1111 謀殺 11

<これまで徳川家康が尾張へ人質になっていた、という説の傍証として扱われるもの
は、
『この時、尾張の者にて高野藤蔵といえる者あり。君御幼少にて知らぬ境にさすらい
給い、見も馴れ給わぬ田夫野人の中におわすを劬(いたわ)り、朝夕様々にいとおし
み、小鳥等参らせ慰め奉りければ、神君家康公のち御成人ありて後に、この藤蔵をば
三河へ招き出され知行を給り昵懇せしめられしとぞ』という、『参河後風土記』の中
の一節に拠っている。
 そして現代でも歴史家の中には、この書物を『良質の資料』と誤っている人が多い
が、これは、既に江戸中期において建部賢明が、その『大系図評判遮中抄』という著
作の中で、
『大系図三十巻というのを作ったのは、江州の百姓源内を主犯とする系図屋どもの贋
作であって、彼らは依頼に応じて次々と偽物の系図を作り上げたばかりではなく、そ
の他の偽本類つまり今の『中古国家治乱記』『異本難波戦記』『参河後風土記』とい
ったような、さも尤もらしいでっち上げの贋本を、このほかにも十余点あまり、やは
り依頼主の祖先の名を書き加えるために、これを写本として出している』
と、その書名の一覧表を掲げて、
『これを誤って資料扱いするような愚は、慎んで絶対に避けねばならぬ』
と、既に元禄時代に、これを注意している。
 つまり、『参河後風土記』というのは、史料のようにみせかけてはあるが、真っ赤
な偽物であると証明が三百年近い前から出されている。だから知らずに間違えて引用
するのは、これは不勉強である。
 さて、この贋物に対して、
『寛政二年戌四月差出し加藤忠三郎申上書』というのがある。これは原文の侭で転写
すると、
『一、雛人形二対。右のものは----御幼年の時、今川駿河守義元の人質となり奉迎さ
れるの時、三州田原城主、戸田弾正忠憲光(とだだんじょうすけのりみつ)の子息の
五郎が、参河の塩見坂にて奪い奉り尾張へ逃がす。織田信長は依って而して加藤図書
之助隼人佐の両人に命じ、宜敷(よろしく)養育奉る可く被仰付(おおせつけられ)。
そのため日夜御伽仕り御(おん)徒然(つれづれ)を慰め奉らむために、御前にて作
り御弄び用にと差上げ候ところの紙折りの雛人形の三対にて御座候。右御書並びに証
書類の拾壱通、梨子地(なしじ)御盃桐御紋入、陣羽織を伝来家蔵罷(まかり)在り
候』
という古文献がある。
 さて、この桐の御紋というのは、参河松平の紋章であって、徳川ではない。家康の
方は周知の如く、三つ葉葵である。
 次に、この寛政二年(1790)というのは、今日の国政調査のように、全国的に
古史料の書出しを、公儀から申し渡した当時のものである。つまり、この『加藤忠三
郎申上書』というのは、命令によって差し出されたものだから、俗説に合わせて『参
河の塩見坂で奪取』となっているが、後は信頼性がある。
 そして、この中に出てくる戸田憲光の伜の五郎というのが、のち田原城主の跡目を
継いでからは、『戸田三郎右衛門忠憲(ただのり)』という名になる。
 念のために愛知県の渥美半島の大久保のバス停の先にある田原城主の菩提寺まで調
べに行ったところ、戸田一族の墓は囲いをつけて一ヵ所に纏めてあって、忠憲の石碑
も現存していた。
 碑文によると、『慶長二年六月二十三日』となっている。
生年月日までは刻まれていないから、そこは不明だが、『人間僅か五十年、化転の内
に‥‥』と小敦盛の謡が流行した頃だから、当時の平均寿命を五十歳とみると、慶長
二年は西暦1597年だから生年は1548年つまり天文十七年という事になる。
ところが、
『幼き日の徳川家康が拐されたのは、天文十八年である』
という事になっている。
 すると、戸田五郎こと忠憲は、寿命五十歳ならば、その自分が生れる一年前に家康
を掠奪した事になるし、仮に譲歩して寿命を六十歳とみても、彼は十二歳で誘拐犯人
になった事になってしまう。
 マイナス一歳や、十二歳の少年が、付き添う家来どもを槍先で倒して、人質の家康
を塩見坂で奪うというのは、これはまるっきり反対現象で、常識では考えられもしな
