1091 論考・八切史観  3

 丹波福知山に明智光秀を祀った「御霊社」とよぶ古い神社がある。ここの神殿のみ
すの蔭の茶箱には古い物が多く入っているが、「とりでまもり」という半紙一枚のも
のがあった。年月日はないが、これと同一内容が、「正徳五年兵法雄鑑」の、<城ま
もり心得>にも入っているが、こちらは問答形式になっている。判りやすいから引用
してみると、
「おのが子、身内でなくも、(他人の奉公者でも)ほうびやることできる内は、死ね
といえば、みな物狂いのように働き、切所(せっしょ)をも命ぎり(限り)稼ぐ」
「して、旗色悪くなりそうらわば如何」
「もはや守るあたわず根落ち(落城、今でいう倒産)と見きわめつけば、物頭や武者
大将あつまりて替る(従業員組合が褒美も給料もでなくなった時点においては自己管
理)。これまでの主(城主)は彼らに首を渡し、これをもって城兵は敵におのれらの
命乞いをなすものなり」
「もののふの頭とたつ者は、その正念場こそ肝要にてあれ。己が家来に首を渡すは最
後の褒美とこそ思え」
「いかにも、いかにも」
となっている。

 つまり、これまでの明治時代にできた売絵武士道では、
「いざ、城を枕に討死せん」とか、
「かくなる上は是非に及ばず、さあ我ら一丸となって敵中へ討ちこんでこまそ」
まこと恰好がよいけれど、実際は土壇場へくると、家臣団につきあげられて、それま
での責任上、城主たるものは自決を強いられたのが士道の常識らしいが、これではな
んだから、
「では‥‥てまえ一命をもって城兵一同の命にかえて頂きたく」と、年号は古くして
あるが、実際のところは天保以降の幕末出来らしい。
『川角太閤記』の中でも、備中高松城主清水宗治が、満々たる水面の小舟の中より声
をかけてくれば、それに秀吉もうなずき、すぐさま、
「天晴れなるお覚悟、いざ、いざ見事に生害なさるがよい」
目付役の杉原七郎左に酒肴をもたせるやる、といった具合に、死花を咲かせるという
のか、みな体裁をつくろい、恰好をよくしている。
 しかし、これは常識で考えても、落城して倒産ともなれば、もう給与も入らぬのだ
から、「せめて命だけは助かりたい」と、妻子を抱えた者が、これまで只働きした事
になる空手形の決済に、その主君の首級を要求するのも、酷のようではあるが、きわ
めて合理的であって致し方のないことだろう。
「武士道とは無報酬主義であった」と、おおまじめに主張する方がかえっておかしい。
 また、武士道はきわめて金銭とか金銭慾を無視するものであるというのも、霞を喰
っている仙人ではあるまいし、あまりにも売絵である。
 稀覯本だが、「貞亨元年申子季冬上旬刊」の奥付のある、「手印図」を私は所有し
ているが、その始めの書きこみに、
「戦国の世、武者衆は手形(てぎょう)をおして命代となし、首を落される前に、落
とし前をつけあう、これより、武者は相身互いなどというものなり」
とある。
 だから今でも、やくざ用語に、「落とし前をつける」というのがあるが、これはな
かなか故事来歴のある言葉らしい。
 つまり、天正十五年の秀吉の九州征伐のとき、
「秋月種実は、楢柴の茶入れと来国俊の銘刀に、銀子一万枚をもって命代にあてた」
と、落とし前をつけたことが、『武家事紀』にもあるし、こうした例は多い。
 太田蜀山人の集めた『杏花園随筆』の家伝史料の中にも、
(掌の手形をおしつけたいにも紙も墨もなく、仕方なく口約束で見逃してやったとこ
ろ、あとから命代を払わぬのはけしからん)
といった大坂御陣の折りの祖先の往復書簡などが、明治四十四年の国書刊行会のもの
には堂々と収録されている。
 だから金銭に無慾どころか、江戸中期、「儒教」を押しつけられ、「忠義」という
事が言われる迄の士道は、
「一にも、二にも褒美、恩賞、金銀」が、すべてだったようである。
 そういえば、
「武士の言葉に二言はない」
「武士の一言は金鉄よりも固し」
などと、しきりにいいふらされ、それが「士道」そのものとなり、かつての「軍人勅
論」においても、「ひとつ、軍人は信義を重んずべし」となってしまっているが、こ
の真相たるや、
「武士は相身互いだから、出すものをうんど出して命代さえ払えば、首の落し前に話
はつくが、殿様でもなければ印形や花押など持っていないから、一般武者は掌に墨を
つけ証文の判にした。もちろん金額がかさむから、一度払いは無理ゆえ分割払いとな
った」
ものらしい。
