1107 謀殺  7
美濃御前(おのうごぜ)と呼ぶ女

「お濃の方様というは、去る天文十八年、十五歳で那古屋の城へ嫁入りしてござって
からも、威張り放題のきつい気性‥‥この身が、そなたぐらいの年頃じゃったが、ど
ないに意地悪されて、いびられたか判らぬぞえ」
と、於市御前は床の中で茶々にそんな話をしていた。
 同じ姉妹でありながら、上の茶々は、いつも母御前の友達のように話し相手にして
もらえるのが江与には妬ましく、ふだんなら転がっていって割り込み、邪魔をするの
だったが、今宵は、それができかねた。
 まるで重大な相談事でも二人にされているように思え、気兼ねして、じっと暗い天
井を見つめながら耳だけを澄ましていた。なにしろ、このところ色々と子供心にも心
配になってきたものだから、すっかり脅えきってもいた。
「本能寺で信長という人が囲まれなすったは、六月二日の夜明け前。信忠殿が討死さ
っしゃったのも、辰の上刻(午前九時)ともいう。それなのに、なんで、その日の、
しかも朝のうちに京の出来事がこの岐阜にまで届いていたのやら。向こうを昼に早馬
に乗って知らせが来ても、三日の夜‥‥どうしても一昼夜の余はかかる。それが何よ
りの証拠には、信忠殿が二条薬師の妙覚寺で泊まっていられたが、防備しかねると二
条城へ移られる時、こちらへ出された使者の者が、途中で馬を乗り潰したとはいえ、
やっと辿りついたのは、この五日の朝じゃった‥‥なんとも解しかねる」
自問自答というのであろうか、於市御前はそこを気にして、力を込めて呟いていた。
 そして、続けて、
「京の本能寺の変が、その日に判ったというのは、こりゃ前もってここの斎藤玄蕃允
殿は、知っていなされたものと違うじゃろうか」
と、茶々にきいてもしかたがないような事を口にした。
 もちろん返事のしようがないから、茶々だって無言である。
それなのに於市御前は、
「もともと、この美濃の国はお濃の方の実家‥‥それを信長という人は、長良川の鮎
が食したいやら、美濃の金山が手に入れたいとの野心を出されて、お濃の方の親父様
の斎藤道三入道の事を、やれ『まむし』だの『悪党じゃ』と言いふらされ、最後は父
子喧嘩までさせてしまい道三入道を亡き者となし、それから、おもむろに桶狭間合戦
でしこたま奪ってこられた鉄砲を使って、四年かがりでこの美濃を占領なされた‥‥」
と、そこで口をつぐみ、しばらくしてから眼をすえられたままで、
「ううん」
とうめきをもらされた。
 すると初が脇から這い寄ってきて、顔をすりつけるようにしながら、
「かか御前さまえ‥‥お具合が悪いのかや」
と心配そうに尋ねかけた。
「違う、違う」
と於市御前は白皙(はくせき)の端正な顔をふり、初の髪の毛を撫ぜてやりながら、
「気づこうてくれるは有りがたいが、加減など損のうては居らぬ‥‥気にしやるな」
と抱きかかえるように己れの寝床へ入れなされた。
 だから江与は自分もそうしてほしかったので羨望の眼差しを向け、妬情を覚えた気
がする。
 しかし於市御前は幼い娘達の事よりも、それは大切な事らしく、今度は半眼を閉じ
たまま、
「わたしが、あの美濃御前(おのうごぜ)の立場なら、なんとするじゃろ」
と一人で呟いた。そして、
「安土に天下一の城を築かれ引っ越しなされた後なら、この美濃一国ぐらいは旧の持
ち主の斎藤道三の由縁の者‥‥末子にあたる玄蕃允にでも戻して遣りなされたらよい
ものを‥‥信長というお人は、お跡目の信忠殿に譲られて、玄蕃允は唯の家老職につ
けられたきり‥‥あれでは斎藤道三の長女にあたる美濃御前は面白かろう筈はない‥
‥もし、この身がその立場なら、昔より血は水よりも濃いとも申すゆえ、やはりこの
美濃を取り戻して亡き斎藤道三の供養をするため、異母弟とはいえ玄蕃允を、この岐
阜城の主に据えようと、ひたすら心をくだくは当り前の事じゃろ‥‥」
と云いさして、一息いれてから、またしても於市御前は、麗しい顔に暗い翳を引きつ
り気味に漂わせ、吐息を続けて洩らしながら、
「というて、そないな談合をなしても、それで話し合いのつくような、信長殿はもの
わかりのよい男ではない。じゃによって、夫と名のつく者と親兄弟を天秤にかけて、
美濃御前は、肉親の血の流れこそ愛(めご)じゃ、と、どこで決断をなされたやもし
れぬな」
と唸っていた。
 江与の幼い頭では、母の独り言を聞いても確かとは判らなかった。だが、話の具合
