1089 論考・八切史観  1

「論考・八切史観」1975年6月 日本シェル出版 刊 より

[全体の構成は以下のとおりです]

・切腹論考
  常人には不可能な切腹 名著『武士道』と反響 意外に少ない実例
  方言を誤訳した「腹切り」 自己不満の表現と抵抗

・士道論考
  花はさくらぎ 久米の子ら 売絵武士道 葉隠とは‥‥

・捕物論考
  力の法則 村八分の起り 武道は誰のために 居合と抜刀術
  白は逃がせ黒は捕えろ

・やくざ論考
  役座がやくざ 流浪の民 大岡越前守忠相 縄張り争い

・演歌論考
  演歌における義理 義理とは何か 任侠決死隊 孤独の点と点

・遊女論考
  プロフェッショナル 皇室と遊女 和泉式部も遊女 遊女は職人

・どろぼう論考
  悪徳なりや 天下の権 断絶の世界

・諷刺論考
  さるめは猿真似 ハプニング諷刺 ええじゃないか

・怪奇論考
  ああ粉砕 怪異への告発 怪奇な時代 恐怖政治 幻想の原点

・呪術論考
  幻想のみこ ぼやき呪師 フラメンコと祭文 土一揆と修験道

・叛逆論考
  勝負で決る パアは八なり 青の系譜 大塩の乱の真相 2・26まで
  寛文事件

・忍術論考
  死の季節よ 石川五衛門 忍術の本家は なぜ忍術は消えたか
  悲しき忍術

・紙の墓標


※[]内は影丸の文章
                         1996年3月30日登録
                         影丸(PQA43495)

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                                 切 腹 論 考