 このため、今日の「月賦」という文字が、金を意味する貝篇に武がつくのも、起源
はこれからであるといわれる。
 しかし、乱戦となれば紙も矢立も紛失する場合が出てくる。こういう時には現行の、
「信販制度」の元祖になる信用貸ししかない。なのに契約しても嘘を言ったのでは、
こういう保証は成立しなくなるからして、ここに士道は、
「武士はプロである。プロは死なない。だからそのためプロは信用第一」となったの
だろう。
(つまり、「武士の言葉に違いはない」とか、「武士の一言は重い」とか、「もし嘘
をついたら衆人の面前でばらして恥をかかされ、それで信用を失い二度と落し前がつ
けられなくなるのも止むをえん」‥‥といった士道の原点はこれなのである)
 家康の面前で、七の字を反対に書き、「左七」の旗指物で有名な村越七十郎を初め、
「戦国人名辞典」をみると、(戦国武者)にして、後に金融業になった者は多い。
今と違って退職金が年功加算で貰えたという時代ではないから、おそらく彼らは戦場
で落とし前をつけた約束手形の取立てに廻って、やがて、それを資本にして金貸しを
開業したのだろう。
 山中鹿之介のごときはその討死後、遺族が鳥取から追われて池田の先の鴻池で細々
と、棒手ぶりの酒の行商をしていたのが、突如として大坂久宝寺町の目抜きの土地に、
一町四方の店を建ててしまい、これが有名な「鴻池家」の元祖になるのだが、当時も
はや主家の尼子はつぶれているし、後家婆や遺児が金を借り出すところなど何処にも
ない筈である。
(この時代は、酒屋といっても、小売商と違い酒造業になるのには、「座」へ加入す
る必要があった。そしてそのために、摂津三郷では銀二十貫の「酒役(ささえき)」
の上納をしないと組合に入れなかったものである。それに久宝寺町の土地建物を合計
すると、今なら七、八千万円の資金が掛かった筈である)
 ということは、山中鹿之介は戦場であまり敵を殺さず、約束手形ばかりとっておき、
それを遺族が集金取立てにいって金策をしたのだろう。
 でないとおかしくなるのは、ヨーロッパでも何処でも異邦人を討ち払った者だけに、
「英雄」の称号が与えられるのに、同国人を沢山殺したことになっている山中鹿之介
に人気があるのは、「いささか変ではないか」ということになる。
 本当は殺さず手形だけとっても、毛利方をあまりいためず見逃してやり、その手形
の回収も生前は放ったらかしにしておいたから、世人がこれを徳として、「山中鹿之
介」を英雄と讃えたのではあるまいか。
 また、戦国時代は、武者が金さえできると商人になったからして、「番頭」「手代」
といった武家言葉の呼称がそのまま商家でも用いられた。


葉隠とは

 さて、現今と違い戦国時代の日本の総人口は千万いるかいないかで、プロの連中は
相身互いに生命を大切にしあい、それが「士道」だったのだが、やがて世の中が平和
になり元禄頃になると、もはや前程はあまり死ななくなって人口が倍加してしまった。
これは生活問題である。
 それに慶長元和から殿様の領地も決まってしまい、家来が子供をうみ分家させると
いっても、「そうか」と前みたいに気前よく扶持は出してやれない。だから百姓は、
「間引き」と称し生まれてきたのを眼のみえぬうちに処分したが、武士の場合は、
「大人を間引き」という事になった。端的にいうならば、浪人させて追い払うか、そ
うでなければ、「武士道とは死ぬこととみつけたり」と、かつては生き抜いてゆくた
めの「士道」が、平和になるとこれがあべこべに扱われるようにもなってきた。

「図にはずれ(思惑どおりにならず)死にたらば犬死気違い死なりといえども恥には
ならず、これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めて死に、常住死身になって居る時は、
武道に自由をえ、一生越度なく‥‥」
と、「葉隠聞書」第一にでている。
 さて、これが流行した頃、明白に理解できる人が少なかったのか、誤読された傾き
がある。「武道」といっても「武人の道」で、いわゆる武芸のことではなく、これの
書かれた寛永正徳年間では、武芸の方は、はっきり区別されて、「武辺道」と呼ばれ
たものである。つまり、「葉隠」の書かれたこの時代は浅野内匠頭事件の十年後で、
その影響が多く入っているが、もし浅野家にしても、いま考えられるような御指南番、
つまり武道師範がいたものなら、内匠頭が無刀の吉良上野介に二度まで斬りつけ、
