1096 論考・八切史観  8

                諷刺論考

さるめは猿真似

 公的権利をもっているオカミに対し奉って、愚民が批評的精神や抗議を、間接的と
はいえディスプレイするのが、諷刺というものだから、これは体制側権力より苛めら
れる。
 頃は元禄十一年。画師英一蝶が、
(時の将軍綱吉が柳沢邸へ度々いって、柳沢の妻と共に池に舟を浮べて遊んでいる)
というゴシップをもとに絵を描けば、「三宅島へ流罪」と処分されてしまうし、『黒
白水鏡』という洒落本で、天明四年に若年寄田沼意知が殺されたのを揶揄すれば、途
端に作者石部琴好はガチャンと手錠[手鎖?]である。
 そして、その本に挿絵をかいた政演が山東京伝の筆名で、松平定信の弾圧施政に対
して、『富士人穴見物』をかくと、これまた、「手錠五十日」という禁固刑を寛政三
年に下されてしまう。
 さて、そうした圧政下に何故彼らが、そこまで諷刺をしたかというと、
「マスコミとか作家というものの在り方は、反体制である」
のが、いつの世にも原則だったからだろう。
 とはいうものの、「名前」を明らかにして諷刺をすると、いつの時代でも公的権力
は、御礼まいりというか必ず仇をして報復的にすぐ奉行所へ引ったてる。そこで諷刺
はその煩わしさを避けるため自衛策として匿名となりだした。なにしろ愚民はオカミ
に生殺与奪の権を握られているから、それしか防衛策はなかったのである。
 そこで安政三年ペルリが下田へ来朝したのに、何ら対策のたたぬ為政者に対し愚民
共は、
「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸汽船)、たった四杯で夜もねむられず」
と無名で落首を作ったり、又はあてこすりに、
「太閤殿下が九州名護屋へ行かれ、明日は渡海、明後日こそ御渡海と、なかなか腰を
あげられませぬ。そこで『太閤は一石の米が買いかねて今日も五増斗かい明日も五斗
かい』と紙をはり出しましたる者がいまして‥‥」
などと故意に時代をくりあげて政策批判をやる辻講釈が、その諷刺のわかる聴衆の拍
手をうんとうけて溜飲を共に下げた。
 なにしろ正面に出てくるのが秀吉では、
(こやつ御政道のことを批判しているな)
と判っても、直接取締まりの対象にはなりえないからして、時代を錯誤させる歌舞伎
の手法をまねて、自己防衛を講釈師はとったのである。
 また秀吉を時節諷刺に用いたやり口には、『絵本太閤記』『真書太閤記』などがあ
る。
 低迷した幕末の政治向きに対しての、一種の英雄待望論でもあるが、といって、よ
み本の読者は何も御政道などに余りたいした関心はもたない。
 それより当時の人心は、
「文久二年に江戸へ降下したもうた和宮が、時の孝明帝の妹宮にあたられて、これま
で威張っていた将軍が、やむなく頭を下げて貰った嫁様である」
といったことに対して興味をもち、下世話にいう、「かかぁ天下」のような状態で、
若い将軍家茂が、和宮親子内親王にへいこらしているのではあるまいかと、それに好
奇心を抱いていた。つまり公武合体を愚民は皮肉にみていて、「この猿め」という呼
びかけの藤吉郎の話に、(妻ねねに頭の上がらぬ彼の面白さを読みとって)、そこが
諷刺として流行する下地になったのだろう。
 何故かといえと、今ではあまりにもこの俗書がひろまりすぎ、いまだにそれをその
ままに踏襲する横着な小説家などがいて常識化されてしまい、ちっとやそっとでは、
この理由は説明しにくいが、(猿め)は秀吉の顔の事ではなかった。彼は猿ではなく、
犬みたいな尖り顔だったのが本当で、これは日本へ来た朝鮮使臣による「両朝平壌録」
や「徴瑟録」といった当時の報告書にも明記されているとおりである。
 なのに、講談や黄表紙のよみ本が故意に、「猿め」「猿め」と何故やったのかとい
うと、これは『続日本紀』の中に[どの部分かは不明]、
「小野族主つつしみ申す。異姓の猿女族の女どもが、わが小野姓の男をみな誘いだし
てまぐわい、これを連れ出し今や小野一族は滅びんとす。乞う取締まられんことを」
とあるように、日本原住系の一部族に、「猿女族」という女天下の種族がいて、現代
で言うならボーイハントをして男をひっかけ、これを「夫」という名の奴隷にしてい
たものらしい。
 これはのち、「猿女神」として祀られるようになるが、宮中にあっては、大嘗祭や
鎮魂祭に奉仕する女官名として伝わり、民間では、浄瑠璃の「神霊矢口の渡し」の場
でも、
「船の底をくりぬき六社めに、さるめを引かせて」
とあるように、(栓をかったら抜けない穴)つまり一度でも契ったら離れない相手と
か、それから転じて多情女の意味にも用いられ、井原西鶴の『好色一代女』には、
「風呂屋のもの(湯女)を、猿めとはいうなるべし」
とも出ているが、時代が下って幕末に近い安永九年に刊行された山東京伝の、『団子
兵衛御ばばの焼餅噺』になると、
「かかに頭の上らぬ亭主野郎を、さるめとはいうわいな」
はっきり出てくる。
 つまり藤吉郎へ猿め猿めと言わせるのは、おねねに頭の上がらぬ藤吉郎を、はっき
り猿めと、揶揄する事によって、時の将軍家への諷刺に置き換えていたのだった。
 ところが、明治に入って欧米式動物園ができ、猿が一般化し誰にでもすぐ見られる
ようになってくると、日本の歴史家は猿女の語源を知らず、下品な顔といった意味あ
いで秀吉を「猿面冠者」にしてしまった。


