1098 論考・八切史観 10

土一揆と修験道

 さて六地蔵の党というのは、延宝二年刊の『山城四季物語』に、
「七月二十四日は六地蔵の祭なり、一に御井池(おぞろいけ)、ニに山科、三に狼谷、
四に鳥羽、五に桂、六に常盤」
とあるが、これが鎌倉時代には京ね通ずる六方の口で、一の御井池は、『源平盛衰記』
にある菩薩池のことで、後の御曽曾和池のことであるが、これは鞍馬口とよばれ花脊
別所への道。
 ニは忠臣蔵の大石閉居の場で名高い山科別所。三の狼谷は木幡から宇治奈良への途。
四の鳥羽は淀への道。五の桂は、桂女で知られる特別な里で摂津から山陽道。六の常
盤は丹波路。
 みな六街道の入口であって、取締まりのため近くの別所の者をもって関所番におい
たのだが、そのものずばりでは聞こえが露骨だから地蔵をまつり、関所衆と呼ばずそ
この番人という形式で番衆をおいたのが、この六地蔵の党の始まりである。
 さて、公家は京への入口を守らせるため、俘囚の裔である別所の者を、地蔵警護の
恰好で気を使って配置したのだが、彼らは勝手に私設関所にし、今でいう有料道路の
入口にしてしまって、通行料を徴収したり、また退屈しのぎに、地方に珍しい話をこ
こで耳に仕入れた。
 なにしろ当時のことゆえ筆墨でかきとめたり、ニュース速報にはしなかったろうが、
「物語」「唄いもの(謡)」の形式にまとめあげ、これを同族の呪師に話のおろしを
した。
 というのは、呪師も客集めをするには、やはりどうしても諸国の噂を、
「西の美作の国ではこういう話があった」とか、または、
「東の駿河にはかかる事があった」と情報活動から語りだす必要があったので、唱門
師、鉢たたきと共に、諸国の奇談や珍事を聞きに六道の辻へ集ったものらしい。
 つまり祇園社の犬神人は、それらの話の中から纏まった謡物をつくって、田楽法師
らに台本を提供したが、六地蔵の党も、流しの呪師とか猿楽の者へ、「流し専門」の
台本を口うつしに作っていたということになる。
 のち、この六地蔵のうちの御曾和池が、出雲路と北白川路に分かれたから、六道の
名称が、「七道」となり、彼らも、「七道の者」とよばれるようになるのである。

 さて、『宣胤卿記』文明十二年(1480)九月十日に、
「十日丙辰晴。七口新関停廃のため、土一揆蜂起、北白川辺集会、新関所焼払い、お
のれらにてまた関所をもうく」
とあるのは、六地蔵の党がおさえていたのを廃止させ、室町御所側が新しく関所を作
ったことへの反乱で、同時代の『親長卿記』にも、
 十一日、寄るに入りて所々物騒。土一揆蜂起。
 十二日、土一揆蜂起、方々ときの声あり。
 十五日、夜参内、土一揆伏見殿御門に押しよせ鯨波(とき)をあげ、門前在家二戸
     放火、禁裏騒動。浄花院投石され占拠さる。
といった当時の有様がやはりでている。
 つまり、土一揆は原住民の暴動ゆえ、ここにでてくる「ときの声」「鯨波」が、そ
の当時の呪文であったという考えもできよう。
 さて、石を投げ棒をふるって放火し荒れ狂った土一揆も、当時の機動隊である室町
御所侍所(さぶろうどころ)の番衆に頭を殴られ皆殺しにされて、やがて六地蔵の党
から、七道者と呼ばれていた彼らは滅ぼされるが、それから一世紀たつと国家主権が
交替する。

