1110 謀殺 10

「よろしゅうござりまするか。もともと松平衆は三河者なれど、徳川というは駿河衆
にござりまするよ」
と、五徳は唐突に口を滑らせた。それを聞かされて江与は、
「左様にござりましたのか」
と肩を落して吐息を洩らした。

<明治維新の際、『徳川家は祖先の地へ復旧すべきこと』として、太政官宣告をもっ
て徳川家は江戸をおわれた。
 通史に説かれているように、『三河岡崎が祖先の地』ならば、そちらへ移るべきで
ある。ところが、実際は『駿府移住』として、徳川家は今の静岡へ転封されている。
 だから、寛永年間に『伝法沙門』と名乗った釈春外東劫(しゃくしゅんがいとうこ
う)和尚の選んだ『駿州城府分時鐘銘』にも、
『そもそもまた駿陽(遠)州は、なかんずく東照大権現垂迹の地(出生地)なり』と
明記されている。
 これは、明治時代まで残っていたという駿府少将の宮の前町(現在は静岡市伝馬町)
の玉桂山華陽院(ぎょくけいざんけよういん)府中寺にあった懸額に、徳川家康の自
筆であるという、
『龕(がん) 慶長十四年春三月、大将軍 翁、印』
の中の一節にも、はっきりと、
『従幼至志学之後、既始学義軍於浜松、干時永禄三年庚申夏五月』
というのがあると、明治三十二年版『静岡県史料要集』に残されている。
 志学とは十五歳を意味する熟語であるから、
『自分は幼い時より十五歳すぎまでここにいたが、のち永禄三年五月の桶狭間合戦の
時に、遠州浜松で義軍を旗上げして徳川家康になる事ができたのだ』
というのが直訳になる。
 また、これについて、林道春の筆になるという『駿府政事録』の慶長十七年八月十
九日の条にも、
『(神君)御雑談の内、昔、ご幼少のみぎり、又右衛門某という者のため、銭五貫文
にて身柄を売られ、九歳より十八、九までは、この駿河に居られた由、御自身の口か
らお洩らしなされたのを、伺候していた者共はみな聞き及びてありし』
と記載されたものが現存している。
 つまり林道春の『駿府政事録』というのは、徳川家康が晩年になって、もう何の遠
慮や気兼ねもないものだから、つい懐旧談を洩らしてしまい、近習の者共に、
『‥‥十八、九の頃に駿河を出て遠江へ移り、そこで人手を集めて兵を上げ、散々に
苦労したあげく、今日の徳川家の基礎を築いたものである』
と、その立志伝を自慢話にした事になる。だから、
『三州岡崎の松平党と、遠江で挙兵した徳川とは別個である』
と、家康自身がこれは告白した例証とみるべきであろう。なにしろ、徳川三百年の間
に、すっかり歪曲されてしまっているので、こうした断片的な資料を繋ぎ合わせるし
か、解明の方法はないが、
『こうした謎に包まれた徳川家康が、なぜ、その永禄三年の夏から天正十年の夏まで、
二十二年間の長きに及んで、織田信長に対して、あくまで忠実であったのか』
という疑惑がここに生れてくる。
 家康が松平蔵人元康の改名した同一人物ならば、三河の名門の御曹司として、その
性格が従順だったという解釈も成り立つが、そうでない。流れ者の立志伝の人である
とすれば、
『何かの事情のため』に、家康は隠忍自重して雌伏していたと見るしかない。
 すると、その事情の如何によっては、信長との間柄が爆発するという事も考えられ
る。つまり本能寺の変の時に、京に近い堺に移っていた徳川家康は無関係だったとは
言い切れぬものがある。>


五徳ざんげ

「‥‥女ごというは、気ばかり焦っても、いざとなっては何にもできぬもののような、
そんな気がせいでもない‥‥まぁ、この身は、そもじさまのように御台所などという