ハプニング諷刺

 しかし、「日本史」というのは、猿女と猿面を混同するくらいの事は珍しくない。
なにしろ明治十九年に、今の東大の前身にあたる「大学予備門」に雇い入れたドイツ
人グロートでさえ、非常に不思議がって、
「貴国では西欧の歴史ばかり教え、最高学府の大学でさえ自国の歴史を学生に授けな
い‥‥日本には歴史を伝えるものはなきや」
と、時の首相伊藤博文に質問したところ、
「うん、それもそうじゃ。何処の国でも歴史というものはあるでのう‥‥」
と、明治十六年に欧州見聞旅行をしてきたばかりの当時の新知識伊藤博文はうなずき、
明治二十一年四月に首相を黒田清隆に譲って、枢密院議長になるや、直ちに「日本歴
史を作れ」と天下に号令した。
 ところが日本に純粋歴史家はまだいなかった。そこで、かつて新井白石が、徳川六
代将軍家宣に侍講するために綴った、
(徳川政権の合理性を説いた『読史余論』三巻)
が歴史作りの定本となった。このため、
「慶長十五年洛ヘイ[サンズイに丙]にて野子(史)三白誌す」
という奥書のある『日本書記』が、新井白石の文献としてここに採り上げられたので
ある。書紀が720年製というのは一つの仮説であって、白石が見つけた日本最古の
ものは江戸初期のものであったのである。
 次いで、国学者から提出された本居宣長の教典の『古事記』も和漢併用の形で採用
された。双方共に、教科書裁判で原告家永教授が、
「客観的に史実を伝えたものとは認め難い」
と主張したように、同一内容らしいが、くいちがいが甚だしくあるのは、例えば、
「やまとは国のまほろば、たたなづく青垣、山こもれる、やまとし、うるはし」
の御製は、
「日本書紀では景行天皇さまの国褒めの歌」
「古事記では日本武尊さまの望郷のおん歌」
といった具合だが、伊藤博文が、この二つをもって根本史料と決めてしまい、『憲法
義解(ぎげ)』を公刊させ、これを<正史>となした。
 つまりグロートに提案され、慌ただしくインスタントに作られたものだから、盗作
偽作の考証もされぬままに速成されたうらみがある。
 恐れ多い話だが、わが雄略天皇の御勅語すらもオール漢文であって、これが、中国
の、「漢の文帝の勅語」とまるっきり一字一句も違わない。
といったような甚だしい例から、いろいろ混同されてわけの判らぬ点が多すぎる。
 これは原作者の新井白石が、
「本朝の天下の大勢九変し武家の代となり、武家の代また五変して、ご当代に及ぶ」
と徳川政権の正統性をのべた歴史を種本にしながら、片一方では明治十五年一月四日
に発布された「陸海軍人への勅論」に、
「兵馬の権は一向に武士どもの棟梁たる者に帰し‥‥かつわが国体にもとり、かつわ
が祖宗のおきてにそむき奉り浅間しき次第なりき」
と、おおみことのり遊されたのや、また、
「ふたたび中世以降のごとき失体なからんことを望むなり」
と仰せられるのと、本居宣長の『古事記伝』の中の、
「今の世は今の御法をかしこみて、けしき、行い行うゆめ」とでは、どうも矛盾しす
ぎるからして、そこを辻つま合わせるような作為のせいで混乱したものらしい。
 さて、この影響なのか、小説家ならば文藝協会から追放される羽目となったり、又
は「頭を丸坊主にします」と詫びねばならぬような事をする歴史屋も出てくるのであ
る。
 だから日本歴史というものは判ったようで判りかねる個所がきわめて多すぎる。つ
まりイエズス派から日本へ来ていたフロイスの日本報告書などでは、
「この国の女人は男より権力があって、先に歩き、従者のごとく夫はその後より従っ
てゆく」
「ダイミョウとよばれる領主にあっても、奥方が夫に金を高利で貸しつけて、その殿
様の位置を奪ってしまう者もすくなくない」
などと魔女狩り全盛のヨーロッパから来た彼らは、しきりに日本の女上位にびっくり
して本国へ報告したものが、今では邦訳もされている。
 しかし歴史家は元禄以降の女大学時代もその以前もごっちゃにしてしまって、
「戦国時代の女は哀れだった」などと、今になってさえ誤ったりしている。


