1092 論考・八切史観  4

居合と抜刀

 さて「近世詩儒伝」というのに、
「井上石香は江都の詩をよくする者の筆頭。三河松助が本名にして、千葉周作をその
支配である神田於玉ヶ池に招き、その道場を立てて己の配下に刀術を学ばせる。石香
も同道場師範として、その剣技令名あり」と出ている。
 これだけ見ると、石香というのは千葉周作のパトロンで、どこかの大名の御隠居の
様に想われる。そして「石香談話」には、
「抜刀術にて吾に比するものなかりき」
といった個所がある。だからどうしても、「北辰一刀流の千葉周作から抜刀術の極意」
なるものを授かり、西部劇の早撃ちのようにサァッと刀を抜く術に優れていたものと
解釈しがちである。
 ところが拳銃を素早く引き抜き1秒もかからず引き金を引く所作のように、刀の鯉
口を切り己の長刀を抜く技術は山田次郎吉の「日本剣道史」を見ても、これは「居合」
という呼称をされている。つまり「抜刀」とは言われないのである。
 が、表向きに「抜刀」をその流派に冠するものもないではない。幕末に金比羅大神
宮の御利益で田宮坊太郎という少年が親の仇をめでたく遂げたという辻講釈が、金比
羅溝の信者により宣伝され世に広まった後、「北条早雲記」という読み本が刊行され、
その中に田宮平兵衛成政という長柄の刀を帯びた剣豪が興味本意に創造されている。
そして「柄の長い刀は抜くのに厄介だろう」という発想のもとに、ここに流行に便乗
し「田宮流居合術」という呼称が生まれた。何しろ12歳の坊太郎少年が1メートル
余の大刀を、大地を蹴って飛び上がり、スラリと抜き打ちにできたというので、講談
を本当と思いこむ人士も多く、ついに紀州や水戸までこれは広がった。
(松井源水の長刀抜きが大道芸で広まったのもこの影響である)
 しかし田宮流抜刀といっても、万治元年に死んだこの派の水野新五左は、自分で
「水野流居合術」と改めているし、その派の加藤権兵衛も「水府流居合」と直して、
誰も「抜刀」という名称は避けている。なぜ「居合と抜刀」とは相違するのであろう
か。
 これこそ今までは解明されなかった一般武芸と捕物武芸の分岐点のようなものであ
る。だが、それを解く前に井上石香を本名の三河松助から考究する必要がある。通称
「三松」とよばれた彼は「福山史料」に現れる「三八」と同じであって、弾左衛門家
世襲の手代六人衆の一人なのである。
 弾家というのは幕末に三田屋敷で御用盗を指揮していた薩摩の益満休之助が、
「おはんのところは源頼朝の直裔ではごわせぬか」と言いにいったような家門で、室
町にいた頃は「室町弾左衛門」を名乗っていた。現在の日本橋室町の三越から日銀ま
でにその居宅があって、麹町平河から左岸は弾家の土地だったという。
 天正18年に徳川家康が江戸に入った際、土地を譲って墨田川向こうに移ったが、
幕末に到るまで、その敷地内には棟割長屋232棟、猿飼15戸、外に品川、代々木、
神田、日本橋に飛び地を持ち60棟ぐらいの長屋があって、慶応3年の調べでは弾左
衛門配下は江戸だけで6000人。これに奥州までの12カ国に6562カ所の支配
村落を持っていて、そこに散財している配下は女子供を入れると約50万人。この他
に「道の者」といって、墨屋、筆屋、獅子舞、鳥追いといった行商や遊芸で旅から旅
へと渡り歩く弾左衛門鑑札の者が20万人。しめて70万人の人間から人頭税を取っ
ていたのが弾家で、一人から年に一両とったとしても年間70万両の現金が入る家柄
である。そこで三田村玄竜の考証によると、
「江戸の札差の金は全部、弾家の金で、後世の日銀のような役割をしていた」という。
だから世襲の手代といっても実質は何万石の家老ぐらいの実権やみいりがあったから、
千葉周作に道場の一つも立ててやるぐらいは何でもなかったろう。
 しかし弾家というのは初めはそれ程の地盤でなく、これは墨田川の関屋別所を合併
してかららしい。といって弾家の意志でなく、家康入国の時に他地方なみに牢獄と刑
場を一つにして弾家の責任にしようとしたところ、関屋別所長吏の石出帯刀が300
石どりの武士になってしまって牢獄奉行になり、所属地を一切あげて弾家に任せてし
まった故である。 徳川政権の奉行職は次々とお役目替えがあるのに石出帯刀の子孫
だけは300年にわたって世襲であったのはこのためであった。
 また千住関屋の丑田にある千葉山西光院という寺に石出帯刀の石碑があるが、後に
その素性のところだけは判読できぬように石を削り除かれているのも、理由はそこに
ある。
 弾家は今の南千住駅前の昔の小塚原刑場だけが担当の仕事なので、破戒僧とかで人
別帳を削られてきた非人共の払い下げを受け、それを奴隷代わりに処刑人として使用
し、ここを6人の手代の一人にやらせていた。山田浅右衛門、通称「首斬り浅右」が
それで、御一新前は門人にやらせて自分で斬首などやらず、もっと威張っていたもの
だという手記が残っているが、「山田流居合抜き」とよばれて名高い神免流据物斬り
は、代々その山田家に伝わってきたものである。