「擦過傷」という事はあり得ない。[八切氏の他の著書では、『浅野は柳沢に命じら
れて単に吉良を挑発して抜刀させんとしたのみ』だったとの説もありますが]
 講談で馴染みの高田の馬場の安兵衛も、「浅野分限帖」では、指南役でもなんでも
なく無役となっている。だから第一行の、
「武士たる者、武道を心がくべきこと、珍しからずといえども」
から誤ってしまうが、チャンバラではなく武人の道、その心得をさして言っているの
である。
 だからして、槍や剣を鍛練し励んでいる筈の者がと解釈したのでは、(そうでない
と、犬死気違い死しても、それは恥でない)というのでは辻つまが合わない。
 ついでだが、「国学」とでてくる文字を、「平田篤胤や本居宣長の国学」と間違え、
勝手に結びつけたがるむきも多いが、これとて、「鍋島家の佐賀の国の歴史」の意味
なのである。

 さて、「葉隠」は、藩中に不用の人を多くしない為みたいに、みな死ね死ねと書く
他に、「聞書第二」には、まず男と女を結合させぬ方が、産児制限になると考えたか、
「恋の至極は忍ぶ恋とみたて候、逢てからの恋のたけが低し、一生忍んで思い死する
ことこそ恋の本意なれ‥‥」
 プラトニック・ラブこそ最上であると、これなら絶対に人口が増えぬからと奨励し
ている。しかし元禄期以降は、江戸表の直参の御家人あたりでも、
(忍んで思い死は無理だが、せめて子沢山にならぬよう)
と、正式には妻帯せず、知行所の百姓娘や奉公人を妾とし、これと同棲していたのは、
故子母沢寛の幕末ものにもよく出てくる。
(これは現代とは違い、昔の武士は、家名に世襲で扶持を貰っていたのだから、伜が
成人すると自分は停年制をとって隠居願いを出し、入れ替わったものだが、もし当人
が若死し子供が幼かった場合は、<役に立たぬ小児にお扶持を賜るは不忠>と辞退し
なくてはならぬ。それゆえ、自分が早く死ぬ時のことを考え、殿や周囲に迷惑をかけ
ぬよう、妾でもってすませていたのである。現代の男は先に妻を持ち、後から二号三
号を作るが、昔の武士は反対だったのである)

 つまり、これも士道で、持参金つきか良い家柄の女を嫁にするまでは辛抱していた
もののようである。この士道は明治大正昭和になっても続行された。この結果が、兵
隊はアマだから別だが、プロの尉官以上には適用、嫁とりの時は、「結婚願い」を上
司に出し身上調査を憲兵にされて、相手の女性が花柳界出身などと判ると不許可にな
った。
 端的に水商売がいけないというのではなく、
(良い所から嫁さんを貰っておかぬと、戦死でもされたら上官や同期生ら周囲が後で
泣きつかれて困る)
という武士道が残っていたのである。
 さて、今から数百年後の世になって、
「昭和四十五年刊の『交通』という本に、道を横断する時は必ず左右を見るべし、ち
ょっと待て、頭をふって見て渡れ‥‥などと出ているところをみると、あの頃の人間
は注意深く交通事故など皆無だったらしい」
というような考え方をするのが、今も「葉隠」を奨める人たちの受け取り方ではなか
ろうとも、それは極端かも知れないが危惧する。といって、それは、
「首うち落させてより、ひと働きはしかとするものと覚えたり」とか、
「病死したてと、二三日は堪え申すべし」又は、
「大悪念を起したらば、首を落ちたるとて、死ぬ筈はなし」といった非科学的な、神
がかり思想をあげつらうのではなく、
(死んでも奉公するから飼ってくれ、給与を頂かせてほしい、とCMしなければなら
なかった悲しい封建時代の奴隷の思想)を、「loyalty」といったもので再還
元しようとする処の、唯、(判りやすいから、説得力があるから)というだけで、こ
れを押しつけたがる売絵精神の歴史屋や思想屋を難じたいのである。
 つまり、この遺著というのは、
「中世紀の武士団はこうであり、ああだった」と客観的に述べているものではなく、
例えば、殿様に刀の鞘ごとで殴られていた者が、誤って殿がその手から刀を取り落と
し谷間へ落すと、自分も後から転がっていって、刀の鞘ごと襟首にさしてきて殿に奉
ったというような話も、
(我々は殿に対しては、みな家畜のごとく、かく従順なり)という手前味噌にすぎな
いのである。決して、それは士道といったものではない。
(武士はもっと違ったもので、「彼奴はサムライだ」と今も使われるような存在だっ
た筈である。というのはこの「葉隠」を残したと伝わる山本神右衛門が生粋の武家の