 室町時代には「土一揆」「白旗党余類」と侮られていた別所出身集団の中で、八田
別所織田庄出身の血をひく織田信長が、「天下布武」の旗を京へすすめ、やがて足利
十五代将軍義昭を追うと、かつての侍所の番衆は首を吊るされ報復をされる羽目にな
った。
 そして、かつて反体制だった連中の天下となり、足利政権と結びついていた延暦寺
や高野山は焼討ちにされ、石山本願寺もやがては降参のやむなきに至ってしまう。
 しかし天正十年に信長が謀殺されると、また国家体制は一変してしまい、全国一斉
に宗門改めが行われ、それは、「天正十一年裁可状」というものによって、今でも判
る。
『掛川志稿』収録の延寿院記事中にも、これは明らかに、
「この寺今は広安寺と改むるが昔は博士小太夫とよぶ修験者の拝み堂にして、遠江国
内の気加、笠井、天竜、河井、飯田、大淵、笠原、河村、勝間田、榛原、懸河(掛川)
の院内(別所)十一ヶ所の支配をなせしが、天正十一年より仏寺と変り存続安泰の裁
許をうく」
とでていて、信長の在世中は修験の天下だったのが、本能寺の爆発ですべてが一瞬に
ふっとび、また秀吉によって仏門の世に変えられてしまったことが、これでも判り得
るというものである。そこで、こののち、この追われた修験らの「呪術の世界」とい
うものが、ひろげられてゆくことになる。


蠱神道

 従来の説によると、修験道というのは、鎌倉時代に密教から派生したものというし、
『日本霊異記』によれば、
「巖窟に居て葛をかむり松を餌とし、清水の泉にて沐浴。慾界の垢をそそぎ去って、
孔雀の呪法を修行し、奇異の験術を証得した」
という役の小角あたりを開祖とする。
 しかし、孔雀の呪法などという言葉によっても判るように、これはインドのヒンズ
ーでしかない。しかし日本歴史では、『続日本紀』にある「去る天平八年の勅を奉じ、
逆党之徒を山林寺院に於いて一僧以上を見張りにたて私聚さす」
という宝亀元年僧綱の奏状から、洗脳させる連中のため、山林修行の法が奈良時代よ
り、すでにあったように今では誤られている。
 しかし、これは大乗小乗仏教といった分類をとって、すべてを仏教の枠に入れてし
まうからして、そういう間違いになるのであって、仏教以外の宗教が日本へ色々と渡
来していたことを明白にすれば、きわめて判りやすいのではあるまいか。
 私はこの春カルカッタに行っていたが、インド人にいわせれば、日本の仏教の半分
はヒンズーだという。もちろんこれは日本の宗教専門家も前に言っていることなので
珍しくもないが、「密教」などは完全にそうであったらしい。
 さて金峯山、大峯山、葛城山、英彦山、羽黒山と分かれていた山伏道場は(何も彼
らが山が好きで立てこもったのではなく、天正十一年に秀吉の命令で、地上の拝み堂
から追放され、やむなく深山へ入っていただけだが‥‥)慶長十八年に二分された。
(何故二分されたかというと、放っておくのなら差し支えないが、公許するとなると
取締り上の都合があったのだろう)
 この徳川家康に分けられたうちの山宝院派は、のち、「真言修験」として当山派、
聖護院派の方は「天台修験」とよばれ本山派となった。
 かつて秀吉以前は、圧迫された原住民系と修験とは、被征服者どうしといった具合
から、同病相哀れむごとく結びついていた。
