1093 論考・八切史観  5

縄張り争い

 しかし道中往来のやし連中が定着したからといって、なにも初めから賭場を開いたわ
けではなかった。なにしろ横井弘三の「露天研究」にも、
「名誉ある地位及び十手捕縄、朱鞘の脇差を賜っていた」
とあるぐらいだから、各地のやしの親分連中は、行商や遊芸の旅廻りの配下が戻って
くると、稼ぎ高の上前をはねながら、
「何か聞き込みはなかったか。しょっぴいて牢へ放り込めそうなのは居らぬか」と、
点数稼ぎにうきみをやつしていたのだろう。
 ところがやしの商売の中には、「吹き矢当て」とか「ぶん廻し」とよぶ射幸心を煽
る業務もある。終戦直後に流行した「でんすけ」という、ピースを三つ並べ、「ちょ
いな、ちょいな」と指さきで操るのもその類だから、つい業務拡張というか、「香具
師仲間掟のこと」というのが文久二年(1862)に決まるまでは、やしの親分の営
業活動ににギャンブル部門も入ってきて混同してしまっていた。
 なにしろ、それまでの庶民の賭場は各大名家の仲間小者達が、戦国時代からの伝統
で部屋頭を「お役座」とよんで仲間部屋でやるか、またはそうした連中を扱う口入れ
屋の溜まり場。街道筋の伝馬や荷物担ぎの人夫小屋。
と鉄火部屋が決まっていて、小屋頭や部屋頭の上には元締めがいたから、荒っぽかっ
た
。だから素人は怖いので寄りつけもしなかったが、やし仲間の方は、なにしろ。「呼
び込み」が本業だから、そこで人当りも柔らかい。
「寄ってらっしゃい、お遊びに」と、揉み手などして誘い込むものだから、入りやす
くなって、幕末ギャンブル・ブームの時代がきた。
 また、足軽仲間達も、自分らどうしで取ったり取られたりするよりは面白いから、
そ
ちらへも出入りしだした。
 しかし部屋頭も、「やしは公儀御用」だから、これに対して縄張りを荒らすなと、
文句のつけようもなく放任した。
 だから大名屋敷や公儀伝馬溜でない民間の賭場が各地にでき、
「二足の草鞋を履く親分」
なるものが現れた。
 これが意味するのは、博打渡世者が、現代でいえば地方警察、当時では、お上御用
の十手捕縄を兼任で預かる事をいうのであるが、現代の小説やテレビでは、まるっき
り、二束草鞋といえば「悪い奴」の代名詞にされている。
 昔のこととはいえ、反撥的心情があって、国家権力を表徴する十手に、一般が烈し
い嫌悪感を抱くからそうなるものなのか。今日的感覚によって、
「縛られる博徒と、縛る十手捕縄を兼業」する事への大衆の反感からか、いずれかだ
ろう。
 しかし、こういう発想は現代になってからのもので、江戸時代には目明し兼業の方
が「公儀賭場」を持っていたのだから、「本物」としておおいに幅をきかせていた。
 ところで何故、(昔はギャンブルが放任されていたか)というと、当時の国家権力
や地方自治体権力には、現代のような才覚がなく、「宝くじ」「競輪」「競馬」「競
艇」を開催して、寺銭をとるような事はしていなかったから、お上としては別に彼ら
と、縄張り争いの必要を感じなかったせいであろう。
 つまり博奕業で警察の費用を捻出するのが一人の親分でやりくりされ両立できたの
もこのわけである。
 今でもオランダのアムステルダムへ行けば、飾り窓の遊郭の入口に、英国と同名の
スコットランド・ヤードの第二分署があり、その二階に拳闘のジムやルーレット賭場
があって、人手が入用のときはブザーを、「ジイ、ジイ」と推すと、拳闘クラブや賭
博場の若い衆が、西部劇の補助シェリフなみに、「スペシャル・ポリス」の星マーク
をつけ、「御用ッ」とくりだし、人手不足を補うような便利な仕組みになっているの
と同じであろう。
 さて話違ってテレビや映画では、悪い親分が当時の警察上層部の「代官」に、嫌が
る娘を取り持ったり、ずしりと小判の包みを持って、「へっへ」と贈賄によって十手
を貰い、地区警察署長に任命されている。
 しかしあれは、
(法というものの運用の蔭には、こういう操作があるものだ)と、時代劇という画面
に隠れてディレクターや脚本家が、権力暴露へのアジテーションをしているのかも知
れぬが、実際においては全く事実無根なことである。
 代官個人の裁量で採用できるのは、手代役ぐらいのものであって、各地の十手捕縛
は、その地区で定着していた連中の中から、
「今度はあれが、これが」
と彼らの方から決めてくるのであって、代官が小判や女と引換に自由に任命し、三宝
にのせた十手を渡すという事はなかった。
 何しろ義務制で無給だから、余録はあったろうが一種の課役制だったのである。も
しテレビみたいに悪い親分が十手を貰い、住民保護は放ったらかしにして暴力団化し
ていたら、地方警察制度ばか
りでなく、当時の連邦警察にばかりでなく、当時の連邦警察にあたる大岡忠相創案の
和製FBI組織も崩壊し、もっと早く徳川家は倒れ革命になってしまっていただろう。
 なのに徳川の世の中が長く保ったというのは、二足草鞋がみな良い親分だったから
なのである。


