1103 謀殺  3

              真実はどこに

メアリ女王

 コカ・コーラの大看板が目印のようにもなってしまったピカデリーサーカスから、
リージェント通りをトラファルガ広場へ出て、セント・ジェームズ公園の植込みを右
に見て、
House of Parliament
と呼ばれる、時計台で知られた議事堂の前まで出ると、まるで日本の串刺しみたいな
感じがするウェストミンスターの尖塔が、双角をつきたてるみたいに聳えさせている。
初めてここの寺院へ足を踏み入れた時、大理石の床に、それは五十センチ角の正方形
の滑らかな肌をした薄赤や薄青そして灰色、の様々な表面ではあるが、華文字で一枚
一枚に、その名と歿年が刻みこまれていて、まるで墓石の上を土足で歩き回るような、
そんな後ろめたさを感じ、せめてもの心やりに名前の個所は避け、大理石の継ぎ目と
いうか、筋の入った四隅を選んで通り抜けながら、おかしな連想かも知れないが、長
崎でその昔行われたという踏絵の事などを考えてしまい、ひょいひょいと角から角へ
股いで歩く自分の足取りに、幼い日の陣取り遊びなども、つい思い出したような記憶
もある。
 そして、ここへ最初に行った時は、インツーリストのみの、まるで女教師みたいな
分厚い眼鏡をかけたエレンとかいうガイドと一緒で、彼女が勝手に一人でまくしたて
る言葉に対し、脇を見ながら「I see」などと返事をしていると、本当に判るの
かといったような顔で覗きこまれるので、彼女が喋る時はやむなく、その金色の産毛
の生えた唇の動きをみつめてやり、時々はご愛敬に、
「I beg your pardon?」とか、
「Speak more slowly please.」
などと合いの手を入れ、さも、真面目な生徒が緊張して聞き込んでいるような恰好と
いうか、そんなゼスチャアばかりしていた。
 といって、その女に気があったとか、とても美人に見えたなどというのではない。
向こうのビジネスに協力したというか、相手に気を悪くさせてはいけないといったよ
うな気兼ね、つまりは気の弱さのせいだったらしい。
 だから、いくら唇を眺めていたからといって、それに吸いつく気も起きなかったし、
早くこのブロンドのガイドから解放されたい、そんな欲望しか感じなかったようであ
る。
 つまり、初めてウェストミンスターへ行った時は、踏み石の墓碑銘に遠慮してしま
い、見てきたものはカメリア・レッドの女の口紅だけといっても過言ではない。
 せいぜいあとは伽藍の祭壇。シャンデリアの切子細工と、真紅の絨毯と三フィート
おきの間隔で止めてある、黄金色の大きな鋲しか覚えていない。それに何も英国史を
予習して出かけたわけではないから、耳の方だって、ブロークンなイントロダクショ
ンを次々と早口に詰め込まれても、その場では、さも判ったように納得してはみせた
が、それは白人女に馴れていなかった為の遠慮だけで、ろくすっぽというより、本当
のところは何も記憶にも残っていない。
 もし、覚えているとすれば、そのガイド料にチップをつける時、
「Harl crown」
と呼ばれる二シリング六ペンスの銀貨が、邦貨にすると百二十円の換算率と気づかず、
それを一つだけ渡して、後になって、あれで良かったのかと頭を悩ませたぐらいであ
る。
 が「ABBEY」と呼ばれるゴチック建築のそこへ去年行った時は、ロイヤル・フ
ェスティバル・ホールからヨーク通りを抜け、テムズ川を渡って一人で行ったから、
今度は耳を煩わされる事もなく、毛の生えた口紅を凝視する面倒もなかった。
 だから、踏み石になった碑銘に気兼ねする事もなく、音楽家、政治家とジャンル別
に敷きこまれた大理石の上を歩きまわって、カメラのシャッターを切って廻った。
 クイーン・エリザベスの白い石像を写し終え、動きかけた時、すぐ近くに、
「Mary's Stuart (1542.12,7-87.2.8)」
という文字の刻まれた代理石像のあるのを見つけ、思わず立ち止まってしまった。
「En ma fin est moon commencement(我が終りに我が初めあり)」
と言い残して1587年2月8日にFotheringay城の大広間の断頭台を両
手で静かに抱え、