白は逃がせ黒を捕らえろ

 では山田浅右の居合抜きに対して井上石香の抜刀術とは一体なんであったのか。
この区別が今日では全く判らなくなってしまっているが、「石香談話」の中に、
「われ十手をもち刀の下げ緒に引っかけ栗形(鯉口の下にある鞘紐通し)叉は反角
(かえりつの・・腰に差したとき鞘が滑らないように引っかける所)にこじり通して、
その鞘を抜くはこれ百発百中なりき」
という箇所がある。普通のこれまでの既成概念で考えると、刀を叩き落とすならわか
るが、鞘を抜くというのは理解に苦しむだろう。しかし文字どおり「自分の刀を抜く
のが居合術」「相手の刀を抜くのが抜刀術」なのである。だから従来の武芸観からゆ
くと、どうも「刀法とは相手を早く斬り倒すもの」と考えてしまい判らなくなるが、
江戸期に武芸を専門に鍛錬していたのが捕物側であった事を思い出せば、「抜刀させ
る必要性がそこにあったのだ」と帰納せざるを得ない。
 つまりこれは、「鯉口三寸抜いたなら、お家は断絶、その身は切腹」というのが千
代田城内だけの事と今では考えられているが、あれは帯刀する者全部への掟だったの
である。警官が外勤の時拳銃を佩用しているが、持っているからといって、むやみに
パンパン撃てないように、刀を差しているからといって誰もがやたらに許可なく抜刀
はできなかったのである。
 天保期から幕末にかけて治安が悪化したのはこのタブーが無視されて、気ままに抜
刀する輩が現れた為で、それまでの世情では国家権力は棒だけで取り締まりが可能だ
ったのである(やくざが勝手に持っていた私刀に関しては抜刀しても誰のとがめも受
けなかった理由もあるが)。
 抜刀の末の斬り合いが希有だった例証としては、切り傷に対する漢方医の処置法と
いうものが幕末まで全くなかった事実がある。
 会津藩事務局頭取玉虫左太夫が明治2年4月に西軍に命じられ自刃する前に書き残
した「官武通記」にも、外科の手当を知らずに難渋した旨の記載があるし、これは子
母沢寛の「からす組」や「狼と鷹」にも、蘭医松本良順が外科の処置を教えに行くま
で東北諸藩の医者は手当が判らずてんでに傷口を消毒するどころか温めたり冷やして
いた野放図さかげんがでている。つまり「需要があって供給が生まれる」原則からし
て抜刀し斬り合いをよくしていたものならば、漢方医といえどどうしても切傷手当の
外科はやっていた筈である。
 なのにその需要が全くなかったというのは、とりもなおさずチャンバラはなかった
事になる。こうなるとこれまでの通俗時代小説など絵空事でしかない。
 では、何を被捕物側は振り回し、国家側の捕物陣営と争ったかといえば、「鞘ごと」
である。だからして必要上鞘の末端には「こじり」とよぶ鉄の尖った物が冠せられ、
すぐ下には「責め金具」とよぶ鋭い鉄枠がつき、鞘が割れぬように「足金物」で厳重
にベルトが締められていた。
 それゆえテレビや映画と違い、被捕物側は本当は刀を抜かず、80センチの鞘ごと
向かってくるからして、それなら2メートルの樫棒の方がはるかに優位だったのであ
る。
 しかし鞘ごと振り回すのを召し捕っても、もし容疑が晴れたら虻蜂とらずである。
一旦捕らえるからには起訴事実を作っておかねば徒労になる。そこで考案されたのが
「抜刀術」である。十手の下の方の出っ張りは、あの間に打ちかかってくる刀身を挟
むのという不可能な事をするのではなく、鞘を引っかけて無理に鯉口を切らせ、刀身
を露出させ罪に落とす為である。
 「さすまた」にしろ「絡み棒」にしろ、用途は「抜刀させて罪にする」目的だった。
芝居などでは首へ差し込み挟み込むが、あの幅は15センチ間隔であるから。Mサイ
ズの頚なら入るがLサイズの相手では入らない。
 また十手それ自身でも、3センチの十手の二股の空間に、斬りかかってくる刀身を
すっぽりと入れる事はパチンコのチューリップへ玉を入れるよりも難しいし、もし抜
身なら十手のほうが怪我をしてしまう。今ならすぐ手当も受けられるが昔はそうはい
かない。クロロマイセチンや抗生物質のなかった時代では小さな怪我でもすぐ傷口が
膿んで破傷風ともよばれたが、命とりになってしまう。
 だから、そうした事を考えると捕物道具というのは「棒」が主要武器であって、十
手も初めは軍配や采配のような性質だったのが、点数稼ぎの末端の警吏に抜刀用に利
用されだしたものらしい。

