1088 日本意外史 13

真相・鳥羽伏見戦争

「御用盗」の名で江戸八百八町を公然と荒し廻っている強盗団の巣窟が三田の薩摩屋
敷、と証拠をつかんだ江戸市中取締りの庄内藩は、慶応三年十二月二十三日夜、己が
屯所へまで鉄砲を打ちこまれたのには立腹した。そこで、
「下手人をすぐさまお引渡し願いたい」と交渉したが、三田の薩摩屋敷より、
「そげえなことは知り申っさん」とすげなく拒絶されてしまい、そこで、
「えい、もはや、これまで」堪忍袋の緒をきらし、翌二十四日夜。すぐさま支藩の兵
まで動員して、
「やってしまえ」と三田の薩摩屋敷を包囲するなり直ちに、これに火をかけて攻めた。
 この知らせは、年の瀬も迫った二十九日夜。当時大坂城にいた徳川慶喜の許へも届
けられ、これに対し、同行していた老中永井尚志は、
「かくなる上は、すべてが薩摩の陰謀と判然しましたゆえ」と申しでて慶喜の許可を
貰い、総督に大河内正質をたて、すぐさま淀に本陣をもうけた。
 そして「討薩の表」を掲げもった滝川播磨守の本隊は鳥羽街道を進み、竹中丹後守
の隊は伏見口から、一気に京へ入ろうとした。
 しかし、そこには、薩長土三藩の兵がいたから、まず鳥羽口を守っていた薩州の中
村半次郎、野津七左衛門(のち鎮雄)が、滝川の部隊に放火を浴びせかけた。一月三
日の午後五時頃だというが、僅か二千たらずの軍勢に何故、このとき、精鋭であるべ
き幕軍二万近くがころ負けをしてしまったのか。
「錦旗が出てきたから、それで幕軍は退却したのだ」
 というけれど単純すぎる。はたしてそんなことが有ったものなのか。
 なにしろ錦旗の贋物を岩倉具視が呉服屋に調製させたのは、それより後だというの
だから、これではてんで話の辻つまが合わないことになる。
 だからでもあろう。伏見奉行所にたてこもって戦い、逃げて船で江戸表へ戻った新
選組の土方歳三などに、
「もう、これからの戦争は鉄砲だ。いくら刀なんか振り廻したって歯が立たなかった」
 などと語らせて、この経緯を説明しようとする小説もある。
 しかし新選組には余り銃がそろっていなかったかも知れぬが、滝川播磨守や竹中丹
後守が率いて進撃したのは、なにも刀槍を振り廻した連中ではない。四年前の元治元
年に那珂湊で水戸天狗党をば散々に打ち破った光栄ある仏人軍事顧問が、調練して育
てあげた公儀歩兵隊なのである。
 その歩兵隊が鉄砲をもっていない筈はないから、彼らはポンピドー銃を担ぎナポレ
オン砲を引張った砲兵隊と共に進軍したのである。
 二万の内、新選組のようなのを除外しても、大半が歩兵隊だったのなら、まさか二
挺拳銃みたいな二挺鉄砲ということはなかろうから、二千たらずの向こうより幕軍の
方が遥かにその鉄砲の数も多いわけである。
 だから、土方歳三にそんなことをいわせたように書いたとしても、こじつけでしか
ない事になる。
 では個人的に薩摩っぽや長州人が滅法強すぎて、関東者はだらしなく鉄砲を放り出
して、みんな逃げてしまったのかともなる。
 が、そんなに易々と幕軍とても退却はしていない。
 徳川家伝習隊、会津藩兵も翌四日未明にかけ、一歩も退かずに、
「敵は僅少ぞ。頑張れや」と、土方歳三の率いる新選組と共に、伏見奉行所から反撃、
近藤勇の養子周平の他に新幕の隊士二十名近くを失いつつも、なお奮戦敢闘している。
 しかし明るくなっては防ぎきれず、会津兵は淀まで下って散兵線をしいたが、新選
組はそれでも退却せず千本松に陣をしき、沼地を要害にして、ここで薩長軍をくいと
めた。
 このため、新選組結成以来の仲間だった井上源三郎を初め、探偵諜報役だった山崎
烝以下二十余名を、改めてここで失ったのである。
 そこで、息のある者もいたが、とても収容などできず、土方歳三は歩ける者だけ纏
めて辛うじて引きあげる羽目になった。
 やがてこのため、富森、橋本、八幡まで進んできていた幕兵までが、まき添えのか
たちで敗走。雪崩をうって大坂城へと逃げこんだ。
 元日は牡丹雪がふったが、二日、三日、そしてこの四日も、ひどい西北の烈風が吹
きまくっていた。だから風に叩きつけられて、京へ向かう行軍は阻まれたが、大坂へ
逃げ戻るとなると追風をうけるようなものだから、生き残った幕兵は夕方までにみな
立ち帰った。
「緒戦は不運にもしくじり申したが、この大坂城内には、まだ新しき兵が万余‥‥戻
ってきて編成し直した者を加えれば、二万いや三万にもなりましょう‥‥おんみずか
ら御出馬下されば、将兵は勇気百倍致しまして、関東武士の意気をあげましょう」
 しきりと周囲の者は慶喜に出陣を求めた。
 兵力が十倍近く多いのだから、誰がみても慶喜さえ陣頭に馬を進めれば、これは絶
対に勝利間違いなしの筈だからである。
 処が慶喜は、
「この城がたとえ焼土となるとも、死をもって守るが徳川武士の本分というもの。も
し吾らが此処で討死したとしても、関東忠義の士がきっと遺志を継ぐであろう」
