1109 謀殺  9

それは誰が子

 十二歳の家光が春日局に送られ、黒漆の菓子器の饅頭を抱えて持ち帰り、一人でこ
の世の幸せを満喫していた頃、それとはまるで反対に、悲嘆のあまり愕然としきって
いた者がいる。江与の方である。
 彼女はまるで奈落へ突き落されてしまったような感じに浸っていた。目の前が真っ
暗になった。
「こんな事があってよいものか」
と、塞ぎ込んでしまった。絶望しかそこにはなかった。がっくりきてしまった。そし
て、未練がましいとは思ったが、そっと夫の秀忠に、
「‥‥まこと、お前がお種かえ」
と恨めしそうに耳打ちしてみた。念をおしたのである。
 すると、秀忠は
「うん」
と、頷いてみせた。もちろん振り向きもせず、横を向いたままだった。
(夫も、国松を跡目に立てようとしていたのだ。それで当てが外れて気落ちしていな
さる)
とは、すぐ判った。
 だが、秀忠とは、それを顔に出すような男ではない。連れ添って二十年。よく知っ
ていた。だから、それきり江与は何も口にはしなかった。
 しかし江与は考える。もともと夫の秀忠にしてからが、小督(こごう)の方の産ん
だ異母兄の秀康が豊臣秀吉の養子となり「結城秀康」となっていたからこそ、弟の自
分が代わって今の徳川二代将軍家を継がせてもらったという立場なのだ。徳川の家に
は長幼の序列はないのである。
 だからして、弟の国松をもって三代将軍の跡目にすえる事に対して、前から夫の秀
忠とてその気でいた筈である。この点だけは夫も自分も同腹だったと思う。この観察
に、よも狂いはあるまい。
 なのに、なぜ砂上の楼閣みたいに、全てが一挙に崩れ去ってしまったのだろうか。
いくら父子の間柄とはいえ、たかが死に損ないの七十四歳の老人が、駕篭にゆられて
駿府から出てきたくらいの事で、夫の秀忠は一言の抗議もせずに、唯々諾々とおそれ
いって、「三代将軍家の世継ぎ」という大事を、あんなに恐縮して受け入れてしまっ
たのだろうか。
 江与としては全く納得できない。いや、それよりも、自分の産んだ子でもない竹千
代が、三代目になるということは、これは御台所として自分の権勢の失墜どころか、
破滅をも意味している。怪しからぬ沙汰である。きりきりと下腹が錐で突き刺すよう
に痛んでくる。
 その疼きをじっと堪えながら、(腹にすえかねる)とか(腹がたつ)または(片腹
痛い)(腹立たしい)というのは文字どおりこの事であろうか、などと考えながら、
(さて、春日局めが迎えに行ったくらいで、なんで歩くのさえも大儀な七十四のあの
爺めは、のこのこと出てきおって、三代目の世継ぎ決定などと、いらざる節介をやき
おったのか)
と、思わず声には出さずだったが、はっとして疑いが湧いてくる。
 なにしろ、この身がここへ嫁に来た折りに、よし軽口にせよ冗談にせよ、なんなら
何しようとまで誘ってきた程の家康である。女とみれば、みさかいなしに所望すると
いう噂さえあるお人である。その女癖の悪い男と春日局とが、なんでもなかった、と
は誰も言いきれるものではない。
(あった)と見るべきが、あるいは至当なのかもしれないと思う。
 でなかったら、春日局の突然の失跡。そして家康の供をし、その春日局が悠々と江
戸城へたち戻ってきたという、この経過は、普通では解きようもない。
 竹千代という子が駿府にでもいて家康に慈しまれていたというのなら、それを三代
目にと言いに来るのもわかるが、国松も竹千代も江戸城にいて、ついぞ家康に逢って
もいない。
 なのに、わざわざその竹千代を跡目に決めに家康が出てきたというのは、これは春
日局にせっつかれて、よんどころなく駕篭にゆられてきたと見る他はなかろう。
 という事は、何も竹千代可愛さとか、長幼の序を守るためにといった、そんな表向
きの云いごとを別にすれば、やはり春日局との繋がりをもとにして考えるしかない。
きっと何かこれにはある。
 事によると、あの死に損ないの家康は、その昔この江与に心を傾け、照れ隠しのよ
うに冗談(てんごう)のように口説いたのを、ていよく逃げをうたれたので、それを
逆恨みして執念深く憎んでいるのかもしれぬ。
 ----女というものは、男に誘われた時、まさか、はい待ってましたとは誰にしろあ
まり言わぬもので、たいてい初めは断る。もちろん二度、三度と持ちかけられると、
ついその情けにほだされもし頷きもする。しかし、男というのは短気なのか、我が侭
