1094 論考・八切史観  6

何故、学生は?

 さて、今や映画館はエロダクションものでなければ、白鞘の日本刀を振り回す任侠
ものが全盛である。東映の当事者などは、あれは時代劇であると言い放つが、映画館
には、「汝の敵を愛せよ」というのだろうか、やくざでない学生の観客がきわめて多
いのである。
 彼らは高倉健が映画に現れても、掛け声をかけたりカッチョイイといった声援はし
ない。おとなしい観客であるが、熱っぽい瞳でじっと見入っている。
 だからして、全共闘の学生運動と、やくざ映画についての関連性といった事も口に
される。つまり「唐獅子牡丹」においては、主人公は白鞘の短刀を厄介になっている
志村喬に預ける程に、あくまで暴力否定である。
 だが隠忍自重して自分を押し殺していても、あくなき挑発に堪りかね、しまいには
「もはやこれまで」と、背中の刺青を出して死地へのりこんでいくのである。
 また、「懲役三兄弟」は、高倉健の扮する旅人が、病気の子供を救われた恩に対し、
その子を亡妻の里へ預けて出直してゆき、中古軍袴の恰好のまま中国人の別府東洋会
の本拠へ、殺された恩人への義理を果たしに、日本刀を抱え斬死覚悟でのりこむとい
うストーリーである。
 「博徒百人」で高橋英樹の扮する主人公も、父を殺され、義兄弟の江原真二郎を倒
された仕返しに、仇の許へ単身んのりこんでゆく。
 つまり、こうした話の組み立ては、相手が「組織暴力」で、武装も優れ、衆をたの
んで向こうの方から命令一下襲いかかってくる設定になっている。
 たとえば、長屋住まい者達が広場に集まって、皆で仲良く歌など歌っていると、こ
こは立ち退きだから座り込んだり立ち止まってはいけないと、圧倒的な数で意地悪を
され、追い立てられるようなものであるとする。
 もし、そこで抗議でもしようものなら、すぐさま、
「こっちへ来い」
と、乱暴な子分にごぼう抜きにされて、叩かれたり蹴られたりする。時には親のない
子のように、娘っ子までが引っ張ってゆかれ悪親分に苛められる。
 そこで、我慢に我慢し、耐え難きを堪え、忍び難きを忍んでいたのが、
「もう、辛抱できん」
と、捕まればどんな目にあうか判っていながら、向こうの悪い親分の家まで止むに止
まれぬヤマトダマシイで突入していき、
「男なら、桜の花みたいに散ってくれよう」
玉砕精神をもって果敢な抵抗をする。もちろん映画では、相手の悪い親分は、「あっ」
と最後血を噴いた額を手で押さえて倒れるように設定されている。
 また、画面の高倉健や高橋英樹は、「いざ」という時は、もろ肌脱ぎになるが、学
生達はあべこべで、そればっかりは真似などできない。うっかり素肌なんか出して恰
好よくしようものなら、催涙ガスにかぶれて全身に炎症を起してしまうからである。
だから、夏でも、なお暑苦しくタオルで顔まで二重に覆って突っ込まねばならない。
それに、手にするものも、三尺の秋水とはゆかず、せいぜい2メートルの角材くらい
である。しかし、心情的には、(勝ち目がないと頭から判っていても、どうしても決
