1113 謀殺 13

 そんな矢先だった。
シャモロ国(現在のタイ)から海を渡って国使が遥々訪れてきた。
ナプラという名前の向こうの大王からだという。だが、それよりも、もっと評判にな
ったのは、通弁として随行してきた者が日本人で、作州牢人伊藤久太夫と自分で名乗
り、その伊藤の主人というのが、向こうで六昆(リーゴル)国王をしている山田仁左
衛門長政という、やはり日本人だという事であった。
 公儀あてに山田長政からの進物も持ってきた。それは、刀の鞘を包むのに珍重され
ていた鮫皮で、しかも日本では見られぬような、畳を縦に二枚つないだ程もある立派
な大きな物だった。
 それに硝石を一粒も生産しない日本では、噂だけで、まだ誰も見た事もない新開発
のチリー硝石による新黒色火薬の煙硝二百斤がそれには添えられていた。
(かほど高価な貴重なものを贈ってくるからには、山田長政というのは、向こうの国
王に立身している話も間違いあるまい)
と、すっかり城内でも大評判になった。
 これは定めし、過ぐる年の大坂御陣で戦に利なく、海外へ姿を匿した名のある武将
の変名でもあろうと、老中の土井甚三郎利勝が、その伊藤久太夫に聞き出したところ、
そのような著名な武将ではない、との事で、ただ、
「もと三河西尾の本多家へ奉公した事がある」
という事だけが判明した。そこで老中から、すぐさま本多家へ問い合わせを出したと
ころ、なかなか身許が判明せず、国表まで早打ちを出して照会してから、やっとの事
で、
「‥‥その者は、大坂御陣の前に新規召し抱えの駕担ぎの小者にて、合戦後消息知れ
ず、よって流れ玉にでもあたりて死亡と存じより、駿河藁科の在所の親許へは、その
旨を沙汰済みにて候」
と回答がきた。
 念のために駿河奉行にも、土井甚三郎が早馬で、その真偽を確かめさせたところ、
「仁左衛門紺屋というのが生家にて、当地出身に間違いこれなく」
と返事がもたらされた。
 そこで、「‥‥この日本にいた時は駕かき人足でも、異国へ渡れば王侯になれる」
と、すっかり大評版をとった。大奥の女達の間でも、山田長政の話はもちきりになっ
た。だから御台所が、
「是非とも、異国の話など説問したし」
と申し出られたところ、
「ご退屈しのぎに、では伊藤久太夫めをお呼び仕りましょう」
と、土井甚三郎利勝が取持役となって、これまでは男子禁制の大奥ではあるが、今回
に限って特例というお沙汰になった。
 そこで、「御広敷御門」から、丸腰のまま久太夫が招き入れられ、特に「御容座敷」
の八間続きの襖紙が外され、そこで話が始まる事になった。
 御上段に簾を吊るし、その中へ御台所も出られたから、国松も随行して、その側に
座った。
 物珍しさに家光も来たかったであろうが、何分とも御台所の催しにつき、春日局が
止めさせたのか、姿を見せなかった。向こう付の女中衆も、一人もその席へは現れな
かった。だから国松としては、久しぶりに満足感というか、のうのうとした心地にな
れた。
 伊藤久太夫は、畳一枚ほどの大きな絵図面を広げて、まず説明にかかった。
「当シャモロ国は、今はアユタヤに都があり、総国王のナプラ陛下が統治され、カン
ボジア、ラオス、安南(ベトナム)も、その藩屏にござりまする」
と、大きな国を指差して話しだした。
 なんでも海南島に面した海岸沿いの安南(ベトナム)の細長い地域なので、流れつ
いた日本の落武者が各地に住みついて部落を作り、傭われて外人部隊をこしらえてい
るという事だった。
 山間地区のラオスから、ラオコー山を越えて攻め込んでくる北部の来襲を防いだ手
柄をかわれ、山田長政は牢人衆を率いて、ダナンからシヨロン代官になり、ついに国
の大王の娘を貰って姫となし、今はリーゴルの王にもなっていると、まず己れの主人
の山田長政の事を説明してから、
「この自分とても家老職ではありまするが、十五万石ほどの領主にしていただいてお
りまする」
と、久太夫は己れの知行の事を話してから、
