1097 論考・八切史観  9

恐怖政治

 討伐して捕虜にしたのを奴隷にもってきたといっても、全部をひっくくって連れて
こられるわけもなく、東北にはまだ相当数が残っていたらしい。そこで最澄はその著
の、『顕戒論』において、
「僧たるものは、国師、国宝、国用のいずれかを志し、たえず国のため念誦し、国の
ためにこそ経をひもとき、経を講ぜねばならぬ」
と、後に訳されたものでは、
(衆生済度などして、零細な人民のお布施を集めるより、体制側に協力し、資金カン
パを受けた方がよかろう)、と国家第一主義の教えをもって、ここに、でっかくゆこ
うと、その「守護国界章」を宣伝した。
 よく、「御用達」とか「御用商人」というのがあるが、ここに「御用坊主」が誕生
したのである。
(しかし、金達寿説によると、これはどういう事になるだろうか。彼は、「日本の歴
史家は七世紀迄の日本は帰化人によって多くを学んだというが、そういうことはあり
えない。何故かなら彼らがすべてだったからだ」などといっている)

 さて、高野山金剛峯寺を遥か山の彼方に建てた空海も、これにならって、「鎮護国
家宗教」を名のって教えを弘めた。
 キリスト教も中世には国家体制と握手をしたが、イエスさまはゴルゴダの丘で十字
架を背負われた程ゆえ、これは明白に反体制。使徒たちも主の御名をたたえ讃美歌を
唱いまくったのだから今でいうフォークゲリラ。だから信者たちも皇帝の機動隊に捕
えられ、ライオンの生餌にされるような状態も初めはあった。やがて彼らは公的権力
と妥協の時期はあっても、「王の国」と「神の国」を対立させることによって、その
栄光を守り抜こうと努力をした。
 しかし、「守護国家」「鎮護国家」と、「お国のためにナンマイダ」を唱え、ひた
すら坊主丸儲けにのみ徹した日本お坊主衆は、初めから体制べったりで、
「東北地方に原住日本人が多いのは、事によるとまた反乱を致すやの恐れあり、拙僧
らがおもむき宣撫こそ仕りましょうわい」
と、まず勝道という勇ましい名のお坊さんが、日光の中禅寺を作り、ついで徳一坊は
筑波山の中禅寺と会津の恵日寺をたて、やがて最澄自身も関東へ進出して、緑野寺、
小野寺を彼自身がこしらえた。
 こうなると空海を開祖とする高野山においても、
「負けは致されず」と東北地方へ出張し、
「霊山寺」「立石寺」「黒石寺」「天台寺」などの古刹を今に残している。が、こう
いう事実、つまりなぜその地方でこういう土木事業ができたかというと、「公的権力」
であるその地方の国司が、武力によって原住民を狩り集めてきて強制使役し、寺院造
営をさせたからに他ならない。
 さて、そこまでやらせたものなら、普請ができた後は、「後は引受けて候」と、坊
さんが寺に残って人々を集め説教をするべきだが、日本の坊さんは金儲け主義で、宗
教に身を打ち込むという信仰がないのか、はたまた原住民が酷使されるのを見て後の
祟りが思いやられ、どうも恐くてそこまでの度胸が出なかったのか、「仏つくって、
魂入れず」というのが仏家の言葉にあるが、この場合は、「寺は作ったが僧は居れず」
と、何処の寺もそうなった。
 そこで、留守番に睨みのきくのをというので、今も東北のそうした寺には、「魔仏」
がそれぞれおいてあるのである。つまり原住民を恫喝し、恐喝する目的で、「四面」
「十一面」の恐ろしい明王や観音像がおかれていて、その当時は国司や役人も、これ
らの怪奇な像を威嚇に用い、「恐怖政治」をしいたものらしい。
 なにしろ日本では、「さわらぬ神に祟りなし」というくらいのもので、(神をまつ
る)のも信仰や栄光のためでなく、といって、神よ憐れみ給えと助けを求めるのでも
なく、「害を与えられぬよう」が主なる目的であり、拝んだり賽銭をあげるのも、敬
慕や信仰より、恐ろしいからと罰をうけぬためだった。
 菅原道真が天界から雷を落して復讐するから、「天神さま」として祀って、なだめ
るといったように、日本ではいわゆる祭事にしても、神を讃える為ではなく、怒って
害をなさぬよう慰撫するのが、おまつりなのである。
 だから公的権力が、人民から貢や税をとりたてる行為も、これを、「まつりごとを
行なう」というのである。
 町会の役員が御神酒所を作り軒並みに寄付を集めて廻り一杯やるマツリゴトも、お
かみの真似にほかならない。つまり、
「ヨーロッパでは、神は人民と共に、いやそれらに代ってまで受難される」のだが、
日本は違う。「恐怖と迫害をもって、よくまつらないと受難させてしまうぞ」という
恐喝が「怪奇」という具象になって、人民を睥睨しているのが、吾らの国の昔からの
伝統なのである。