 その結果、墨染の衣をまとう仏教に対し、白衣をひっかける修験は戦国時代にあっ
ては、「御幣」をふって出陣の幸先を願っておはらい、算木ぜい竹並びに星による天
候占い、または「護摩」をたいて、敵の降伏を祈り必勝祈願を行う呪術師となってい
たのだが、信長の死によって、その後は豊臣体制から山へ追われていたものの、また
家康によって二分されて認められ、陽の目をみるようになって江戸期に入ると、「薬
師七法」を唱える天台修験は、公然と山を下ってきて、「祈祷による病気治療」を唱
えて町なかに居をかまえ、これが庶民の健康保健医のような役割をはたしだした。
 現在では対病手当というと服薬注射だが、幕末までは、「病は気から」というのが
モットーとなっていて、殆どがおはらいで済まされていた。つまり今のテレビや映画
みたいに、「それっ医者をっ」という程には、当時その数はいなかったのである。
 幕府御典医をつとめ明治になって軍医総監になった松本良順の懐古録によれば、当
時世界有数の人口をもった江戸でさえ、町医は三十軒とはなく、拝み屋が御幣をかつ
いで何処でも患家廻りをしていたことがでている。
 なにしろ安政開港で、「ペスト」「コレラ」が輸入され、江戸市中に死人の山をき
ずいた時でさえも、一般には、「八方睨みの猫」の呪い絵を戸口に貼って、これを後
の石炭酸のように消毒薬の代用としたくらいのものである。「薮井竹庵」などという
渾名で、竹の子医が氾濫しだしたのは、これは明治に入ってからのことで、失業士族
が昔ながらの『傷寒論』一冊ぐらいをよんで開業し、手軽ゆえこれが眼にみえて増え
出したから、明治大正にかけての「いろはがるた」や「家族合せ」に、新職業扱いさ
れ珍しがられて加えられたにすぎない。
 しかし、地方へゆくと、昭和に入っても、「狐つき」といった類の呼称があり、の
り移った狐をおわないと病が本復せぬとされ、またその反面、呪術者は狐を相手につ
かせる能力をもっているとも信ぜられていた。
 室町時代にも、『新猿楽記』には狐坂の伊賀専女(うため)という狐を神にまつり、
それで呪術を行った女の話がでている。これがいわゆる「飯綱(いずな)の法」とか、
飯綱使いといわれるもので、稲荷信仰に結びついて、江戸期には大いに流行した。も
ちろん狐だけでなく蠱神道では、「蛇神」というのも「トウビョウ」とよばれて山陽
山陰地方には存在し、呪うべき相手に蛇の生血をふりかけると、とり殺すことができ
ると信じられているし、犬神も、「インガマ」の呼称で沖縄にまで拡まり、九州では
「インガメの術」と伝えられている。
 また、本州では、『本朝故事因縁集の巻三』に、
「備後安芸周防長門の賎民は、犬神という外道の神をもち、すこしの恨みあらば直ち
に、その犬神を憎む相手につけ、これに仇をなし呪いをなす」
といった記載がある。
 また、牛頭天王信仰の、牛を用いたのには、牛を「丑」にひっかけ、真夜中の丑満
時に、「頭上に角のごとく火を二本たて、呪うべき人名を印した藁人形を『うしき世
のうしきものをうしなわせ』とくり返し呪文ととなえ、これを釘づけすれば、必ず牛
魔大王の御利益によって、その狙った相手を呪殺できる」
といった物騒なものもある。
 ところが、牛や蛇、犬、狐といったように小道具も使わず、人間自身が信念をもっ
て呪いをかけ、憎らしい相手にとりつき祟ってしまうのもある。