座につけなんだせいもあろうがのう‥‥」
と、口を閉じる五徳に向かい、
「なんの、なんの、貴女さまは岡崎三郎信康様の室ゆえ、もし、お連れ合いさまの、
あないな御最期さえなくば、五徳様こそニ代将軍の室におじゃりましたえ」
と江与は言った、
 家康の長子が三郎信康。次の次が、今の夫の徳川秀忠に当たっていたから、言った
のである。
 なのに五徳は、むうっとしたっきり返事もせずだった。そこで、はっとして、
「‥‥御存じのように、私めは幼い頃に大野の佐治与九郎へ嫁がされ、天正十一年に
は、貴女さま異腹の弟ごの丹波亀山の羽柴秀勝さまにも嫁ぎましたもの‥‥ならば、
浅井御縁なれど、これでも義理の姉妹の縁辺も、あなたさまとは一年はありましたる
身‥‥絶対に他言などは致しませぬ。何卒、そこのところ、お洩らしなされてくださ
りませ」
と、五徳に対して江与は古い事を、いきなり持ち出してみた。というのは、何だか、
(この話の裏には、きっと何かが匿されているらしい)
と、そんな事を直感したせいでもある。
 だから、江与はつい今し方までの威張った態度から、急にへりくだってみせた。こ
びるような、まるで哀願するような眼差しさえも意識して瞬きしてみせた。
「‥‥我が父織田信長のお末の方のお子の長丸が秀吉殿の養子になって、羽柴秀勝。
そこへ以前にお嫁入りされた事もある御台所様は、この尼と前世の因縁も浅からず‥
‥よって懐かしや、とお目もじに参上したところ、何やら始めのうちは、昔の事は思
い出したくないが、それともお忘れのごとくにも拝しましたが、そちら様のお口より
『義理の姉妹じゃった』と言うて下され‥‥これで、この尼とても、ここまで伺うた
のもあだになり申さなんだ事になる」
と、江与は話を待っているのに、五徳は、また数珠をまさぐって、しきりに何やら誦
していた。
 少しいらいらしてきて、待ち切れなくなって、江与がせかそうと口をあけかけた時
である。
「‥‥そもじゆえ、お教えする。岡崎三郎信康を殺したり、築山殿を無惨や亡き者に
させたのは、ありゃ天地神明に誓うて、この五徳の仕業ではない‥‥亡くなった大御
所。つまり家康殿のなされし手の内よ」
と、声がした。
「‥‥まさか」
と、本気にはできかねて、つい江与は、そんな事を口にした。すると、パラパラ音が
した。
(何事っ)
と眼を据えると、尼が手にしていた白水晶の数珠の珠がの通し紐がちぎれ、辺りに散
らばって転げゆくところだった。
「‥‥無念」
と、尼の両目に泪がふき溢れていた。数珠と一緒に散らばりそうな大粒のものだった。
それを見つめて、江与もどきっとした。はっと息をのんだ。こちらに震えが伝わって
きた。
(‥‥とかく女は口から出まかせの事でも、自分でそう思い込めば、やがて本気で真
顔で話せる)
とはいうものの、既に六十にも近い女が、今更話を作って何になろう。
(女の流す涙は、悲しさより口惜しさなのだ。この人は、今自分の真実を、同じ織田
一門の自分に、一つの血の流れを信じて訴えに来ていなさるのだ)
と、釣り込まれるように、しゅんとした。
「すみませぬ‥‥お詫びしまする。よって、何卒、お聞かせ下さりましょう」
 江与は、頭を下げて両手を膝についた。別に悪気はなかったが、幼い頃から耳に入
っている風評の方を、当人の話よりも先に信じてしまっていた己れの頑なさ。その浅
慮さと謝罪したのだ。
 もうここまでくると、織田信長の娘の口から何かをききだし、竹千代の出生の謎を
つきとめ、それを手掛かりにして蹴落としをしよう。我が子の国松を何とか跡目に立