ええじゃないか

 天明八年(1788)老中筆頭松平越中守定信が、本所吉祥院歓喜天に願文をあげ
た。
「なにとぞ米穀の融通よくなり下々の難儀がおきず、世の中が静かに治まりますよう。
定信の命はもとより妻の命も捧げ心願仕候」
といった内容のものであった。
 これは前の田沼意次の高度成長インフレ政策のひずみで、諸物価が暴騰し、大坂や
江戸のような都会でも、打ち毀しといって、現在「交番」にあたる自身番の詰所が各
所で放火破壊され、町民が暴徒化した結果である。
 『蜘蛛の糸巻』に、このルポを山東京伝が書いているが、結局この鎮圧は、町奉行
や御手先方の機動隊出動では、かえって火に油を注ぐ結果となったので、男女七歳以
上に、「米二合五勺、豆二合五勺、銀三両二分」ずつのお救いを出して鎮圧させた。
 しかし、それでは一時しのぎで、物価の烈しい値上げに収入が並行しない一般大衆
の困窮は烈しく、革命前夜の有様となったので、
(主食の米麦さえ沢山とれて、出廻りがよくなれば、他の諸物価も押さえられよう)
 今と違って単純な経済機構の時代だったゆえ、その考慮から松平定信は、その妻於
市の方の命までかけ、男女抱合つまり陰陽合一歓喜の神さまへ願文を捧げ拝んだので
ある。つまり、まだ十八世紀の政治技術では、「苦しい時の神頼み」しかなかったの
だろう。
 が、現実にはもとより何ら効果はなかった。物価はまるで競争のように値上がりを
した。そこで、現今の主婦連なら、大しゃもじでも担ぎだすところだが、当時のかみ
さん連中は、(松平定信の妻の名が於市)だったから、それにひっかけて、各広場に
集まって、
「しんぼ、こうだい寺は何で気がそれた、
 おいち毛まんじゅうで気がそれえた、
 おいちめめっちょは舐めたらしょっぱい」
 声を合わせ反体制の諷刺踊りをした。この「しんぼ」は実際には彼女らは「ち」と
発音。「こうだい寺」は、本所吉祥院へ定信が願をかけるときの取持ちが興台寺とい
う説と、「葛西の幸大寺の満水和尚」が、願文の橋渡しをしたからとの説の二通りが
あるが、「流行商人二十三番狂歌合せ」の中には、踊り廻っている群集の絵もある。
 これは差し詰め当今なら土曜夜の新宿で「ヤングベ平連」がギターを鳴らし歌った
のと同じ趣向のものらしい。
 が、女は女にひどいというが、松平定信夫人於市にしても、誰にでも舐めさせたわ
けでもなかろうに、この唄では諷刺より、もはや卑猥である。
 さて、この「しんぼ踊り」が間もなく、
「歌は世につれ、世は歌につれ」
と、ご一新の「ええじゃないか踊り」に変る。
「ええじゃないか、ええじゃないか。
 かわらけ同志がはち合うて、
 双方にけがなきゃ、ええじゃないか」
 これはしんぼ踊りの歌詞のごとくみれば、そのものずばりすぎるが、この場合の
「かわらけ」とは、土師部の子孫で捕方役人や牢番人、番太郎をやっていた棒衆。い
わゆる八部衆への隠語(どろぼうと呼ばれていた二股膏薬の連中)なのである。だか
ら、「御用ッ」「御用ッ」と追いかけ廻る彼らと、「浮浪」とよばれた脱藩浪士や郷
士といった連中は、その血統がやはり土師部と同じような原住系の末孫で、そそのか
されて上洛してきたのも多かったから、
(もとをただせば、同じ種族ゆえ、衝突しても怪我をしないようにしたら、ええのや)
といった諷刺がこれには入っている。
 もちろん、こういう有様での、ええじゃないかでは規制できないから、やがて江戸
から「鬼の四機」といったようなのが出動し、
「今宵の虎徹は血に飢えているぞ」
新選組近藤勇らの登場となるのである。