「当地であぶれておりまする者を、このたびの帰国では、ぜひとも召し抱えていきた
い所存でありまする」
と、そんな抱負も洩らしたりした。そして、
「むこうの若い者らは、やはりこちらの色の白い嫁ごを欲しがっておりまするゆえ、
海原を越えむこうへ渡りたいお女中衆がござれば手前が一緒にお連れもうしまする」
とも侍女達を笑わせた。
 なにしろ、生れて初めて聴いた珍奇な異国の話である。十六歳の少年はすっかりも
う興奮した。
(駕かき風情の下賎の者でも、一国の王になれるなら、この自分ならば総国王になれ
るかもしれん)
と、それでなくても妄想癖のある国松は夢中になった。そして、
(もし、この国松がシャモロの向こうの総国王になれたならば、この国の三代将軍に
家光がなったとしても、おりゃ見返してやれるわい)
と、しきりに考え込んで口中で呟いていた。
 というのは、なにしろ従二位様になってからの家光は、少し背を屈めて、吃りがち
のしわがれ声を出すところなど、まだ十七だというのに背後から眺めなどすると、先
年なくなった東照権現そっくりで、実に気味が悪いくらいである。だから、
(いつ仕返しをされるか)
と、びくびくものの国松にしてみれば、この江戸城を脱出し、日本からも飛び出して
しまうには、
(これは願ってもない好機到来‥‥)
と考えたのも、また無理からぬ仕儀ではあった。
 翌日、早速にも御台所様の控え間へ行くと、お付上臈に、国松は張り切って、
「なにとぞ改まっての御願いの儀が‥‥」
と取りつぎをしてもらった。
「いかがしやった。仰々しく願いなどとは‥‥」
と江与の方が逢ってくれるなり、すぐさま国松は両手をつき畏まって、
「‥‥昨日の伊藤久太夫めが、当地より新たに若者を召し抱えてゆく旨を、申し居り
ましたゆえ、まげて、手前も安南(ベトナム)へ遣っていただきとうござりまるる」
と頼んでみた。勿論、
(この国松の願いなら聞き届けてもらえよう)
と思った。なのに御台所は険しい目つきをしてみせ、
「‥‥将軍家御世子の選にはもれたとて、家光になんぞあれば、代わって徳川将軍家
の職を継ぎ、武門の棟梁ともならねばならぬ身が、はしたなき流れ者が落ちてゆく異
国へなど出向したいとは何たる言い草。冗談(てんごう)とは申せ、許しませぬぞ‥
‥情けないうつけた事など申すものではないわえ」
と叱った。
 びっくりしたのは国松である。いつも優しくしてくれる御台所から、こんな落雷の
ような凄まじさでガンガン怒鳴りつけられたのは初めての体験である。だからワアッ
と泣き出して、その場を取り繕おうかとも考えたが、もう十六になっていては、ちょ
っと手放しでは泣き声も出せなかった。
 だから困ってしまって、どうしようかと畳に眼をしていると、
「‥‥見も知らぬ海の彼方まで、流れ流れてさすらいの旅に出て、異国の涯に身を沈
めようとは‥‥あまりといえば不愍のいたり。済まぬ。皆この身の力の足らぬところ
‥‥許してたも‥‥」
と国松の代りに御台所の方が、いつとはなく滂沱と泪を流し、おいおい大声で泣き出
してくれた。
(女ごとは、こないな年になっても平気で泣けて羨ましや‥‥)
と国松は感じ入って見物していた。
 しかし、この事が契機になって江与が秀忠を責めたのか、京から火急に位記が少年
にも伝達されてきた。それは、
「従四位下参議兼右近衛権中将(けんうこんのえごんのちゅうじょう)」という官位
であった。そして日付は一年前に遡って、家光が従二位(正三位という記載もある)
に叙せられたのと同じ日付にしてあった。
「よかったのう。そちも家光と同日の任官じゃえ」
と、江与の方は心から嬉しそうに祝ってくれた。そして、すぐさま元服の儀式を設け
られた。
 しかし、国松という名が改められて、「松平忠長」という、いかめしいものに変え
られ、これが秀忠の命名と判ると、
(属にされる松平姓を、我が子の国松に付けなされるとは‥‥)
