1106 謀殺  6

 さて、どこの場合でもそうであろうが、進駐軍勢力は、一握りであるし、原住民は
圧倒的に多い。百済王俊哲らによって討伐された原住民達も、その後、四世紀たつと、
やがて、
『われこそは、この国のミナモトの民である』と、各山地から馬に跨り白旗を立てて、
当時のアルジェの戦いを挑んだ。世にこれを文治革命という。
 さて、こうして頼朝が鎌倉幕府をたて、かつて山間へ追い詰められていた連中も天
下をとって泰平だったが、やがて北条氏の世になり、次は室町御所の時代になると、
また逆転してしまう。
 一条関白兼良の『尺素往来(せきそおうらい)』にも、
『祇園御霊会今年殊ニ結構。晩景ニハ白河鉾入洛スベキ由ニテ、六地蔵ノ党ガ例ノ如
ク印地(院地打チ)ヲ企ツ』
とあるし、『雍州府志(ようしゅうふし)』の『印地ノ条』には、(原文を漢文から
和訳)
『清荒神社東川原ヲ荒神河原トイフ。毎年五月五日洛下ノ輩、コノ川原ニ集マリ左右
ニ分レ、礫石ヲ投ゲ相戦フ。倭俗ニテ是ヲ印トイフ』
とあるが、嘉永二年(1107)五月の、『中右記』では、
『辻ゴトニ飛礫アリ、互イニ殺害ニ及ブ』とある。
『後愚昧記(ごぐまいき)』応安二年(1369)四月二十一日には、
『晩頭に及び、一条大路にて合戦。伊牟地(いんじ)という』
とある。
 つまり京の白河には室町時代までは院地(別所)と呼ばれる収容所が残っていて、
ここへ五月五日になると、公許された大陸系の襲撃部隊が、石に笹や菖蒲を巻きつけ、
振り廻して投げ込んで攻め込んだのを『千巻き石の合戦』といい、院地の周囲の濠に
飼われている鯉を分捕ってきて、竹槍に突き刺して軒端へ掲げるのが後年の「鯉のぼ
り」となるのであるが、攻め込まれているのを待っていては不利だから、五月五日と
日が決まっているから当日は院地側の原住民系も石ころの多い河原へ出てきて争った
り、時には御所の間近の一条通りまで逆襲して押寄せてきて互いに戦ったという時代
の、これらは古文献である。
 やがて、室町末期の応仁の乱になって、人手不足になると、人飼いが山中へ入って、
また山へ追い戻されていた別所系の後年『らっぱ』『すっぱ』と呼ばれる連中を集め
てきて、これを戦闘に参加させて、『足軽』という階級を新しく作り、さて、この連
中が戦場で冑や鎧を剥ぎとって武装の恰好を整え、『われこそは、ミナモトの民の末
孫である』と、寸法武者になって、いわゆるこれが『戦国武者』として、実力によっ
て一国一城の主になる時代になると、彼らによって仏徒系の国府宮や寺院等も次々と
焼き討ちされてしまうようになった。そこで、さすがに長年続いた原住民苛めの五月
五日の石投げ合戦もついに沙汰止みになった。
 そこで両者共に、かつての院地打ちは勝利を得た事にして、『勝って兜の緒をしめ
よ』と兜を飾ったり、石ころの代りに笹や菖蒲の葉を巻いた『ちまき餅』を供物にし、
紙製の鯉のぼりを立てて、これを『菖蒲(勝負)の節句』というような事にした。
 だから、五月五日というのは、なんといっても、家康のような原住民系[八切史論
では、村岡素一郎説と同じく、家康を松平元康の改名でなく、元康とは全く別人であ
る賎民階級の世良田二郎三郎の改名であるとする]にとっては、面白くない日なので
ある。つまり長い間の憾みが積み重なった汚辱の歴史、とでもいうべき記念日なので
あるともいえる。
 それなのに、わざと、その五月五日を選んで『内相』宣下をよこしたというのは面
当てというか、『秀吉の意地悪』でしかあり得ない。だから、家康たるもの、憤然と
したのである。
 なにしろ、後に家康が秀吉と正面衝突したのは本能寺の変で織田信長が死んだ二年
後の、小牧長久手合戦である。名目は、原住民系の信長の遺子織田信雄に協力を求め
られ、家康がこれに加担し、尾張平野に秀吉の大軍を迎え撃ったのではあるが、実質
的には、関東の神徒対関西側の仏徒の正面衝突だった。
 だから兵力においては格段の差があったが、秀吉側についていても、原住系の神徒
大名は、進んで戦おうとはしなかったから、さすがの秀吉も実質的には負け戦をして
しまう結果になったのであろう。
 家康にしても、銃器はあっても弾丸をとばす煙硝石の輸入港である堺や備中備前の
浜を秀吉に押さえられている関係上、積極的には抗戦もできず、よって、この合戦は
うやむやに終わってしまったのである。