諷刺の運命

 さて江戸では万延元年三月三日。
井伊大老が桜田門外で水戸人と薩摩の有村治左衛門らに襲撃され、首をとられるとい
う椿事が起きた。これは今、大洗海岸で旅館をしている郡司次郎正という人が、
「ひとを斬るのが侍ならば、恋の未練がなぜ斬れぬ」
と、「侍ニッポン」で有名にしたし、今では歴史でも、「尊王攘夷のための壮挙」と
されている。
 しかし、これには異説がある。
有村治左衛門の母方の親類にあたる川路正之進が、明治五年に邏卒総長になったとき、
警察制度研究のため渡欧するに先立ち、「桜田門外の変」に関する錦絵や黄表紙を、
一斉に押収させ廃棄処分にしてしまった。
 その理由は、「故有村治左衛門への贈位と、その恩賜金お下げ渡しのため」であっ
たといわれる。そして、その時、強制的に没収され焼却されたものは、どんなものだ
ったかというと、
「大老は、もう降参と首を出し」とか、
「食物の恨み恐し、桜田門」
「うしくえぬ祟りで斬られいい大老」
「うしとみしこの世は雪か桜田門」
といったものだったという。これが何を「諷刺」しているのか。はたまた、それが有
村治左衛門の贈位になぜ影響があるのか?
 こと勤王の志士に関しては、ヤスクニの神さまだったから、すべては「謎」のまま
にされたきりだった。
 なにしろ、それまでの『水戸見聞実話』をはじめ、水戸藤田派の<激派>とよばれ
た人の手記では、皆目これは判らなかった。
 しかし明治四十四年になって刊行された『水戸藩党争始末』は、その反対党の<鎮
派>筆になるからして、その下巻五百四十頁に、
「水戸老公斉昭牛肉を好みたまい(肺結核になったとき、肉汁をのみ肉食をしだした
から)年々寒中に彦根より献ずる慣しなるに、井伊直弼が埋れ木小舎よりいで彦根城
主になりてより、これを一切拒む。再三使者をたてるも承知せず。よって老公じきじ
きに井伊大老に営中にて頼まれる。にも係らず、お断り申し上げるとの答えなれば、
老公きわめて不快に思召され、これより(対外政策に関しても老公は、井伊大老に)
いつも楯をつかれ」
とあるし、佐野竹之介遺墨にも、
「君恥しめられれば臣これに死す」
と激発して同志を募った経緯が述べられている。
 私はかねて、南千住駅前回向院は弾左衛門取締まりで、皮剥ぎの人達の墓所なのに、
「なぜその境内に、ずらり桜田門の志士の墓が並んでいるのか?」不審に思っていた
が、(こと牛肉から端を発したもの)と判って、成程と納得ができた。
 しかし、それでは恰好がつかぬから維新後には、時局に便乗させてしまったのだろ
う。いくら愚民どもが、「うしとみし」などと無い知恵をひねって諷刺なんかしたと
ころで、オカミはえらいもので、歴史でも何でも思うが侭に変えてしまう。諷刺とは
その外側で舞うシャボン玉でしかないらしい。