と、江与は夫の仕打ちに眼をむいた。
 当人の国松も、
(おりゃア、やっぱしシャモロ国なり何処ぞ遠いところへ、去(い)んでしまいたい
んじゃ」
と、あまり嬉しそうでもなくぶつくさふてくされていた。彼の瞼の中には、真っ青な
大きな海原が波打ち、そこにだけ妄想できる愉しさが、果てしなく展開されていそう
な気がしたからである。

<伊藤久太夫が山田長政よりの進物として届けてきた新硝石とは、スペインがチリー
鉱山から開発したもので、日本では織田信長のいた本能寺や、信忠の逃げ込んだ二条
城を爆発させるのに、ヴァリアーニ師父が斎藤内蔵介へ提供したというもので、日本
へは輸入が止められていたもの。
 伊達政宗が月夜野浦から支倉常長を出帆させたのも、実際はチリー硝石入手の為だ
った。
 しかし、スペインもポルトガルも、ヨーロッパでは売れなくなった旧硝石をさばく
マーケットとして日本を確保しておく為か、信長殺しに加担したのを隠す目的か、支
倉一行もついに無為に戻ってきたが、日本へ公式に届けられたのは、この時が初めて
である。
 今の東京汐留のお浜離宮のところで海上の目標に向け、チリー硝石の黒色火薬の試
射をさせたところ、その効果の凄まじさに驚かされた。この結果が、日本では硝石は
鉱石としては一片も産出せぬ国情から、いわゆる寛永の鎖国令が敷かれた。そして、
徳川家のみの長崎出島でも独占輸入が続き泰平が保てた。
 が、幕末になってフランスから新硝石を得た薩州や、上海英国[フリーメイソン系?
]から入手の長州土州によって、代々溜めこんでいた硝石では湿気で不発が多く戦え
ず、鳥羽伏見で慶喜は負け逃げ戻った。>



                伏見城幻影

血の焼ける匂い

 元和九年(1623)の六月。
二十歳を迎えた徳川家光は、秀忠と共に上洛するなり伏見城に陣取った。
 といって、別に京見物などに来たり成人式に参列するわけのものでもなかった。な
にしろ秀忠が、
「‥‥よう見習っておくがよい」
といって、京所司代の板倉重宗を呼びつけるなり、
「かねて江戸表より申しつけてある『公家法度』に違背の者共の調べは、手抜かりな
くしてあろうか」
と厳しい表情をみせたりして、家光は遊ぶどころではなく、ただ畏まっていたきりの
みである。
 ----この「公家法度」というのは、まるで親類づきあいのように、公卿衆や親王様
がすぐ寺院と結び付き、互いに交流し合って武門に離反されるのを防ぐ目的をもって、
公家が禁中の勅許をもって、坊主共に「上人(しょうにん)」の称号や紫の衣など下
賜されてはならない。これには必ず徳川家の裁可を必要とするという、いわば「仏徒
弾圧」の法律なのであった。
 つまり神信心の徒として、仏僧から散々に苛め抜かれてきた徳川家康が、その宗門
の仇を討つというか、千余年虐げられてきた民族精神の現れなのか、仏教勢力と禁中
が提携するのを厳しく戒律を設けて取り締まった法度なのである。
「‥‥大御所様は亡くなられたが、徳川の家にあっては、この仏徒折伏こそ、何とし
ても揺るがせにはできぬ大事である‥‥代々のお世継ぎでない親王は、みな各寺へ入
って法燈をを継がれ、これが連枝となって京を取り巻き、ともすれば謀叛気を起こし
て、天下の変を謀(たく)らまぬでもない‥‥用心せねばなるまいて」
と懇々と、家光は秀忠から言い聞かされた。
 しかし、京所司代の板倉重宗は東光派の薬師寺にいて還俗した勝重の伜だけに、
「この京を取巻く西方極楽浄土を唱える西方仏教の売僧(まいす)どもの所業は、全
く目に余るものがあり、われら東光の宗徒はもともとが神徒ゆえ、一網打尽にひっと
らえて坊主首を、乾し柿のように串刺しにしとうはござりまするが‥‥なんせ、禁中
へお輿入れなされましたる姫が、このたび中宮様になられましたばかりのところ‥‥
捕縛して坊主や青公卿の首をはねてしまうは、いつ何時でもこの重宗めが致しまする
によって‥‥今回はまず穏便になされませ」