てて、春日局の鼻を明かそうといった魂胆も消え飛んでしまった。ただ、もう江与と
しては、本当の事が、何でもいいから知りたかった。真実というものが掴みたかった
のである。
 だから憑かれたように、譫言(うわごと)ごとのように、江与も顔をあげるなり、
一膝にじり寄っていき、
「もし、この世の中に真実というものがありまするならば、どうかお手前さまのお口
から、この江与にお洩らし下されませ‥‥最前からのお話にて、もはや何が本当で、
どこまでが嘘なのか、情けない事ながら、それさえも区別がつかなくなり申した。真
の事を、かまえて他言はしませぬによって、なぁ、もうし、おきかせ下され」
縋りつかんばかりの勢いで、人払いはしてあるものの、やはり気を使って声は低めに
押し殺した。
 そんな圧迫された感情に、心気が昂ぶってしまい、五徳の悲しみも口惜しさも、自
分の肚だたしさも一緒くたになって、やはり江与も声をあげて泣きじゃくった。
 泪がこぼれた。頬から口へ流れ込むくらいにも溢れでた。そして、
(このところ、滅多に出ぬ涙が出る。すがすがしいくらい出る)
と唇にたれるのを感じていると、
「‥‥やはり織田信長様の一門の血は血じゃ。我が事のように貰い泣きをして下され
てか」
と、尼は衣の袖で頬のあたりを自分でもこすり上げ、側へ近寄ってくるなり、耳許で
囁くように、
「家康めが、我が夫の岡崎三郎信康を殺しくさったは、成人までの約束で預かってい
た三州岡崎の領地を、育った信康に戻すのが惜しくなったからじゃ‥‥なんせ、もう、
当時は、自分が拵えた子が、小督(こごう)の方に今の結城秀康。西郷の方には、こ
この将軍家秀忠の他に、今は亡くなった薩摩守忠吉と、他にもう三人もできていたゆ
え、うちの婿殿は邪魔ものじゃったのよ‥‥そんで、当時まんだ子供みたいな、この
愚かな五徳は、家康めにまんまと諮られてしまったのでおじゃりますえ」
と、そこで今度は尼の方が、わあっと泣き伏してしまった。その様子で江与は、はっ
と思いあたるものがあった。云おうか云うまいかとは迷った。だが、どうせ今更互い
に恥ずかしがるような齢でもあるまいと思い直して、耳許へ口をつけるようにして、
「‥‥この身にも覚えがある‥‥貴女様も、あの家康に無体を‥‥もちかけられまし
たな」
ずばり江与は言ってのけた。
 五徳は肩をひくってさせて、頷いた。その拍子に剃りこぼした襟脚の白毛が、まる
で花の芯のようにもうっすらとのぞいた。哀れな老いた女の風情だった。
「ぐうっ」
と、江与はそれをみて思わず咽喉を鳴らしてしまった。

 三十余年前、初めて嫁入りしたばかりの世間知らずの、この五徳姫が、まさかと思
っていた相手から、どんな目にあわされ、驚愕のあまり羞恥に動転した事は江与にも
判る。
 そして、何も、それだけが目的でない家康は、初めから算用して、それを種に脅迫
したのだろう。
 だから、その過失が夫や父や世間に知れてはと、脅えきってしまった彼女は、言い
なりの手紙を書いて、それを父の信長に届けてしまったか。又は、白紙に署名捺印だ
けをとられ、家康が勝手に女手でもって書き入れをなし、それを五徳の侍女に持たせ
てやったか、どちらかであろう。
 舅と一度でも間違いをしでかしては、もはや、いくら強がっても嫁の立場などあっ
たものではあるまい。だからこそ、悲しくても、それからの四十余年というもの「悪
女」という烙印を押されても、それを覆すのに、もっと甚だしい汚辱を晒さねば、そ
の身の潔白が成り立たぬ五徳は、とてもそれが口にできる事ではないから、貝殻のよ