 「そのすじの者は、一種不可思議な力をもって居り、自分らの種族以外の者で憎い
とか嫌だとか思う相手を、呪いをもって睨むと、たちどころに相手は発熱悪寒苦悶し、
犬のように吠え喚き精神に異常をきたして、しまいには病床に呻吟する」
 これは飛騨と越中の国境に近い高原郡の、美濃国恵那坂下村大字坂下袖川部落。そ
れから信濃国安曇郡木曽谷の山中に分布していて、「ごぼう種」といわれ、柳田国男
著では、
「近世まで、このごぼう種の邪視の力は非情の草木にさえ及び、彼らに睨まれると畠
の菜っ葉や大根まで、しおれ、いたんだものである」
と、その呪術を評価しているが、喜田貞吉説では、『民族と歴史』誌第八巻の一号に、
(双六谷のごとき魔界に住む護法天狗の後裔で、彼らは子々孫々に到るまで土着の異
民族として他から差別待遇され)その結果、憎悪の怒りが心頭に発し、その精神力が
呪詛となったように説明をされている。
 つまり、今も東北に残るオシラガミ信仰による恐山のイタコのように、
「天孫系によって圧迫された原住民が、その抵抗運動として、虫や獣の助けをかりた
り、又は自分自身の精霊をもって、これと戦った」のが、呪術という事に日本ではな
っている。