と、処罰するのをおし止めてしまい、
「いっそ、この際は、禁中や公卿、それに京を取巻く洛中洛北の寺々の坊主共に油断
をさせるためにも‥‥これなる家光公が二十歳にならせ給うのを奇貨とし‥‥思い切
って畏きあたりより、節刀を賜る儀式などを致されては如何でござりましょうか」と
提案をした。
「うむ‥‥」
と秀忠はうなった。そして、
「この家光を今回共に伴って参ったのは、将軍家をこれに譲り、余が亡き大御所様の
如く後見する考えは、もとよりあった。よって、征夷大将軍の宣下を受けてもよいよ
う、この家光の衣冠束帯など一式も荷拵えして持ってはきているが‥‥やはり、この
我らの上洛を、そのように切り替えてしまった方が、上策であろうかのう」
と相談するような口調で下問した。
「仰せられまでもないこと‥‥このたびの御上洛の趣旨が『公家法度』に違反せし延
暦寺や高野山の坊主共の摘発。それに紫衣などの取り持ちをなしたる公卿共へのお手
入れと、はっきりしますると、窮鼠かえって猫を噛むの譬もあり、彼らは彼らなりに
何の陰謀を企てるやもしれませぬ‥‥それよりは、まだ何知らぬ顔で泳がしておき、
大魚を含めて一網打尽に召捕り、始末するが賢明な策‥‥よって今回は莫迦になられ
て恭しく『将軍職跡目譲りの為の上洛』という名目になされませ」
と板倉重宗は両手を前についたまま諌言し、噛んで含めるように懇々と云うと、
「それもそうじゃのう‥‥宗派違いのその方に、京の坊主や公卿を見張らせておけば、
こりゃ間違いのないこと‥‥実が熟したら、一存で竹竿をふるって、みな叩き落して
処分せいやい」
と、大きく合点をしてから、
「‥‥では、すぐさま御所において、節刀賜与の儀式がやって頂けるよう、早ようそ
の手配りなどせい」
と秀忠は言いつけた。
 月が変わって七月一日。宮中へ伺候した徳川家光は、徳川三代目の征夷大将軍の宣
下を、畏きあたりより賜り慎んで節刀をお受けした。

 皮膚の感覚というのだろうか。伏見城へ入ってから、家光はしきりに肌にねばっこ
いものを感じた。秀忠と違って多忙でなかったせいもあるが、それは、まるで夢の中
で荒野を漂泊して歩いているものが、やっと人家の灯を見つけて近寄ってゆくような、
そんな思いだった。
 まこと、奇妙な譬かもしれないが。だが家光にはぴったりした感じだった。
「‥‥ここのお城は、去る慶長五年六月十八日。亡くなられた大御所様が、上杉景勝
を討つ会津征伐に出陣された後、七月十九日、東門より宇喜田秀家、東北櫓よりは小
早川秀秋、西門より毛利秀元、西北櫓より島津義弘と第一回の攻撃を受け、その後、
二十六日、二十九日、三十日、八月一日と西軍全部の総攻撃を、鳥居元忠以下千八百
人が、必死になって食い止め、一人残らずここを守って討死したのでござる‥‥よっ
て、大御所様も、忠義の者が皆命を棄てて守った城を、いくら、あらかた半ば灰塵に
帰したとはいえ、そのままで放っておいては死んだ者も浮かばれまいと、よって焼け
落ちた西の丸、三の丸、名護屋丸をまた普請なされましたのでござりまするぞ」
と随行してきた者が、北曲輪にある戦没者の塚へ案内して、当時の凄まじかった戦ぶ
りなどを若い家光にしてきかせた。だから、
(さては、この伏見城に立ちこめている徳川の家を守護した英霊の魂が、こんなに自
分を誘いこむように、ここをこれほど身近に感じさせるのか‥‥)
とも思った。
 しかしである。だが、どうも、それとも違うようなのである。
「はて、何であろうか」
と、家光は腕を組んで考えた。
 もちろん、この城について、もっと色んな事をききたいとは思った。しかし、家光
は吃る自分の癖をよく知っているだけに、あまり他人とは口をききたがらない性分だ
った。ただ、そこで、
「うん」「うん」と、案内して廻る老臣には、判ったと頷いてやった。
 そして、その後は、自分一人でそっと伏見の城内を、まるで狗ころのように嗅ぎ廻