新興やくざ

 天明三年(1784)の浅間山噴火の降灰で関東地方の不作をから、上州より信州、
ついに江戸大坂までがしまいには米騒動になった。
 なにしろ物価が年々暴騰していき、真面目に働いても入る収入では追いつかなくな
り、やけくそになった民衆の「打ち壊し」に暴動が全国的になった。そこで勤労階級
までもが、宝くじや場外馬券を求めるように賭博場へ出入りしだした。
 「一か八か」ギャンブルでもするしか、生きていく目標がなくなったからである。
つまり清水港の米屋の倅の長五郎や甲州黒駒の庄屋の倅の勝蔵たちが賭場通いして、
しまいには、すってんてんにされだしたのもこの頃である。
 さて今日なら、まさか馬券ですったからと自分で中山競馬場を新設して、胴元にな
る事はできないが、当時は「賽子と茶碗と茣蓙一枚」さえあれば盆が敷けた。
 そこで、取られる側から取る側へなろうと宗旨変えをした新興博徒がここに誕生し
た。これは、お上から御用の十手を預かり、警察署長として部下の人権費を捻出する
ため賭場を持っていた各地の親分衆にとっては、「既得権益の侵害」という事になる。
 そこで十手持ちの既存親分と新興博徒との縄張り争いという事になってきた。この
係争は、江戸において公儀御免新吉原の遊廓商売が儲かるのに眼を付け、真似して
「岡場所」ができたのとそっくりである。
 そして江戸の目明しは新吉原から給料を貰っていたから、それっと営業妨害してい
る非公認の岡場所へ
「御用ッ」と押しかけ、主人は牢へ、女は新吉原へ連れてきて只で働かせた。これゆ
え「岡っ引き」と目明かしはよばれるのだが、さて女なら引っ張ってきても役にたつ
けれども、男では仕様がないので、新興やくざは初めは放っておかれたものの、寛政
二年(1790)からは「人足寄せ場」というのを江戸石川島に新設し、ここで強制
労働をさせたり、佐渡の金山へもっていって使役にあてた。
 そこで、十手もちの側に捕まると、営業妨害のかどで唐丸駕に入れられ、島送りに
されるから、各地で新興やくざと十手もち親分の衝突がおき、随所で血なまぐさい争
いが始まった。
 しかし一代きりの素人上がりのやくざと、大岡越前の時代から、でんと構えて、跡
目跡目と継いでいる側とは比べものにならなかった。