                  怪奇論考

ああ粉砕

 「歴史」はくり返し再現するものという。だからでもあろうか、三十余年前の、日
支事変大東亜戦争へと没入する前夜が今と同じような、「エロ、グロ、ナンセンス」
の時代だった。
 本屋の店頭には、『春本肉蒲団』とか『デカメロン』といったものの他に、フィリ
ップの『ビュビュ・ド・モンパルナス』や、ケッセルの『昼顔』、ロレンスの『チャ
タレイ夫人』も、エロという角度から売られ、山積みされていた。
 そして、伊藤晴雨の、女を縛って責める絵が売物の怪奇雑誌やグロテスク誌、それ
に中村メイコの父の、中村正常のナンセンス小説が『ユーモア雑誌』に氾濫していた。
 しかし、砲声一発。エロもグロもナンセンスも一瞬にして粉砕。
「見よ、東海の空あけて、旭日高く輝けば」と、勇ましい時代になると、
「勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからは、手柄たてずに死なれよか」
と、学生までがゲバ棒ならぬ廃銃を担がされて、校庭から営門へ、学徒動員というパ
ターンの死の行進を強いられてしまった思い出がある。
 が、こういう例は、昭和十年代だけではない。その七十年前にも同じ現象があった。
歌川国芳描く妖怪画があたり、芝居も、「うらめしや伊右衛門どの、ヒュルヒュル」
といった怪談ものが全盛をきわめ、「カランコロンと音させまして、お露の亡霊」
講釈の世界でも、牡丹灯篭をはじめお化け物の怪奇ムードがひろまり、本郷団子坂下
の、「菊屋敷」の見世物さえ、「八幡の薮知らず、お化け大会」をやって客寄せをし
た。
 エロの方では、本所回向院の見世物で、「裸女入湯の場」というのが一年半のロン
グランをうった。人形師安本亀八の細工で実物そっくりに、縮れた毛までが貼ってあ
った。
 が、地方へゆくと、そのものずばりで、「それ突け、やれ突け」と、女が三味線を
ならして、己れの股間を火吹竹で吹かせたり、たんぽをつけた細竹で中央湾曲部を突
かせ、女もそれをそこで咥えて客と張り合いの藝をしてみせた。
 ナンセンスの方は、黄表紙の滑稽本というのがでまわって、これが大いに読まれ、
また「梅坊主一行」の旗をたて荷車をひっぱった一団が、あちらこちらで筵(むしろ)
をしき、
「かっぽれかっぽれ、甘茶でかっぽれ、ヨーイトナヨイヨイ」とか、
「かんかんのうきゅうれんす‥‥きゅはきられす‥‥さんしょならえ、さあいほう」
 まったくナンセンスそのものを流行させ、
「ええじゃないか、ええじゃないか」では、
「ええじゃないか、ええじゃないか。亭主に知らせにゃ、ええじゃないか」
 フリーセックス謳歌をしているうちに、鳥羽伏見で砲声一発。
 好色、怪奇、滑稽も一挙に粉砕。
「宮さん、宮さん、おんまの前に‥‥」という薩長軍楽隊の行進曲のもとに、「明治
軍国主義」のスタートが、ここに切って落され、やがて近代日本といわれるこの一世
紀の間に、同じ様なくり返しが重ねて起きた。つまり、
「二度あることは、三度ある」といわれるが、現代も映画といえば、エロダクション
ものの全盛であり、あらゆる中間誌はエロ小説で売行きを競合している。
 そして絵画の世界でも、「幻想藝術」の名のもとに、ムンクやアンソールといった、
(恐怖感と不安)を反映させたものから、「キリコの予言者」「エルンストの祭典」
「ダリの内乱のきざし」そして「サザーランドの茨」「ラムのジャングル」といった
ものが、反抗への怪奇といった評価のもとに支持され、「一寸法師」とか「芋虫」と
いった江戸川乱歩の異常世界が再認識され、ユーモア小説はろくなのが生まれない代
りに、流行作家の頭の良いのはナンセンスものにはしり、そして世をあげて、今や
「漫画ブーム」の時代でもある。
 だからして、かつて審議することもなく、「大学法案」を僅か二分で参議院までが
成立させてしまったような電撃方式をくり返されたら、「徴兵法案」も石原慎太郎自
民党議員のいう、「妖刀村正の切味」で、すぱっと瞬時可決されてしまうというもの
である。
そして、「自衛隊に入ろう入ろう。自衛隊に入ればこの世は天国、男の中の男はみん
な入って」
 スクラムくんでフォークゲリラ活動していた若者らが、今度は止むなくしおしお入
ってくるようになろうが、
「きさまらっ、甘ったれるな」と散々にぶん殴られ蹴られ洗脳され、
「死んで帰れと励まされ、さめて睨むや敵の空」といった具合になるかも知れない。
そして、男の中の男でなくとも、ただ単に外見的な男性機能さえ揃えておれば、まぁ
それでよいのだからして、そうなると、
「自衛隊に入ると、毎月一万円の小づかいを使っても、五年たてば百五十万円たまる
‥‥月五千円の小づかいで済ませれば五年で二百万円できる。さぁ今すぐ志願票を、
地方連絡部事務所何某までお出し下さい」
と貸付信託の定期預金勧誘みたいに、苦労してあれこれ集めなくともすむ。
 なにしろ徴兵制なら一枚七円程度の葉書で、片っ端から召集できるから、やがてこ
のコンベアシステムにきり変えられてしまう恐れがないでもない。