 そして、その六年後の天正十八年。神徒系の最後の拠点として相模小田原に頑張っ
ていた北条氏を秀吉は攻め滅ぼしてしまうや、『関東へ移られい』と、三河、遠江、
駿河の三ヶ国を家康から巻き上げてしまった。もう秀吉には何も怖れるものがなくな
ったからである。
『え』の国とよばれていた東北地方への関門。つまり『え』の戸である『江戸』へ家
康は封じ込められてしまった。そして、秀忠に淀殿の末娘を押し付ける段になって、
(江戸へ与えるのだから‥‥江与)とまで、侮った名乗りをつけられて嫁入りさせら
れてきたのである。
(誰が江与などの産む子に、この徳川の屋台骨が継がされるものか)
と家康は、押さえ切れぬ憤りを烈しくその時から感じていたものらしい。
 後年『幕府祚胤伝』とよぶ徳川史料でも、この江与と呼ぶ豊臣秀吉につけられた名
は忌み嫌って、死後は『崇源院』という『源を崇めろ』という名にしたし、『御実名
は、達子なり』とも訂正している。>


三人姉妹

 いくら固く口止めして出かけていったとしても、そこは女ばかりの大奥の事である。
「春日局の他出」は、その日のうちに、御台所江与の方の耳へ入った。
 彼女が寛永三年九月十五日に歿したのは「徳川台記」によると、「行年五十四歳」
とあるから、「竹千代自殺未遂」が表沙汰にされた元和元年というのは、当時の算え
方では江与は四十三歳にあたる。
 そして、その年の五月八日には「大坂落城」つまり彼女の長姉の淀殿や、その伜殿
の秀頼が大坂城本丸千石櫓にて焼死している。

<従来の説でゆくと、この時、淀殿三十九歳、秀頼二十三歳という。そして長姉の淀
殿と末妹の江与とは四歳違いという。それならば、『徳川台記』の年齢逆算からゆく
と、元和元年(1615)の時点においては、長姉が三十九歳。末妹は四十三歳とい
う、まこと奇妙なおかしな事になる。
[江与の方の生年は天正元年(1573)で、元和元年(1615)には数えで43
歳。淀君の生年は不明とされていますが、数えで江与とは四歳違いという説から推せ
ば元龜元年(1570)の生れ。文禄二年(1593)に秀頼を産んだ時は、数えで
24歳頃という事になるのでしょうか]
 正確な計算からゆけば、淀殿の歿年は四十七歳。その秀頼を産んだ年齢は、今日流
で言うならば[満で]ニ十三歳の出産。懐胎は二十二と思うが、あらゆる歴史学者の
ものは[元和元年の自刃の時三十九歳という説にしたがえば]満十四歳受胎にて十五
歳にて出産。つまり現行なら中学生の年齢という事になっている[しかも、秀頼を産
む前に天正十七年(1589)淀君は鶴松を産んでいるので、鶴松はなんと十一歳で
の出産という事になりますが‥‥]。発育が極めて早くなった現今の女子でも、中学
生の出産は珍しい。
つまりこれは、淀殿が火中に焼けて死ぬ最期のはなむけに、
『四十代では色気がない。せめて三十九の姥桜に』
といった講談的な思いやりの発想が、こういう『長姉の方が末の妹より四つ年下』と
いう矛盾を平気で今日まで押し通しているのであろう。
 こういう奇妙な事は江与にもいえる。
『柳営婦女伝』『玉輿記』『幕府祚胤伝』によると、天正十一年(1583)に織田
家の親類にあたる尾張知多半島の大野の城主佐治与九郎一成と十一歳で初婚。翌年丹
波亀山城主羽柴秀勝と再婚となっている。
 秀吉の甥の関白秀次にも同名の者がいて、後の朝鮮征伐に出征中病死している。だ
から『柳営婦女伝』や『玉輿記』は、これを夫と間違えている。したがって今日では
『歴史書』でさえ誤れているが、初めの秀勝は織田信長から秀吉が貰った養子の方で
ある。まさか、その羽柴秀勝の在世中に次に同じ羽柴秀勝が二人もいるわけはあるま
い。だから、朝鮮で死んだ秀勝の方は関白秀次の弟の、つまり同名異人であって、今
日、歴史上で間違えられているような事はあり得ない。
 なお、丹波亀山城主となった信長の子供の秀勝の方は、まことに不思議な事である
が、嫁いで間もなく彼女が秀吉に呼ばれている留守中に突然変死をしてしまう。もは
や本能寺の変の後は、信長の子を養子にしておく必要や、生かしておく事も、その時
の秀吉にはなかったのであろうか。
 さて、翌、天正十三年の事であるが、又しても彼女は嫁入りをさせられる。三婚先
は、九条左大臣道房である。この当時、(天正十四年十一月まで)秀吉は野望をもっ
て、時の正親町帝を恐れ多くも脅迫し奉っていたのであるから、宮中への勢力を伸ば