常人には不可能な切腹

 戦後四分の一世紀たったのに、「歴史」というものは案外に解明されていない。そ
れどころか、かえってもっともらしい仮面の下に納まりかえって、カプセルのままで
伝承されてゆくような気さえする。だから、それを好まないならば、どうあっても、
もはやこれまでに聞かされてきた歴史はひとまずこれを一切否定するしかなく、改め
て「常識」というふるいをもってするしか、かつての歴史のあり方というものは考え
られないことになる。つまり「真実とはなんであるか」という命題を、過去の具象で
ある「歴史」というものの中から、偽りのない視覚でこれを捕捉し直さねばならない
のが、これこそ戦後二十余年の今日では絶対的な一つの義務でもある。そして、かつ
て嘘を教えた歴史家というものの存在に不信を抱くということは、これまで伝承され
た事柄へも疑惑を生ずることである。
 「ハラキリ」として有名な切腹も。それ自体が、これまでの歴史家の説くような、
それははたして崇高な自殺行為であったかどうか疑問も湧いてくるのである。
 ・・さて、私は昭和二十年夏、満州の奉天にいた。八月十八日アスファルトの街路
遠くから音させ、カタピラを響かせて重戦車の行列が入ってきた。赤いボロ布ともい
いたい油と黒い汚染のついた裂けたような旗がついていた。
 クラフチェンコ赤軍司令官の進駐が始まると、奉天駅前から春日町へかけては一斉
に満人の暴動が始まった。在留日本人は難波通りの裏にある北春日小学校へ避難して
きた。在留日本人は浪速通りの裏にある北春日小学校へ避難してきた。
 サーベルを腰に吊った男達も、紛れ込むように一緒に入ってきた。そして彼等は、
「俺達も切腹するんだ」と言い出した。
 初め彼等は五名いたが、途中で酒を買いに行くと出ていったのが戻ってこなくて、
「それでは」と四人の中では年長なのが、真っ先に刀身を抜き手拭いでまきつけてか
ら、「バンザイ」と春日神社の方へ礼拝して、「やあっ」と気合もろとも突き刺した。
しかし、(自腹を痛めるのは辛い)というが、腹部の脂肪は強いのか、ゴムのフット
ボールを突いたみたいに切先が腹の所へ窪みをつけたきりで、刀は跳ね返ってしまっ
た。
「突くものではない。力が倍いる。腹に押し当てて前のめりに身体で押すんだ」
肩章はむしってあったが、貫禄のあるのが覗きこんで気合をかけた。しかし、その頃
になって突いた窪みから血が滲んできたものだから、最初の男はそこへ唾をつけて、
「痛いのう‥‥」と眉をしかめ上の空だった。
「貴様ら、たるんどるぞ。生きて虜囚の辱めを受けたらどうする」
と貫禄のあるのが、立ったままで刀を腹に押し当てて前へ倒れた。
 これは血みたいな赤黒いものが出た。小鉢に三杯ぐらいヒュッと音をたてとんだ。
すると他の者は転がった男の側へ屈みこみ、刀身がどれくらいまで刺さっているか手
の幅で図ったりした。もちろん当人は眼をカアッと見開いているものの気を失ってい
た。すると他の連中は、「しっかりしろ」と死のうと切腹している最中の人間の背中
をさすって声をかけた。
「そのうちに正気づくと、出血多量で死ぬまでは七転八倒のひどい苦しみ方をするぞ。
今ならば、腸を切ったかどうかぐらいだから縫合すれば助かる‥‥医者を呼んできて
やらにゃ」
 顎髭の黒い男が言った。そこで私も、刺さった刀身から零れだす黒い血潮にあがっ
てしまい、すぐ飛び出して医者を迎えに行った。しかし戻ってきた時には三人の男は
誰もそこにいなかった。応急手当を受けて晒木綿の腹巻きみたいに包帯した切腹人間
も、四日後には私にも黙って何処かへ行ってしまった。
 だから、北春日大隊長として在留婦女子二千をコロ島から博多へ引き揚げさせた翌
年から、「切腹論」といったものを集めようとしたが、不思議なことに納得できるも
のは日本にはない。これまで誰もまともには書いていないのである。
 だから、他から借り物でないものとしては本稿が「切腹論」としては最初のものだ
ろう。
 さて、大正元年九月十五日付「国民新聞」に、当時の赤坂警察署の本堂署長が、乃
木将軍の切腹に際し行政検視に立ち会った一人として、
「十三日午後八時に割腹された将軍の最期に関し、誤謬が喧伝されているゆえ真相を
語る」
と前置きして、
「自分はこれまで多くの自殺を見てきたが、これほど武士的な自決は初めてで、実に
模範的なものである」と断定し、
「二階八畳敷で夫人を左にして将軍は、まず上衣を脱ぎシャツのみとなって正座し、
腹下左の横腹より軍刀を差込み、やや斜め右に八寸切り裂きグイと右へ廻し上げられ
た。‥‥これは切腹の法則に合い、実に見事なものだった。而して返しを咽喉笛にあ
て、軍刀の柄を畳につき身体を前方に被せ首筋を貫通、切先六寸が後の頭筋に出て、
やや俯伏になっておられた。これに対し夫人は、紋付正装で七寸の懐剣をもち咽喉の
気管をパッと払い、返しを胸部にあて柄を枕にあて、前ふせりになって心臓を貫き、
懐剣の切尖が背部肋骨を切り、切先は背中の皮膚に現れんとしていた。しかるに膝を
崩さず少しも取り乱したる姿もなく。鮮血淋漓たる中に見事なる最期で、見るものの
襟を正させた」
と、まるで初めから立ち会っていたかのように、仔細な描写がなされている。
 しかしである。事実が間違いなくそうであるならば、十三日夜の自決が十四日の朝
刊新聞に発表されたのに、同日の午後にはもう「世上にデマがとび」、そこで署長が
至急に記者会見し、翌十五日にはこうした談話記事が出るとは、いったい何故であろ
うか。
 この時のデマというのは、今日では「殉死」とされている夫妻の死が、「他殺」と
噂を立てられたものである。勿論それなりの裏面史はあるのだが、ここでは命題から
それるからこれを後まわしにし、当時の権力の末端が、「模範的」と折紙をつけた切
腹の方式というものを考察するにとどめたい。

一に下腹に刀身をさし通して、
ニに右に向かって八寸切りさき、
三にグイと右へ廻して上げて、
四は切り上げた刀身を引き抜き、
五はそれを持ち直し襟にあて、
六で畳の下に柄を何かで固定
七は頭を木槌のごとく打ち込む

 各動作を順序よく狂いなく一分ずつでやったとみても、連続して計七分間かかる。
ところが、現在の法医学の臨床データでは、
「第一の動作、つまり異物を皮膚下に突入させた時点において。八十三例中八十例ま
では、喪心または失神状態に陥るものである」とされている。
 つまり今日私達が乃木将軍を崇拝するのも、この超人的な行為によるものである。
なにしろ大正元年以降においても数多くの日本人が、日本刀による切腹をしているが、
こういう懇切丁寧な実況談話記事もないし、また「模範」という折紙つきのものも、
他には知られていないからである。

