1105 謀殺  5

 もう七十四という年齢がせいかもしれぬが、近頃は女ごは遠ざけている。そんな欲
望がとんと湧いてこぬからでもあろう。だが、そうなると、色気なしになると、この
世の中で女ごほど煩わしいものはないと、家康は苦虫を潰したような表情で考える。
 何しろ、どだい男というものは妙なもので、よし相手が如何なる女にせよ、もしか
すると仮初めにしろ一度ぐらいは仲良うなれるものかも知れぬと考え、期待をするの
か、つい見知らぬ女にでも優しくしたり、早まって親切にもする。
 家康とて若いときには、女とみればそういう気もあったのか、よく劬(いたわ)っ
てやったものである。しかし七十の声をきいてからは、あまり芳しくない。なにしろ
大坂城攻めに精根を使い果たしてしまったのか、この五月八日に豊臣一族を滅ぼして
からは、とんと、その方はまるっきりといっていいくらい不縁になっている。
「‥‥七十過ぎは半年ばかりの間だけよう燃えたが、あれが残り火の燃えたぎりじゃ
ったのか」
と思い出してみるが、それを考えたところで、どうなるものでもない。
 ただ、油喰いをすると精力がつくときかされ、かやの油や胡麻油で揚げた魚肉を精
出して口にしているが、それとて今日食べて明日効くというものでもない。しかし精
でもつけて女でも抱かんことには、この駿府の城ではやることもない。だから用心の
よい家康は、せっせと、そのために天ぷらを賞味している。
 といって、春日局の於福が久しぶりに目通りにきたからといって、これは関係がな
い。まして話は竹千代が子供なのに割腹しかけて、それを危機一髪にくいとめられた
という話なのである。あまり感心せぬ事柄だった。
「‥‥七十四になるわしが、まんだ死ぬことなど考えんと、精をつけようと薬喰いに
憂身をやつしておるのに、なんで十二歳やそこいらの子供が死に急ぎすることやある。
竹千代というは、吃りのところは儂に似とるが、ありゃ阿呆かもしれぬな」
と、渡り廊下まで出てくると篭目垣の中に白い花が馥郁(ふくいく)と咲いている。
 これは、朱印を許してやった京の角倉了意(すみのくらりょうい)が、
「‥‥蘭と申しまして、春咲くのと秋に開くのと二種類ございまして、この強烈な匂
いを嗅ぎますると無病息災‥‥腎を使いすぎましても、この花の香りを嗅ぎますると、
すぐにも精力がつきますとか申し、南方の国にては珍重して居りまする」
と、カンボジアか安南あたりから持ち戻って来て献上にきたものである。
「ほう、長生きできる上に、花の香りを嗅ぐと‥‥あの方も強くなるのか。そりゃ何
よりの物を持ってきてくれたのう」
と喜んで植えつけさせたところ、駿府は気候温暖なせいか根がついて、今では毎年、
春と秋に白い花が咲く。初めは了意の話を頭から信じこんで、開花するたびに側へ行
ってしゃがみこみ、くんくん鼻をならして、吸い込めるだけ花の香りを嗅いでみた。
だが、強い花の香りは噎(む)せそうだが、どうも擽(くすぐ)ったくむずむず感じ
るのは‥‥同じ様に突き出た個所でも、顔についている鼻先だけらしい。肝心要の、
下の方までは鼻からの吸い込みでは足らないのか、あまり効き目がない。いくら深く
吸ってみても、どうやっても効き目が届かないのである。
 が、こうして矍鑠(かくしゃく)としていられるところをみると、無病息災という
のは、まんざら嘘でもないらしい。
 だから、もう一つの方にも、なんとか効き目を現させようと、近頃は暇さえあると、
庭へ降りて、ここで気張って深呼吸をしている。そこで、いつものように、
「‥‥その方は、ここにおれ」
と、家康は太刀持ち小姓は縁側においたままで、自分だけが庭へおりた。なまじ年端
もゆかぬ者に花の香りを嗅がせては身体に毒にもなろうし、また勿体ないと思ったか