 などと、今でいえばおおいにアジっておいて、そっと大坂城の後門(うしろもん)
から脱出。
「もしもし、どちらさまでござるか」
 警護の兵たちが、ばらばらと駆け出してきて誰何(すいか)したが、
「これは、これは、てまえは上様のお小姓でござる」
 山岡頭巾をかぶった慶喜は腰を屈めまでした。
 さて、衛兵たちは、雲の上の慶喜の顔や姿など拝んだこともない。
 それに、まさか前十五代将軍さまが、衛兵の御徒士あたりへ、形ばかりにせよ、頭
を下げる、とは思いもよらぬことだから、
「それは、それは‥‥」と通してしまった。
 慶喜はそこですぐさま、天保山沖に碇泊させてあった軍艦開陽丸へのりこみ、八日
の夜に出帆し江戸へと帰ってしまった。
 歴史家は、この間の事情を、
「慶喜は西軍が錦旗をあげれば官軍になるから、それと戦うと抗命朝敵となる。そこ
で恭順の意を表するため、騒ぐ家来達を放って戻ったのである」と説明する。
 しかし、慶喜は三日の朝には、「討薩の表」を認め、進軍を命じているのである。
 そしてこの慶喜は、御三家の名古屋城主徳川慶勝をして、
「なみの人にあらず、機をみるに敏、その頭脳の切れること、これは到底、世の凡俗
の及ぶところにあらず」
 とまでいわせているが、その頭の廻転の早さには定評があった。
 それ程までに頭のいい男が、三日の朝には、
「よし、薩摩を討て、京へ上れ」と命じておきながら、
「鳥羽伏見で僅か二千の敵に、向かい風に邪魔され二万近くの幕軍精鋭が敗走してき
た」と聞かされただけで、翌日の夕方には、
「恭順せねばならぬ」と途端に気が変ってしまい、己れの家臣を瞞(だま)してまで
逃げ出してしまえるものだろうか。女には、お天気屋というのがあって、くるくるっ
と気が変るそうだが、慶喜は男、しかも人一倍賢しい男なのである。
 従来ここを解明できるものがいなかった。だからみな慶喜をかいても的を逸してい
るが、真相は、やはり彼の機をみるに敏な賢明さにあった。
 問題は硝石である。徳川家では島原騒動以来、それを政治的配慮で切支丹一揆とい
いふらす事によって、「鎖国」政策をとった。
 もちろんキリスト教ごときをそれ程までに、小児病的嫌悪をもって徳川家が恐れた
のではない。
 便所の下を掘って天日に三日も乾してもやっと匙半分もとれるかどうか判らぬ硝石
たるや、1970年代の今日でも日本国中、何処にもその鉱山はない。だから慶喜は
その硝石の存在を恐れたのである。
 なにしろ土民にすぎぬ連中でさえ、島原半島の口の津の硝石庫を押さえれば、徳川
家の歴戦の勇士が力攻めしても討伐に二年掛ったのである。そこで仰天し、
「これは大変である。硝石を大名共が勝手に入手し謀叛をなしたら、天下の一大事で
ある」と、ここに長崎に出島を築き、硝石の輸入は大公儀のみにと限定してきた。
「鎖国」の本当の理由たるや、つまりは実にこれである。
 青い目の宣教師を迫害したのは、彼らがマカオやマニラからの、硝石のエージェン
トを兼ねていたからであり、キリシタン信者を殺させたのも、その手引きで硝石の密
輸があったせいで、九州の半島や島嶼(とうしょ)で虐殺が多かったのも、そのわけ
なのである。
 江戸時代に「抜け荷」と称し密貿易取締りが厳しかったのも、なにも珊瑚やたいま
いが密輸入され女が着飾ったからといって、それくらいで公儀が大騒ぎする筈はない。
 気づかわれたのは、日本にはなくすべて輸入に依存している硝石の密貿易だったの
である。そしてこの統制が幕末まで励行されていたので、このため、
「徳川三百年の泰平」は続けて来られたのである。
 しかし馬関戦争の後、長州は井上聞多らを上海へ、薩州は鹿児島戦争のあと五代才
助らを海外へ出していた。硝石の買入れにである。
「徳川家は鎖国をして硝石の輸入を独占してきたはよいが、長年積みこんでおいた物
ゆえ、湿気をおび使い物にならなかったようだ。それに比して、薩長使用のものは上
海から輸入したての最新硝石と判明、とても‥‥これでは勝負にならぬ」と咄嗟に慶
喜は気がついたのである。
 だから昔ながらの石頭の老中共が、
「わが方は薩長の十倍の兵がありまする。戦というは昔から、兵の多い方が勝つに決
まっております」
 と口を酸っぱくして諌めても、
「鎖国までして、これまで押さえてきた硝石を、こう薩長土が自由にしだしたようで
は、もはや徳川の世もこれまでであろう」
 と慶喜はあっさり見きりをつけ、さっさと江戸へ戻り、江戸城もやがてあけ渡し、
上野寛永寺へ、そして水戸へと引っこんだのである。
 つまり慶喜が恭順の意を示さねばならなかったのは、
「硝石だった」ことが、これまで知られていないから、おおかたの歴史の知識を狂わ
せてしまっているようだ。もちろんその責任は、
「鉄砲の弾丸の原料が日本ではとれないことを国民に知らせては反戦的になる恐れが
あろう」と気づかって明治軍部へ忠義を尽すために、すべてを隠してきた歴史家や、
その忠実な後継者にある。