 さて話は八一二年戻って文治二年。九郎判官義経が捕えられぬのに業を煮した源頼
朝が、日本全国六十六国に対する、「総追捕使」を自分でかって出た時、各地に警察
署を設けるわけにはゆかないから、六十六国に散在している二千有百の同族神徒系の
別所の長吏に、逮捕と処罰の警察権をもたせてしまった。ところが、この連中は足利
期に入ると、「城旗党余類」とよばれるように、白旗をいつもたてている部族なので、
自分らの事を、「仁田のしろ」「武田のしろ」と自称するくらいだから、捕らえてき
たのが源氏の末裔で、同じ神信心の部族の者と判明するや、
「白じゃ。同族の情けぞ」放免してしまう。
 しかし、そうそう見逃していては起訴できぬから、補充の意味で、墨染の衣をまと
う仏教系の反源氏の者を代用に捕らえてきては、「黒じゃ」と適当に罪科をつくって
処罰してしまった。あまりにでっちあげがひどいからというので「嘘の三八」という
言葉も伝わっているのは前述したが、目安箱に投書などをして、黒の者が白の役人に
再審請求することを、「黒白を争う」といったのはこの為である。
 八世紀にわたって日本全国で、鉢屋とか八部ともいう連中のボスの長吏が、代官手
先となって片っ端から捕らえて廻り、番屋の番太郎や目明し下っ引きの類も、
「白か」「黒か」とやったから、今でもこの用語は生きているが、薩摩系に警察権が
変った明治七年からは、今や実際には白黒は反対になったのである。
 そして村役人や番太だった八部衆が、「村八分」にされたように、長吏も関西では
仕返しのため「長吏ん坊」として苛められた。