 さて、乃木将軍夫妻の記事を具象された型の崇高さから完全な事例として引用した
が、これでみると、死という行為も模範的に遂行しようとすれば、部分的に局部麻酔
を施してとりかかっても、常人にはとても不可能である。
 ところが、戦争の匂いがしだしてくると、きまって「切腹」というものは、
「死を鴻羽の軽き」にさせるためなのか、とかく、よく論議されてくる。そして歴史
家達は「保元物語」の源為朝は柱にもたれて割腹してから、自分の首の骨を後から切
った。
「太平記」での新田義貞は抜き放った太刀を左に持ち、自分で首を落し泥中深く埋め
てから、まだ息があったのか、胴体を首の埋まった土の上に庇せて壮烈に死んだ。
また、「義経記」では義経が幼少の頃より秘蔵して身から離さず持っていた三条小鍛
冶の鍛えた短刀にて、左乳の下から刀を後へ通れと掻き切って疵の口を三方へ破り、
腹中の腸をくり出してから、刀は大切に衣の袖でおし拭って鞘に納め、ゆっくり死に
至るまで休憩したなどと、さも勇壮であったように書き、かつての私共はそれで教育
されてきたのだが、これは、「死花を咲かせる」といった供養のつもりだろうが、舞
文曲筆どころの騒ぎではない。
 ただ、「義経記」などは筆者が京の六道の辻の者と呼ばれた番衆たちで、彼等の仲
間である唱門師が鉦を叩いて謡い歩く門付けようにと作詞された事は明らかにされて
いるゆえ、
「これは京の三条小鍛冶で売り廻らせていた毛抜きや、みやす針の売り込みのふれ文
句」つまり、ひろめ唄だったから、ショッキングにパンチをきかせたものらしいとい
うことがわかる。
 が、後の面白おかしく伝わったものは、「戦争遂行協力」の使命に燃えた歴史家が、
勇壮さを讃美させるために、かつての私共を戦場で死なせるように意図し教育したの
だろう。
 また「七生報国」が叫ばれた戦時中は、ゆっくり死なせる事も流行した。だからし
て講談や浪花節では、有名人となると、あっさり死なせてしまってはもったいないし、
それでは客の期待にそわないから、たとえば本能寺の信長も、「フロイス日本史」の
「カリオン書簡」では、髪の毛一本残さず爆薬で吹っ飛んでしまったとあるのを、水
増しというか引き伸ばしをし、「信長公記」で、信長は白綸子の寝衣のまま弓に矢を
つがえて放ち、槍をふるって最後の武勇の程をしめし、肘に怪我をしてやむなく火を
放って、おもむろに切腹したなどと荒唐無稽に飾って書かれている。
 つまり、どうせ死ぬにしても「ゆっくり間をもたせて」といった考えが根本理念に
あったがゆえに、即死でない死、つまり何拍子もかかる切腹という死に方を、かつて
は武士道精神の発露として奨励したものらしい。
 また、ここで見逃せぬものとして演劇がある。
これも、首を吊ったり、刀を襟にあて首を落すような仕草は演じにくいが、その点、
腹を切るという動作は、ひとつずつ節がついて区切れるから、舞台のメリハリがきく。
「おのれっ」とまず突き立て、それから、「無念っ」と横に動かして見得が切れる。
 つまり「見世場」という要素がとれるからして、あらゆる歌舞伎には、この腹切り
が挿入された。が、悪人が切腹したのでは観客は観客は同情してくれない。そこで寛
平のような二枚目か二枚目半の役柄の切腹というのが、どの芝居でも殆どである。
 つまり、切腹の人気というのは、立役者や人気俳優からも出たとみるのは、それは
誤りであろうか。
 また、切腹の古語が、張付が一本棒でなされていた頃に「八付(はちつけ)」と呼
ばれたごとく、「八切り」ともいわれていた事も考えたい。
 八とは、記紀にヤマトタケルノミコトに滅ぼされた八十梟(ヤソタケル)や八わた
のおろちの八であり、「土俗八幡」と呼ばれる「八はたの薮知らず」の八である。
(今では八幡をハチマン、ヤワタとよぶが、五街道地図をみても、昔は「八はた」の
地名が多い。これは官製の八幡宮に対する村の鎮守の八幡さまの事を区別して、そう
呼んでいたためである)
 つまり被征服日本原住民の称号が八であったからして、この切腹という行為は、公
家のお方で遊ばされたのは一人の例もなく、みな俘囚の末である地家の者、「地家武
者」「地家侍」と蔑まされた武家階級に限定されている点を、ここで改めて検討しな
くてはなるまい。


