1101 謀殺  1

 「信長殺しは秀吉か」(既にアップ済み)にて、著者八切氏の後書きに、
「機会があったら、家光から遡って信長殺しを解明していきたい」
という予告がされていますが、それが、今回転載させて戴く作品、
「大奥と春日局」(1983年 日本シェル出版 刊)
と思われます。
 これは、おそらく旧題名「謀殺(続・信長殺し、光秀ではない)」(昭和46年1
1月 主婦と生活社番町書房刊)そのものか、もしくはそれに加筆訂正したものと推
察します。「謀殺」という作品は、徳川家光をシェイクスピアのハムレットになぞら
えたり、天海僧正、信長殺しなどに関連させている作品だからです。八切氏は、こう
した、旧作品にカバーを新しく被せて、題名も新たに発行するという事をよくなさっ
たようです。ちなみに、この日本シェル出版の「大奥と春日局」のカバーを外すと、
本体には「東叡山寛永寺古繪圖」の絵図が印刷してあるだけで書名の印刷はありませ
ん。

 前回の「信長殺しは秀吉か」は信長殺しに関して「秀吉の犯行性」にスポットライ
トを当てたものでしたが、今回のものは「徳川家康も怪しい」と、家康(但しこの場
合の家康は定説の、いわゆる松平の改姓改名した家康とは異なります。詳細は読みに
なって戴けば判ります)を中心に、天海僧正、春日局、家光、駿河大納言忠長、江与
の方、五徳などといった人物が登場します。
 文章は比較的読みやすく、始めの部分では何故か小説部分と解説部分とを活字のポ
イントを下げて分けていますので、このアップロード版では、小さな活字部分は<>
で括って区別しました。なお、多少文章を書き変えた個所もあります。
 お読みになって戴けばわかると思いますが、引用史料も豊富で、この作品の史・資
料的価値は高いと思います。


作品の構成は下記のとおりです。

家光の立場
 男の初潮 女を泣かす 竹千代自殺
真実はどこに
 メアリ女王 ツヴァイクの世界 ハムレット家光
信長殺しの娘
 三十三年前の夢 江与の嫁入り 三人姉妹
本能寺の謎
 天正十年六月二日 美濃御前と呼ぶ女 於市の方さま
家康という男
 嫁にてあれど 饅頭への意識 それは誰が子
岡崎三郎信康
 女の桎梏 五徳ざんげ 拐されたのは
国松妄想
 村の鍛冶屋の娘 数多き夫ども 青い海への展開
伏見城幻影
 血の焼ける匂い 天海僧正の素性 川越喜多院
彼こそ信長殺し
 駿河大納言忠長 姿なき乳母 起請文誓紙
南光坊天海
 七福神法 台密九流 世良田の庄
摩多羅神
 本願寺文書 長谷川秀一 征夷大将軍
明智風呂
 家伝史料 蜷川新右衛門 二人が一人
上州不動院
 仙波喜多院 蟲封じ修法 神式佛式

※全部で約8400行足らずあります(38文字改行として)
※このアップロード版ではタイトルを、オリジナルと思われる「謀殺」にさせて
 いただきます。
※[]内は影丸の文章です。

                    登録者 影丸(PQA43495)
                          1996年3月28日

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               家光の立場

男の初潮
 少年は暗い闇の中で、猫のように円い眼を光らせていた。眠れないからである。ま
た眠ろうとも思わないからである。じっと黒い空間の一点を凝視していた。なにしろ、
それしかできなかったせいもある。うっかり声をだしても起き上がっても、控えの間
から誰かが入ってくるのは判っていた。煩わしかった。だから、じっと暗黒と睨めっ
こをしていたのである。そして、溜め息をついた。
 ----子供は床についたら、すぐ頑是ないくらいに、スヤスヤ眠ってしまうものだそ
うである。
と、いつも寝つきの悪い少年にてこずって、控えの間の女達は密かに喋っている。と
いうことは、小声で自分等は話しているつもりだろうが、針が落ちても聞えるくらい、
しーんと静まり返った夜気の中では、まるで耳許で話されているように伝わってくる。
そこで、つい、頭を持ち上げて、
(すると、俺はもう子供でないのかもしれない)などと少年は思ったりしてしまう。
 もちろん、何歳からが大人で、それ以下は子供といった区別があるとも聞いていな
い。
ただ、少年は、そっと腹の下へ手をやって、ひりつくような痛みに、そう思うだけで
ある。