二束草鞋と源氏屋

 また今日では「二束草鞋」という呼び方をして、博徒で御用聞きをつとめた者を悪
くいうが、「無職(ぶしょく)」というのは職がないのではなくて、職をもたなくて
もよい身分の者のことなのである。といって豪いというのではなく、これは七世紀に
仏教をもって天孫系が日本列島へ入ってきたとき、原住系を捕らえて別所という捕虜
収容所へ入れたが、「延喜式」といった古記録にもあるように、給食給衣の宣撫策が
とられ治外法権の民とされた。
 大江匡房の書き残した「傀儡子記」にあるような、
「一畝の田も耕さず、一枝の桑も作らず、己れらに主君はなしとし、生涯、貢租や課
役なきを誇り、夜ごとに白神をまつり白酒をあげて鼓舞しあう」といった無職渡世の
気侭な伝統を幕末まで持ちこし暮していた。
 つまり天孫系は各檀那寺に人別帖とよぶ戸籍台本を作られ、それで年貢をとられた
り、「助郷」とよぶ労力奉仕にかり出されるから、どうしても職というものが必要だ
った。
 が、原住系は百姓の作った米を、蔭では(勧進)と悪口をいわれようが、御用風を
ふかし巻き上げ徒食していた。この結果が天孫系はなにをやるにしても努力し銭にな
るよう、励まねばならぬから勤勉で仕事にすぐ熟練した。
 ところが原住系は何によらず遊び人気質が抜けず慣れないというので、前者を黒人
(玄人‥‥くろと)、後者を白人(素人‥‥しろと)といった区別の仕方すらある。
 さて、ぶらぶらしているのが博徒になるのは当たり前だし、その素性からして、代
官所の下働きとして、御用の十手を預けられるのは、これまた当然である。
 つまり、「二束草鞋」の方が主流派の存在であって、今でこそ有名だが、清水の次
郎長とか黒駒の勝蔵といった連中の方が、「半可打」という反主流派だったのである。
だから次郎長や勝蔵は自分の土地に居られず、旅から旅へと逃げ廻っていたのである。
 ところが、この双方の纏め役を、のちにかって出た安東の文吉になると、これは二
足草鞋の主流派だから、博徒といっても今日でいえば警察署長、当時の地方公務員だ
から、生涯旅がらすなどは一度もせずに、畳の上で大往生をしている。
 さて、春日局の実子で小田原城主だった稲葉美濃守から、駿府城代大久保玄蕃頭宛
慶安四年八月二十七日付書面で、「由井正雪の親類を探索のため、江戸から目明しが
来る」というのが現存している。だが、この場合は、「面通し」の意味で、俗にいう
目明し岡っ引きの類は、地方の八部、三八と同じで、江戸では弾左衛門配下の手代井
上石香に属していた。
 しかし弾家は人頭税はとるが給与は出さない。では何処から貰っていたかというと、
吉原が日本橋蠣殻町にあった頃より、ここから支払われていた。なぜかというと、遊
女屋というのは誰でも出来る商売ではなく、源氏の末裔の原住系の者だけが営める燈
心と同じような限定営業で同族だったせいである。だから遊女の名を源氏名というし、
目明しの下っ引きなどでぶらぶらしている者を源氏屋と昔はいったものである。
 さて日本の学生運動の草分けともいうべき1864年(元治元年)水戸の時雍館
(じようかん)生徒二十歳の田中源蔵が、学生三百を率いて決起したとき。
 いまは日立市になっている茨城の助川城に彼らがたてこもる前から、これを追撃し
ていた公儀機動隊というのが、水戸領鯉淵村他五十三村の八部衆たちで、彼らは昔な
がらの源氏の白旗をたてて総督田沼意尊の命令下に九月二十七日の早朝には、水戸額
田村の博徒隊寺門組二百、同じく博徒のうこん組の二百ずつと合流した。
 つまり源氏屋とよばれる二束草鞋の博徒が主力となって、これに奥州二本松の丹羽
軍をはじめ近接諸藩の軍勢が加わり二万の大軍をもって、田中隊の助川城を包囲攻撃
したのである。
 博徒といっても公儀御用の機動隊だから、みな鉄砲を持っていた。その銃口の前に
立ちふさがって教え子を庇うために、
「時習館教授方尾形友一郎」
「潮来館教授方林五郎三郎」
をはじめ、師と仰がれる多くの先生たちが散華していった。もちろん結果的には、十
三、四歳の少年までが捕われ、身体が小さいため斬首できぬからと木に吊るされ撲殺
されはした。
 だが、かつての師には、身をもって教え子を守る気概があったからこそ、三尺下っ
て師の影をふまずというような考えもあったのである。今日のように教官や教授がサ
ラリーマン化しては、バカヤロー呼ばわりされるのがいても無理はない。