起し突入するしかないのだ)といった気持ちが、<任侠仁義>の、「一人ぐらいはこ
ういう馬鹿がいなきゃあ、世間の目はさめぬ」に共通するものを、ぐっと感じるらし
い。
 学生にしてみれば、文科、法科と志願学科の選択をするように、ML、革マルをサ
ークル活動にしなければならない必然性はない。ノンポリを決め込んでいても、誰か
らも「惰情」とそしられる事もない。かえって「賢明」そのものなのかもしれないの
である。
 なのにヘルメットをかぶって、あけくれ訓練しているプロに衝突してゆくのは、や
はり、(一人ぐらいは、こういう馬鹿が‥‥)の心境と同じもの、つまり連帯的悲壮
感からだろう。また規制された場合、学生側は手出しをしなくとも捕らえられ、相手
は仕事だから殴っても罰せられないという矛盾にも曝される。
「向こうは法秩序を守る任務だから当然だ」と思うのは世俗的な大人の考えで、若い
世代の学生にそれは通用せず、
「警棒とヘルメットに身を固め、大きなジュラルミンの楯を持ち、学生の足を突き、
頭をボカスカ殴る。こんな恰好のよい仕事はない」
などと、彼らは<機動隊ブルース>を合唱しつつ、
「車の衝突でも人間の喧嘩でも、先にぶつかった方が悪いに決まっとるじゃないか」
殴られながらも不条理をおおいに訴える。つまり彼らがすぐ、カエレカエレと一斉に
シュプレヒコールを始めるのも、
(一人ぐらいは、こういう馬鹿が)とは思っても、殴られれば痛いし持ってゆかれる
のも辛い。だからして、(無病息災、帰路安全)を願い、(お祓い)の意味でのシュ
プレヒコールとは祝詞で、「退散」を祈る呪文に他ならないようにも見える。
 が、そんな呪いをかけたからとて、
「帰れ、帰れと蛙が鳴くから帰ろ」とは、それまで給料をとっている連中が「ピイッ」
と口笛一声、引き上げる筈もない。職務に忠実な側は、あべこべに、「わあっ」とジ
ュラルミンの楯をかざし、アーサー王の騎士の如く勇ましくかかってくる。
 時と場合によるだろうが、一度捕らえられると、後は向こうのペースで処理される。
学校みたいにエスケープもできない。
(危険率が高い割には効率の少ない、目先の判断では、無償みたいな行為)とは、学
生達にも判っている。そこで、(一度死んだら二度とは死なぬ)と、やくざ映画を手
本みたいに瞼に浮かべ、突入する勇気を奮い立たせるのではなかろうか。
 つまり、映画の高倉健や若山富三郎の扮する主人公が、成功報酬を貰いためとか、
金で雇われた殺し屋として殴り込むなら、とても「共感」は呼ばないだろうが、任侠
映画のヒーロー達は皆言い合わせたように、「馬鹿を承知で」淋しく微笑んでみせ、
多人数の中へきわめて少数、時には単身で孤独な斬り込みをかけてゆく。ここに観客
である学生層は若い血潮をたぎらせ、「おのが姿を影とみて」つまり高倉健や高橋英
樹の主人公に、自分の顔や姿をオーバーラップさせてしまい、主義主張とはまったく
隔絶した物語とは承知しながら、いざとなった時、整列して合唱したり、その幻想の
中に、「行くか血の雨、男の意気地」とつっこんでゆくのではなかろうかと想像され
るのである。