幻想の原点

 さて、ふつう「密教」とよばれるのは、真言派と天台派に二分され、これらの始祖
は、みな日本人で、遣唐船にのて向こうへ留学。そこで勉強して日本へ伝来させたも
のだ、ということにこれ迄なっている。
(前述のごとく金達寿はみな朝鮮人なりと主張している)
 しかし、「密教」というのは、いわゆる仏教ではない。それが証拠に、東寺の「真
言七祖」とよぶ七人のうち、四人まではインド人、一人がセイロン人、あと二人が、
「インド文を唐語に訳した」という中国人である。これでは、もし日本の坊さんが唐
へ留学したのなら話が変てこで、
「本場の印度カレーの料理法を習いに、わざわざ中国へ行った」ようなことになる。
 こういう引例がもし悪ければ、
「日本では、世界文学全集など種々刊行されているからと、英米文学を勉強するため
オーストリア人が東京へ留学しにきた」
といった具合になる。
 いくら千二百年前のことでも、こういう歴史は、「幻想」でしかあり得ないのでは
ないか。
 空海の開いた高野山の諸像は、大正十五年の大火で焼失。今は写真しか現存しない
が、
「ふくよかに円い豊かな顔、その中心の鼻柱は高く唇も厚い。その表情はみな印度的
である」
といった解説が今日ではなされている。
「なぜ、インド的なものを中国に求めたか」また「求め得られたのか」について、こ
れまでの歴史を説く人は何も言っていない。
 また、一般も、「シルクロード」つまり印度から中国へのルートを考え、その中国
から日本へという考え方をしたがる。だが、そのシルクロードが、千二百年前に有っ
た迄は誰も考察しない。
 だが、八世紀に於ては中国人自身でさえ、彼らが印度旅行をするのには、
「三蔵法師のような高僧でも、河童や豚や猿のおばけの助けをかりねば不可能」
といった観念がもたれ、唐の代宗の大暦年間には、かの「西遊記」すらも、孫悟空の
面白さもあったろうが、印度中国間の交通がいかばかり困難であるか、といった常識
によって普及したのではなかろうか。
 だからして陸路唐経由で、印度のものをどうして学んだかと不思議でならない。私
はインドはカルカッタしか行っていないが、中国は東北から華南に長く暮していたか
ら詳しい。だからいえるが、印度と中国の寺院とでは、香港のお寺と日本のお寺の差
よりも甚だしい違いがある。
 つまり、「入唐説」を頭ごなしに否定するわけではないが、現在のインドである天
竺と日本とは中国経由の陸路ではなく海上から直接に季節風を利用して往復があり、
(此方の寺院へ向こうの人間がきていたのではなかろうか)との疑いも抱く。
(「だるまさん、だるまさん睨めっこしましょ」の達磨大師も印度人で、日本語を覚
えるまでは九年間も黙っていたという。[これは明らかに八切氏の勘違いで、達磨は
嵩山少林寺、つまり中国へ行ったのであり、来日はしていない筈]
 しかし、千二百年前の資料など有りようはずがない。どうにか私が見つけたものは、
「文明十八年」つまり十五世紀末のもので、『大乗院寺社雑事記』というものだが、