い。どうにも話に無理がありすぎる。
 が、家康でなく『信康誘拐説』ならば、これは永禄三年つまり西暦1560年の出
来事なので、六十歳で死んだとみれば、戸田忠憲は当時は血気盛りの二十二歳。これ
なら父の言いつけで行列めがけて突きこんだとしても、諒解できる話の筋合いである。
そして、信康ならば、この時は二歳だから[信康は永禄二年(1559)生れ]、拐
すには、当時十九歳の青年の家康よりも[家康は天文十一年(1542)の生れとさ
れています]、この方が背負えもできるし、抱えられもする、手っ取り早く本当らし
いと思える。
 しかし、天文十八年説をとって、しかもこれを家康とみれば、既に腕白盛りの十歳
[八歳]の少年である。そんな大きな子に『紙で折り畳んだ雛人形を、玩具として献
上した』というのはどうであろうか。
 云うまでもないが、徳川家康は男だから、十歳の時もやはりそうだった筈である。
なのに、紙の『お雛様』を折ってもらって遊ぶというのでは、女児とも間違えたくな
る。おかしすぎる。
 が、岡崎三郎信康ならば、時にまだ二歳である。これくらいの齢ならば、性別はあ
ってもないに等しいから、紙のお雛様を折って遊んでもらったとしても、左程どうと
いう事もない。
 つまり江戸中期の寛政二年まで尾張熱田の加藤家に現存していた証拠物件が、『紙
で折り畳んだ人形の二対』というのであれば、これまでの日本歴史は間違いで、拐さ
れていたのは家康ではなく、後に家康によって生害させられてしまう信康の幼き日の
姿が実像という事になる。
『加藤忠三郎申上書』に『紙雛二対』とあるのも、これなら辻つまが合うというもの
である。
 そして、信康ならば、参河の松平党の跡目で、[家康とは別人の本物の]松平元康
の嫡子に相違ないから桐の紋章でも話が合う。つまり、『三つ葉葵なら徳川』で家康
かもしれないが、『桐なら松平』と、それでも判別がつくのである。
 そして、何故、こんな具合に家康と信康をすり替えてしまうような事を、徳川時代
の御用学者はやってのけたかという事になるが、これが、やはり、
『信長殺しは、誰かなのか』という決め手に結びつくのである。
 もちろん、これを偽装させるために、儒学者達が密かに御用向きを勤めたのが、家
光から、その子の家綱、そして弟の綱吉の代だった事は、これは云うまでもない。>


               国松妄想

村の鍛冶屋の娘

「さて笑止や、そない申せばのう。信康殿が二歳じゃったという、桶狭間合戦の頃な
らば、死んだ家康殿とて僅か十九歳。すると、満なら十五歳[十六歳?]で仕込まれ
た子種にもなるが‥‥信康殿の前に、姫が二人、もう先に生れていた事になっておる
でのう‥‥すると、十歳か十一歳くらいから、あの家康という人は子種を女ごへおろ
した事にはなるが、いくら色好みの強い爺様にてもあれ、まさか栴檀は双葉より芳し
で、そないな子供の時からでも、子供は作れるもんじゃろうかのう」
と、死んでしもうた舅など、もう恐くもないから、江与は含み笑いして口にしてしま
った。
「まさか、なんぼなんでも‥‥」
と、五徳もそれにつられて、ふきだすように笑いこけてしまい、
「いくらわせ(早熟)な男でも、九つや十歳で、子供に子供が作れますものか。まこ
とは‥‥信康の妹にあたる亀姫までが参河の松平蔵人元康様のお種。ずっと後の永禄
八年に生れた督姫(初婚は北条氏直、次の再嫁は池田輝政)から秀康、お前様の夫の
秀忠というのが、あの家康殿が出された子種よ」
と、はっきり区別をつけて、五徳は言ってのけると、又くすくすと忍び笑いをもらし
た。
 しかし、江与にしてみれば、笑い事ではなかった。そりゃ前から、いや、嫁いでき
た時から、
(何かしら得体の知れぬ無気味な‥‥お人じゃわいのう)
とは、そりゃ家康を見ていた。
 だが、それかといって、今ここで五徳があからさまにするように、まさか家康が二
人いて、
(松平蔵人元康と、それが改名した事になっている徳川家康は、まるっきり違う人間
である‥‥もし同一人物なら、家康は九歳から子供を作って父親になった勘定ではな