孤独の点と点

 昔の髷ものの任侠映画では、
「死んだ親分さんにはお前も厄介になっている。さぁ、後はかまわず男らしくやって
おいで」
と気丈に励まし、その後ろ姿を泣いて見送る母親の場面もあったが、ここ二十余年は
「出征」という現象はないし、今時、危なっかしい所へ出かけてゆく伜を、大いに励
まして出してやるような母親もいない。そこで、
「親でさえ手を出さずに育ててきた息子を、他人さまにぶん殴られる所へなどやれま
すか」
と止めるか、または、
「頭を叩かれたらバカになる‥‥後遺症が残ったらどうしますか」
と、息子をつかまえて、親は医学的に反対する。
 父親だって、『巨人の星』は漫画の世界の話で、ああいった男親なんか滅多にいな
いし、「自分の信念でしっかりやれ。捕まったら、俺が酒をやめても息子達のために
保釈金は作ってやる、安心しろ」と、そこまで物わかりのよいのもいない。
 だから、母親とも父親とも結び付かないまま、
「男がこの手を振った時は、腹を決めたという事さ。泣いてくれるなおっかさん、俺
は俺らの道をゆく」
と、やくざ映画のバックミュージックに流れる演歌に、すうっと心をもってゆかれ、
(俺の事を唄っているようだなぁ‥‥)
と、ほろりとする学生がいるのもこの為であろう。
 なにしろ日本は四面を海に囲まれている。国外への脱出は殆ど不可能だったため、
遥か昔から家畜の如く飼い馴らされ、「長いものには巻かれろ」式で、生きてきたこ
れまでの伝統の諦めをもつ親が、お上に追われるような運動に、己れの子女を加えた
がる筈がない。権力へ従順なのが良民とされ、少しでも反対意志を示せば、これまで
の日本では、「非国民」という烙印を押された過去もあったから、どの親でも、みな
心配して反対するのである。だから、当人達にしてみると、「親は何故ああなのか」
と恨めしくなり、
「俺の親が‥‥はたして彼らなのか?」
といったエスカレートした疑問までもってしまい、「時には母のない子のように」と
いった歌が、かつて流行したのもこの背景があったからであろう。つまり絶望にも似
た孤独感から、「親はあっても、なきに等しい」といった観念がどうしても生まれて
くるものらしい。だからして、現在のやくざ映画では、主人公やその同調者は、これ
ことごとく、親に死別したり生別したことに設定がなされているのも、やはりこれに
迎合する為であるらしい。
 つまり、戦後のやくざ映画や、そのジャンルの演歌は、家畜の仔としてでなく野生
の生物として解放された世代の「孤独」に合致させるため、彼らの類は類をもって集
まるというか、同じ境遇の孤独の個と個の繋がりを、しきりに強調しその連帯感を、
「親の血をひく兄弟よりも、固い契りの義兄弟。こんな小さな盃だけど‥‥」
といった表現、つまり同志的結合を義兄弟といった形で表現し、また最近の若い世代
は、男も恰好よいのに憧れるから、
「俺の目を見ろ、何にも言うな。男同士の腹のうち‥‥」
といった歌詞でそれを支える。
 もちろん親に反対され周囲の大人からも、
「そんな事をしていると、大会社や官庁に就職できなくなるぞ」
と言われて、時には自分でもむなしく感ずる事がないでもないだろうし、同じように
デモっても、運悪く捕まる者と逃げられた者とでは両者差もきつい。だから、
「ばかと阿呆の兄弟がらす、あばよで別れてゆこうじゃないか‥‥」
自嘲というか、自虐めいたのも流行するが、さて、この「義理」とか「人情」といっ
たものは、NHKなどでは浪花節で復活させようとしているらしいが、また日本には、
これが時代に逆行してカムバックする機運ができているのであろうか。演歌が怨歌に
ならぬようしみじみ考えざるをえない。