その二月十五日の条には、はっきりと、
「鹿園院(京相国寺の鹿苑院のこと)御代(院主)今般、天竺より来る」
とでている。
 昔の坊さんは送り仮名もない漢文をすらすら読んだり、書いたりして豪いものだと
思ったら、どうも種はこういうところにあるらしい。
 また、その<雑事記>には、
「西忍入道昨十四日古市にて入滅。天竺人は二条之御内三条坊門烏丸の唐人倉に住む
ものゆえ、そこの生まれの西忍は幼名をムスルといい(註Musul)のち天次といい、平
氏を姓に賜る。立野に住む衆はことごとく平氏なればなり」
とある。
 これをみると、延暦年間より七百年たっても、アラビア系の姓名をもつ者が日本へ
季節風で渡ってきて、京の三条烏丸には、そうした外来人の慰留地があったこと。
 立野に田畑をもち、農耕奴隷に小作させていたこと。そして朝鮮や中国でなくアラ
ビア方面から日本へ流れついた部族が当時は、「平氏」の姓に統一される掟があった
ことなどが、これで明白に判るというものである。
(この『雑事記』の筆者は、足利期の著名考古学者で太閤の位まであった一条兼良の
三男の尋尊で、兼良も大乗院へ仮寓していた事もあり、これらの記載は今では全然採
り上げられていないが、信用にたるものである)
 つまり、応仁の乱で仏都の京が焼野原になるまで、一口に仏都といっても、「ヒン
ズー教」「フイフイ教」といったものが入り乱れ、これに朝鮮からの「平野四神」を
はじめとする「カラカミ」が混じっていたのが、「朝鮮征伐」以降はカラのカミが没
落し、
「宿業(すくごう)により神の身を受くが、仏道によって、神身を離脱せんことを乞
い願う」とか、
「われ神道にあれど、仏の御教によって威福を望むこと久しかりし」など、
諏訪明神や宇佐八幡、丹生都比売(にうつひめ)神が、神託を下し賜うたと、京都市
立芸大某助教授は、
(神も人間と同じ煩悩をもつ衆生であって、仏法をきいて喜び、あるいは仏道に入り、
仏法を守護するようになった)と説明している。
 この、神が仏に降参したというのは、「吉田神道史」にも詳しいが、これは元禄年
間の、「神仏混合」を理由づけるデフォルメだが、それを1970年代において、ま
ことしやかに説くような学校の先生が現存するとは、アポロ時代では怪奇というより
も怪談でしかない。
(恐らく真相はカラカミ信仰部落が、異民族の仏教護持部族のクーデターにあって制
服されたのを象徴的に、<神が仏に負けた>ことにして恰好をつけたのだろう)
 さて、夢幻的、怪奇的な妖婆(バーバーヤー)や狼男(ガールウガー)が、「体制
へ反逆する要望を秘めた具象」であったとしても、それはあくまでヨーロッパ的発想
であって、日本では吸血鬼どころか、赤ん坊をむしゃくしゃ食してしまった者でも、
「鬼子神さま」として、恐ろしがられるが故に、お賽銭まで出して参拝してもらえる。
 つまり、こうした断絶した感覚の相違も、日本人が、怪奇とは退治するものでなく、
(恐怖をもって崇拝するものだ)と、施政され教育を受けてきた伝説によるものだろ
うか。