にすぎるのか、初手に誘ってすげなく拒まれでもすると、改めて繰り返して誘おうと
はせず、まるで「ふられた」と言わんばかりに恐い顔をし、その後は口もきかず、さ
ながら仇敵のような素振りを見せる者が殆どだという。
 だから家康にしてからが、二十年前に、さも軽口のようには言ったが、内心はこの
身に恋い焦がれての所望であって、それを巧くいなされた事への反撥が、ずうっと今
日まで積み重なってきて、「叶わぬ恋の意趣ばらし」という妬情から、この身の産ん
だ国松へ、その面当ての意地悪をせんと、のこのこ出てきたのではあるまいか‥‥と、
まず江与は考える。なにしろ、思い当たる事の第一は、どうしても、この事に引っ掛
ってくる。でなければ、その次は、
「この身は、何といっても織田一門の血脈、亡き織田信長の姪である」ということ。
つまり家康という男は、
「織田の血の入った国松を、徳川三代将軍には立てたくないという存念があるのか」
という疑点も成り立つ。
 なにしろ本能寺の変があってから、これで三十三年。世間では信長の室の美濃御前
こと奇蝶の仕業という事になっているが、あの「信長殺し」に徳川家康は無関係だっ
たろうか。なにしろ怪訝なことには、美濃御前に指図されて本能寺を襲った事になっ
ている斎藤内蔵介の末娘の於福が、今の春日局なのである。それを家康が贔屓してい
るのは何故だろうか。
 つまり織田の血脈の江与と、信秀殺しの娘の春日局が、ここでまた敵味方となって
江戸城で睨み合って対立しているのに、家康が出てきて春日局に味方するのは、どう
いう事になっているのであろうか。

 江与の方は、ずうっと寝ついたきりになっていた。
腹の病というので典医が葛根湯を煎じて進めたが、そんなものを呑んで回復するよう
な腹や胃の病ではなかった。これは腹がたつ精神障害の方の気鬱からくる病で、床の
中でうんうん唸っては枕を抱えていた。そこで侍女達はびくびくして、
「血の道の御症状じゃろ」
と、怒鳴りつけられたり、がみがみ叱られぬように、みな息をひそめてちりちり畏縮
しきって、次の間で息を凝らして控えていた。
 今で言う更年期障害の血の道なら、まぁ部分的なものでもあろうが、江与の場合は
もっと複雑で、腹立った血が頭へまでカッカと昇ってきてしまい、自分でも手がつけ
られぬくらいに呻吟しきっていた。

 ----夫は、自分が孕ませたというが、竹千代が生れたのは慶長九年七月のこと。
 ----その十月十日前を割り出していくと、前年の九月にあたる。その前月の八月二
日に舅の家康は征夷大将軍となり、その三日前に夫は千姫を大坂城の秀頼へ送ったり
多忙をきわめていた。
 ----どうして、そんな間隙を縫って、子供など仕込む余裕があったろうか。納得が
ゆかない。それになにしろ、その九月十一日には、常陸水戸城主になっていた腹違い
の弟の万千代、当時の武田信吉が二十一で病気で亡くなっている。
 ----江戸にいた夫の秀忠は、家康が京の伏見城に当時いたから、ずっと、万千代の
それにかかりきっていた。律義な夫が、そんな時に子供作りなどの余裕があったのは、
とても考えられない。
 ----それに当時、誰が何と言おうと、春日局を名乗るようになった、あの「於福」
は江戸には来ていない。京にいたのである。そして、京の伏見には舅の家康がずうっ
といたのである。
 ----今、七十四歳の舅は、慶長八年の時は六十二歳であるが、その前年の慶長七年
三月七日に正木御前に長福丸を産ませ、これが紀伊の今の徳川頼宣であるし、同年八
月十八日に太田御前に産ませた鶴千代が、若死にした万千代の跡を継いで水戸常陸の
今の徳川頼房である。これは生き残った子種だが、早死にしたり死産の者は、その後
も慶長八年、そして十年と続き、最後は六十六歳の時に生れた市姫である。
 つまり、竹千代が生れた頃は、舅は六十代の元気盛りで、好きこそものの上手なれ
と、せっせと子作りに骨を折っていた。だから(もしや)とは、江与もかねてその事
に関してずっと疑惑を持ちつづけていた。どうも、それはなんとも怪しいのである。
 もちろん、初め竹千代を抱いて春日局が挨拶に来たとき、
「‥‥乳人(ちちうど)である」
と引き合わされたし、その子の生母は産後のひだちが悪くて亡くなったと聞いた。
 しかし、実の母か乳母かぐらいの事は女の眼ならすぐ判ることである。それなのに
何故、そんな隠し立てをするのであろうか。夫の秀忠も「わしが子種」とは言ってい