うに押し黙っていたのだろう。だから、真実は何処に消え去ってしまうしかなかった
のだ。
「哀れじゃ‥‥お前様は不憫じゃった」
と、江与は五徳を抱きすくめた。そして、
(何たるあさましいことであろうか)
と共に泣き崩れた。
 もう、こうなると、江与は、五徳の悲しみや憤りが、まるで自分にのりうつったよ
うに、もの狂わしいまで肚がたってきた。目くらやみのするような瞋恚(しんい)の
烈しい焔の中に、自分も身を焼き心を紅蓮の炎に焙っていた。だから一緒になって、
呪わしい心地を共に泣き明かしたのだ。
 いつまでも、いつまでも、何故このように女だけが不幸せな桎梏(しっこく)の枷
に縛り付けられるのかと、口惜しさに二人は寄り添って慟哭した。
 人払いして閉め切った部屋の中で泣きあかしているうちに、洩れるともなく欄間の
灯りとりの美濃紙を通して落ちてきた陽射しが、しだいに茜色から澱んだような灰色
に近い橙色に変わってきた。
「‥‥お灯りを」
と、襖ごしに声をかけ、侍女共が三人がかりで、貝殻散らしの黒漆の腰高行燈を静か
に持ち込んできた。そして顔を伏せかげんにしている江与に、
「お夕餉にてござりまするが‥‥」
と、恐る恐る上目使いで尋ねてきた。
「‥‥ここへ、お客膳とも運びや」
と言いつけると、もう仕度を調えていたらしく、
「はぁい」
と声がして、高つき猫またの朱塗膳が、四人がかりで抱え込まれてきた。
「給仕せいでもよい。早よ、行きや」
江与は煩わしそうに侍女を追い立て、五徳と二人きりで向き合った侭、象牙箸をとっ
た。
 すると、五徳は食事をとりながらも、昔を偲んで亡き父の織田信長の思い出話など
した。
 つい江与も父親の話となると、姉達からの又聞きではあるが、江州小谷の城の頃の
実父浅井長政の事どもなどが口に出てしまう。
 互いに思い出を話し合えば、過ぎ去った日は桃色の帳の中にあり、今は、ただ灰色
の澱んだ滓(かす)の隅に喘ぎ蠢いている、憐れな陰翳であるに、それはすぎない。
なのに、尼は、
「女の一生とは、何かこう索めて、そして思い焦がれて虚しゅう、全てが去っていっ
てしまうもの」
といった言い方をした。江与は、それに対して、
「虚しいなどとは、そりゃ慰めの体裁よい言葉‥‥まことは馬鹿げた一生と申すほか
はありますまい」
と返事をした。はたからみれば、女としては最高のように思える将軍家御台所という
自分の立場からしても、振り返って思い出してみても、今のあちらこちらを振り向い
てみても、それは虚無といった甘美さの余韻のあるようなものではなく、もっと突き
放された莫迦々々しさしか、そこにはなかった。もちろん、そのおかしさは、からか
らと声を立てられるようなものではなく、嗤うというより嘲笑でしかない陰湿さしか
ないものだった。だから、
「生きるということ‥‥やり切れませぬな」
と沁々もらしてもみた。すると尼は、
「私はよい。近頃は心の臓を病んでいて、もう長くは、この世にはいよう筈もないで
‥‥」
と、初めて晴やかな顔を、その時だけはしてみせた。それを聞くと江与は、
(そうだ。早く死んでしまいさえすれば、おかしげな人の世の舞台も舞い納めになっ
てしもうのではある)
とは、心からそれに同感をしたものの、さて自分の身は、まさか今日や明日に、あの
世へ行けるものでもなかろうと思うと、なんとなしに、もうじき死ねそうなという姉
妹と別れがたい思いがしてきて、つい、
「今宵は‥‥なぁ、この身と枕を並べて下されませ」
と、江与はそっと誘ってみた。
