1102 謀殺  2

 心の中で、
(いやな奴だ。なんとかなれ)
と念じていると、少しは効果があるものだ。春日局が風邪をひいたとかで寝込んでし
まった。つまり出仕をしなくなったのである。
「しめた」
と少年は勇気を出した。春日局以外の椎茸髱(しいたけたぼ)の女どもなんか怖くは
なかった。
「今こそ、試してみよう」
と、まずそんな気を起した。未知な事への冒険でもある。別に誰からも教わったり聞
いたりしているわけでもないが、しかし、耳にはしている。
 なにしろ、宵っ張りの少年は床へ入って、いつもすぐ寝つかれず眼をぱちくりして
いた。
 すると、控えの間につめた若い女どもの交わし合う話というのは、いつも男女の事
である。時には「むらさき源氏」とか「いなか源氏」といった本の廻し読みをし、ク
スクス笑う。
 「源氏物語」というのは、次から次へと女を廻って歩く男の浮気者の事らしかった。
そして、どの女とも同じ具合では、さぞや読む側も飽きが来ようと、趣向を変えてい
た。興がって、そうした場面になると女たちは息を弾ませて、つい甲高い声色など使
う。
 だから、勉強しようとして耳を澄ませているわけではないが、少年もつい覚えてし
まう。男と女が仲良くする事は、体と体を結び付け、繋ぐのだという事も知ってしま
った。
 どの辺りをくっつけるのか初めは判らないから、手と手で握手でもし合うのでもあ
ろうか、それとも鼻と鼻をこすり合わせるのか、口と口をつけ舌をまきつけ合うのか
とも想像した。
 しかし、仔細に耳を澄ませ精神を統一して聴いていると、「裾」というくらいは少
年にだって判る。すると、謎の結合個所は、これは腰から下部らしいと、朧げながら
呑み込めた。
 自分の体で人体実験してみて、足の爪先から上へ撫で上げると、そこには臍しかな
い。だが、窪んでいる所は臍だけだといっても、そこの辺りはどう考えても裾とは言
わぬ。すると、残りは、結合させるには出っ張り過ぎているが、皮の剥けた一個所し
かないのだ。
 大人の女はお喋りで、後で吹聴されては困るから、少年は若いのをば物色した。
「おこま」と呼ばれている少女達が、禿頭というおカッパの髪型をして御使屋敷には
いた。屋敷といっても、御三の間と御広屋敷に挟まれた大座敷で、ただ畳数が多いだ
けの事だ。
 その中で無口そうなのはどれかと検分しに行った。みな十歳くらいの見習い少女ど
もである。器量の好し悪しを見分けるなら、一目で判る。だが、口数の多少は判断が
難しい。少女の口許の大きさを丹念に眺め廻し、唇の大きさが比較的小さいのをば選
んだ。それしか、他には区別のしようがなかったからである。
 名を聞くと「あい」と答えた。
「まいれ」
と、少年はその少女に命じた。
怪訝な顔はしてみせたが、
「はい」
と返事した。
 体裁ぶって、すたすた歩いて行ったが、それでも、心配なので背後を振り返ってみ
た。
すると少女は、ちょこまとうつむき加減で、遅れまいと細い畳廊下をついてきた。そ
れを見て少年はほっとすると同時に、早くと心が急いた。邪魔を心配したのである。
 「表使詰所(おもてづかいしょ)」というのは月番制になっているから、今月は右
の溜りは空だと気がついた。なにしろ少年は時々暴れん坊遊びをするから、何処がい
つ空部屋かは知っていた。
 曲り角に隠れるように身をよけ待っていて、少女が近寄るなり、その肩をぐっと掴
まえた。
「入れ」
と、「御次の間」の唐紙を開けて中へ押しこんだ。突き飛ばしたというべきか。
少女は足をとられて躓いた。起き上がろうとするのを、慌てて少年は覆いかぶさった。
そして、
「開げろ」
と云いつけた。
 少女は意味がわからぬらしく、座り直そうと腰を上げた。少年は、その隙間に顔を
さしこんで覗いた。念のために手を差し込んで撫ぜ廻してみた。
(そうか、男は槍で、女ごというのは鞘なりしか‥‥)
と少年は実物をみて、やっと納得したが、
(自分の槍の穂は松の木から滑り落ちた時から皮が剥けとるが)
と気にした。
(はたして、ものの用に立つであろうかや)
と、急に心配が込み上げてきた。不安になった。