現行呪術

 さて現在でも本土において、呪術をそのまま伝承させるのは越後の瞽女(ごぜ)と
東北の「いたこ」であろう。
 後者は恐山の頂上で死人の口よせをすることで知られているが、呪術をかけるのは
奥内(おくだい)さまとよばれる女男二体の白木神である。この「おしら神」につい
ては、『月の出羽路』という江戸期の本には、
「桑樹の枝にて陰陽二神をつくり絹布に包み秘し隠し、巫女これを左右の手にしつつ、
祭文ばらいをとなえて祈り、加持呪術す」
とあるのが引用され、柳田国男の著でも、養蚕の神のごとくにも扱われている。
 だが、これは違うようである。上州の野沢あたりでは、桑ではなく楡[にれ]や楢
[なら]の木になっていて、神棚にあげたり門口にうちつけて、これを「おかどさま」
という。
 今日の用語法では、門がおかどだが、そこでは女体が「おッか」で、「ど」は奴隷
のドらしく男体を意味し、猿女の名残りを今もとどめている。そして、「おかど=女
夫」のことで、「笑う」意味も、笑い絵というごとく、ある行為を意味するからして、
「笑うかどには福きたる」というのが、今も夫婦和合を願う呪術とされている。
 それでは、いたこの呪いの方式は、どうかというと、これは、「違いごと」とよぶ
神おろしから始まり、次に「はらいごと」そして「有難やぶし」そして「岩戸びらき」
の順で、
「はあい、はっ」
と親指と人差指で御供米と塩を交互に身体の左右へ投げかけ、柏手をうつのは、韓
(から)からの神さま用のごとく左右一緒にうち合せるのではなく、右手を垂直にの
ばした左の掌へ発止と叩きつける。
 『延喜式』に「今津来(いまつき)神」としてでてくる韓国からの神さまの場合は、
揃えた両手を合せて一緒に叩くのだが、ぜんぜん合掌の仕方が違う。
 次に唱える呪文を引用すると、これは瞽女の、「のろんじ廻し」と同じような節廻
しだが、文句は異なる。
「さあ死んでしまったこの馬を、何処へすてようか迷うたが、熊竹林の奥山へ棄てに
った。すると次の三月十六日、つまり牛年、牛の月、牛の日に、赤虫十二、白虫十二
が舞いおりて、おう白虫は姫のような顔で、ああ赤虫は馬のような顔で、‥‥」
といったもので、これが途中で神がかりになるが早いか、呪祷をやめ、
「やあッ」と、そこで願いごとを口走る。
 なにしろ宝くじの当選を、おしらさまに供えた番号に、この呪術で合せてしまって、
十万円もうけたのも居るというからえらいことである。
 故中山太郎の『日本巫女史』では、シベリヤのシャーマン信仰の移入ではないかと
説くが、アポロ十号がとんでいる時代に、実用化されている呪術などというのは日本
の他にはない。

 さて、故柳田国男は、その「妹の力」の中で、昭和期に入っても、
「突如として物憑きの相を示し屋根の上へとび上り、馬のりに跨って動かすと、大き
な土蔵でも揺れだす光景は、物理学の法則からは有り得べからざることと承知してい
ても、現に多勢がその事実を認めている場合は仕方がない」
といった実例をあげて説明しているが、近頃の観光ブームにのって、よくテレビなど
でみせられる郷土芸能なるものの中に、鬼面をかぶったようなのも多く見るが、局で
はあれを、「魔よけ」といった具合に今では説明している。
 しかし、『大納言山科言継記』によると、三鞠打の家元である山科卿が毎年正月十
八日の蹴鞠始の時には、その領地の山科別所から声聞師(唱門師)共が例年のごとく
祝いにきて、顔に赤いしゃぐま(やく牛の毛)をつけ、鬼の面をみなかぶり、鼓を叩
き笛をふいて舞い、山科家の新春を祝い、もし言経[言継?]が、
「何某は面白からぬ輩である」とでも洩らそうものなら、唱門師どもは、棒振り踊り
や、太鼓を首からさげて叩く踊りで、
「何某めはけしからぬ、たたれ、たたれ」
と呪術をかけたと出ている。これでは魔除けではなく、「魔かけ」をしたことになっ
てしまうと想われる。
 この唱門師というのは、各地に別所があって、そこにいる鉢たたき、神子(みこ)、
番太、茶筅、飯綱と同じ扱いをされていたのだから、今では珍しい地方色豊かな踊り
のつもりでも、「鬼面」をかぶったあれはみな呪術の名残り。つまり日本版の、「魔
法の踊り」ということになるのだろう。