 なにしろこれで別れたら、又次は逢えるかどうか判らぬ相手である。寝所でなりと、
もっともっとゆっくり色んな事を聞いておきたいと、そんな慾が出たせいもある。と
いうのは、
(なぜ、死んだ家康が、この五徳姫の夫だった信康に、岡崎を戻してやるのが惜しい
くらいの事で、無惨や母子諸共に、信長の命令と偽ってまで殺してしまったのか)
と、納得ができかねたからである。
 それともう一つ。自分が伏見の徳川邸へ嫁に行った時、そこに家康の生母がいたこ
とに、これは関連もある。
 なにしろ、その御生母様ときたら、いつも深く垂らした簾をはりめぐらした一室に
いて、嫁として挨拶に伺候した江与に対しても、声だけしかかけてくれなかった。
 江与にしてみれば、夫の祖母様にもあたる事ゆえ、やがて簾を巻き上げて対面して
くれるものとばかり考え、じっと平伏して、その時は待ちわびた。
 しかし、簾は少しも開かなかった。だから、
「自分は婿殿のお婆様に最初から嫌われているのじゃ」
と、江与は相当ひどく気病みした。
 だが、馴れてくると判った事は、その生母様は、家康一人以外とは誰とも逢わない
のである。侍女達も、その顔形を拝したものはいなくて、「簾御前様」と呼ばれてい
るのが判ってきた。
 嫁いでくるまでに耳にしたところでは、徳川家康の御生母様というのは、苅屋城主
水野信元の妹姫で、「おだいの方さま」と申し上げる立派な女性の筈である。ならば、
人前には顔の出せぬような怪しげないかがわしい者とも思えない。なのに実際は、江
与が伏見で自分の眼で眺めて暮したものは、いつも簾の中からぜいぜい咽喉をならし
ていた正体不明の怪しげな影でしかない。
 ずっと、その面倒を家康が自分で見ていたからには、生母なのは間違いなかろう。
が、ならば、
「いったい、どんな素性の御方さまなのであろうか」
という疑問である。
 江与が嫁に入ったよりも、五徳姫の方が徳川へ傅いたのは十何年も早い。だから、
もうその頃から、御生母なるものは、竹簾で隠されていたのか。それとも、たとえ人
目なりとも、五徳姫は、その実物を見たことがあるかといった謎解きである。
 もちろん、その御生母様は伏見で間もなく亡くなっているから、今となっては、こ
の五徳にきくくらいしか探りようとてもない。
 もし、その御生母様の素性さえ、はっきりと掴めたら、家康がどんな出身かも明白
になる。
 織田信長の妹の於市御前を母とし、江州小谷の浅井長政を父とする江与のような、
折り目筋の通ったまっとうな者の眼からすれば、女とみれば見境なしに軽口を叩いて
口説いたり、隙をみつければ押し倒して望みを遂げるような、そんな汚らわしい男の
風上にもおけぬ所業をする不逞な輩が、どう間違っても三河の長者の松平の一門。こ
れまで世に伝わっているような、
「松平元康が改名して、徳川家康」
とは、女の本能といおうか、肌合いから感じるもので、とても肯定はできかねた。
 しかし、夫の秀忠は紛う事なき家康の伜殿なので、まさか嫁の立場として、江与は
「徳川家康は、真っ赤な贋者ではあるまいか」
などとは言えた義理ではないが、
(あんな不潔な厭らしい、どすけべぇの狒々親父が、室町時代から続いている松平一
門の流れではない)
とは、何かしら、はっきりとした感じ方をしている。もちろん岡崎三郎信康の嫁だっ
た五徳にしてからが、夕食前には自分の口から口惜し泪を浮かべつつ、
「夫やその母の築山殿を害したのは、何も自分の落度ではない‥‥あれは大御所、つ
まり家康の仕業であった」
と言い切っている。
