1104 謀殺  4

 なにしろ、いつの時代でも何処でも、またそうであろうが、偉大な母親、それが女
王などの場合には、生れた息子は損をするらしい。
 さて、当時、エリザベス女王の方は、メアリ女王からさも親切そうに、
「シュルーズベリ伯爵夫人が申しますには‥‥貴女(エリザベス)は青春期は過ぎ去
り子供を産む時期も去ったというのに、ある殿方(レスター伯爵)とinfinie
s fois(とても数多く)ベットを倶になさったり、その他でも、お気に召した
男性をみつけると、貴女様は
「japais perdre la liberte de vous faire pamour et avoir vostre plesir
avec nouveaulx amowreulx」
と、フランスの淫らな民謡の、
(愛に心をくだく愉しみこそ、女はいつも喪わず、歓びこそ、新しき恋人と倶に枕す
る床にあり)
 などと、はしたない歌詞を口ずさまれながら、夜になるとシュミーズにコートを上か
ら纏っただけの恰好で、男どもを寝かしている部屋で、ノックもなしに入ってゆかれ
るとか‥‥そのお忍びの姿を彼女(シュルーズベリ伯爵夫人)も何度も拝したと、そ
んな怪しからん事を申すのでございますよ。だが、私(メアリ女王)は、そんな愚に
もつかぬ中傷などは、少しも信じていません。何故かなれば、
「undubitablement vous n'estiez pas comme les autres femmes」
(あなたの肉体はふつうの女体とは異なっておられる)
という事を、私はよく存じ上げているからでありますの‥‥しかし、それは、アンジ
ュ侯とも結婚しかねた貴女の秘密なんですもの‥‥わたし誰にも云いはしませんこと
よ。しかし、何も知らぬ人々はつまらぬ風評の方をとても興味深く言いふらすもので
す。ですから私は、口さがない侍女や彼女(シュルーズベリ伯爵夫人)みたいな者は
お近づけにならぬよう御忠告しましてよ」
という書簡を受け取るぐらいだから、その肉体的欠陥のせいもあって、夫もなかった
が子はなかった。
 しかし、メアリ女王には、ヘンリー七世の曾孫にあたるヘンリー・ダーーンリとの
間に息子がいた。ジェームズ六世である。
 彼は母のメアリ女王がエリザベス女王に出した書簡で怒りをかっているようだから、
英国議会が請願する死刑許可書に、きっとサインをするだろう。そこでこの際、それ
を防ぐためには、
「囚われのメアリ女王陛下のため、ご自分の影響力を有効に使いさなったらいい‥‥
フランス国民は、親孝行というモラルを愛していますから、きっと御協力を致します
よ」
と要望するフランス大使に向かって、エジンバラにいたそのジェームズ六世は冷やや
かに、
「qu'il fallait quelle but la boisson qu'elle avait brasse」
(自分が材料を色々と鍋へ入れてこしらえたスープは、自分で呑むべきだろう)
とフランス語で返事をしたという。
 つまりメアリ女王の一人息子は、自分の母が殺されるというのに、それを見殺しに
したというので、
(エリザベスの死後、彼女に子がないから、西暦1603年「ジェームズ一世」にな
り、スコットランドとイングランドの両方を君主を兼ね、大英帝国最初の王となる)
彼をば、「愚かなる王」とか「精神薄弱のキング」と、フランスやドイツでは今でも
評している。
 おそらくジェームズは、父のヘンリー・スチュアートが第二の夫であったという事
実よりも、ボスウェル伯爵が母と通じて、父のヘンリーを殺害したという事に対して、
その憤りを持ちつづけ、そこで、
「勝手にスープを呑め」
と怒鳴ったのであろうが、誰もが、そこまでは同情していない。
 この時点、つまり1603年は慶長7年であるから、徳川家康が二月十二日に征夷
大将軍の宣下をうけているが、時に劇作家のシェイクスピアも四十歳になっていた。
<これまでシェイクスピアの研究家にかかると、彼の四大悲劇の一つとされている
『ハムレット』たるや、
『これはデンマークに実在した王子ハムレットの悲劇で、既に十二世紀の頃にデンマ
ークの詩人サクソ・グラマティクスによって世に知られ、1576年(天正四年安土
城落成の年)のフランス版のブルフォレ編の「悲劇大成」にも入れられている。だか
ら、これを劇化したものを「VrーHamlet」つまり「原ハムレット」として区別
しているが、これは当時の事情からして「スペイン悲話」の作者トマス・キッドのも
のと思われる。つまりシェイクスピアは、その十四年前にエリザベス女王にしばしば
観覧の栄を賜って好評を得ていたセネカ悲劇の「スペイン悲話」に影響を受け、ブル
フォレの「ハムレット物語」を改作したものであろう』
と剽窃と決めつけられている。
 だからして現代のT・S・エリオットなども、
『シェイクスピアのハムレットは、藝術的には失敗作つまり愚作といわざるを得ない。
なにしろ主人公のハムレット自身の感情に対応すべき、肝腎な客観的相対性の関連性
が、あまりにも欠けすぎている憾みがありすぎるからである』
と、それが模倣のイミテーションにすぎないという観点にたっているから、手厳しく
批評をしている。
 しかし、山に入っては山を見ずというが、案外にも英語国民の方が、こうした古典
への読みは浅いのではあるまいか。これは、「ハムレットという人名はデンマークの
王子に現存していた」とか『ブルフォレのハムレット物語が種本なんだ』という尤も
らしい既成概念に捉えられてしまうから、それが判らなくなってしまうのであって、
こうした作劇法は、日本でも旧幕時代は江戸三座が聖天町の弾左衛門取締に入ってか
らは、公儀へ気兼ねして弾圧を避ける方法として、その筋立てに、よく用いるもので
ある。
 つまり、日本の歌舞伎の院本(まるほん)ものでも、これはよく使う手法で、たと
えば元禄十四年の刃傷事件を扱うのに『仮名手本忠臣蔵』では、『足利時代』という
設定をまずして、吉良上野を『高師直』とか、浅野内匠を『塩谷判官』としてしまう
類である。
 といって、これは歌舞伎の約束ごとであるから、日本人なら、これはこういう設定
にはなっているが、本当は徳川期の芝居だと判ってみているが、シェイクスピアにな
ると、肝腎な設定がいまだにヨーロッパでは呑み込めていないらしい。
 私も念のためにロンドンの大きな古本屋のスミスやフォイルへ行って、シェイクス
ピアの研究書を何冊も纏めて求めてきたが、私の考えのような発想を向こうの人間は
誰もしていない。>