 ちょうど、かれこれ七日程にもなろうか。少年はわざと松の木に一人でよじ登って
みた。別に木へ登ってどうというのではない。付き従っている女共に見せたかっただ
けだ。つまり見栄というのか。自分にできる精一杯の事をして虚勢がはりたかったの
だろう。ただそれだけの事である。
 なのに女どもはワイワイ騒ぎだした。よってたかって口々に、
「竹千代様‥‥」「竹様‥‥」と、盛んに名を読んで止めさせようと息まきだした。
だが、そんな事をされると、かえって煽られて意地になってしまうような気がする。
(狗ころではあるまいし、呼ばれたからと戻ってやることやある。知ったことではな
い)
と、ごつごつした樹皮を痛いと思いながらも、少年は夢中になってよじ登っていくが、
時々はあまりにも手がひりひりと病むから、なんで上へ上っていくのかと考える。な
にしろ、松の樹では梢まで這い上って行ったとて、格別なにも良いことなどない。
「松笠など固うて、しゃぶっても何の味もない。ありゃ、喰う木の実じゃない。知っ
とる」
ぼやきながら少年は口をヘの字に曲げて枝の茂みを縫って洩れる青い空に見とれる。
白い雲がふんわり頭上に漂っている。
柔らかそうで蒲の穂を束ねたようにも見える。
(あそこまで木が伸びとりゃ、せっせと木登りしていってもええが、つまらん)
と考える。
「竹千代様、早よお降りなされませぬと承知しませぬぞえ」
と、下から声が迫ってくる。
(承知しませぬ)
とは、どういう事かと考える前に、キンキンした声音に圧倒される。ただ少年は無性
に脅えてしまう。地上の女どもの尖った声や、険しい表情がただ恐ろしい。
 まるで、追い立てられた野兎が叢の中へ必死に滑り込むように少年も枝の中へ入り
込む。すると、二叉になって先が鋭い松の葉は、固まったままで少年の顔や腕をチク
チクと刺す。
「痛いよ」
と悲鳴を上げながら、ふわっと上から白雲が降りてきたらと空を仰ぎ見る。雲に乗っ
かって青い空へこのまま昇天したい。それしか逃げ道はないと少年は考える。
(掴まったら、きっと女達は苛めるんじゃろ)
と、少年は喘ぎ、肩で荒く息する。
「早よ、お降りなされませ」
次々に声がとんでくる。追い詰められている感じである。
「おっかない」
と、また痛む手に唾をつけ、夢中になって上へ上へと少年は逃げてゆく。
「こんな筈じゃないわい。おりゃ見せびらかしに昇ったきりなのに、なんで騒ぐのか
や」
と、恨めしそうに涙も浮かべる。
 だが、こうなっては引くにも引けぬ。降りられはせぬ。ただ上へ上へと前進するし
かない。木肌にしがみつき、少年は蛙みたいに匍匐してゆく。
「青い空よ、白い雲よ。助けてそうらえ」
と少年は悲鳴を上げる。待っても返事もない。
(声が遠くて届かんのじゃろか)
と、少しでも近づいていこうと必死猛死と這い登る。