た。
 だが、春日局は乳人の必要がなくなった後も、それからずっとこの城内の大奥にい
る。いくら「腹は借りもの」とは言っても、腹を借りるには、まさかつまんできて、
ちょこっと借りるというわけにはゆくまい。つまり腹を借りるには、前もって借りる
ような行為があらねばならない、と体験上から江与は思う。
 そして、そういうようなかかわりあいのあった男女というものは、やはり傍目で見
ても何処か生臭い感じのするものなのである。
 ところが、どうも春日局と秀忠の顔が合うとき、江与はそれとなくいつも瞳をこら
してじっと見比べているが、あれは違う。てんで臭みがない。どうみても、なんの関
り合いとてない。
 だから、その後の奉公の女どもは、春日局を真の乳母のようにも思い込み、当人で
ある肝腎な竹千代さえも、そこのところはまだ何も気づいていないらしい。それなの
に、春日局の子らしいが秀忠の種ではないらしい竹千代が、やがて徳川三代の将軍家
を継ぐという、世にも変な事柄になってきた。
 これでは江与にしてみれば、前途は真っ暗闇でしかない。熱が出て頭痛がするのも
当然である。
 今の夫の秀忠が元気なうちはよいが、もし先立たれてしまったら、あとはもう竹千
代が当主。そうなれば、御腹の春日局が、この大奥の天下をとってしまいは目にみえ
たこと。とても辛抱などできまいと、江与は寝ながら、頭や腹ばかりでなく、すっか
り胸まで痛めてしまった。
 そして、こんな羽目に落ち込むものならばと、つい愚痴っぽくなってしまって、江
与は、
「この夏の大坂御陣に自分も嘴をいれて、なんとか長姉の淀殿を生かしておくべきだ
った」
と、心細さに取り返しもつかぬ後悔ばかりした。なにしろ前途が暗澹としていすぎた
からだ。

 翌年四月十七日、駿府城で舅の徳川家康が死んだ。
江与は頭の上の暗雲が、ようやく取り除かれたように、ほっとした。いくらか、それ
でも蘇生した心地になれた。嬉し涙を噴き出させた。
 まさか歓んで江与が泣いているとは気づかず夫の秀忠は、珍しく側へ姿を見せるな
り、
「そちも力を落したであろうが、余とてもがっくりじゃ‥‥」
などと情けないものの言い方をした。
 そこで江与は、ここぞとばかり座り直して、きっとして眼を据え、
「御葬儀には、竹千代君もお連れなされませ‥‥大御所様は色白なのに、あなた様は
浅黒‥‥されどあの竹千代は、これは肌も白いが、少し吃る口許などは、まるでそっ
くり生き写しではござりませぬか」
と嫌味を言ってみた。そして夫の顔の造作の動きを見つめた。これで、ぎくっとして
秀忠が顔色を変えるようなら、間違いなく「竹千代は家康の子」つまり「御三家」と
呼ばれる紀州、水戸の翌年に生れた家康の一番末の子の男の子に違いない、と見きわ
めをつけようとしたのである。
 ところが家康の死で落胆しきって、動転しているのか秀忠は、ただ、
「うん、うん」と生返事をしただけで、別に眉一つ動かそうとはしなかった。つまり、
江与としては、はっきりした手証は握り損ねてしまった事になる。
「‥‥国松が慶長十一年に生れまするまでは、次々と十年間も女の子ばかり。よって、
これでは跡目がなくてはかなうまじと、伏見城で生れた御子の一人を廻して下された
のが、あの竹千代めにござりましょうが‥‥」
と、思い切って江与は詰め寄ってみたが、秀忠は首をふって、
「‥‥そないな事があろうかや。いくら大御所様が亡くなられたとはもうせ、取り乱
すではない」
と相手にもしなかった。江与にしてみれば、家康の生存中は口止めされていたにせよ、
もう今となっては、気兼ねや斟酌もいらぬこと。なぜ、夫の口からあっさりと、
(そなたが嫁に来て十年、男の子ができぬゆえ、一人分けてもらったのがあれじゃ)
と打ち明けてくれないのが癪にさわってならなかった。もし事実さえ教えてくれたら、
もはや大御所が亡くなって今更何をはばかるところもないゆえ、
(‥‥なにも腹違いの者に譲らいでもよろしいではござりませぬか。こうなったら竹
千代などさっさと廃嫡して、私の子の国松を三代目に立ててやりましょうわいな)
と云えるものをと、江与は恨めしさに身体を震わせて、いつまでも夫の秀忠を睨みつ
けたものである。

 ----何か秘密がある。
 ----この徳川の家には、春日局の子供に跡目を継がせねばならぬ隠し事が、何ぞあ
るに相違ない。それは何じゃろ。