(刀にしろ、槍にしろ、先がとれていては突きも斬れもすまい。人間の刀槍も同じじ
ゃろう)
つまり少年は、自信を喪ったままで事に臨もうとした。少女も怯えきった表情を見せ
た。
(銘刀で斬られると痛くないが、鈍刀でやられると痛い)
というのを知っているらしい。
「‥‥お許しなされませ」
と、少女は目の前に突出された「晒包みの刀」を拒みかけた。
「ならぬ」
少年は晒包みをとってから叱った。劣等感をはっきり意識したからだ。
 少女は諦めたように、こじられ開けられる侭に、精一杯の角度に自分自身を張付に
した。だから中心もつれて、左右に引き裂かれるように開いた。
少年はまずゆっくり見物した。
刀と鞘は合わねばならない。だから鯉口を押し広げてよく眺めたものだ。だが、いく
ら中へ納めこもうとしても、少年の刀は逆に反りをうっては戻されてきた。
別に少女の方が意地悪をしたり邪魔しているようにもみえなかったが、駄目だった。
(‥‥こんな筈はない)
少年は狼狽した。宿直(とのい)部屋から聞える源氏の話とは違いすぎた。たしか、
侍女共の興じあって読んでいる絵草子では、女が決まって声を上げるのだ。
(ああ、なんとかなんとか)
とわけのわからぬ言葉を、ひっきりなしに喚く筈なのである。
 ところが、無口なのを選んできたせいでもあろうか。十歳の少女は言語を発さない
のだ。まるで唖のように口をぐっとヘの字に曲げたままで、眼を開けたり閉じたりし
ていた。
 だから、少年は、まるで一人で押しくら饅頭をしているような索漠たる感じだった。
そして、そんな倦怠の中に排泄を催してしまった。止めようとて止まるものではなく、
溢れだしてしまった。
 透明な黄ばんだ液体が交差した双曲線となって、白い少女の肌にかかり、流れ落ち
た。蘇芳染めの花色木綿の裏地から、うこんの下着までが、ぐっしょりと濡れてしま
った。
 濡れ雑巾に包まれた恰好の中で、少女は初めてヒィと、そしてもう一つヒェ‥‥と
泣いた。
(女を泣かせるという源氏絵草子の話は、こういう事でありしよな)
と少年は思った。
 だが、さすがに狼狽した。寝尿(ねじし)の癖が少年にはあった。その記憶が蘇っ
ていた。慌てて濡れた所を手でこすった。甘酸っぱい尿の香りの中で少年は溜め息を
ついた。
 そして、泣きじゃくる少女を抱え起こしてやると、黄色く湿った鯉口をこすってや
った。
「ゆ‥‥許せ」
今度は少年の方が泣きべそをかいてしまった。少女の耳許へ口をつけた。
立たせてやった後、青い畳表が少女の腰の丸みだけを黒ずんだ翳を残していた。
それを足で踏み消すように何度も擦りながら、まだ少年は、少し吃りがちに、
「す、すまぬ」と、またくり返しうめいた。
 そして、少女を陽あたりのよい障子際へ押した。
湿った布地を乾してやるつもりなのか、少年は少女の腰をまくり上げて手で広げた。
 寝尿をして目覚めた後、いつもこうして自分で乾かしていた少年は、馴れた手つき
で、
「寝ていて粗相したと思うたらええのじゃ」
と、少女の耳へ吹き込み叱咤激励した。
しかし、少女は立たされてからも尻をまくられっぱなしで、しくしくすすり泣いてい
た。
「な、泣くなよ」
吃りながら少年は堪らなくなって、またいらいらした声で叱りつけた。
 やっとの事で少女は手で顔を拭きかけたが、手の匂いを嗅いで袖口にかえた。そし
て、涙をこすりあげてから、ゆっくり自分に言い聞かせるように低い声で独り言を言
った。
 耳を澄まして少年が聴いていると、その声は「奉公」と聞え、「忠義」とも響いて
きた。
 少女はまくられた細い臀部を陽にさらし、自分の言葉に酔ったように満足を示した。
だが、濡れた裾の端を持って屈みこんでいる少年の方は、自分の放出した臭気を嗅ぎ
ながら、
(奉公とか、忠義というのは、する方はよいが、させる方は臭いものじゃ)
と考えた。
だから、桃の実のようなものを、はたと睨みつけながら、厄介なものじゃとしみじみ
思った。穴の開くほどにじっと見詰めて、少年は溜め息とも吐息ともつかぬものを何
度も呻いた。少年が成人してからも、極端に女色を忌み嫌ったのは、この時の後悔の
せいかもしれぬ。