らである。
「お太刀持ちが離れておりましても、大事ござりませぬか」
と、小姓は、あとで上司に見咎められて叱られはせぬかと、心配した。
「構わぬ。よけいな斟酌をするでない‥‥あの蘭の花というは、若返りの薬草じゃ。
ほれ三十三年前の本能寺で、織田信長様のお伴をして一緒に吹っ飛ばされて死んだ美
濃金山城主森乱丸のことを知っておるかや。この花が天下の奇花として名を弘めて以
来、それにあやかるようにと、森蘭丸と当て字を変えられてからというもの、二十七、
八でもあったむくつけき荒くれ者が、そのせいで齢も半分くらいな稚児小姓に、今で
は間違えられ若返っておるではないか‥‥わっはっは」
と、家康は自分も花を香りの効き目で長生きしているうちに、蘭丸なみに半分くらい
は若がえりたいものだと笑ったのだが、小姓の方はぽかんとして、その意味が判らず、
ただ眼をぱちくりとさせていた。
 まぁ、考えてみれば無理もない話で、三十三年も前の事ではこの小姓など産まれて
も来ぬ頃なので、森乱丸などといったところで、てんで話も通じはしないのである。
「‥‥人の世は目まぐるしや。三十三年前に織田の世は滅び、次いで豊臣の世も、こ
の夏の大坂御陣で終止符(とどめ)を打ちおったわい」
と、家康もしみじみした心地になった。
 あの五月に家臣を伴って安土城へ赴いた家康は、当時、世話掛かりを務めてくれた
武骨な森乱丸の顔を、思い出せば、ありありと今でも瞼に蘇ってくる。そして、織田
信長の細面の鼻の高い顔や、きんきんした声も己れの耳のどこかに、まだ残っている
ような気がしてならない。
「いかんいかん。あれは思い出してはいかんのじゃ‥‥何事も三十三年の夢じゃ」
と家康は自分で打ち消し、蘭の花の匂いを嗅ぎつつ、竹千代を苛めているという江与
の事などを気を紛らわすようにも考える。
「‥‥そうそう、あれを故太閤に押しつけられたは、伏見の頃よ」
と、家康は指折り算える。
 文禄四年。太閤が伏見城を築いた翌年の事である。何からその話になったか覚えて
いないが、たしか淀殿も太閤の側に侍っていた。
だしぬけに太閤はにやりとして、
「この淀の‥‥末の妹を貰ってはくれぬか」
と、そんな具合に話の緒口をきりだしてきた。
 九年前に、四十四にもなる太閤の妹のお軽を、もっともらしい名の朝日姫というふ
れこみで押しつけられ、とんだ目に合わされた覚えが家康にはある。当時は全く持て
余したものだ。
 だから家康はその瞬間、厭な顔を見せてしまったのかと、すっかりあわててしまっ
た。だが、そこは如才なくとぼけてしまい、
「結構な事でござりまするな」と云ってしまった覚えがある。なにしろ、前に送り込
まれた朝日姫が亡くなっていたから、叉ぞろ、その後釜を押しつけられる頃合とは、
かねて思っていた矢先だったせいもある。
 それに、目の前に淀殿をおいて、その妹を断るわけにはいかなかった。
(秀吉の妹では、とてもじゃないが目を瞑って灯りを消しても、手さえつけなかった
が、この澱君の妹ならば、まずまずでもあろうか)
と、そんな想像をして、少し浮ついた気がしたのも事実であった。そして、
(今度は前ほどむさくはあるまい)
と思うと、家康とても当時は五十二の男盛り。
(どうせ押しつけられるものなら、少しでも見かけがよい方が得じゃろうし、また前
のお軽のように手をつけんと放っておいては、いたく恨まれもしよう)
と気を使い、
「今度は、かまえて大事にしましょうわい」
と、柄になく本音を吐いてしまったものだ。
「そうしてやってくれ、遠い東へ妹をやるのだと、これが心配してるでのう」
と、秀吉も淀殿を振り返って、尖りぎみの小さな顔を前につきだして揺さぶってみせ
た。
「心得てござる。この家康めが大切に扱い申し、虫に刺されるような事もなきよう、