 江与は、あけてもくれても日夜そればかりを考え続けていた。
なにしろ竹千代の事で色々と訊ねるのをうるさがってしまったのか、それ以来、夫の
秀忠も、ぷつりと江与の許へは寄りつかなくなってしまったせいもある。それに、以
前は、「一の側の長局」に引っ込んでいた竹千代が、三代将軍家と決められてからは
「新御殿」の十間もある所へ移ってしまい、つれて春日局も、「ご老女詰の間」の十
畳八畳六畳の三間など拝領して、新たに京から呼び寄せた女どもで、さながら別天地
をかまえてしまった事にもよる。
 だから、かつての「大奥」は、江与の一瞥一笑で采配がとれていたものが、今では
全く二分されてしまった恰好になっている。そして情けない話だが、江与付の直腰元
までが、
「三代様の世の中になったら、今のままではお暇が出るかも知れぬ」
と、密かに春日局の組下の老女にわたりをつけて、そっと付け届けなどしているとの
風評さえも、江与の耳は入ってくる。
 こうなると、まるで追い立てをくっているようで、江与は落着いてなどいられなく
なる。
 そして、昔は、ちやほやされて快活だった国松も、このところは腕白をするどころ
か、神経質な子になって、いつも黙りこくる陰気な性分に変わってしまい、それを見
るたび江与としては胸が痛む。
 だから、なんとかして、
(竹千代を亡き者にして、三代将軍は国松にしてやりたや)
とは思いやるのだが、向こうは警戒が厳重で、とてもそのような考えは空想でしかな
い。
 次第に何ともならない眼に見える縄目で、がんじがらめにされてゆくのは判るが、
どうしようもないのである。
 だから、益々もって、江与にしてみれば、気ばかり焦っても、何一つ思うようには
ゆかない苛立たしさにくさりきってしまい、ずうっと病いの床についた侭になった。
「ご病中に恐れ入りますが、織田家に由縁のある方がお目通りを願って居りますが‥
‥」
と江州から伴ってきている老女が、ひそかに江与の枕許へ知らせに来た。
「誰ぞ‥‥」
と聞いたところ、
「お名前は、お明しになりませぬが、逢えば判る旨との御諚にござりました」
と、そんな口のききかたをした。
どうも侍女や奉公人の類ではないようである。
(はて、織田の一門で、何者であろうか‥‥)
と、年恰好をきくと、五十六、七の僧体だという。
「すると、この身よりも年上らしいが、さて、さて、その御方は何様であろう。もし
かすると心当たりは、亡き信長様の弟御の織田上野介様の姫で、我らには従姉にあた
る方が、以前に太閤殿下の側室をなされていたから、あるいは年恰好からして、その
御方でもあるまいか‥‥なんせ、この大奥では他から人を招くは厄介なれど、相手が
尼様ならば、回向のためにと、お入れすれば大事はあるまい。が、このこと構えて誰
にも洩らすでない。ただ、信心の供養のために招待という事にして、織田に由縁があ
ることなど、あくまでも他言は無用ぞ‥‥」
と、固く口止めをしてから、密かに大奥へ、その尼僧を招き寄せる事にした。

 織田上野介というのは、信長の弟にあたり信包ともいって、昔は北伊勢の安濃津の
城主。
 江与の母の於市御前が、柴田勝家の許へ再嫁するとき、まさか、いくら子持ちを承
知で貰われるにしろ、初っから、ぞろぞろと三人の姉妹を揃えて嫁入り道具みたいに
は連れていけまいと、ひとまず安濃津へ立ち寄って預け、そこから越前の北の庄へ行
ったものである。よって江与達三人姉妹は、その城内で一ヶ月ほど、迎えがくるまで、
母を恋いつつ待たされていた事がある。
 その時、急に於市御前と別れて、孤児みたいになって寂しがっている姉妹を、毎日
色々と慰めてくれ、遊び相手になって玩具など貸してくれたのが、従姉にもあたるそ
この姫である。のち秀吉に召されて「姫路殿」と呼ばれていたお人である。
 その後、父にあたる織田上野介が、大坂冬の陣の始まる前に何者かに毒殺されてし
まい、残された伜どもの末の信重と信則が、当時の伊勢林城(りんき)城の跡目争い
をやった為に、元和元年六月まだ当時は生存中だった家康の逆隣にふれて改易されて
しまった。
 だから、その時から伊勢へもどされていた「姫路殿の消息は」は、ばったり途切れ
てしまった。
 江与としては、幼い時に優しくしてもらった女人であるし、懐かしい織田の血脈の
一人だから、かねて思い出しては逢いとう思っていたところの一人だった。そこで、
「たえて久しくお目もじしてはおらぬが‥‥あの方様ならば、また慰めても下されよ