すために、江与は利用されたものらしい。
 さて、この結婚は『二女を産んで死別』と記録にあるが、『祚胤伝』では秀勝との
間に産んだ女子が九条家へ嫁ぎ、それが九条道房[忠栄?]の母とある。すると江与
も芳紀十三歳で出産開始という事になる。愕くなかれ、満なら十二歳の若すぎるママ
である。こんな馬鹿げた事は南米ならいざ知らず、まぁなかろうと思うが、過去に書
かれたものなら講談でも尊重し、あまり考えたがらない国柄なので、この出鱈目が、
今では罷り通っている。
 こういう作為した事の真相は、秀吉の野心に利用された事のある崇源院の前歴を、
おそらく徳川家としては抹消したい為のものであろう、とも考えられもする。>

「於福め、どこへ消えくさったのやら‥‥」
と江与は、四十三歳の女の素顔を見せた。
 なにしろ周囲に侍っている者達は、御台所(みだい)付と呼ばれる、江州者の女ば
かりである。うわべをとりつくろったり、よい顔をしてみせる事もない。そこで江与
はありのままの生地の顔を、つきだして曝け出しているだけの事である。
「誰ぞ言え、知りおる者もいようぞ」
と江与は眼に角をたてて、畏まっている女共をずいっと眺め廻して、叱りつけるよう
にきつく言った。むかむかしているようなせきこみ方だった。
 しかし上臈や中臈は、まさか「春日局」という官名を持っている者をとやかくも云
えない。だから侍女共も押し黙っていた。それに、同じ女どうしだから、四十代に入
った者が、まだ三十代の女に対する気持ちの複雑さ。焦りというか、気負う心持ちは
よく弁えている。なにしろ、
(五十代に入ってしまえば落ち着きもできようが、なんせ四十代は女としての難しい
時、小娘には、にこにこしてみせるが、年齢の近い者には、まるで仇のような目を向
けるのは、自分らとて覚えがある)
そこで、みな重々しい顔を下に向け、侍女どもは、じっと畳をみつめるようにうつむ
いたきりだった。なのに、
「どの方角‥‥まさかとは思うが、どちらじゃ」
江与はてっきり春日局が京へ又舞い戻っているものと考えたから侍女にきいた。
 なにしろ、二十三まで上方にいた江与は、その過去においてあまりにも色んな事を
誰より知りすぎていた。だから春日局といえば、京とすぐ頭にひらめくのだった。

 あの本能寺の変があった時も、当時まだ算えで十歳だった彼女は、ずうっと岐阜城
にいた。
 なにしろ、母の於市御前が安土城に移ると何かとうるさいからと岐阜城にいて、信
長の移転後は甥にあたる織田中将信忠が跡目をとって城主になったが、やはりそのま
ま二の丸に住みついていた。

 江与が十歳だったその頃の記憶は、もはや四十と三にもなるのに、案外に鮮明(は
っきり)としている。
 そして何といっても、まっ先に江与の瞼に浮かんでくるのは、その翌年に北の庄へ
再嫁して、秀吉に攻められ柴田勝家と共に爆裂して生害を遂げてしまった母の面影で
ある。
 たしかその日は、なんでも安土のお城が黒漆の上に金銀の飾ものをつけた七層建て
で、三層四層の御張り出し窓に紅塗り提灯を吊るされ、それが琵琶湖の水面にさえわ
たるのは、「百万銀の夜景」ときき、娘達はすっかり憧れてしまい、
「‥‥なぁ、前から願っているように、一度でよい。安土の城を見せに連れて行って
たも」
と、姉の茶々、次の初と共に江与も母を口説いて甘えてせっついた。
 なにしろ、六年前に安土城ができてから、幼い姉妹は噂や土産話を聞くだけで、と
んと一度も見に行った事がなかったからである。
 今になって思えば‥‥母は安土へ行けば、異母兄の信長に何処かへ再嫁させられる
気遣いがあって、その心配から寄りつかなかったのであろうが、そこまで幼い姉妹に
当て推量で判ろう筈とてない。
「のう、もうし、な、かか御前さまえ‥‥なぁ、連れて行きゃっせな」
と、馴れきった美濃言葉で、そんな甘え方をして母を困らせていた記憶である。
 それに、先年こちらへ顔を出された信長様が、
「ほりゃ、マカオからきとるバーテレ衆からの貢ぎものじゃぞえ」
と、葵の実の刺を多くしたような、白と赤の菓子をわけてもらい、口へ入れたら甘く
て、まるで夢見るように美味だった覚えが、舌に残っている。だから、それにも三姉
妹は魅かれていた。
「金米糖(コンペートー)」という菓子だと教わったが、安土へゆけば、お城の玉砂