「聖なるイエスキリストさま。十字架の上に広げられました御腕により、万人の永遠
の魂が救われましたように、私も、その情け深い御腕にてお受け止め下さいまし。そ
して私のもろもろの罪障も許し賜らん事を、アーメン」
と、生後六日にしてスコットランドの女王となり、やがてフランスへ嫁ぎ、夫のフラ
ンソワ二世の死後は未亡人女王ともなったメアリ・スチュアートは祈ったという。
 なにしろ、彼女は帰国後にスペインの王子ドン・カルロスと結ばれる事を欲したが
ならず、旧教(カトリーコ)の従弟ダーンリと結婚。が、ボスウェル伯爵がダーンリ
を殺害して新しい夫となるや、新教徒(プロテスタント)の貴族らが騒いで、ついに
彼女は監禁された。
 辛うじてイングランドへ逃亡し、ダットリの城に匿われている女王を、イングラン
ド国家警察が放っておくわけはない。彼女さえ亡き者にすれば、イングランドはスコ
ットランドを領有できるというので陰謀をめぐらす。そして、このウェストミスター
の、入って右側にあたる「Starchamber」と掲示されている「星の居間」
で検察官は協議し、
「メアリ・スチュアートはスコットランドの女王のみにてはあきたらず、イングラン
ドの女王を兼ねようとして密かに潜入してきたりて、我らの統治の玉体、つまりイン
グランド女王エリザベス一世を傷つけ、滅ぼし、又は殺さんとする目的をもって各種
の計画を認可し考慮をめぐらしているのは、警察においても告発すべきに充分なる証
人と証拠を取り揃えずみである」
とズーシー卿以外は一人残らず、これに対して賛成投票をする。つまり有罪。これは
死刑の宣告なのである。
 スコットランド島をイングランド領にすれば、公有地をとりあげて分譲して儲けよ
う。向こうの利権を奪って新会社を作って懐を温めようという国会議員によって構成
されている英国議会の与党は、多数決によってエリザベス女王に対し、
「我らの信奉するプロテスタントの教義の存在と、女王陛下御玉体の御安泰、並びに
国家公安の三点におきまして、陛下が速やかにスコットランド女王メアリ・スシュア
ートに対する判決へのサインを願います。なにしろ我々は、スチュアートの背後には
無敵艦隊を持つスペインのドン・カルロスの存在もわきまえていますから、もし女王
陛下が判決の公示に躊躇されまするならば、陛下の御安泰を保障できる他の如何なる
方法も存じません。よって直ちにサインを賜り、メアリ・スチュアートへの公平にし
てかつ迅速なる処刑をば、ここに請願する次第であります」
と訴えた。
 すると今は右手の方の石像になっているエリザベス女王は、それに対して、まず、
「私達君主は、舞台の上にいる者のように、いつもあらゆる視線を浴び、好奇心をも
たれています。そして衣服や手帛の小さな汚染(しみ)でさえ、じろじろ観察され、
とかく批評される立場です。ですから自分のとる行動は、つねに公正と名誉に飾られ
ていなければなりません」
と婉曲に即座の決裁は避ける。
 が、1587年2月1日の水曜日、女王陛下付書記官長デーヴィソンは、ハワード
卿の命令でメアリの死刑許可書を他の書類と共に、サインを貰いに伺候すると、
「風邪を引き気味で頭痛がするから、何も思考力はない。後にしてくれ」
とエリザベス女王は云い、それでも、
「是非に‥‥」と書記官長が云うと、女王は額に手をあてて吐息をもらし、
「熱があるから眼も霞んで何も見えはしないのに」と、私は病中強要されてわけもわ
からずに、うっかりサインしてしまうのだと、前もって説明して、それに書記官長が
「イエス」と直立不動の姿勢をとって返事するのを待ち、確認してから署名してしま
う。
 だから、このエリザベス女王の左側に飾られている大理石のメアリ女王は、
「あの人は私を殺す事によって、イングランドとスコットランドを両方の耳へ吊るす
イヤリングのようにして、グレイト・ブリテンの大女王陛下になりたいのよ。女の虚
栄よ‥‥天なる神よ。あわれなプロテスタントの女を許し賜えアーメン」
と、彼女の引きずる裳裾をもって従う侍女のアンドルー・メルヴィルに囁きながら、
その処刑されるアオザリンゲーの大広間へ入ってきたのである。そして、
「聖油を頭に注がれて即位した女王が、処刑をされる」
