1099 論考・八切史観 11

青の系譜

「原住系というのは山の草木を司る仕事についていた」のは前述したが、現在のよう
に化学染料のなかった昔は、みな植物によって染粉をとっていた。だから、「青屋」
とよばれた染物商の紺屋は、まぎれもない原住系である。
 今も西陣に伝わる憲法染めの考案者である紺屋の又三郎は、公家の都である京に住
んでいる関係上、舶来系より迫害されることが多く、ここに自衛上刀技をみがいた。
 もちろん長太刀、大太刀の類ははばかられるから小太刀をマスターし、「八」であ
ることを誇りにこそ思え、すこしも意に介さなかった彼は、それを「京八流」と名づ
け、紺屋の一隅の空地に、「吉岡道場」をつくって人にも教えた。
 しかし剣をふるう時に、紺屋の又三郎の名では恰好が悪いから、そちらの方では、
「吉岡拳法」と名のった。ボクシングではないから、憲法ともかくが、文字はどれで
も昔は発音さえ同じならどうでもよかった。
 さて、彼は、(吉川英治の宮本武蔵)ではぼろくそだが、「京八流の開祖」として、
吉岡道場第一代目の拳法は洛中に知られた当時の有名人である。
 だが、彼程の知名人でも、仙洞御所新内裏の能楽を拝観しようと思うと、原住系で
ある出身ゆえ深編笠で面体を隠さずには入れなかった。
 とき慶長九年六月二十一日。関ヶ原の役が終って四年目の夏である。
なにしろ満員なので暑くて堪らない。クーラーも扇風機もない頃なので、自分で扇子
をだして風を入れるしかなかったが、初めのうちは我慢していたが、なんとも暑くて
堪りかねた。そこで、つい袖の下に入れていた手を出したところ、
「やや‥‥」眼を光らせた御所の衛士に、
「其方の指先が青く染まっているのはなんだ」
寄ってたかってごぼう抜きされるように、
「こっちゃこう」と引っぱり出された。
そして、集まってきた衛士共は憲法を取り囲み、
「紺屋の分際で恐れ多くも、御所へ入ってくるとはなんだ」ということになった。
 今でも日本人は舶来には弱いが、その頃でも、原住系はそうだったから、小太刀を
とっては鬼吉岡といわれた憲法でも、紺屋の又三郎に戻って、恭々しく、
「えろ、どんなことして、済んまへん、堪忍しておくんなはれ」と頭を下げた。
 しかし先方には、(なにを俘囚の裔めが‥‥)という軽蔑があるから、アメリカで
白人が黒人に対するごとく、よってたかって憎々しげに、
「この不所存ものめが‥‥」と足蹴にし、その小太刀さえとりあげてしまった。そし
て各自が眼で合図しあうと長柄で、
「それッ」と丸腰の者を四方から突いた。小太刀さえもたせれば京八流の始祖だが、
素手ではなんともなるものではない。相当に暴れたらしいが殺されてしまい、
「この者、青屋の分際なるに怪しからぬ所業に及び」と、御所の前に高札を出され、
肩のところから上を切断、さらし首にされたのは、『時慶卿記』や『駿府記』にもで
ている。

 それから十一年たって1615年。
元和元年五月、大坂夏の陣のとき、東軍本多忠佐の駕かきを勤めていた者達も、いよ
いよ総攻めとなると、
「てまえらも武家奉公の端くれ。千載一遇のこの機会を目の前にして、逸することは
できませぬ。なにとぞ敵方へ突きこむことを、お許しなされませ」
 揃って軍目付のところへ頼みにいった。
「よし、殿さまも道中は駕を召されたが、今や攻めこみゆえ、ご乗馬にかえられてい
る。其方ら手すきならば、思う存分に働いて天晴れ手柄をたてるがよいぞ」と、すぐ
さま許可は出されたが、
「これこれ、其方のみはならぬ」
駿府蒲原の仁左紺屋の長平のみは、
「汝の手の青さは紺屋であろう‥‥そないな者にまで武者働きさせたとあっては、お
家の恥辱‥‥うぬは駄目だ」とはねられた。
 ここで手柄をたてれば立身もしようが、足止めされてしまっては、終生駕かきであ
る。
「うん、これまでは働けど働けど、なお我が暮し楽にならざり、じっと手をみる‥‥
とはこの事か」
とは啄木以前の話ゆえ口にはしなかったが、すっかりむくれた長平は、この合戦のど
さくさにまぎれて消息をたってしまった。のち、この男はシャモロで有名になり、
「山田長政」となるのだが、それ程の人物ゆえこの時、もし軍目付が戦線へ出る許可
を与えていたら、さぞかし大功をたて主君の本多忠佐も、おおいに外聞をよくしたろ
うが、差別があったから仕方もなかったのだろう。

