1087 日本意外史 12

中元は民主主義精神

「百科事典」の類をみると、正月と暮の中間だから中元で明治以降贈物をする風習が
始まって、中元大売りだしなどというのが行われだした、となっているが、はたして
どうであろうか。
『唐六典』には、
「七月十五日、地官為中元、懺侃(ざんかん)言罪」となっている。つまり一月十五
日の上元は天帝に対し、供物をして寿ぐのだが、中元は地にある同じ人間どうしが、
平素の交際における不行届をわびて、物を贈ってその謝罪をするのだ、というのだか
ら明治時代というのは、とんだ間違いで、『唐六典』が輸入された平安朝以降が正し
かろうと想う。
 もちろん、これが形式的になりだしたのは江戸時代からのことで、
『音物(いんもつ)問答』という文化年間の本では、
「武家屋敷入口に敷台があるは、玄関に立つ時の踏台の用の為ではない。もしその用
途なれば根太材を組み厳重にするべきだが、四方かまちのみで中央が空になっている
のはその上の音をよく反響させる為なのである」としてある。
 つまり、これは挨拶のことを色代とかき、しきだいと訓するごとく、訪問客が手土
産持参の節、昔は銭束が多かったので、どさりと敷台に置くと、その目方でおよそど
れ位か音で判るゆえ、取次の申次衆は聞き耳をたて、
(まだ不足)と思えば知らん顔をしていて、追加して重くなった音がきこえてくると、
「‥‥どうれ」と初めて案内に出たもので、今の世に、よく銭を追加するのを、
「色をつける」などというのも、色代から始まった言葉なのである。
「音信不通」などと沙汰のないことを言うのも、その音は銭のことをさして、銭も送
ってこねば便りも来ぬというのである。
 さて近頃流行の辻講釈まがいの歴史ものでは、
「武人不愛銭(ぜにをあいさず)」などというものがあるが、あれは見てきたような
嘘をついているので、江戸時代には七月の声をきくと日本橋本阿弥邸などに行列がで
きるのは、切紙を求めに諸家の用人などが集まってくる、と『江都歳時記』にも出て
くるぐらいである。

 これだけでは今の人には判るまいが、江戸時代に本阿弥家の切紙が中元にもてはや
されたというのは、鰹節の切手やデパートの商品券が贈答用になったというのではな
い。
 武士にとって、槍は攻撃用具だが、刀は「打ち刀」と古来よばれるように自己防衛
の用具だったから、この刀を贈答品にするというのが、好適のものとして喜ばれたら
しい。
 が、刀には勝手に銘を切りこむ贋刀、つまり盗作も多いので、良いと思って贈って
も、それが不良品だったら反って逆効果になる。
 だから本来は、本阿弥のような専門目ききの鑑定書をつけて贈るのが、心得という
ものだった。しかし、ここが難しい処で、とかく人間はそうした立場になると、悪い
ことをやりたがるもので、江戸中期の本阿弥の何代目かが、目ききの鑑定師の立場な
のに、目がくらんで盗作をやってのけたのがいた。
 刀の銘を切り替えたか、贋と承知で証明書をだしたか判らないが、やってしまった
のである。こういう事は現代でも文学博士の肩書で、道具類に対してそういう事をし
て儲けているのもいるし、最近の某新聞の第一面に、八段抜きで、
「読者をなめた丸写し、堂々月刊誌に発表。形なしの某は、この盗作に関しては、非
常にはずかしい、この問題によって、どんな社会的制裁を受けようとも仕方がないこ
とだ、といっている」
 と、それまで東京新聞の中間小説時評を担当していた、いわば目きき鑑定役でもあ
る批評家である男が、自分で盗作騒ぎを起こし問題になっているが、江戸時代は社会
的制裁を受けるどころか、そうした際は自分で制裁をしなければならなかった。
 幸い刀の手持ちは沢山あったから、何代目の本阿弥さんは、一本を腹へ、一本を咽
喉へ、そしてもう一本を心の臓へつき刺し自決してしまったそうである。すると、こ
れが、