 もちろん、後で考えれば、掴まえられたところで、どうという事もなかったであろ
う。せいぜい叱言を云われるか、口々に女共から云われるのが関の山だったろう。
 が、その時は、そんな事など考えもつかぬ。てんで思いもしない。恐ろしさだけだ
った。逃げよう、逃れたいの一心不乱で、もうめくら滅法に割れ目のある木肌を爪で
よじ登る。堅い松笠が礫みたいに落ちてきたり、鋭い松葉に刺されるのも少年は夢中
で辛抱をした。
 だが、厭なのは毛虫である。茶っぽい毛や白い細い毛が、むじゅむじゅ生えている。
それが、ひび割れした樹皮より、こっちが良いと少年の首筋や懐へ入り込む。むずか
ゆさとか、刺されるという部分的な苦痛より、毛虫の形体そのものに身震いする。恐
怖というのか、嫌悪というのか、少年はぺっぺと唾をひっかけ追っ払おうとする。だ
が毛虫の方は、そんな事をすると少年の唇のところまで口づけをしに寄ってくる。だ
から、堪りかねて自衛上、少年は指を伸ばして毛虫を押さえ、こすりつけるように潰
す。
「ブッシュ」
と断末魔の悲鳴をあげ、毛虫は茶色の殻みたいな肉体から樹液を迸らせる。
「青い」
と叫びたくなるぐらい、それは真っ青な血なのである。どろりと指先にたれる。
(血は赤い)
と思い込んでいる少年には、「青い血」は、それは死の苦汁にしか見えない。
 少年は、自分も松の木の青い松葉の中で死ぬのかと、青い血をたらす恐怖の中で怯
える。
(青い松葉の中で死ぬと青い血なら、白い雲の中へ入っていけば、白い血が出て死の
う)
畏怖するあがきが、少年を絶望へ引っ張りこんでしまう。もう雲を仰ぐ気にもなれぬ。
だから、上へ向けていた眼を下へおろすと、ぞろぞろ這ってくる毛虫の群が目につく。
「しっ、しっ」と少年は持て余して懸命に追い払う。
「あっちへ行け」と言い聞かせる。
 が、毛虫には耳がついていないのか、それとも呼ばわれていると勘違いをしてしま
うのか、あべこべに、また少年の腕に這ってきたり顎の下から胸元へ、もぞもぞと繋
がってくる。
「目通りかなわぬ、退がりや」
と、大人みたいに叱っても、威嚇も通用せぬ毛虫共である。
 だから少年は、もう恐ろしさに我武者羅になって、薙ぎ払うように眼前の毛虫をよ
ける。すると、地面から「キイエッ」と女人の黄色い悲鳴が、少年の尻の方へ跳ねて
聞える。
「ひどい悪戯(わやく)にござりまする。後でお上に申し上げましょうぞ」
女共は脅かしてくる。

「何も投げたくって投げたんじゃないわい。放ったら下へ落ちていったまでじゃが」
負けずに少年も木の上から反応する。
 弁解しているのではない。事実ありのままなのだ。毛虫なんてものを手掴みにして
放りつけられる程の、野卑というか無神経さはない。
 ただ無気味で恐いから手で払ったら、それが木から下へ落ちていったまでの事であ
る。もし落下という事柄で避難されるのなら、それは無器用な毛虫の方にこそ責任が
ある。毛が生えた如き肢で、途中の枝か葉末にうまく掴まらなかった毛虫が悪い。
 しかし現実は違う。文句を言われているのは、今の場合は毛虫ではなくて少年であ
る。
「つべこべ言わんと、文句があるならここまで来う」
と、少年は答える。
 そして、まだ口々に罵り喚く女どもへ、「ここまでおいで、甘酒進上」と憎まれ口
をきく。
が、云ってしまってから狼狽する。挑戦してしまったからには後は逃げるしか道はな
い。また少年はべそをかき、ぐいぐい尺取虫みたいに頭をふって上っていく。滑走で
ある。
 なにしろ、女達の指が今にも手鉤みたいに伸びてきそうで、はらはらさせられてし
まう。
(引きずり降ろされるかもしれん)
と、たえず背後を気にして、強迫観念にかられた。
「早う梢まで逃げきってしまわねば、とっつかまるぞ」
と、少年は焦燥の中に興奮をする。
「かくなる上は、白い血が出てもええ。天まで逃げろ」
と、えっちらおっちら這い上る。