心くばりを致しまする」
 家康は淀殿の方へ向かって請け合った。
なにしろ、淀殿達姉妹の母というのは、浅井へ嫁入りした織田信長の異母妹で、令人
として噂の高かった於市の方なのである。
(まぁ、因縁じゃ。可愛がってくれようぞ)
と本決りに肚をすえて承諾しかけた時、
「‥‥妹はもう二十と三。少しとうがたちすぎて、気の毒じゃのう」
淀君は言った。だから家康は面食らってしまい、
「とんでもない。有り難い事でござる」
と答えてしまった。
 別にお世辞で言ったのでもない。家康としては本心である。四十四で来た朝日姫の
後釜が、二十と三なら、まぁ半分である。残り物には福があるというが、別に悪くは
ないと、そう思ったからだ。
 すると淀殿は、にこにこして嬉しそうに太閤の方へ形のよい顎をしゃくってみせ、
「これは気に入ってもらえて、重畳よのう‥‥」
と、すこぶる満足そうな言い方をした。
「めでたい」
と太閤が、ワッハと笑った。
家康もつられてヘッヘと笑った。
だから、その日はそれで話がすんだ。
 しかし、三日おいて結納の話が齎(もたら)された。
使いに来たのは、前田の法印であった。どうも話が食い違っている気がした。そこで、
家康は怪訝な顔をして尋ねてみた。
「いったい、誰のところへ来る嫁ぞ」と。
すると、前田法印も狼狽気味にのぼせ、
「江戸中納言殿へではござらぬのか?」と、あべこべに向こうの方が聞き返した。
「えっ、あの秀忠めが嫁女にか?」家康は虚をつかれた様な顔をした。
だが、すぐ持ち前の作り笑いに戻り、
「儂は、まだ一、二年先の事と思うてた」さりげなく話を変えて首をひねった。
「まだ江戸中納言殿は、たしか十七歳」
と前田法印も尤もなと相づちをうった。
「が、太閤殿下の仰せとあれば‥‥なぁ」
家康は他意ないようにニコニコ笑った。
「我らも、その使者でござればのう」
と前田法印も、大きく一つ頷いた。
 別に自分が垣間見て、欲しいと食指を動かした女でもない。聞けば六歳も秀忠より
年長だというが、それくらいに隔たりがある方が、最初の女はよいかもしれぬとも考
えた。なにしろ、今更、受ける受けないといった話でもない。とうに一切は決まって
いるのだ。
 本多正純を呼んだ。家康としては、なにも自分と寝ない女の事でとやかく骨折る事
もないと考えたからだ。
「よしなに計らえ。委細は法印殿の御指図どおりにするがよい」
と家康は言いつけた。
 鷹匠上がりの男は、さも重大な役儀を仰せつかったというように、四角ばって畏ま
り、
「うへえっ」
と頭を下げ、法印の方へも、また丁重に深々と色代(あいさつ)をし直すと、
「何卒よろしく、お引き廻しのほどを」
と、まじめくさっていた。法印も満足したらしく、
「太閤様の御指図じゃ」
と、少しふんぞり返って返事をしていた。いい気なものである。
「‥‥では、よしなに」
と、家康は任せて逃げ出した覚えがある。
 他人と口をきいたり、話をするのは厄介なものである。一人でさっさと己れの書院
へ戻ってくると、やれやれと生欠伸を一つした。そして、
(太閤が乗り気だというのは、事によったら、あの女癖の悪い男じゃから、その淀の
妹とかいう女に手を出したのがばれて、淀にうるさく云われてのせいかも知れぬて‥
‥)
などとも考えたりした。
 が、太閤とても男ゆえ、その妹というのが勿論女人としての名器であるならば手放
しも致すまい。おそらくはあまり刀と反りが合わなんだのではあるまいかと、そんな
事を考えて一人で苦笑いをした。
 だが、秀忠なら十七の子供じゃから、それでよかろう。男は、なまじ初めに己れの
刀に合った鞘など見つけては、後になって道具あさりをする愉しみが減ってしまうも
のと、そんな思いをはせながら、