怪異への告発

 さてエログロナンセンスが最高潮に達すると、きまって反動国粋主義がそれにとっ
て代って、弾圧の世となる。すると直ちに、昨日までは公然だったそれらのものが取
締まりの対象となる。もちろん止めろといわれて、はいと素直になくなるわけはない。
余煙がくすぶってアングラ化する。秘密出版といった形式をとってレジスタンスを続
ける。
 特にグロは、ローマ時代の反体制の連中が洞窟へもぐって、そこの岩壁に憎悪と呪
詛をこめた怪奇なアラベスクを彫りつけていたのが十五世紀末の発掘で露わにされ、
「Crotteschi」つまり<洞窟(グロッタ)の絵>として、これがグロテスクの語源と
なった。
 だからして今でも、反抗するもの、つまり、「グロテスク=反体制」という見解さ
えある。しかし日本においては、これは誰一人として今まで指摘していないが、まる
で違うのである。
 つまり幕末までは、「怪奇」という言葉さえ存在しない。明治にできた新造語なの
である。それまでは、「怪異」とか「怨霊」「化け物」「もののけ」という呼称はあ
るが、そのものずばりの、「怪にして奇なる→怪奇」の用語はない。
 これは、なぜかというとヨーロッパにおいては、
「グリューネヴァルトの<キリスト磔刑>」「ハンス・ラホンの<キリスト鞭刑」
といった残酷ムードを漂わせたものがゲルマン系のものにはないではないが、一般に
はキリストもマリアさまも、共に温かな崇高さを具現しようとしている。
 つまり<神>は、きわめて<非怪奇>な存在であり、聖にして純、ノーマルであっ
て、その全智全能の神に対する反体制の悪魔だけが、
「ぶなの木の下で黒ミサをひらく妖怪」
として、かぎっ鼻の魔女であったり、角をはやした怪物だったりする。
 つまり、「神は温和か被害者の受難のさま」を示し、「異端」とか「外道」とみな
される悪魔の怪奇さが体制側からは、敵視される存在とみられているのである。
 ところが日本においては違う。この国においては、ヨーロッパと反対に、「怪奇」
こそ体制側なのである。といって国民の投票による選良が、加藤一郎東大学長以下こ
ぞって反対する「大学運営臨時措置法案」を、あっさり立法化してしまうような、強
引きわまるところの、(この日本の国の恐ろしさ)や怪奇さを、今は論じているので
はない。もっと歴史的にさかのぼっての話である。
 京都の東寺(教王護国寺)にある、「軍荼利明王像」のごときは、六本の腕と三つ
の目をもっているし、観心寺の「如意輪観音」も六本手である、
 さて、「降三世明王像」となると、「七面八臂」には少し不足するものの、両耳や
後頭部でなく代りに顔が四つあって、肩も八つ、付属する手は八本もある。それでも
力が余るか、足の下に「シヴァ神とその神妃ウマ」を踏んづけている。
 また、これと似て、食いつきそうな怪奇そのものの顔をしているのに、「馬頭観音」
があるが、「十一面観音」となると、四方につけても四面だから、頭上に十面を帽子
のごとくのせる。
 さらに怪奇のレイトがエスカレートされ、「千手観音」というマングローブのごと
く、腕から腕へと密生する怪奇極まりないものもある。
「‥‥有難い仏さまだ」という先入観があるからこそ、近寄って拝することもできる
が、予備知識がなかったら、怖くてよりつけない。
 つまり、ヨーロッパでは「怪奇」というものは、神とか国家といった公的権力に対
し反撥抵抗をする具象としての異端なのだが、「日本列島」では相反している。
 いくら顔が四つも十一もあり、手も八本どころか三十六本もあるお化けでも、「怪
奇」そのものが、日本では拝まれる立場におかれているからである。
 もちろん、「地獄図絵」といったものにしても、「公的権力」を象徴する側のエン
マ大王は、髯もじゃ程度だが、その権力行使機関にあたる警吏たるや、頭上に角膜に
おおわれた隆起物をはやし、口から糸切り歯が鋭く露出した容貌をし、紺色の外装を
して、これは「青鬼」と呼ばれる。火の山地獄の方だけ赤鬼というのがいるが、人間
でさえ白人、黒人、黄人しかいないのに、赤と青とではカラフルすぎて、「グロテス
ク」というか怪奇でしかない。
 ヨーロッパなどでは、かかる輩に対しては、ジーグフリードか何かが、
「寄らば斬るぞ、さわらば倒すぞ」
片っ端から薙ぎ倒してしまい、「悪鬼退治」という手に汗を握る活躍場面にもなるの
だが、日本では全然違うようである。庶民の方が鉄棒でこづきまわされ、無間地獄や
孤独地獄に落されたり、抵抗もしないのに針の山へ追われたり、血の池へと規制され
て放りこまれ、鬼の方が勝つのである。