「一刀でも痛かるべきに三刀も刺すとは、さぞや苦痛であったろう」
 と同情をひいた。なにしろ日本人は死にさえすれば、その罪を憎んでその人を憎ま
ずといったモラルがあるから、本阿弥家はその儘で続くこととなった。
 しかし、そういう事があった後ゆえ、代は変っても、鑑定書を貰っても、どうして
も疑心暗鬼になり勝ちである。
 そこで、本阿弥家では面倒ゆえ、証明書をつけるのは止めにして、
「一金五十両也、右金員引換えに何々銘の刀を引換えまする」といった切紙をだした。
 もちろん、五両、十両の贈答用にもってこいのも、どんどん切紙を作製したから、
中元の季節になると門前に行列ができた。
 というのは、なにしろ天下泰平の世では、
「貰うのはよいが、だからといってたえず手入れしたり、時々は研ぎに出さねばなら
ぬ実物は厄介千万である」
 と、その切紙を持って交渉にゆくと、本阿弥家でもなにしろ実物でなくて紙切れに
すぎず、金準備高を無視して乱発している何処かの国の紙幣のようなものだから、
(本物と交換といって来られては困るが、金で引換えるのなら願ったり叶ったり)で
あるからして、
「これは十両の切紙でございますな。当方の手数料を一両二分引かせて頂き、はい八
両二分どうぞお納め下さい」と、すぐ現金払いに応じた。
 こうなると刀剣鑑定は看板だけで、手形割引業のようなものだが、贈る方も貰う方
も、手数料はとられてもこんな重宝な事はない。
 だから中元は本阿弥の切紙は便利がられたが、不思議に下元つまり暮の御歳暮には
用いられなかった。恐らく現金のやりとりゆえ年の暮は露骨すぎるので、贈るのをど
うも慎んだものらしい。
 が、それにしても盗作批評家の本阿弥何代目かは、まこと都合のよい贈答システム
を残したものである。
 というのは現在フィリッピンの学校用の歴史の本に、
「今日のわが国にワイロ、ゾウワイの悪習が、はびこっているのは、アメリカが占領
中に、これが民主主義であると教え、おしつけていったプレゼントの慣行から起きた
ものである」と明記されているけれど、そのワイロを贈るのが民主主義政治のあり方
の根元であるなら、これくらい体裁よく格好のよいワイロはないから結構なことであ
る。


平賀源内と人蔘

 よくテレビや映画で、病人がでると町医が診察にきて、これは朝鮮人蔘を服用せね
ば助からぬといわれ、やむなく娘が身売りしたり、病人の夫の浪人者が殺し屋に傭わ
れてゆく‥‥といった設定が時々みうけられる。しかし、あれは嘘である。幕末の御
典医で、明治新政府の軍医総監となった松本良順の、『懐古録』の中にもはっきりと、
「府内(江戸市中)にて町医とし門戸をはる者は富士三哲を初め五指にたらず」とあ
る。
 つまり当時人口が何百万もいた江戸でさえも、それ位のものだったから街道すじの
宿場になど、めったに町医がいるわけはない。
 もしいるとすれば千葉周作の父のような馬医者が、博労の多い所に住みついていた
くらいのものである。ではいつ頃から町医が増えたかといえば、御一新後のことであ
る。明治六年から七年にかけ扶禄公債を当てがわれ放り出された侍は、士族の商法で
失敗したのが多かったが、中には文字が読めて、『傷寒論』一冊ぐらいをテキストに
開業した俄か医者もあった。まあこれなら威張って頭を下げなくとも出来るというの
で真似する者が激増し、雨後の筍のごとく輩出した。
 それに武家屋敷は慎(たし)なみとして弓に用いる矢竹用の薮を必らずもっていた
ので、「筍医者」とか「薮医者」の呼称はそこから出たのだが、維新前は病気だとい
えば、「拝み屋」なる者が御幣を担いで飛んできてお祓いをし、ご加持祈祷とよんで
いた。
 現在の常識からすると、それくらいのことではたして間に合ったものか、と首を傾
げたくなるが、そうした修験や行者は、野生の大麻草を乾燥させた粉末を常時携帯し
ていた。
 そして病人に部屋を閉めきり、香炉で煙らせ嗅がせていたから、七転八倒して苦し