 清水次郎長を例にあげても、講談や浪花節では有名だが、駿河の国は、
「東は三島、西は大井川までが駿河府中安東村の文吉親分の縄張り」
「三島から先は、伊豆の金平親分とその兄い分の大場の久八親分」
「大井川より西は見附までは大和田友蔵」
「光明山までは、森町の五郎一家」
「その先は浜松伝馬町の御用亀こと国領屋亀吉親分」
 ぴったり図面に線をひいたように、土地に根をおろした昔からの親分衆が押さえて
いる。
 だから次郎長が地味にこの社会で身を立てようとするのなら、清水を押さえる安東
文吉一家の誰かの子分になるしか途はない。しかし文吉には代貸だけで何百と頭数が
いて、末端まで加えると二千といわれた。そこへ素人あがりの次郎長が入れてもらえ
たとしても、代貸のまた子分になるのが精一杯のとこである。
 現在でいえば従業員数二千の安東文吉商事へ入社し、各地でひらく賭場で客人に湯
茶のサービスをしたり、捕物の時は殺される覚悟で真っ先にとび出さねばならぬ身分
である。 そこで次郎長は自由やくざの立場を選んだが、これでは土地で賭場などは
開けない。
 そこで次郎長は年中旅から旅へと廻って、人手のないところをみつけ、臨時雇いで
稼がせて貰ったり、喧嘩のあるところでは、目当てや礼金目当てに子分と共にはたら
いたのである。
 文久二年[1862]になってようやく「やし連中」が、神農さまを祭る「たかま
ち」商売一筋に代って、賭博業から足を洗うようになったとき、
「よし、これからずらよ」張りきった次郎長も既に、四十三になっていたが、「やし」
と「やくざ」が、はっきりここに分離して、それまで「半可打ち」といったよび方で
扱われていた十手持ちでない新興やくざが、初めて時代の脚光を浴びるようになった。