(それにしても、太閤が淀にせっつかれて、その末の妹を当家へ押しつけるとは、よ
くせきのこと。これは一丁また貸しができたな)
とも考えてみた。そして、
(これは巧く操れば、損にはならぬ縁組みじゃ)
と、ほくそ笑いしたものである。そこで近習に、
「江戸へ使いを出して、秀忠を呼ばせい」
と、まず家康は言いつけた。
 そして、前田法印が立ち戻ったらしく、本多正純が報告に廊下へ来て、そこで畏ま
っているのを家康は見かけると、
「遠慮せず、座敷へ入れ」
と野太い声で言いつけた。
「‥‥おそれながら」
と正純は摺り足で中へ入ってくるなり声を落して、
「相手は故織田信長様御異母妹、於市御前さま忘れ形見の血脈とは申せ、お齢が六歳
も上で今度は四婚目。それにひきかえ、ご当家の若にあたる中納言様は初婚」
と、まず不服の趣を露骨に見せて、囁きかけてきた。
といって、この男はなにも秀忠びいきで、それで気にして立腹しているのでもない。
 常識的な反対意見を先に打ち出して、それで家康の肚を、まず探っておこうという
打診の構えらしい。というのは、なにしろ家康が、
「うん。あれは、あれで良いんじゃ」
と一言いったきりで、正純は頷き、すぐさま畏まって、
「はあっ」
と、もう呑み込み顔をしてみせ、あとは、とやかくの事は一切もう口にしなくなった
をみても判る。まぁ如才ない男である。
 だから家康も、
(要するに、この男とて自分と寝る女なら、あれこれ考えもするが、他人と睦み合う
女など、どうでもえんじゃな)
と肚の中では少し可笑しくなった。
 だが仕事は仕事である。少し顔を厳しくさせてから、家康はじろりと見据え、
「どうせ、話が決まっている以上‥‥貰うものは、さも嬉しそうに貰うが、これは効
き目を上げるというもの。早々と奥向きの老女の中から、弁口の立つ者を選んで、淀
殿への祝着の趣を申し上げたがよいぞ」
と念押しのように、だめ押しをしてみせた。これも、何かと用心のためである。
「‥‥故宝台院様御側衆の女ごが、たまたま、この伏見邸の奥向きに参っております
るが、三河者ゆえ、芯の強い女ご。その者を使者に遣りまする」
と、すぐさまポンと鼓をうつように返事を跳ね返してきた。
 こういうところが家康に気に入られて、父の本多正信も鷹匠上がりの身分から、今
では江戸で秀忠のお守り役というか、執政に任ぜられて宇都宮十五万石になっている
し、その伜の正純の方も、こうして駿府で家康の側近として摺り足でいそいそと座を
立って行った後、
「‥‥ああ、宝台院付の女どもは、まだあそこに残っておったのか」
と家康は独り言を洩らした。
 宝台院とは、今、江戸中納言を名乗っている徳川秀忠や、その弟の徳川忠吉を産ん
だ服部平太夫の娘の事である。
 もともと西郷義勝という者の所へ嫁に行き、後家の素性だったから、家康がからか
い半分に前夫の名をとって故意に、「西郷っ」「西郷っ」と呼んでいたから、いつの
間にか「西郷の局」というのが名のようになったが、かれこれもう死んでから七年に
もなる。
 といって、病ではない。人手にかかって斬殺されてしまったのである。本来ならば
秀忠や忠吉を産んだ女ごゆえ、人手にかかったとあっては放ってもおけぬ仕儀ではあ
るが、家康は、
「まぁ内聞にして葬ってやるがよい」
と、事を表沙汰にさせなかった。
 もちろん、それにはそれなりの理由がある。西郷の局は、その頃、たえて久しく家
康が何年にもわたって構えつけぬものだから、生身の肌が堪えようもなく、人目を忍
んで密かに間に合わせの者を用いていたらしい。
 そこで、その男と痴話喧嘩でもして斬られたのか、又は自分から逢い引きに出かけ、
見廻りの者に見咎められたが、素性がばれてはと、返事をせず通り抜けようとしたの
で、
「曲者っ」
と、一太刀浴びせられて、それであえなく斬殺されたか、どちらかの模様である。