いか)
などと教えられては、すっかり頭の中が混乱してしまうだけで、江与としては、全く
動転して、言葉など続いて出るものではない。ただ、床の中で溜め息をつくだけだっ
た。
 しかし、とはいうものの、ここで聞き出さねば、又という日もなかろうと思えば、
江与は、
「もそっと詳しく教えて下されませぇ」
とせっついた。
 すると、五徳も頭巾をかぶった侭の頭を持ち上げ、にじり寄ってきて耳許へ口をつ
けて云うには、
「‥‥こりゃ、わしが生前の三郎信康殿に寝物語に教わった話。そもじゆえ教えるが、
構えて他言はしやるな‥‥どうせ、この身は長くはもたぬで差し支えないが‥‥なん
せ、娘どもに難儀がいっては、こりゃかなわぬでな」
と言葉尻も強く、そこは念を入れた。
 五徳姫のいう娘どもとは、下総古河(こが)の二万石の小笠原秀政へ嫁いでいる長
女と、その伜の許へ千姫が再婚して行ったおかげをもって自分までが立身し、今は姫
路城主に納まっている本多忠政の室である次女の事をいうのらしい。

 特に後の本多の方は、伜の平八郎忠刻(ただとき)が、千姫の夫という立場になっ
ていて、徳川家の女婿にもなっているから、その立場上、縁引でもかかってはと、そ
れを警戒しての口調のようである。
 だから江与は大きくそれに頷いてみせて、
「かまえて他言などは致しませぬゆえ、この場で承って、そのまま右の耳から入れ、
左の耳孔へと渡してしまいまするが」
と、請け合うように誓ってみせた。
「ならよいが、この尼の世迷い言から、縁づいた娘共に難儀はかけられもしませぬで
な‥‥」
と、五徳は軽く咳き込んでから、やや間をおいて息を整え、手近にあった布の端で唇
をこすり、
「‥‥三郎信康殿の父御(ててご)の松平蔵人元康様[本物の元康で、家康とは別人]
というのは、強気な御方様で、己が子を尾張へ拐されているのにもひるまず、今川義
元の先手として出陣なされるや‥‥当時えろう評判になったように大高砦へ堂々と三
段構えで兵糧入れをなさったが、肝腎な今川義元が討たれてしまっては、駿遠三の大
軍もちりぢりの有様。
 よって、ひとまず本貫地の三州岡崎城へ入られ、松平党として独立をなされたもの
の‥‥なんせ不意の出来事(しゅったいじ)ゆえ、その当時は瀬名姫と呼ばれていた
築山殿や姫御寮は駿府に、男の子の信康殿は尾張にと左右に分けられていて、当時ど
うにも身動きもつきかねる有様‥‥」
「‥‥それで?」
と、江与が話の先をせかしてみると、
「なにしろ駿河、遠江、三河の三ヶ国を一手に押さえた今川義元の急死で、その東海
地方には、まるで蜂の巣をつついたような大混乱。各地で群盗、野伏りが集団で当時
は蹶起しましたのじゃ‥‥」
「ありがちなこと」江与もそれに頷いた。
「ところが‥‥さて、遠州掛塚の鍛冶屋で服部の平太と申す者の家に集まってた者共
がいましたのじゃ」
「はて‥‥聞いた事のあるような名」
と、江与が低い声で洩らせば、尼はクスクス忍び笑いし、
「何を云うとられる‥‥その鍛冶屋の娘が、成人してから佐野(現在小笠郡)の西郷
村へ縁づき、後家になられたのが、お前様の姑、竜泉院殿ではないのかえ‥‥」
と、肩をつつかんばかりの笑い方をした。

<『泰平年表』には、
『西郷弾左衛門清員(きよかず)の養女にて、実は服部平太夫保障(やすあき)の娘
にて、竜泉院と謚し、駿府の府中に泉竜寺を建立。これに葬る。後、寛永五年七月、
従一位を贈位。宝台院と改諱す。俗名葵の方さま。西郷の局とも申し上げ、台徳院様
(徳川秀忠)、薩摩守忠吉の御生母なり』
とあり、
『徳川実紀』では、『家康公正室』と明記されてある。もちろん、鍛冶屋の平太に、
初めから、こんないかめしい名があるわけはなく、後からこしらえたものであるし、
西郷村の弾左衛門というのは、これは非違を糾す当時の役名のようなものが弾左衛門
なのである。
 つまり、小伝馬町牢屋敷の江戸の弾左衛門だけが有名で、今でも名が伝わっている
が、この時代には各地域ごとに弾左衛門を名乗る者がいた。これは別所の長吏の呼び