                やくざ論考


破坊法時代

 雨宿りに映画館へとびこんでびっくりしたことがある。当今の事ゆえ常識的に席は
たくさん空いているものと思ったが、さて入ってみたら驚いた事に満員だった。
 筋書きは高倉健の扮する博徒が、もう刃物は使うまいと暴力を否定しながら、終局
的には追い詰められて、やむなく背中の刺青をみせ日本刀で斬り込んでいくという、
ありきたりのパターンだが、観客は熱っぽく咳一つせず皆画面に見入っていて、クラ
イマックスには掛け声までが突如として起こる。
 そこで好奇心にかられ、極道ものというのも見に行ったら結構これまた満員である。
交番へ極道一家が押し掛けていって、制服の官憲をこづきまわす場面があったから、
「さては反安保的心情派によって、こうした傾向のものは迎えられているのか」とも、
その時は思った。だが古い「週間朝日」のスクラップで、当時同友会の名で呼ばれて
いた院外団団長である故海原清平の報告を見ると、
「参議院における破防法通過のため、官房長官保利茂と法務総裁の木村篤太郎から私
に緊急電話があった。学生共が左翼議員から登院章を貰って、参議院へなだれこみ破
防法の邪魔をする動きがあったからだ。そこで特審局の情報に基づき、日本街商連盟
総裁の私は各地親分に電話をして、腕っ節の強い若い衆100名あまりを集め、これ
を参議院内に配置したところ、何事もなく破防法は成立した。今後も反共の一点ばり
でやりたいと考え、また実行する組織もここにできている
 引用が長くなったが、これは昭和27年の破防法の時のものだが、とても18年も
前の事とは思えぬくらい、生々しさがある。
 だからまるで、為政者がおおいに「やくざ映画」を奨励しているような感がしない
でもない。なにしろ皮肉なことは、土曜のナイトショー以外では、こうした映画の観
客層が「やくざ志願」といった青少年より、学割入場者の方が圧倒的に多いという現
象である。
 勿論ノンセクトの学生達にしろ、これまで好むと好まざるとに拘らず、衝突場面は
実地に何度も見ているだろうからして、
「映画のやくざが追い詰められ、自分等より装備の優れた敵に向かって敢然と突入し
ていく」といったプロセスに心情的に加担でき、その画面に惹かれてゆくのか。
 または、「親の血を引く兄弟よりも」と、たった一杯の杯のやりとりで「義兄弟の
情愛」を生み出していくといった奇跡的なものに、現在めいめい自分等の胸中に抱い
ている疎外感から羨望というか憧憬にも似た想いを走らせ、「相互間における闘争の
連帯性」といったものを画面から安易に感じてしまい、願望の現われとして受け入れ
ているのか。そうでなければ殺人行為を画面で見ることにへの、自己投入の満足感か。
または反対に、斬られる側に自分を置き、
「あんなにバッサリやられ、スカッと爽やかに死んでしまったら、きっとせいせいす
るな」
と現実逃避の精神を清涼飲料水並に扱い、それで堪能している場合もないではないと
思われるがどうであろうか。
 なにしろ殺すとか殺されるという事は、生存している物体には、これは妙に魅力が
あるので、推理小説でも殺人事件のないのはあまり読まれないというほどである。
 しかし、妙な話しだが、こういった大量殺人の映画が流行しだすと、これまでの例
では、(では実地にミニ殺人をさせてやろうか)とでも優しく親心を示してくれるの
か、我々が税金を納めている政府は、かつては「宣戦布告」といった穏やかではない
声明を過去にはよくやったものである。つまり、「死を鴻毛の軽さにみさせるため」
そうした映画を見せられているような気もしてならない。


