1095 論考・八切史観  7

                どろぼう論考

悪徳なりや
 叱られた子供の頃の記憶をよび戻してみると、自分では何の意識もないが、他所か
ら物をもってきたり、他人から取り上げてしまった物の事で、とても怒られている場
合が多い。
 なにしろ、そういう時の親どもたるや、
「こんなことをすると、お巡りさんにつれてゆかれてしまう」
涙をこぼさんばかりにして、真剣に叱責したものである。だからして、三つ子の魂百
までというが、幼児の強迫観念は心理的に圧迫感を残し、
「他人所有の物をとってはいけないんだ」
といった考えが根をはやしてしまい、「盗みとは、悪徳なり」と思い込まされた。
 そこで、そのつもりで人間形成されて、やがて大人になって驚かされることは、
「盗んだからといって、なかなかお巡りさんに捕らえられない」
ということである。
 三億円位にもなれば探してくれるだろうが、三千円や三万円程度では、「盗られま
した」と交番へかけこんでも、被害届けもあまり受付けてくれない。
 というのは、向こうは届けを受理すると、捕らえて始末しないことには一件落着と
はならぬ。しかし、そうそうは捕らえられるものではない。だから、そんな事で未処
理を迷宮事件など増やしたくはないからして、
「ああ、そうですか、そうですか」と手帖に鉛筆でかいてくれるきりである。
 処が、その泥棒が何処かで捕えられ、当人の口から彼処で此処でと自白されると、
話はまた別になってきて、「裏づけをとる」というのか、電話が掛かってきて呼び出
され、
「どうして正式に被害届を出さなかったのか」
 頭ごなしに叱りつけられ、今度は親切に被害届まで向こうで書いてくれ受理される。
どうも、盗みというのは、親の教育とは違い泥棒が捕らえられない限りは、重視され
ぬというか、きわめて軽く扱われるものらしい。そのくせ学生が騒ぐと、立入要請や
被害届がなくとも、おしこんできて逮捕してゆく。そこで、
「何故に泥棒は軽蔑されて捕らえてもらえず、学生の方が優先的扱いになるのか」
「親の小言と、なすびのへたは千に一つのむだもないというが、泥棒よりデモの方が
なんだというのはおかしいことではないか」
「嘘をいう親なんか信じられるものか‥‥ああ断絶の時代なんだなあ」
と今はなっているようである。

 もちろん警察機構は、司法警察と行政警察に分かれている。泥棒とデモは同じでは
ない。といって、警官が無尽蔵にいるわけではない。6・23のときには泥棒を捕ら
える筈の交番勤務までがかりだされて永田町へ行った。だからといって三億円犯人捜
査のため、機動隊がトラックで出動したという話はきかぬ。これは何故かというと、
六法を開けば判ることである。
日本国刑法は、第一章の皇室に関する罪はなくなったが、第二章内乱に関する罪から
始まって、第四十章までの罪名がある。そして学生ゲバ騒ぎは第二章の内乱や、第八
章の騒乱罪に該当の疑いがあると、重大視されるらしいが、これに反して、「窃盗ニ
関スル罪」は、なんとラストから四番目。つまり三十六位のランクでしかない。
 ところが外国では、「モーゼの十戒」に、「汝盗むなかれ」が入っているせいか、
カトリック国では、もうすこし「泥棒」は警察から尊重されているらしい。
 そこで映画でも外国ものになると、造幣局を襲うとか、盗みのテクニックだけを種
々扱ったものが多い。しかし日本映画は、「盗み」だけでは、筋立てがとても成立し
ないのか、決って「殺し」が入る。
これも日本では盗みがあまり重視されず、軽くみられているせいではあるまいか。