では、家老でしかない玄蕃允殿をば、美濃の国主にするための謀のようで、それが初
めから仕組まれ、六月二日の本能寺の変は、前もって判っていたからこそ、同日の朝
のうちに、玄蕃允殿は国内の美濃武者共を集めて城内へ引き入れ、残留していた信忠
様の家臣の尾張者らを、一人残らず城外へ追放し、境目の木曽川まで追い立てをくわ
せるように押し出してしまったように聞える。
 つまり、二日の夜から三日にかけて、美濃衆が、占領軍の尾張者を城内から一掃す
る大騒動になったので、母御前の於市の方も、それが鎮まるまでは城内の何処かへ軟
禁されてしまい、おかげで幼い姉妹は夕方まで放っておかれて、危うく日干しにされ
かけたという事になる。
「‥‥この身とて美濃御前の女心は判らいでもないが、なんというても昔から、小姑
扱いをされて、この身はあの方には好かれてはおらん‥‥幸い玄蕃允殿は十一の時、
長良川合戦で道三入道殿が討死される二日前に、鶴山の御本陣から当時の清洲のお城
へ、信長という人の出兵を求めるための人質としてよこされ、そのまま道三入道殿の
死後も清洲にて成人されており、この身とて当時は不憫がって、あの玄蕃允殿へ何か
と、私は親切にもしてあげたゆえ、その頃の事を今も恩にきておられ、『御方さまは
従来どおりに何の不安もなしに、気楽にしていなされませ。構えて御心配には及びま
せぬ』とは言ってくれる。他の家来共の前で約束もして下された。よって間違いはな
いとは思うが‥‥この身をあまり好いてはござらぬ美濃御前が、この際のことゆえ、
勝ち誇り昂ぶった気持ちにて、もしも、この身を処分せいとでも指図してきたらどな
いになるじゃろ。なんせ玄蕃允殿は異母姉というより、まるで母のように幼い頃より
厳しく躾なされていたゆえ、おそらく楯ついてまでは、この身を庇い通される事はで
きなかろう‥‥
 もちろん、この身は夫の浅野長政に先立たれて十年。いつ何時なりと命を召された
とて惜しゅうはない。歓んで泉下の夫の許へはゆけるつもり‥‥だが、そうなって不
憫なのは、この三人の娘達の事」
と、母親らしく於市御前は脇に添い寝している娘達を見廻しておられた。
 しかし、話の途中で、茶々や初は、もうすやすやと寝息をたてていたし、最後まで
耳をすませていた江与も、その頃は誘われるように、やはり眠くなってしまって、眼
をつぶったままで欠伸をかみころしていた。そして、いつ寝ついてしまったのか、今
となっては覚えもないが、母の於市御前の独り言を、そこのところまでは耳殻へ入れ
て、どうにか記憶している。
 だから、あの時、もう少し詳細に、母の話をよく耳へ入れておけば、
(伯父にあたる織田信長を殺したのは、いったい誰なのか)
といった事も、よく判ったろうにと思えて口惜しい気がする。
 しかし、それは江与が大人になってからの智慧。その時は、もう眠たくて、そんな
慾などあろう筈もなかった。
 (しかし、そういえば‥‥)
と、江与は、また別の事が続けて思い出されてきた。
 その母の於市御前が柴田勝家の許へ三人の娘もろとも嫁がされ、翌年、北の庄を秀
吉に滅ぼされ、母は勝家と共に爆死して生害を遂げたが、茶々をはじめ三人の姉妹だ
けは、また助けだされて城外へ出てからの事である。
 成人した姉の茶々は、秀吉に望まれて側室になった。もちろん初と江与は、いくら
秀吉が豪くなって太閤殿下と呼ばれるような身分に成り上がっていても、昔の秀吉の
頃をよく知っていたし、それに、年齢が祖父と孫ぐらいの隔たりがあるのも弁えてい
たから、
「よしなされ」
と止めもしたり、
「姉じゃが憐れじゃ」
と泣きつきもして、しきりに諌めてみた。
 もちろん今になって思えば、あの時いくら幼い妹達が反対したところで、太閤殿下
の権勢に逆らって、その意志に反する事はできなかったであろう。
 だが、先に父を失い、また母を奪われた姉妹にしてみれば、三人が一心同体のよう
なつもりにもなっていたから、まるで自分らまでが、こみになって側室にやられるよ
うな気がしてしまい、
「止めてたも」
と両側から茶々の袖をひっぱって泣きついたものである。
 すると、その時だったか、もそっと後だったかは、よく覚えていないが、
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」