 その後36年たった慶安四年。三代将軍家光が亡くなった1651年のこと。
駿府茶町の旅篭梅屋の裏手へ、福島三春の秋田阿波守が侍十人足軽百七十人に、鉄砲
三十梃弓十張長柄二十本をもたせて向けた。
 表からは、大手組町奉行の落合小平治が、与力松井惣左衛門・野木市右衛門以下同
心十名を率いて、ものものしく、
「お役儀である」と表門を烈しく叩いた。そこで、この気配を察して覚悟をつけ、
「もはやこれまでである。斬って出て何人かをしとめたところで何になろう。かくな
る上は叛逆の天運は尽きたのである」
と、駿府由井の紺屋伝右衛門の伜に生れた由井正雪は、八人の同志に作り笑いのよう
な寂しい微笑をみせてから、
「では、わしから先に‥‥」
 かすかだが青く染まった指先で刀の中ほどを布にまいて押さえ、深々と咽喉につき
たてた。世にいう『慶安太平記』の由井正雪の最期である。


大塩の乱の真相

 それから187年たった1837年。世は天保となっていた。
長崎出島において公儀のみが独占輸入していた硝石は、大坂表では天満与力屋敷内に、
「硝煙蔵」があって、非常時用にそこに保管されていた。
 しかし大坂城代は町奉行に命じ、鍵は大事をとって天満与力には持たせず、玉造口
同心の藤重良左衛門に世襲で保管させていた。
 さて、「洗心洞先生」の名で知られる大塩平八郎は、天保元年に隠居しているが、
大坂東西町奉行所では信用のあつい学者である。
 その人から跡目の格之助に砲術を学ばせたいといわれては、
「外部の者ではなし、内輪どうし」と、藤重はその伜の槌太郎に鍵を持たせ、天満橋
筋長柄町の四軒屋敷の大塩の役宅へ届けさせた。すると平八郎はおおいに喜び、
「天文十年、種子島から島銃が入ってより、倭銃も多くできたが、弾丸をとばす火薬
の硝石が一粒も日本ではとれず、南蛮よりの輸入は大公儀一手のみゆえ、いかなる大
々名も皆おとなしく手をつかねて居らねばならなかったが‥‥わしは御役目柄を利用
して火薬を入手することができた」
と、天保七年十月から翌年正月にかけ、棒火矢、砲碌玉の製造にかかり、大坂南本町
二丁目の払下商高上甚兵衛の手を通じ、大坂町奉行所の証明書で、
「白硝練りもの五十五斤、薩摩硫黄八斤半、棹鉛一貫五百、木灰五百匁、鉛三貫匁、
鵜目硫黄八斤、鷹目硫黄三斤、松脂三斤」を代銀三百九十五匁で次々と買い足した。
 そして、大塩平八郎は、般若寺村、渡辺村の唱門師や河原者の部落に対して、
「騒ぎをききつけたら、手に武器となる物をもち、集るよう」指令を出したといわれ
る。
 というのは、十一世紀の頃は、(上に守護大名や地頭代官のあるのも恐れずに、そ
の課役や課税のないのを)喜び、十二世紀の末には、
「われこそは、みなもとの何某なり」
 恰好よく平家を追い払って天下をとったのが、次の北条時代、足利時代になると没
落。戦国時代には、お手のものの馬に跨り弓矢をひいて、またカムバックしたものの
天下が落ち着くと、元禄の仏教全盛時代から又しても彼らは窮乏していった。
 それに天保の飢饉からの米の値上がりは、非農耕民族で、一々銭を出して米を買わ
ねばならぬ彼らにとっては打撃だった。
 どうしても暴発しなければならぬところまで、もはや彼らは追い詰められていたの
である。
 ところが、この大塩の乱というのが、もし「勤王」でもスローガンにしていたら、
明治時代にもおおいに研究されたろうが、「陽明学」という見地からのみだったので、
三一書房の全集にも、大塩平八郎の檄文のみ再録されているくらいで、なんでもかん
でも刊行している吉川弘文館の人物叢書にも入っていない。
 おそらく<浪華緑林><洗心洞詩><実録編集><玉造組与力同心働き前明書綴>
<呟菜秘記>など大塩平八郎資料を揃え持っているのは、今では私ぐらいしかないだ
ろう。が、詳しく書くには紙数がないから、
「玉造口与力の坂本鉱之助」と、文政四年(1821)二十九歳のときの大塩平八郎
が話し合った折の挿話というのがあるから、それだけを紹介する。