 もちろん、家康にしても、初めは己れが前に抱いて子を産ませた女ごの事である。
それが、人手に掛かって殺されたとあっては放ってはおけぬと顔色を変えはした。
 しかし、落着いて考えてみれば、
(詮議だてすれば下手人は見つかろうが、まずい事にもなろう)
と、そこは迷ってしまった。
 もし、その者が西郷の局と寝ていた男なら、まるで悋気を妬いての結果のようにな
るし、それに、それではいくら放っておいたにしろ、自分の女を寝取られた事を表沙
汰にするようなもので、家康とてばつが悪いこと夥しい。やはり見栄というものがあ
るからして、本多正純に対してその時は、
「男と女ごの事は、それ誰にしろ、こりゃ仕様もないこと、なまじ荒だて致して武者
一人を失うては、これまで扶持をとらせて飼うてきたのが損(ついえ)ともなり無駄
にもなろう」
と言ったものである。
 すると、云われた正純もしたり顔で頷き、
「お局様は、もう死なれた後‥‥その下手人を見つけて処刑したところで、もはや生
き返って戻ってこられるものでもない‥‥そないな事で、あれだけ見事に一太刀で肩
口からまっ二つに斬り割った手練(てだれ)の者の命をとるは惜しゅうござります。
本人とて、このままで放っておきますれば、恐れ多くも大御所様の女ごに手をかけた
罪滅ぼしに、次の合戦には見事に魁け仕って、徳川の御為に勇ましゅう討死しましょ
う程に」と言った。
 そして、家康の顔色を読みながら、
「おそらくは二の丸詰めの見廻りの武者にて‥‥まさか、お局様とは気づかず、ただ
怪しき者と思い込み、誰何しても返事がないままズバリとやってしまったものらしく
‥‥まったく当人には忠義心の他には何もなかったものと思われます‥‥放っておい
てやりなされまするが、上分別にござりましょう」
と、そんな口添えをして、あくまで西郷の局を誤って斬ったのは、何の関りもない見
廻り武者であろうと、その者を庇った。もちろん、正純の口裏からゆけば、誤って殺
された西郷の局も、それならば浮気をしていた事にならず、うかつに供をつれずに、
そぞろ歩きをしての危難という事になる。
 すれば、家康とて、俗に言う間男されたというような味気なさも感じなくてすむだ
ろうという思いやりというか、忠義心にもなる論法であった。だから、
「もっともじゃ‥‥わしも、そのような事ではあるまいかと思い、その方を呼んだの
じゃ。まぁ、よきに計らえや」
と、家康も言ったものである。しかし、相手が正純なので、
「男は、とかく女ごで身を誤るとか申すが、さてさて当節は女も男で身を損なうもの
よのう」
とつけたすうに言ってしまった。
 というのは、家康は西郷の局の執拗なのに手をやき、そうせつかれては厭けがさす
からと遠ざけ、別口の甲州武者の神尾孫兵衛の後家を召して、その頃はそちらへばか
り入り浸っていたからである。
 その女は須知という名であるが、「阿茶の局」と呼ばれていた。その夜の事、家康
は、
「西郷めの、あまりの好きものさについてゆけず、とんと行ってやらずに無沙汰をし
ていたら、とうとう敢えない最期を遂げおった」
と洩らしたところ、阿茶の局ときたら、
(では、私もなるべく慎みまする)
というと思いきや、案に相違して小娘の如く、
「嬉しや‥‥このお口から向こうへは行かず、この須知の許へばかりお起こしとは、
なんたる果報のお言葉か」
と、感きわまって抱きついてこられ、口など吸われ、その気で来たのでもないのに、
あべこべに家康は抱きすくめられてしまった覚えがある。女ごは厄介じゃと、つくづ
く思わされてしまった。


江与の嫁入り

 戦をするには人手がいる。まして武将ともなれば、その家を守るためには良き家来