った。そんな言い方はおかしいかもしれない。だが家光にしてみれば初めての城であ
る。未知の廊下や居室の一つ一つなどは、近寄って行き、顔を突出し覗きこんでみる
までは、そこが何であるかも判りはしなかったのである。
 といって、何かこう目的がはっきりしていて、それで、それを探し廻るものなら、
見当をつけてという表現もあろうが、家光にしてみれば、まるで盲目の者が撫ぜ廻し
て触覚で確かめるような、そんな掌の感触に頼るような心細さしか持ってはいなかっ
たのである。
 そして家光が、なんとなく足をひかれて何度もぐるぐる歩き廻ったのは、やはり焼
け残りの本丸の建物の内部だった。
 が、なにしろ、そこは故太閤が造営させたものだから、もはや二十九年という歳月
が既にしみついていた。埃くさいような陰鬱さが、黒ずんだ柱の肌の窪みにも影をや
どしていた。
 しかも慶長五年の関ヶ原合戦の前哨戦として、そこは戦火に見舞われてさえいる。
辛うじて本丸だけは焼け残ったとはいえ、それでも当時の硝煙や火焔で燻ぶった痕が、
思いがけないような欄間の隅にまで、まるで古い傷跡のひきつれみたいに、溜まった
煤のようにさえ下からは仰ぎ見られた。
 だから廊下などは、家光が通ると、まるで柿渋でも撒いたかのように焼け跡があち
らこちらに、こぼれているように眼についたし、ひどい個所は焼板でも貼合わせ繋ぎ
留めしたかと思うように、古い燃えかすの床板が、踏むとカスカスして、その侭で残
っていた。
 なにしろ、落城したのが八月一日で、その日は西軍の小早川秀秋が、ポルトガル渡
りの火砲を城壁近くまで運びこんで、この本丸の天守閣を目標に盛んに砲弾を打ち込
んだという。
 だから、その時の南蛮砲丸があたった後でもあろうか、ぽっかり大きく口をあけた
個所には、膏薬でも貼ったみたいに別の板が補修してある。もちろんその板も二十年
からたった今では、やはり汚れて黒ずんではいるが、やはり前の材板とは異なってい
るから、そこだけは違和感がくっきりと浮き出しているようにも見え、うっかり踏も
うものなら落とし穴みたいに足をすとんと取られそうな気がする。
「硝煙の焦げ臭い匂いばかりでない。こりゃ‥‥血の匂いまで残っていそうな気がす
る」
と家光の口からは、そんな独り言さえも、つい洩れてきてしまう。
 なにしろこびりついた、古い黒ずんだ痕跡が、近くならば側へ寄って覗きもできる
が、手の届かない離れた個所では、なんだか見分けのつかないものゆえ、あちらこち
らにありすぎるからである。
「砲丸に当たって打ち砕かれた城兵の腹が裂け、臓腑がふっとんで、天井にこびりつ
いた侭、古うなって黒くなったのかもしれんな‥‥じゃで、腥(なまぐそ)う臭みが
漂っておるのか」
と、家光は伸び上がって鼻をひくつかせながら考える。
 なにしろ‥‥
この本丸の守将は鳥居元忠で、彼に従う三百五十人は、ここを文字どおり死守して、
小早川勢がもてあまして、物量作戦に出て砲弾を雷雨のように撃ちこんできても屈せ
ず、とうとう最後の一兵にいたるまで、
「関東武者の心髄をみせ、男ちゅうものがどんなものか、こちらの口ばっかり達者な
ぜいろくの、へなへなの武者に見せてくれようぞ。なんせ、ええか‥‥男は死に際が
大事じゃえ」
と頑張り抜いたというから、その時に玉砕した男共の血の昇華した余臭かもしれぬと、
家光は考えたりした。
 この伏見城というのは、落城寸前に到っても城外へ逃げ去るような気後れした者は
一人もおらず、当時、西の丸の守将であった内藤家長も、満身創痍で身動きもできぬ
自分の身体を、家来の手で望楼まで担ぎ上らせ、
「‥‥東はどっちじゃ」
と、もう見えぬ眼で尋ね、主君家康のいる方角をきくと、そちらへ向かって合掌した。
だが、家長はもう屠腹もできぬ状態なので、担がせてきた家来に向かって、砲弾煙雨
の中で、
「早う、首をうて」
と喘ぐように言いつけ、型ばかりに脇差を腹にあて、従容として死についたというく