という前代未聞の見世物を眺めようと、ひしめきあう二百のイングランドの貴族をし
りめにかけ、生れた時からの女王であるメアリは、断頭台の二段の階段を上がり、
「カトリック信者として殉教者の神々しさ」を、異教徒の人々に示そうと静かに死を
待つ。
 やがて首斬り役人の斧が振り降ろされる。
最初の第一撃は滑って彼女の後頭部を割り、白い骨の間から黒ずんだ血漿を吹きこぼ
らせ、第二撃で頭の骨を割って、まるで噴水のように血管から飛び散らせ、やっと第
三撃めで、返り血を浴び赤いバラの花みたいになった首斬り役人が、胴体から分離し
たメアリ女王の首をつかみ上げて、まるで闘牛士のように、観衆のプロテスタントの
貴族や城主のポーレット侯へ見せに行く。チップをはずんで貰うためである。
 が、斬り損なって最初に割ってしまった後頭部の、ぽっかり開いた傷口は肘のとこ
ろで隠していたと「スコットランド史」に明示されている。そのせいなのかも知れな
い。私はそっと、メアリ女王の代理石像の背後に廻ってみたが、後頭部の傷口は判ら
なくなっていて、すべすべしていた。


ツヴァイクの世界

 「人類の星の時間」を書き、「昨日の世界」を書いてから、その夫人と共に自殺し
てしまったツヴァイクは1934年にロンドンへ亡命すると、「懐疑」を方法として
「真実」を求めようとして、彼は「メアリ・スチュアート」を一年がかりで、その翌
年に書き下ろしをした。そして、その「前書き」に、
「歴史上不確実というヴェールに包まれた人物や事件は、かさねて新しい解釈や創作
を求めて止まないものである」
と、その歴史観をうちだし、なにしろ歴史的事実とか証言といわれるものは、それは
往々にして虚妄でしかあり得ない場合が多いから、二人の人間、二つの理念、二者の
対立といった時には、人間の本性としてすぐ割り切って、どちらかに味方し、一方を
正とし、他を不正。いずれかを真面目、他方を不真面目と決めつけたがる。
 そこで、これまでも新教徒の側からでは、メアリは悪玉で、エリザベスが善玉とさ
れ、スコットランド人をして言わしめれば、反対にメアリは卑劣な罠に落ちた不幸な
女性として三百年にわたって泪の物語にされている。だから、最期でさえもイングラ
ンド側とでは、全く相違して、酷い斬首刑に対して、絞首刑の異説が相反してあるく
らいである。
だからして、こうした四世紀以上もたったような過去の具象に対しては、
「どんなに慎重に選択しようとも、時には、やはり自分の意見に疑問符をつけたり、
あれやこれやと、真実の意味において曖昧模糊なものは、永遠に曖昧であろうと告げ、
何故それが曖昧であるかということも明示しておくのが、一番誠実なやり方といえよ
う」
と言っている。
 このツヴァイクのものは「マリー・アントワネット」にしろ「ジョゼフ・フーシュ」
においても、共にフランス革命を土台にしたものとはいいながら、やはり懐疑をデー
タとし、「何が真実なのか」というテーゼを追求してゆくものであって、これはフラ
ンスのユマニスト達からの影響を受けている。
 つまり善意をもって、その歴史上の人物に友情を分かち、従来の「もっともらしさ」
を強調したり、「これは、ああである」「あれはこうなのだ」と決めつけてしまう砂
上楼閣のような教科書的歴史。言い換えるならば俗説を土台にして、それに迎合して
書かれたような便乗的な「歴史のごとき見せかけだけのもの」の空虚さというか莫迦
らしさを排撃してゆく処理方法で、つまり自分の都合だけで勝手に資料を引用せず、
そのままで拡げてみせて、それに対する自分の意見はつけ、「こうなんだから、こう
である」というのではなく、「こうこうなんだが、これまでの話とは違う。だから、
どうであろうか」といった具合に、説得力というものは読者を尊敬して表面には出さ
ず、その読解力を重んじてゆくという、中世期からの西欧の知性的ニューマニズムの
貴重な伝統を受け継いだやり方なのである。
 が、時によっては「メアリー・スチュアート」の処刑の場の如く、「生きた人間の
処刑というものは、けっして----あらゆる書物や報告はここで嘘をついているのだが
----そんなロマンチックな、純粋に感動的であるようなものではありえない」