「ここに渡辺村の掟書があるが、この末尾にこういうことがでている」
と平八郎はしめしながら、
「われら河原者は運悪く同じ人間に生まれながら、畜生同様にふつうの人[と]まじ
わりできぬ身分なれど、公儀ご法度をよく守り律義に働けば、やがては時がめぐって
きて並みの人間のごとくなることも有るべきにつき、よくこの掟を守ること肝要であ
る」
との個所を読んできかせ、
「彼ら河原者は生活に苦しみ、差別に喘いでいる。だから役人であるわれらが、命令
通りに致すなら、人なみの扱いをしてやると申さば、渡辺村だけでも五百から千の者
が有難がって、火にも水にも恐れず身命を投げうって集まってくるは必定である。だ
から大坂表に何か変事があった時には、自分は奉行所だけの人数では足らぬから、彼
らを用いるつもりであるが如何」
と言い出したので、
「これは前代未聞の卓見である」すっかり坂本は感心したというのである。

 そして、天保八年二月十九日。
「救民」の旗をたて、大砲四門を車につけ、鉄砲や長槍で武装した大塩平八郎一行が、
天満天神から川にそって南下。難波橋を南へ渡り北浜二丁目へ出て、北船場に向かい、
今橋筋では、「鴻池屋善右衛門、同庄兵衛、善五郎」の三軒から天王寺屋、平野屋。
高麗橋筋では三井呉服店と、軒並みに大砲の砲碌玉とよばれる焼玉をうちこんで、豪
商征伐をしてから東横堀川にそって内平野町に向い、そこに今でいう「解放地区」を
設けようとした。この時玉造口の月番同心支配は坂本だったので、火事装束に草鞋が
けで自分は十匁筒の銃砲、部下の同心には三匁五分の小銃を持たせて、跡部山城守の
号令で、すぐさま出動して、「昨日の友も今日の敵」と、大塩党を規制すべく、平野
橋の東詰でこれを要撃した。


2・26まで

 そして、その後に、
(跡部山城守の談話を坂本鉱之助が書き直した体裁)になっている町奉行秘記には、
暴発より十五年前から、大塩平八郎が渡辺村の河原者に目をつけていたという前述の
挿話の次に、
「当日、河原者の小頭にて青屋をいとなむ伝助なる者、前日村内の葬いに振舞酒に酔
いつぶれ居りしゆえ、天満の騒動をききつけ部下の者を集めようとせしところ、すで
に町奉行所へ行ってしまったのが殆どで、ようやく残りをかき集め、大塩党が難波橋
を南へ渡ろうとする処へ駆けつけはしたが、恐ろしくなって一行に加わらず、先に行
った者の後を追って、青屋伝助らも町奉行所へかけこんだ」
とある。つまり大塩平八郎が、
(十五年前から人が目をつけない河原者に着眼したのは、まことに卓見であったが、
なにしろ当てにならないものゆえ、そういうのを頼りにしたのは失敗だった)
と、これは述べている。
 しかし、これは史料にはならない。何故かというと、余りにも作為されたものであ
るからだ。大坂の渡辺村、般若寺村、尊延寺村、その他弓削、北島、稗島、支淵、沢
上江の九ヵ村の河原者は、なにも大塩平八郎が卓見にも十五年前から目をつけなくと
も、既に昔から大坂東西町奉行の寄子と呼ばれる御用御用の捕り子だったのである。
 だからこそ、夜明けに急変をきくと習慣的に町奉行所へかけつけ、青屋の伝七もや
はり町奉行所へ走りこんだのである。
 これは、大坂だけでなく明治までは、日本全国みな何処でも同じことで、
「御用ッ」「御用ッ」とかかってゆく捕手や、罪人をぶすっと錆槍で突く死刑執行人
は、あれは河原者の仕事である。だからよく、
「おのれ、汚らわしき不浄役人め」とか、
「不浄な縄目にかかる事やある」
といったような言葉も前述したごとく残っているのだが、この乱の真相は、陽明学に
よる洗心洞グループだけの蹶起だけではなく被圧迫階級の大坂三郷の原住民が、「世
直し」つまり革命を叫んで、大塩平八郎をたてての蜂起だったのである。