                  呪術論考

幻想のみこ

 呪いは強者にはいらない。それは弱者のものである。
 救いのない哀れなもの‥‥虐げられた人々の、それは相よる魂の、せつない叫びで
あり、悲しい慟哭でしかない。
 いつの時代にあっても、権力の座をしめたりそれに便乗する者らに比べ、呪いを吐
きかけねばならぬ者の数は限りなく多い。だから、それは今でもシュプレヒコール、
といった形にもなって伝わり残っている。つまり、「ヤンキー・ゴー・ホーム」と叫
ぶのも、「祖国完全復帰」を唱和するのも、沖縄県民のそれが現代の呪術方式でなく
てなんであろうか。
 つまり現在の時点では、ギターをひきながら、平和を叫んだり反戦を歌うという行
為は、悲しき呪術ということになり、それはかつての唱門師とよばれた者たちと同じ
ことといえよう。
 さて、呪術といえば、それを幻術といったものと混同しかねない。つまり法術とか
道術とか称するのと、どうしても同一視する。
 『漢書・芸文史』などにある「神仙十家」とか、『論衡』にとく、「道ヲ好ミ仙ニ
遊ブ者ハ」の類が、後漢から三国、六朝以降になって、ゾロアスター教、マニ教、ネ
ストリウス基督派の景教が西方から広まるにつれ、ここに、「奇幻忽然ト、万象ソノ
姿ヲ変エ、形体ヲ分ツ」といった幻術奇抜の術となり、それらは、『文選・西京賦』
の中になども見られるが、これが、やがて日本へ書籍として持ち込まれるようになっ
た時点。
 そして、それをもたらした舶来人が土着していた原住民への威嚇宣撫用に、これを
説教や説話に利用したからして、やがて話は広まり、そうした幻術が「忍びの者」な
どと、さも実存したごとき幻想さえ人々に与えた。だからして立川文庫の猿飛佐助以
後、現在にいたるも、その類の読物は存する。
 しかし日本の「忍術」の実体は、中国よりの、『烈子』『唐書』『史記』にある神
仙、道者、方術者などからの、翻案による荒唐無稽なものではなく、日本列島の被圧
迫階級だった原住系民族の悲しき保身術だったことは、後述の「忍術論考」でも私は
山科言継や、その子言経の日記からも解明ずみである。
 だから幻術、道術などの変化自在の術と、呪術とは、まったく異質であること、そ
して呪術は日本では被占領系の日本原住民のものであったをの、前もって初めにこと
わっておきたい。
 さて、日本史において‥‥そうした呪いの系譜をたどってみると、『続日本紀』の
中に、神護景雲三年(769)五月に、犬養の姉女(あねめ)が配流された時、天皇
を害し奉らんと呪う話がのせられてある。その呪術の模様は、
「かけまくもかしこき称徳天皇の、おん髪毛を盗みきて、きたなき佐保川の髑髏に入
れて、大宮の内にもちまいって厭魅(まじない)せること三度なり」とある。しかし
髪毛を持ってきて呪いをかけても、なんの効果もなかったとある。
 次いで宝龜十一年(780)十二月十四日の「官符」には、「京中街路祭祀禁断の
こと」とし、
「このところ無智の百姓巫覡(ふげき)を構合し、みだらに淫祀を崇び」とあるから、
当時も、まじないは流行していたものらしい。なにしろ『万葉集』巻五にさえ山上憶
良が、
「禍の伏する所や祟りの隠れている所を知ろうとして、亀卜の門、巫祝の室へ行って
問わざるはなし」と歌っている。とても、呪いとかまじないの類は気にされていた模
様である。
 この後の大同二年(807)九月二十八日の「勅」には、
「庶民の愚なる者妖言を信ず。淫祀しげく厭呪また多し、よろしく今後は一切禁断。
もしおかさば、これを遠国へ移配厳罰に処す」
ともあるから、この時代は今でいう恋占いみたいに、男女の縁結びとか合性[相性?]
占いみたいなことばかりが盛んであったらしいし、原住系の民が商売に占いをしてい
たのも判る。
 さて、この時代の巫女は、のちの「猿女の神」となる小野姓の語り部の女たちで、
彼女らは『続日本紀』に、「異種の部落猿女の女どもが我が部族の男どもとまぐわっ
て夫とし拐しさり、今や我が一族は滅亡せんとしています。願わくば勅によって、猿
女どもを罰し給わらんことを乞い願い奉る」
と上訴した小野族主の上訴文が入っているごとく、今でいえば、アメリカ国籍をとり
たくて結婚する女性のように、天孫系の小野姓をとるため、この部族の男をみな寝取
ってしまってというのらしい。そのせいか、今にいたるも、小野の姓のとく男がだい
たい温順な人柄が多いのも、それは九世紀からの伝統かも知れない。
 さて、小野姓をもって、後の歩きみこの元祖となった彼女らは、一人称に「おの」
を用いたから、これが、「おのが姿を影とみて」といったような説話を作ったり、自
分らを美化するため、小野の小町とか小野於通といった伝説的美女をつくりだし、各
地で女の神官や巫女となったのが、その神前での奉納舞いが、やがて、「猿楽」の起
源となり、「白拍子」となり、これが「女歌舞伎」そして江戸期の男尊女卑の世とな
ると、「かんじん「勧進?]比丘尼」にまで変貌転落する。