と烈しく、虚偽に対しては、その鉾先を突き立てもする。

<私も、『元治元年の全学連』を書き下ろす際に、
『従容として死に臨み、七言絶句の辞世の詩を残して刑死していった』
という幕末の志士の最期のあり方が、どうしても不思議で仕方がなかったから、福島
県の塙町役場に保管されていた牢問日誌の綴りなど見せてもらい、そういった刑死の
模様は、これまでのものは死花を飾る式の全くのデフォルメに過ぎない事を詳細に描
写してしまった。
 だから、『戦場で死ぬ兵士』は『痛い』とか『やられた』とか『ちくしょう』『お
っかさん』などとは云わず、みな『バンザイ』と両手を上げて感動的に絶命するもの、
と決めてかかっている人達には不真面目ととられるかも知れぬと、ツヴァイクのもの
を引用しながら気になってきて、ついこれを書き足してしまった。
 さて、私の前著の『信長殺し、光秀ではない』は、世界史から孤立している日本史
の断層を、『天文十二年に日本へ鉄砲が伝来し、万国共通の火器作戦の時代が来た。
だから国産で雑賀や国友で和銃も作られたが、さて弾丸をとばす火薬材料の75パー
セントを占める硝石は日本では産出しなかった。
 そこで信長は、堺をその輸入港としてマカオに頼り、のち秀吉は備中備後の帰化人
部落を通して、比津賓や朝鮮から輸入。家康は、オランダ人によって長崎出島をその
門戸とした。つまり徳川の『鎖国』というのは、なにも天主教禁圧が主ではなく、彼
らがエージェントして、当時でいう『煙硝』を持ち込み、それを他の大名が入手する
のを防ぐための『硝石独占輸入方式』であって、このため各大名は、『鉄砲があって
も火薬が入手できない』ために叛乱できず、よって幕末までは『徳川三百年の泰平』
が続いたのである。
 というきわめて常識的な判っていそうで、そのくせ、これまで気づかなかった日本
の歴史の盲点を解明の基礎とし、
『信長殺しに持ちいられた強烈な新黒色火薬は、スペイン国王フェリッペ二世によっ
て、わずかその数年前にチリで開発された新硝石によるもので、これは、その後、四
十年たった元和七年九月になるまで、日本には正式に輸入されていない。つまり、信
長殺しの直接的死因である新型火薬を持っていたのは、当時としてはフィリピンと合
併したポルトガル人の宣教師だけであるから、彼らの中にその供給者がいた。
 そして、当時としては京都では二階建てが高層建築物だったのに、平屋建ての本能
寺から一町もない至近距離に「ドチリナベル・ダ・デイラ(真の教えの天主会堂)」
という三階建てのバルコニーつきの建物があって、そこにはポルトガル人の司祭や日
本人の助祭がいた。そして奇怪なことに、本能寺の変のあった日の昼に、京都管区長
オルガンチーノは、今でいえば長い草鞋を履いて、逃げも逃げたり九州の涯まで逃避
行している。
 ところが後になって、ポルトガル王も兼ねたフェリッペ陛下は、オルガンチーノに
はマカオへ帰る事さえ許さない事実がある。そこで秀吉は他の宣教師は追放したが、
彼だけは行き場がないのに同情したのか、きわめて懇ろに保護してやって日本で死な
せている。
と、マカオ史料やローマ史料をもとにし、
『どう調べてみても、信長殺し、光秀ではない。本能寺を囲んだ実行部隊の兵員編成
と、その指揮系統が、これこれであるが、それらと明智光秀とは、天正十年六月二日
の凶行時間には、リモコンにしろ連絡のとりよう筈とてない。また、これほどの大事
をしでかすからには、万一失敗したら自分だけでなく一族一門の破滅なのに、蔭に隠
れて、その当人が操れるものではない』
 また、こちらの国内関係では、あらゆる光秀や信長資料を基にして、従来の頼山陽
の日本外史のような、『敵は本能寺にあり』式のものが、いかに事実を歪めたものな
のかを詳細し、文献出典根拠も明確に引用してある。
 なにしろ調査に二十二年の歳月をかけ、それを一つに結晶させたものであるから、
できれば、この続編の前でも後でもよいから、『信長殺し、光秀ではない』を是非と
も目を通して下さる事をお願いする。
 さて、その講談社の『信長殺し、光秀ではない』に対し、日本歴史学会の反論は、
その会長の高柳光寿博士が、批評として、