といったような難しい事を、そっと茶々に云われたような気がする。
 もちろん、そんな漢語を使われたところで、初にしろ江与にしろ判ろう筈はない。
ただ、ぼんやりと聞いていたにすぎない。だが、後年になって、その意味を他から教
わると、
「ははぁん」
と思い当たる節がないでもなかった。
 というのは、死んだ於市御前の弟にあたる織田源五郎様をはじめ、従兄にあたる織
田信雄様らは、みな、
「信長殺しの元凶は太閤殿下」
と思い込んでいて、織田信雄のごときは小田原御陣の時に、
「なんで、わが父の信長を討たれましたぞ」
と酔った勢いで面詰し、すっかり太閤を激怒させ、すんでのところで殺されかけた。
しかし、中に入る者があって、領地没収で追放となり、命拾いした当人も剃髪して
「常真」と名乗りを変えたくらいだから、茶々を秀吉の側室にすすめた者も、おそら
くは茶々に、
「我ら織田一門を落日の運命に突き落したる、かの本能寺の変の真の犯人。誰が信長
殺しかをつきとめるためには、眼をつぶって太閤の許へ行きなされ。なんせ虎穴に入
らずんば虎児えは得られませぬと譬もありまする。おみさまの操で、信長殺しが秀吉
か、どうか探りなされませ」
と言い含められ、織田の血を引く茶々は、敵地へ乗り込むつもりで「淀殿」になった
のではあるまいかと、遅まきながら近頃になって思うが、もう長姉の淀殿は大坂城で
死んでしまった後だし、聞き出したくても何ともならぬ始末である。

 さて、また遡って天正十年N六月の話だが、これは当時、母御前も奇妙がっていた
が、本能寺が夜明け前に囲まれ、爆発したのが午前七時から八時だというが、その頃
既に岐阜城は右往左往の大騒ぎだった。なにしろ姉妹がまだ寝ているうちから、母の
於市御前は呼び出されたのか、姿を見せずだったし、おかげで三人とも夕方までひも
じさに泣かされたものである。
 おそらく六月二日の事は、少なくとも一日前から斎藤玄蕃允の許へ急使がたてられ、
夜明けには、もう伯父の信長が殺される事を前もって知っていた傾きがある。
 まこと、おかしな話で、いつか夫の徳川秀忠に話したところ、
「まさか‥‥」
と一笑に附されてしまった事がある。
 だから、よそでは織田信長の思いもかけぬ本能寺の急変で大混乱をしていたようで
あるが、ここ美濃の岐阜城は、それとは正反対のような有様だった。
 始め城代の一両日の混乱は仕方もなかったが、早くも六日には郡上から農民どもが
祝いの踊りを奉納に来たり、
「美濃人の手に、やっと美濃が取り戻せた」
と、国中が和気藹々としていた。
 はたでみれば、国主であった岐阜中将信忠が、主だった五百余の者と共に、京の妙
覚寺から二条城へ移って、そこで爆裂にあって玉砕。そして、その留守の城は、すば
やく家老の斎藤玄蕃允が乗っ取って、これまでの織田の天下を、たった一夜で崩して
しまった事ゆえ、さぞ大騒動と思われがちだったろうが、実際は少しもその気配はな
かった。おかしなぐらいのんびりとしていたように、江与は記憶している。
 もし他所から玄蕃允が攻め込んできて、岐阜城を乗っ取ったものなら、これは話は
違いもしようが、なにしろ一首名(おとな)の城代家老として留守居をしていた彼が
新城主ゆえ、たいして変化がなかったのかもしれぬ。
 それに玄蕃允は、若い頃は越前征伐に廻され、武功もあげてきた男だが、案外気さ
くで馴染みやすい人柄だったし、それに子供好きの性分なので、表向きは虜の恰好に
もとれる信忠の遺孤の三法師や、江与らの三姉妹にも、これまでと同様に優しくして
くれたものである。
 それどころか、大垣から収納してあった乾柿などは、気前よく沢山配ってくれたり
して、子供らは前よりもずっと手厚くもてなされていたともいえる。
 十一歳の幼少の頃から清洲城でお濃の方の弟御として育ち、当時、奇妙丸と呼ばれ
ていた信忠様付のお側衆のように、起居を共にしていた関係上、その信忠様の御子な
どは、まるで我が子同様に思っていたせいもあるだろう。時々、暇をみては覗きに来
て、にこにこしながら、
「三法師様、何事も大丈夫でござりまするぞ。ちゃんと玄蕃允が、お跡目をたてられ
るよう、お守り申しまするでのう」
などと、幼い和子を抱え上げて、頬ずりなどしているのも見かけられた。だから、そ
れには母の於市御前もすっかり呆れられてか、まさか、その面前では云わずだったが、