やくざ流行

 明治九年3月28日に、「佩刀禁止令」が新政府から公布された。
 今では誤って解釈されているが、武士の佩刀というのは、あれは義務制であって、
「公刀」と呼称されていたものなのである。つまり武士の表道具は槍であるが攻撃用
具だから、平和時には主君や己れ自身を守るため、槍で攻められた時に打ち払う防禦
用具として、刀はさしていなければならなかったのである。
 「佩刀が禁止されたから武士がなくなった」のではなく、もう武士がなくなったか
ら、「公刀をささんでよい」となったのである。しかし長脇差というのは私刀である。
 そして大岡越前が、やしに十手捕縛と共に、いざという時の威厳をつけるため、一
目でわかる朱鞘の公刀を差すように命じたが、
「文久二年戌三月二十日付」で、やし仲間の人別帖を作るように命ぜられた時、四月
二十九日付をもって受書を出し、彼らやしは賭博業もやめたが、公刀も返してしまっ
ている。 そこで、「公刀佩用の禁」は出たものの、「私刀(長脇差)の禁止」は出
なかったから、やくざ側の帯びている長刀は自前ゆえその侭で、ここに、やくざの黄
金時代がきた。
 明治九年の熊本神風連から萩の乱、そして自由民権を叫ぶ不逞分子が各地で「暴動」
、「反逆」を叫ぶのに対し、明治政府はジュラルミン楯やガス銃がまだなかった頃な
ので、「壮士」または「侠客」とよんで、全国のやくざをおだてて、彼らの私刀をお
おいにふるわせ、「自由」とか「民主主義」などと喚く暴徒の群れに各地で斬り込み
をかけさせた。 だからこの時分東京旧市内だけでも、
いまの千代田区では(住吉町の梅、だんなの小金、三河町の上総屋、外神田の米市)
中央区は(茅場町の石定、同遠山、小網町のデコ岩、蛎殻町の古賀吉、同ヒョロ藤)
 有名な貸元がきら星の如く並んでいた。
 そしてテレビや映画もなく寄席だけだった時代なので、神田多町の興津は市場亭、
屋根屋の弥吉は並木亭、本所四つ目の上万は四つ目亭と、みな小屋を持っていた。
 そこで博徒上がりの桃林亭東玉とか錦城斎典山、大坂では二代目石川一夢あたりが、
「男の中の男一匹、幡随院長兵衛」といった古典から、新作ものでは、自分らが実地
に見聞したものをやった。
 もちろん東玉や典山といった貞山派の講釈師というのは、やくざ社会では立身しな
いから、長脇差をやめ張り扇を叩く方に転身した連中ゆえ、安東の文吉などという大
親分は雲の上の存在で顔を拝んだ事もない。しかし次郎長や忠次ぐらいなら、旅先で
姿を見た事もある。そこでいつのまにか、
「やくざの主流派と反主流派を反対にする」
という作業を舌先三寸でやってしまった。
 つまり本来の豪い方は一つ所に頑張っていて、あまり面白くもおかしくもないが、
「渡り博徒」とか「流れ博徒」といわれる、生国では縄張りがもてず、旅から旅へと
渡り鳥みたいに流れている手合いの方は、
「さて次の宿場では、はたまた如何なる事になりましょうか。はい明晩のお楽しみ」
と、お客をつないでいく上には都合がよいから、専ら旅行専門のやくざ物になった。
 そこで工事場の仕事が終わると、次の現場へ流れてゆかねばならぬ土方連中が、
「また、旅か」と口癖にするのを失敬し、「足で歩くのだから、股旅」と猫も愕くよ
うな翻案をしたのが、かつて全盛をきわめた股旅小説の類である。
 そして、「利根の川風、袂へ入れて」で知られるこうしたやくざ礼讃は、明治三十
九年に、空っぽの寄席を尻目に堂々と「満員札止め」の看板を本郷座の正面や、国民
新聞に広告した桃中軒雲右衛門の浪花節によっても拡まり、彼が得意とした「国定忠
次」や「安中草三」が国民的英雄にさえ、かつてはなって大いにもてはやされたが、
田村栄太郎の考証によれば、
「浪花節語りとなると、兄弟分になるには二の腕の生血をとり、互いにこれを啜りあ
って兄弟の盟約を立てるから、博打打ちの義理そっくりで少しも違いがなかった」と
いう。

 ともするとやくざの黄金時代は「天保から幕末まで」といわれる。
つまり西暦1830年から67年までの37年間に、大前田英五郎とか忠次、次郎長、
「天保水滸伝」の笹川の繁蔵、飯岡の助五郎、小金井の小次郎、黒駒の勝蔵その他の
群雄が一度に出現して、各地で地の雨を降らせ、パァッと花を咲かせ、「明治の聖代」
に入るや、前非を悔いて、みな正業についた様な受け取り方をされているが、どうも、
その全盛期というのは、
「彼らを講談や浪花節、映画テレビで謳歌する明治、大正、昭和の方ではなかろうか」
とも想われる。何しろ、かつて東亜同文書院長根律一は、
「国土を育てる為に侠客学校を創立せよ」と、大真面目に説いているし、
「仁侠の徒こそ共に語り得る同志」とまで揚言した、おらが大将こと田中義一首相は、
「大東亜戦争の発端になる張作霖殺害事件」を引き起こしている。だから、どうも日
清日露の戦争から後は、変な事例だが、
「やくざものが流行し、バッタバッタと殺したり殺されるのがもてはやされる時代」
というのは、いつもすぐその後から戦争が忍び足で近寄って来ていた。杞憂であれば
よいけれど、心配したくなる具象ではあるまいか。