                   遊女論考

プロフェッショナル

 スキポオール空港からは遠いが、セントラル・ステーションつまり中央駅からなら
近い。向かって右のセントリュームの方角に耳をすましていると、ヘ長調に鳴りわた
る教会の鐘が聞こえる。七分間は鳴り響いているから、駅前広場の右側二本目の水路
にそってゆけば、おびただしいアベックの群れに出会う。
 そこが映画でも馴染みのい「飾り窓」である。もちろんフィルムはセットだから綺
麗にみえたが、実物は古い石造の家の通路に面したところへ硝子窓をくっつけたもの
だけのものが多い。
 そして、それが一区画ずつとびとびに繋がっている。水路といっても五米幅の運河
なみのが、その間にここからアムステルダムの町を流れ、また二町おきくらいに横に
細い水路が水を岸すれすれに満たしている。初めてここへ行った時、
「こりゃあ日本の、昔の玉の井だ」
と思った。ただ、違うところは、お歯黒溝がいつもすえたように臭かったのに、この
オランダは海面より土地が低いせいで水が早く流れるから、てんで澱んだ匂いがしな
いだけである。
 むかし日本に遊郭のあった頃、決まって入口に交番があって、うろん臭そうな眼で
人相の悪いお巡りが立っていたものだが、この飾り窓のある一画の入り口にも、「ス
コットランド・ヤード」と、英国と同名のもののセカンド・オフィス、つまり第二分
署の建物がやはりある。ただ日本と違うのは、レストランみたいなガラスばりになっ
ていて、十五、六人のポリスの勤務状況が、彼らに給料を払っている納税者の市民か
らまる見えになっている。
 さぼって煙草ばかりくゆらしているのでもいようものなら、通行人がガラス戸を叩
く。すると中からヤァと手を振って、ポリスは、何の帳簿か判らないが、まじめくさ
ってそれをひろげたりする。日本みたいに官僚主義を発揮して、「公務執行妨害罪で
逮捕するぞ」とは脅かさない。
 さて、第二分署の二階は、ジム・クラブである。警官達の武道練習所かと思ったら、
ここは別個の民間経営で、西部劇の補助シェリフみたいに、第二分署で人手の足らな
い時などは、日当で応援する事もあるという。
 ここのジムに昔、私と大学で同期だったキムとよぶコリアンがいて、マネージャー
をしている。だから私はアムステルダムへ行くと、決まってよくここへ寄る。
 するとキムも喜んで迎えてくれるが、もっと歓迎してくれるのは階下のポリスども
である。なにしろ、日本国内にそうした施設がなくなってからというもの、日本男児
は台湾の北投(ペイトウ)へ往復十万円の飛行機代を払って一晩五千円のクーニャン
を買いにいくし、オランダへ彼らがくるのも、観光用に市内には一つだけ保存されて
いる風車を見る為でもなく、またダイヤを求めるためでもなく、男性自身をスパーク
させる為にくるのが多い。
 随行員を十名あまりも引き連れ溝川の鉄柵もとれたところに、突っ立っている超一
流会社の社長も見たが、一晩にどこから集まってくるのか、日本男児は多く、なにし
ろ百名ではきかない。
 ところがオランダの貨幣はギルダーで計算がわかりにくい。そこで日本男児は気前
がよいわけでもないが、勘定が厄介だから「よきに致せ」と財布ごと出してしまう。
 当人とすれば、相手が適当にその中から掴み出しおつりをくれるものと思っての事
だろうが、女はレジスターではない。
メルシイ・ボクウ。フィーレン・ダンケ。モテル・グラツィエ。ムーチャス・クラシ
アス。どうもありがとう。女は財布ごとのいただき。チップと認めて何も返してはく
れない。
 諦めてしまうのもいるが、旅費までとられたと第二分署へ泣き込んでくるのも多い。
ところが日本人がオランダ語が苦手なように、アムスのポリスも日本語にはてんで弱
い。だからキムの友達の日本人とわかるとバッジなど貸してくれて仲裁役を頼んでく
る。ところがこのバッジさえ持っていると役得で、何処の店へものこのこ入ってゆけ
る。
 さて、アムスの飾り窓の通りに、いつもひしめきあい覗き込んで通るアベックの群
れを、初めはなんの冷やかしかと怪しみ、
(まだものにしていない相手を同伴して、もし要求を入れなければ、俺はここの女と
寝てしまうぞと脅すための作為ではあるまいか)とも考えたが、さてバッジをつけて、
カーテンを閉めたままの店へでも横から入れるようになると、事の意外さに驚かされ
たものである。
 なにしろアベックは男女一組のままで店に入り、そこで店の女から実地教育指導を
受けているので、初めは偶然かと思ったが、そうでもないらしい。
 アベックの殆どは若夫婦か婚前交際中らしく、カーテンをこしたガラス窓の向こう
を通るさんざめく群集にも頓着なく、熱心に彼らはノートまでとって教示を仰いでい
る。
 客のアベックを裸体にしてベットに重ね、店の女が体操教師のように位置を直して
いるのも見たし、店の女によって夫が満足してゆく過程を、ぐるぐる周囲を廻って覗
きこみ、その途中で交替を申し込んだ妻が、自分も観察した通りに振舞い、女からフ
ォームを直してもらっている情景も見た。日本にも「セックス・カウンセラー」と名
乗ってものを書く人もいるが、ここでは全てが実技指導である。だから「夫婦生活の
知恵」といったような本は書店に売っていないわけで、もっと判りやすく手をとり腰
をひっぱって二人にむく体勢を伝授しているのである。
 ただし、そうはいっても飾り窓の女が全部そうではなく、「Klove nier
s河岸のHoogsir」通りにかたまっている三十代のベテラン揃いのところに限
定されている。目下修行中の十代ぐらいの若い娘のところでは、まだ自分が勉強する
のに精一杯らしく、男だけで通りかかるのに、ウエスタンのカウボーイ・スタイルま
でして、「ヘイ、ユゥ」と黄色い声で呼びかける。こうして訓練してやがては人に教
えられるような立派なプロフェッショナルになるのだろう。