後になって、
「己れの姉が黒幕になって、このたびの本能寺の騒動を起こし、自分はここの城主に
もなったお人が、いくら三法師が可愛いとは申せ、織田信長の孫にもあたる者に、と
んでもない忠義顔をする」
と洩らしてなどおられた。
 また、城内の美濃衆の縁辺の者でも、信忠の供をして二条城へ入り、そこで不運に
も爆死を遂げた者も、かなりいたようであるが、だからといって新城主になった斎藤
玄蕃允に、とやかく言う者もいないようだった。
 もちろん、温和な玄蕃允の人柄が慕われていたという事もあるが、他にも事由もは
っきりあった。
 というのは、城代として留守居をした斎藤玄蕃允は己れの唯一人の伜を、信忠の側
小姓として参陣させていた。ところが、その斎藤新五郎が信忠の殿の側で爆薬にふっ
とばされて甲斐甲斐しい最後を遂げた事が、生き延び逃げ戻ってきた者の口から伝わ
ってきたので、他の遺族も新領主の玄蕃允を気の毒がって、同情こそすれ、とやかく
云えもしなかったようである。
 それから、女ごといえど、尾張者は次々と土地の言葉でいえば、「ぼい出され」て
しまったので、姉妹の世話をする侍女達もすっかり入れ代わってしまった。しかし、
結び飯をつくって届けてくれた老女だけは、於市御前に昔から奉公の江州者だからと
いうのでとり残された。
「なんせ、永禄七年八月に、この城を占領されてからの尾張者の仕置きは、とても酷
うござりました。美濃者はみな奴隷扱いにされてしまい、男は雑人。戦の時は『人間
の楯じゃ』と、矢防ぎの道具代りに、まっさきに押し出され、女ご衆は慰安女(なぐ
さみめ)として無理矢理に連れていかれ、遠くは山城、伊勢と、織田様の軍勢の後か
ら縛られて、牛のように曳かれてゆきましたげな‥‥だで、信長様に怨みをはらそう
と、永禄八年と九年に、長島へ身をひそめておられた、先の国主斎藤竜興様が、当時
の井の口の城を、この今の岐阜城に改築中のところを狙って奪還に来られた時など、
すっかり美濃者は泪を流して喜び、力を合わせて国土取り戻しに攻めかかって参った
のでございりまするよ」
などと、その老女が言えば、
「知ってる。えらい大きな戦じゃったそうな‥‥して、その時かや、いま備中へ行っ
ている羽柴秀吉様が、州股(すまた)の砦をこしらえ立身したという話は‥‥」
と、ませた声で、まだ一緒だった姉の茶々がものしり顔で聞いたりした。
「さぁ、その頃は、まだ私めは小谷の城内にいましたゆえ、詳しゅうは聞いておりま
せぬが、なんでも、あそこの砦は、ほれ、このお城とは眼と鼻のところ‥‥」
と開け放した連子格子の突上げ戸から、眼下を見下ろせば、金華山の緑の山影に染ま
ったようにも長良川の水面は太い帯になって流れていて、そしてすぐ下流に、浮島の
ように白塗りの土壁をみせている州股の砦が眺められる。
「そうか、普請中だった、この城を取る足場にもと、向こうは彼処をとりにくる。織
田方は、この城を守り抜くために、何としても敵手に奪われまいとする。双方でとり
っこじゃな」
と茶々が姉らしい口つきで、さも判ったような事を、幼い姉妹らにひけらかすような
言い方をするから、江与など、こっくり頷いて聞いていたものである。
「股聞きの話ゆえ、はっきりはしませぬが、なんでも織田方の豪い衆が、あそこへ防
禦用の取出しを何度作りに行っても、周辺の美濃者が火をかけては焼き落してしまう。
もう、いたちごっこのくり返しで、このままでは板囲いで普請中の、この岐阜城が敵
にとられかけて危ない時、当時は軽い身分で木下藤吉郎といわれた秀吉殿が、そのお
嬶などの智慧を借りられ、調略で、まんんまと砦を堅固に作ってしまわれたそうな‥
‥にござりまする」
と、老女は茶々に向かって指差しながら話をしていた。
 しかし、初や江与は、そんな昔話など聞くより、山の下まで降りていって、河原で
水遊びがしたいと老女にせがんだものである。しかし、
「さぁ、ご城門を出ることは、お差し止めにござりましょうほどに」
と止められてしまった。

 やがて日がたつと、本能寺の変で一人で大働きしたのは、やはり美濃者で、こちら
では「美濃三人衆」などと言われている安八郡曽根城主の稲葉一鉄の姪御を室にして
いる斎藤内蔵介と伝わってきた。
 美濃者からすれば、時の英雄なのであろう。稲葉一鉄の人気が俄に高まってきて、
「斎藤内蔵介殿の指図にて、岐阜城主は斎藤玄蕃允から、改めて稲葉一鉄殿か、また