名 著 「武士道」 と 反 響

 今カナダのバンクーバーにその名をとったメモリアルガーデンを残している故新渡
戸稲造先生は、日清戦争の四年後にフィラデルフィアの出版者から「CHIVALR
Y」(武士道)という英文による不朽の名著を出し、今なお世界各国のパブリック・
ライブラリーには、そこのマザーランゲイジに訳されたものが、必ずといってよいほ
ど蔵書されている。
(何故にこの本は欧米人向きなのか、私は久しく疑問だったが、バンクーバーでこの
本の草稿を見せてもらって初めて判った。タイプライターがなかった頃のものだから
手書きで、それが女性の書体ゆえ、先生の書かれたものを英国人の夫人が判りやすく
リライトされ、それゆえに彼等に判りやすく広まったかと納得できたのである)
 その中に切腹(HARAKIRI)と題し種々の引例をつけて、
「武士道は名誉の問題を含む死を以って、多くの多種多様な厄介さを一挙に片付ける
鍵とされた。これがため功名心とか見栄をはる武士は、自然死を潔しとせず天命を全
うするのは望むところにあらずとして、それが不自然であっても切腹は求められたの
だ」といい、
「武士が恥を免れ己れの誠実を証明するとき、切腹は洗練された自殺方式であり、感
情の極度の冷静と態度の沈着なくしては、これはまた実行不可能なものであった」
と、わが武士道を説いた。
 そして、新渡戸先生は、それらの事を異邦人に説く説得法として、きわめて近代医
学的に、
「デカルトは霊魂は松果線にあるといった。解剖学では、まさか開腹手術をしても、
そこから霊魂の摘出はできないから、ventre(腹)というのをcourage
(勇気)と同意語にされたり、フランス語では腹を意味するengraillesが
amour(愛情)、pitie(憐憫)と同義語にもされる。つまり感情の中枢が
心臓つまり腹にあるという考えから、日本の切腹は発祥している」
と説明し直している。またそれに、
「近代の神経学者は、腹部脳髄、腰部脳髄といい、これらの部分における交感神経中
枢は精神作用によって強い刺激を受けるという。この精神生理学が容認されたら、切
腹の論理は容易に構成されるであろう」
ともいっている。
 今日でこそ、「腹痛は精神障害から」と、遅まきながら日本医学でもいいだしたが、
これを七十年前に言い出し、それをもって儒教的論理をエスカレートさせたのは、実
に立派としかいいようもない。
 さて、新渡戸説というのは、時あたかも小国の日本が勝って清国から遼東半島や台
湾などの割譲、賠償金二億テールの戦果に対し、ロシアがドイツ・フランスを誘って
三国干渉をしてきた時代で、その後、日露戦争が始まるとドイツのカイゼルは「黄禍
説」まで叫び、「日本人とは、なんという人間であろうか」と世界中がびっくりして
いた頃である。だからして(自腹を切れる気前のよすぎる死を怖れぬ人間)という評
価が日本人には、この時からつけられてしまったものらしい。
 さて、「我が国はかくのごとく大勝利を占めた。しかし労農大衆は無益な戦いを欲
しなかったから、やがて勝利を放棄した」とロシア語の大きなカードが、真鍮製の機
関銃の上に吊され、その下には真っ黒に埋まって地面もみえない、見渡す限りの日本
兵の屍体の大きな写真が、ナホトカの国立博物館の二階には現在でも引き続き提示さ
れているが、それは、「山川草木うたた荒涼」どころの騒ぎではなく、真っ黒な服を
着て折り重なって倒れている日本兵の屍骸で埋めつくされ、山川草木なぞ何処にも見
えはしない。関東大震災の被服廠あとの屍骸の山よりも、もっと、うず高く二〇三高
地いっぱいに広がって死んでいるのである。
 これは日本では公開されていないが、
「この死骸の山を踏み越え突撃し、また共に屍の中に埋没していった当時のあまりに
も壮烈な日本兵という人間共」の写真ではあるが、とても、この勇壮さは異国人には