 が、日本全国にわたって、奉行所や牢獄の下級クラスは河原者で占められているか
ら、「彼らの叛乱」となると、これは体制側の取締機構内部のことなので処置に困る。
それに河原者として限定されているのは、ごく一部分であっても、かつては同類で今
は商人や職人、それに武家にもなっている原住系というのは、おびただしい数なので
ある。だから河原者だけに暴動を起こされても、これは大変なのに、全原住系にまで
騒ぎが広まったら大変なことになる。
 そこで、御政道のために、
「河原者は大塩の乱には一人も加わらなかった‥‥かえって保護を求めるごとく町奉
行所へかけこんだのである」
と政治的めどで、すっかり体裁を変えて繕っているのが、この、「大坂町奉行秘記」
なのである。
 しかし米価騰貴から端を発し、インフレ政策への暴動なのだから、富商のブルジョ
ワジーが保護を求めて奉行所へ逃げ込むのなら話も判るが、「何故に無産階級の彼ら」
が町奉行所へ駆け込むのか?変てこすぎてきわめて作為がみえすぎる。
 当時の体制側の代弁者である流行作家の伴信友の『浪華緑林』にしろ、『塩族騒乱
記』でも、このときの暴動に加わった者は、「六百から千」という数字がでているが、
『向山斎丙午斎雑記』や、跡部山城守ら堀伊賀守の名のある調書をみても、大塩の門
人や氏名の分明している者は二十余名にすぎず、後はまったく無名の暴徒で、その数
も出ていないのである。
 そして、これを公式記録では、「乱妨百姓」の文字でかたづけているが、まさか、
米を作っている百姓が、「米価が上がった」と暴動を起こす筈はない。
 いくら当時の施政者がごま化しても、「その真相は、河原者の叛逆」とみるべきで、
ともすると、「講談」が歴史とごっちゃにされやすいから、こうしたモップさえも個
人の大塩平八郎だけをクローズアップさせ、その背後の大衆運動の組織活動は日本で
は無視されてしまっている。
 しかし大塩が、河原者の叛逆の頭目におされたという事実は、彼が洗心洞熟をひら
き頼山陽や佐藤一斎とも交友のあった学者だったということに関係はないのである。
というのも、河原者が彼の講義など聞きにくるわけがないからである。つまり、こう
なるから、(大塩平八郎の伜格之助が養子だったのは、彼もまた本当は河原者の血を
引くもので、三十歳で没した敬高の実子ではあるまい)という説も明治初期にはあっ
たらしいのである。
 なにしろ寛政十一年に大塩敬高とその妻が同時に亡くなり、文政元年六月に彼が、
「嫡孫承祖」として後を継ぎ、平八郎自身も己れの生年月日を知らぬもののようで、
自分で書いた天保六年のものと、佐藤一斎に書いた手紙とでは、彼の直筆だが年齢も
違っている。
 そこで、平八郎は徳島の者で大坂へ貰われていき、大塩敬高夫妻が流行病で一時に
死んだとき、ひそかに跡目をたてるべく貰われたものだが、長ずるに及んで、「原住
系民への圧迫をみるに忍びず、ここに叛逆を決意した」という説も生まれている。だ
から、伴信友などは、その著で大塩を「狂儒」と罵り、また「賊」とするが、鴻池な
どの原住系の商人は、家屋敷を焼かれているのに、それでも、「大塩様」と敬称を用
いているのである。だからして、この点からみても、やはり原住系の叛逆というのが
正しいようである。
(私の見方は、大坂三郷のそうした非農耕住民の暴発が、どうしても未然に防げない
と見きわめがついた時、大塩平八郎は公儀への御奉公に、自分が囮となって挙兵した
のではあるまいかと疑う。あまりにも戦の仕方が下手だし、それに大塩平八郎は生死
不明で、中国へ逃げたとかアメリカへ逃げたといわれているが、あの時代に海外へ逃
亡できるのは、官憲の補助がなくては出来る事ではない。また、「みずから謀叛人の
名を甘んじてうける」というのは、今の人には考えられぬ事だが、武士というものは
名聞(みょうもん)を度外視して、そういう濡れ衣をうけるものでもあったのだ)