利が、みんなそんな甘い南蛮菓子でできているような錯覚もあった。つまり少女達に
とって、安土の城は、「御伽の話のお城」でもあったし、「お菓子の城砦」でもあっ
たのだろう。なにしろ姉妹はかわりばんこで、誰かが決まって夢にまで見ていた程で、
とても執心していた。さだめし、母御前は、持て余していなさったであろう。
 だから、その日、娘達のむずがりをはぐらかそうとなさってか、
「信長様という、お人は‥‥」
とまず言った。
 娘達は、信長がお腹違いとはいえ兄妹とは聞いていたが、母の口から兄と呼んだの
を耳にしたことはない。いつも、他人のように「信長様は」といった言い方をしてい
た覚えである。おそらく、これも後年になって考えれば、夫の浅井長政を殺された怨
みがこもっていたのだろう‥‥その点、一人の男にあれだけ打ち込めた母は、女とし
て幸せだったともいえよう。
 江与などは、物心ついてから夫と名づく者を四度も持たされたが、さて振り返って
みて、どの男に情があったかなかったか、まるっきり今となっては覚えもない。今の
夫の徳川秀忠が、ずうっと昔からのような気もするし、時には、ままごと遊びのよう
だった丹波亀山城時代の夫の羽柴秀勝が従弟どうしの間柄だったし、夭折されている
だけに、しんみり思い出される事もある。
(男とは、まるで水の流れのように女ごの肌を通り過ぎてゆくもの)
といった感じしか持てぬ江与にしてみれば、佐治与九郎や秀勝と別れさせられたのも、
みな秀吉だとは思いはするものの、だからといって怨む気も抱いていない自分が、何
だか疎ましくさえも近頃では考えられもする。
 だが、それは四十代になっての感情。当時の江与は姉にくっついたまま、ちょこな
んと座って、母の口許をじっと見詰めていたものである。於市御前も、その時は、
「初めて信長様が参内された時、大膳寮の料理方が四条流の腕をふるって、住吉浦か
らとりたての磯の香りのする海の幸を吟味して膳部を出したが、あの大きな鼻をくん
くんさせるだけで、箸も取ろうとはなさらん。そこで、万策つきた包丁頭が、もはや
差し出す料理もなくなってしまい‥‥どうしようぞと思案投げ首。
 すっかり困りきっていると、雑仕の舎人が、近くの堀川で釣ってきた小鮒を、己れ
の飯の菜にしようと味噌をつけて焼いているのが、匂いで判った。『まさかあんな下
司のもの』と止める者もいたが、もはや品切れで、替え膳の出しようもない。そこで
料理方では天下一といわれる四条流の家元が、大衣紋熨斗目(だいえもんのしめ)つ
きの紋服のまま、その小鮒の味噌焼きに、木の芽をふりかけて恰好をつけ、『まぁ持
っていくだけで無駄じゃろが』と、差し出したところ、『こんなものを出すとは何か』
と烈火の如く憤ると思いきや、『うん、これはいい。鮒か、鮒か。もっと持て』と、
すぐさま、お気に入られて、初めて箸を持たれたという‥‥
 それを伝え聞いた大膳寮の料理方は、みな、腰を抜かしてびっくり仰天。そこで最
前の舎人に案内させ堀川へ行くと、みんなでお尻をまくられて釣っていては間に合わ
んからと、鮒を追い立てて川狩りして集め、それをすぐ焼いて出されたそうな」
と、面白可笑しく娘達に、
「よって御所ではその後は、『信長様というは舌音痴で、田舎料理でなくば食してく
れぬ厄介な人物よ』と、すっかり悲鳴をあげてしまわれたげな」
などと話をしてくれてから、さてと、改まってきつい顔色をなさり、
「今の安土のお城にしてからが、なにも、あんな所へ建ていでもええのに、琵琶湖の
活魚などを水中からそのまま引き上げ、すぐ食膳にのぼせられるようにと、湖の中へ
乗り出すように城をわざとお作りになされたのじゃ‥‥あそこのわかさぎが滅法とも
美味じゃそうなが‥‥ああした魚類をたんと食すると女ごは肉がたるみ美しくなくな
るそうじゃ‥‥そなたらは女(め)の子とはいえ、悪さばかり烈しゅうて、とても優
しい娘達になるとも思えぬ。よって、そないに安土へ行きたくば行って、みな醜い
『だぼはぜ』のような娘になるがよい。あぁ行きや、いんでしまえ」
と突き放されたような言い方をされてしまった。すると、何といっても、やはり女の
子の事ゆえ、つい今しがたまで面白がって笑っていたのも何処へやら消し飛んでしま
い、すっかり三人とも蒼ざめてしまい、
「‥‥そない醜うなるのなら‥‥かまえて安土へなど、もう行きとうはない」
ということになってしまったようである。