テレビで盗作と

 なにしろ私共の親は頭ごなしに、「盗みは悪徳」と決めつけて教育したが、万引き
する女性たちは、その行為を、「すばらしいエクスタシー」という。事実私なども学
生の頃は喫茶店の灰皿を、そっとポケットへ入れてくる時のスリルは、今でも忘れら
れない位の愉しさがあった。つまり『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンに同情
できるのも、誰もが盗み心をもっているせいかもしれない。が盗みに対して公平とい
うことはないらしい。
 というのも、(もし暮らしに余裕のある者)なら、再犯の惧れなしとして、出来心
と認められ許されもするが、生活困窮者の場合は、また暮らしに困って再度くり返す
ものとみられ、社会隔離のため実刑が課せられるからである。
 さて以前竹内某というのが盗作をしたとY紙に調査され葬られたが、前代未聞の話
だが、盗作された人間がテレビで黒白をつけるというハプニングすらあった。畠山晴
行が自作『埋蔵金物語』と、その時の資料を風呂敷包二つ積みあげ、
「あんたの新刊は、私が面白半分に作ったのまで事実と間違え、そっくり内容も文章
も同一ですね。こりゃ引き写しというより、完全まるまる盗作だア、あっはっは」
とやった。
 さて対する老人が某大学教授の文学博士だから、テレビをみていた人たちは、
(畠山より文学博士の大学の先生の方がエライから‥‥何をバカなと論駁するもの)
と固唾をのんで画面をみていたら、無言のまま博士は顔を伏せてしまい、カメラも周
章ててそこで角度をかえてしまった。テレビの画面で、こんな具合に、盗作よばわり
されたのは空前絶後だが、竹内のような生活困窮者と違い、博士は資産家だから、畠
山の許へは菓子折一つもって詫びに行ったきりで済んでしまっている。
 文学博士で大学教授だから、もうしないだろうと見なされているのだろう。
とはいえ、フィクションの小説家には盗作がきびしく、ノンフィクションの筈の歴史
家のその盗作は問題にされぬところに、日本における盗みの判断の難しさがある。

 これは作家は反体制で、大学教授は体制側だ、という既成概念によるのかも知れぬ。
羽仁五郎は、その著『都市の論理』の「古代都市およびルネサンスの都市」で、
「奴隷制国家においては公的権力が発生。国家は奴隷をもって憲兵、警察官にした」
と述べているが、日本とて同じ事である。
 天孫民族が日本列島へ入ってきて、「撃ちてし止まむ」と征服した原住民族のうち
で、農耕奴隷にされたのは、「田夷」後には「ど百姓」とよばれた。ところが、百姓
を嫌がるのもいた。これが、「はち」である。八部とか蜂、鉢、八弥いろいろ当て字
されるが、戦国期は足軽。江戸時代は「御用ッ」「御用ッ」と棒や十手をふり廻し、
牢獄吏も司っていたし、町方や番太郎もこれである。
 だから前述したが、映画や芝居で、
「おのれ不浄役人めッ」とか「不浄の縄目」などというのも俘囚の末ゆえ侮ってのこ
とである。
 もちろん今は違う。明治七年から警察制度が代わったからである。が、その為に前
の旧幕警察官は家族もろとも村里から苛められ迫害された。
 さて旧幕時代の捕方番太郎御用聞の類は、「犬」と呼ばれるように「犬殺し」も兼
業して皮剥ぎをする部族をも仲間に持つ、「白山信仰」と「八はた信心」だった。薬
師瑠璃光如来系統の東光もこれに入るが、映画などでは大山詣りなどと白い上っぱり
を着たのが出てくる。
 このように俘囚の裔の原住系は、「白」を民族の旗としていた。それゆえ、「白旗
党余類」などと、足利時代の公卿さんの一条兼良日記に書かれている連中である。
 なぜ彼らが白を用いたかというと、天孫系と共に日本列島へ入ってきたのが、「墨
染めの衣」をまとった連中ゆえ、これに反撥する為だったと考えられる。
 さて、それまでも各地の大名領や天領で、「はちや支配」「はちぶ支配」の名のも
とに、原住系の御用役人が二本差しの恰好で非違を取締まっていた。
 ところが亨保二十年(1735)十一月からは、白の部族である香具師に改めて十
手捕縄が預けられ、これが諸国道中の検察官になった。そこで、点の存在だったはち
や取締が、街道すじ線とつながって全国的に、「体制側つまり白の側の部族」は、窃
盗ぐらいは大目にみられるという慣習ができたらしい。
 これは被圧迫原住系には、天孫系とは通婚同火をしないというタブーの他に、「同
族相討たず」の相互扶助の掟が、厳としてあったからである。つまり、村や街道で、
「私の物を盗まれました。これが盗人です」
と役人に自分で捕らえて突き出したにしても、それが(原住系)と判ると、役人はす
ぐ、「白だ」とその場で釈放してしまった。そして、あべこべに盗まれた方が不注意
だと逆に叱責された。
 「殺し」などの重犯罪で、どうしても犯人をあげねばならぬときは如何したかとい
うと、「白でないのを」と寺関係をみつけてきて、「黒だ」と処分をつけてしまって
いた。
 だからして、旧幕時代は、体制側の盗みは全然問題にならず、したがって一般的に
も、盗みに対して、「悪の意識」のなかったことは、「白浪五人男」勢揃いの場でも、
「盗みはしても非道はしねぇ‥‥日本駄衛門とは、俺がこったア」とやる名ぜりふで
も判る。これを聞いて、「音羽屋ア」「成駒屋ア」の声は掛るが、「盗みと非道とは、
どこが違うのか?」などと率直な疑問を、舞台に投げかけるような人はまずいない。
これはどうしても、「盗みという行為」は、悪事とは程遠く、「非道な所業」とは当
時はみられていなかった為らしい。