皇室と遊女

 「歴史」はヨーロッパでも十九世紀までは「学」ではなく、何の目的もはっきり持
たぬ単なるお話でしかなかった。
 ヴォルテールがギリシャ神話などに現れてくる超人や怪竜や、それらの魔物と戦っ
た英雄談をば、歴史としては認めない方針をうちだし、人間社会がその風土や風習に
よって左右される因果関係をモンテスキューが見つけ出した後、へーゲルの歴史哲学
である彼の相対性弁証法のもとに、Aという通史とBとよばれる裏目の反史をつき合
わせ、Cとよぶ史観を生むようになり、方法論として、これがオーギュスタン・ティ
エリによって、小説家スコットの歴史小説に啓発され、その書き方をまねた記録的実
証的なものが、今日の歴史学の基礎となった。
 日本では明治二十年代になって、それまで家系を作るための系図用の歴史、古びた
茶碗を高価に売れるようにとカタログ代わりにした歴史を追放すべく、田中義成、星
野恒、久米邦武、日下寛といった人々が「歴史」に取り組んだ。しかし、「通史」と、
その裏目の「反史」をつき合わせる事が至難というより、全く不可能だったらしい。
通史を再検討する事が、精一杯の侭で明治三十年代に入り、やがて歴史は明治軍部に
よって参謀本部の「作戦資料」となったり、各華族の「祖先顕彰史料」といった利用
方面にのみ追い込まれてしまった。
 だから日本史は戦いの歴史となり英雄の歴史となり、そして今も、茶道具の名称を
ことさらに列挙するおかしな形態をとって平然と通っている。みな賢い人ばかりだか
ら、何の益にもならない反史を調べたり、それと通史をつき合わせるような無駄な努
力をするよりも、ありふれた通俗史のままで押し通す方が抵抗もなく楽だからであろ
う。
 そこで日本ではこのために誰が悪いのか知らないが、まるで反対の事でも今も平気
でまかり通り、それが歴史と信じられ常識化されていることが多い。
 たとえば「秘境部落」というのがある。源氏に追われた平家が山中へ逃げ込んだも
のと、今ではされている。おまけに、
「おまや平家の公達ながれヨーオーホイ、おどま追討の那須の末ヨー」
といった那須の大八と鶴登美の悲恋をあつかった「ひえつき節」などが弘まって、も
はや今日では誰も疑おうとするものもない。そこで下関市の赤間神宮の祭礼などでは、
「敗れし平家の女たち哀れ、みな遊女となりました」と仮装遊女の行列さえ催されて
いる。
 だが、厳島神社に納められた遺品をみても判るように、平家というのは海洋民族で
ある。壇ノ浦でみな船にのり鎖で繋ぎ合わせたのも、折りからの貿易風にのって逃げ
る筈だったのではあるまいかと思われる。なにも海戦をするために連絡させたのでは
ない。それなのに風より早く源氏がエンヤトット小舟によって群がってきて戦になっ
たからとはいえ、いくら負けても海洋民族が山の中へ入って落人部落など作れよう筈
がない。
 今日いわれている「平家部落」とは、
「源頼朝の死後に、代わって政権をとった北条氏に追われた源氏の残党の逃避行した
部落」
でしかない。あれは徳川時代に犬の血統書作成みたいに「系図」が流行したとき、み
な祖先を藤原鎌足や源頼光式にしたので、
(山の中に源氏部落があってはまずい)と適当に名前をすりかえてしまったものらし
い。
 さて、前に書いた「切腹論」は日本では私が初めてだが、「遊女論」は昔からある。
最古のものは大江匡房(まさふさ)の「遊女記」で、これは、「群書類従」にも収録
されている。平安後期の人間だった彼は、
「遊女とは、允恭天皇の妃であった衣通(そとおり)姫の後身の一族で、東三条は小