うし、何かとこの身のためにも言うて下さるお人じゃ」
と、すっかり思案にくれていた矢先の事ではあるし、まるで溺れる者が何かに縋りつ
きたくなるような心地で、従姉にもあたる姫路殿が、江戸城へ姿を見せてくれるのを、
江与は、今日か明日かとすっかり待ちわびていた。
 なにしろ織田一門も、信長様の死後は、昔とはすっかり違って今では零落れてしま
っている。
 先に末の叔父の織田源五郎長益が、死んだ利休の七哲の内にも算えられ、自分でも
「有楽流」の茶を教えていたので、これを江与は関東へ招き、鍛冶橋御門外に邸地を
持たせ住まってもらった事もあるが、元和元年の暮に病んで京へ戻り向こうで亡くな
ってからは、今では「有楽町」と、町なみの名でしか叔父を偲ぶよすがもない。
 その伜どもが兄弟仲よう一万石ずつを分けてもらい、大和の方にいるとはきくが、
出府してきても気兼ねをしているとみえ、江与の許へ挨拶に来た事はない。
 なんせ、昔は織田の一族一門といえば、綺羅星の如く並んでいたものというが、信
長様の姫御前や姫ごさまは、太閤の世の中になると、その枕席に侍って、一度でも御
床御用をせぬ者は、みな行方知れずとなり、男ときたら、これは暁に夕星が一つずつ
消えさるように、みんな知らぬ間に死に絶えさせられ、いま織田の名乗りを残してい
る者とては、大和の有楽の伜どもと、織田常真(信雄)の子等しかいない。
 だからして、江与としては、
「やはり何んと申しても織田一門の、血の繋がりしか、ほんに頼れるものとては‥‥
ありはせぬぞや」
と、ひたぶるに、姫路殿と思われる女人を、恋い慕うようにも待ち詫びた。


               岡崎三郎信康

女の桎梏(しっこく)

「‥‥はて、おことは‥‥」
江与は、怪訝な顔をした。
 姫路殿とばかり思い込んでいたのに、さて逢ってみると、どうも年格好が、まず違
うのである。初め五十代と侍女にきかされた時は、さぞ御苦労をされたゆえ、それで
老けて見間違えられたものと思い込んでいたが、こうして向き合ってみると皺のより
方といい、物腰といい、これでは六十にもなりかけの女体なのである。
(姫路殿からば、長姉の淀殿とは確か一つ違いの筈‥‥こないに年寄っていなさるわ
けはない)
 じっと見つめると、鼻が大きく高いところ、頚すじが羽二重のようにくくれて色白
なところ。まさしく紛ごうことなき、織田の血脈には間違いない顔型ではあるが、ど
うにも見覚えがない。
 が、身分のあった女性らしく、膝に揃えた指も細っそりと伸びていて爪先も、少し
もささくれだっていない。どことなく品の良さが残り香のように漂ってもいた。
「俗名は、五徳にござりました」
と、その女体は、やっと我から慎ましやかに名乗った。
「えっ‥‥」
云われて江与の方が吃驚した。そして、顔を覗きこむように低い声でためらいがちに
も、
「‥‥まこと?」
と聞き直した。息をのんだ。
 なにしろ、あの本能寺の変のあった翌日、安土城にはいたが、二の丸御番の蒲生賢
秀に案内され、ひとまず蒲生の日野城へ避難した事までは聞き及んではいる。
 が、その後はそれっきり、ぷつりと、もう人の口の端にものぼらぬようになった女
性(にょしょう)の名前なのである。
「‥‥大御所様御生前は、いくら尼の身とはいえ、まさか、この江戸城へなど来られ
る身ではござりませなんだえ」
と、五徳は静かに掌を合わせて瞑目をした。それを聞いて江与も、
(そうかもしれない)
と、大きく頷いた。
 なにしろ五徳姫といわれた昔は、生駒将監蔵人(いこましょうげんくらんど)の後
家殿の腹から、織田信忠、信雄に次いで生れた、信長の一の姫である。
 だから贅沢三昧に育ち、衣装を百釣り台も持って、岡崎城の三郎信康の許へ嫁入り
したという、おおげさな伝説めいた話さえも、今なおあるくらいの女人だった。
 その上、我が侭放題の気の強い姫君で、夫の三郎信康が大切にしてくれぬからと立
腹し、
(‥‥今川義元の養女で姪の姫にあたる姑の築山殿が、織田信長に滅ぼされたのを根
にもって、なんとかして、信長の娘である私を追い出そうとして辛くあたる。その上
夫婦仲を裂こうとして、甲州の武田方へ内通して、武田の女を夫へ取り持ちし、あま
つさえ築山殿も武田方の唐人医師の減敬と密通し、夫の三郎信康にも、次いで武田方
の日向大和守の娘までも側室にさせている)