ぼやき呪師

 さて、ここに改めて現存の古記録から、「呪術」という言葉を的確につかもうとす
ると、それは藤原明衡の、『新猿楽記』あたりの中から、「呪師(のろんじ)」とい
う文字で見出すしかない。しかし、それはヨーロッパのぶなの木の下で、妖精や魔女
が集まって催したといわれる黒ミサのような神秘性はなく、うらぶれた、「ひとり相
撲、こびと踊り」といった見世物に混じって、その中の一つのショウとして、軽侮の
中で敗戦人民の世すぎとして扱われていたにすぎない。
(この伝統は近代まで続き、運命を占う易者が大道で他の通行人から蔑まれつつ、人
相や手相をみたり、戦前は、門づけ遊芸人なみに、警察の鑑札を貰っていたのである)
 また、奈良興福寺の門跡大乗院尋尊の書き残したところの、『寺社雑事記』は、十
五世紀のものだが、その寛正四年(1463)十一月二十三日の条には、これは明白
に、
「北宿の者奈(奈良坂長吏)を召し申付けられるのこと。七道の者は、猿楽、あるき
白拍子、あるき巫女、鉦たたき、鉢たたき、あるき横行(のろんじ=呪師)、猿飼」
と呪術師はその身分を長吏の下におかれ、「北の者」「七道衆」という特殊カテゴリ
ーの中に入れられている。
 また、「あるき横行」の文字を真言宗においては、「あるき修道(おこかい)」と
称し、修行者の拝み屋に分けて、これを後世の修験の始まりとしている。
 だが、文安二年(1445)の『がいのう抄』には、
「人の家の門にたち、祝い又は呪いをかける声聞僧にはあらずして、これ仏家でなき
唱門師」
と行誉上人は書き、非仏教的存在の異端扱いをなし、はっきり呪師なる者は区分して
いる。
 のち北条早雲の関東平定後は、これは、『北条五代記』の天文二十四年(1555)
の中の史料に、
「卜算(占いのこと)・移他家(いたか=神がかり)・唱門師・呪師の類」として、
小田原の舞子太夫の取締下に入れられている。(恐山のいたこは、このいたかの訛っ
たもの)
 これは何故かというと、呪術を行う呪師にも、国家体制と権力に結びついた輩と、
そうでない徒がいたことを意味する。つまりその発生たるや、『大日本古文書』第一
巻にも東大寺へ寄進されてきた奴隷の一覧表がでているが、寺はこうした奴婢に荘園
を耕させ、それによって現世の利益をあげていた。
 「田夷」とよばれるこうした農奴は、戦国期の寺が疲弊した時に、身代金を納めて
解放されたが、人別帳野上では自作農とは認められず、明治まで続き、「寺百姓」と
いう。
 そしてこれらの、天孫系の捕われ次々と奴隷にされた原住民は、自殺は許されず強
制労働をしいられ、足利後記までは代々死ぬまで解放されることはなかったから、
「主に召される日までは」とうたったミシシッピー川畔の農場奴隷のごとく、日本版
の「黒人霊歌」をやがて作るのである。そこで、これは初め(猿女たちが流し歩く)
猿楽とは区別され、(動かず一定地域の田で演ぜられるものとして)「田楽」とよば
れ、大和東大寺系春日社では、「円満井(今春流)、外山(宝生流)、結崎(観世流)
、板戸(金剛流)」といった各流派の元にも変貌してゆく段階に向かってゆき、それ
が権力に媚びる「祝能」の形となったのである。
 しかし、それを潔しとせずに抵抗していた者らは、寺社の保護をうけることなく放
られたままで、大夫とか長吏といった別所頭の下にあって、鉢たたき・鉦たたきの唱
門師となった。しかし取締まりが厳しかったので、やむなく江戸期に入ると金を出し
京の土御門家より「陰陽師」の免状をうけた。そして、「歴代」という呼び名で、願
い事や怨みの祈祷をしていたが、正月には三河万歳や尾張万歳として、それぞれ松永
太夫、あじま「味鋺]太夫の命令下で、ポンコポンコ鼓を叩き各地を廻り歩いた。
 さて、これはまことに妙な話かも知れないが、世界中どこへ行っても、祝いとか喜
びというのは、もっと元気溌剌たるものだが、日本の正月に廻ってくる万歳だけは、
「めでた、めでたな‥‥」とはやるが、怒ったような表情で、てんでめでたそうな顔
もしなければ、ポンポン鼓を叩いても、それは祝いや喜びのリズムとはまったく遠い。
 なにしろ、あの四分の一拍子の叩き方は、大正時代まで雪駄直し下駄の歯入れ屋、
いかけ直しの単調な叩き方と同じである。そして、この万歳から生まれた後世の「大
阪漫才」の初期がやはり、「ぼやき漫才」であったことを考えれば判ることだが、
(歓びをあらわすのに、愚痴をこぼしているような)と、きわめて世界的にも珍しい。
で、
「ちっとも喜ばしくも可笑しくもない、まるで悔みをのべているような万歳の祝い方」
というのは、発生がなんといっても被圧迫階級の「呪師」の末裔が彼らであり、その
彼らとしては呪詛をこをはきかけたいのに、金を出して免状をとり、心ならずも生活
のために廻り歩いて、仇敵天孫系へも、「めでた、めでたの‥‥」とやらねばならぬ
ことへの憤り、つまり、あれは原住系の伝統的な哀しみの現れだと理解しないと判ら
ないのである。