もいるが、何と言っても入用なのは、やはり他人ではない。もっと使いやすい実の子
供である。
 ところが女というのは、みな誰もが揃って子供を産むとは限らない。散々に致すだ
けの事はしておいて、それで一人も産まぬような不届きな横着なのもいる。
 だから用心深い家康は、無駄玉を撃ったり、外れ矢を出さぬように用心して、前に
子を産んだ実績のある後家女ばかりを選んだ。つまり、これなら前の男の折紙つきで、
保証されているようなものだから、無駄に精力を費やすような事もないのである。
いま江戸へ遣ってある正純の父の正信も、これにはよく感心したもので、
「故太閤殿下も、こちらさまのように後家どのばかりを用いられたら、秀頼公の外に
何人もお子ができ、よろしかったかもしれませぬのに‥‥あの方は本末を誤り、子作
りよりも女ごを可愛がる方にのみ専心され、まだ子を産めるか産めぬか見当もつかぬ
生娘ばかり寵愛なされたで‥‥とうとう豊臣の世を潰されましたが、その点、当徳川
家は後家どのがせっせと、昔とった杵づかで子作りをば遊ばされまするので、天下泰
平、御家万歳、げに、まことめでとうござりまするな」
と、しみじみ云われた事がある。
 しかし、前に何人も子を産んだ女ばかりを、すぐ子種を仕込んでくれる相手として
選んできた家康も、そうした後家上りの女人は若い娘と違って、男というものを堪能
しているというか、きわめて好き者であることまで、当初は計算に入れてもいなかっ
た。
 だから、西郷の局のように、放っておけば勝手に男を咥え込み、すったもんだの挙
句に斬殺されるような事態まで起きると、これにはさすがに狼狽させられ、困惑しき
った。だからして、
(男は戦のため人手を作ろうと思えばこそ、冬でもせっせと汗水垂らして子作りに骨
折るのに、女ごめは初めは恥ずかしそうな仕草をしてみせるが、馴れれば放胆になり、
嬌声など発して、らちもない‥‥まったく女ご扱いとは難しいものじゃ)
と、手をやいていただけに、さて嫁取りの為に江戸から伜の秀忠が伏見へ来ると、す
ぐさま家康は、これはよく言い聞かせておかねばなるまいと考え、
「これ、申し聞かせる事がある」
と、十七歳の伜を別室へ招き入れた。そして、
「猿飼(さるごう)というて、猿を馴らし馬屋にて御幣をふらせ、馬の病を治す者を
知っていよう‥‥あの真似を余人が致そうとしても、まぁ、猿にキャッキャッと騒が
れ、ひっかかれるぐらいが落ちじゃろ」
と、まず言った。すると秀忠はしたり顔をして、神妙に頷いてみせ、
「嫁取りしたら猿廻しのように、よう女を己れになつかせるがよいとのお諭しか?」
と畏まってみせた。
「ばかったれめ」
と家康は、荒々しく叱りつけ、
「未熟者めが」
とも口にした。
「わしゃ、秀忠が猿にされて、嫁に手綱をつけられ躍らされては困るゆえ、かく呼ん
で言い聞かせておるのに、なんたる増長した付け上がった考えじゃ‥‥この父の如く、
これまで数知れぬ女ごと交じてきた者でさえ、とても自分が縄ひき鼓をうち、それで
女ごを舞わせようなどと考えられはできぬのに‥‥」
と叱りつけた。考え込んだ。
 そして、うつむいたきりの秀忠に対し、また家康は続けて情けない顔をしてみせ、
「どうもその方は女扱いは向かぬとみえる。いくら鍛練したとて、埒もあるまい。ま
ぁ俗に生兵法は大怪我のもとと申す。そちゃ嫁一人を女ごと心得て、他に気など移す
でないぞ」
と言ったところ、秀忠は両手をついて神妙にうなずき、
「てまえ生涯、仰せの通りに浮気などせず、嫁一人を大切に仕ります」
と誓いを立てた。
(なにも浮気をせぬなら‥‥あれこれ教えてやる事もなかろう)
と、家康は訓戒も止めにした。

 それまでは生国が近江の城ゆえ、江州の「ごう」をとっての名だと聞いていたが、
伏見の徳川邸へ嫁いできた時は、その名が「江与」と変わっていた。