出でなかった事に起因しているのではあるまいか)
 なにしろ、生まれたとき口べらしの為に、塩売りの下人にやられようとまでした山
本神右衛門は、小僧奉公ののち小姓、御書物手伝いになったとき、これでようやく一
人前の扶持とり、つまり土地を貰える士分に取立てられるものと思っていたら、意外
や「御切米仰せつけ」になった。これは何石とりという身分ではなく、「何人扶持」
という軽輩の中でも最低の身分である。そこで山本は、(俺ほどの男を‥‥)と悲憤
慷慨したので、
「奉公の至極の忠節は主に諌言し国家を治むる事にあり、つまり下の方の身分などで
は役に立たぬ。とはいえ家老職は奉公人の最上層ゆえ若くてはなれまい。よって五十
歳になってからでも一度は御家老になってみようと覚悟をきめ、四六時中その工夫修
行に骨を折り、紅涙は男だから出さなかったが、黄涙などの出で申し候程に、勤めに
勤め努力したものである」
と、その聞書第二の末尾に自分で山本神右衛門は書いている程である。だからこそ彼
は、
「若年の時分より一向(心)に、殿さまの家来はわれ一人だけと骨髄に徹し想い込み、
ただ殿さま大切に存じ、何事にあれ死狂いは、われ一人と内心に覚悟したるまでに候」
とか、
「武士道とは本気にては大業(家老職)になれず、気違いになり死狂いするまでの努
力なり」
「奉公人の禁物は、大酒、自慢、奢なるべしと思う‥‥武士はまず身命を主人に奉る
が根元なればなり」といった具合に、今でいえば山本は、
「猛烈社員ぶりを発揮して、重役の椅子を狙ったこと」になる。ところが、
(はたらけどはたらけど、なおわがくらし楽にならざり、じっと手をみる)のは、明
治の石川啄木の歌だが、
「励めども励めども立身できず、殿様から家老に取立てて貰える代わりに、『慰み方
に召し使っている者は加増は遠慮ゆえ、志までにくれてやる』と夜着一枚だけ下しお
かれた」
というのが、死にもの狂いの努力の結果だった。
 古来、百両のかたに編笠一つというが、五十余まで努力して、夜着一枚きりでは死
にたくもなろうではないか。なのにこれを「売絵武士道」を説く連中は、
「あわれ、この夜具をかぶり追腹仕るべきものと、骨髄有難く存じ奉り」
の自嘲を字句通りにとって、殉死の精神と説いている。いくら山本神右衛門が馬鹿で
もここまで、「忠義の手本」にされては堪ったものではあるまい。
 彼が五十二歳のとき、世に望みを棄て佐賀郡金立村黒土原に庵をかまえ隠棲したの
も、
「鍋島家では百姓は奴隷として他国への逃散を許さなかったが、扶持をかつて与えた
者も、やはり浪人させても在郷軍人として他国へ移動を禁ずる」
 国法に縛られていたからである。そして、後世は、この書をもって唯一の武士道の
聖典のごとく扱うが、これは山本にとっては、「怒りの書」でしかない。つまり、悲
憤の血涙の文字であり、(自分は、かくかく努力して励んだ。なのに酬いられなかっ
た)というものである。
 それが大東亜戦争時のマスコミによって一躍脚光をあび、
「葉隠武士・山本五十六」などと冠句されてから、これが唯一の「武士道」の本とさ
れてしまい、彼が、
(かくかく自分は一死を捧げ殿につくした)という個所だけが強調されて、肝心な彼
の(家老になりたさに)という目的主張をとばし、一般国民の戦意昂揚に利用された
にすぎない。
 今日の猛烈サラリーマン読本みたいな武士道教科書を、なにも山本神右衛門は作っ
たのではないのだが、これしか戦意高揚に利用できかなったという事は、「伝承の武
士道」は売絵にすぎなかった事になる。もっと人間味のある日本人らしい立派な素晴
らしい「武士道」が過去にはあったと私は信じたいし、これからの士道も、我々日本
人だけが持つ純粋さを何かに捧げることで、新しい士道は生まれることだろう。
 なお、「毛利は四つ矢」[八切氏の作品]の連載の時集めた史料の中の、
「郡山城諸国合戦注文書」「芸陽記要綴」などの中には、
「端隠れして兵が進まず」とか、
「木の葉隠れに身をひそめ姿を現さず」
といった語句が散見され、秀吉祐筆頭の「大村由己書簡」にも、
「前備中庭瀬城主御子田半ざえもん、小田原御陣のとき敵前にてひるみかくれし科、
一条戻橋にて、はがくれに付梟首と立札なり」
とある。江戸中期の山本神右衛門は不遇のまま田舎へひっこみ、木の葉隠れに埋る意
味でつけたらしいが、戦国時代の用語では違うようである。
 そうでなければ、「葉隠」というのは、