 が、あせったのが、やはりいけなかったらしい。少年の意志と反対の事が生じてく
る。爪をかけた樹皮の堅い殻が、ぱかっと口をあけてめくれてきた。そのまま脱落を
した。
「あっ」と叫ぶ暇もなかった。松の木のてっぺんに向かっていたのが、逆さまになっ
た。といって、毛虫みたいに転落したのではない。樹の幹に跨ったままの恰好で滑っ
た。もう、痛くって声も出なかった。ただ、「あっ」と口を開けっ放しで、下の松の
幹を伝って落ちた。
 地面へドシンと落ちた時には、尻の骨をいやというほど打った。ずきんと脳まで響
いた。泣けるものならワアッと泣き出したかったが、そうはいかない羽目になってし
まった。まるで矢で射落とした獲物を狙って山犬が寄ってくるみたいに女どもが集ま
ってきたせいだ。
 男は女に対しては、とかく見栄をはりたがる。少年だって、やはり男の端くれであ
る。だから、泣きたいのを我慢して歯をくいしばった。泣きたいのを堪えていたら、
涙の代りに洟水がたれた。なのに、女どもは冷たかった。恰好だけは泥を払い、立た
せてくれたが、後がいけなかった。
「あまりにお悪戯が烈しゅうはござりませぬか」
「とてもこれでは手が廻りかねます」
「もしも落ちられ、打ち所が悪かったら、どない遊ばされまする」
と、こうなのである。
「打ち所が悪かったら、ウェンと泣いたるわい」
と少年が言い返してやると、
「まぁ、呆れた事を仰せられる‥‥打ち所が悪いとは悶絶することにござりまするが
ね」
「まあ、ほんにお頭(つむ)が弱いと申すのか、なんたる莫迦(ほお)げたものの言
い様にござります」
「打ち所が悪うて死んでしもうたものが、なんでオンオン泣けまするぞえ。しょむな
い」
と、口々に一斉に、ここを先途とまくしたててくるから堪らない。
だから、少年も睨んで、
「死んでしもうて口がきけんようになる‥‥と知っとって、どないしますとはなんじ
ゃ」
やりかえしてみたところで、多勢に無勢。そんなものの道理は判ろうとせぬ連中なの
である。
「ほんに、お頭の割には口だけは早熟(わせ)でいられて、いやなお子様じゃのう、
性悪な」
と、少年の口を封じ込めるように、腰元どもはがやがやと喚きたてておいて、
「まぁ、それにしても何処も大した怪我のないのは、何よりの事におじゃります」
「ほんに。もしも傷でもなされていたら、こりゃ付き添う我らの咎になり申す」
「そのこと、そのこと‥‥懈怠至極(けたいしごく)と、お叱りを蒙るは、これ必然
でありましょうのう」
「ほんに、とんだ災難にあうところで、おじゃりましたえ‥‥目も離せぬ和子さまじ
ゃ」
と、てんでに竹千代の身に怪我でもされたら、本人が痛い辛いは構わぬが、との口調
だ。
 つまり、竹千代の悪さで自分らが落度になり、叱られては迷惑千万と話し合ってい
るわけだ。だから、聞かされている本人にとっては腹の立つ事、夥しいものがある。
 しかしである。「わあ」とか「おう」とか吠えたいにしても、少年は痛くって痛く
って口が開けられなかった。地面へ打ちつけた時の尻の骨ではない。ちょうどそこの
裏側にあたる個所だ。ひりひりするように灼けつく激痛を感じた。どんな具合か、め
くって覗いてみたかった。
 しかし、数えで十二歳。満ではまだ十一歳の少年にも羞恥心はある。きまりが悪か
った。とても、女たちにガヤガヤ取り囲まれた真ん中で、そこをひろげる勇気は出そ
うもない。指でつまんで、何故ひりつくように痛むのか検分するだけの度胸はなかっ
た。
 前を広げたら、少年の苦痛など思いやってくれるより、女たちは顔を揃えて覗き込
み、
「まぁ、いやらしや」
などと言うのが眼にみえていたから、少年は烈しく抵抗を感じた。
 だから栄螺(さざえ)のように身を固くしたまま、少年はしゃがみこんで痛みを堪
えていた。
 しかし、いつまでたっても、その下腹部の疼きはおさまらず、余計に痛くなってき
て涙まで零れた。すると、口々に勝手な事を言っていた女たちも変だと思い始めたの
だろう、肩を押して、
「どないになされましたえ‥‥お腹でも痛みまするのか:
と、さすがに気遣ってきた。
 そこで、少年も低い声でうめくようにも余程「痛い」と言いかけたが、それは止め
て、代りに、
「しし‥‥」
と呟いた。尿意を訴えるしか、他に思案もつかなかったからである。
 そして、下厠にさえ行けば、そこは公然と広げて検分できると思いついたせいもあ
る。
「まぁ、そないな事ならば早うにおっしゃれば、およろしいではござりませぬかえ」
抱えられるように連れて行かれると、左右の者が裾をひろげ、背後の者が尻当を摘ま
む。そして、小さな下帯の脇から冷たい女の手が引っ張りだそうと延びてくる。
少年はうろたえ、
「出とうない」
と泣きそうに拒んだ。さわられては困るし、激痛が布にこすられひびいた。
なんとか一人になろうと、厠から出るやいなや少年は女たちをつきのけ駆け出した。
「御溜(おだめ)」と呼ばれる厠の突き当たりは、「雪柳の間」。そこから大廊下は
左右に曲がっている。右は「奥御膳所」へ通じ、左へ行けば「奥の口の廊下」に続い