                   演歌論考

演歌における義理

「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界」が、<唐獅子牡丹>の歌詞の
始まりだが、その重たいといわれる<義理>とは、はたして何だろう。
 古い戦記ものなどでは、局限を意味して、
「もはや義理義理のところまで追い詰められ、かくなる上は止むを得ずと、長物とっ
て群がる敵の中へかけ分け駆りこみたり」
などと、「加越闘争記」という戦国時代の門徒一揆と武者どもとの争いを書いたもの
には出てくる。
 しかし、普通は、頭のつむじの異名で、「義理義理から爪先まで」などという。だ
が、(頭のてっぺんの事か、そこがでっかちだから義理は重たいのか)というのでは
ニュアンスが少し違う。
 また義理義理から義理だけのニ字に分けると、これはdutyという単語にコンサ
イスなどでは置き換えられ、
「英帝国は各自がそのdutyを祖国に尽くさん事を望む」
と、トラファルガー海戦に際して発せられたネルソン提督の訓辞などが引用されてい
る。こうなると、義務・本文と、全く同義語になるが、日本の新聞の社会面などには、
「汚職議員逮捕」といった見出しの記事に、「義理から便宜を計ったに過ぎぬ。受け
取った金は政治献金で、決して収賄ではない」と、本人の言い分などが掲載されてい
るが、こうなると、まさか義務で贈賄収賄が行われたものと思えぬから、そこでこれ
は、(付き合い)を意味するものかと思うと、「いつの間にかそこで戦争が起き、我
等も銃を取らされる。そんな義理もないのに」フォーク・ゲリラなどのガリ版刷り5
0円の歌集には出てくる。
 しかし、演歌の世界では、「恋と義理とを秤にかけりゃ、義理が重たい仁義の世界。
涙隠して啖呵を切れば」と唐獅子牡丹のイミテーションみたいなのもあらわれるし、
また近ごろでは修身の本がリバイバルで売られる世相を反映してか、
「天に一つの陽があるように、この世に義理がなくてはならぬ。どんな立派なそぶり
よりも、人は心だ‥‥」
などと戦前の修身の本にさえなかったような唯物主義のものさえ巷には流れ、
「国民精神総動員運動でも、既に復活されたのか」
と、粗忽な私などはびっくりさせられる。
 しかし、戦争中のその時代でも演歌の中に、こんな義理のウエイトはなかった。
「泣くな、よしよしねんねしな」の<赤城の子守唄>にしろ、<吉良の仁吉>の、
「ひくにひかれぬ意地の道、止めてくれるな名が廃る。いやな渡世の一筋に」や、
「意地の筋金、度胸のよさも、人情からめば、涙ぐせ」の<沓掛時次郎の唄>にしろ、
「意地」の二字こそあれ、「義理」の文字など、どこにも一つも出てこない。
 やくざを扱った演歌に義理のギの字もないのは、今の時点からすると不思議な感じ
がするが、次に流行した<勘太郎月夜唄>にしても、
「なりはやくざにやつれていても、月よ見てくれ心の錦」となり、その眼目は、
「菊は栄える、葵は枯れる。桑をつむ頃、逢おうじゃないか」と、勤皇精神鼓吹やく
ざ演歌となっている。