「葉隠する者に与えるの書」でなくては、筋が通らない。
 つまり、士道というのは、戦国時代と江戸時代では違うごとく、現代でもそれは単
純に「愛国精神」といったものに置き換えるべきではなく、国民として国を愛する気
概はそんな「まやかし」でなく、もっと正しいものを納得できるよう歴史家は調べ出
すよう努力すべきである。



                 捕物論考


 「捕物」は江戸期のものには「捕者」とある。これを「物」にしてしまったのは、
泉鏡花の弟の泉斜汀の著書の題名からであるというが、「半七捕物帳」など、この種
の読み物は多い。
 しかし、おかしな事にこれらは「大岡政談」が中国物の翻案である様に、海外物の
焼き直し以外の何物でもなく、本質的な事は何一つ解明されていない。
 誰かが不思議に思って、これに正面から取り組んでいないかと調べてみたが、世に
私(八切)のような凝り性というか、愚かな苔の一念で物を調べるようなのはいない
とみえて、何処にも見当たらない。
 だから、これから述べる事は捕物の原点みたいなもので、初めは多少は奇異に感じ
られても、「常識」をもって「そうだったのか」と解って戴ければ、労多く大変だっ
た私も満足である。
 そこで、まず「捕物の話」のような興味本意なものや、「奉行所目録犯科帳」のよ
うな通りいっぺんな空虚な物は(つまりフィクションは)これを採らない。従来の捕
物観は白紙に戻し、あくまでも常識をもって、それがこれまでの概念からいっておか
しく考えられるとしても、ここに論評を進めねばなるまい。
 まず、その道具。
携帯用捕物道具であるが、反対側として引用するのはどうかと思うが、まず念頭に浮
かぶものとしては、全学共闘会議派連中の「完全武装」といわれる恰好である。これ
は「ヘルメットにタオルの覆面」であり、武器は赤軍派以外は「ゲバ棒」と呼ばれる
角材と火炎瓶や投げる為の石である。ところがこれに対する「捕物陣営」のいでたち
は、ヘルメットは同じようだが材質が堅牢でタオルのマスクのようなちゃちなもので
なく、厚いマスクをもってしている。そして角材に対してはジュラルミンの大楯、警
棒、ガス銃、放水車、装甲車まで揃えている。
 いつの時代でもそうだが、国家権力を背景にした捕物側というのは、被捕物側であ
る連中よりも常にその装備に於いて格段の優秀性をもっているものである。またこう
でないと「捕縛する」という目的に支障をきたす。それだからこそ我国では一般人は
拳銃など持っているだけで不法所持として逮捕されるが、捕物側は公然と携行が許さ
れるわけであるが。
 ところがこの明白な区別が明治以前となると、全く反対の様に今日では見られてい
る。例えばテレビにしろ小説にしろ、「御用、御用」とかかっていく捕物側が「おの
れっ 参るかっ」とバッタバッタと切られていく。なにしろ被捕物側は抜身の刀を振
り回しているのに、召し捕る方は十手の他には樫の六尺棒。せっぱ詰まって持ち出す
のが梯子。目つぶし用の砂か灰。大捕物となってようやく現れてくる「さす又」「か
らみ棒」の類でしかない。
 しかしこれも棒の突端にU型の鉄がはまっているか、イボイボがついている程度で、
ゲバ棒の突端に五寸釘がうちつけてあるのと大差ない。すると江戸時代というのは
「国家権力側の捕方の方が極めて良心的かつ平和愛好型であった」という事になる。
そして、今日でこそ「警察官募集」のポスターをよく見かけるけれども、昔は次々と
あんなに切られてしまう捕方の補充をどうしたのだろうか? 人手不足ではなかった
ろうが、よくも殺される方の側になり手があったものだと素朴な疑問が起きてくる。
 なにしろ、いくら樫の棒が固いといっても、これが日本刀と激突した際、スパリと
切断されるのは鉱物質の方でなく木質のほうであるし、十手とよばれた鉄性捕物道具
も重量は2キロしかない。平均6キロを越える日本刀が打ち下ろしてくる太刀先を2
キロの物体で受け止めた時、切線加速度をa、刀の重量をMとすれば「a+M」の衝
撃つまりFの力が2キロの十手にかかってくる計算になる。さらに刀を構えるのが、
頭上に直立の型なら90度、大上段にふりかぶってこられたら、180度の加速度の
力が十手にはかかる。すると江戸時代の捕方の平均身長が160センチ以下だとして
も、肩の付け根から十手を握る手までは60センチ間隔だから、その衝撃波に対し肩