竹千代自殺

 少年は刀を抜いた。本物の刀である。刃先が光っている。思わず、
「切れるなぁ」
と呟いたほどだ。
 癪に触って我慢できないから死んでやろうと考えたのだ。自害しようとしたのだ。
 だが、抜いた刀で、さて何処を斬って死のうか。まだ、そこまでは決めていなかっ
た。初めは首を斬ってしまおうと思ったのだが、自分で己れの頭をエイと叩き落せる
ものではない。右手に握り締めた刀の切先で、左手か脚をスパリと斬り落す事ならで
きそうだった。しかし、手や足を切断したからといって、それで死ねるという自信も
なく迷った。だいたい自殺しようと思いついたのは、喪われた名誉を取り戻そうとす
る為の決闘だ。言い換えれば、少女に洪水を浴びせてしまった事への忌まわしさ、自
己嫌悪ともいえよう。面白くもない、腹立たしい、我慢ならぬ口惜しさゆえに挑んだ
のである。

 こういう時は何処かへ行ってしまえばよい。消えてなくなるが上策というものなの
だ。だから少年も初めは脱走を考えた。誰も知らない他の所へ行ってしまいたいと思
った。しかし、なにしろ少年のいる場所は悪い。千代田城の大奥なのである。出よう
がない。もちろん何処かに出られる通路はあったろう。だが、少年は生れた時から外
へ出た事がない。
 といって、なんとかして潜り出て遁走しようとはした。退き口を懸命に見つけた。
胴塀でぐるっと囲まれた敷地内を、迷い犬みたいに、くんくん鼻をならして嗅ぎ廻っ
た。そっと土間廊下へも出た。
 だが、「御広敷御門」の出口には、「伊賀屋敷」がついていた。
もちろん、伊賀者といっても大奥だから男ではない。しかし、男よりも強そうな女た
ちだ。黒っぽい筒袖に角帯を締め、樫の棒を抱えた鬼瓦みたいな女達が見張っている
のである。
 七ツ口の遠廊下まで偵察に行ったが、とても恐ろしくて、
「だめだ‥‥」
と止めてしまった。
 ここ以外の外部への出口は、あと二つあった。お上が大奥へおなりになる「上御鈴
廊下(かみおすずろうか)」そして戻って行く時の「下御鈴廊下」というやつ。
 どっちも大きな鈴が掲げてある。御錠戸口は厚い板戸で、向こうとこちらで「チリ
ン」「チリン」鳴らし合って合図をする。
 つまりチンチン行きまする、お戻りなされますると向こうは男小姓。こちらは女小
姓だ。いつも両手を膝につき畏まっていて、上様しか通行なさらぬ所だから、余人で
は開けない。もしもの用心に、薙刀まで持たせ警戒している。剣呑で近寄りもできぬ
通行禁止なのだ。
「出口は三つあっても駄目だ。抜けられはせん」
と観念し、
「かくなる上は‥‥」
と覚悟した。
「生きて出られんなら、死んでも外へでてやろう」
と臍(ほぞ)を固めて肚づもりをしたのだ。
 だから、どういう段取りで死のうとまでは、まだ考えてもいなかったし、手筈もな
かった。そこで、刀を鞘からエイッと抜き放ったものの、さて、となると、当惑しき
ってしまった。
 といって、気後れしたの、臆病のというのではない。もともと、刀を抜きかけると
すぐ「危のうござります」「なりませぬ」いつも咎められ、それが頭に残っているの
だ、潜在的強迫観念とでもいうのだろう。少年はすぐ思い出し、
「刀はいかぬ。危ないのう」
と、自殺する気だったが、刃物は危険だからと中止した。別の方法をば探すことにし
た。