と、信長の許へある事ない事をやきもちから書き送ったばかりに、哀れ岡崎三郎信康
は、岡崎の城を追われて、遠州二股城で切腹。築山殿も浜名湖畔で、無惨や家康から
の刺客の野中三五郎に打ち首にされた。といった噂が今でも広く弘まっている。
 この当時、江与は七歳だったが、姉の初も上の茶々も、身内である五徳姫よりも、
殺された岡崎三郎信康や気の毒な築山殿の方にすっかり同情してしまって、寄り合っ
ては、
「世に酷い女ごもいるもの‥‥いくら信長様の姫じゃからと、権勢を鼻にかけ嫁さま
に行った者が、婿殿や姑殿を殺させる事やある‥‥」
「‥‥ほんに、まぁ恐ろしい女ごよのう」
と、集まってはそんな話ばかりして、母の於市御前から、
「たとえ他人の話がどうであれ、五徳姫殿は、その方等とは従兄の血脈であろうが‥
‥なんで血の流れを同じゅうする者が、そない悪口雑言などしやる。慎まねばなりま
せぬぞ」
と叱られた事が、こうして噂の当人と向き合っていると、まるで昨日の事のように思
い出されてくる。
 今にして考えれば、自分達は父の浅井長政を失い、父なし子の哀れさをかこってい
た境遇だけに、嫉妬から子供心に、信長様の姫である五徳に好感を初手から抱いてい
なかったかもしれない。そんな事を思い出すと、別に五徳の耳には届いてはいなかっ
たろうが、少し面はゆさを感じてしまい、
「‥‥貴女様は、あの後、徳川家の武者衆に睨まれていなされたゆえ、信長様が亡く
なられた後は、さぞかし身の置き所もないくらい、えろうご苦労をなされましたろう
な」
と、蔭口とはいいながら、昔は散々に罵りもして悪く言った相手に、江与は神妙な口
つきで悔やみを言った。だが、それは同じ血を持つ織田一門としての云い事で、やは
り肚の中では、
(よくも、まぁ、この女ごは図々しくも生きていたものじゃ‥‥私だったら夫や姑を、
あない酷い目に合わせて殺したものなら、とっくに後を追いかけ死んでおるわえ)と、
忌々しい気持ちにも駆られてしまい、我慢もしかねて内々では疎ましくなり、
(織田一門とはもうせ、こない者こそ女の風上にもおけぬ不届き至極の悪たれという
べきじゃろう)
と、許しがたい心地で相変わらず癪にさわっていた。
 だから、せっかく城内へ招いたものの、五徳と判ると、もう話すのさえ江与は厭に
なってしまった。
 まったく向き合っているだけでも、うんざりさせられた。早く帰ってほしいと嫌気
がさしてきた。
「‥‥今でも、天正三年の長篠合戦の時の十七歳の岡崎三郎信康殿が若武者ぶりや、
十九の時の遠州横須賀攻めの武勇ぶりは、まるで絵に書かれたようじゃった‥‥と、
女中どもの語り草の一つになっており、あたら惜しき殿原を、僅か二十と一で腹を切
らせて散らしてしまわれた五徳姫とは、さながら悪魔のような女ごじゃと、きわめて
今日びでさえ人気(じんき)が悪い‥‥いくら大御所様は、もうこの世のお人でのう
ても、この江戸城は徳川の城。もしも御身様に粗相があってはならぬで‥‥」
と五徳を引き上げさせようと、江与はそんな意地悪な言い方を、当人を前にして口に
した。
「いや、いや、松平衆には恨まれていようとも‥‥徳川衆には憎まれてなどおり申し
ませぬわえ」
と、意外な事を尼は平然として言ってのけた。だから江与は呆気にとられてしまい、
「‥‥何を言いやる。徳川も松平の一つであろうに」
と叱るよう言ってのけた。
(昔は昔、織田家が世にあった頃とは違い、今は御台所の貫禄で、信長の姫よりもこ
ちらの方が豪いんだぞ)
といわんばかりな口調で、江与は戒めるような口をきいた。
 また、内心でも、少しこの五徳殿というのは、頭がおかしいのではあるまいか、と
も疑いをもった。そして、年のせいでぼけるにしても、ちいとまだ早いが‥‥、とも
首を傾げた。
 ところがである。
その変てこな筈の従姉から、
「‥‥大御所様が『左京大夫』に任官され、徳川姓を名乗る事を奏請されたのは永禄
十一年のこと。そして翌年、畏れ多いあたりより、勅許を賜って二つを区別なされ
『徳川家を宗家』となし、『松平家を族』となされましたのを‥‥御台所さまには、
まだお若いゆえ、御存じありませぬな」
と、ぴしりとやられた。
「若い」などと云われたのは、絶えて久しい事なので、女人の身として、つい、うか
つにもそれに引っ掛ってしまい、にこりとして頷き唾をのんだ。
 が、永禄十二年といえば、姉川合戦のあった元龜元年の前年にあたっている。つま