理解もできなかったろう。そこで、まるでスフィンクスの謎でも解くように興味をも
たれ、「CHIVALRY」は、ロンドンとニューヨークから再刊され、ハンブルク
から独語版、そしてノルウェー語版、チェコ語版、仏訳、露訳と次々と各国語版が出
た。
 だから、これを読んで「ああ、日本人とは、かくも偉大な国民であったか」と関心
したのもいるし、またトルーマンのごときは、
「こんな日本人は危険であるから」と主張し、前大戦ではアトムを落されるような目
にもあわされたのだろう。そして切腹それ自体に対しても、ミッドフォードの「古き
日本の物語」といったような、感心した好意的なものも、かつては現れたが、やがて
は「モリセリの自殺論」から引用などし、
「自殺という行為が、最も苦痛なる方法を選び、長時間の苦痛を犠牲にして遂行せら
れるケースにおいては、百中九十九まで、それは狂気、狂信といったcrazyか、
病的興奮による精神錯乱の結末によるabnormalでしかない」を論拠として、
「ハラキリ」とは
「the ide of the nobility of sefl-destruction(自己消滅を尊厳とする考え)」
より発生した一種の特異すぎる行為としての批判も多く刊行された。
 そして、こうした文献は各国人種の坩堝といわれるアメリカのロスアンゼルスに多
く集まっていて、ビルトモアホテル裏口正面のパブリック・ライブラリーに揃ってい
る。
 私は昭和四十二年五月、そこのホテルへ泊まり込み、午前十時の開館から午後四時
まで日参した。
 D・H・モオメントという英国系の歴史学者の「変節体制における自殺」という、
そこの蔵書では、切腹に対して手厳しい批判を敢えてしている。オックスフォードで
教鞭をふるった事もある彼は、その説として、
「従来は内科疾患とされ、それは内科医の受け持ちであった病気も現在は外科医の領
分となった。それまではレントゲン透視や胃カメラに頼って内科医が診察に苦労をし
ていたことも、今では外科医はメスによって開腹し、患部の処置をするとまた縫合さ
せてしまう。なぜかというと、腹部にメスをあてることは皮下脂肪の層を切り裂くだ
けで、それ自体においては何ら人体に対して危険視されぬからである。
 つまり、日本人のハラキリというのも、あれは自殺目的ではなく、そこは切断して
も縫合すれば安全であるという考えからして行われたdemonstrationで
はあるまいか」
とさえ極限しているのである。
 これは「歴史の追求というのは自分の生きている社会となんらかの摩擦や衝突をし
た者が、その敗北感から立ち直るため『真実とは何か』と必死になって過去の具象に
うちこんで解明するもので、貴族に雇われて御用歴史を書いたり、教科書に採用して
もらうために国家目的に合致させて著述するものではない」
と言い切って、二十世紀の歴史は、これまでの権力の歴史を放擲し、一般大衆の人間
自身の真実の歴史こそ追求せねばならぬと主張するアイザノア・バーリンも、
「腹を切る‥‥なんと、それは愚かしき。もし解剖学が進んでいたら、腹と心臓の位
置のあり方もはっきりしていたろうに‥‥。ブルータスがシーザーに、我が剣もて逆
さまに我が腹を刺せと言ったのだって、その時シーザーはこの世の者ではなく、霊魂
だったからこそ、そうした非現実的な言い方をしているのだ。なのに日本人が、それ
をmoralityとするのは、その国の歴史において、かつての国家権力者がそれ
を利用することに価値を認めたせいではなかろうか」と言っている。
 つまり、かつて大日本帝国が華やかであった時は、日本の歴史家によって特殊な栄
光に輝いていたものが、敗戦後は、
The ritual has provided subject matter.
(その儀式<切腹>は、なんらかの用意された主題目的の存在にある)
といった具合にまでされてしまっている。