 さて、この流れは1936年(昭和11)二月二十六日未明に勃発した2・26事
件も、やはりそうではないかと思える点がある。
 この叛逆は、「尊王討奸」の旗の下に、「昭和維新」を目標とし、将校二十一名見
習い士官三名下士官二名、それに元准士官八十九名と兵千三百五十八名、常人十名に
よって蹶起されたもので、この叛逆部隊は、「首相官邸、内相私邸、侍従長官邸、蔵
相私邸、教育総監私邸」を襲撃し、警視庁・放送局を占領し永田町一帯を封鎖までし
た。
 この叛逆のテーゼの「日本改造法案」をだした北一輝が、原住系の多い新潟の佐渡
ヶ島の夷町の出身者であった点、彼らが原住系の多い東北地方の窮乏を訴えて立ち上
がった点、旧幕時代弾左衛門の小塚原刑場にあった回向院に、磯部浅一大尉の墓など
故意にたてられている事からも、どうもその疑いがあるが、この叛逆は『日本の謎』
として<東潮ライブラリー>から刊行されたのも昭和三十九年十月だし、まだ論評を
加えるのには、相当検討の余地があるだろう。


寛文事件

 さて、この日本原住系の歴史は明治に入って徳川政権を離れたのを汐に、山路愛山、
白柳秀湖らによって解明されかけた。
 ところが徳川史観が、あくまでも、「原住系は反体制の民」といった扱いをしてい
たし、徳川時代のそうした史観を覆すのは容易なことではなかったので、「公家は原
住系を地家とよび、俘囚の裔によって派生した武家は、このため<地家侍>などとも
いわれ、両者の仲が悪かったのはこの為である」くらいのところで解明は止ってしま
い、やがて、「原住系の歴史を追うことは怪しからぬことである」といった扱いをう
け、その弾圧下に、民族学などの方面へ変更を余儀なくされてしまった。
 が、これも、「京の天皇さまを押さえこんでおくための、徳川史観の政策によるも
の」であることさえ、気づけば良かったのではあるまいかと想う。
 かつて後醍醐天皇さまが建武の中興をなされた時も、馳せ参じたものは公家ではな
く、「新田別所の義貞」とか「河内金剛別所の楠木正成」「大和十津川別所の八木法
達」といった原住系であり、のち新田別所からは、「高山彦九郎」をだし、河内より
は天誅組の実働精鋭隊を出している。
 かつて天孫系が船をつらねて渡ってきたとき、あくまで抗戦した原住系であるが、
戦い破れて降参した後は、潔く忠誠の民となってしまっている。
(進駐してきたマッカーサーは、日本人のおとなしいのは見せかけで、きっとレジス
タンスをするだろうと毎日心配していたそうだが、異邦人に占領されて全然反乱しな
かった忠誠さというのは、世界史上例がないというが、負けたら絶対服従という日本
人の国民性は今も原住系が多いせいだろう)

 徳川時代の叛逆の歴史は、「島原の乱」を、宗教上の反乱。「由井正雪」が、浪人
共の造反。と決めつけてしまって、天皇家との関係をひた隠しにみな包み込んでしま
うが、「樅の木は残った」の伊達騒動にしてからが、これまでの徳川史観は、「伊達
綱宗が吉原へ通って素行不良のため、二十二歳で隠居させられた」のが発端とされて
いるが、やはりごまかしでしかない。
 徳川秀忠の娘の和子が後水尾帝の中宮として入内し、産み奉った七歳の女一宮さま
を、「明正帝」として、後水尾様に退位を迫った徳川家は、ついでに後光明帝さまを
立て、「徳川系の天皇さま」をもってしていたが伊達綱宗のときの後西天皇さまは、
「櫛笥(くしげ)左中将隆致卿」長女の御匣局(みくしのつぼね)のお子であり、徳
川家の天皇さまの御代では左中将も生活が苦しく、その末姫の貝姫は遠く東北まで身
売りのごとき有様にて、伊達政宗の伜の忠宗の側室となっていて、そのお腹にできた
のが巳之助で、これが綱宗なのである。
「従弟にあたる者が伊達六十二万石の当主となったのは、心強いことである」
と天皇さまは、伝奏園池中納言を使者に出し女房奉書を出しておられる。
 これまで徳川体制下にあった天皇家を、なんとかしたいおおみこころにて、討幕を
意図されたとしても不思議はない。
 しかし、これが幕閣にもれたから急遽、綱宗は二十二歳で隠居させられ、跡目は二
歳の亀千代にされ、恐れ多くも後西天皇におかせられても、二十七歳の若さなのに、
十歳の霊元天皇に譲位を余儀なくされあそばされた。
 原田甲斐や伊達兵部のような東北人は、俘囚の裔であるし、原住系であるからして、
隠居した綱宗と共に討幕運動を起こして、前帝さまの大御心にそい奉ろうとしたので
ある。
 が、御家大事の佐幕派の伊達安芸に訴えられてしまった。問題を握り潰すため公儀
はこれをうやむやにしてしまった。しかし芝居は弾左衛門の縄張りゆえ、原田甲斐を、
原住系特有な、「仁木弾正」の名にして、この伊達騒動の真因をそれとなく伝えてい
る。徳川史観では逆臣であっても、天皇さまからすれば原田甲斐は忠臣である。
 つまり、徳川史観で歪められた叛逆というのは、詳しいデータは残されていなくて
も、これみな昔の楠木正成や新田義貞のような、原住系の民の勤王運動とみればよい
のだろう。