り江与が生れた天正元年の四年も前の時点だから、そんな事を覚えているどころか、
第一知ってる筈とてない。
「‥‥存じませなんだ。ならば、徳川と松平は、全く別々にござりましてか」
 あっけらかんとして江与は、顔に茶色のしみの浮き出ている十何歳も年上の、初め
て見(まみ)える従姉の五徳に息をのんだ。なにやら江与の知らぬ事を、この比丘尼
どのは知っていなさるという畏怖にも似た念にかられた。
 だから出鼻を挫かれたように、素直にこくりと頷き、江与は両手を膝の上にそっと
揃えていた。つまり畏まって、その茄子色の唇をじっと見つめていた。
「永禄四年十一月一日には、まだ『松平元康』とその名を署名されている御方が、そ
の翌年からは苗字ばかりでなく、名もすっかり変えてしまわれ、永禄五年八月二十一
日の御書状からには『徳川家康』と御署名なされていなさったそうな(『寛永系図』
の『本多広孝譜』に明記されている)‥‥
 古来、姓名の姓だけ変えてゆく例は、死んだ太閤のごとく、姓なしから、木下、羽
柴、平、藤原、豊臣と六度も改姓なさるような例もある。しかし、秀吉は秀吉じゃっ
た‥‥ところが、大御所様のように、姓名の上と下をそっくり一変させてしまうよう
な例が、これまであったであろうか」
と言いさして五徳はきっと唇を噛んで、もう鼠色に見える眼の光を大きな鼻の上で光
らせた。
「‥‥なんせ松平の姓は、松平入道信光様の頃より三河の長者として、世にもきこえ
た名家である。一向宗の者が、『三河松平こそ仏城保護の旦那である』と、再三にわ
たって石山本願寺より頼みにもされていえた御家柄である‥‥なのに、畏きあたりに
願い奉って、その由緒正しき松平を『族』に下ろしてしまい‥‥まぁ文字とは明国か
ら渡ってきた難しいものゆえ、そのような文字をあてはめれば、さも『一族』といっ
たような感じもするが、ありては『ぞく』は所属の『属』の意味である‥‥よろしい
か。永禄十二年の御訴えというのは、その由跡ある松平を家臣となしてしまい、徳川
をもって主人となすという願い出なのである。
 もちろん畏きあたりとて、世が世であれば、上州の白旗党の新田義貞の流れを汲み、
野州の日光別所にたてこもる徳川党の名など、東国の事ゆえ御存じもなく、『異なる
姓をもって、古来より筋目の通った松平姓を属とするなど勅許なり難し』と斥けられ
たものと拝されるが、姉川合戦の前の御所というは、口にするも恐れ多い極みである
が、応仁の乱このかたの戦乱にて、禁中御用の御台所倉入りの米さえも地方の豪族に
押領され、まこと日々の生計にさえ事欠く有様であったと洩れ承る‥‥
 よって俗に申せば『背に腹はかえられぬ』の類でもあろうか、その願い出に添えら
れた銭の二千疋が御入用の為に、やむなく眼をつむって勅許なされたものと拝察され
る‥‥つまり亡き大御所というは、畏きあたりの御衰徴に目をつけ、勿体なくもこれ
を己れの為に利用し、稀少な阿堵(あと)物を奉って、それを餌にして、徳川という
ものを強引に松平の上におくことを公に許していただき、もって三河の松平党を、そ
の下風にしてしまわれた狡猾な御方なのではある‥‥」
「‥‥そない仰せられますると、あの三河の一向門徒の乱と申しまするのは‥‥松平
党と結びついていた一向宗の者どもが、新領主の徳川家康殿に対し、失地回復のため
に蹶起したものでござりまするか?」
と江与はきいた。
 徳川ニ代将軍の室である自分が、五徳にこんな事を聞くのは妙な気もしたが、なに
しろ徳川家というのは、判らぬ事が多すぎるせいなのである。
「‥‥いかにも。亡き大御所は、一向門徒も退治されたが、松平党にて屈伏せぬ者も、
ついでに皆殺しにしてしまわれた。よって松平の郎党上がりの旧臣や一族は、この時、
家康殿にあくまでも抗戦し、後に力尽きて降伏したが、今の幕僚にしてからが、大老
をはじめ老中どもの要職を占める者に三河者は一人といえど入っていまい。酒井家は
遠州浜松、榊原家は伊勢白子の出、井伊家とて遠州井伊谷の出身じゃろが‥‥松平党
の旧臣にて当代様にも用いられているのは大久保党のみであるが、あれは渥美半島の
出身で、今もかの地は弁財天をはじめ七福神をもって、その全地域を区分するような
信心の土地柄で、大久保党とて一向門徒の仏信心ではなく、もともと『蘇民将来』と
申す神様信心の輩よ。よって大久保彦左などは、同じ信心系統の弾左衛門配下の日本
橋海女店(あまだな)の魚河岸へなど、よく顔を出して、棒手振りの魚売りなどを、