 長局には、一之側から各二ヵ所ずつ堀井戸があるのだが、ここは水番の端下女がい
る。比較的、あたりに人がいないのは、「乗物部屋」の出鼻にある「東長屋」の大井
戸である。ここは「火の番部屋」の女どもが汲み水するのと、御門内へ担ぎこまれた
御駕篭の掃除だ。
 煮炊きや洗いものに使う井戸ではないから、水仕(みずし)とよばれる女が張り番
には立っていない。だから、ドブンとここへはまり込むことにした。つまり、身投げ
という方式だ。
 しかし、ようやく死場所を見つけたのに、いざとなると変てこな心持ちにさせられ
た。
(女児の股ぐらをびっしょりさせたからと、羞恥心で水へ入るのはおかしい)
と、どうも気が進まない。だから身投げはやめた。しかし、普段こういう事は教わっ
てない。
(どんな死に方が一番よいか‥‥)
あれこれ思いつくまま、考えていみた。だが良い智慧も浮かばぬ。

(食中りをしてはいかぬ)と、毒見役がつく。
そこから思いつき、喰って死ぬことにした。
何を口へ入れて死のうか、さて少年は思案した。やっと、思い当たったのが青梅であ
る。毎年の事だが、木の側へ行っただけでも、
「お毒にござりまする」と云われる梅だ。
 そっと、見つからぬように、少年は青梅を拾い集めて、それを夜まで隠し込んでお
いた。
 お付の女どもが控えの間に退がって一人きりになると、少年は這いだして梅を抱え
た。真っ暗な部屋の中で目玉をぎらぎらさせ、少年は仰向けになって懐の青梅を握っ
た。
「よし、今から死んでやる」
と、まず一つを囓った。ものすごく酸っぱく歯にしみた。
(なるほど、こりゃ毒じゃ)
と少年は納得してガリガリと音を立てないよう呑み込んでみた。
 が、丸ごと一つ食しても、まだ生きていた。だからして二つめ、三つめと続けて囓
った。いくつ食したら死ぬのか判らないが、懐にあるだけの生温かくなった青梅を貪
り食べた。
 そのうちに顎が痛くなってきた。疲れが出たのか、知らぬ間にすやすやと寝てしま
ったが、腹がぐうっと鳴動してきて、すぐ目が覚めた。
 激痛がキリキリ下腹を突上げた。
(これで死ぬのか)と思い当たり、
(さても難儀よ‥‥)と、歯を食いしばって我慢した。
 しかし、堪えようにも、そんななまやさしい痛みではなくなってきて、七転八倒し
た。
「死ぬ、死ぬるぞ」
と、ついに宣伝めいた事まで口にしてしまった。夢中だったのだ。
 境の唐紙を開け、雪洞を持って女中どもが血相を変えてとびこんできて、大騒ぎに
なった。
 本道(内科)の医師が駆けてつけてきた。行燈が蝋燭の焔に取り替えられ、明るさ
が増した。
 少年は騒ぐ大人どもを見廻し、面白い遊び事のようにも思いたかったが、なにしろ
痛かった。槍の穂先で尻の穴から突き刺され、それが咽喉まで持ち上がってくるよう
な疼きだった。口を開けると、まるで穂先を吐き出すような鋭い吐瀉が始まった。
 蛙のように這いつくばったまま、少年は自分の嘔吐物の中へ、めりこんでうつぶさ
った。遠くなっていく意識の中で、
(女ごは下を濡らし、男は上を濡らすのか)
と感慨に浸った。別に意味もない。ただそう思っただけである。それっきりわけがわ
からなくなったのだ。