天下の権

 よく江戸期の道中記などに、「護摩の灰」というのがでてくる。これは、『太平楽
府』に、
「鈴鹿(峠)雲助多し、山中賭博を催す、勝負終れば焼火(たきび)にあたり、散じ
て護摩の灰を作る」
とあるところから今では、
「道中で旅人に馴々しく近寄って金品を盗む輩にして、胡麻にたかったハエのごとく、
その見分けがつきにくかった」説と、
「有難やと護摩の灰を売り歩く徒の仕業」
の二説があったからである。
 なぜ、こういう異説があるかというと、「盗られ損」つまり道中で胴巻をとられて
も、絶対に犯人はあがらず、また盗られた物も戻らず、「護摩木を焚いて燃して煙に
なるよう」雲散霧消してしまうかららしい。
 特に護摩が出てくるのは、白衣をひっかけた修験者というのが、「お祓い」と称し
て、すぐ呪文を唱えて護摩をたき、道中を巡っていた為だろう。
 さて、江戸時代は、道中は別にして、江戸府内では、坊主や神官は寺社奉行。百姓
は勘定奉行。町人は町奉行と三手に分かれていたが、「単純窃盗」つまり盗みだけで
召捕り処罰、というのはあまりない。
 他の件に連座したのが、そちらでは起訴できぬため、盗みをもって主罪としたよう
なものしか、記録には残っていない。
 例の鼠小僧次郎吉の犯科にしても、金を盗んだ方はつけたしで、数々の大名屋敷へ
忍び込んだ不法侵入をもって、死罪とされている。
 まだ慶応に改元されていない元治二年三月二十ニ日に、本所中の郷の上月小藤次の
許へ忍びが入り、三百両奪われるという事件がおきた。単純窃盗なら放っておかれた
ろうが、「その三百両は公金にて」と金座役人である上月が訴えでたので、そこで町
奉行池田播磨守が、召捕方の手配をした。
 さて入牢させられた青木弥太郎は、知らぬ存ぜぬで四年間通したが、慶応四年三月
二十一日になると、評定所三手掛宛に、
「官軍が江戸へ入ってくると牢獄も彼らに荒らされるは必定。そうなってからでは間
に合わぬから、今のうちに盗みのごとき罪では恐れ入り奉るが、御家(徳川)の見事
の御仕置を願う」血書を出して打首を申し出ている。
 これでは従来講談でいう「金十両以上の盗みは打首、獄門」とは話が違う。
十両で斬られるものなら、三百両盗ったのが四年間も、のんべんだらりと未決であっ
たのは辻つまがあわない。それに、「金何両」という呼称は、箱根以東のみの話で、
西は銀本位制で「銀何両」か「何匁」である。つまり今でも領収証に金何円と書くの
も、(金十両と銀二十両は等価)で、一金とか一銀と書かぬと倍も違った頃の、これ
は名残りである。
 するとそれならば、西では「銀二十両以上の盗みは打首」との布令がないといけな
いわけだが、「浜松お七里役」のおふれ書きにも、「尾洲名古屋七間町御牢定書」や、
大阪天満の与力心得にも、そうした個条はない。