 もちろん、わかさぎなど佃煮にして食したところで、それで肥るというものではな
く、ただ安土へ行きたくない母御前の弁巧だったろうが、なにしろ年上の『御茶々』
と当時呼ばれていた淀殿が、真っ先に本気に受けてしまったから、後はせっかくの安
土へ見物をしに行きたいというおねだりも、すっかり腰砕けになってしまって、侍女
どもに手を引かれ、草摘みに庭先へ三人とも出てしまったように覚えている。
 さて、この後が‥‥
というより、この日が今にして思えば不思議な巡り合わせだが、天正十年六月朔日の
こと。
 母御前が噂していなされた、真水の淡水魚しか好まれぬ織田信長という人が、京の
四条仙洞院の本能寺でお泊りのところを、南蛮火薬で吹っ飛ばされてしまわれ、髪の
毛一本残さんと何処ぞへ消えてしまわれた日の前日にあたるのだが、もちろん、そん
な事は前もって当時は知る由もない。
 だから‥‥おかしな話だが、次の日の朝。
目が覚めた時から、すべてが一変していた。
 振りかえってみれば、江与が一歳の時にも、父の浅井長政が自刃し、小谷の城を出
て、周囲の情勢が一変した事があるはずだが、まだ赤ん坊だったので覚えもない。だ
から江与としては、物心ついてからは初めての衝撃ゆえ、うすら覚えとはいえ、案外
今になってもはっきりした記憶がある。そして‥‥この事が後になって、つまり今と
なって、春日局を名乗る於福と自分との引っ掛りになっている。
 三十三年前の本能寺の織田信長殺しが今にまで糸を引いて、睨み合いというか対立
するのもおかしなものかも知れないが、なんせ於福というのは、三十三年前の信長殺
しの主謀者斎藤内蔵介の娘の身上であり、自分は、その殺された信長様の姪になるの
である。
 だから、仇敵どうしという意識もあるが、なんといっても互いの肌の下を流れる地
が双方で憎悪しているのであろうと、江与は考える。
色々考え込むと、眼くらみがする。
そこで江与は、うなだれて畏まっている侍女共に、
「床につく。一人で静かに休みたい。なんぞあっても構えて声などかけるでない」
と言いつけ、御寝(ぎょしん)の間に入ってしまった。
 が、横になったところですぐ眠れるものでもない。やはり気になって思い出すのは
天正十年六月二日のことどもである。

<日本では、忠長殺しの真相を暴けば、信長殺しの黒幕が家康で、下手人斎藤内蔵介
の遺児の於福の子の家光が三代、その子家綱が四代、弟綱吉が五代と続くのも、表向
きになると、上州高崎をとりつぶしたのを、もっともらしく『宇都宮吊天井』なる講
談が、その後百年たって馬場文耕筆として世に広まり、今もテレビで放映されたりす
る。
 が、光秀よりも古くから信長に仕え、丹波目付として亀山城にいた内蔵介を庇うた
めに光秀の家老のごとく通説化させた埋め合わせに、家康は光秀びいきとする説が多
く作られ、その代表的なものが『天海僧正は光秀なり』の説である。よって本当のと
ころを読みやすくして解いていく。>



                本能寺の謎

天正十年六月二日

 変だった。何か騒々しかった。慌ただしい気配がした。だから姉妹は三人とも、ぱ
っちり誰からともなく眼を開けていた。だが仔猫みたいに、物憂そうに掛夜着の端に
つかって、眼を見開いているきりだった。
 それは、よし何事が起きようとも、自分の力では何ともできない事を、よく知り尽
した者の非力の眼差しだったといえよう。じっとしていて助けにくるのを待つしか、
自分からは、何ともならない瑠璃のような、ただ開いたままの虚しい哀れな瞳孔でも
あった。
 それでも長女だというので勝気な茶々は、
「なんじゃろうね」
と、顔は天井へ向けたままで言った。勿論そんな事を口にしたからといって、三人と
も一緒に寝ついて、たった今、次々と眼を覚ましたばかりである。
 だから何も判っていないし、誰からの返事など求められよう筈もない。
しかし、だれかが何か口にでも出さない事には、重苦しくてやりきれない澱んだ空気
だった。
 それを突き破ってしまうには、たとえ短くしていても言葉が要った。だから、一番
年上なんだという自覚めいたものから、そんな自負心に押し上げられて茶々は言った
のであろう。
「母御前さまが‥‥いなさらんがのうし」
次女の初が、その声に励まされたように、気になってならないことを口にした。
もちろん他の二人だって、眼を開けた時から母親の於市の方がいないのに脅えきって