怪奇な時代

 さてヨーロッパでは人間が優先し、怪奇はそれによって征伐され、滅ぼされてゆく
カテゴリーに統一されているのに、日本だけはなぜ、
「怪奇が生前も死後も絶対権力をもち、人民たるものはあくなき呵責にあわねばなら
ぬのか」そしてまた、
「ヨーロッパでは反体制と目される怪奇が、なぜに日本では公的権力の側にあるのか?
」
 どうしても、そうした素朴な疑問を抱かざるを得ない。もちろん識者にかかれば、
「顔が四つも十一もあったり、手が六本も何十本もあるのや、牛頭観音といったもの
は密教のものであり、地獄図も日本古来の物ではなく輸入品にすぎぬ‥‥」
 かもしれぬ。が、これは日本列島へきた天孫系が、「お化けだぞぉ、こわいぞ」と
原住民族を威嚇するために、「怪奇」が利用されたのを日本歴史が匿しているから判
らなくなるのである。
 もちろん催涙ガス銃を水平うちにされたり、棍棒やジュラルミン楯でやられるより
は、子供脅しのごとく遥かにましではなかったろうかと思うのは、それは1970年
代の思考である。
 1200年前、きわめて単純だった原住日本人は、頭が四つもあるのや、手が何十
本もある怪奇さを見せ付けられ、それにどれ程まで怯えたか、これは想像にあまりあ
るだろう。