名で、当時の村役人にもあたっていた。
 もともと天武帝の時に輸入された唐の『御史台(ぎょしだい)』であるが、大宝令
に次ぐ延暦十一年の『弾正例八十三年』から今日の刑法のように定まり、『弾正巡察』
の制が設けられていた。
 やがて源頼朝の頃からは、この部族が逮捕権や警察権を持ったから、織田信長の父
備後守信秀などは、江州八田別所の出身ゆえ、『弾正弼(だんじょうひつ)』の官名
を貰い、求刑の論告をする所を、『弾正台』といい、後年は論難するような事をさし
て『弾劾』『糾弾』というのである。
 こうした種類の官名には、『掃部頭』もある。これは桜田門外の変で名高い井伊大
老の江州彦根の代々の世襲の名として知られているが、『宮中でお掃除をする者共の
束ね』から由来している。
 さて、『泰平年表』の記述は、鍛冶屋の平太を取り締まっている西郷村の弾左衛門
が、その長吏という身分から、平太の所の後家娘の『あおい』を自分の養女という体
裁にしてやったものらしい。
 なお、この戦国期というのは、軍事上の目的で、その命令を伝達する際に、ただの
平太や吾平だけでは、同名が多くて紛らわしいから、間違いのないようにその出身地
や居住地を名の上につけ『服部村の平太』とか『服部の平太』といったように、姓が
一般化した。つまり、これは天保期以降の博徒が、『国定村の忠次』とか『清水の次
郎長』といったように、何処々々の誰といった分類であったから、当時の正式の名乗
りは、姓と名の間に『の』が入るのが正しいようである。
 源平期などを扱った『吾妻鏡』や『源平盛衰記』の類では、はっきりと『熊谷の次
郎』とか『仁田の四郎』と、『の』の字を入れているが、儒学が隆盛になってからは、
中国風になってしまって、元禄期以降に書かれたものでは悉く『の』を抜かして棒読
みになっているから、とかく仰々しく、うっかりすると間違われやすい。
 織田信長にしても、父の織田信秀の頃までは、はっきりと、
『江州八田別所の織田の庄の出』
という肩書きのような名乗りをつけていたもので、これが幕末の博徒全盛期に入って
からは、
『手前、生国と発しまするは‥‥』
といった名乗りの自己解説の『じんぎ』に転化するのである。
 さて、『大成記』という徳川家の史料の中にも、原文の侭で引用すると、
『神君家康公は、その創業に当たらせ給いて御苦心の程まことに筆舌に尽くし難し程
なりき。さる程に、三州設楽郡長篠村まで来られてからは、その地の郷民に頼まれて
舟をもとめ、これにて遠州へひとまず戻らされ、同地の鍛冶の家に落着かせ給う。こ
の間の御辛苦、御艱難たるや、筆にも詞にもいいがたきなりき』
と、服部村の平太といった名は出てこないが、遠州の鍛冶屋といった表現で、そこの
家が、当時の家康の根拠地だったという事は、これにも明白にされている。そして、
鍛冶屋というと、『森の鍛冶屋』というポピュラー音楽が大正時代に輸入されたり、
また尋常小学校の教科書にも『村の鍛冶屋がトッテンカン』と、のんびりした描写が
あったから、つい暢気に考えてしまうが、この家康の創業期の鍛冶屋というのは、小
規模とはいえ、矢尻を作り槍の穂先を鍛えていた、当時の軍需工場なのである。
 なにも、そこの家に『あおい』と呼ぶ出戻り娘がいたから、その色香に迷って若き
日の家康が入り浸りしていたというのではない。おそらく実際はあべこべで、鍛冶屋
にどんどん武具を生産させるために、家康は、そこの出戻り娘を手なずけ、まるで、
後家になったあおいの後釜というか、入り婿のような恰好で居座って、大いに利用し
ていたものとも思える。
 こういう事は現代でも別に珍しくはない。女の縁で立身出世の土台を作るのは、今
でも利口な男の生活の智慧とされている。だから、家康がそういう処世術をとったと
しても、これまたやむを得なかったろう。
 当時の鍛冶屋の武具生産価格は、槍お穂や打ち刀までは詳細に判明していないが、
矢尻だけは、『八木[米]一升にて三個』という相場が明確に『弾左衛門資料』の中
に出ている。
 この頃は、一般に栗や稗を常食にしていた時代なので、米価は現今と違って、『お