 ----だから、私の書くことは、やや奇異にとられるかも知れないが、
「ハムレットのモデル」そのものは、デンマークのハムレットではなく、他ならぬメ
アリ女王の伜の「ジェームズ一世」その人だというのである。
 英国史のアイザノア・バーリンも、これに関して、
「1603年にスチュアート王朝のスコットランド王ジェームズが、イングランド王
を兼ねるや、直ちにシェークスピア劇団は、王の庇護下に入るという宮廷藝術家の安
定を得られた。翌1604年11月1日。ジェームズ一世は、シェークスピアに『ヴ
ェニスのムーア人』の芝居を宮廷で開演させ、諸侯を招いて見物させた。これは彼の
死後七年目の1623年に編纂された三十六篇のシェークスピア戯曲集には『オセロ
ー』として入っているものである。」
とシェークスピアが死ぬまで、そのジェームズ一世に可愛がられていたこと、王室か
ら保護されている事実を書いている。だが、「何故か」までは、それは残念ながら、
ついに解明をしていない。
しかし、‥‥(ハムレット第一幕第二場)
王妃    ねぇハムレット。そんな暗い顔をするのは止めて‥‥王様を、もっと
      優しい目でごらんなさいね。‥‥いつも眼を伏せて、あの世においで
      になった貴方のお父様の事ばかり考えるのはおよし。ねぇ、判ってお
      いでだろう。生きている者は、いつかは必ず死んでしまうんですよ。
王     余を、まことの父と思ってくれ。余はこの場で宣言してもよいぞ‥‥
      お前こそ余の王位を継ぐ人間じゃ‥‥そして余は、もっと慈悲深い父
      親に劣らぬ深い愛情をもって愛してもいる。頼むから余の子として余
      の暖かい膝下にいてくれ。
王妃    母の願いもきいておくれ、ハムレット。
ハムレット せいぜい御心にそう事に致しましょう。
王     ハムレットが同意してくれたので、わしの心は晴れ晴れとしおった。
      さぁ、祝杯をあげよう。