『徳川家康は、光秀遺愛の槍を、家臣の水野勝成に与える時に、(光秀にあやかれよ)
と明言している。もし後年のように、光秀が信長殺しというのであれば、あやかれと
は自分を殺せとの意になる。だから家康は光秀をもって信長殺しとみていない証拠で
ある。つまり「光秀を主殺し」にしてしまったのは江戸時代の儒学からである』
と述べられている。
 つまり歴史学会でも、高柳光寿先生のような最高権威は良識を持っておられるので、
反論といっても、結局は同意論になられるのである。
 さて、その江戸の儒学というのは、徳川家光の代から勃興し、その子の家綱の代に
なって、明国人の朱舜水が長崎から帰化して、いま後楽園スタジアムになっている水
戸上屋敷に仕えた時点から隆盛するものであって、これは、天正十年六月当時は、ま
さか合戦でもありえないから、
『われこそが信長殺し』と名乗り出る者がいなくて、その当時としては六月十五日に
安土城で焼死した信長の妻の奇蝶こと美濃御前(のうごぜ)をもってして、
「夫を殺した女」としてしまい、いまだに日本各地何処へいっても、この呪われた背
徳の権化のような女人の墓など一つもないありさまだが、家光、家綱の代になると、
さすがに遡って色々検討され、
『信長殺しの真の下手人は、あのお人であったのか』と判ってくる。
 そこで、その人の名は言えないから、御用学者の儒者どもが、
『では、斎藤内蔵介の主人である明智日向守光秀を、主殺しにしてしまおう』
という事になったのらしい。もっと、はっきり言えば、これは当時の権中納言山科言
経日記の六月十五日の条に、
『一、日向守斎藤内蔵介、今度謀叛随一なり。堅田に篭り居りしを尋ね出され、六条
河原にて誅せられる』
と出ている内蔵介の末娘の於福が、この当時の権勢並ぶものもない春日局、その人で
あるから、
『春日局様の亡父内蔵介様は光秀の家老ゆえ、やむなく謀叛随一になられたのである。
これは主従の間では、臣として不可抗力の立場である。なんといっても悪いのは‥‥
明智光秀である』
という帰納法にもなって、表向きは元和時代、内容は天保期の『川角太閤記』なども、
光秀が謀叛を企てるのを内蔵介が諌め、聞き入れないので、やむなくその下知によっ
て本能寺へ突入したような出任せが書いてある。
 しかし、『忠義』などというモラルは、この時代にはまだ発生していない。それは
儒学思想で、一般には仁義礼智忠信孝悌の八つの玉を犬がくわえてとんでいく『里見
八犬伝』ぐらいからひろまったものであって、なにしろ千姫を大坂城から救出して有
名な津和野の城主坂崎出羽守あたりでさえ、他から恩賞が貰えるとなると、その重臣
共に突き殺され、その首を取られてしまうような、戦国末期はドライな世の中なので
ある。
何かの行為には必ず後からの果報がつきものの時代で、自分が利得しない事には『一
文にもならぬ事を誰がする』という厳しい世のあり方だったとも言えよう。>

 そして、エリザベス女王によって、メアリ女王がフェザリンゲー城に幽閉されてい
た西暦1582年というのは、日本の暦に直すと「天正十年」となる。つまり、これ
は本能寺が新黒色火薬によってふっとばされて、信長が死んだ年にあたる。そして、
メアリ女王が殺されるのも、スペインの開発した新黒色火薬をイングランドのエリザ
ベスが怖れるあまり、スペイン王子ドン・カルロスと縁談のあった事もある彼女を危
険視するあまり死罪にしてしまうのである。
 このすぐ後になって、スペインの無敵艦隊が、エリザベス女王の海軍と決戦するに
先立ち、新黒色火薬を山積みに積み込んでいながら颱風にあう。いくら強力な火薬で
も、まさか颱風の目は撃破できない。かえって甲板にまで所狭くなるまで積み上げた
火薬樽の重みが船の吃水を深くしたので、スペイン艦隊は、エリザベス女王の海軍に
新黒色火薬の威力を示す一発だに撃てず、ついに全艦隊が海底へ深く悲しく潜航して
しまう。
 といって、もちろん潜水艦など発明されていない時代なので、沈んだ艦隊は浮上し
てきっこない。あたら新火薬も、ついに水浸く樽になってしまう。
 だが、ツヴァイクにしろヨーロピアンの歴史を書く人達は、この新黒色火薬の点に
気づかず、もっぱらカトリックとプロテスタントの凄まじい宗教闘争の中においての