までの距離は瞬間的に4分の1に短縮される。すると力学上手元で80センチの刀身
を受けた場合は十手を持つ側の肩先へ20センチの斬り込みを生ずる。
 勿論これは一般的な「力の法則」であって、いわゆる武道や刀法には何等関係ない。
誰がやっても同じ結果が出るのである。技術面の問題でなく、ただぶつかり合った時
の衝撃の力学計算の結果である。
 仮に十手が固定していても「弾性限界の荷重度位の法則」があるから、刀よりも十
手が重量のある鉄棒でもない限り被害は免れ得ない。相手が剣豪や名人でなくとも、
捕方は絶対に殺傷を受ける筈である。という事は、どうしても国家権力の側の武器の
方が劣る事になってしまう。
 ところが明治9年3月28日に佩刀禁止令が発布され、一般が丸腰になった後の邏
卒の捕物道具も、不思議な話だが全く江戸期と変わりない。今までこれに疑問を抱い
た者はいないらしいが、はたして真実はどうであったのか。


村八部の起り

 頼山陽が門下生になり教えを受けた事もある備後神辺の儒者にして詩人でもあった
菅茶山は、文政10年(1827)年8月に死去する前に「福山風俗」「福山志科」
を書き残した。
 その中に備後福山市東の三吉村に、
「三八という者らの住む地域あり。これ水野侯が福山十万石を賜る時、三河より伴い
きたりし八の者なれば、今も三八と名づく」と出ている。
 この水野侯というのは「汝も光秀に肖るべし」と、家康から光秀遺愛の槍を貰った
寵臣で、大坂夏の陣の大和街道の指揮官を勤め、後の島原の乱にて討死にした板倉重
昌に代わって松平伊豆守が指揮をとっても不落と聞くや、老体に鞭打ち福山から駆け
つけ島原を落城させた水野勝成で、その三男も旗本に取り立てていたが、この倅が旗
本白束組の水野十郎左衛門である。
 さて、この福山の三八について、「六郡志」に、
「三八は常に両刀を腰に帯び、牢番、警吏、拷問、処刑をなし、深津村專故寺の前に
て斬首をせしが、のち榎峠にてこれを行っていた」同地方の事を誌している。
 また「備後御調史料」では、
「当地にては茶筅は竹細工をなすが、勧進ともよばれ代官役所の稲の坪切りをなし、
普段は捕縛術剣術の練習をなし常時代官の検覧をうく。また鎮守の祭礼には神輿の先
払いをなし、陣笠ぶっさき羽織にて両刀を帯び、手に六尺棒腰に十手をさした。三八
または八部衆ともいう」とでている。
 これは「おどま勧進勧進」の五木の子守唄で知られるように、いわば「乞食」扱い
を蔭ではされながら、表向きは刀を二本さし代官直属として、気にくわぬ者はすぐ召
し捕ってしまい、でっちあげのように牢屋へ放り込んで断罪していた三八の風俗であ
る。今でも言われる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」の語源かこれからだという。
 さて、なぜ百姓が彼らを乞食扱いしたかというと、正規の扶持米ではなく、百姓か
ら役得のように米を巻き上げ、それで寄食していたせいである。
 明治維新で薩摩出身の川路利良が邏卒総長となり、外遊後新しい制度を設けてから、
それまでの警察官であった三八が村内からつま弾きされてしまったのが、いわゆる今
も伝わる「村八分」の起こりなのである。
 また、裏日本での「因幡志」にも、
「伯耆や因幡にては、元日、盆の十三日にはハチヤが唱門師のごとく各戸を廻り米穀
を貰い受く。平時は御目付役宅に出入りし、棒や十手をもって警邏をなし、軽罪はハ
チヤ預けといいて、彼らに歳月を限ってハチヤの奴僕とされた。」
とあるし、出雲などでは、
「文化4年(1807)松平出羽家書上書」という公儀へ提出の公文書もあり、それ
には、
「当家が雲州の拝領せし後、各郡ごとに「郡廻り鉢屋」を設け郡牢を一個所ずつ置き、
この鉢屋の頭は尼子時代の牢人の素性ゆえ「屋職(やかた)」とよばれ、その下に
「村受け鉢屋」があって、これが各村ごとに数戸ずつ配置され、担当区内の村民の非
違を司っていた。これは天領の大森町も同じで、他に一定地ごとに鉢屋の集落移住地
があり、ここでは常時、抜刀、柔術、棒術を修練。山陰地方にて名ある武芸者はみな
此処の出身なり」
堂々と書かれている。
 しかし明治7年に警察制度が変革してからは、やはり村八分として追放された者が
多く、大正6年調査表の「島根県分布一覧」には僅かに、「鉢屋186戸、長吏17
3戸、番太56戸、得妙3戸、茶筅30戸。計448戸」とある。