役座が「やくざ」に

 これまで唯一の研究所として、故田村栄太郎著「やくざ考」改題「やくざの生活」
(吉川弘文館)という本があるが、これには「八九三」を以て「やくざ」の語源とし、
花札3枚の勝負で合計20は役に立たない数だから、その隠語から出たものだと巻頭
に解明してある。これが戦前からの説で、今では通説になりつつある。
 しかし花札賭博が一般化したのは極めて近世で、「八九三」のオイチョカブの如き
は明治時代に入ってからのものなのである。
 文献的に明らかにされている庶民的博打は応仁の乱の頃より、「宝引き」(ほうび
き)という藁しべの束から引き合って、長短または印によって勝負をつけるものがあ
り、戦国時代には流行し、後にはこれから「褒美」という言葉も生まれている。次に
「波形」と呼ぶ銭の裏表を当てる賭博。
 そして京の周辺では「賽子勝負」が飲茶博打と共に古くからあったが、賽子の本物
は入手困難だったから、大根などを角に切って用いていた。今日「大根を賽の目に切
って・・・」等と今日言うのもこの頃の名残であろう。
 さて、名暦二年版の「武者物語」の中に、陣中賭博の禁として、
「古き侍の物語に曰く。荒らし子(力持ちの小者)部屋の役付きもの(部屋頭)寝茣
蓙を特にたまわるを役座というが、陣中にまで卷き持ち来たりて、これにて藁の長短
を引く勝負をさせ、その内より損料としての役座銭をとるという」云々の記載がある。
 すると、「やくざの語源が八九三」というのは明治時代以降の後世の説で、戦国時
代は足軽部屋の頭分を「お役座」とよんでいたのだから、この方が語感からも本当で
はなかろうかと訂正したい。
 さてまた、田村栄太郎著では「寺銭」の事を、
「寺社奉行管轄の社寺で博打をすれば江戸時代は手入れがなかったから、そこで始め
たのが語源」
とあるが、これもどうであろうか。というのは江戸時代どころか足利時代の「看聞御
記」という伏見宮貞成(さだふさ)親王の応永23年(1416)の日記には、
「茶七所当て、各賭け物と取り合う。相残りし賭け物は寺銭に取り落とす」と、はっ
きり「寺銭」の文字が出てくるからである。この博打は口に次々に茶を含んで、その
産地を当て合うのだが、「勝負なしだった分は寺へ奉納」という事になっている。つ
まり室町時代は茶の栽培や輸入の権利が各寺院にあったせいである。
 が、この親王様の日記には、
「抹香をもりて一寸燃やす間、各賭け物をかけ争う」等という箇所もある。
 いま焼香に用いている香を3センチぐらいの山に各自積み上げ、それに点火して、
親王様や女御様達がフウフウ息を吹きかけ、
「それ二番ッ、あっ三番でました」
興奮して勝敗を争っていたものらしい。
 つまり室町時代の寺は現代と違って、カジノであって、ルーレットやスロット・マ
シンはないが、色々な博打をさせ、これを「ご開帳」と呼び、どんどん寺銭をとった
から、「坊主丸儲け」の言葉も案外こんなところから生まれたものかもしれない。
 しかし月にむら雲、花に風のたとえで、現在の美濃部東京都都知事のような人が現
れ、「ギャンブル追放」を命じた。織田信長その人である。
 それまで寺の本堂で、「茶賭博」で勝負するのはエリートだけだったが、門前の小
僧習わぬ経をよむで、いつか庶民も門前に集まって真似をしだしたから、「賭け茶屋」
というのさえできた。後の賭け茶屋のことである。そこで、
「一茶(いっちゃ)やるべし」のちの(いっちょうやるべぇか)と、飲みわけの青茶
勝負。蓋をとって茶柱でかける唐茶勝負が盛んになった。
 ところが繁盛しているその「闘茶勝負」を、呑むだけの侘しい茶へ信長は変えさせ
たのである。これが今も伝わる「わびすきの茶」だが、さて寺から博奕権を奪ったば
かりでなく、
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と彼は、延暦寺、高野山と片っ端から焼き討ちまでし
た。 ところが、織田信長の父信秀たるや、「山科言継卿記」の天文二年(1533)
7月14日の記載によれば、
「朝飯の時、織田信秀来たり、盆の料(しろ)として飛へ百疋、予と蔵人へ五十疋持
ち来たる」とある。
 これは京では食えなくなってきて、蹴鞠の家元飛鳥井中納言と都落ちした一行が、
信秀の城で百姓を呼び集めて、てんでに勝負に賭けさせた分の配当で、一疋とは銭十
文である。
 「盆をしく」とか「盆のしろ」というと近世の言葉のようだが、織田信長の生まれ
る一年前に、時の従三位権中納権のお公卿様が、その自分の日記に書いているのだか
ら、当時もギャンブル時代だったといえよう。