み、メアリ女王殺しを把握して解明しようとしている。しかし宗教戦争という目でみ
ても、当時は日本とて同様だったと云える。
 もちろん、日本へプロテスタントと呼ばれる新教が入ってきたのは、これは明治に
なってからであり、当時の日本の中世期の宗教戦争というのは、織田信長の率いる別
所出身系の戦国武者(元来は八幡と白山の神徒だが、足利期には大半が東方瑠璃光如
来を拝む薬師寺派に入れられている)と、「西方極楽浄土」を唱える今日の浄土宗や
真宗のもとである一向門徒の石山本願寺や、それに同調する高野山や延暦寺。そして、
それに繋がって大陸から硝石を供給されていた仏教大名達。
 つまりは、神道派と仏教派の宗教戦争なのである。
ただ、キリスト教国では、今でもカトリックとプロテスタントが歴然と二分されてい
るのに比べ、日本列島では家光の子の五代将軍綱吉の時代に「神仏混交」を為されて
しまい、そして、
「この世には、神も仏もないものか」
と、心中ものの中で同一に並べて台詞にしてしまうが、あれは同じ寺社に併祀されて
いたからの錯覚でしかない。故島崎藤村の「夜明け前」にも現れてくるように、神道
派の平田の門人達は幕末になると「打倒仏教」を目指して、討幕の運動にこぞって挺
身し、やがて明治新政府ができると、太政官に「神祇省」を設け、「廃仏毀釈」とい
って、これまで神仏混合で祀られていた寺から、仏像を棄てさせ釈迦や如来、観音の
像を毀させてしまう。
 しかし、明治新政府の薩長というのは、もともと大陸系であるし、仏徒派であるか
ら、「走狗は煮られる」というか、もう新政府の土台が固まれば神道派は用なしゆえ、
みな追放され、神祇省もできたばかりで廃止されてしまう。
 これに対して「神風連」の乱なども起きるが、明治政府は神徒仏徒の宗教闘争を押
さえ、これを対外戦争に向けさせて、それまで圧迫していた神徒系を、戦争になると、
「神州不滅」とか「神兵天下る」とか「神風が吹く」と都合よく美化して利用したか
ら、現代になると、死んで葬式をする時は仏教で、婚礼や地鎮祭や交通安全の御守り
を貰う方が神様であるかのように勘違いされ、その結果が、「宗教は阿片なり」と説
く共産圏の人民よりも、日本人の方が無宗教者が多いような結果になる。
 しかし、中世期にあっては、そんな事はない。神道なり仏教なり、みな宗教を持っ
ていた。そして、その宗教闘争の凄まじさは、信長をして比叡山を焼き討ちにさせ、
高野山の僧侶を一人残らず殺戮させてしまうのである。だからして、反仏勢力の信長
が倒されてしまうと、その翌年には一斉に宗教改革さえも、早々と全国で始められる。
これは各地の古い社寺に今でも、
「天正十一年裁可状」
という名で残されたり伝わっている。
 つまり、信長の生存中は「修験」と呼ばれた行者によって支配されていた社寺が、
天正十年の「本能寺の変」を境にして変り、それまでの神徒系を追放し、改めて一向
門徒が京に本山を有する各派や、高野山とか延暦寺といった流れを汲む者を新たに住
職に頂いて、その存続を裁許されるように願い出たものに対しての、これは「許可状」
なのである。

<『掛川去稿』(「掛川史稿」‥‥静岡県郷土史料)にも、
『往昔の延寿院は現今の広安寺なり。昔は「博士小太夫」と呼ぶ修験なりしが、天正
十一年の裁許状により(住持が)三宝(仏教)の仏果のところとなる』
といった記載さえもみられる。
 つまり『信長殺し』というのは、『誰々の謀叛』ということより、これは日本とい
う国の中世における『カトリック対プロテスタントならぬ、神仏両派の宗教争い』
とする見方も成り立ってくる。
 なにしろ信長に代わって国家権力を握った仏教派の秀吉は、叡山や高野山を復興さ
せたはよいが、その死後、当時『北の政所』と呼ばれていた寧子(ねね)が、阿弥陀
峯の山麓に『豊国神社』として秀吉を祀り、吉田兼右にその神職を司るよう委嘱した
ところ、次の国家権力を握って交替した徳川家康によって、
『仏家のものが、もってのほかである』
と、せっかく造営されたばかりの壮麗な神社を、たった一日で跡形もないくらいに破
却され、取り片付けさせられてしまったことは有名である。家康と秀忠の父子は、は
っきり神道派を自認し、徹底的に仏徒派の弾圧を断行したのである。>