観音という遊女、上東門院は中君とよぶ遊女を愛された」
と、遊女を貴種とし、また「傀儡記」に、
「紅をさし粉をたたき美しく装った女は、一夕の歓のため男から金の刺繍布や錦衣、
金かんざしといった莫大なものを献じられた」当時の遊女の権勢ぶりを書いている。
 もちろん、万葉集にも遊女は出ていて、
「凡有者左毛右毛将為乎恐跡(オホナラバカモカモセンヲカシコミテ)振痛袖乎忍而
有香聞(フリタキソデヲシノビテアルカモ)」
と天平二年(730)に太宰師(だざいのそつ)大伴卿が九州へ戻ってゆくのを遊女
が名残りを惜しみ、これを俗っぽく判りやすく訳すると、
「左の毛、右の毛をこすりあわせカモカモしたいのを、おおみことのりを恐れかしこ
も、わたしは袖をふるのさえ忍んで見送る。アーモレヤアーモレ、アーモレミヨ」と
いう、そのものずばり遊女の相聞歌になり、これが後年の「チンチンカモカモ」の語
源であるとされている。
 さて藤原氏全盛の頃までは、歴代の勅撰歌集には、数多くの遊女の作品が出てくる
し、また、
「宇多天皇が河尻で遊女白君と過されしこと」
「小野の宮が二条関白と、遊女香炉の奪いあいをして喧嘩をなされた話」
「関白藤原道長が遊女小観音より奈良七大寺参拝の帰りに薄情と抱きつかれたこと」
「京極大臣宗輔の娘で遊女になった和歌の前というのが永久三年(1115)に、時
の鳥羽天皇に召され寵愛された」
など、まるで遊女とは皇室専用か、宮内庁御用達の感がある。
 だから「徒然草」の中でさえ、
「後鳥羽天皇は亀菊とよぶ遊女にいれあげ、彼女の為に長江と倉橋に広大な荘園を二
ヶ所も賜わった。自分は男に生まれてしまい遊女になれぬが恨めしい」
と吉田兼好は書いている。
 また、その遊女亀菊によって承久三年の鎌倉幕府追討の院宣は出されたのだと「吾
妻鏡」にもその名が出ている。
 つまり、日本の遊女というのは、天皇家の繁栄と共にあって、やがて皇室の御衰微
と共に遊女もしぼんで哀れになったらしい。しかし一般の常識でゆくと、今では、
「遊女とは横暴な男性の欲望を満たす為、その犠牲として存在したものだ」との既成
概念が強い。しかし、今も昔も「女」とは、それほど男に都合のよいものだろうかと、
これは考え直さざるを得ない。
 なにしろ女性に生まれついてきた特権で、そのもの自身で楽に暮らせたり、生活の
安定が得られるということは、これは麻薬中毒のように一度その味を覚えたら止めら
れるものではない。だからして八百年以前においても、
「女が女を振り廻し生きてゆけるのに、男は男をいくら振り廻しても、それによって
儲けられる事はなく、かえって損するだけではないか」ひがんだ男達がみな不平をも
ったらしい。
 そこで源頼朝は鎌倉に新政府をたてるや、
「女性自身を利用する権利は、みなもと族に属する婦人に限る」旨を発令した。
文治二年(1186)のことである。
 そして頼朝は、平家退治に手柄のあった清水冠者義高と里見義成という高名な武者
を、「遊女別当」に任じ関東関西に分けて受け持たせた。この取締は源氏の遊女だけ
をエスコートして、権利のない女性にモグリ営業をさせない為である。
 だから、大正昭和までの公認の遊廓では、
「うちの妓は、もぐりではありませんのさ」と女達に「源氏名」というものをつけさ
せた。
 これに関し日本歴史学会長故高柳光寿氏も、
「平家の一門が壇ノ浦で滅亡したとき、平家の婦女や官女が遊女になったと説をなす
者もいるが、平家の彼女達が遊女になれる権利などあるわけはない。中世までは、女
なら誰でも遊女になれると思ったらそれは誤りである」
明解にその著で説いておられる。