 また尼戸の残党が村受け鉢屋や郡代鉢屋になった事の裏付け史料としては、
「昨十九日の合戦にて、鉢屋掃部ら鉄砲をもって敵を討取りし段は神妙に候」
「はちや、かもんら永々と篭城のところ、このたびも敵勢取りかかり押しよせし時も、
おおいに力戦奮闘、武辺をかざりしは神妙也」といった永禄8年4月20日、同10
月1日付の尼子義久の花押のある感状が、はちや衆かもん衆頭の、河本左京亮宛で現
存している。
 「掃部頭」というと、今では井伊大老の事をすぐ連想するが、彼が公家を弾圧し安
政の大獄を指揮したのは彼個人のバイタリティーのみでなく、「公家に対する地家」
つまり「俘囚の末裔が武家である」という民族の血からの、反動的な圧迫だったとも
みられるのである。
 それにもともと公家というのは、「よき鉄は釘にならず、よき人は兵にはならぬ」
というのを金科玉条となし、彼らが征服した原住系の末裔をもって兵役を課し、「夷
を以って夷を制す」となし、これが武家の起源であるが、差別の為か蔑視の理由によ
るか、そこまでは解明できないが「掃部頭」とか「内膳」「弾正」といった官名ぐら
い軽いものしか、武家には与えていない。「清掃人夫取り締まり」とか、「配膳係り
のボーイ」といった扱いだったのが前者の意味であり、後者は「糺」という文字も当
てられ「ただす」と訓されていた。これは唐から輸入された制度で天智帝の時に始ま
り、大宝令で法文化された延暦11年(792)に「弾正例八十三条」という当時の
刑事訴訟法が発布されたが、公家は、「兵になる事を嫌った」ごとく、「ただす役割」
もまた嫌って、これを原住系に押しつけた。「千金の子は盗賊に死せず」の精神なの
である。だから、よく映画や芝居で「おのれ、不浄役人め」とか「不浄な縄目にかか
るものか」と軽蔑した言葉が出てくるのは、つまり俘囚の子孫が役人だった事に起因
している。
 だからして公家が織田信長の父信忠に「御所に献金したのは奇特である」と「弾正
忠」の官名をやったりしているのも、織田家というのは実は近江八田別所、昔の捕虜
収容所の血統だからである。
 しかし、尾張の織田家を弾正にしたところで、京へ来て「御用、御用」と召し捕り
をやるわけではないから、その後は有名無実になってしまったが、明治2年5月に新
政府はこれを復興。同7月に弾正台京都出張本台、4年2月に弾正台京説摂出張巡察
所と、捕物機関を設けたが、後司法省に吸収され、なくなってしまった。


武道は誰のために

 さて、これに対して被捕物側である一般大衆はどうであったかというと、天正16
年(1588)に秀吉の刀狩が施行されたが、江戸期においては「道中差し」の名目
で旅行用服装時に限り、帯刀は一般にも黙認されていた。
 そして幕末の天保から慶応にかけて黒船騒ぎや国内事情の悪化で護身用の目的から
泥棒を見て縄を綯う如く武道が流行した。さて、こうなると極めて職業化され生計が
なりたったから、プロが輩出したのである。
 「徳川実記」にもこの記載がある。そして、それに便乗して「本朝武芸小伝」「新
撰武術流祖録」の類が木版本で後に刊行された。そして、さも戦国時代から何世紀に
もわたって武道というものが隆盛を極めたものとしてこれをうたい上げた。だからし
て現代では相当の知識人であってもほとんどの人に、
「江戸時代というのは侍は元より町人でさえ腰に刀を帯びていた。だから各地に道場
があって、皆剣の稽古をしていたもの」といった概念があるらしい。それ故「道場の
門弟が跡目を望んだり、道場主の娘を狙って争う」といった、武家に実際には有り得
ない設定のものや(三田村鴛魚著「大衆文芸評判記」(中央公論文庫)参照)、「殿
様の前で刀と刀の御前試合があった」「15歳から町道場へ通った」、などという天
保以前の太平の世では有り得なかった荒唐無稽さが、講談やテレビの影響で抵抗なく
受け入れられているらしいが、もし一般大衆である被捕物側がそんなに武道鍛錬を励
んでいるならば、これを逮捕する側が棒と十手だけで太刀打ちできたものだろうか。
 それによく「刀は武士の表道具」などというから幕末に輩出したプロは皆武士階級
出身である筈と思うのだが、比較的知られている連中を挙げていっても、
千葉周作=馬医者(猿飼部族)の家筋  男谷精一郎=検校の倅
斎藤弥九郎=商家の丁稚上がり     土方歳蔵=日野・松坂屋の小僧
岡田十松=埼玉砂山・農業       浅利又七郎=千葉松戸・農業