 つまり、天正十年六月二日の本能寺の変によって、神道派の信長を、メアリ・スチ
ュアート女王の如く死へ送った新教徒ともいうべき仏徒の豊臣政権は、家康の嫌いな
寺の梵鐘に、「国家安康」などと銘を入れたばかりに、大仏殿を再興したり洛中洛北
の寺をうるおした仏果が得られず、ついに大坂落城という破局を迎えた。
 そしてそのあと、家康父子は、また「神徒派の世」に巻き返しをしたように、寺と
いう寺に対して厳しい措置をとった。
 なのに、神道派の徳川家が三代家光からは、まるで掌を返したように、がらりと変
化してしまうのである。
「これは‥‥何故であろうか」
という疑問が、どうしても起こる。
 徳川家光が「徳川台記」や、これまでの講談種の俗説のように、「徳川秀忠の長子」
であるならば、こんな事は起きるわけはない。また「春日局」が乳母だけならば、あ
んなに威張って天下の権を握って、死ぬまでに大奥にいられる事もない。
 また、死に際して、代官町の春日局の枕許へ尾張、水戸、紀伊の御三家はつきっき
りで奉仕。家光将軍も千代田城を出て三度も訪ねているが、世子の家綱までが何度も
行っている。畏れ多くも京の御所より、女官右衛門佐の局が、わざわざ見舞いに下向
までしてきている。
 これは、(春日局が徳川家で大切にされていたから)という事実より、春日局自体
に対して御所は、何か感謝すべきことがあったようにも拝される。
 ということは、春日局の実父が「本能寺の信長殺しの斎藤内蔵介だった」という点
も、併せて考えさせられる問題である。
 しかし、春日局と家光の間柄を、これまでの俗説のように乳母とみてゆくと、おか
しすぎる事が多いから、故三田村鳶魚などは、その著の「徳川の家督争い」では、明
白に、
「徳川家光は精神薄弱者である」
と決めつけている。また、「空印言行録」などには、
「ただのひとにはおわせず、辻斬りなどもなせりといわれる」
と精神病者に扱っているし、「徳川実紀」という徳川史料でさえ、「小心」であると
評し、「粗暴」ともいう。
 つまり講談本の「家光と彦左」や「家光と一心太助」そして「徳川の夫人たち」の
ようなものの中では、思いやりのある貴公子となって出てくる徳川家光も、こうした
資料ものにかかると、まことアブノーマルな変質者で、しかも「低能」という事にさ
れている。
しかし、この説の根拠は、まんざらでもない。


ハムレット家光

 十六世紀の末の英国において、旧教のスコットランド女王メアリ・スチュアートと、
新教のイングランド女王のエリザベス一世が、「両虎相戦わねば」といった具合に睨
み合いしていた頃、海を越えた日本列島の江戸千代田城においても、やはり二人の女
王が互いに睨み合っていた。
 云わずと知れた片や神道派の、織田信長の姪で「ごう」ともいうが、江与の方。
それに対するのは仏徒派で、その信長殺しの娘である「於福」こと春日局である。
 この二人の対峙は十七世紀に入った1626年にようやく終止符が打たれた。とい
うのは、その寛永三年九月十五日に、江与の方が死んで「崇源院」と名が改まったか
らである。
 メアリのように断頭台で首を切られたわけではないが、メアリと同じ様に四度の結
婚をした於市御前の三女は、その晩年は春日局に苛められて、この高貴な女王は泣き
明かして死んだという。
 もちろん俗書の「大奥秘伝」などによると、春日局の差し向けた者によって砒毒を
かわれて、髪の毛もみな抜け落ち、顔中を腫れ上がらせて非業の死を遂げたという。
しかし、「徳川台記」などには、死因には一切ふれず、
「よって普請奉行八木勘十郎は大命を仰せつかり、棟梁鈴木遠江守をもって、芝増上
寺境内にその御霊屋を翌月から着工し、まる三年の歳月をもって寛永五年九月落成」
とのみある。
 メアリ・スチュアート女王だって、その死後は、ひとまずは、淋しいピータロバ墓
地に埋められていたが、やがて盛大な松明行列に囲まれて掘り起こされ、そのまま堂
々と死の行進をロンドンに向け、テムズ川を舟で上って、歴代の王や女王の納骨堂で
あるウェストミンスター寺院へと葬られ、今では大理石像となって、まるで、モナリ
ザの微笑みたいな静かな容貌をいつもみせている。