和泉式部も遊女

 室町御所の時代に入っても、やはり女なら誰でもが有するものをもって生活してゆ
ける事を野放しにしていては、一人の男だけに縛られて苦労するような妻になど、ば
かばかしくてなり手がいないと、「傾城局」という官庁を足利幕府は作った。「室町
日記」には、「専売局」とする。
 つまり鎌倉時代に「遊女別当」と呼ばれた婦人局長官が、「傾城官」となったもの
で、初代長官武内重信の名も伝わっている。つまり女の中の女でなくては、やたらに
昔は遊女になれなかったのである。
 さて、話は戻るが、相場長昭の「遊女考」に、「白き小袖の上にから綾をひき重ね
た装束」で、「しずやしず、しずのおだまき繰返し」と舞った静御前も、吉田兼好の
著では、「磯の禅師とよぶ高名なる遊女の娘なり」と純粋遊女血統であった事が証明
されている。
 また、「源氏物語」を書いた紫式部と共に有名な和泉式部あたりでも、古文献の
「御伽草子」では、「和泉式部は遊女にして」となっている。また小野派一刀流の真
の始祖といわれ、秀吉の妻の女祐筆であった「小野於通」とよぶ絶世の美女も、「八
十翁寿物語」という古書では、
「浄瑠璃の初めは、小野於通とよぶ遊女が語りだしたるものなり」とある。
 つまり近世までは「遊女」は褒め言葉で、ファースト・レディの意味だったらしい。
が、儒教が朱子学の型で日本へ入ってからは、金を阿堵物と蔑む風潮が弘まって、こ
のため、「金をとって身体をまかせる女」というのは軽んじられるように変化したも
のらしい。
 しかし、それでも江戸期の黄表紙本などは、やはり評価を、
「あんな女は、ただでもいやだねぇ」とか、
「いくら金をつけられたって、あんな女じゃ」
と、やはり女性評価を貨幣でしている。
 ところが、その江戸時代には、はっきり定価表をつけた吉原という一廓があったが、
「御府内備考」第二十江戸新吉原の条に、
「吉原の開祖庄司甚右衛門のことを『君がてて』とよぶ」
とある。これは故柳田国男の、「テテと称する家筋」によると、古くは、「帝々」と
書いて「てて」とよぶのだとある。
 つまり、遊女というものの存在は、「君が帝々」であって、それからして、「遊君」
というし「何々の君」とも言うのであるらしい。
 どうも皇室専用だった名残りから尊敬されていたようで、寛永十七年までは江戸城
の評定所へも、元吉原から遊女が三名ずつ赴き、花を活けたり茶をたてたりしていた。
「遊女」というものに対して今日のような観念が出来上がってしまったのは、「明烏
(あけがらす)」の芝居で、雪中でやり手婆に遊女が折檻される場面や、故沢正の
「国定忠治山形屋の場」で、「可愛い一人娘を苦界に沈めた五十両。よくも藤蔵、て
めぇはとりゃがったな」といったところからピティ[pity]な存在になってしま
ったらしいが、正保二年(1645)十一月には、元吉原角町並木屋の佐香穂という
遊女は馴染み客が死んだからと、堂々と廃業して尼さんになっているし、畠山箕山の、
「色道大鏡」の内の<扶桑列女伝>に出てくる勝山という遊女は、丹前風呂から召捕
られ廻されてきた一生奉公の身分の女だが、明暦二年の春に、
「今年中に思う子細があって廓を出ます」
宣言すると、そのとおりにさっさと吉原を出てしまったとある。今日想像するのと違
って、吉原というのは、山東京伝作万治二年の、「しかた噺」にも、
「江戸のうかれ女は葭原(よしわら)という所に集まり、ここの遊君は雨など降ると
自分では歩かず、奴という男を呼び寄せ、一名に傘をささせて、一名の肩に己れを背
負わせ廓内を行くのである」
と、そねむような書きぶりを今に残している。
 これは銀座のバーの女達が、大の男のボーイを顎で使って灰皿を替えさせるのと同
じで、ありていに言うならば、「女性優位」を露骨に地でいける、そういう職場では
なかったのだろうかと思える。
 また、かつて儒教が道徳であった時代には、
「女人が行為によって、歓喜の声を迸らせたり失神すること」は、慎みがないとされ、
「不道徳」の烙印が押され、行為は女人にとっては苦痛でしかないように、そんな教
育をされたものである。
 だから女性たるものは、そうした行為は欲せざるところ、好まぬものと意志表示を
するような処世法をもつことが、これが賢明とされた。その結果が、行為を反覆繰り
返す職業は、「苦界」とみられ、哀れな存在といった扱いをされたらしい。
 しかし、女人にとって、それほどまでにそうした行為が苦々しいものであるならば、
「おめでとう」と、なぜ婚礼のときに周囲は祝うのだろうか。相手が一人ならおめで
たく、それが複数になると同情すべき結果になるとは何であろうか。欲望というもの
は、「効用淵源の法則」によって、一より二、二より三の方が良くなるという定理と
矛盾しないものかと疑いたくなる。
 さて、なにしろ儒教が普及するまでは、女人も本当の事を口にしたらしく、吉原の
開祖六代目庄司勝富の残した「異本洞房語園」に、
「この里に住みてうきことなし、夜ごとかわる枕も面白しといいはべる女ども多く」
などと、はっきり残されている。
 現在はなくなったらしいが、まだ「親孝行」というモラルが、かつてあった頃は、
「お三味線や踊りを習って芸妓さんになって、いい旦那をもって、おとっつぁんやお
っかさんを左団扇にさせるんだぁ‥‥あたいだって綺麗なおべべが着られて仕合わせ
だぁ」
将来の希望をそこにおいて憧れる少女が、昭和二十年までは、まだかなりいたもので
ある。しかし、時世、時節で、今でも行為を職業とする女性は多いらしいが、親のた
めというのは殆どいない。彼へ貢ぐ為というのが多い。つまり彼との行為の為に、他
との行為を致すのであるらしい。