はその兄で内蔵介の舅にあたる稲葉通明殿に代わられるやもしれぬ」
とも、ひそかに蔭沙汰が城中へもひろまってきた。
 ----後年、まさか、その斎藤内蔵介の末娘の於福が春日局となって、自分と同じ江
戸城に住み、楯をついてくる女ごに成人しようなどとは、当時十歳の江与には気づき
ようもない。
 ただ、
(今のままの玄蕃允なら、乾柿をたんとおくれなされてよいが、また城主様に代わら
れては、こりゃ難儀よのう)
と思うくらいのところであった。
 しかし、母御前はそうではなくて、京の斎藤内蔵介より指図の美濃御前が、同じ女
ゆえ、なんぞ意地悪されはせぬかと、ただそればかりを案じておられたようである。
 ところが、十二日の夕景から始まった山崎の円明寺川原の合戦で、翌十三日には勝
敗がついてしまい、
「数が一万足らずの明智方が惨敗。秀吉側が勝ってしまった」
と岐阜にも噂が伝わってきた。
 そのため、安土城に入っていた明智光秀の娘婿の秀満が、残兵をまとめて安土城か
ら坂本城へと琵琶湖畔を廻って引上げた際、信長の次男にあたる信雄が土山より出陣
していき、これに日野別所の蒲生忠三郎が案内役になって合流。そして無人の安土城
を囲んで放火した。
 しかも何人も消火に近づかぬよう、また、城内からは鼠一匹も逃げ出さぬ手配りで、
厳重に四方を遮断して、七層の巨城を一挙に灰塵にしてしまったという知らせが届い
てきた。
 取沙汰では六月三日に、安土城にいた上臈衆はみな二の丸御番だった蒲生賢秀が、
ここでは守護しきれぬからと、己れの日野の城へ移したが、肝腎なお人だけは頑とし
て動かれず、よってその事情を知っている蒲生賢秀の伜の忠三郎が信雄をそそのかし
て、安土城を包囲させ焼き討ちにしたのだとも伝わってきた。
「肝腎なお人」というのは、鬼神の再来のような織田信長という人でも、「三舎を避
ける」と恐れていた古女房にあたる奇蝶御前。つまり美濃御前と呼ばれる濃姫の事で
あるらしい。
 その話を聞くと、そこは腹違いでも唯一の身寄り。しかも杖とも柱とも頼んでいた
姉にあたるだけに、斎藤玄蕃允は見た目も憐れなくらいにがっかりした。
 すっかり気落ちして閉じこもってしまったようだが、それにひきかえ、於市御前の
方は、やっとの事で愁眉を開いたようにほっとなされて、
「‥‥これで、もう案ずる事もなくなったぞえ」
と久方振りに臈たけた頬を晴やかにみせ、少しはしゃいだような声までたてられた。
 だから、江与をはじめ上の姉達も、小さな口許を揃えて、
「安堵、安堵」
と、わけもわからぬまま祝い合った覚えが、今でもはっきり残っている。
まだ幼く、母の喜びは自分らにも良いことだろうと、素直に受け取れる年頃であった
からである。


於市の方さま

 織田信雄の異腹の弟に神戸三七、又の名を織田信孝というのがある。当時、伊勢神
戸の荒神山の近くにある神戸の城主小島民部の生母である板(ばん)御前という女人
に、信長という人が後腹で作らせ、そして産ませた御子で、三番目ゆえ人呼んで「ご
三男さま」ともいう。
 その三七信孝が、羽柴秀吉に「名代」として奉じられ、軍勢を率いて美濃征伐にや
って来た。
 本陣は長松から大垣に迫っていたが、そこへ備中高松の救援に信長様の命令で「名
代役」に先駆けされた堀久太郎秀政が真っ先に合流して加わって先陣になっていた。
 なにしろ、堀久太郎の手勢は、坂本城を屠り占領した余勢をかっていたので勢いが
よく、進んで先手として美濃入りをしたのだが、もう州股の砦まで入ってしまってい
た。そして直ちに岐阜城へ、
「速やかに開城せよ」
という使者をよこした。
 なにしろ岐阜城内には、二条城で討死した織田信忠の遺児の三法師をはじめ、信長
の異腹妹の於市御前や、その小さな三人の姉妹が、まるで人質のようにいるから、寄
手としても、力攻めでワアッとかかってくるわけにはゆかなかったのである。だから
して、穏便にと無血降伏を求めたのだろう。
 そこで、岐阜の新城主斎藤玄蕃允は、信孝や秀吉という何万という大軍には抗すべ
くもなく、まるで屠所へ曳かれる羊のように、山を下って眼下の州股の砦へ行き、そ
こから長松へ連れていかれた。
 翌日になって玄蕃允は秀吉を案内し、また岐阜城へ戻ってきたが、腰の太刀も召し
上げられて、丸腰のままだった。そんなしょぼくれた玄蕃允を見かけると幼い姉妹達