 さて、崇源院が亡くなってから四年目の寛永九年の正月。先に家光に将軍職を譲っ
ていた二代将軍の徳川秀忠が風邪をひいた。が、息を引取る間際に気がかりらしく、
「徳川の家は神徒なり、墓や廟所はいらぬぞよ」
と遺言した。
 なにも吝をしたり、来るべき不況に備えて冗費を慎めと遺言したのではない。
カトリックとプロテスタントでは教義が違うように、神徒と仏教もやはり違う。

<当時の仏教はみな土葬だから、寺には墓地という死体格納のガレージがあったが、
神徒は火葬で、その骨壷を各自の神棚に置いた。だから神社には『泰安殿』はあるが、
墓地はついていない。だが明治末から大正にかけて伝染病が流行し官営の火葬場がで
きた時、その事業利益をあげるために市町村条例で土葬を禁じ火葬を奨励した。しか
し、だからといって各自が、その骨壷を自宅保管してしまっては、それでは寺が儲か
らぬからと、一斉に『埋葬許可令』を施行し、『焼いて粉にして埋めろ』という事に
なった。そこで、これまで墓地や石碑のなかった神徒系も、やむなく寺へ頼んで墓地
を分けてもらい、これまで墓はなかったのだから、『何々家先祖代々の墓』というの
を一斉に作った。現在、墓地へ行くと、こういう代々の墓が多く見られるのは、この
時のブームの結果に他ならない。>

 さて、その時家光は、秀忠の遺言どおりにしようと思ったらしいが、生き残ってま
だピンピンしていた和製エリザベス女王の春日局は、仏教興隆の好機と思ったのであ
ろう。
「構わぬ。建てませい。早うせいやい」と下知をした。なにしろ、この頃の日本版エ
リザベスの権勢が当るべからざる有様だった事は、「寛政十年二月の鳴海史料」にも
あり、原文通りに引用すれば、
「鳴海刑部六代目兵庫賢信の寛永丙子の年、時の政所春日局さまよりとの仰せにて、
天海僧正さまの御使いを賜り、その御考判を下しおかれ候むねを洩れ承る。よって兵
庫謹んで伺侯せしところ種々の御下問ありて後、畏れ多くも御局さまにおいては、土
居甚三郎利勝さま初め家老一同を呼びつけなされ、その立会いのもとに、新銭鋳造の
儀を鳴海兵庫に一任の儀仰せ付けられ候いぬ」
 これは、寛政十三年六月から鋳造された「寛永通宝」の穴あき銭を、鳴海兵庫に下
命した時の経過模様であるが、時の幕閣の老中筆頭土井利勝ら以下が、さながら春日
局の家老ぐらいにしか見えなかったという点において、このエリザベス女王の春日局
の当時の権勢は偲ばれる。

 だから、土井利勝は、
(家光公が何と仰せられようとも、お局様の命令とあれば、突貫工事をせねばなるま
い)
と自分が総奉行となって、とうとう年内の十月には秀忠の廟を落成させてしまった。
「参拝にゆかれるがよい」と、家光は春日局に云われて芝の増上寺へ行くと、
「あ、あれは何じゃ」と、秀忠の「台徳廟」の他に別個にある建物をみて指差して尋
ねた。
「はあっ、あれなるは七年前に亡くなられましたる崇源院さまの御霊屋でござります
るが‥‥」
と、土井利勝が畏まって答えたところ、家光は不快そうに睨みつけていたが、また吃
って、
「め、目障りじゃ‥‥すぐ、叩き壊してしまえ」
と唇を震わせて云いつけたという。
 メアリ・スチュアート女王は、生きて居るうちこそ苛められはしたが、死後はウェ
ストミンスター寺院で、いつも微笑をたたえておられるというのに、江与の方ときた
ら、その廟所さえ、さっさと壊してしまえと云われているのだから、これは比較でき
ぬぐらいに憐れである。
 さて、この時は千代田城の一室だけではなく増上寺山内という野外ページェントだ
ったから、お伴の幕臣の他に寺僧共も、咳払(しわぶき)ひとつせずみな静まり返っ
ていたので、この家光の罵りの怒号は、多くの者の耳に、青天の霹靂のごとく響き渡
ったらしい。だから、
(家光が、秀忠と江与の方の子供である)などと思い込んでいる者は、びっくりして
しまい、
(死んだ親父様のお参りに来て怒鳴るとは‥‥不謹慎な)と愕いたり、
(己れのお袋さまの御廟所がここにあるのを‥‥七年間も知らずだったとは、呆れた
ことではある)
ということになって話が広まり、ついに徳川家光という人は、
「あれは暗愚である」「ばかである」「精神異常か、精薄である」
という事になってしまったらしい。