がっているのでも、今でいうマリファナ幻覚作用でモルヒネを注射したような鎮痛効
果が現れ、すこし暴れてもすぐ落着いたものらしい。
 話は脱線するが、道中師とよばれた連中はその粉を煙草に混ぜて、金の有りそうな
のに吸わせ、暴れだしたりすると、
「狐つきだ」といって騒ぎたて、混乱にまぎれて胴巻きを掻払って逃げてしまうが、
後に残されるのは燃えかすの灰だけだから、「護摩の灰」とよぶのだと、二鐘亭半山
の旅日記にもでている。
 さて、
 話は戻るが、江戸時代にあっては、高麗人蔘とよばれたそれは大変貴重なもので、
江戸では吹上御苑内と小石川の御薬草園で栽培されていたが、町医の手に安易に入る
ような存在ではなかった。なにしろ御三家の水戸でさえ、光圀が特に乞うて将軍家よ
り苗木を分譲して貰ったが、それでも遠慮して、
「お花畑」と栽培地を称していた程である。ここは元治元年の戦で焼払われてしまっ
たが、今でも町名としては残っている。
 さて水戸光圀は、その長男松平頼常が高松十二万石をつぐ時に、内密に朱色高麗人
蔘の根株を分け与えて持たせてやった。
 もちろん水戸宗家でさえも将軍家へ気兼ねして、お花畑の名称で栽培しているくら
いゆえ、「御林(おはやし)」の名目で高松では植え付けをした。
 これが今は栗林公園の名称で残っている。
 さて、水戸藩祖頼房の曾孫にあたる奥州守山二万石松平頼貞の三男頼恭(よりたか)
が、元文四年九月に高松第五代の城主とし養子に入ってきた。
「光圀公の御計いで密(ひそか)に分苗して貰った紅人蔘なるものが、栽培されてい
るやにきくが、百聞は一見にしかず是非みたいものである」
 二十九歳の頼恭は御林の中へ検分に行ったところ、水利の便がよくないのか気候の
関係のせいか、あまり芳しくなかったらしい。
「紅人蔘というは高麗にても珍しい品種ものといわれ、本邦にては一般には御止め薬
にて将軍家のみ用いられ、その効き目で男女合せて五十名余の子宝さえ、上さまは千
代田城でもうけていなさる。何もそれにあやかりたくて申すのではないが、枯死させ
るような事があっては大変であるぞよ‥‥」
 頼恭は厳しく家臣共にいいつけた。この結果、御典医池田玄丈が、「御林掛り」を
兼務するよう命じられた。玄丈は四国では本草学の大家とされていた男だが、将軍家
しか口にできぬような高貴薬の栽培改良には手をやいてしまった。
 すると、去度浦の海防用の番船などを蔵っておく倉番の者で、きわめて有能な若者
がいることを耳にした。そこで玄丈が引見すると、一人扶持つまり一日米三合だけの
給与しかない小者にしては、学もあり弁もたつ。
 そこで玄丈は、殿に願い出て、「四人扶持、お薬坊主」と破格な四倍の立身をさせ
てから、己れの助手にして御林の高麗人蔘の栽培に当てさせた。これが、「非常の人」
とよばれた平賀源内である。
 さて、これは天下の秘薬であって煎じて服用すれば、あの方も将軍さまのように強
くなるが、頭の方もよくなると聞かされて、
「そうか、馬鹿につける薬はない、とよくいうが、馬鹿でないのが呑めばもっと賢う
なるのかも知れん」と源内は、己れが服用したいばっかりに、御林の中の小屋へ詰め
きって、一心不乱に丹精こめ栽育をした。
 テレビの「天下御免」ではザラメ砂糖を作りあげ、その褒美で長崎へゆくようにな
っているが、高松で精糖が成功するのはまだこれから一世紀も後の話で、ザラメのご
ときは明治の産物である。
 では、何故に長崎へやって貰えたかといえば、高麗人蔘栽培成功のせいである。し
かし、藩主頼恭の思惑は長崎でより良質の人蔘をというのであったろうが、それは無
駄だったようである。その代り、源内は本草学の田村藍水の門に学ぶことができた。
 当時は、支那本草学より脱却して、日本独特の本草学を開拓しようと、小野蘭山が、
『本草網目啓蒙』四十八巻及び『本草記聞』十五巻を刊行していた頃である。