と、有名剣客で士分の身分の家柄は案外に誰もいない。これははたして何を意味する
のだろうか。「本を買い込んでつんどく」のと「読む」のというのは違うというが、
300年来刀を腰に差している階級から剣客が出ずに、他の階級からそうしたプロが
生まれてきた事は、これは動かし難い事実であり、これまでの概念とは違い三代将軍
家光以降は幕末まで各大名屋敷に「武術師範」と称された存在はない。また「何々道
場」等といったものも、今では常識化されているが、実際のところ一般化されていた
のは虚構ではないか。
 これは前述したことの反復であるが、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭は、松の廊下で吉
良上野に刀を抜き2度まで切りかかっているが、その「浅野内匠頭分限牒」には、播
州赤穂三万五千石の家臣団が足軽小者から医師や女中の末に到るまで書き出されてい
て、「槍奉行」や「御膳方」「餅奉行」といった役職までずらりとあるのに、「武術
方」「武道師範」というものは全然ないのである。
 講談で有名な高田馬場十八人斬りの堀部安兵衛も、分限牒では無役である。勿論安
兵衛が内匠頭に師範をしていたら、まさか2度も刀をふるって擦過傷という事もなく、
吉良上野を惨殺していただろう(あるいは他に理由があったにせよ・・・八切氏は、
柳沢が浅野に吉良に抜刀させるよう挑発させたのだという。影丸)。すると赤穂義士
の討ち入り事件も起こらず、忠君思想の宣伝材料もなく、その後の朱子学の儒臣も困
ったろうと想われる。
 つまり、各大名家では幕末になって流行のように学校や塾を設立し、そこで武道鍛
錬をさせたが、それ迄は公儀よりの叛乱予備罪の嫌疑を恐れてか師範など置いてはい
ない。
 また、道場というのも、今日の小説や映画に出て来るような、民間道場というもの
は有り得ない。なにしろ国家が十手と樫の棒で治安維持を保とうというのに、一般大
衆に剣道を普及させる物騒な事は、認める事など有り得ないからである。
 では、存在していたのは何かというと、これは捕物側のものだけである。これはか
つてGHQによって武道禁止をされた時、警察関係だけは特に許されて存続してこら
れたのと同じかも知れぬが、現在は群馬県多野郡吉井町になるが、昔は上州多胡の馬
庭村で、そこに有名な「樋口家の馬庭念流」の大きな道場があって、江戸京橋太田屋
敷、神田お玉ヶ池、小石川の3ヶ所に出稽古の道場まであった。といってこれは一般
大衆の青年が習おうとしても行ける所ではなく、南町奉行所北町奉行所、小石川の方
は火附盗賊改め番所の委託制で捕物の側の指南所であったのである。
 後に幕末に剣道が大衆化して今日の各種学校のように入学金と月謝で採算がとれる
ようになると、馬庭念流の樋口定伊は「矢留術」を看板に神田明神下から和泉橋通り
に一般用の道場を進出させ経営にあたった。それまで馬庭念流が上州で長らく存続し
得た理由は「岩鼻代官所御用」と「大江戸関所御用」の二つを拝命し、そこの捕物側
の訓練にあたり、また出役に人手不足の時には、西部劇の補助シェリフの如く門人を
出して代官御用を勤めていたからこそ、その道場はさし許されていたものである。
 つまり、武道というものは、権力に反抗する恐れのあるものとされていたから、伝
承のように武士階級によって護持されてきたのではない。耐えずそれを役目柄必要と
されてきた治安維持担当の捕物側によって江戸期には受け継がれてきた。
 明治35年刊の「日本武術名家伝」にも、はっきり
「捕手は竹内流の小具足の中に起こり、我々より仕掛けて敵の不意をうち、これを捕
りひしぐの術にて、関口流、川上流、一伝流らみな捕り方を主となし、制剛流も必ず
捕手術をもって、その武芸の髄となす」とある。
 普通の概念でいけば、武芸とは「刀槍でもって相手を倒す事」と大衆文学的にどう
も考えられがちであるが、それらは「武門の意地を立てるため」とか「剣の使命によ
って」などと、漠然とした曖昧模糊の観がないでもない。極めて非実用的である。
 ところが、そういう観念をかなぐり捨て改めて「捕手術こそ武芸である」とすると、
治安維持上目的意識が明確になるし、これはは極めて実用的な技術であるから、捕縛
方がこれに励み伝承する事にも、その意義が認められてくるというものである。今で
も剣道の道場が何処にもあるのは警察ぐらいなものであろう。