                   忍術論考


死の季節よ

「忍術」に私が憧れ、それを必要視したのは、いつ頃だったろうか。今でも、もちろ
んその欲求には駆られる。が近頃では、そうしたエスケープの欲しい時は、年間使用
のきく旅券がとってあるから北廻りなら十四時間のヨーロッパへ、私は自殺するよう
に身辺整理しては一人で韜晦(とうかい)する。運がよければ、一番気楽な死に方も
できるからである。しかし、その頃の私はそれもできなかった。ただ自己逃避を、
「忍術」に索めるしか途はなかったようだ。そして忍術を想うとき、私の網膜には白
いベッドが紋白蝶のようにくるくる飛び廻る。
「ウフフ」女の笑い声が、時には耳殻に今も聴こえる。
 そして、蔑みの響きの中に忍術は凍結してしまう。

 その時代は今と同じように、戦争の跫音が静かにすぐ隣まで近よってきていた。
 が、それから眼隠しさせるように、現在でいうサイケとかハプニングが、違った用
語で巷にみち溢れこぼれていた。
 本の表紙にもポスターにも、近頃のイラストのような絵が氾濫していた覚えがある。
 青年たちは敏感に隠された戦争の匂いをかぎとった。本能的に屠殺場へ送られる家
畜のよう怯えきった。しかし、だからといって、その時代は現在と違って「戦争反対」
「平和護持」の叫べる時代ではなかった。ただ無力な彼らは、私もそうだったが‥‥
虚無というより、
「死を怖れるのではない、殺しあいをしたり軍隊へもってゆかれ非人間的に扱われ、
自由を奪われるのが堪らないのだ、それが苦痛だ」
 自己意志を表明するため、腹だたしさと口惜しさをぶっつけようと、
「死を恐れてはいない」表現方法として、自己主張をとおす個人の示威に死を選んだ。
 もちろん現実逃避の手段として、それを選んだものもいたろうが、シェストフの流
行したあの時代は、いまにして想うと<自殺の季節だった>ともいえよう。
 私も図書館からコピーしてきた「アルセニック中毒死による分析表」なるものをひ
ろげながら、亜砒酸の小さな固りを口へ入れた。「無味無臭」とあったが、磨き砂の
ようですこし胃散のような味がした。だから変だと嚥下してから思った。しかし舐め
ただけでも中毒死するものを、データをかいた人間が味見しているわけもなかろうと
考えもした。
「服用後四時間乃至六時間にして吐瀉」というのはあっていた。五時間めに咽喉の奥
から噴き出すような勢いで、用意しておいた洗面器が役だった。しかしその後の、
「間隔をせばめて吐瀉連続」の個条は、読むはやすかったが、行うは難しだった。
 初めは三十分おきだったのが十分間隔。やがて二分から一分おき。しまいには時計
を横目でみる隙もなくなった。吐くものがあって、それを出すのならよいのだが何も
残っていない。
 苦くえがらっぽい胃液が唇の端から垂れ、それさえもなくなったが、それでも間断
なくこみあげてくる嘔吐感である。これは堪えられない。