あとがき

 私の歴史評論の代表作といえば、「日本原住民史」「新平家意外史」と前に出した
中央公論社版の「切腹論考」、それに八切裏がえ史改題の「日本裏がえ史」などであ
ろう。しかしヒミコや高松塚古墳から幕末までを一貫したものは、何といっても本書
が初めてである。
 もともとこれは読者からの質疑応答用に書いたものを改めて統一し、初めから書下
しをしたものゆえ、この98パーセントまでは、誰にもまだ初見のものであろうだろ
う。
 そして、これが他と相違している点は、「天の朝‥‥崇神騎馬王朝‥‥仁徳百済王
朝‥‥継体藤原王朝」の流れの中に、沖縄に戻り止った久米兵団の大陸的な王朝が挿
入されるではないかとする疑義。ついで島原一揆が俗にいう切支丹ではなかったこと
への解明。いろいろと新事実がこれにはもりこまれている。
 最近ゼミナーや卒論に「八切日本史」を取り上げる若い人が多くなったので、これ
はそれに便利なように年代別に整えもしたが、まあそう肩をこらせずに、「真実の日
本歴史とは、そもそも‥‥いったい何だったのだろう?」と気やすく寝ころがっても
読めるようにといった配慮も加えたので、固いところより面白い個所の方が多いかも
知れない。しかし読んで可笑しかったり噴き出すような部分があっても、それが本書
の永遠の価値をそこなうものではないことを私は信じている。

              ----1972・5----躁と鬱の間にて‥‥八切止夫

[了]