いた。
 もし居てくれたら三人ともじっとして横になどなっていない。まず寝床の中で転が
っていて甘えたり、そばえたりするのが毎朝の目覚めの時の慣習なのである。しかし、
今朝は幼い姉妹が眼を開けた時から、於市の方は姿を見せていないのである。だから、
せっかく目覚めたものの手持ちぶさたでじっとしていたのだともいえよう。三人とも
内心では、
(かかさまは、何処ぞへ行ってしまわれたに‥‥どないしよるぞ)
という焦りと、あべこべに、
(かかさまが、我らを残して遠くへ行ってしまうわけはない。今にも戸をあけ、すぐ
にも戻ってござらっしゃろうに)
と安堵している心地もある。じっと、その不安と心配が織りなす織糸(はたいと)の
交叉の上で、三人の姉妹は、於市の方が戻ってござる足音を、仔猫のように耳を澄ま
して待ちわびているのである。
 ところが初は、また、
「かかさまえ‥‥」
と泪ぐんだ。
 だから、胸につかえるぐらい思いが噴き出しかけるのを、じっと泪ぐんで押さえて
いる後の二人にとって、お初の泣言はあまりにも響きすぎた。痛いところをぐさっと
突き刺された思いでもあった。
 そこで江与(もちろん当時は「ごう」だが)は、
「そうね」
と相づちを打つつもりが、つい堪え切れなくて、
「ウオアン」と泣き出してしまった覚えがある。なにしろ一番年少の末娘だけに、甘
ったれていたせいもあったし、まだ母なしでは自分では一人歩きもできぬような心細
さがあったのだろう。もう悲しくってなんともならなかったのである。なのに揺さぶ
られて激しく、
「お泣きやるな‥‥」
と姉の茶々に叱りつけられた。
 そりゃ、考えようによっては、
(自分達も泣きたいところを、せっかく我慢しているのに、末の妹に喚かれては巻き
込まれてしまう)
と茶々も困って、大声で叱ったのかもしれない。
 しかし、それを励ましの為と受け取るのには、あまりにも当時の彼女は幼すぎた。
とても怖かったし、無情にも思えた。そして幼い日のこうした感情は成人しても蟠
(わだかま)りが残るものである。
 去年の大坂冬の御陣では、京極へ嫁いでいた次姉の初が、姉の淀殿を庇って徳川家
へ使者にたって纏め役などしたものだが、二代将軍秀忠の妻になっていた江与は、口
添えするどころか、ただ江戸にいて傍観者の立場をとっていたきりだった。
 そりゃ今年の夏になって大坂城が落ちて、淀殿焼死が伝わってからは、やはりそこ
は血の流れが一つことゆえ、
(恨めしや、おのれ無念)
と、今では思いはする。
 だが、そういっても生きていた間は、
「緋おどしの真っ赤な鎧をつけて淀様は馬にも召されて、大坂城内のお見廻りをなさ
れとる」
と耳にしても、
(そりゃ姉も大変じゃろ。自分も仲へ入って取り持ち役をかって出ずばなるまい)
という気持ちにもなれずだったのは、或はこの時、
「泣くな」
と、心細がって慰めてもらいたがっている時に、すげなくぴしゃりとやられてしまっ
たのが薄情なと身にも心にも染みつき、それがいつまでも心の中で澱み、それへの仕
返しみたいに冷たい感情が何となく波打って疼いていたせいかもしれぬ。どうも、そ
んな覚えもする。
 さて、その時母の於市御前が、そっと覗きに来てくれたのは、だいぶたってからの
事である。板戸を自分で開けなされ、
「起きていやったのかえ」
と、顔をさしこむなり、するりと中へ入ってこられ、侍女どもに板戸をきっちり締め
させ、何やら眼顔で云いつけていなされていた。そして声は低かったが、
「ちゃんと並びや。大事ぞ」
t、恐い顔をして見せられた。いつものように櫛あげをなさっておられぬから、鬢の
あたりの横毛が少し膨らんで見えたし、それに顔のお作りもまだらしく、何の匂いも
してこなかった。砥粉のように少し黄ばんだお肌が頬のところに、べたりと貼りつい
ている感じだった。
(いつも眼をさますなり、まず御自身でお顔づくりなされる母御前様が、今日に限っ
て何も化粧(おつくり)してござらぬは、いつもと違う。こりゃ何ぞ大事じゃえ)
とびっくりして、べそをかいていた江与もちょこなんと、まだ青筋のはっている十歳
の少女の内ももをきっちり合わせ、そこへ手をついたものである。もちろん裾の打ち
合わせはだけてのぞいていたし、尻も捲くれていたかもしれぬが、それどころではな
かった。じっと身をつめ、息も止めて座ったものである。