フラメンコと祭文

 さて、日本の呪師が何故こんなに貧弱で、もの悲しいかというのは、なんといって
も天孫系が日本へ渡ってきたとき、そこにいた沢山の原住民が制服され捕えられ、
「別所(散所、産所、算所、山所、院内、院地)」へ放りこまれていた頃の屈辱の歴
史を、もう一度想起するしかない。
 そして、日本の呪術が十二世紀以後に、従来のまじないから一大飛躍をするのは、
どうしてもサラセンの影響と私はみたい。
 昨年のことだが、恩師伊藤整からの頼まれもので、まだジプシーが穴居生活をして
いるサクロモンテの丘へゆき、フラメンコの本場の唄をきいて廻ったところ、故柳田
国男が、その「俗山伏」の中で、「願人山伏は寒垢離浄瑠璃祭文を家業となし」と、
俗にいう「でろりん祭文」、つまり現在の浪花節は山伏の唱えたものと解明している
が、さて、そのジプシー部落に入って聴くそれは余りにも節廻しが似ている。つまり、
「フラメンコ」が日本人に好かれるのも道理で、節廻しは浪花節式であり、フラメン
コの踊子がみえをきるところなど、人形浄瑠璃やそれから転化した四国の阿波歌舞伎
あたりと、そっくりそのままである。
 スペインのジプシーはムーア人達の残党だが、中近東あたりのサラセン人も、やは
り日本へ来て混血していないことには、これでは話の辻つまが合わぬことになるまい
か。
 そこで、これは私見だが、十字軍侵入の余波をうけ、海上へ避難した者が、交互に
吹く貿易風と季節風に流されて日本列島へ漂着。そのうちに当時のサラセン文化は、
すでに天文気象学をマスターしていたから、年に一回なら中近東から日本まで、海路
交通できることを考えついたのではあるまいか。そしてその子孫がサラセンの優れた
建築技術で、三十三間堂その他を建て、「登殿を許される」ような身分となって、こ
の人の伜の清盛が、やがて平家の世をつくったのではないかとも想う。
 なにしろ父の平忠盛がやっと昇殿を許された位なのに、その子の清盛の代でもう天
下平定という速度はあまりにも異常すぎはしないかと想える。外資導入という考え方
をしたくなる。
 こういう説は前例もないから、読んで愕かれるかも知れないが、もし安芸の宮島へ
行き厳島神社に奉納されている遺物を拝観してから、ヨルダンへ行かれたら、これは
はっきりする。
 アンマン空港売店には、今でも平家の人たちの用いた楽器や刀剣と同じ類の物を並
べているし、平家の女性によって始められた、市女笠の下で顔を包み目だけ出す風俗。
つまり、被衣と称し衣服を頭から被って、他の男と視線を合わさない慣習も、堂々と
彼地にはまだ残っている。
 なにしろ源平の一騎うちなどというトーナメント方式は、あれは十一世紀まで東洋
にはなかった戦闘形式で、どうも十字軍によって中近東へ移入され、それがまた日本
へ再輸入されたものであるらしい。
(それが、朝鮮や大陸の戦闘方式でなかったことは、蒙古が押し寄せてきた元寇の役
のとき、日本武士団は、一騎がけで敵中へ突入したが、向こうはそうではなく取り囲
まれてしまい、各個撃破で皆殺しにされてしまっている)