「服用後八時間より十時間にて出血。意識昏倒、致死状態」データは簡単であるが、
なかなか血がでてこない。意識朦朧として七転八倒しているうちに、ようやく指先ぐ
らいの黒いものがでてきた。それが洗面器の中で滲んで融けて、鮮やかな赤になって
ゆくのをみて、
「ああ、血を吐く思いとは、このことか」ようやく安心立命の感をいだき瞑目した。
 ところが何日か私の知った事ではないが、大きな水槽の下で、後できくと五日目だ
そうであるが私は意識づいた。しかし両方の腿のつけ根にさしこまれた食塩注射の太
い針と、そこを揉みほぐしている冷たい指先が、私自身でもあまり触れてはいない個
所にさわり、その影響によって部分的に硬直した状態を、
「よかったですわ。カンフルを打ち続けたかいで、やっと回復兆候をみせてきました
わ」 かん高いソプラノが、まるで証拠でもつきだすように掛布をめくって、他の看
護婦にも展示した。冷やりした外気に曝されながら毅然として孤高の精神を保つもの
をも、「ぴんぴんしてきたわ」などと打診した。低迷した私の意識は、硬直というの
は、(死後硬直)のことかと初めは考えた。しかし次第に、ここは病院である。自分
は担ぎこまれ、全裸で寝かされている。白衣をきた女どもは、猫の熱を計るときに肛
門へ体温計を挟むごとく、私のプルースを腕首でとらず、直立した部分を握って、そ
の生命力の鼓動をとっている。 そして、せっかく死のうと、のべ十時間にわたって
散々に努力した覚えの自分に対して、(死に損なって、お気の毒ですね)悔やんでく
れるか、又は、いたわってくれるのならまだしものこと、まるっきり反対の意志を表
示し、「助けてよかった」とは何たることかと腹をたてた。
 人殺しもいけないことだが、死のうとしている者を、その志に反して生かすという
事も、また罪悪だと、その怨めしさにいきり立っていた。
 つまり自分という存在と、他の死のうと考えていない人間との距たり、違和感をそ
こにしみじみ味わわされた。だがその時は、それよりも、もっと痛切に、
(不随意筋とはいえ何とかならぬものか)
 周章狼狽したが侭にならず、私は羞恥心から、自分をなくしてしまい、何処かへこ
の突き出た肉体の部分を隠したいの一心で焦燥し、
「悪魔調伏、怨敵退散、七難速滅、七復速生秘」と、うろ覚えだったが九字をきった。
もちろん、それは愚かしい所業であったかもしれない。だがそれしか私には救いはな
かった。
 だから九字を続けざまに九回きった。つまり九九八十一字である。なのに、
「精神一統何事かならざらん」「断じて行えば鬼神もこれを避く」というのに、私が
眼をそっとあけたら何の事はない。おかめのような女性が左右から私自身をまだつか
んだ侭でいた。
 つまり私はてんで消えてはいなかった。だからその瞬間から女嫌いにもなったらし
いが、忍術なるものも憎悪する立場になったようだ。
 そこで私としては、忍術なるものは、怨恨をもってこれを論難するしかないのであ
る。