湯殿上日記』や『鹿苑日録』によれば、今の換算率ならば、一升が約千五百位にもな
る。すると矢竹にはめる矢尻が一個で五百円の勘定である。だからして、若き日の家
康が男の貞操を当てたとしても頷けるものがある。>

「はて‥‥そういえば、夫秀忠の産土神様の五社明神も、もとは遠州佐野の西郷村か
ら移しなされたものともきく‥‥すりゃ、うちの殿の阿袋様というは、もとは遠州の
鍛冶屋どのが娘で、そこに巣食っていられたのが、若き日の家康でありしか‥‥」
と、江与もやっと納得できた。
 そこで、何気なく灯芯を細くした据え行燈に目をやると、そこには青い羽虫が何処
から迷いこんできたのか、翅を二つ合わせに畳んだまま止まっていた。その細長い翳
に江与は気をとられていたが、五徳の方はまだ話したかったらしく首をさしのべ、
「世にも奇怪な噺じゃが、家康様の元の名が松平元康よと言い張るなら、その方と家
康殿は『石ヶ瀬』で、互いにきつい合戦をしてござる(村岡素一郎『史疑』)‥‥な
にしろ鍛冶屋の娘の家を溜り場にし、矢尻を鍛えさせ、刀や槍を打たせて武具を整え、
さて人集めなされた若き日の家康殿は、この天下の争乱の時に一旗あげようとなされ
たが、義元亡き後の今川氏真は出て敵わず、尾張の織田も勝って兜の緒を締めよと、
清洲城から動かない有様。
 そこで業をにやした家康殿は、中に挟まれた弱体の三河を乗っ取ろうとして、遠州
から矢矧川の上流を渡って攻めこんだので、わが夫、信康の実父の松平蔵人元康殿も
放ってはおけず、これを石ヶ瀬の原っぱにて迎えうったと聞き及びまする。しかし何
と申しても、松平党は長年にわたって父祖の代よりの君臣の間柄。しかし家康殿の方
はいわば一旗あげようといった程の野伏共の烏合の衆。正面衝突をしては、とても松
平党の敵ではなかったとかの由。よって家康殿は、その志しは大、血気も盛んであっ
たが、ものの見事に負け戦となって降参してしまったと、今は亡き夫の信康の口より
耳にした事がありまする」
「へぇ、では‥‥あの家康は、本物の松平元康殿の家来にされてしまわれたのかや」
「それが、降人されたときは、そない話らしかったが、抜け目のない家康殿は直ちに
山中城へ向かって、そこを攻めとってしまわれ、当時の三河山中城主の松平権兵衛重
弘を追って、御自分が代わって城主となってからは、もう元康様のご家来ではなく、
合力衆のような形になられたようで、刈谷城の水野信元殿を攻めた時など、岡崎勢の
先手となって、十八町畷(なわて)まで押し寄せて戦われたそうな‥‥ついで、家康
殿は元康様に協力して、野伏り衆を放って、挙母(ころも)の砦、梅ヶ坪の砦と火を
つけてまわったから、三河党の士気も大いにふるい、元康様も『この分ならば織田信
長を攻め滅ぼして、人質に横取りされてしまっている我が子の信康を奪還しよう』と、
桶狭間のあった翌年の十二月四日に、合力の家康殿や三河党をもって尾州領に入り、
岩崎から、翌日は森山へと兵を進め、本陣を移しなされた。
 ところが、その陣中で、粗忽な家臣のために、元康公は討たれてしまわれたのじゃ
‥‥で仕方なく、陣を引き払って、ひとまず退却という事になり申したのよ」
と、そこで五徳は、また咳をして口を布で拭った。
「ちょいと、お待ちなされて下さりませ‥‥その『森山崩れ』で討ち果たされました
のは、その永禄三年より二十六年前にあたる天文四年の事で、討たれなされた元康殿
が祖父の清康様の方だと、承っておりまするが‥‥」
と、江与は口をはさんだ。しかし、五徳は布をもったままの手を、その侭口へもって
いき、
「笑止」
と言った。そして、
「天文三年の頃ならば、信長の父の織田信秀殿が、岡崎城と目と鼻の先の安祥の城ま
で確保されて、三河の半分は織田方の勢力に入っていた頃。どうして、そないな岡崎
衆が入り込んできて尾張の森山へ陣取りなどできましょうや」
と、はっきり言ってのけた。
 そう云われると、天文四年の頃なら、祖父の織田信秀が小豆坂合戦で今川や松平を
撃破していたと、江与も合点して、