て「呉服の間」へ出る。
だから、「下御(しもお)鈴廊下」へ向かって駆け込むなり、「御新屋敷」の中へ飛
び込んでしまった。ここは来客用に空けてある所で、普段は無人である。
 入るなり戸をぴしゃりと閉めた。
明りとり障子が四方びっしり入っているから、思ったよりも室内は明々としている。
そこで、少年は胡座をかくようにべったり座り込んで、おそるおそるそこを覗きこん
だ。痛くないようにと根元を掴んで、そっとつまみ出してみた。
「あっ」と唸った。
樹の皮でこすって滑り落ちたせいだろう、そこは赤むけになっていた。変化してラッ
キョウみたいになっていた。蕾みたいな、先っちょの襞が見当たらないのである。仔
細に見ると皮がめくれ上がって、下へ縮まり込んでいるのだが、一見取れてしまった
ようだった。
 なにしろ、今まで見馴れた静脈の浮いた皮がなくなって、桃色の肉が露出している
のだ。耻垢などという言葉は知らないが、米の糟みたいなものが一杯はりついている。
恐る恐るそっと指で押してみると、先っちょは割れてしまい、鈴口みたいな孔があく。
押さえて割ってみると真紅な血のような濃い色が覗く。少年は驚いてしまった。「い
かがしようぞ‥‥」
と、めくれてしまったもとの皮を伸ばそうとして前へ引っ張り上げたが、せっかく皮
でもとどおりにしても、ちょっと力をいれてみるとすぐもとに戻る。何度繰り返して
みても、一度めくれてしまった皮は、後皮の付け根へと戻っていく。これでは弓弦み
たいなものである。引っ張っても戻るのでは痛いだけで、なんともならない。
 だが、諦めるにしては痛くてひりひりする。といって、他人に話せるような事では
ない。
 少年は毛虫を連想した。口先は赤く覗いているが、
(ここから青い血が出るだろう)
と思うと戦慄が走った。だから、自分の毛のない毛虫を潰さないようにと考えた。
 少年は肌着の晒布を裾口のところでビリッと破ると、潰れないようにそれで包みこ
んだ。そして、股の内側がそれに当たらぬように、脚を引きずるようにして渡り廊下
へ出た。すると、唐子の間のあたりで、ばったりと探しあぐねていたらしい女どもに
見つかってしまった。
「竹千代君っ」
と、懐かしがるというより叱責するような口調で、すぐこっちへとんできた。
何かと口煩く聞かれてはたまらないから、少年は暫くあれこれ考えてから、
「木から落ちて腰が病む。寝たい」
と、女どもに先手を打って言った。
 すると、(そうだろう、そうだろう)と素直にうなずく者もいたが、中には眉を釣
り上げ、(ざまぁ、みろ)と言わんばかりに、ぶっと意地悪そうな眼を向ける者も混
じっていた。
 だから少年は、それらをぐるっと見廻すと、もう何を言う気にもなれず、ぼうっと
した。なんともそぐわない、親しみのもてない感情がそこには口を開けて少年を呑ん
でいた。端下女の一人がうずくまって、つくないように体を縮めた。少年を背負うた
めに曲げたのだ。
 手を背後へ廻されて抱え上げられる恰好で、少年は持ち上げられた。
女は歩きだした。すると丸い女の尻にあたっているそこが、晒襦袢の布で包まれてい
るのに動きだした。びくびくと蠧動しだしたのに少年は驚いた。赤くなって一人で恥
ずかしくなった。
 だが、そこが膨張し膨らむという事は烈しい痛みを伴っていた。擦れるせいらしい。
少年は毛虫をまた想った。巨大な女の臀部に押し潰され、青い血を出すそこを憂えた。
だから、骨太の女体の尻に憎悪を感じて、背負われている脚の爪先で蹴り上げてみた
ら、
「お痛みにござりますか」
と、その尻の大きな女は憐れむように言った。
(なんで俺のあそこの皮が剥けたのが、この女などに同情されることやあるぞ)
屈辱にも似た悲しさを感じて辛くなった。全く少年はやりきれない思いをした。
 一の側の長局へ連れられていった。
先に駆けていった者が、もはや寝床をとっていた。
「お召し変えを‥‥」
と、下へ下ろされた途端に声をかけられ、手が伸びてきた。
「いやだっ」
真っ赤になって少年は怒鳴った。なにしろ、袖襦袢をひき破いていたからだ。見つか
れば、とやかく云われるに決まっているし、その行方を探されたならば股間にある。
まだ突き上がったままの膨張したものを、そっと上から片手押さえにしながら、少年
は、
「このままじゃ」
と強い声で怒鳴った。なにしろ大声でも出さないと思うようにならぬ。
「では、お召し変えは後で、暫時御休息なされませ」
と不承不承に、その女は応えはしたが、
「お痛みならば、塗り薬など申付けましょうほどに」
と、いらぬ事を口にしてきた。
 出仕廊下へ出た角の御納屋脇に、この江戸城大奥詰めの医師の詰め所があるからだ。
本道(内科医)外道(外科医)が日替わりで詰めているが、いつも暇らしく座ってば
かりいる。
 だから、それを呼んできて手当でもさせようと言うのだろう、と少年は迷惑に思っ
た。
(うっかり股間でもひろげられて見られたらどうにもならんぞよ)
と、すっかり腹を立てた。だから、また大声を張り上げ、
「そんなもの、構えていらぬ」と泣きそうに喚いた。