 さて、当時の小学校の教科書は、「国定々々」となっていたため、小学生にもその
語呂からして、「国定忠治」が親しまれていたせいらしく、
(せっかくの赤城山を、子供を背負ってゆく板割の浅太郎の一人舞台にしておくのは
惜しい)
というのでもあろうか。昭和十二年になると、
「月にかざせば万年溜の、水に清めた白刃が光る」の<赤城月夜>、
そして二年後には追いかけて、
「男心に男が惚れて、雁が鳴いてく赤城山」の「名月赤城山」も出て唄われた。
 だが、「義理」などという言葉は、それらの歌詞のどこを探しても、赤城の子守唄
同様に全く現れてはこない。ついでに生まれた<赤城しぐれ>となると、
「昨日追分あしたは越路、風が身にしむ、はかない旅路、末は落葉に」
といった詠嘆調で、これは、<忠治子守唄>が、
「捨てた赤城が恋しじゃないが、男忠治もついほろり」
となっているのと同工異曲で、やはり歌詞の何処にも「義理」の義理の字も使われて
いない。
<佐久の鯉太郎>というのも、
「草鞋の先よ故里へ、向いちゃ落葉が無駄になる、なるな涙に、旅がらす」
とか、<大利根月夜>が、「浮世を三度笠」といった個所も歌詞にはあるのに、唄い
出しの冒頭を、
「あれを御覧と指さすかたに、利根の流れをながれ月」
と叙景でおすのと同じである。つまり、「好いた女房に三下り半を、投げて長脇差
(ながどす)、ながの旅」
と唄うところの<妻恋道中>にしろ、同じ藤田まさと作詞の、
「夜が冷たい心が寒い」で知られている<旅笠道中>、そしてやはり同氏の、
「どうせ一度はあの世とやらへ、落ちて流れて行く身じゃないか、泣くな夜明けの」
で有名な<流転>にしろ、また、
「ままよ短いこの命、張るも意地なら、勝目の背に、何故か淋しい山の鐘」
で結びがつく黒川弥太郎主演映画主題歌の<弥太郎笠>の歌詞を並べてみても、戦前
に「義理」という字を扱ったやくざの演歌は、驚いた事に全く一つもないのである。
 戦後は、
「やくざ物の映画や流行歌が全盛をきわめた頃から、戦争の匂いがしだして、やがて
本物になって、しまいには自分らまでが本物の竹槍を持たされた」
といった記憶が生々しいうちは、やくざ物は敬遠されたが、戦後十三年たって、<ち
ゃんちきおけさ>で当てた三波春夫が、<雪の渡り鳥>という阪妻の頃のもののリバ
イバルをやって、「意地に生きるが男だと、胸にきかせて旅暮らし」を浪曲調で流行
させ、この二年後の昭和三十五年には、橋幸夫が、「潮来の伊太郎、ちょっと見なれ
ば」と、<潮来笠>をもってデビューした。
 しかし、現在のようには、まだ「義理」といった字句は何処にもない。やがて、現
代の新興やくざ節のはしりともいうべき、<網走番外地>が、高倉健の人気で広まっ
たが、この唄とても、
「酒(きす)ひけ、酒ひけ、きすぐれて、どうせ俺らの行く先は、その名も網走番外
地」
と悲壮なメロディーだが、義理にも、「義」の字はまだ四節中にただの一つもない。
 といって、それでは、これまでそういう用語法の流行歌はなかったかというと、
「人生劇場」という尾崎士郎の自伝風な青春小説が映画化された昭和十三年に、佐藤
惣之助が、その主題歌を受け持ち、
「義理が廃れば、この世は闇だ、なまじとめるな、夜の風」
堂々と使っている。だから、禁句でもないのに、何故やくざを題材にした演歌が、昭
和四十年代までそれを用いず、「七十年安保」の声がやかましくなった時点から、ま
るでとってつけたみたいに、「義理だ」「義理と人情を秤にかけりゃ」「天に二日な
く、義理こそ太陽である」といったCMソングを急に流行させたのだろう?


義理とは何か

「義理で始まり仁義で終わる」と、突然変異のようにアッピールされ始めたのが、以
前の歌にはない。だから、昭和四十年代の新造語かと錯覚もさせられるが、そうでも
ないらしい。
 もう一度遡って調べてみると、井原西鶴も、その『好色五人』に「義理を詰めてそ
しりける」と用い、『好色一代男』では「言わねばならぬ義理となり」とあるが、
『男色大鑑』になると、「他人の悲しむは、ありゃ義理の念仏」などとも書いている。
 さて、今の演歌では、「義理と人情」が並べられるが、芝居の『夏祭』では、「義
理も瓢箪もないわえ」である。近松門左衛門の『傾城反魂香』にも、「こちゃ義理ず
くめになったのか」とある。つまり、こうした例証の範囲内では、「義理」というの
は、江戸中期の用い方では水商売用語だったのではあるまいかと思われる点もある。
たとえば、「義理ずくめになった」という表現が、女が身売りするのにあてはめられ
ているからであるし、小春の言う「ひくにひかれぬ義理」というのも、男に妻がいる
から、それへの義理というのではないらしい。もし、相手の妻に、現代的解釈の義理
を感じたら、その夫である男と心中などできよう筈もない。つまり、この(ひく)は、
身をひくの「引く」ではなく、「落籍」の「ひく」ではなかろうか。
 身請けの金さえ都合がつけば、遊女の小春は落籍してもらって別宅を持ち、紙屋治
兵衛の本宅とも睦まじくやってゆけ、円満におさまりもする。が、そのひく金が何と
もならなくては、苦界の借金の義理に縛られた小春としては、「ああ、死にましょう
わいな」としか言いようがない。それが、1720年に竹本座で初演された頃の、実
存的な当時の感情ではあるまいか。