 高麗人蔘を栽培中密かに自分も服用し、もって頭脳明晰になったと自認する源内は、
「百嘗社」とよぶ山野の草木から鉱石まで研究する、尾張御典医水谷社中の荒井佐十
郎の力をかり、彼なりに高麗紅人蔘の分析や、その実験に出精をしたものらしい。
 が封建時代にあっては、将軍家だけのものとされ御三家の水戸や親藩十二万石の高
松でさえ、内密にしていた紅人蔘を、源内ごとき民間人が研究するのは違法だったら
しい。
「門弟の一人と殺傷沙汰を起こした」といわれるが、判然としない理由で投獄され、
安永八年十二月十八日牢内で一服もられ殺されてしまった。杉田玄白はその死を、
「ああ非常の人非常の事を好む行いこれ非常なり、何ぞ非常に死せるや」と悲しみ、
彼の友荒井佐十郎は「人蔘のため延命する者はあるが彼のごとくその為に死すは珍事」
といっている。まあ、この源内の実像にふれたかったら『源内捕物帖』でも読むのが
手取り早いかも知れない。


ひな人形と黒駒の勝蔵

「祇園精舎の鐘の音」と、『平家物語』も始まるから、ともすると平家的なものを感
ずるが、祇園社の実体は反対の源氏的なものである。現在と違って、元禄時代までは
神仏は混合されず敵味方だった。
 [八切氏は混同されているが、この場合の『祇園精舎』とは、古代インドのコー
  サラ国の都シラーヴァスティーにあった精舎(僧房)のことで、祇園の八坂神
  社の事ではない]
「犬神人[いぬじにん]」とよばれた祇園社の昔のガードマンは、社に仇なす寺と戦
うとき、いつも僧兵の群れと弓矢や薙刀をもって血を流していた。
 [これも、事はそんなに単純ではなく、今日の京の八坂神社は、その創立からし
  て僧円如により貞観十八年(876)に播磨広峰から山城八坂に遷され、はじ
  めは興福寺、後には延暦寺別院と、既に『神仏混交』状態だった。また、その
  下級神官ともいわれる犬神人も時折『山門』(延暦寺)に使役されて、山門の
  ライバルである当時の新興宗教(一向宗、禅宗、法華宗など)の弾圧に狩り出
  されていた。したがって八切氏の説くように『祇園社に仇なす寺と戦う』べく、
  『僧兵の群れと戦っていた』という状況とは異なるようです]

 処が徳川秀忠の娘の和子が後水尾帝の中宮として京上りしたとき、五月五日の白川
の院地打ちという京の石合戦をみて、えびすとよばれる源氏系の民が苛められるのに
立腹したのか、「お白神」とよばれる白山神社系統の木像を京へとりよせた。
 これは今のこけしの元祖で白木一対の神体だが、彼女はこれに端布をまとわせて飾
り三月三日には白酒を供えた。やがて徳川家の圧迫で帝が退位され、和子のうみ奉っ
た女帝の明正帝の代になると、この人形まつりも一般に広まった。
 しかし中宮に於ては三月三日というのは「曲水の宴」という明国の行事がそのまま
伝わって、公家は御所の中の小川に盃を浮かべ詩歌をつくって楽しむ日だった。
 だから明正帝のあとは「夷まつり」として東京奠都まで公家はこれを忌み嫌ってい
た。五人ばやしや官女さまも並んでいるから、御所からのもののように誤られ勝ちだ
が、実際は無関係のものだった。では、どうして今の形式になったかというと、祇園
社の弦めそ達が、昔は、にかわで弓のつるを作っていたが、天下泰平で仕事がなくな
ったので、余ったにかわで獣毛をこけしの頭にはりつける人形細工のアルバイトをし
ている内に、
「京から出荷するんやったら御所スタイルが、ええやないか」
 と白丁や三人官女までセットにし出荷してしまったのが、今日のひな人形のもとな
のである。
 この祇園びなは、伏見人形の問屋で扱われたので、一般には「伏見びな」と呼ばれ
ていた。
 さて、この伏見びなや鳩笛をこしらえていた木偶座(でくざ)というのは、代々御
所の白川卿がその管理というか座銭を取っていたものである。御所では忌み嫌った三