 変な話だが、二日もたつと、剥けて痛んだ所が触っても痛くなくなってしまった。
指先でつかんでも、しごいてみても、他の肌と同じ様な感触でどうということもなか
った。
 実が弾け出たように、前の皮は根元にたるんでくっついていたが、別条もないらし
い。他人のものを見たわけではないから、はっきりした事は言えぬが、不具ではない
らしい。
 尿(しし)をする時、わざとそ知らぬ顔で摘み出させた。もし異常なら女どもが騒
ぐ筈である。しかし、女どもは別に普段と変わらぬ表情である。だから、大事ないの
かと少年は安心した。
 ただ、気になるのは、前は一本棒になってとんだ液体が、その時から二股になった
事だった。だが、一本で出るより二本で出る方が沢山出そうで快くもあった。爽快さ
を味わった。
 だから、三日目には床上げをして起きだした。もちろん寝ているのに飽きたからだ、
といってしまえば簡単だが、枕許にじっとしてる「おばば」が厭だったせいもある。
名を「春日局」という。齢は三十二。いつも京白粉が面の「おかめみ」たいに濃く厚
い。不思議な話だが、随分前からこの女は少年の側にいるらしい。そして口煩い。松
の木へよじ登って滑り落ちた時には、うまい具合にそこには居合わせなかった。だが、
寝ついてからは、側へ付ききりの有様だった。よく云えば寝食を忘れているとも云え
る。
 まぁ、それは仕方がないが、なにしろ、そのおせっかいぶりたるや我慢できるもの
ではない。隙あらば掛布をめくって裸にでもしようとするのだ。油断も隙もあったも
んじゃない。もちろん向こうには、
「何処が痛むのか。さぁ、見せなされ」
という口上はついていたが、何処と云われても場所にも色々とある。見せたい所も、
見せたくない所もある。だから、
「いやじゃ」
と断ったら、
「ならば」
と手を入れてきた。握られては難儀をする。そこで、うかうか寝てはいられぬから、
「治ったぞ」
と、慌てて起きだしてしまったのである。


