弾圧し取り締まる為、徳川家康が発布した『公家法度』に背い
て、当時の後水尾帝が、柴野の大徳寺や花園の妙心寺の僧侶に、紫衣や上人号を勅許
された事を取り調べる為に、元和九年に秀忠と共に上洛した時は、家光は三代将軍の
宣下を受けたばかりで引上げた。
 だが、三年後の寛永三年の六月二十日になると、先に秀忠が上洛し、八月二日には
家光も将軍職として京へ行き、それまで下賜されていた紫衣や上人号を一斉に取り上
げ、無効であると厳しく弾圧している。そして、文句を言ったり抗議した大徳寺の沢
庵和尚らは出羽の上山などに流されてしまっている。
 こうした処置をみると、徳川家光というのは、天海僧正だけは大切にしているが、
他の坊主には冷たい。もし仏教に入信しているものなら、『坊主憎けりゃ、袈裟まで
憎い』の反対で、天海以外の僧侶に対しても、もっと温かくあるべきで、これは、ど
うも信仰上というより、個人的なものとしか受け取れない。
 寛永二十年(1643)に春日局と天海僧正の二人は、半月遅れで共に他界したよ
うになっているから、時に天海は歿年百八歳という事になり、春日局より四十三歳の
年長という事にされている。
 しかし、平均年齢の延びた現代でさえ、百歳以上の高齢者というのは僅かしかいな
い。
 百八歳などというのは、現在の八億の世界人口のうちでも、コーカサス地方に百五
歳と百七歳の二人しかいないと報道されている。そんな何十億分の一というような長
寿者が、医学も進歩していなく、生活環境も恵まれていなかった十七世紀に現実にい
たとは思えない。
 つまり天海僧正というのは、これは『虚妄』以外の何ものでもない。
後世、『山崎合戦の後、叡山に隠れ、秀吉の死後に下山せし明智光秀は、神君家康公
の御憐慈により保護され、その名を南光坊(天海)と改めて御側近うに仕え、軍議そ
の他の御相談ごとに預かり、世に黒衣の軍師ともいう。
 三代将軍家光公におかせられても、春日局と南光坊をば敬われ大切に遇されるによ
って、寛永丁丑(1637)に島原に一揆の起こりたるや、大久保彦左衛門は直ちに
登城し、(この度の征伐の討手の大将と目代は、春日局と南光坊が仰せつけられるも
のと覚えたり)と、殿中大広間にて諸大名に云う。耳するもの驚きて(戦さをしてゆ
くのに、その大将と戦さ目付が、女人や僧侶にて叶うまじ)と申せば、彦左衛門はか
らからとうち笑い、(かかる大事の際には、平素より格別のお扱いを蒙って居らぬ者
にては、とても物の用に立ちうべしとも思われじ、されば、上様より大切に遇されて
いるは、この両名以外に天下に有らざればなり)と答えぬ』
といったような『大久保物語』の中にある記述からして、
『光秀と天海は同一人物なり』という俗説が弘まった結果、明智光秀の年齢にも合致
するように、天海僧正の歿年を作ったので、百八歳などという高年齢になったのでは
あるまいか。
 でなければ、『めでたやな、めでたやな、三浦の大介、百八つ』という、唱門師
(しょうもじ)の『長寿延年唄』ぐらいにしか、日本では現れてこない百八歳という
特定年齢が、とってつけたように天海につく筈もない。>