石川五衛門

 従二位権中納言山科言経(ときつね)[戦国時代の貴重な史料である「言経卿記」
の筆者]の文禄三年八月二十四日の日記に、
「京三条に盗賊十名釜ゆでの刑にあう」
という記載がある。名前は出ていない。だが石川五衛門の処刑であると、「太平記」
を漢文体にした「楠木正成伝」の著者である林羅山がこれを断定した。
 羅山は公儀の儒官である。だから今では、
「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種はつきまじ」
と、石川五衛門が釜ゆでにあった事になっている。そして彼が忍術使いとして、確定
的な唯一の実存と目され伝わっている。
 もちろん「武家事記」には、秀吉の小姓上がりの石川頼明というのが石川流忍術を
始むとある。これが石川五衛門の原型だと思うが、江戸時代の大衆本ゆえあまり知ら
れていない。
 だが、石川五衛門が実在の人物としても、彼が忍術という特殊技術を身につけてい
たものなら、釜の中へ入れられてグラグラ煮られるような環境におかれたら、その熱
さを我慢などせずに、水遁なり火遁の術を使ってエスケープしなかったのか?といっ
た素朴な疑問がどうしても起きる。
 ところで、山科言経というのは、
「天正十三年、勅願を蒙り、妻の兄である冷泉為満や四条隆昌と共に京を追われ、三
卿落ちをして堺へ逃亡した」
という人物である。
 彼は後に貝塚より本願寺が大坂中の島へ移るに及んで、冷泉の妹が当時その西の裏
方だった関係上、密かに中の島に仮寓していた。
 翌年三月八日。怪しんで大村由己をスパイのように付けていた秀吉から、系図書を
求められたときに、冷泉家の系図はそのまま模写して提出したが、山科家の方は何を
書いて出したのか?という事の方に、これまで誰も調べていないが、関心がもてる。
 東大史料編纂所のものでは解読しにくい点と疑問とを残し、これは作字で挿入され、
「喋書」となっているが、正徳五年、吉辰堀藤九郎尉から、長谷川主計宛提出手写本
の、「兵法雄鑑抄」には、天正十四年の事とし、「山科卿その忍法相伝一巻を太閤に
献ず」と記載されている。
 すると、言経は自家の系図を差し出す代りに、喋書か牒書かわからぬものを書いて
出し、大村由己というのが秀吉の祐筆で、当時の「物書き」だったから、この内容に
興味をもって、これに「忍法相伝」という題をつけ、これが写本として1715年代
までは伝わっていたものとみられる。
 さて、昭和十三年に大坂から「楠木家伝七巻書」というのが再刻出版された事があ
る。華道ならびに「古流」として扱われる楠木流忍術書虎の巻とも称され、「楠木流
忍術奪口忍巻註」といった類のものの底本だともいうが、「奪口」といっても、それ
は接吻の事ではなく、
「国々の言葉は違うものなれば、常の言葉も聞き咎め、方言の差をもって忍び込む敵
兵を攻めうちとるべし」というのが趣旨のものである。
つまり忍び込む術より、忍び込まれたのを見分ける鑑別法テキストのような巻物であ
る。
 楠正成の裔である楠甚四郎正辰という者がいて、これが山科言経の妻の弟ゆえ、薬
を貰いに来たり、八卦をみてもらいに繁々と山科家に出入りしていたらしく、
「天正十一年十月二十六日」の日記に、「楠甚四郎入来、鴻宝抄被読了」とある。
 さて、貞享元年(1684)甲子季冬上旬刊、「手印図」に、
「鴻宝」とは、「外を伝りて、(外側から指をくみ)頭指一花をたて宝珠の如くする
形」とあり、真言の呪文では、「サハラ、アラタンナウボク」とある。
 また、「醍醐流金剛寺三昧院流」の「鴻宝」は、全文漢字の一字並べだが、
「徴(スツシ)巾専[←半角と考えてください。パソコンで見つからないので](ヒ
ロナ) 腕(ケツサ) 押(オシテ) 頭(ハシ) 支(ササエ) 屈(クツメ)
釣(ツリハリ) 及(オサエ)」から始まって九字九行八十一字あって、
「これ腕といい、また翅ともいうが、つまり指南法をいい、羽を加え異度捨摩(イン
ドシャーマン)の術をなす戒壇の次第なり」
と説明が付記されている。が、金剛寺なら楠家の方が本家の筈である。
 なのに鴻宝抄を山科言経が、正成の子孫の楠正辰に教えている如く、その日記には
出ている。すると、講談でいう百々地三太夫や戸沢白雲斎とちがって、言経の方が忍
術の大先達ではなかったかとも思えてくる。それなのに、その言経が、今でも有名な
忍術使いの石川五衛門を知らなかったとは変てこである。これではどちらかが虚構と
いう事になろう。
 さて、言経の方は、その父山科言継と共に、その日記を今日に残しているが、五衛
門は「禁賊秘誠談」という十七世紀後半の読本や幕末「絵本太閤記」の類にしか現れ
ぬ。
 また、「石川五衛門一代噺」「釜ヶ淵双つ巴」といった浄瑠璃から歌舞伎芝居でも、
「ああ絶景かな」の場面で有名な「金門五三桐」や「艶競石川染」などがあるが、こ
れらは、「児雷也」や「仁木弾正」のような忍術を部隊で彼に使わせていない。
 つまり五衛門を忍術使いにしてしまったのは立川文庫の玉田秀斎と、「赤旗」に
「忍びの者」[市川雷蔵主演で映画化されている]を書いた村山知義ということにな
る。
 だから、これまで誰もふれていないが、「忍術」というものを、もしまともに解明
するのには、どうしても「山科家」から解明してゆかねばならないのではないか。