は、
「‥‥乾柿を仰山に下された良いお人じゃに、救うてやんなんしょ」
と、母の於市御前に甘えた。
 というのは、周囲の気配では、たとえ二十日近くとはいえ、美濃一国を横領して、
ほしいままに岐阜城主の座にあったのは大罪で、軽くて切腹。悪ければ美濃人への見
せしめに長良川原で張付にされるなどと噂されているのが、幼い江与達への耳へも入
っていたせいなのである。皆気の毒がって心配した。
「‥‥そういえば、玄蕃允どのは二十日にわたって、この美濃を取り戻して、ご自身
が城主になってしまわれたとはいえ、別に専横な振舞いをなされたとか、無茶をした
というのではない。強いて我慢をされたとすれば、大垣から貢入りした乾柿を、信忠
殿は大切にされ、蔵っておられたのを、気前よう出されて、そなたらや城内の甘味に
飢えとる者に配られ、御自身も堪能されるくらい食されたくらいじゃろ‥‥まぁ、大
の男が柿とって喰ったくらいの咎で、張付も、ちいと酷かろう」
と、於市御前も、すぐさま承知してくれ、姉妹達の頭を撫ぜられ、
「今でこそ大将面しているが、あの秀吉は昔は藤吉郎というて、清洲の城では、この
身のお守りなどもした下賎な者。よく、この口から言ってやりましょうわい」
とは、約束はしてくれたが、
「九年前には、横山城から攻め込んできた藤吉郎めに、小谷の城は真ん中の廓の京極
曲輪を落されて城を中断され、舅の殿と連絡できなくなった夫の浅井長政は、あたら
三十前の若さで、この世のものではなくなり、そならたら三人とこの身は、藤吉郎め
に迎えられ、この岐阜へ来たのじゃが‥‥今度ばかりは、どないな事がよしあったに
せよ、構えて、もはやここは動かぬえ」
と烈しい口調で独り言を洩らされた。
 そこで江与はすぐさま、ここぞとばかり、
「それがよろしゅうござりまする。なんせ、ここのお城の糒倉(ほしい)には、まだ
まだ乾柿の串刺しが山ほど積んでありまする程に‥‥」
と云い添えたところ、於市御前は情けなさそうな顔をして、
「‥‥そもじらは、すぐ食する事ばかり口にしやる。さもしやのう」
と、たしなめられてしまった。

「‥‥これは、御方様。たえて久しぶりに御麗顔を拝しましたが、いつもながらの、
あでやかさ----また姫達も、つつがなく皆大きゅう成人されまして見違えるばかり‥
‥」
そんな口のきき方を、渋紙色の顔をした男が、一息に早口でしゃべった。
「わられをはじめ、三法師殿(後の織田秀信)が、みな、このたびの天下の大変に際
し、美濃の当岐阜城にいながら至極安穏。何の気遣いもなく無事だったのは、こりゃ、
ひとえに斎藤玄蕃允が心を込めて守っていてくれた賜物ぞや。よって、そちらも一言、
ねぎらいの言葉をかけてやりやぁ、なぁ‥‥」
と、故主信長の妹として、江与の母は厳しく秀吉に行った。
 だから、その於市の方の言葉を聞いてびっくりしたのは、当人の秀吉よりも、畏ま
って離れて座っていた玄蕃允の方だった。すっかり感激したように、
「うへぇッ」
と大声を出し、叩頭してしまっていた。
 それを振り返って眺めながら秀吉は、少ししたり顔をしてみせ、
「御方様が、そない仰せあるにおいては、本来ならば謀叛人の一味として生かしてお
けぬ男ではあるが、まぁ、お言葉の趣きを三七様にも申し上げ、よしなに取り計らい
ましょうわい」
と請けあってから、じっと於市御前よりも娘の茶々の方に眼を注ぎ、
「その昔、われらが清洲へ御奉公のみぎり、丁度、御方様にも、こちらの茶々様ぐら
いのお年頃にござりましたかのう‥‥」
と懐かしげに、そんな古い事を言い出した。
 於市御前も、自分のとりなしを早々に承知された手前、お返しというのは、少し笑
顔を作ってみせられ、茶々の方を振り返って手を伸ばして髪など撫ぜてやりながら、
「この子らも齢をとりましたもの」
と微笑みかけられたが、秀吉は泳ぐように大きく手を振り、
「滅相もない‥‥ご姉妹のように拝せられまするが、茶々様と母子などとは、どう間
違えても見えられなどは致しませぬ‥‥お若い、お若い。於市様は、まだ娘御のよう
でござりまするがね」
と言った。だから、於市御前もすっかり赤くなって照れくさそうに、どぎまぎされ、
「‥‥そないな事があろうかや」
と竜田紅葉の打掛けの襟をひいて顔を埋められかけ、横を向きざま、傍らの江与の方
へ手を伸ばされた。そこで、江与は自分も頭を撫ぜてもらいつもりで、寄り添うよう