 ところが盗みはうるさくなかったが、現金現銀の交換は極めて厳しかった。
公儀は金の保有高を気にし、大坂や九州方面の豪商や大名は、銀の保有にやっきにな
っていたせいで、現在の出入国管理所のごとく箱根の関所で、これを取締まっていた。
つまり、「箱根の山は天下の険」というのは鉄道PR用の唱歌にすぎず、本当は、
「金銀取締りの強制交換をさせ、違反があれば容赦なく逮捕投獄した公的権力」これ
を、「天下の権」といったものだろう。あれより険しい難所は他にいくらでもある。
なにしろこれは、「箱根八里は馬でも越すが」という馬子唄もあるくらいで、そう険
しくはない。
 さて、馬喰又は馬借と呼ばれていた馬人足は原住系で、御用商人の関所の捕方と同
類ゆえ、(酒代さえ沢山はずめば袖の下で無事通れる)のが馬子唄の意味だろう。
『夢語』という江戸天明年間刊のものでは、
「昔の中山勘解由から山川安左衛門に至る盗賊火付改めという役目も、いたずら者を
召し捕るよりも、勤める名目を先にして、それらを下っ引きとなしたから、悪党が悪
党の手引きをなす結果となって、盗人のごときは捕らえられず有名無実となった。道
中筋にても馬方と関所の馴れ合いは目に余り」とある。
 しかし従来の俗説では、
「参勤交代のため大名の奥方を人質のように江戸へおかせていたから、<出女>の取
締が厳重で、また謀叛防ぎのため<入り鉄砲>がうるさかった」
など、もっともらしくいわれるが、これは政治的な表向きのことで、鉄砲用の火薬に
欠くべからざる煙硝、今日の硝石は日本では一粒もとれない。徳川家だけが幕末まで、
長崎の出島に限って独占輸入していた。
 だから火薬なしの鉄砲など棒きれにすぎぬから、これが江戸へ入ったところで、た
いした事があるわけはない。また大名の奥方が江戸へおかれても、国許には側室もい
るし他に美しい腰元もいる。わざわざ奥方を連れ戻したいというような、そんな奇特
な愛妻家大名が居たろうとは思えもしない。
 もっとらしい言い伝えとは、こういう具合におかしなのが多いが、さて盗みの世界
の、「スリ」つまり巾着切だけは、これまた変っている。なにしろ明治中期になって、
「仕立屋銀次」の子分が、仲間どうしの賭けをして、凱旋してきた将軍の勲章をすっ
てしまい、これに児玉源太郎閣下が怒り、「即刻一斉に逮捕せい」と、政府から緊急
命令が出る迄は、今では想像もつかぬが、当時の警官である巡邏方に附け届けさえし
ておけば、「天下御免の職人」として堂々と通用していた。そこで、何故こんなにま
で伝統的に、「泥棒は公認みたいに寛大だったのか?」という疑問が浮かんでこざる
をえない。


断絶の世界

 つまり大学教授文学博士の肩書きのある人が、テレビで盗作を指摘されても平気で
いられ、「頭を剃って坊主になる」とも言わぬ堂々たる態度、この悪びれない原点は、
(盗みはすれど非道はしねぇ)という精神のせいなのか。はたまたスリも職人である
といった、盗みを寛大にみる国民性なのかという事になる。
 そして、ここで改めて考えたいのは、「盗人と泥棒」の二つの関連性である。現在
では混同され、発音の関係上「どろぼう」の方が、かっぱらいとか行動性のある方に
用いられるような感じをもつが、「泥棒」というのは、江戸時代は今とは違った意味
ではなかったのかと想う。
 というのは、黄表紙の『滑稽七へん人』の中にある、「どろぼう上戸」では、なに
も盗みの巧いことをいうのではなく、
「酒も甘味も、どっちもゆける‥‥上戸と下戸を兼ね合わせる手合い」をさしている。
 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』では、「此方のかったのを横取りたぁ泥衆だ」ぐ
らいの用法だが、近松門左衛門になると、『寿門松』の中に、「足は泥ぼうにても目
角は強く」とある。八文字屋本の方では、「足はどれ」と、ぼうは省略されているが、
なにも盗人のような忍び足をさすのではなく、大股と小股を一緒にしたような、乱れ
た歩き方をさし、また、『伊賀越え道中双六』では、「泥あいの悲しさは表立っては」
と、今日でいう自由恋愛をさえ意味している。
 そして文化六年に刊行された山東京伝の、『本朝酔菩提』の中には、
「おまえは泥棒のようなおひとだね。新町でも女もかやぁ、湯島でかげまもだく」
とある。つまり、これは女とホモの二刀使いが泥棒だというのである。
 つまり盗人は単純に「盗む人」だが、泥棒は、どうもそれとは意味が違うものらし
い。この京伝の弟京山のものにも、
「裾泥棒とは夫ある女と、みそかごと(慌しいこと、つまり密通)するもの。向うの
夫と己れとが重ねあって裾あわせの為なり」
とある。
 もっと極端なのは安政三年版『聖天看記』で、それには、
「ニ天英雄という外題の宮本武蔵は、これ泥棒にて」
というのさえある。
 これは浅草聖天町に移された芝居小屋三座の評判記で、泥棒というのは、この場合
は、(二刀流つまり両刀使い)のことを指すらしい。