己れの組下同様に目をかけているときく」
と、五徳はそこで初めてにんまり笑ってみせた。
 江戸という土地柄は、小田原御陣後、それまでの三遠駿の三国を秀吉に召し上げら
れた家康が、この関八州の元締めともいうべきところへ入ってきた時、「白徒」と呼
ばれる白信心の民の多い土地柄ゆえと、自分も白衣を纏って入国してきたとかで、そ
の入府した八月一日の故事を偲んで、今でも「八朔の祝い」と呼び、城中でも夫の秀
忠や男の大名や旗本共だけでなく、御台所の江与や端下女のお末に到るまでが白晒木
綿の白衣姿になる。
 それに、江与は女だから、じかに見に行ったわけではないが、日本橋海女店(あま
だな)に続いた葭原(よしわら)の遊女共も、この日は白衣を纏って客をとるという。
つまり江戸中がこの日は白一色になってしまう。

<この頃の旧暦の八月朔日は現今の九月にあたり、もう秋風のたつ頃なので、なにも
暑いからといって、白に着替えるというのではない。しかも祝日なので一日きりであ
る。
 そして、当時の江戸は、始めに日本橋を架けたのも弾左衛門家なら、室町から神田
・上野へかけて土地を差配していたのも弾家である。だから、家康は、弾家支配を墨
田川の向こうとして、ここに江戸の町割りをしたと、江与などは聞かされている。
 弾左衛門はそれまで日本橋に住んでいて、『室町弾左衛門』を代々にわたって名乗
っていたが、その後は改め、川向こうの葭っ原が疎なところから、『浅草』とよんで、
その姓も『浅草弾左衛門』に変えたというが、もともと日本橋は室町時代からの弾左
衛門由縁の土地なので、薬師堂のある小伝馬町には牢屋敷をおいて、その支配となし、
日本橋を架けたからと、通行者より橋銭をとっていたのは徳川家で廃止させたが、橋
を中心にした海女店五十軒の出店と、葭原の遊郭はその侭に弾左衛門の直轄になって
いた。
 ----だから、幕末までは仏教を信ずる宗派の者は魚河岸へ仕入れに行ったり魚屋は
できなかったから、対抗上、坊さんは『生臭さ』と称して魚食を遠ざけていたり、江
戸八百八町の岡っ引や下っ引の御手当というのは弾家支配ゆえ、新吉原に移ってから
も、これは遊郭の元締めから支給されていたのである。もちろん江戸だけでなく、こ
の制度は明治初年まで全国共通である。
『大久保彦左と一心太助』の講談が、江戸中期から今日までもてはやされているのも、
大久保党のような、はっきりした信心系統は弾家を庇う立場になっていたから、魚河
岸と縁が浅くないのは周知の事で、一心太助は虚構の人物であっても、江戸人には同
族意識で好かれていたらしい。
 また、遊郭が各地とも白旗党の残党の世すぎの生業となっていた江戸時代には、そ
この妓たちの店での『高尾』とか『薄雲』といった芸名を、仏教信心のほうでは、こ
れを源氏の残党だからと、『源氏名』などと呼んでいたものであるし、源頼朝が義経
を捕らえる為に、『総追捕使』という、現今なら最高検察庁長官の職になってしまっ
た時から、各地の別所の長吏に逮捕権や収監権をもたせてしまった名残りが、江戸期
になっても、各地の番所の番太郎や『御用』『御用』の警察権は、みな、この信心の
者つまり、白旗党の末裔という事になった。
 そして、彼らは『白』と自称して、もし捕らえた者が墨染め衣を着る仏徒側の者な
ら、『黒だ』と断罪し、同族と判れば『白だ』と釈放した。相当に徹底した処断ぶり
を見せたらしく、無実で罪に落された黒が、白州へ出て再審を願うのを、当時の言葉
で言えば、『黒、白を争う』という事になっていた。
 村方でも、村役人は、やはりこの白旗党の末の八部衆というのが棒をついて勤めて
いた。(近江の佐々木高綱が旗上げして頼朝側に加わった時の旗指物にも、堂々と
『八起し』と墨書きしてある)
 この連中が維新になってから、
『これまでよくも威張ってくさったな』
と村の百姓につまはじきされ出したのが、今日の『村八分』の起こりなのである。
 そして、旧幕時代の警察官は東北系の白旗党の残党だから、バッタバッタと斬って
もよろしいというので、故阪妻や故大河内伝次郎の『忠治旅日記』などでは、御用御
用と一遍に百人も斬ってしまう事ができた。
 だが、明治六年に薩摩の川路大警視が警視庁を作ってからは、警察官の人種が西南
系になったから、一人といえど殺傷してはならぬと、内務省警保局で昔は検閲をした
ものである。>