意 外 に 少 な い 実 例
 ところで、「貞丈雑記」という江戸時代のものでも、
「日本紀以下の国史の、自殺した人のみえたのは、みな縊死や火を放っての焼死で、
切腹というのは、昔には例がない」というし、
「百家説林」の続篇である「後松記」にも、
「およそ死刑は、斬・絞の二種であって、自分から刃に伏す形式の切腹は、これは足
利時代からではあるまいか」と、その起源は明白にはしていない。これは、あらゆる
戦記物に出てくる武者や勇将が、一人の例外もなしに、
「もはやこれまでと、従容として切腹した」ようになっているから、それにひっかか
ってのせいだろう。つまり軍国主義の時代に戦場で散華する日本兵は、
「いたい」「やられた」とか「おかあさん」
などと、めめしいことは一切これを口に出さず、みな、「バンザイ」と勇ましく絶叫
した事にされ、そして護国の鬼と化したと伝えられているのを同じで、例証の出しよ
うがなかったせいだと思われる。
 なにしろ、足利時代の切腹の例で、はっきりしているのは、永正五年(1504)
の九月四日、細川政元の被官摂津守守護代薬師寺与一が淀城によって叛いたが失敗し、
「我は一文字好みにて名も与一、名乗りも元一。そこで腹も一文字にこそ切らめ」と
切腹したという話しが「舟橋一元院文書」として残っているから、それを確定史料と
みて、それ以来「切腹は足利時代より」という考証になったものらしい。しかし、
「切腹礼賛」の時代になると、「続日本紀」巻十の聖武帝の天平元年二月十一日の条
に、「自尽の文字がある」とか、「『保元物語』巻三にも切腹がある」「『日本霊異
記』にもある」
と、まるで古来からのようにも伝えられている。
 しかし、確定史料における切腹は、「建内記」の永享十一年二月二日の条に現れて
くるものと、それより六十五年後の薬師寺与一のものくらいしか確実なものはみあた
らぬ。
 もちろん、「太閤記」「清正公記」などの類には沢山の例があるが、あれは講談本
の種本でしかない。
 さて、乃木将軍のような意志の強い人は出血多量による死をもって切腹という行為
を成し遂げ得ても、普通はその真似はできず、介錯といって背後から頚動脈を切断す
ることによって、つまり首をはね落されてしなされていくのである。
 ところが、古文献の「和訓栞(わくんのしおり)」では違う。
「かいしゃくとは仲介紹。つまり媒妁の意にて、太平記や旅宿問答などには、取持ち
の意とあり、これは婚礼などの仲立ちのこと」
とある。つまり「介錯」というと首を切ることと思われがちだが、戦国時代から江戸
初期までの「介錯人」というのは「媒妁人」つまり仲立ち人だったのである。それが
変わってきたのは、「徳川四代将軍家綱の延宝年間からである」と昭和九年秋文堂発
行の谷川左一の書では考証されるが、切腹が正式になったのは五代将軍綱吉の時代で、
これが法制化されて実施されだしたには、元禄十四年の浅野内匠頭の切腹。ついで翌
々年の赤穂浪人の賜死からであるらしい。
 なにしろ、「弾左衛門覚書」によっても、彼の管轄であった江戸伝馬町牢屋敷にお
いて、俗に揚屋(あがりや)とよばれる士分の囚人に対して、「切腹」という判決を
下し、これを執行したのは、その元禄十六年が初めてだからである。
 よく切腹切腹というから幕末まで何人ぐらい腹を切ったかというと、弾左衛門家に
は手代が六人世襲でいて、その中でこの担当は「首斬り浅右衛門」として知名な代々
山田浅右の名を世襲する一家であるが、維新後その十八代浅右が市ヶ谷東京監獄署に
転勤した時に綴った手記によると、元禄十六年より慶応三年までの約二百年間に切腹
の介錯をしたのは僅か二十人。しかもその半数は「安政戊午の難」で捕えられた志士
たちなのであるという。
 つまり井伊大老の事件さえなければ、百年に五人の割合でしか公式には切腹はなか
ったのが事実のようなのである。
 これは江戸伝馬町牢内だけの話で、各大名家でそれぞれ切腹を仰せつかって屠腹し
て死んだ者はいるだろうが、それらの公式集計は、妙国寺事件のような国際的なもの
しか中央には報告されないので、大公儀直接の記録としてはまことに僅かしか例はな
い。
 それなのに、「切腹」はなぜに喧伝されたのか。また非公開で催される受刑者の有
様が、「砂をまいた上に畳二枚を裏返しにおかれ、その上に白布または赤毛氈をかけ、
浅黄の水色の上下に白衣を着た受刑者が奉書紙に包んだ九寸五分を押し頂き、三宝を