遊女は職人

 が、何といっても日本語の難しさは、「遊女」の意味からして解釈しにくい。これ
を現在のように「遊ばせる女」と読んだ時、はたして該当する存在が、紅燈の巷やネ
オン街にも今あるかどうか疑わしい。
 よく遊ばせてくれるというのは「藝」であるが、これは自動的でなくてはならない
のに、そうした女性は今はいないのではないか。つまり、酒場の女でも、煙草に火を
つける事と、おしぼりを持ってくるしか知らぬのが多い現代では、お客の方が女を遊
ばせる事があっても、その逆はあまりなく、まして肝心な方においてをやであろう。
 ところが、「遊ぶ女」とみた場合には、昔のように恐れ多くも主上を手玉にとった
り、搾り奉るような不敬なのはいないが、これなら今でもハント・バーあたりへ行け
ばいくらでも居る。が、自分の方が遊ぶのだからして、男に対しあべこべにサービス
を求めるのである。
 室町時代に土佐絵をもって一世をならした光信の作に、「七十一番職人歌合わせ」
という絵巻物がある。二十世紀では職人というのは一日何千円の手間代をとるから立
派だとはいうものの、学校出の技術屋に比べ、学歴がないからと冷たくみられる向き
がないでもない。しかし四、五世紀前には学校出はいなかったから、職を持っている
人間はきわめて尊敬された。
 つまり土佐光信も絵描という職人であるし、医師も当時は病気を直す職人だった。
そして、「遊女職」というのも、立派な職人だった。熟練工といった意味でか、この
七十一の職業別絵巻物に、遊女は堂々と入っているのである。
 これは幕末安永年刊の「咲分論」にも、
「いくら初見世だからといって、丸太ん棒を二本ならべた丸木橋みてぇに寝ていられ
ちゃ曲もねぇ。商売だったら商売らしく、てめぇの職にすこしはまじめに励みやがれ。
それじゃあ、かたぎの嬶とおんなじだ。何事もやりさえすれば、それでいいってもん
じゃねぇ筈」
と、お説教が出ているのをみても、やはり、
「遊女というのは、並の女性のように唯あるものを使うというのではなく、そこには
職人としてのプライドをもち、芸を切磋琢磨する必要」
が要求されていたものらしい。
 しかし、かつて女性の中の特権階級だけが職人の誇りをもって司り、権利のない女
類には許されなかった職業も、徳川中期以降の近代資本主義の勃興によって、やがて
抱え主とよぶ資本家と労働者という立場に変わったから、そこからすべてが違ってき
たらしい。
 そして政治の貧困から江戸府内でも、岡場所と呼ぶ権利なき女達の私娼街が、いく
ら弾圧されても次々と現れてきだした。しかし腐っても鯛で、吉原は職人女の集団で
プロフェッショナルだったが、私娼というのは未訓練女性で、てんで職人気質をもっ
ていないものようだったらしい。
 そこで、家にありあわせるようなものを外で求めるのはつまらんだろうというので、
奇篤な男が身をもって現地取材をした。弘化二年三月二十三日発禁処分となったが
「東辻君花の名寄せ」というのがそれで、その刊行物の内容は、

東両国 はる16優 ふく17優 きく27良 ひろ21可
浅草橋 ふじ25優 たき21良 かつ28可 とし18可
永代橋 むら17優 そで33優 なみ22良 とく21可
本所通 さだ19優 よね35優 ひさ17良 ひろ17可
芝久保 まき21優 かね34優 たき21可 たみ25可
赤坂通 てふ18優 ふさ16良 つね15可 よし16可

 今から百五十年前の女性の勤務評定をずらりと並べているが、今になっては役にも
たたないから後は省略するが、優は努力する職人タイプ。良は自然の結構さ。可はや
めておけの事だそうである。
 さて、
「他人の不幸ほど喜びを得られるものはない」
というカーライルの言葉を利用して、「戦国時代の女性は哀れだった」とか、「遊女
はみじめだった」とかいって読者に媚る本も多いが、性病などが輸入されなかった頃
は、実際にはそうでもなく、「遊女職」として、遊女がその権利を行使していた源氏
から北条、足利時代にあっては、志望者が殺到して選ばれてなったというから、彼女
らは今のプレイガールより遥かに仕合わせであったものらしい。
 また吉原の太夫に権式があって威張っておられたのも、俗説の如く茶湯や仕舞、琴
が弾け遊芸に通じていたからというのではなく、もっと本質的に、その途のテクニシ
ャンで、技巧をもつ優秀な職人だったせいではあるまいか。