 目が覚めた時。京白粉を壁のようにべったり塗った春日局の顔を見て、少年は驚い
た。
(しまった)と、狼狽した。
なぜなら、春日局も死んで、こちらへ来ていると思ったからである。
(えらいのが一緒に来ている。こんなのと死んでからまでは付き合いきれん)
と考えた。だから、
「生き返りたい」
と、少年は思わず絶叫した。
 するとである。手妻のように、
「お喜びなされ‥‥はい、ちゃんと生き返られましたぞえ」
と、言われてしまった。
 しかも、その口を動かしている相手たるや、乾いた白粉の壁が落ちそうな春日局な
のだ。
「えっ」
と声を上げ、
(では、局も一緒に生き返ってか?)
ときこうとしたが、やめた。途端に口をきく気力さえも、へたへたと崩れてしまった
からである。情けなかった。
 だから、少年はむくれきったまま、
「竹千代は自殺じゃえ」
と春日局に云ってやった。
なにしろ昔から側にいて一番うるさい女なので、威嚇するつもりで真相を口にした。
(けえっ)と驚き、ひっくり返るか、こそこそ逃げ出してゆくものと、少年は計算し
た。
 しかし、結果はどうした事か、あべこべになってしまった。相手は逃げないのであ
る。しかも、
「‥‥みな、退がりや」
と、医師も女中どもも一斉にその場から人払いをしてしまった。
そして、いなくなってほしいのだけが唯一人残って、世にも恐い顔で座っていた。
 少年は尺取虫のように体を縮め、掛布をもろにめくり取られた。
(しょうがない‥‥)
と、少年は床の上に四角く座った。行儀よくするためではない。覗かれぬためである。
なにしろ放尿したいのを堪えていたから、そこが催促がましく突出していたからだ。
「‥‥竹千代様、さっきのお言葉は、ありゃまことかえ、性根を入れて御返答を」
と、春日局は少年の肩を掴まんばかりの剣幕で、おしかぶるよう詰め寄ってきた。
「こわい」
と少年は泣いた。そして、
(これだから、生きるのは厭なんだ)
と、また思った。
「なにも、男の御子がメソメソなさる事はござりますまいが‥‥しっかりなされませ
や」
首の根っこを押さえるように手が伸びた。肩の付根の肉を握るみたいな掴み方をされ
た。
「この局が前に産みましたる男の子供四人とも、一人も泣き虫などいませなんだえ‥
‥」
という。小言のつもりらしい。そこで少年は、
(他所の子供らが何じゃ)
と唇を噛む。
「まこと自害を計られましたのなら‥‥なんで、そないな事を企てましたやら話され
ませ」
と、ますます恐い顔を、白粉の匂いがぷんぷんするくらいにくっつけてきて、口を動
かす。
(優しく穏やかに聞かれたとて、皮がめくれ試したが駄目だった事など云えようか)
と恨めしい顔で少年が泣きじゃくりながら睨み返しているのに、それには気づかず、
「さぁ、早う包み隠さずに申されるがよい。ここには誰も居らぬ。気兼ねもいらぬこ
と」
と、急き立てるような言い方をする。だから少年も、持て余して当惑し、
「寂しかったから‥‥」
と、ぽつんと言った。
もちろん、(何故に淋しいか?)と聞かれたら、
(実は松の木から滑り落ちて、おちんちんの皮が剥けた)
とも云えぬし、少年は当惑した。
 しかし、春日局はそこまで訊ねずに泪ぐんだ。眼を懐紙で押さえて泣いた。
(なんじゃ、こない恐い女ごでも、あの女児みたいに泣くんか)
少年は呆気にとられた。
 だが、青竹散らしの打掛の下の白絹の袖の貝口で目頭を拭き、春日局は、きっとし
て、
「なぜ、ご自殺をなさるなら、ちゃんとお腹を召しなされませなんだ」
と叱った。
 そして立ち上がると、枕許の刀掛けから外してきて、「さぁ」と言わんばかりにつ
きつけ、
「ものには、作法というものがありまする‥‥武士の子が青梅を喰う法がありまして
か」
声は低いが鋭い目つきをした。そして、鯉口切ってギラリと引き抜くと少年に持たせ
た。
「また、やり直しを致すのか」
ふてくされて少年も、涙だらけの顔で吠えるように言った。
「なされませ」
春日局は命令するような口のきき方をした。だから少年も自棄で、
「腹を割ったるぞ」
と云い放った。思い切って刀を突き立てたが痛い。
 なにも自分から、やけくそとはいえ、痛い事をする事はない。慌ててやめにした。
「刃びきがしてありまする」
春日局は言った。
少年は突いた傷を急いで覗きこんだ。
ぽっちり赤い痕が窪んでついていた。しかし、痛む割には少しも血は出ていなかった。
そこで、少年は試しに木枕をめがけて、「やっ」と振り下ろしてみたが、反動がひど
かった。肩が抜けそうに痛かったが、枕の方は白い筋が一本くっきり浮いたきりだっ
た。