流浪の民

 また信長などの率いていた戦国武者というのは、室町御所奉行衆などと違って、
「丹羽の五郎左」「前田の犬千代」のように、上に在所の地名をつけ、「の」の字を
入れて呼びあっていた。
 つまり後年の「清水ノ次郎長」「黒駒ノ勝蔵」などというやくざの呼称と同じであ
る。 また、「次郎長十二人衆」といった言い方なども、「黒ほろ十人衆」「赤ほろ
十人衆」等という戦国時代の呼び方そのままである。
 さて織田の時代が終わり、豊臣の世になり、やがて徳川の天下となると、処世に巧
みであった者の他は、あわれや浪人となった。
 ところが今の「一般大衆とは百姓」と誤られた見方では、「帰農」というようにこ
れを扱う。だが、戦争中に疎開した人たちも、みな田舎へは行ったが本格的な百姓は
していなかった筈である。
 今も昔も耕せる所は決まっているし、それに、百姓がやたらに田畑など他人に貸す
わけがない。
 では浪人やその家族はどうなったかといえば、かつては武者や侍でも浪人すれば
「何々分限帳」等と呼ばれる城の人別からは削られるから、山へ入って、そこの頭目
の下で「きこり」「石切り」「漁師」「炭焼き」になるか、街道筋を流して歩く「流
浪の民」となった。
 しかし物乞いばかりしてもいられぬから、やがてこれが行商や旅芸人の群れへと世
過ぎの為に変貌していった。
 もともと戦国武者というのは、
「天孫系渡来の時に、戦いに破れて山へ逃げ込んだり、捕らわれたりして別所とよば
れる収容地域に押し込まれた浮囚の末裔」
であって、これが応仁の乱の人手不足で山から人買いの手で集められて、一条兼良な
どに「悪党」とよばれる存在となり、戦場での矢よけの楯代わりにされ、この集団が
「足軽」という新興階級になり、その中で辛うじて生き残れ連中のうちで、戦場でか
っぱらった槍や鎧で恰好をつけた者らは、「寸法武者」とよばれ、立身したのが「戦
国大名」にまでなった素性だから、また時世時節で落ちぶれてしまうと「落つれば同
じ谷川の水」というわけで、山へ入ったり流浪したのだが、この連中こそ「やくざ」
の源流という事になる。
 だから慶応元年12月20日、もと新徴組の酒井家見廻り組の隊列へ「ご直参であ
るぞ」と、それを鼻にかけた旗本永島直之丞が馬を乗り入れてきたとき、
「おのれっ」
と素早く眼にも止まらぬ早業で「無礼者ッ」跳躍して斬り倒してしまい、月番老中岡
崎五万石の本多美濃守や立花出雲守の指図で、やむなく屠腹する段になっても、
「切る前にはよく腹の皮を揉んでおこう」
 にこにこ笑顔で腹を指先で揉みほぐしてから、見事に臍を中心に十文字に切り、芝
増上寺塔頭清興寺の酒井家代々の殿様の墓と並んで石碑の立っている中村常右衛門も、
「甲州博徒祐天之助子分で、とんがり常」というのが、その前名であった。
 この祐天仙之助一家の隊士の中には、のちハワイへ渡って女王の用心棒となり、壮
烈に死んだのもいるが、この他に黒駒の勝蔵一家とか、尾張集義隊の雲風一家など数
えきれぬほどに、維新の官軍にはやくざが多い。
 しかし利用されるだけで最後は捨てられ、明治に入ると自分らの血を流して作った
新政府の博徒総刈り込みで、生き残った者も牢へ放り込まれてしまう運命になる。
 だが、「やくざは戦国武者の成れの果ての子孫」という事を誰もこれまで解明して
いないが、この筋道がわかるとすべて納得しやすい。
 江戸時代には「百姓」と「民」が別々であって、「無職(ぶしょく)」とよばれた
のは(というのも、江戸時代には百姓と民が別々であって、無職といわれるのは「石
切り、左官、きこりといった非農耕系上がりだった」と説明するのが面倒だから、講
釈師がみな有名やくざを百姓の庄屋の次男三男から身を持ち崩したようにしたせいで
ある)
 さて、それまでの途中、というとおかしいが、江戸中期の年代において、(今は流
浪の民になり行商人をやっていても、将来はやくざになるであろう)ところの彼らに
眼をつけ、これを利用しようとした飛んでもないのが現れた。