                   叛逆論考

勝負で決る

 叛逆とは、それはその行為だけではなく、結果によって定義されるものとみてよい。
例えば、徳川家康が大坂城を攻め落としても、かつて彼は豊家に仕えていたが叛逆と
はよばれない。
 その家康の徳川政権を、長年臣従していた長州や薩州が鳥羽伏見で破り、江戸城を
とりあげてしまったことへも、やはり叛逆という用語は使われない。つまりこれは、
「勝てば官軍」といわれるごとく、強い方が体制をしく結果になるからであろう。
 さて、幕末のことであるが、
「関八州村々の儀、近来いささかの儀を申しつのり騒ぎ多きも、今般ご進発仰せ出さ
せ候については御留守中は別して相慎むこと」
という布令が、長州征伐のため将軍家茂が慶応元年五月に上洛するに及んで出された。
 しかし六月七日には現在の埼玉川越の氷川神社に、大工や職人を主にした千余人が
集結して、年々の物価の値上がりを押さえるよう、「世直し」を叫んで騒ぎだし、そ
の数も三千にふくれあがった。
 ついで六月十三日には、秩父の名栗や多摩の成木の者が、飯能川の河原に集まって、
「うちこわし」を叫び、約五百名が所沢方面に、ぼん天の旗を立て行進した。
 当時は岩鼻陣屋に、関東郡代木村甲斐守がいて、これが関八州取締まりを指揮して、
治安にあたっていたが、こう各所に暴動が起きては、とても手が廻らず、公儀歩兵頭
古屋佐久右衛門が出動してこれをおさえた。
 しかし徒歩の兵では機動力を欠くので、慶応三年の暮には、馬のり格の旗本の次男
三男の中から有志を選抜し、これを古屋の組下におき、松波三郎兵衛を頭分とする、
「お止め組」として暴動向けとなしたが、「機動隊」ともよばれた。歩兵隊につけら
れてはいても騎馬隊のせいでだろう。
 ところが、三月八日のこと、彼らが深谷の暴動を規制に現地へ出動中、「東山道総
督」の軍勢がそこへ迫ってきて、初めは形成を観望していたが、九日の朝、「諸政一
新、新政厚徳」をスローガンにしていた彼らは、石を投げ丸太をふるう暴徒に、「し
っかりやれぇ」と後援。公儀機動隊の連中が泊っているところへ夜討ちをかけた。
 つまり、この瞬間から、敗れた機動隊は、「上州武州浮浪之徒」と反体制になり、
(世直しを叫んで棒をふり廻していた暴徒)の方が、天朝御用の木札を立て板橋まで
東山道総督の従卒として江戸へ入ってくる。
 この、敗れた機動隊員の一人山崎半次郎が、明治二年五月に、清水の次郎長の三代
目お蝶になっている昔の女と再会。二人が一緒に死ぬ話を、<心中清水港>として私
は書いたが、つまり、「禍福は、あざなえる縄のごとし」というが、体制反体制つま
り叛逆になるもならぬも、勝つか負けるかで立場が決ってしまう。
 そして勝った方は、己れの方に都合よく歴史を書き残せるが、負けてしまった方は
何にも伝わらない。
 だから叛逆の歴史などを調べようとすれば、「勝者の一方的な立場からのもの」を、
うのみにしないまでも、それをもとにしてこれを展開するしかないらしい。
 だが、それではなんの意味もなくなる。
 そこで、私なりの解明方法をここでとる。つまり叛逆の原点を探るための試みであ
る。