 唄は世につれというが、言葉も時代でまったく意味が違ってくるようである。つま
り、現在流行している演歌の<兄弟仁義>でも、
「義理だ恩だと並べてみたら、恋の出てくる隙がない」
と、義理と恩と並べたて、
(義理とは、恩を受けた事へのお返し)といったような扱いをしている。
 さて、こうなると、義理というものは、「報恩」という形式になり、相対的に、<
その恩とは何か>という命題に突き当たる。
 つまり、明治大正から昭和三十年代までの、「やくざを主題にした演歌」に、てん
で義理の二字がなかったのは、これは股旅小説などでは、「一宿一飯の義理」などと
説いても、一般的にはその程度の恩では、それは時価換算してみても、せいぜい千円
ぐらいだから、それでとても義理を感ずるという程には納得できかねるので、「説得
力」を短い形式に入れねばならぬ作詞家が、そんなあやふやな義理という文字を、こ
れは意識的に用いまいとしたのだろう。
 ということは、ひっくり返せば、(1960年前後を境にして)、それ以前の「や
くざ」なるものは、どうも、(義理を感ずる必要のあるような恩は、どこからもてん
で受けていなかった)ことにもなろう。
 さて、話は違うが、最近では、「暴力団汚染地域」という指定もあって、いわゆる
やくざへの取り締まり体制が強化され実施されている。しかし、取り締まりのない時
には恩を施されたり恵まれるもないだろうが、そうした強化の時にこそ、かえってそ
ういう恩の貸し借りは政治家によってできているのではあるまいか。
 地方などでは、れっきとして親分が町会議員市会議員になっているケースが多い。
長崎の県議会議長も刺殺されなければ、同地一帯の貸元などと、全国的に知れ渡るこ
ともなかったろう。しかし、こういう具合に、やくざが与党の議員として陽の当たる
場所へ堂々と顔を出し、体制協力する政治家にもなるようになったのは、これはきわ
めて最近の事らしいという。