に身体を乗り出し髪を前へ差し出した。しかし撫ぜてはもらえずだった。というのは、
なにしろ秀吉が、
「‥‥手前も、まだまだ若いつもりで、このように張り切っておりまするが」
と、黒板一枚胴の漆金をポンポン叩いて、肩袖鎧を左右にふって音をさせるものだか
ら、自分の事を若いと云われたのかと、すっかり気をよくされていた於市御前も、す
っかり興ざめしてしまわれたらしく、うつむき加減になりながら、低い声で、
「それもそうじゃのう‥‥」
などと、口ではばつを合わせられはしておられたが、せっかく伸ばしかけの白い細い
手先を引っ込めてしまわれた。
 だから、頭を突出し背を曲げたままの江与には、いつまで待っていても、ひとつも
撫ぜてもらえはしなかった。がっかりさせられた覚えがある。

 於市御前の口ききが功を奏したのか、美濃衆が又騒ぎだしては難儀と考えてか、そ
こは判らぬが、新たに三七信孝様が美濃国主と決まると、玄蕃允は助命された。そし
て、改めて家老職になる事になった。これではまた前に逆戻りである。
 だが、今度は伊勢の国から三七様の前からの家老の岡本良勝がついてきていて、こ
れが一首名の位置についたから、したがって斎藤玄蕃允は次席家老という分際になっ
た。
 それでも、すっかり歓んでしまって、
「これも、ひとえに御方様の御芳情でござる」
と、拝まんばかりに斎藤玄蕃允は、於市御前の許へ、すぐさま礼を言いに来たもので
ある。だから、
「‥‥良いことはするものじゃ。後味がよいのう」
などと、於市御前様も、すっかり満足されていた。
 が、新しく殿様になった三七信孝から、薮から棒の話だが、
「伯母ごさま、嫁入りの仕度をなさるがよい」
と、ふいに唐突な難題が持ち出された。
「‥‥上の茶々の事か」
と聞き返されると、
「いや、お手前様の嫁入りでござる」
と、青白い顔をつんと突出すようにして云われ、
「まさか‥‥この身が」
と、笑いのめしてしまったところ、信孝はきつい顔をしてみせ、
「北の庄へ行っていただく。もう話ずみにて、先方では待ってござりまするぞ」
と、頭ごなしに、そんな具合に突き放すような云われ方をしてしまった。
「北の庄とは、柴田勝家のところ。そこへ、また嫁に行き直せと申すのか」
さすがに顔色を変えて詰め寄り、
「この城に、我ら母娘四人がいては、そないに厄介者なのか‥‥ならば、なぜはっき
りと、そうとは云いなさらぬ。互いに同じ織田の血脈ではないか」
 於市御前様は血相を変え恨めしげに談判されたが、三七信孝はそれには首をふり、
「いやいや、その若さのままで朽ちさすは口惜しい事と思っていましたところ、勝家
が『もし願えますことなら、姫君三人とも御一緒で、何卒おこし入れ下されませ』と
の口上‥‥あの勝家というは、御方様もよく知っている通りの正直者。まぁ当節には
珍しい誠実一点張りの人間。よもや口先だけではあるまい。ならば良縁と存じたによ
って、それならばと代わって承諾したまでの事。決して悪い話ではありませぬ。よう、
そこのところは、お考えなされや」
と弁解をした。
 しかし小娘のように、まさか「はぁ」ともいいかね、於市御前は、むうっとなされ
たまま、
「‥‥莫迦(ほお)げたことを」
と口にされ、それで話は打ち切ってしまわれた。
 だが、いくら甥とはいえ、新しく城主になった信孝から再婚しろと言われてしまっ
ては、もはや於市御前とてどうしようもなかったらしい。そこで三人の娘を集め、
「どないにしようぞ」
と相談をなされた。
「‥‥して、その柴田勝家とは、どないな男にござりまするな」
と、十四の茶々が、まず吟味するような聞き方をした。母が再婚するという事は、自
分らが第二の父を持つことになるので、初や江与も人ごとならずと耳をすました。
「そうじゃな‥‥図体だけは大きいが、まぁ律義なお人柄よのう」
とまず口にした。そして、
「‥‥なんせ、その昔。この身と信長というお人の真ん中には、色が黒いから『烏の
勘十郎君』と渾名された織田武蔵守信行殿がおられた。母御は土田下総守久安という
豪族の娘御で、里方に権勢があったゆえ、自力で末森に城を築かれ、そこに住まって
おられたが、若き日の信長という方は『うつけ』とか『たわけ』と云われた人定ゆえ、
衆望はみな色黒の信行殿に集まった。そこで、信行殿を尾張の跡目に立てようと相続