持ち上げて後へまわし、おもむろに肩衣をはね腹をひろげる」
と、まるで見聞記のように仔細にあらゆる書に載っているのかというと、これはあり
ていにいうなら舞台の描写である。本物は二十年に一人の割で、それも他から覗けぬ
牢屋敷内だったが、猿若座・市村座などの舞台では、のべつ幕なしに芝居で客寄せに
使われていたのに起因する。そして、幕末までの芝居小屋というのは、「河原者」と
して役者や座付作者も扱われていた関係上、芝居興行の一切は、刑場預かりの弾左衛
門家の取締りだったから、
「本職が演技指導をしとる」
とでも思って、その舞台描写をもって切腹作法の本をしかめつらしく書いたものと考
えられる。なにしろ白い砂、赤い毛氈、裏返した黄色い畳裏、水色浅黄の上下と、あ
まりにもカラフルな絵になりすぎているし、これを演ずるのが人気役者であれば、切
腹そのものがまたおおいに評判になり、有名になるのもやむを得なかったろう。
 しかし、そうはいっても、「史料叢書」の「兇礼式」の部にも、目鼻のない顔で、
「切腹作法」が図版入りで懇切丁寧に順序をおって説明されているのは、なぜこうい
うものの必要が、誰のためにあったのだろうかと、今となるとどうしても率直な疑問
を抱かざるを得なくなる。
 なにしろ、「類聚名物考」などの本にも、図解式で長々と腹の切り方を説明した後
で、
「今や泰平の世が百年に及び、人は武備を忘れ自害の故実などをせんさくするのを、
忌々しくさえ思っているが、これは怠慢であって万一の時には耻をかくのことにもな
る。実に武士の切腹たるや、晴れの業である。とき明和九年壬辰正月。俊明きこれを
誌(したた)む」
などとあるのをみると、「何のためにこういうものが書かれたのか」全く不思議でな
らない。これから旅行しようとする者がガイド・ブックを購入するように、さて今か
ら切腹するという人間が、それではと、これらの書の「切腹入門」を求めてきて、は
たして読むのだろうか。
 いくら考えても、こうした切腹作法の書は、(こうなって腹を切らされるようにな
ってはいけないから、まじめにやるように心かけねばならぬ)と脅迫して戒めをして
いるものとしか思えないような疑義があるのである。
 何しろ切腹のすすめや作法を書いている人間にしても、経験者でもなんでもなく、
(こういう切り方をしたら痛かったから、あなたはこうでない切り方をしたらよい)
というような注意も出ていない、きわめて不親切なもので、
「左脇腹から右脇腹へ切尖にて1.5センチぐらい、まず浅く左右に切れ」
と、どれにも書いてある。この寸法は皮下脂肪の層だけをまず切断しろというのであ
る。「蛇の生殺し」というのがあるが、これでは「人間の生殺し」でしかなく、その
強要は「武士道における名誉ある死」であるより「きわめて残酷な処刑方法」ともみ
える。
 つまり切腹そのものは、いくら美化され、「崇高な死への選択」であると讃美をう
け、「自分自身の手をもって行う動作だから、それは自発的な行為であるし、己れで
己れの生命を処分するのだから、名誉ある死」という宣伝的な解釈をなされたとして
も、死は、死以外の何物でもあり得ないはずだし、数分前までは生きて動いていたも
のが、一個の物体化してしまう過程の残酷さにおいて、「人手にかかるは潔しとしな
いから切腹」と言っても、それは、なんの理屈にもならない。
 これは小児がパンを路上に誤って落した時、土がついて汚い、もう自分の口へは入
らないと観念したとき、その忌々しさからか、はたまた、犬や猫の子供が拾ってはと
いう最後の所有権を示すためにか、自分の足で踏みにじるのと何の差もないのである。
 そして、自殺というものは、ストラハンの「自殺と狂気」においても、Quick
&Easyこそ正常の自殺とみなされ、
「一刻も早く現実逃避したいという願望から起きるものであって、瞬時に絶命するよ
うな方法を誰しも選ぶものである。そうでなければ天寿を全うせずに死に急ぐ意味は
ないからだ」と、これを定義している。
 すると、切っても即死しないように皮下脂肪で刃を止め、おもむろに引き抜いた刀
身をもちかえて、また突き刺すといった切腹は、
「これは急速に死に到らないように、何動作にも区切るという形式からしても、それ
が狂気による嗜虐性の具象でないなら‥‥それは自殺ではなくして、巧みに誘導され
る他殺への罠でしかない」という結果になる。つまりこうなると、
「ハラキリとは自殺ではない」といったような解釈もされ得るのである。