月のひなまつりの人形について、その落し前みたいな鐘だけを公卿さんが召し上げて
いたのは可笑しいが現実はそうだからちゃっかりしている。そして、この白川卿の家
来で、伏見へ人形の金を集金に行っていたのが、黒駒の勝蔵の従兄だったのも面白い。
 さて、近頃、デパートで客よせに催す物産展で、「静岡県」というのには、必ずと
いって良い位に壁飾り式になったミニチュアの三度笠が売られていて、それには、
「清水二十八人集」と中央に大書きし、廻りにぐるりと傘文字でそれぞれの名がでて
いる。
 円型に囲んで名前をかくという方式は、百姓一揆の訴えの時に誰が首謀者か判らぬ
ようにする為なのだが、これにはお馴染み、「森の石松」が目だつよう中央にきてい
る。
 処でこの清水二十八人衆というのが、本当に実在していたかというと、伊勢の丹波
屋伝兵衛の甥の増川の仙右衛門ら数人は本当だが、後はまことに頼りなく幻想でしか
ない。
 というのもこれは、次郎長の養子になった事もある天田五郎が、明治十七年四月に
出した『東海道遊侠伝』そして、その二年後に刊行された『明治水滸伝』『清水次郎
長伝』の二冊を種本にし、松廻家太琉というやくざ上がりの講談師が、日本橋茅場町
の寄席へかけたのを、
「どうでえ、そのネタを酒二升で譲らねえか‥‥なんなら三升」と持ちかけたのが三
代目神田伯山。
 太琉も初めは惜しがったが、なにしろ呑みすけのこと。つい四升で手をうってしま
い、活字本の他に自分で色々かき止めた大福帖みたいなものまでそっくり伯山に譲渡
してしまった。
 さて、この伯山というのは二代目伯山こと神田松鯉の門人で、初めは松山を名のり
明治三十七年に三代目を襲名した男だが、根っからの花札ずき。誰をつかまえてもサ
シでコイコイをして、これが下手の横好きで滅多に勝たない。
 だから築地から新富町、人形町とその頃各所にあった席亭の下足番にも、高額では
ないが五銭十銭の借金が軒なみにあった。さて、今でもそうだが芸人の収入というの
は、
「割り」といってあがりの分配である。そこで何処の下足番も、伯山から貸しを取り
戻したい一心から、大声をはりあげて、
「いらっしゃい、えい神田伯山の始まり」
 と、よびこんで客を入れる。そこで伯山たるもの義理に感じて、八丁堀の大増とい
う席亭の下足で目っかちの森野石松というのを、まず今日の森の石松といったスター
に仕立ててしまった。そして、
「江戸っ子だってねえ、すしくいねえ」
の一席を作りあげ、ついで、片っ端から借りのある連中の名を、次々と高座へかけて
しまった。そこで実在では五十五歳の吉五郎が、「神戸の長吉」という突ころばしの
二枚目になったり、実名関東だきの綱五郎が、「大瀬の半五郎」という寿司屋の親分
さんの名に変わってしまった。
 だから森の石松にしても下足番で、故子母沢寛の研究でも、もちろん実際はいる筈
もないからして、
「漁師上りの乱暴者で豚松」というのがいたから、それがモデルではないかといって
いる。
 そうなると問題は、大政小政の両名だが、この原型たるや意外にも黒駒勝蔵の身内
で、
「障子にうつるは大岩、小岩。鬼より恐いと誰がいうた」と今も甲府の盆唄に残って
いる成田村の岩五郎と、中川の岩吉の二人がいたからして、どうも伯山はそれを転用
したのではないかと思われる。
 なにしろ、
「黒駒の勝蔵」にしても、伯山の講談では、次郎長一家に仇なすふとい悪玉だが、明
治二年に仙台藩の家老とし、王命抵抗のかどで自害を命じられた玉虫東海著の、
『官武通記』[これは八切氏により日本シェル出版から刊行されていたが、現在は絶
版]という幕末史料によると、
「元治元年甲府郡代加藤餘十郎沙汰書」なるものが採録されていて、それには、
「天誅組の那須信吾と交際のあった勝蔵は、長州の木梨精十郎の援助のもとに、甲府
城占領におしかけ、そのため叛徒として指名手配された」との模様が詳しく出ている。