 と言うことは、これを煎じ詰めていくと、
「今を去る三十三年前、天正十年六月二日の夜明け前に、本能寺を包囲して爆発させ、
伯父の織田信長を哀れ髪毛一筋残さずに吹っ飛ばせてしまい、同日十五日に捕えられ
て殺された斎藤内蔵介の娘である春日局を、何故に家康は、京の伏見で引き取り、今
の竹千代が生れた後、乳母の恰好にして、当江戸城へ送り込んだか」
という謎にも結びつきそうな気がするし、また、
「もう七十四歳にもなっていて、まさか白壁塗りの春日局の色香に迷う年頃でもない
筈の家康が、あの時なぜ、わざわざ駿府から無理して出府し、三代将軍は国松と誰も
が認めていたものを、饅頭を飴にして子供を釣って、あない酷い跡目変更を強引にや
ってのけたのか‥‥それには、それなりの理由があって、あの死に損ないが最後の芝
居をうったのだろうが‥‥竹千代を三代将軍にせねばならぬ義理が、どうして存在し
ていたのか」
と、江与にすれば、疑惑を持たざるを得ない。
 なにしろ、家康が死んだのは、年が改まってからの事ではあるが、もうあの時も、
大坂城を滅亡させて安堵しきっていたのか、すっかり生色が失われて、死期は目にみ
えているような有様だった。
 当人の家康自身も、竹千代将軍職の世継ぎに決めて、江戸城を立ち去る時、
「‥‥これで肩の荷をおろしたようなもの。いつでも安心して死んでいける‥‥泉下
で見えても、義理が立ったから、安気にあの世へ行けようぞ」
などと、歯の抜けた口をもごもごさせていた。
 聞き取りにくかったし、さっぱり意味も判らずで、耳には入れたものの、江与はそ
の時、
「何を世迷い事を、くたばりそこないの意地悪爺めが、勝手気侭に吠えさらしおるの
かや」
と、その時は、もう、むかっ腹立っていたから、江与は癪に触って怒るのに精一杯で
何も考えはしなかった。とても、その余裕などなかったが、こうして五徳と話をし、
色々と聞いてみると、また思いが新しくなるというのか。変な事に気づいてきた。
連想の意識の流れに引っ掛ってくるのは、
「竹千代→春日局→その父の斎藤内蔵介→六月二日の本能寺→信長殺しの真犯人」
という断片のつなぎ合わせである。なにしろ太閤殿下という人は、
「わしが、おことらの伯父殿にあたる信長殺しの、明智光秀を討ちとってつかわした。
つまり女ごのおことらに変わって、仇取りをしてやったのじゃ」
と、あけくれ恩着せがましいことを、よく口にしていたものであるが、さて家康のい
うのは、まるでそれは違っていた。
 後年の事だが、伏見城で徳川家康は、その気に入りの家来の水野勝成に、
「これは明智光秀遺愛の長槍である。汝にくれてとらすによって、光秀にあやかって
良き武者になれ‥‥この槍を辱めぬよう働けや」
と言って手渡した事は有名な話である。
 もし家康が、秀吉のように「信長殺しは光秀」と決めつけていたならば、
「光秀にあやかれ」
と言って、その形見の槍を手渡すということは、これはとりも直さず、
(この家康に謀叛し、その槍先で自分を突け)
という意味になる。だから徳川家康は、
「信長殺しは光秀ではない」事を百も承知していたことになる。すると、
(あの大御所というお人は‥‥誰が信長殺しか?ちゃんと知ってござった)
事になる。
 しかも、はっきりと、「光秀ではない」と言いきれるという事は、「知っていた」
ぐらいな生易しいものではない。「それが、そうでない」と言明できる者は、「それ
はこうである」と立証できる立場のものである。というのは、「信長殺しは、光秀で
はない。かく申すこの家康であった‥‥」