 俗に「桓武平氏」というが、前の「士道論考」で解明したごとくに、桓武帝の御側
近は尊い百済の姫たちばかりであったり、また、「清和源氏」という呼称がでたらめ
で、清和帝と源氏が無関係であったことも、戦前、故高柳光寿氏の解明によって、は
っきりしてきたが、桓武平氏の呼称も、それと同じであろうと想える。
(高柳説は、源満仲が上げた願文の中に、「源家は醍醐帝の血脈なり」とある古文書
をもって、清和帝には係りなしと断定されているが、私は「日本武士団とは何なのか」
において、清和帝の頃に源氏はもう居た例証をあげて解明した)
 これまでの日本史は、先に「怪奇論考」で述べたごとく、「達磨大師までインドか
ら中国経由で日本へ」との見解だが、三蔵法師が中国から印度へ教典をとりに行くの
さえ、孫悟空や猪八戒らの化物を伴ってゆかねば、とても行けなかったと思われてい
た、あの未開な時代に、どうしてテクテクだるまさんが陸路を歩いて来られたろう。
 なにしろ中近東から日本まで、ゴア経由で帆船の往来のあったのは、故村上直次郎
記の、『バタビヤ商館日誌』にも、これは詳細に出ている。
 信長時代は貿易風を利用し、マカオ堺間、そして秀吉時代は九州の口の津まで年一
回の定期航路便の存在したのも、『フロイス日本史』をみればよく判る。
 また、
(この、「口の津」というのは島原半島の突端で、ここへ輸入火薬をつみこんで、
「原城」を倉庫にしていた。だから、「天草の乱」とか「島原の乱」というのは、そ
の弾薬庫を奪っての叛乱だったゆえ、「口の津」の地名を消し、「島原の乱」などと
いうのである)
 さて、やはり「怪奇論考」で飲用したごとく、『大乗院雑事記』に、天竺人某きた
る」「天草人何院の住持となる」「天竺人某、平氏の姓を賜る」といった記載が随所
にあるのは、これまたいかなる事実を物語るものであるか。
 そして、これまでの解釈では、かつて泉鏡花は、『高野聖』という小説を書いて
「聖」を聖人なみに誤ってしまっているが、高野山自体では、それらを幕末まで、一
般の僧とは差別し、「非事吏」と書いて特殊扱いをなし、御本尊を拝することのでき
ぬ目見得以下の乞食坊主とした。そしてそれがアラビア語の「巡礼使」を意味すると
ころの「ヒシイリ」であることも知られている。
 なにしろ平家が現れるまでは、日本にはろくな呪術がなかったということが、(彼
らによって持ち込まれたものではなかろうか)と、どうしても問題になってくる。
 つまり呪術が盛大になりだしたのは平家没落後なのである。文治元年(1185)
三月。彼らは壇ノ浦の海面に大きな筏のごとく船と船とをつなぎ、いざ戻ろうと風待
ちをしていた。そこへ、風より速く襲撃されてしまい、なまじ鎖で結合していたばっ
かりに船は行動の自由を失って敗れ去った。
 生き残って陸に泳ぎついた者は山へ逃げ込んだ。ところが義経も死に頼朝も死んで
源家の世が北条氏になると、梶原景時以下次々と源氏の直系は殺され追われた。
 逃亡奴隷となった連中は北条政権の目をのがれ、また各地の別所へ逃げ込んだり、
一部は山の秘境へと身をひそめた。そこで後者が呪術に関係をもつようになったらし
い。
 つまり昨日の敵は今日の友というが、秘境へ入り込んで平氏の落人部落へまぎれこ
んだ源氏の残党は、ここに呉越同舟となって、彼らからサラセンの魔法というか、占
星術などを習うようになったのではあるまいか。
 従来の日本史では、北条氏というのを源氏の亜流のごとく誤っているが、頼朝の未
亡人の政子でさえ、その死後は、北条一族によって「平の政子」と、源頼朝の妻であ
ったにしては、まったく意外な敵側の姓をつけられたごとく、北条氏というのはどう
考えても、拝火教の流れをくむ木場民族系源氏の系統ではない。
 これを例証できるのは浅草弾左衛門家記ともいうべき、『矢野内記書』にもあるご
とく、幕末に薩摩隠密の益満休之助が訪れ、
「貴下は源家の嫡流なれば」と薩摩屋敷へ協力の勧誘を求められている記載があり、
これは三田村鳶魚もその著の中に引用している。
 しかし弾左衛門は家康入国よりは隅田川向こうとなったが、北条氏の頃は今の麹町
から日本橋で、純然たる別所だったから、彼らには呪術は関係ない。つまり別所でな
い地域へ逃亡した連中が、呪師としてやがて発生してくるからである。