「すると、それまで互いに戦までしあった事もある二人が合併して、その時から一人
になる‥‥つまり松平元康殿が俄に亡くなったゆえ、当座しのぎの恰好で、今の徳川
家の家康が後始末をするため元康殿の後釜に入ったのじゃろか?」
と、江与はすかさず尋ね返した。
「おそらく、尾張の熱田にいた信康殿を取り返すため、家康が元康の死を匿して、ま
んまと自分が化けて代りに乗り込み、清洲城でわが父織田信長と談合をし、起請文で
も入れて和平を誓い、そんで信康を取り戻してもらったのではあるまいかのう‥‥そ
れで、その手柄をかわれ松平の家来共の衆望を担い、如才なく家康殿は立ちまわられ
て、幼い信康殿の後見人の恰好になり、やがては、まんまと松平党をその属にしてお
わせたと聞き及びおる‥‥」
と答えた。
「なるほど‥‥」
江与はうんと唸った。思わず声まで出てしまった。

 殿様の松平元康が、誤って家来安部弥七郎の手にかかって急死された三州岡崎城で
は、跡目の信康がいないから話にならぬ。その時、三州山中城を自力で乗っ取り、次
々と放火して手柄を立てた家康が、
「和子を尾張から奪い返す計略として、俺を亡き殿様の身代わりに仕立てい」
と言えば、松平の面々は、
「これは殿の喪を表沙汰にし、他から攻め込まれなくともすむ安全な上策である」
と、すぐ賛成してしまったものと考えられる。
 そこで、まんまと松平元康に化けてしまった家康は、恐れげもなく、永禄五年三月
には清洲城へのりこみ、三州と尾張の攻守同盟を結んで、熱田にいたか、清洲城内に
いたか(大須万松寺天王坊という説もある)はっきりせぬが、当時は四歳になってい
た信康公を貰い受け、岡崎へ戻ってきた。この手柄は大きいし、それに山中城主にな
っていた家康自身が、もう、その時は既に何百と私兵をもった大勢力だったから、
(このままで、信康様が成人の時までは後見人)
という事にもなったのだろう。
 指折って算えれば、その時は家康は二十一歳だから、その年齢で四歳の子持ちとい
うのは少し早いが、なにしろませた風采をしていたのだろう。だから、さすがの伯父
の信長も、この時は永禄四年から毎年のように美濃へ攻め込んでは敗れていた矢先で
あるし、まんまと尋ねてきた松平蔵人元康を本物と思ってしまって、美濃攻めに後顧
の憂いがないように、東隣の三河と和平をしたのだろう。そして、足かけ三年も尾張
にいたのだから、信康がすっかり可愛くなっていて、自分の伜らと仲よう遊んでいる
のを思い出し、その頃、生れた女の子に、
(信忠、信雄、信孝、信康をも加え、五人で五徳のごとくに輪になって確り地に立て
や)
と、初手から嫁にやる気で五徳と名づけ、その縁談も信康を戻す条件として家康にも
ちかけたものであろう。
という事は、面食らって聞いていたが、
(この五徳の申す話は間違いない。正真正銘のもの)
と、江与はすっかり考え込んだ。
「その時は一時の便方でまんまと欺き、家康は元康に化けてしまったものの、どうせ
信長など大した事はない。そのうちには誰かに滅ぼされてしまおうと、高をくくって
いたが、これがなんともならぬ‥‥というのは、先代織田信秀様の代には、尾張八郡
の他に、三河の小豆坂から安祥までも占領していた強豪だったのが、桶狭間合戦の始
まる頃には、戦場で用いる武器が鉄砲に一変した為に、○にニ引きの旗を立てた今川
の水軍は、どんどん鉄砲を上方より取り寄せて次第に勢力を張るのに反し、信長の方
は水軍がないから、鉄砲や火薬が入手できない。そこで今川に追われ、那古屋の城も
危うくなって清洲へ逃げ込んでいた程で、尾張八郡のうち鳴海から中村までは今川に
取られてしまい、残りは半分の四郡。しかも、そのうちの一郡の長島は、服部右京之
允という一向門徒に押さえられて、正味は三郡という惨めさ。
 それをよく見知っている家康は、桶狭間合戦も、まぐれあたりの勝ちとみていたし、
その翌年から連年開始した美濃攻略の連戦連敗も知っていたから、まぁ、早く言えば
舐めてかかっていたものとみえる。
 しかし、手玉にとったつもりの信長が、なかなかもって思ったよ