 わけをきいてみると、太閤が別れの挨拶を言上に来たごうに、
「江戸へ与えるのじゃから‥‥そちゃ『江与』と改名してゆけ。人間はその名を改め
れば従って身も心も新規にあいなろう」
と、祝いのはなむけに自分で名づけてよこしたものという事が判明した。
 が、それを耳にした時、
(何が江戸へ与えるじゃ‥‥増長しおって何じゃえ)
と家康は唇の裏の肉を噛んだ。十年ぶりに烈しい敵意を感じた。露骨な秀吉の思い上
がった不遜な態度が、家康には忌々しかった。そこで、
「弥八郎を呼べ」
と命じたものである。
 弥八とは、このたびの秀忠の伴をしてきた本多正信のほうの呼び名である。
「‥‥うぬは、お鷹匠上りじゃによって、餌(え)とり仲間には連達があろう。斎藤
内蔵介の遺族の事、すぐさま調べ出せや」
と耳打ちせんばかりの低い声で言いつけた。
 そして、
「婚儀が、そちの骨折りで、やっとめでとうとう落着‥‥まぁ骨休めに『在荘(ざい
そ)』(賜暇)でもやってしかるべきとこじゃが、どうも儂は、せっかちで思いつく
と押さえられん。それには弥八‥‥出る釘は打たれる。間に合う奴は使われるともい
う。まぁ我慢して、もう一働き気張れや」
と、さも、うぬ一人が頼みがいのある奴だと言わんばかりに、にやりとしてみせた。
こう言われて悪い気がする者もいない。本多正信も畏まって、
「はあっ」
と、すぐさま、お受けをしてしまった。だが、
(斎藤内蔵介とは、十三年前の天正十年の本能寺の変の時に召し捕られて、京洛中を
引き廻しの上、六条河原で晒しものになって張付にかけられた男‥‥その遺族などを
何故、今頃になって洗いだすのであろうか、はて、面妖な‥‥)
と不思議に思えた。あまりも変な話だった。だから参考のためにと、いつもなら巧み
に話を引き出す事のできる正信だが、意外な話に面食らわされて、少し思案にくれて
いるうちに、さっさと家康は、
「では、よいな」
と念を押すと、
(発て、退がれ)と顎でしゃくった。だから正信も仕方なく、その侭で、
「はあっ」
と引き下がっていったのである。

 とやかくするうちに、江与の引出物であろうか、翌文禄五年五月五日付をもって、
「内大臣」の宣下が家康に齎された。もちろん淀殿の差し金でもあろう。
 徳川の家臣の中でも、頭の強い奴ばかりは、あまりいないから、すぐさま家康の許
へ伺侯して、
「お江与御前を有難く拝領されましたゆえの、礼でござりましょうな」
と、さも、穿ったような事を云いに来る者もいた。どうも、えてして脳の弱い者ほど
利口ぶりたがるものらしい。そういう輩にとやかくの話をきかせてやったとろろで、
呑み込める筈もない。だから家康は、無駄な口をきくのもつまらんから、さも合点し
たような具合に、
「うん、うん」と頷いてやり、如何にも尤もなことよといった顔をしてみせてやった。
だが内心では、家康は烈火の如く、
(よりによって、五月五日とは、なんじゃい。ふざけるにもきりがあるわい)
と腹をたてる。

<というのは、五月五日とは、そもそも各地の国府宮の大祭の日であるが、家康など
には胸くその悪い日だったからである。

 この日本列島に昔から住まっていた連中を、海を渡って入り込んできた者どもが武
力で掃討した。
 彼らが国土を占領した時、意気地なく、『生きて虜囚の辱めを受け』降伏した者は
『奴』とされ、彼らに農耕を課せられた。そこで、これを『ど百姓』と呼ぶ。そして、
戦いに敗れたとはいえ、あくまで同化を拒みつづけた者は、まだまだ隙を狙っては反
抗をしたから、これらは山間僻地や孤島へ流された。
 しかし、なにしろ食物もない土地では餓えてしまうから、次々と投降帰順してくる
者も中には出てきた。
 これらの新附の民のために、その宣撫用にとあてがわれて、一国に一つずつ造営さ