呪文の作家たち

 「塩尻」八十三に、
「正月万歳とて素袍烏帽子姿に祝詞を唱えるは、尾州春日井郡守山村木ガ崎の無住禅
僧が詞書を作り、それを愛知郡院内(院内または別所=原住民が収容されていた捕虜
収容所)の者らに教えしという」とあるし、
『無住大円師道跡考』なる文献には、
「天応年中に万歳樂と称し、正月を祝う謡物を作り居きたるところ、乞れて徳若とい
う者にこれを授く」といったものがある。
 つまり寿おぐ性質のものには、どこの坊主の作詞という記録があるが、さて、反体
制の呪文となると、それには作詞者名など見つからぬ。
 さて、『東寺執行日記』並びに「師守記』の貞治三年(1364)六月十四日の条
に、
「田楽法師幸夜叉が犬神人の中を通り抜けんとし、打ち殺された」との記載が共通し
てある。理由は、田楽法師その恩を忘れ無礼なり、と、それらにはある。
 漢字を輸入したのが天孫系だから、文字を綴るのは公家と仏家に限られるように考
えられがちだが、まさかそれを祝う原住系の呪師が、その案文を書いてもらいに公卿
や僧侶の許へ依頼しに行ったということはあるまい。
 どうしても原住系に書き手がいたものと認めざるをえない。すると、この犬神人た
ちが恩を田楽法師に与えたというのは、台本作者でもあったとの意味ではなかろうか。
つまり、人気につけあがった田楽法師の態度が悪かったので、彼らに、「この野郎ッ」
と殺されたのではないかと、私はそれを解釈したい。
 というのは、今日では謡物の原作者が、六地蔵の党(後述)の者ということは明ら
かにされているが、犬神人達もやはり同類だからである。彼らは祇園社づきの下人で、
『祇園執行日記』の観応三年(1352)二月の条にも、
「二十六日天気晴。法華宗の堂をうちくだけとの指図にて、そのこわし方を犬神人に
命じ用意させる」とか、また、
「うるう二月二日、一向宗のやつばらの住宅をとりこわし。二月十五日、一向宗堂の
仏光寺に寺僧公人十余人集りて防ぎの企てあり、犬神人を召しつれこれを討つべし」
とあるし、『後愚味記』や『伊勢守記』『雍州府誌』にも犬神人の名はよくでてくる。
 江戸中期寛政十一年刊の『奇遊談』と題する川口好和の著では、
「祇園犬神人。今はおたき弓矢町の辺りに多く住む。俗に『弦召』とよぶは昔よりあ
る者の筋なればなり。犬神人といわれるは、常に社頭に奉仕する神職と同じければな
りという。そもそも犬というは本朝にては、ものの相い似たるをいう意味にて、蓼
(たで)に似たるを犬蓼、山椒に似たるを犬山椒というがごとし」
とあるし、さらに幕末文政刊の、『保敬随筆』では、
「祇園会の祭礼に神輿を守り頭を白布にて包み、棒を携える六人。甲冑をまとい槍を
もつ者数知れず、げに神人に似て神人にあらず、普段は五条東杉原通に集団として居
住し、弓の弦をつくり、『つるめせ』と呼び歩くが、古来文筆のすぐれし者多く、古
写本などおびただし、されど平民とは婚姻せず」
と文筆業を兼ねていた事が記載されている。
 だが、なにも彼らは甲冑をまとい槍をもってえらいから、平民と婚姻しないという
のではない。原住民系というのは、天孫系及びそれの奴隷となった平民とは厳重に、
「通婚同火の禁」というタブーを戦前まで持っていたから、火の貸し借りや嫁とり縁
組みは一切せず、原住系の純潔な血の保存をしていたから、これはそのせいなのであ
る。