女を泣かす

 少年は床上げして起きだしたからといって、別に心から元気になったというのでは
ない。いつも、もちゃくちゃと色んな事ばかり、しょっちゅう頭の中で考えていた。
なにしろ、人間にしろ犬だって、自分で動いて餌をみつけ、それで自身を持つものな
のだ。
(自分で喰っていける)という感じをもつと、初めて生きがいにホッと一息いれるの
だ。
 だが、少年は、これまでの自分の力では柿の実一つ口へ入れた事もない。他人任せ
だ。朝夕二回、足打膳が運ばれてくる。相伴役というオババが、先に箸をつけて食し
てみる。それから眼顔で合図をされて、少年はその食い残しを、もそもそと喰うだけ
なのだ。
 時には、(厭だ。喰いたくない)と思うときだってある、しかし、箸をつけずに放
っておくと、
「お加減が悪いのははないかえ」
と、すぐ本道が引っ張られるように呼ばれてくる。「葛根湯」というのだそうだが、
渋くて苦いのを否応なしに「お薬」と称して飲まされる。それを飲むのが嫌いだから
こそ、諦めて何でも出されたものを目を瞑っては食する。
「相伴役というのは、何であるか?」
と、いつも喰い残しをあてがわれている少年は尋ねた。
すると、春日局というのは、改まった調子で、
「あれは、お毒見役でござります」
と返事した。
「えっ、毒が入っているのか?」
と少年がびっくりしたら、春日局はなだめる様に笑い、
「いえ、もしもの用心に、あのように先に食し、それから若君におすすめしますのじ
ゃ」
と、ゆっくり云った。判らせようというので、わざと言葉を区切って云ったらしい。
だが、聞いた少年はかえってこんがらかってしまい、暫く考えてから言ったものだ。
「毒とは、そない早く効き目が現れるものか。相伴役が箸おけば、いつもすぐ食しお
るが」
奇妙な顔をしたところ、春日局も、そういえばそれもそうだがといった顔をしたが、
「そない仰せあるのは、そりゃ理屈と申すもの。作法にござりますれば慎みなされ」
と、きつい顔をして叱ってきた。
(理屈というのは当然な事である。何故悪いのだろう)
少年は考えこんでしまった。
それから、どうせ叱られついでだと思って、つい口から、
「一体誰が、この竹千代に毒を盛ろうとしているのだ。それを言え」
と訊ねた。
「さぁ‥‥この大奥にそないな事がありましょうや。毒とは申しても食中りなどで」
春日局は、すらりと言い抜けてしまった。だが、それでは訊ねてみた甲斐とてない。
「では、この竹千代に食べたら毒になるようなもの、腐ったものを食させてるのか」
ここぞとばかり言ってみたところ、春日局は袂で目頭を押さえるような恰好をみせ、
「そない、お口のきき方をなされますゆえ、若は人に疎んじられますのじゃ」
と言った。つまり、口のきき方が悪いから、他人からは好かれないのだと言うのであ
る。
 そう云われると、他人から「良い子だ」と云われたい気持ちが、やはりあるのだろ
う。
「うん」
と言ってしまった。
 そのくせ少年は言ってからも、疑うような眼差しを残した。なにしろ、この春日局
という厚化粧した女が、てんで得体がしれなかったからである。