 どうも講談の世界は好い加減なのが多すぎるとはいえ、こうなると勝蔵の従兄も前
述のごとく白川卿随身の古川但馬守ゆえ、彼は単なる博徒ではなく、西国の日下燕石
(くさかえんせき)みたいな勤皇の志士ということになる。しかし、とはいえ伯山の
作った次郎長伝では極悪非道の無頼漢にされてしまった儘だ。


水戸天狗党は全学連

「人を斬るのが侍ならば、恋の未練がなぜ斬れぬ」と桜田門外で井伊大老を襲撃した
水戸の武士(後輩)たちが、元治元年(1864)筑波山に旗上げした水戸天狗党と
いうのは、藤田東湖の遺児小四郎を盟主にして集まった健児も二千とされる。
 やがて彼らは江戸から差し向けられた公儀歩兵隊やフランス軍将校の指揮する砲兵
隊を向こうに廻して、那珂湊から大洗、そして今の日立市である当時の助川で田中源
蔵の隊はあくまでも抗戦。
 やがて武田耕雲斉に率いられた本隊の方は、雪の加賀路へ落ちてゆき、そこで降参
すると、公儀討伐総督田沼意尊の苛酷な扱いで、畳十枚位の牢舎に三十人ずつが詰め
込まれ、横になれるどころかろくに坐りもできず、立ったままで排泄物もたれ流し、
さながらベトナムの虎の檻のような目にあわされた末、やがて一人ずつ引張り出され
て首を斬られた。
 しかし武田や藤田に従って加賀へ行き、そこで殺された方は、
「勤皇尽忠の士」として明治になってから贈位、靖国神社へ合祀もさせられたが、田
中源蔵に率いられて助川を落ち八溝山へ向かった方は、全員贈位の沙汰もなく、十二、
三歳の少年が多かったから、坐らせて首を斬り落すのは厄介と、樹に吊して撲殺され
てしまっている。中には水戸支藩松平大炊頭の一子で十二歳の少年も混ざっていたと
いうのに、彼らはみなザンギリ髪に統一していたゆえ、それで見境なしに皆殺しの目
にあったのだろう。
 しかし、彼ら少年までが決起したのが、勤皇精神によるものとするならば、なぜ今
日までそれは放りっぱなしになっているのだろう。といった疑惑もここに浮かんでく
る。
 という事は、天狗党それ自体のあり方が、明治に入って水戸の生き残りの激党の連
中によって美化されてしまったのが、何かしら実際とは違っているのではないかとい
った感じすらする。
 それに藤田小四郎や武田耕雲斉に率いられた方は有名なのに、田中源蔵が伴ってい
った部隊があまり知られていないのは、その幹部が他国者だったせいだろう。また彼
らの一人が残した辞世の句に、
「国のため想う心の晴れやかさ、死なむ今とて勇みたちいぬ」
 というのがある。文字通りの感慨の歌だが、幕末の時代と現在とのくい違いは、こ
の、
「国」という言葉の概念であるらしい。「葉隠」の中でも、これはしきりと出てきて、
「国の歴史」とか「国のため」といった字句が多く、歴史家はなんの躊躇もなしに現
在的な解釈をして、「日本国の歴史」「日本国のため」いとも手軽にきめて掛って、
「葉隠れ武士道」とか「葉隠れ精神」といったものをもって、皇国史観にしてしまう
のだが、いったいそれでよいものだろうか。
 なにしろ、葉隠の中にでてくる国というのは、佐賀一国のことであり、国史とは鍋
島家の藩史だけをさすものだからである。
 わが国に、中央集権制の国家が出来たのは明治からであり、それまでは鍋島家中の
者に取っては佐賀が御国であり、水戸人にとっては常陸だけが国だったのである。だ
から、
「国のため想う心の」といっても、今日的な考え方での愛国心ではなく、当時として
は故郷を懐かしむ愛郷心。まあ、
「望郷の歌」といったくらいのところだったのであろう。なのに、それを愛国の至情
といったようにするから、ややこしくなるのであって、こうした歴史家のすりかえは
「君がため春の野にでて若菜つむ」といった古歌すらも、
「恐れ多くも一天万葉の御方のために」といった解釈さえ、かつてはされたもので、
今はリバイバルでまた復活されている「君恋し」の唄も、それが初めて流行した頃に