れたのが、今は一の宮ともいわれる彼らの課役で作られた各地の国府宮なのである。
 さて、温暖な四国、九州、本土の西部は進駐軍のものになったが、流連逃亡した原
住民達は本土の東部から北部に密着してかたまり、あくまで集団勢力を保存しつづけ
た。
 そして、『本土回復』『倦土重来』を叫んでいた。だから、五月五日の国府宮大祭
の当日は、『国司』はお篭りして『えびす退散。仏敵降伏』を終日祈願したものであ
る。
 そして当日に限り『戦意昂揚』と定められ、各地区ごとに別所、散所(山所)、院
地(院内)の名称によって、まだ囚われても降伏せずあくまで頑張っている捕虜収容
所に対し、周辺の者が公然と投石して襲撃する事を五月五日一日限りとして特に許さ
れていた。
 なにしろ、東北地方には未だに厳然として主勢力を持ち、捕虜にされた各地二千数
百の収容所にも、白山(しろやま)、八幡(はちはた)の二系統を主に、えびす、大
黒、弁天らの七福神の蘇民将来(素民とは原住民)の信心の繋がりを持ち、一致団結
していたのが、彼ら原住部族の者達である。
 だから、一旦、もし原住民系の進攻が始まれば、各地の別所区域は、その橋頭堡の
砦になって拠点になることは考えられる。そこで戦火が開かれた時には、真っ先に別
所区域を奪取できるようにと予行演習として、この五月五日の襲撃は、さながら実戦
同様に千年近くにわたって続けられた。

 もちろん仏教をもって、この列島へ入ってきたた外来者の群れが、既住していた原
住民を屠って完全に、ここに彼らの勢力を築き上げたのは『続日本紀』によれば、天
平時代が終わったあと、西暦781年。この年は日本年号では、天応辛酉(てんのう
しんせい)とよばれ、元日に改元され、その翌年から延暦元年になってしまうような
年であって、この年に英邁な桓武帝が即位し遊ばされていられる。
 そして、この時点から、文武百般の諸様式一切が大陸風に変貌されてしまうのであ
る。そして以前は模糊としてあまり判らないが、ただ、この桓武帝以後は比較的種々
明瞭になり、『人物叢書シリーズ 平野邦雄著』によれば、この時の女御は、百済王
媛の教法、百済の永継姫、尚侍(ないしのかみ)のは藤原継縄の妻である百済王女明
信。武鏡の娘にあたる百済王女教仁。百済王教徳の女の貞香姫。さて、次の嵯峨帝の
女御は、百済王俊哲の貴命姫。宮人女官の尚侍には百済王女慶命。仁明帝の時にも百
済王永慶姫と、はてしなくこれが続いていられる。つまり俗に系図などで『桓武平氏』
などというのは、みなこの御系統の後裔らしい。
 もちろん『百済』とは今の韓国である。向こうの人は秀吉の朝鮮征伐で侵略された、
伊藤博文によって日韓併合されたのだと反撥心をもっているともいうが、千二百年前
に遡れば、話は全くあべこべではなかろうと思える。
 さて、神功皇后の三韓征伐にしろ、秀吉が時の帝を大陸へ移し奉る意図だって、あ
れは当今でいう『錦を飾って故郷へ戻る‥‥御郷帰り』でしかなく、侵略戦争などと
いうものではない。日韓両国民は、もっと素直に過去の歴史を見直して、同一系であ
ることを認め互いに親善を計るべきであろう。なにしろ、『続日本紀』延暦十年(西
暦791年)正月十八日の条には、
『百済王俊哲は、通辞として坂上田村麿ら大軍を率い東海道の掃討に進軍』の記載が
ある。(坂上田村麿は百済より来日し、時の参議になっていた坂上苅田麿の伜で、今
で言う二世にあたる)
 この結果が延暦三年に山背国の天険、長岡に移されていた都が、延暦十年七月には、
今の京都へ復帰し、陶他坊、祟仁坊、安寧坊、停風坊、永昌坊、開健坊、延嘉坊、光
徳坊、宣義坊、天寧坊、貴財坊の坊門通りによって形成される仏都の京都が出来上が
るのである。