 なにしろ七世紀から八世紀にかけ、一応は制服された原住日本人がまた反乱し、箱
根の山をこえ清水港のある清見潟にまで進出。
 ここで朝鮮半島の三十八度線のような境界線をしき、北日本と南日本が対陣した時。
紀ノ古左美征東大将軍は五万の天孫軍を率い北征し全滅。よって大和朝廷は、当時は
天険だった山背国長岡へまで疎開あそばされたものの、延暦十年(791)百済王俊
哲が前参議の韓人坂上当麻呂(苅田麻呂)の子の田村麻呂を通訳兼ガイドとなし、当
時の大陸機甲軍団をもって討伐。三年後には、ようやく朝廷は、今の京都に王城仏徒
をたて、平安京とし移転遊ばれた。
 まことにめでたい話だが、またこの延暦年間ぐらい謎に包まれた「怪奇」な時はな
い。中国の「易書」という有名な文献には、
「辛酉これ、易世革命の年」
という定義がある。
 それに便乗したのか、西暦782年の一年前の781年には、「天応六年、辛酉」
となって、四月に、それまで七十年続いた天智天皇は光仁天皇をもって、「しのびが
たきをしのび」という終戦の御大詔のような感じもするところの、
「かかる際には軽挙妄動してはならぬ。おのが氏族を滅ぼすような結果にもなるから、
隠忍自重せよ」と、みことのりを発せられて、「皇位」を山部親王さまにゆずられて
いる。
 親王御生母は百済人高野新笠だが、光仁さまの御子となっている。だったら自分の
お子さまに譲位されるのにしては、悲壮な御勅語はおかしくも想える。なにしろ時に
光仁さま六十歳。山部親王は四十七歳だが、ご長子に間違いないのなら、これは当然
の順位である。
 なのに、天応辛酉(てんのうしせいの読み方がある)の翌年は改元され、延暦元年
になるが、その正月に、「天武帝の孫の氷上川継」をもって皇位にたてようとした首
席公卿の左大臣藤原魚名父子、参議原浜成が騒乱罪によって次々と処分されている。
 そして桓武帝となられた山部親王の女御は、「百済王俊哲の姫の教法」にあらせら
れ、「女嬬」と申し上げる後世の第二第三夫人にあたる御方も、やはり百済王の孫姫
の「真善」「真徳」「貞香」の女性達で、「宮中取締まりの掌侍」つまり女官長は、
「百済王敬福の孫姫の明信媛」と、祭事一切を司る宮人も、恵信、明本といったその
同胞にあせられる。あとの「平城・嵯峨」の帝にあらせられても、やはり百済家の姫
君達が入内して居られる。
 なのに日本史では、桓武帝の甥にあたる百済王和乙継の孫の家麻呂が、(中納言に
任官)した事実をもって、「蕃人相府に入るこれより始まる」という。
 しかし、そんなことをいえば、坂上田村麻呂の父の大麻呂はとうに参議だったし、
和気清麻呂だって、吉川弘文館の人物叢書によれば、ちゃきちゃきの朝鮮系なのにお
かしい。
 が、それよりもっと怪奇なのは、「延暦七年」というのは、『続日本紀』によれば、
原住民系の叛乱鎮圧のため、七月六日に五十六歳の紀古左美へ大命降下、十二月七日
には討伐のおん勅書と節刀を下賜されている非常時なのに、「比叡山のてっぺんに延
暦寺創建」という一大土木工事があったという不思議さである。現在ならどんな難工
事であっても、予算さえ充分に出せば、大林組とか清水建設といった会社がうけおっ
て施工する。しかし788年に、そんな大規模な土建会社がある筈とてない。
 歴史屋は信者が営々として山頂まで石を運び、彼らの信仰によって造営というが、
順序は、「延暦寺」という寺が先にでき、それから信者が生まれたのである。現在の
天理教の「ひの寄進」のような発想の結びつきはできないのではあるまいか。
 また、『日本後紀』によれば、
「最澄入唐は、その十六年後の延暦二十三であって、そして翌年帰国した」
とある。
 ところが現代になると、その『日本後紀』は間違いであり、「東大寺開祖の良弁」
や「行基」上人などと同じく「最澄」も朝鮮人であったのは、中島利一郎の著にも解
明されていると金達寿は、「日本の中の朝鮮」に書いている。
 しかしこれまでの日本史はデフォルメで、開祖の上人がみな朝鮮人であったとして
も、まだ天台宗が生まれていない時に、天台宗の信者が実在して、エンヤコラと材木
や巨岩を山頂まで運ぶわけがない。常識をもってすれば、エジプトの「ピラミッド」
と同じことで、あれは朝鮮人が日本人を奴隷として使役してこしらえたものとしか考
えられない。
 それに、その奴隷たるや、延暦十年の百済王俊哲の討伐軍によって、捕虜にされて
きた原住日本人の群れだろうから、施工年月たるや実際はもっと後世でなくては辻つ
まが合わぬ。