争いが起き、もともと土田の郎党で、信行殿の母御の姉を妻にされた柴田権蔵の伜が
今の勝家殿ゆえ、いわば従兄にもあたる‥‥よって、弘治二年の争いの時など、若き
日の柴田勝家は、信行様名代として軍勢を率いて、信長様と合戦をなされた事さえも
あるのじゃ‥‥」
と、於市御前は一息いれなされてから、少し考えられて、
「‥‥その時、やはり謀叛に与したが降参なして命拾いした者でも‥‥林佐渡などは
先年ついにお暇を出されてしもうたが、あの柴田勝家殿だけは、何の沙汰もなかった
‥‥あの執念深うて猜疑心の強い信長という人が、それだけ信頼をなさるからには、
やはりそれ相応の根拠もあろう。つまり勝家殿の律義さがものをいったものとみえる
‥‥すりゃ我が身とて、これなる茶々や初らの三人の娘の行く末を思えば、そないも
の固いお人柄なら、さぞ心強く頼もしいとは存ずるべきがよいのかもしれぬ」
と、一人合点をなされた。迷っていられるようだった。
 なにしろ、これまでの城主の信忠は清洲の城で育った者ゆえ、奇妙丸の昔は抱いて
あやしてやった事もあるが、於市御前にとっては、その異母弟の信孝というのは、信
忠の弟とはいえ、そうはいかない間柄であった。
 というのは、生れて育ったのが伊勢の神戸城なので、どんな育ち方をしたのか、於
市御前にしてみれば、甥にあたるとはいえてんで見当もつかず、それだから気心とて
知れようもない。
 それに美濃国主になったからと、まだ生きている御腹の板御前が、こちらへ招かれ
て来たのはよいが、初めて逢った時、
(青蛙がとびつくように二本足で立ったみたい)
と感じたほど、下腹が出た中年太りの女で、
(いくら後家の方が間違いなく子を宿すとはいえ、よくも信長という人は、こんな女
ごを抱かしゃったもの)
と思えるような容姿だった。
 それに人間の感情などというものは、お互い様なものである。蹴鞠を強く蹴飛ばせ
ば、壁に当たって、また烈しく戻ってくる。力を抜いて蹴れば弱々しく跳ね返ってく
るのと、そっくりなもので、始めに於市御前の方で、そんな感じ方で眺めてしまった
ものだから、条件反射のように向こうの板御前の方でも、
(この身を抱かしゃって、子を産ませなされた信長様の妹御‥‥おお、なつかし男の
血脈)
などと、そんな気持ちは抱けそうもないとみえ、ともすれば、
(尊大ぶった、高慢ちきな女ご)
と、目に角を立てて見るようになってきた。
 こうなると向こうは城主の生母。こちらは寄人(よりうど)の居候の身上。どうも
居づらくなってきたというか、我慢しかねたのである。
「再婚などは、もってのほか」
と、初めは拒み通していなされたが、しまいにはとうとう、
「‥‥北の庄へ、いんでしまおうかのう」
と、於市の方は言い出し、娘らの江与達にもそう言い渡された。だから茶々が、そん
な母御前をいたわるような眼を向け、
「また、嫁様かえ」
と低く尋ねたところ、於市の方は面長の顔を振って、
「----今日、盃事を上げて嫁入りしたとて、明くる朝ボオゥっと貝がたち戦ともなれ
ば、せっかくの婿殿も出陣し討死しておはてなされるやも知れぬが今の世の中‥‥じ
ゃによって、女ごというものは、今日嫁入りしても、明日は別口を心掛けねばならぬ
が、これぞ世のならい‥‥なにしろ男は嫁取りしたら、後はうまく添い遂げるか、い
つ討死するかの二つに一つじゃが、女ごは違うのじゃ。この世に生あるかぎり、何度
でも嫁に行き、また行き直しをするものじゃと心得るがよい‥‥茶々、初、ごう(江
与)、そもじらとても女人の性。よう覚えておきや」
とさとされた。
 しかし、幼い娘には話が難しく、
「‥‥というて、そう何度も知らぬ所へ嫁さまに行くは、大儀ではなかろうかのう‥
‥」
と、初が珍しく大人びた口をきくと、於市御前は優しく微笑んで手を伸ばしてその髪
を撫ぜながら、
「なんの、なんの‥‥総じて物事は繰り返して何度もやるうちに、よう修練して巧み
になるものじゃ。嫁さまとて、初めは勝手が判らず迷いもしようが、二度、三度と馴
れてくると、段々に、そこは上手になるものよ」
と、ゆっくり教えてくれたものである。
 ----その時の教えを、よう守りすぎ、この身はとうとう四度もくり返し婚礼の盃固
めを繰り返してしもうたな、と今になって江与はしみじみと思う。なんせ、娘にとっ
ては、母というものは、何といっても何よりのお手本なのだからであろう。