「よいか‥‥。まだ生死の程ははっきりとは判らぬが、信長様という方は襲われなさ
れた‥‥そして当城の主で、そもじらに従兄の殿におわす織田三位中将信忠殿も、事
によったら最期を共にされたやに承る」
と於市御前は、一気に三人姉妹に言ってきかせた。だから聞いている娘達も、あまり
の事にびっくりしてしまった。於市御前も血の気の失せた顔を引きつらせ、又すぐ続
けて、
「‥‥よって改めて本城の主は、斎藤玄蕃允殿とあいなったぞ‥‥これまでのように、
親しい戯れ言などは玄蕃允殿にするでない。よいか、心せいやい。判るな。行儀よう、
折り目正しくんされたらよいのじゃえ」
と、あとは優しく心配させまいという心やりか、笑ってまで見せてくれていた。
 しかし、いつもと違って幼い姉妹は、母が笑顔を見せたからといって、一緒に笑い
声など立てられる筈もなかった。みな、きょとんとしてしまった。呆然としていた。
 信長という神様のようなお人が襲われたというのも驚きだったし、お跡目様までこ
この城主だった、まだ二十六歳の従兄の信忠が、ふいに死んでしまったという話も、
まるで夢みたいな作り事のように思えた。が、それより面食らったのは、家老として
城代に残っていた斎藤玄蕃允が、いきなり交替するみたいに城主になったというのが、
これは差し迫った事ではあるし、どうにも呑み込みにくい事であった。そこで、すか
さず、
「‥‥この城には信忠様の和子(わこ)三法師君がいよう‥‥なんで、その方が城主
にはなりませぬ。まんだ幼いせいでござりまするか?」
と、そんな意味の事をせきこんで茶々が言った。
 なにしろ城主の和子といっても、三人の姉妹にすれば従兄の子という血脈。
それに末の江与とは仲良しでもあったから、お守をするというより、言わば遊び仲間
なのである。だから大人の斎藤玄蕃允が城主になるより、子供の三法師を殿様に立て
た方が、気侭に城内で遊ぶにも好都合と、茶々は彼女なりの計算で口に出したもので
あろう。
 すると、於市御前は眉をつりあげ、生理的に嘔吐でも催しそうな顔をしてみせ、む
かむかと、
「斎藤玄蕃允殿というは、もともとこの美濃の前の国主、斎藤道三入道様の忘れ形見
の末子で、あの奇蝶どのが一番すその弟じゃが‥‥知らいでか」
と叱るような口調でたしなめると、また気忙しげに外へ出ていってしまった。
すると、
「かかさまは、昔っから奇蝶殿はいけずじゃ言うて大嫌いじゃもんな」
と茶々が、二人の妹に知ったかぶりをして、そんな教え方をした。
「では、奇蝶といわっしゃるは、先頃までここの岐阜城の二の丸にいなされたという
美濃御前様‥‥お濃の方と略して申し上げていた信長様室の、あのきつい女ごのこと
かえ」
おしゃべりの初が、すぐ後を受け次いで、ませた事を言った。
 だが、その言葉のろくに終わりもせぬうちに、
「早よ、お床あげなされませ。今朝は天下の大事。いつものように、ぐずぐずなさら
んと、手水をなされませや」
と下手戸をあけ、いつもと違ったぞんざいな口のききかたで、油桐紙と耳盥、それに
湯桶が持ち込まれてきた。
 いつもは三人別々にして顔を洗わせてくれるのに、今朝は一つ盥で、もうやっこ
[名古屋弁で『共有の』といった意味]らしかった。茶々から順に、首の根っこをお
すように侍女が背後から押さえ、それを前の侍女がぺろりと布で拭き、それで、もう
おしまいだった。あっけないくらいいつもと違って手早かった。
 気忙しい雑な扱いぶりだったが、かえって子供らには、その方が楽だった。
「櫛とかし」にしても型ばかりに順々に油紙を肩へかけさせ、撫ぜつけるように二三
回すくと、
「はい、おつもりにござりまする」
と言われてしまった。
 まこと、いと手軽に瞬く間に片付けられてしまい、夜具を上げた後も、軽くただ掃
き出すだけで、さっさとそれで止めてしまって、みな慌てたみたいに、
「われらは御用繁多‥‥向こうのお仕事もいいつかっておりますゆえ、これにて御無
礼を」
と、母御前様付の侍女のくせして、みな改まった口上を述べるなり、そそくさと出て
いってしまった。
 だから、取り残されたみたいに、がらんとした部屋の中で、三人はちょこなんと座
っていた。どうも今日は廊下へなど出てはいかぬらしいと思えたから、じっとしてい
たのである。なんとなく騒々しかった。
 それに、昼近くになって腹がへっても、朝餉(あさげ)の膳さえ届かない。こんな