らいの悽愴さだったというのである。
 その内藤家長から、
「後を束ねい」
と云いつかった安藤定次も力戦奮闘したが、とても及ばず、ついに西の丸へ大坂勢が
怒涛のごとく雪崩込んでくるや、
「もはや死守しがたし、では本丸へ移って、彼処を死に場所にせん」
と、生き残りの兵共を率いて、群がる大坂方の将兵の間を突き抜け、とびくる弾丸を
ものともせず、やっと本丸の馬場まで辿りついたところ、ここも既に入り込んだ大坂
方が十重二十重に包囲していて、とても囲みを破って、本丸の鳥居元忠らと合流でき
ぬと見てとると、はったとばかり睨みつけ、
「もはや、これまでなり。大坂武者に男の死に際を見せてくれよう」
と、当年とって僅か十歳の嫡男の安藤元長にも言ってきかせ、抱えるように膝の上に
伜をのせて、どだっと座り込み、連れてきた残兵どもに、
「ここへ二列になって並び、そんで槍襖を作って、関東武者の男の意地こそ見せてと
らせん」
と呼ばわり、折敷の恰好で、みな槍を前に突き立て、まるで竹薮を逆さにしたような
有様で屯集した。こうなると、なにしろ、敢死の覚悟の座り込みなので、とても突き
崩せるものでもない。
 そこで寄手の小早川秀秋もごぼう抜きのひっこぬきもできず、持て余してしまい、
「砲丸を撃ちこんでは、味方の兵を傷つける心配もある。よって火がけにせい」
と命じたのである。
 だから安藤定次父子と、それに従う家来の面々の四方には藁束や板片が、まるで土
井垣のように積み重ねられ、一斉に火をつけられた。それでも安藤隊は僅か十歳の安
藤元長でさえ、
「幼うても、男じゃえ」
と歯をくいしばって煙にまかれても堪え抜き、やがて紅蓮の焔に包みこまれ、そこで
一人ひとりが不動明王みたいに火炎を背負って散華して逝ったという。
 きっと、その時、毛髪がまずジリジリと焼け、皮膚の上から肉がじわじわと焦げて
いって、その焙り肉の断層の中の血汐が溢れこぼれ、グラグラと煮えたぎり、そして、
やがて熱い血も熔岩のように沸騰し、それが坩堝のよに逆巻き、噴き出し、凝固しだ
し、灰色の煙となって昇華。魂魄となったその妄執の血の香りが、建物の柱に吸いつ
き、欄間の瞬間から、天井や忍び返しから、武者隠しの羽目板にまで這うように流れ
込んだまま、密着して、滲みこんでいるのだろう、などと初めは家光もそんな風に解
釈をした。
 しかし、何だか、そうでないような気も、家光にはするのである。
もちろん、これまで合戦に出た事もないし、人間が焼身してゆく有様を見た事もない。
だから、人間の血が焼けてたぎって、焦げついてゆく煮こごりのような匂いなどは、
まだ嗅いだ事もない。
 強いて血の香りと思い出せば、それは十二歳の日。
自分で死に損なって春日局に見つかり、まるで、襖か明かり障子の紙の切り張りをす
るみたいに下腹を広げられて、横に一文字に甘皮だけを切り裂かれ、その血の痕を美
濃紙に手形(てぎょう)のように捺しとられた時の、あの腹を切られた時の血の香り
とも、これは異質のもののような感じもする。
「どう言ったらよいか判らんが‥‥もっと陰湿な、べたついた生々しい腥(なまぐさ)
さ‥‥俺の血だけではなく誰かの血漿も混じり合ったような、どす黒いぶよぶよした
血の塊りの匂いなんじゃ‥‥つまり火や水なんかはくぐっていない、まだ人間の体か
ら零れ落ちたばっかりの、そんな初々しい、びしょびしょした、噎せかえりそうに匂
う、まんだ液ではない血の凝固したものを感ずるな」
と、家光は思った。
 つまり、何だろうと、当人でさえもわけの判らぬ妙な気分をひたひたと味わった。
 が、あまり他人とか口をきくことを昔から好まないのが家光の性格だったから、こ
の伏見城へ来てからの、この何だか妙に心引かれる感じを口に出してまで、とても、
「‥‥さて何であろうか」
とまでは、家臣の者にも尋ねかけられはしなかった。
ただ黙々と自分で考え、そして昔の本丸の中を一人で家光は歩きまわるだけだった。