という事にもなりかねないのである。
 しかしである。江与の覚えでは、なにも家康が信長殺しをせねばならぬような心覚
えはなにもない。
 桶狭間合戦の後で、家康が清洲城へ来て攻守同盟を結んだ時から、伯父の信長と家
康は一心同体のように互いに力を合わせ、離反の激しい戦国の世には珍しいくらいに、
一度の仲違いもなく協力し合った。
 伯父信長も、その遺孤で、江与には従兄に当る織田信雄を助け、小牧長久手合戦で
は秀吉の何万という大軍を打ち破って、織田の為に尽してくれた忠義者が徳川家康な
のである。
「‥‥てんで皆目わけも判らぬ。が、信長殺しに、あの竹千代の跡目相続は繋がって
いよう」と朧気ながらしか江与には呑み込めはしなかった。
言わば女の勘のようなものである。
 ところが、
さて、侍女どもは次の間からも追い立ててしまい、岡崎三郎信康の妻であった五徳と
枕を並べ、共寝をすると、向こうは向こうで初めて聞くような物語ばかりをしだした。
だからして、
(まさか、酒(ささ)など出してはおらぬゆえ、食べ酔っての放言とも思えぬし)
と江与は迷い、
(心の臓を病みなされ、御自分でも余命いくばくもないと仰せあるからには、これは
唐(もろこし)の言葉で申す『鳥の落ちんとするや、その声悲し、人のまさに死なん
とするや、その声は正し』という伝で‥‥これは真実を思い残しのないように、話し
ていなさるのであろう)
とは考え、それに頷いて合点はして見せたものの、まことに途方もないような話で、
しかも五徳とて、それは生れる前の話ゆえ、又聞きであるという‥‥江与としては、
正直なところ、てんで夢物語をされているような感じさえしないでもなかった。


拐されたのは

 永禄三年つまり桶狭間合戦で、今川義元を織田信長が討った年の事だそうである。
時に、織田信長二十七歳。京の二条城で本能寺の時、共に散華した岐阜中将信忠が奇
妙丸といって六歳。下の織田信雄や信孝は腹違いゆえ、共に三歳。五徳姫はまだ生れ
ずに胎内にいたという。
 この時、のち五徳の夫となった岡崎三郎信康は二歳の和子だったとのこと。
が、そこまでの話はよいが‥‥
「当時まだ頑是ない夫は、那古屋の熱田砦の加藤図書之助(ずしょのすけ)と弟の隼
人佐(はやとのすけ)の世話になり、そこの嫁女や、娘御にお守りをしてもらい、時
には清洲の城へも背負われてきて、兄の信忠や信雄と一緒になって栗拾いも致しまし
たげな‥‥そんで父の信長も目をかけて可愛がられ、女ごの私めが生れるなり、
『これは三河の嫁にしよう。奇妙(信忠)、茶筅丸(信雄)、三介(信孝)に、三河
の坊主(信康)、それに、この姫で五人になる。仲ようさせて一つに結ばれるよう、
姫の名は五徳としようぞ』と名づけられてござります」
と、己れの名のいわれなどを打ち明けたりしだした。つまり、
「五徳」というのは火鉢の中へ入れる鉄製の金具で、五本足で確りささえて、上に薬
罐など乗せるものなのである。かねて奇怪な名前を女ごにつけたものよと考えていた
が、わけを聞けば、
「なるほど、そうでありしか‥‥」
と、江与にすれば頷きもできた。
 つまり、この話でいくと、五徳は生れる前から岡崎三郎信康と一緒になるよう指図
されていた事になる。しかも「信康」という名乗りも、信長の父織田信秀の異母弟で、
「織田与二郎信康」という織田家繁昌には一方ならぬ骨折りをして討死した柱石の伯
父の名からとって、
「岡崎三郎も、その信康にあやかって、織田家に尽せ」
と、信長が命名したものと受け取れる。