舶来礼賛

 まず、日本列島における出雲族とよばれる先住系。のち渡海してきて彼らを己れの
部族に包含した騎馬民族。この二つを原住民。それとやがて四世紀から七世紀にかけ
て「天智天皇八色(やくさ)の姓(かばね)」に歴然としているごとき、津連(むら
じ)、舟連といった船舶によって集団移住してきた舶来系に大別して考えてみたい。
 前者は、出雲系の特徴である蘇民将来系。これは今の百科事典や歴史辞典にでてい
るのは、こじつけの誤伝で信用できないから、一応の説明を私なりにしておくと、
「蘇民=素民、ナチュラルなる原住民」を意味し、今でもビールを牛にのませるとい
うので有名な松坂市の和田金の、向え通りを越したガレージ横の本宅の玄関へゆくと、
「蘇民将来、来福之守」というお札が出ている。
 これは、土着先住系の守護神の松下神社のお札で、伊勢鳥羽の他に平泉にもある。
大久保彦左衛門出生の地として知られる愛知県の渥美半島などでは綜合神社ではなく、
「エビス、ダイコク、フクロクジュetc.」の七福神に半島が分けられている。
 今はここの伊良胡岬の灯台が観光ルートになっているから、半島が七福神のノボリ
で区分されている有様が、バスからもよく見える。なお念のために書くと、今の日本
では七福神の絵では弁天さまだけが女性だが、古いものではエビスもそうである。
 いま国電のエビスに昔あったエビスビールが、かつて沿海州や大陸東北へ、そのビ
ールを輸出したところ、エッチであると売れなかったのは有名な話だが、あれは女性
自身の固有名詞で、現在向こうではその侭で用いられている点でも、この土着先住民
が、向こうからの遊牧民であったことは判る。
 また、何処の寺でも、住持の妻を「だいこく」とよぶ慣習が残されている。(これ
は「エビス・ダイコク」男女一対に並んでいるのを、反体制の寺側では意地悪く逆に
見てしまい、ダイコクを女役にしてしまったものらしい)
 彼らは、この七福神を土着信仰する部族で白山神、八はた神信仰をもち、江戸元禄
期以降は、ぼん天、びしゃ門天、そして薬師信者となっている。
 さて、二十世紀初めまでの封建時代というのは、現代のようには複雑怪奇ではない。
きわめて万事が判りやすくなっていた。
 なにしろ、あらゆる職業が、(百姓の子は百姓)(殿様の子は殿様)と、世襲制で
明白に分かれていながら、遡ってその分類を展開してゆくと、これは種本や先覚者の
研究がなくても、原住系と舶来系との区分はついた。その解明方式は、
「原住系というのは前から日本列島にいたものゆえ‥‥山野に自然発生的にある草木
や、自然にある石や土。また獣や魚や生物は、これはみな彼らのもの」
 つまり山の木こり、柴かり、草木で染める染色業、石工、左官、坪立とよばれる庭
師、獣の革の革屋、獣脂で作る弓弦(つる)師、魚屋、乾塩魚屋、蜂蜜屋などが、原
住系の限定職業。
「舶来系は他から入ってきたものゆえ‥‥ナチュラルな野生の植物は勝手にとれない。
そこで土を耕して種をまき、とりいれをする作毛(つくも)‥‥つまり栽培して収穫
をあげるもの一切」というように分類することができる。
 今日では、すっかり誤られて、(封建時代の一般大衆=百姓)といった見方をする
が、百姓は舶来系が渡海してきた時に、それに宣撫されてしまった連中のことで、
(ど百姓)という言葉も、土百姓ではなく、初めは奴百姓であって、純原住系は非農
耕民族である。
 さて、山繭(やまこ)といって、野生の蚕が木にかけたのから糸をとるのは原住系
で、「加工業」である養蚕は、舶来系といったような区分がある。たとえば、山の木
をそのまま切り出すのは原住系の仕事でも、これを切り刻みカンナをかける大工仕事
は、原住系の限定職業には入っていない。これを裏書できる史料としては、十一世紀
初頭の大江匡房のものにも、『群書類従』文章部第百三十五には、
「男はみな弓や馬をよく用い狩をなし、剣を弄ぶことにもなれ、樹間に木の実や枝を
叩きその技をねる、さながら生ける者と試合をするごとし。女は唇に朱をさし白粉を
つけ淫樂な歌をうたって、金繍の服や錦の着物をき、かんざしも高貴なものを髪にさ
す」
と、まず男女の風俗を先に説明してから、これは部分的には前述してあるが、
「彼らは(原住系なるをもって)一畝の田も耕さず、養蚕もしないから一枝の桑をと
ろうともしない。また彼らは百姓とは違って、県官に属さないから、『土民にはあら
ず、われらは浪人』なりと自称して、自分らの上に王侯があることを知ろうともせず
認めようともせず、牧宰(代官・地頭)をも恐れようとしない。課役や年貢のような
ものが割当てられぬのを、一生の楽しみとなし、夜は白神や七福神福助などをもまつ
って、鼓舞喧嘩しながら暮している。東国の美濃三河遠江尾張などには、彼らは豪勢
な集団をなしている」
とまで出ている。
 この原住系が無課役無課税だったというのは、『延喜式』にも出ているごとく、初
め舶来系は原住民宣撫のために、各地の彼らへ稲束を配っていた。
 だから、原住系が編戸の民となって、納税できるまでは保護政策をとったので、
(あくまで反抗して、野生の稗や木の実をかじり狩猟でくらす連中)といえど、今で
いえば民生保護を受ける者に税金がかからぬごとく彼らには何の義務もなかったせい
である。 もちろん体制側に納税はしなかったが、原住系の長吏頭である各地の弾左
衛門や弾正には、人頭税の形で納めていたものらしい。
『武蔵風土記稿』にも、
「先に御印判をもって仰せ出され候が、人より二銭宛、よってくだんのごとし
 戊寅卯月十五日、長吏惣右衛門弾正」
といった古文書が入っている。
 この年号は天正六年(1578)のもので、二銭といっても、この時代では、穴あ
き銭二つの値打ちは、「一銭斬り」という言葉があって、罪人を斬って穴を掘って埋
める手間代が、一人一銭だったから、現在なら、この二銭は五千円相当の人頭税とい
うことになる。