大岡越前守忠相

 江戸後期から明治初年に、少しも実録ではないものを「実録小説」と銘打って版木
屋が出版し、大いに流行させた。そしてその中の白眉は何といっても「大岡政談」で、
死後250年たつが、「名奉行」という通説がまかり通っている。
 しかし大岡越前の名判官ぶりというのは、皆中国からの翻案物に過ぎないのは衆知
である。となると歴代百五名もいた江戸町奉行の中で、なぜ大岡だけがこわもてした
のか、という事になるが、これには理由がある。
 つまり、大岡越前守の実像というのは、
「裁判の公正と市政の整備に心を配り、後世まで名を知られた」などと角川版「日本
史辞典」に記載されているような存在ではなかったらしい。
  現在、日本のあらゆる雑誌や書籍に「奥付」という項があるのも万国条約で定まっ
たものだが、日本では彼の考案で、
(何書物によらず、こんご新版の物は、作者並に版元の実名奥書に致させ申すべき事)
と、亨保七年(1722)に発令されたのがその後今も続いているのである。
 その他、家康の事には絶対触れてはならない。これまでの通説を破るような親切は、
絶対に世上へ流布させてはならない、この御停止を破ったら厳罰に処する、などと、
大岡越前は徹底的に今でいう出版統制令をひき、事前検閲制度まで行った。
(私は尾張徳川史料で、厳秘とされる「重代記」を昭和44年に見せてもらうまでは、
この家康のことについて触れるなという厳命は、当時の作家に対する弾圧策と思って
いた。ところが驚くなかれ、この布令の相手は尾張宗春だった。
 俗説では宗春は吉宗と将軍職を争って破れ、放蕩三昧に日を送ったのが、幽閉にさ
れた理由というが、真相は「桶狭間合戦における家康」を「庚申聞記」として、堀杏
庵に、「二人の家康の決戦」を堀田恒山に書かせたのが失脚の原因だった‥‥詳細は
「徳川家康は二人いた」七百枚に解明してある)
 さて、越前が名奉行の如く今日まで伝わってきた事の真相は、「彼が国家権力を握
って猛威をふるった」結果であり、だから死後も彼を讃える事によって奉行所の心証
をよくしようと、名判官物語を各版元が出したからに過ぎない。
 警察国家を目指した越前は、享保二十年(1735)11月6日に、
「江戸在住の香具師(やし)連中は出頭せい」と召集し、5日後には早くも
「御趣(おんおもむき)」とし、彼らに「抜け荷をして売買する者を見つけ次第、ご
領主御代官または地頭の役所にとめ置き、その旨を御月番まで訴えでるべし」と命令
をした。 アメリカ州並に、各大名の領国で法が違っていたこれまでの地方警察制に
対し、統一国家警察体制を越前は初めてここに樹立した。
 また、抜荷」と呼ぶ密貿易を重大視したのは、従来の説のような珊瑚や唐絹の類で
はない。日本では一片も産出しない火薬原料の硝石を、長崎出島だけで徳川家は独占
輸入していたから、その密輸入の取締まり。勝手に各大名が入手するのを弾圧し、反
乱を防止する為の方策だった。

 さて、和製FBIの原型を越前守は創案したのだが、この「やし」の分類に「暦売
り、易者、飴屋」等に混じって、辻講釈や祭文語りまでが含まれていたから、「講釈
師、見てきたような嘘をいい」で大岡越前は彼らの張り扇や四つ竹でも有名となり、
立派にもされてしまったが、不思議な事に「歌舞伎」や「文楽」には現れてこないの
である。
 何故かというと、これにはわけがある。これらのものは各地とも弾左衛門(地方に
よっては弾正または太夫)の取締まりに入っていたから、
「大岡なんて、なんだ。あの野郎ッ」と彼らは、それを芝居にしたり、人形芝居にす
ることを拒み通してしまったからである。
 この理由は、呼び出しをうけた中でも、「江戸にいつも在住の者」は除外され、
「諸国往来の行商や旅芸人」に限られたせいで、この「御用申付け」によって、元々
は一つの流浪の民だった原住系の勢力を分散させるため、越前が二分してしまったか
らである。
 つまり、今の小説やテレビのごとく、「隠密や忍びの者が、鳥追いや飴屋」に変装
するのでなく、正真正銘それらの者へ、「兼務」でFBIの探索方を命じたのゆえ、
これでは除けられた方が憤る筈である。
 さてそのうちに道中往来をするはずだった者が定着、という現象も起きてきたが、
それでも特権を笠にきて、浅草元旅篭町の兵助、清次郎は、寛政八年[1796]二
月に町奉行所へ、
「私どもは大岡様御勤役の時代に、やしとして別扱いされてきましたのに、五年前よ
り下谷山崎町の仁太夫という者から、葭簀囲いにて一ヶ所で立ち商いを続けるなら、
これは吾ら手下の家業である。よって人頭税を一人頭四十八文ずつ支払えと責められ
ております。しかし、仁太夫手下になりますと、猿若太夫や門付けなみとなって、旅
に出た場合も泊まる宿その他で難儀します」
と訴え出ている。
 弾左衛門配下とは、あくまで別のものだと今日でいう保護願いをだしている。
 この文中の仁太夫というのは「山崎仁太夫」といい、首斬りで知られた「山田浅右
衛門」と同様に、浅草新町の「弾左衛門六人手代衆」の一人である。
 つまりそれまでは道中往来の者だけが「お上御用の探索方」と決まっていた区分が、
この時から崩れた。そして従来、弾正または弾左と名乗る定着居住の頭領の下に、
「破戒僧、逃散百姓、相対死損い」といった寺人別帖から名を削られた連中が、「非
人」の名目で払い下げられてきて、これが牢番とか処刑人というのを勤めてきたのが、
「捕える警察権だけは、改めて定着したやしの親分たちに」と、ここに分離してしま
い、二足草鞋のやくざが発生する土壌が生まれてきた。