は、
「君恋し宵闇せまれば悩みははてなし、とは、かつて後醍醐帝の行在所へ忍び、孤忠
をいかに示さんかと、桜の樹に十字の詩、天勾銭(こうせん)をむなしゅうするなか
れの、児島高徳のことを唄ったものかと思っていたが、どうもそうではないらしいこ
とから児童が口にするのは止めるようにしたい‥‥」
 といった朝会の訓辞を校長にされた日のことを思いだしても、どうも日本語には意
味が曖昧模糊としているのが多いようで困る。

 だからでもあろうか、水戸天狗党の決起たるや明治に世が変る僅か四年前の、元治
元年の出来事なので、また一世紀ほどしかたっていないのに、すっかり評価も色々と
変っているようである。
 というのは、旧幕時代は徳川体制からみれば、賊視されようとも、もはや明治にな
ればその価値観は一変されていようと想うのが、案外にそうでないことである。
 水戸家菩提寺の納所日誌にも、
「乱賊」という文字で、天狗党は扱われているし、明治十年迄の茨城県下の公文書は、
これことごとく、「賊」の一語で片づけられてあって、徳川時代その儘の感がある。
 だからして、彼らの郷里でさえ、そうした具合なら他はおして知るべしという事に
もなろう。
 そして、そうした見方をするのは地方の無智な小役人共が、世が明治に変ったをの
弁ぜずに、旧幕時代の用語をその儘で踏襲しているのかと思うと、そうでもなく東京
に移った明治新政府も、
「水戸天狗党=賊軍」といった扱いを続けているのである。
 明治十八年になって内閣官制ができ、伊藤博文が最初の内閣総理大臣となったが、
その閣僚もやはりそうした見方であったのである。
 その裏付けとしては、
「元治元年十月二十五日、流賊あり、まさに本邑(ゆう)を掠めんとする。君(黒崎
友山)ここに郷人(ごうじん)を率いてこれを防ぐ。かたずして歿す。時に四十三歳
にて奸賊のため致命せるなり。
 題額 大蔵大臣 公爵松方正義
 撰文 帝国大学教授 博士内藤耻叟」

 といった石碑が堂々と茨城県常陸太子(たご)町には、今もその儘で残っているの
をみても判り得る。
 これは明治十八年に建てられたものだが、その六年後の明治二十四年に、藤田小四
郎らに従四位が贈られ、国家が改めて、
「勤皇の志士」と認めるまでは、日本全国において、水戸天狗党なるものは単に、
「賊徒」でしかなかったのである。つまりここに、
「維新史」のややこしさがあるのである。幕末になって各地から勤皇の志士が輩出し、
彼らがみな、「王政復古」を叫んで天朝さまの御為に尽したので、それまでの徳川体
制がくずれ、十五代将軍慶喜も慎んで大政奉還。めでたく明治の聖代になったという
プロセスに、突っこんで調べるとどうしても無理がでてくるからである。
 これは余談になるが、私がかつて書いた『てんぱい騒動』のように、明治になって
も、薩人は薩摩が自分らの国、長州人にとっては長州だけが国だったからして、
「愛宕通旭(あたごみちあきら)卿」のように、
「まだ御年弱の帝を薩長の輩や岩倉具視らが、勝手気儘に動かし奉るは不敬不忠‥‥
天朝さま藩屏ともいうべき公家の者は、この際万難を排して、一死をもっても尊王の
大儀に殉じ、日本を一つの国にせばならぬ」
 と、他の公卿にもふれ廻って、十津川郷士などを糾合し、
「赤誠勤皇隊」を作り、天朝さまをもって、新しい国の礎にしようと計った行為は、
(薩摩だけをまだ自分の国)と思いこんでいた大久保利通らの眼からすれば、
「過激思想である」と、明治四年の時点においては危険分子扱いだった。そこで通旭
は妻と共に、踏みこんできた薩人らに惨殺されてしまっている。
 今考えれば、旧幕時代ならいざ知らず、明治四年にもなって、
「勤皇が叛逆罪」というのは解(げ)しがたいが、それが事実では仕方がない。
 水戸天狗党にしろ、筑波山から栃木太平山に移って、そこに本営を置いていた時に