(なんだ‥‥)
と、少年は刃先が切れぬように研ぎ潰してある刀を軽蔑し、鼻先で嘲笑った。
(虫が知らせたのか、こんな刀で切腹なんかしなくてよかった)
すっかり得意になった。
 そして、春日局に対しても、
(ざまあみろ)と言わんばかりの悪たれな顔をしていた。
 するとである。
春日局は黒繻子の高帯の間から覗いている懐刀の打ち紐を解いた。白鞘の柄が顔を出
した。スカっと抜いた。
また手渡されるのかと少年は後ずさりした。
「動かれまするな、じっとしていなされませ」
と、白い短刀の切先が迫ってきた。
(死のう)と覚悟をしている時はよいが、そうでない予期せぬ出来事は困りものであ
る。
「待て」少年は怯えてしまい、
「許せ」と、つい口に出て詫びてしまった。
しかし春日局は首を振った。そして、
「仰向けに横になりなされませ」
と指図をした。
「寝て何とするぞ」
と、隙を見つけて逃げ出そうと身構えながら少年は喚いた。
「じっと、していなされたら、それでよろしゅうございます」
短刀の切先で示された。
 仕方なく少年は体を横たえた。
が、いつでも跳ね起きられるよう背中は浮かした。
 春日局は蔽い被さるよう迫った。
少年は自分がそんな恰好した時を想出した。
(あの少女に浴びせたのを知っている局が俺に小便をひっかける番なのか)
と覚悟した。
白鞘の短刀は脅迫で、つまりは、おとなしくさせるためのものだろうぐらいにしか考
えなかった。
 しかし、春日局は、ざあっと引っかけるかわりに、とんでもないものでサッと引っ
掻いた。懐剣の切先が腹を左右に、すうっと走り去った時、少年は驚いて自分の方が
失禁した。
「静かに」
と、人の腹を切ったくせして、春日局はゆっくり諭すように押さえた。
(誤って怪我させたから、傷手当をしてくれるのか)
と、少年は痛みをじっと堪えていた。
 しかし、春日局は膏薬代りに貼りつけてくれた懐紙をいきなりさあっと剥がした。
少し渇きぎみに血が止まっていたところなので、腹を切られるよりも激痛が走ってい
った。
「よろしゅうござるか。これは竹千代様が、御年十二で生害なされかけた形見じゃ」
春日局はゆっくり云ってきかせてから、一人でなにやら合点していた。気味が悪かっ
た。
 いつの間にか自分の短刀はしまいこんで、くるくると巻紐で結わえつけてしまって
いた。そして、赤黒く血痕が一文字にしみついた懐紙を左右にピンとはって少年に見
せた。
(おれが死に損なった形見なら、青梅の種がごろごろしていようものを‥‥なんでじ
ゃろ)
少年は不審そうに、恐ろしい女の顔を盗み見た。
 だが、春日局は澄ました顔つきのまま、
「お止め申したが、竹千代様の大事ぞ‥‥外道(外科医)を早よ呼びや‥‥早うぞ」
襖紙外の侍女どもへ、声だけは金切り声に震わせ、局は甲高く喚き散らし呼ばわった。
そして、
「傷は浅うござりまする」
と、また付け足して大声で外へ向かって叫んでいたが、少年には、
「今の事、誰にも口外なされますな。もしもお喋りになられたら‥‥」
と、懐刀の巻紐に手をやって脅かした。少年はもう呆然としてしまい蒼ざめて、
「言わぬ」「許してくれ」と、憐れみを乞う目つきで春日局に懇願し、ワアッと泣き
出した。
 もう、なんだか判らないが、ただ無性に怖くなってしまって、竹千代はガタガタ震
えた。そして、
「もう腹も切らん、青梅も喰わん‥‥女童に尿(しし)をひっかけはせん。許せや」
と泣き喚いて、この恐ろしい春日局から何とかして逃れようと懸命に声を嗄(から)
した。
 ----この竹千代が後に徳川三代将軍家家光になるのだが、まだ当人もそれは知らな
い。おそらく、切りつけた春日局にしても、まだこの頃は何の成算もなかったであろ
う。時は元和元年(1615)大坂夏の陣が終わった四月あと九月の出来事と伝わっ
ている。

 家光は二代将軍秀忠の画はあまり描かせない。が家康像は多く描かせている。その
一枚である。下の写真は幕末まで千代田城紅葉文庫に納められていた「松のさかえ」
で、明治になって放出され、明治の末になって国書刊行会によって活字本となったも
のの部分転写である。
つまり、講談では春日局は乳母だが、徳川本家では三代将軍ご生母として認めていた
証拠。

[徳川家康画像は略。続いて問題の本分]

右は神君大御所駿府御城御安座之砌、二世将軍秀忠公之御臺所に被進候御書拝寫之、
忝可奉拜誦者也、

 秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也、左大臣、
 同御二男 国松君 御腹 御臺所 駿河大納言忠長公也、從二位、