 が、江与が、これまで風聞で聞いていたのとは、これはまるっきり違っているので
ある‥‥。
 つまり織田信長は己れの名の「三郎」を与えたが、信康の武辺や武功めざましく、
(これでは、己が伜より立ちまさって、行く末とても剣呑である)
と、手名づけるために五徳を嫁にやり、隙をみて三郎信康を亡き者にしようと謀って
いたところ、我が侭者の五徳がざん訴してきたを勿怪の幸いに、事実無根を承知の上
で、この好機逸すべからずと、直ちに家康に処分を命じた。徳川家康は我が子可愛さ
に信長に対して歎願したが許されず、そこで泣く泣く最愛の我が子の三郎信康を殺し
てしまい、その連鎖者として正妻の築山殿までも、
「泣く子と地頭には勝てぬ‥‥信長殿の言いつけには違背できぬ」
と、泪をのんで腹心の野中三五郎らに斬殺させてしまったのだ。
という噂話で、なにやら、これでは話が根元から食い違っていた。
 信康も入れて五人で仲良く力を合わせるために、「五徳」と、己が姫に名づけ、そ
れを嫁にやるぐらいなら、三郎信康がめざましく成長し、天晴れな武者ぶりを見せて
きたなら、これは信長には願ってもない喜ばしい事であって、それを嫉妬したり、自
分の伜共の行く末に邪魔になろう、取り除いてしまえといって、策を弄して家康に命
じて処分するのでは、あまりにも話の筋が通らなさすぎる憾みがある。そこで、
「‥‥さて、二十一になった三郎信康殿が武者ぶりすぐれ、衆望を担ってきて、それ
で迷惑をするのが、伯父の信長でなければ、そりゃ誰じゃろうな‥‥」
と、口の中で呟き考えていたが、
「ちょっと、お待ちなされませや」
と江与は妙な事に気づいた。だから、すぐさま五徳に向かい、
「‥‥これまで我らが耳にしている話では、尾張へ拐され、連れていかれたのは、お
前様の夫の信康殿の幼い頃の事ではのうて‥‥天文十八年に今川家の人質となられた
八歳の大御所様が、塩見坂で拐されて尾張へ行ったという話でござりまするぞ‥‥そ
このところをお手前様は、お間違いなされてはおられませぬか」
 なにしろ偶然の符合にしても、あまりにも話が奇妙で不可思議すぎたからである。
ところが、
「まぁ‥‥」
と五徳は枕を抱えて身体を乗り出して呆れ顔をして、
「御台所様には、かく申し上げまする当人の私よりも、根もなき風評などを信じさな
れまするのか‥‥天文十八年といえば、父信長の許へ美濃から斎藤道三入道の姫のお
濃の方が輿入れなされた年にあたっておりまするぞ。
 そして、二年後は、祖父の殿の信秀様が三月三日の桃の宴で古渡の城で、御遺言も
残さずに頓死なされ、お跡目を誰がとられるか尾張の国内はいくつにも分かれて争っ
ていた時‥‥いくら父の信長が当時は十七歳の悪たれにしたところで、世間で言うよ
うに、当時十歳の家康めを弟分にして、暢気に遊び歩けるような馬鹿げたことがあり
ましょうや‥‥
 云うては悪いが、そない噂をまき散らされたは、こちらの徳川様のお仕組みと存じ
まする。ありようは、徳川のお家に恰好をつけなさる為の、でっちあげの作り話にご
ざりまするぞ‥‥まぁ、嫁様の立場でお手前様は、そない思いたければ左様に信じな
されてもよいが、信康殿が尾張へ来ていなされた時は、先年亡くなられた織田有楽の
叔父どのが、まだ源五というて十歳の腕白盛りで、幼い童らの餓鬼大将の頭としてい
なさいましたそうな。よって、わが夫の信康が当時で二歳で、よちよちしながら後を
ついて廻っていたのは、当時より行き長らえていた者に、少し根掘り葉掘り聞き出さ
れたら、そないな事はすぐにも判りもうそうぞ」
と、不機嫌な顔をしてみせた。