と、ハムレットを除いて一同退場する。

ハムレット ああ、もう考えまい‥‥弱き者、汝の名を女という!とはいえ、何た
      ることだ。亡き父の遺骸につきそって行ってから、まだ一月とたたぬ
      のに、そうだ。あんなに泣き濡れていた母が、あの男とまた結婚をし
      た‥‥赤く腫れ上がった眼の色も変わらぬうちに、母は、あの男と結
      婚し、あんなにあさましくも慌ただしく不倫の床へ急ぐとは‥‥これ
      はよいことではない。善いことになりっこはない。だが胸が張り裂け
      ても口には出せぬ。

(同じく、第三幕第二場の劇中劇‥‥)

劇中妃   ああ情けなや、やめてたも。もしこの身が、あなたという夫の外に第
      二の夫のまみえるなどとは、なんとあさましい事ではあろう。そんな
      ことは、夫を殺すような女ごでなくば、とてもできはせぬこと‥‥
ハムレット 「傍白(ひとりぜりふ)」にがいな、にがいな。
劇中妃   ふたたび違う夫を迎えんとは、利慾を求める卑しき心。そんな新しい
      夫に抱かれるとは、さながら亡き夫を二度も殺すにひとしきことでは
      ありませぬかいな‥‥なぁ、もうし、さてさて、今の夫の貴方さまを
      失うなどとは、空恐ろしきこと、もし仮りにたとえそのような事があ
      ったとて、なんでこの身が再婚など致しましょうや。
ハムレット (野次って)その言葉に、まさか間違いあるまいな‥‥(と、傍らの
      王妃に)お母さん、いかがです、この芝居は‥‥。

(同じく、その第四場)

ハムレット お母さん。なんですか。
王妃    貴方は父王によくも酷いことをしますね。
ハムレット お母さん。あなたこそ私の父によく、あんな酷い事をしましたね。
王妃    まぁ、何を言うの。そんな質問がありますか。
ハムレット まぁ、何を言うの。そんな質問がありますか。
王妃    まぁ、どうしたの、ハムレット。
ハムレット 何がです。
王妃    貴方は、この私を忘れたの。
ハムレット 忘れるものですか。あなたは妃さま。そして情けないことに、僕の母
      なんだ。
王妃    とても手におえません。貴方を誰かに叱ってもらいましょう。
ハムレット じっと座っていらっしゃい。あなたの心の奥をはっきり鏡に映してあ
      げます。
王妃    何をするの。この私を貴方は殺そうっていうの‥‥誰か来て、誰か来
      て‥‥

 こういう具合に引用してくると、はっきりしてくるが、「王妃」はメアリ・スチュ
アート女王であり、「王」は、ヘンリー・ダーンリ王を殺して一時は王位についたボ
スウェル伯爵なのである。
 つまりシェークスピアはジェームズ一世を架空の「ハムレット物語」のハムレット
に仕立て、彼の言いたい事を残らず代弁し、劇中劇まで作って、その母を見殺しにし
た必然性を劇化することによって、ジェームズの庇護を受け、パトロンになっていて
もらったのである。
 さて、そのシェークスピアは徳川家康と同じ元和二年に歿しているが、慶長九年七
月十七日に誕生(徳川台記・祚胤伝)とされている徳川家光は、その前年。
 当時のことだから、まだ鎖国はしてないから、英国船も来ていたし、事によったら、
このシェークスピアの「ハムレット」も、英国王ジェームズ一世陛下御推薦として口
こみで輸入されたかもしれないが、