 さて、慶応四年五月(九月からは明治元年)。
奈良竜松院から高辻中納言宛提出の、『御坊聖(おんぼうひじり)旧記』というもの
がある。これは王政復古に際して、いわゆる隠坊(おんぼう)の身分解放と、それを
統轄する竜松院の権限を、全面的に新政府によって認めさせようというもので、
「行基大僧正の発願で、五畿、近江、丹波の七ヶ国に、三昧所と唱える堂をつくり、
寺も僧もない土地での葬儀は、守戸のひじりが、髪剃り小法師となって使者を扱った。
これらの隠坊は須恵(すえ)や土師器(はじき)を普段は作っていて、泥んこまみれ
ゆえ『泥坊』ともいわれ、地方によっては自立法外の者も今は多くなり、この際、統
率を許して貰わねば自今如何のていになるか計りがたい」
といった内容で、これにはっきりと「泥坊」の名が出てくる。
 これは、『振摺録』にも、「野見宿禰の土師部の子孫らが、奈良の隠坊の水上(み
なかみ)にて土器作り」とあるし、その奈良東大寺の勧進職(かんじんしき)竜松院
がそれらの元締をしていたからの申出なのである。
 つまり奈良朝から北条足利時代までは、
「土器もかまどで火入れをするから、ついでに火葬業の隠坊をつとめ、両刀使いして
いた」のが、正真正銘の「泥坊」だった。
 ところが戦国時代になると、人手不足で彼らもかり出され、「棒衆」ともよぶ足軽
に使われた。
 そして、江戸期になると、やはり六尺棒をもって寺社のお祭りの露払いをしたり、
奉行所や代官の棒もちになった。そして、番太郎とか岡っ引きとなって、「盗人を追
っかける」のが仕事となったが、時には、自分らの方がよく手口も判るし馴れてもい
るからして、
「人の物をふんだくってとってしまうは、何よりのぼろ儲け」とばかり、盗人を下っ
引きにして案内役にさせたり、また見張り役に使って、「昼は役人、夜は盗人」とい
う両刀使いをみなやっていたらしい。
 だからして、自分らもしている盗みに対して、まさか取締りも厳しくできぬから、
「あんまり派手にやりゃがるな」とか、
「盗みはしても、非道はするなってことよ」
と、お上御用をうけたまわる連中は、きわめて仁慈の精神をもって逮捕はせず、うっ
かり捕らえられてしまった奴にも、情深くして、
「盗人にも、三分の理があらぁね」だったらしい。
 だからして、「盗み」とか盗作などは、たいした事ではないという観念が、明治の
人には残っているのかもしれない。
 さて、隠坊時代には火葬と土器焼きを兼ねていたから「泥坊」
坊をもって、御用ッ、御用ッになると、「泥棒」
これでは、絵にかけば、「逃げるのが盗人で、追いかけられるのが泥棒」といった具
合になってしまう。
(鬼刑事バリンジャーのリー・マービンが、他の映画では決ってギャング役になるよ
うなもので、外国でも盗人ギャングと泥棒シェリフは同一みたいな感覚らしい)
 さて(新政府になったらどうなるか)と竜松院で心配し、全面的に保護しようと企
てたのが、明治七年になって警察制度が一変してしまうと、その危惧通りとなった。
 明治七年までの漢字の使用法は、発音に合えばよいといった当て字式なので、「蜂、
鉢、八」いろいろ文字をかくが、地方では、蔭口の泥棒は使わず、「はちぶ衆」とい
っていたから、さて明治革命で世の中が反体制側のものになると、
「‥‥あいつらは御一新まで、御用の六尺棒をふり廻し、おらの田畑から物をとって
ゆきおった」これが、「村はじき」八分というものの起りで、明治七年には全国一斉
に燎原の火の如くひろまった。前にも書いたが、泥棒もこうなると、あまり末路はい
いものではないらしい。