は堂々と、「水戸幕府」の大看板を掲げていたのである。これは、三光神社と名の改
まったそこの社務所に、明治中期までは残されていた。
 つまり天朝さまの為に水戸人は決起したものではない、というと語弊があるかも知
れないが、彼らは、天朝さまの下の征夷大将軍に自分らの殿をたて、水戸の城下を江
戸にしたかっただけである。
 これは、自分らの殿が将軍になれば、直参(じき)の身分になれたせいともみられ
る。現在の会社などでも、本社勤めと地方支社の者とでは、格段の差がつくが、昔は、
「直参(じき)と陪臣(また)」の違いは大変なもので、同じ武士でも月とすっぽん
ぐらいかけ離れていて、直参の仲間足軽は大名の家来より偉いとさえ、されていたせ
いだろう。
 田中源蔵の隊三百の青少年は、それではなんの為に戦ったかというと、これは二年
半前に私が『元治元年の全学連』をかくため、調査をしに行ったとき、下妻のもとの
信福院で見せられた古い旗に、「全館連合」とあったので、それが、この謎をものが
たっている。
 館といえば、映画館を今では考えるが、水戸の学校は、みな館をその下へつけてい
た。今となっては、水戸城三の丸にあった「弘道館」ぐらいしか知られていないが、
元治元年の頃には、私学二十三校といわれた程の数があった。これは前代の斉昭によ
って、「学芸新興」のため各地に郷校を設けられ、そこで士分以外でも有志の青少年
に進学の途をひらく目的で作られ、お手許金をもって教授方の手当も払い、月謝は殆
なきにひとしかった。
 処が斉昭が死んで御代替りになると、私学補助金が打ち切られ、自費で賄ってゆけ
ない郷校はみな廃止のやむなきに到った。
 そこで在学中の者が騒ぎ、行方(なめかた)郡小川館に籍のあった藤田小四郎が天
狗党の盟主におされるや、「われらも共に」と、小川館からは、学長にあたる元取の
竹内百太郎、それに岩谷敬一郎ら二十五人。
「行動を一緒に致そう」と南石川館から高橋友泰が十八人を率いて合流。ついで平磯
館、大宮館、久保館と各地の郷校から、お取潰しになりそうな学校の教授方が、教え
子を伴って参加してきた。
 田中源蔵は若かったが野口の時雍(じよう)館の元取りをしていたので、その教え
子の十二、三の少年までが、ぶかぶかの竹胴をつけ背たけ程もある刀を杖について、
その周囲に集まってきた。彼が藤田小四郎や武田耕雲斉と離れ、別行動をとったのは、
「とても足弱な少年ばかりを伴って、雪の加賀へ入ってはゆけまい。無理であろう」
と考え、春になるまで冬篭りするつもりで、
「八溝山の頂上の、行者のおこもりする番小屋が広いから、そこへひとまず避難しよ
う」となったのだろう。
 しかし武運つたなく、有り金をはたいて預けた八溝神社の祢宜(ねぎ)が、それで
食物を調えて頂上へ届けてくれるはずだったのに着服して逐電。
「口にする物がなくてはなんともならぬ。もはやこうなっては八溝山も今宵かぎり、
みんな気をつけ散り散りに落ちてゆけ」
 とやむなく三日目に解散した処、麓で網をはっていた百姓や役人に捕えられ、みな
殺しにされた。
 しかし、彼らの主張たるや、今でいう、
「私学振興、補助金要求」
「学内人事の干渉反対」といったものだったからして、明治二十四年になって辛うじ
て、武田耕雲斉や藤田小四郎は、追贈位をかたじけなくしても、田中源蔵の率いてい
た青少年三百の方は放りっぱなしにされ、今日に及んでいるのであろう。
 とはいえ、よく考えれば武田や藤田の方にしても水戸城を攻撃しかけた時には、有
栖川宮家より御降嫁の夫人の掲げた菊の御紋章へ、彼らは銃撃を加えこれと戦ってい
る。
 それに、もともとが水戸家の中の激党と鎮党のゲバであるから、なにも藤田東湖が
有名でその遺児だからと、小四郎らの方だけが叙勲され、町医者の伜上りが大将分だ
からと、田中隊は見棄てられた儘というのは、どうも片手落ちというか不合理にすぎ
る。