(ハムレット第三幕第一場)
ハムレット 生きる。死ぬ。それが問題だ。どっちがと貴いのだろう。残酷な運命
      を、その矢玉をじっと忍ぶか、あるいは‥‥死ぬ‥‥眠る。それだけ
      の事ではないか。しかも死んで眠ってしまいさえすれば、すべて、み
      な終りになるではないか。心の悩みも肉体につきまとう苦しみも、そ
      うすれば願ってもない人生の終局になる‥‥死んで眠ってしまえば‥

というようなことが、日本版ジェームズ王にあたる徳川家光にもおきる。
 これは、「柳営秘録」には、
「元和元年乙卯、竹千代君(徳川家光)十二歳のとき密かに自殺をなさらんと企てら
る。これを春日局が見つけ顔色を失い切諌(折檻)する」
といった記載になって、今も残されている。
 つまり、メアリ女王の子というべき後の駿河大納言忠長と、エリザベス女王にあた
る春日局。そして、これは日本のジェームズ王にもなるハムレットの家光。彼らの観
念の回想が、やがて「信長殺しは誰なのか」という、一つの糸に絡まって繋がってゆ
き、この不可思議な物語は、ここから始まってゆくのである。

[写真二葉略]
 川越喜多院に移築されている春日局の住居の外観。一見まるで長屋みたいだが、江
戸初期では立派なものだったろう。
 廊下からみた左側の薄暗い居間だが、春日局が寝起きしていたし中二階がついてい
る。奥の廊下の右手が天海の無量寿院。



               信長殺しの娘

三十三年の夢

「‥‥これが竹千代が腹を割った血の痕かや」
柿渋を筆で横に一文字殴り書きしたようなのを、前にひろげられたまま、家康は唸っ
た。
「まだ十一や十二の童(わっぱ)‥‥不憫やのう‥‥」
と息をぐっとのみこむよう眉をふるわせ、白く飛び出した二、三本の長い毛を引きつ
らせた。そして、
「よくせき、堪え難く辛気な事でもあるんじゃろな」
昔に比べて気がめっきり弱くなったのか、家康は自分から塩辛い涙声に換えていた。
 すると、その気配を早くも察したらしく、「恐れながら」と両手を揃えて差し伸べ
た侭で、べったり前倒しになっていた春日局が、
「申し上げまする‥‥」
と顔を畳からひっぱがすように上へ持ち上げ、また隠すようにも袂で包みこんだ。
「言うてみい。何も気兼ねせんでよいぞよ」
と家康の方も、近頃の癖ですこし首を震わせ気味に揺さぶって、話をせかすように催
促をした。
「今のままでござりますと、この於福(春日)とて、竹千代君とおん共に、いつかは
自決を‥‥」
と、泣き声の隙を縫うような口調で、そんな洩らし方をした。そして後は、また泣き
崩れた。
「うむ‥‥江与は、そんなにきついかや」
と訊(き)かいでも判っとるといった口のききかたで、家康は腰を浮かしかけ、立と
うとした。
 なにしろ女の話というのは、自分が理性をなくしている時は一人で喋りまくる。
そのくせ、そうでない時はなるべく向こうに云わせて、その中から何とか言葉質をと
ろうと引き出しにかかる。
 だから、その煩わしさに、家康は厭きがきているのか、話にまきこまれるのが面倒
くさかったのか、逃げ腰になっていた。
「‥‥用がある。ゆるりとして待つがよいぞ」
と、そこは馴れたもので、相手に二の句をつがせないように、家康は、さっさと褥座
(しとねざ)の上から退散してしまった。
 恨めしそうな春日局の視線を背後に突き刺さるように感じながら、家康は太刀持ち
小姓から、
「‥‥どこへ渡らせまする」
と聞かれると、首を振って、
「あてはない‥‥女ごの来ん表座所(おもて)へでも行こうかい」
と、ぶすっと返事をした。