事は初めてだった。いつもは、食べたくもないのに膳部が運ばれてくる慣わしだった。
そして、無理矢理に箸を持たされ、厭がるのに食をすすめられたものである。それに
馴れきっているだけに、なんとなく違和感がしみじみとしてきて、とても変だった。
昼過ぎになってくると、さすがに、
「‥‥ひもじや」
珍しく、気を紛らわせるため、乱取りの赤糸を持ってきて手にかけ、遊ばせようとし
ていた長女の茶々も、それに大きく合点してしまい、眉をしかめながら、肩を落し、
「クウクウと腹の虫が鳴いとるえ。きかしてつかわそうか」
と、江与に自分のお腹を指差したものである。
 が、云われた方とて同じ状態で、やはり水落ちから腹へかけて、まるで他所から聞
えるような音がゴボゴボしていたものだから、
「ええわね。ここでも聞えまするが」
と、小さな腹を指差して返事などしたものである。
 城内の飯炊きしたり汁を作っている大膳部の場所は知っていた。だが、さてひもじ
いからといって、三人でそこまで行く気にはなれない。だから腹が減らぬように、姉
妹は寄りそってじっとうずくまっていたおぼえがある。
 おそらく、あんなに腹を減らした日はなかった。だからこそ、あの天正十年六月二
日の記憶は、ありありと覚えているのだろうと、江与はそう考えて納得する。
「やはり、餓えてござったか‥‥お可哀想になぁ‥‥なんぞ結び飯など貰ってきまし
ょうわいな。御方様が側衆の女ごに、姫達のまま(食事)の事をよう言うておられた
で、届けに来ているものとばかり思うとったに‥‥若い女ごは気も動転してしもうて
忘れんくさったんじゃろ‥‥まぁ、このばばが、すぐに持って来ますによって、もそ
っと辛抱なされませや」
と、江州から伴ってきていた老女が、襖を開けて覗きこむと、かったるそうに腹這い
になっている三姉妹を見かけるなり驚いて声をかけてくれた。もう明かり障子の陽が
斜めに黄ばんできだした頃のことである。黄昏になっていた。
 後になって、この事を於市御前にうったえたところ、
「武将の家に生れた者は、よし合戦篭城ともなれば、三日や四日はひぼしになる事す
ら珍しゅうはない。たった半日や一日の事で、そないに申すはさもしや」
とは叱られはした。
 しかし、なんといっても、「餓える」という覚えを初めてしただけに、「腹が減る」
のが、とても辛い事だとは見にしみて感じた。
 後年、長姉の茶々が、太閤殿下の思い者に進んでなってしまったのも、この時の苦
い経験で、いくら年長の男でも、ひもじい思いをさせぬような男なら、身体をまかせ
てもよいと、そんな気になってしまったせいではあるまいか、とも思う。もちろん、
姉にそんな事を直接は聞いた事もないし、また、その口から打ち明け話をされたわけ
でもない。
U

「‥‥さぁ、持ってきましたぞえ。紫蘇の葉が芯に入っておりまする。ゆっくり、た
んと召し上がるがよい」
と老女が入ってきた時、小犬のように三人姉妹はとびかかっていって、その結び飯に
かぶりついたものである。
 老女は端下女を一人伴ってきて、木碗に白湯など注がせてまわって、貪り食べる幼
い姉妹を眺めながら、目頭を潤ませた。
 そして、やがて雫をぽとり、ぽとりと落してはそれを拭ったりした。
 だから、長姉の茶々も、始めは不憫がって泣いてくれるものと思ったらしい。そこ
で二つめの結び飯を食し終えて、少し元気になったところで、礼心に、にこりと糸切
り歯を覗かせた。
 だが、それでも老女の落涙が止まらないので、不安に襲われたのであろう。茶々は
左右に首を振って江与達にも妙な顔をしてみせた。
 初も、頬に飯粒をつけたまま、口許を休めた。江与は、その時、自分も姉達と一緒
に食べるのを止めたのか、それとも夢中で、やはりもごもごしていたか。そこまでは
どうも記憶がない。
「先年、小谷が落城なされた時は、なんせ信長さまが妹ごのことゆえ、御方さまも、
つつがなく三人の姫様とてみな健やかに大きゅうなられましたが‥‥このたびは、そ
の杖とも柱とも頼む信長様がとんだ御災難の由‥‥よって、もはや木から落ちた猿も
同然の、お方をはじめ、姫様達のお身上、おいたわしくてなりませぬ」
と、小谷の城の時から奉公していた老女は、さめざめと泣いていた。
 しかし、結び飯で、ようやくホッとした幼い姉妹達は、
(母御前と仲悪な信長様が死になさったとて‥‥それが、なんじゃえ)
といった気持ちだったようである。