任侠決死隊

 映画やテレビでは、賭博をしている所へ、「誤用ッ、神妙に致せ」と十手をもって
とびこんでくる捕方の群れが出てくるが、あれは事実を全く誤認した現代的な解釈で、
昔はああした事はあり得ないのである。
 大岡忠相が街道すじの「やし」の元締に、亨保二十年(1735)に十手捕縄をわ
たし、彼らを日本版FBIに仕立ててから、日本全国が縄張り分けされ、各地の親分
が今でいう「地方警察署長」になり、署員の給与や防犯費用充当のため、興行や鉄火
場を開いていたのは前述したが[『やくざ論考』を参照されたし]、「半可打」とよ
ぶその資格のないのが、自分の縄張り内で盆を敷けば、これを営業妨害罪で捕らえて
簀巻きにして川へ放りこんだりした。
 が、普通の賭場はいざという時に、「御用ッ御用ッ」ととびだす捕方どもが、三下
奴ゆえ、
「へえっ、お遊びに‥‥ひとつ如何さまで」
と客引きしていたのだから、まさか「自縄自縛」に、自分らの賭場へ手入れする筈は
なかった。つまり賭場は場所によって勤務差し支えになるからと、禁令が出されてい
るところもあったが、実際には、どうという事はなく、賭博自体は何でもなかったら
しい。
 ところが、「明治十七年一月四日付」賭博犯処分令というのが発令され、初めてこ
の時から正式に賭博は犯罪という事になったので、「博徒総狩り込み」というのが、
立法化した翌月から始まった。つまり幕末までは体制協力者として「お上御用」も請
け賜わっていた博徒が、別に警察ができ、もはや不用になったため、明治十七年の二
月から五月までに根こそぎ狩り込みをされ、投獄され臭い飯を喰わされた。
 明治初年には、それまで十手、捕縄を預かっていた安東文吉や大和田友蔵らが、新
政府となったので、ひとまずそれらを返済したので、改めて、「道中探索方」通称
「捕亡役頭」という肩書で、十手捕縄を明治政府から貰っていた清水の次郎長あたり
でさえ、時に六十五歳だったが、懲役七年の刑で静岡井ノ宮監獄に放り込まれた。つ
まり、謀者なども勤めて体制側についていた者らが、今度は裏切られて追われる側の
反体制となったのである。
 しかし、このままでは渡世上困るので、「日清戦役」「日露戦争」にあたっては、
「軍夫」の名目で子分を率いて、軍に協力した酒井栄吉らの大親分もいた。しかし、
賭場の取り締まりは軍部でなくて、警察の方の仕事である。そこで、何とかして取り
入ろうというのか、又はお上の側についてお目こぼしを願おうと意図したのか、大正
から戦前まで「特高」のあった頃は、その協力者となったり赤化防止同盟などを作っ
た親分もいる。
 しかし、このように渡世保護のため、大いにお上に犬馬の労をいたしたが、これが
あまり効果的でなく、義理を感ずる程には恩が得られなかったらしく、それが昭和三
十年代までの演歌の文句に、義理の見当たらない原因でなかったろうかと思う。
 さて、やくざが公的権力の末端の警察に働きかけようとして巧くゆかず、かつての
軍部も今のところはない事になっているのに、
「はたして何処と結びつき、義理を感じなければならぬ程の恩を受けているのか?」
そして、1960年前後に、どんな転機があったのか。また、十八世紀の大岡越前忠
相のごとく、彼らを利用し昭和アンタッチャブルにしようと意図したのは、それは誰
か。いろいろと疑惑はあるが、各地の親分衆が与党に籍をおいて立候補し、地方政治
の権力の座に座っているところをみると、これはどうやら「政治に繋がりをもったの
だ」ということまでは判る。
 なにしろ、昭和二十七年に破防法を成立させる時、その頃は重宗参議院議長のごと
く、二分間で大学立法を通すような人材がいなかったので、当時の与党は苦労したら
しい。
 そこで、このとき与党院外団団長が大岡越前の真似をして各地の親分衆にそれぞれ
電話をして、「我が党に協力しろ」と渡りをつけた。
 これが共産党か社会党なら恐らく二の足をふんだろうが、天下第一党のことゆえ、
「へぇ、ようがす」
二つ返事で引き受けた親分衆は、腕のたつ威勢のよい兄い達を呼び集めた。
 さて、百余名もの威勢のよいのが揃うと、
「敵は幾万ありとても、すべて烏合の衆みたいなものじゃ。諸子は任侠道において与
党のために力を貸してほしい」
院外団の団長自身から直接にさとされた兄い達は勇んで参議院へ引率されて赴き、ま
さか刺青をちらつかせたり、片肌脱ぎにもなれぬから守衛の制服に身を固め、
「やがて夜明けのくるそれまでは、意地で支える夢ひとつ、背中(せな)で呼んでる
くりから紋々」
と徹夜で頑張って、ここにめでたく「破防法成立」が成り、与党のために貢献した。
よってその後、60年安保の際には「任侠決死隊」というのまで組織されたというか
ら、ここの係り合いも明白である。