パアは八なり

 さて軍部が、かつて挙国一致させるため、「大和民族は一つだ」と学校教育をさせ
てきたので、そういう既成概念をもってすると、きわめて難解だが、この日本列島に
住む人間には、大きく分けてもA原住系とB舶来系、それに馴化されたC百姓系の三
つがいた事が、はっきりしている。
 そして、(B+C)と、勝手に自分らだけで暮していたAとの対立というものが、
五、六世紀から十九世紀にかけては有ったのである。
 だから780年の秋田県の伊治のアタマロが叛逆して関東地方を席巻し、静岡の美
保海岸である清見潟まで押しよせ、ここで天下二分の反乱のあった頃から、たえず叛
逆というのは、被占領民である原住系の蜂起とみるべきであろうか。
 ただ今日誤られているのは、「天慶の乱」つまり939年の平将門の叛逆事件であ
る。これに詳しくふれる紙数はないが、これは「しょうもん伝説」つまり原住系の鉢
叩き、鉦叩きといわれる唱門師が各地を廻って、のちの説教節や「でろりん祭文」の
原型を、語り廻っているうちに、(しょうもん=将門)となってしまったのだろう。
 というのは、この将門に平姓をつけたのは、幕末塙保己一の命令で、『群書類従』
第三百六十九に納めるために、植松有記の刻本を筆写したとき、その終りに初めて附
記されてくるもので、原文中には一個所もない。『今昔物語』も同様で、古写本には
平姓はでていない。
 なのに、これを平姓とした為、桓武帝の孫高望王が平氏を賜ったということに、日
本歴史ではなってしまっているが、「植松本」(明治27年川上広樹句点)では、そ
の高望王たるや柏原天皇の裔となっている。だから、もし高望王をもって平氏の起り
とするなら、世にいう桓武平氏という存在はなくなってしまい、正確には「柏原平氏」
ということになるのである。
 さて、この天慶二年というのは、出羽俘囚の叛乱が烈しかった年である。つまり、
(将門が純友と共に比叡山にのぼって皇居をのぞみ、われは王となるから、純友は関
白になれと約して、東西呼応した)など暢気な時代ではなく、それはデフォルメ以外
の何物でもない。
 将門はどう考えても舶来系ではなく、原住系の俘囚の裔で、『神宮雑事記』や「太
政官府』に、「平姓」とあるのは、やはりのち筆写のときに、付け加えてしまったも
のであろう。そうでないと、各地を巡廻した原住系の唱門師が、彼らには反対側の舶
来系である平氏といった外来人間の武勇伝など、故意にふれ廻って歩くわけはなかろ
うと思うからである。
 なにしろ将門の反乱の方が広まりすぎて、この時点での秋田から千葉へかけての俘
囚の乱の記録が何もないのは、混同されてしまったせいではなかろうかと想像される。
これはその一世紀後の1028年の下総の乱が、原住系の反乱であった点からも考え
られる。
 さて、このあと1101年に源の義親の乱。
半世紀後には保元の乱、そして1158年の平治の乱となって、
「みなもとの義朝、為義、為朝」の名が出てくる。そして前述したごとく、ようやく
今では「戦前いわれた<清和源氏>というのは間違いで、清和帝とまったく源氏は無
関係である」と、戦後二十余年たって歴史家はここまで解明してきた。
 では源氏とは何かというと、「みなもとの民=つまり大江匡房の記録にあるような
東海から江州にかけて集団居住し、弓馬や剣技になれた原住民の裔そのもの」なので
ある。
 さて、中国から渡海してきた人たちが、文化の遅れた原住民を軽蔑して、「パアだ」
というのに、イ、アル、サン、ス、ウ、リュウ、チイ、パアの<八>を当てたのが語
源か、世にいう源氏のみなもとの民には、当時からこの侮称がある。
 そして、今でこそ誤字当て字は嘘字といって教養の程を疑われるが、昔は漢字はみ
な発音記号式に用いられたから、「八」を「鉢」「蜂」「羽地」とかいても自由であ
り、同義語であった。
 つまり、山に閉じこめられていた原住民が、西部劇のインディアンみたいに、山の
峰で火をたき煙で合図するのを「のろし」というが、「烽火」「烽煙」とかくのもこ
の為である。
 さて、現在、鎮西八郎や、源義朝のものは残っていないが、江州の佐々木高綱の旗
は、「集古十種」に納まっているが、自分で「蜂起し」と墨で大書している。これは
人物往来社刊『旗指物』にも図版で入っている。梶原源太のものは紙旗らしいが、
「八」の一字きりである。
 さて、原住系の捕虜収容所の地帯を別所(散所、院地、院内、山所)というのは前
述したが、『史籍雑纂』収録の「黒田文書」に、
「別所同意にござ候はば(別所出身の原住系の武者ゆえ)馬印は金色塗りにてござ候」
というのがあるから、金色の馬印をたてる武将というのは、戦国時代には「異族とは
婚せず、同族は討たず」のタブーによって、同士討ちをしないように、そうした目印
をたてた別所ものらしい。
 さて、豊臣秀吉が木下藤吉郎といって、まだ豪くなかった頃は、馬印などたてられ
ぬから、梶原源太の真似みたいだが、Oに八の文字を入れた旗を立てていた。だから
中京出身の方は知っていようが、「郷土の生んだ世界的英雄豊太閤を記念し」名古屋
市は「○八」を市のマークにしている。[通説では『尾張八郡から』とするようです
が‥‥]
(八の字を末広がりで縁起がよいというのは原住系の云い草で、大陸系にかかると、
八はそんなに良い意味ではなく、中国語では「忘八」とか色々悪口がある)