1085 日本意外史 10

島原の乱は切支丹か

「丑(寛永十四年[1637])十二月二十日ごろ、天草領内の者ども何事かは知ら
ず騒ぎたて候につき、二十二日より代官その他の村役の者々をつかわし取調べ居りし
処、二十四日に至りて男女三千人程、有馬村に集結の由。同心松田兵右衛門に侍八人
相そえ差し向けたが、二十五日に有馬村八郎尾と申す所にて、一揆のごとく騒ぎたて
るときき、代官林兵衛門はみな殺しにしてしまえと下知す」
 というのが発端で、島原城の松倉勝家の家来と、鉄砲で装備された一揆が衝突し、
島原の一衣帯水の天草島では、益田四郎をもりたてた一隊が蜂起し、合計一万二千が
唐津の富岡城へ押し寄せた。そこで江戸表から板倉重昌に目付石谷十蔵をそえた征討
軍が送られてきた。
 しかし一揆は、島原半島の端にある原城へたてこもってしまい、その数も二万を越
し、寛永十五年[1638]正月元旦の二度目の総攻撃で、板倉重昌は銃弾に当って
即死[というのは表向きの発表で、一揆側の落とした大石に潰されて即死という記録
も残っている]。当日だけでも討手の損害は、討死手負い四千余名、城の一揆方は九
十人と、『徳川実紀』にでている。
 ニコラス・クーケルバッケルの指揮するライプ号は、その十五門の積載砲をもって、
一揆のこもる原城を正月十日より二十五日まで砲撃し、二十八日に弾丸を射ちはたし
て平戸へ戻り、翌二月二十七日に原城は陥落したというが、キリシタン一揆をキリス
ト教国の軍艦が砲撃という事があるだろうか。
 もし、そんな事をしたら、ニコラスだけでなくライプ号の乗組員一同、みな故国へ
戻ればその教会から破門されてしまうは眼にみえている。
 現在と違い宗門の権勢の強かった中世では、キングと名のつく人でさえ、破門とか
脅かされれば雪中で一晩中憐れみを乞うて侘立していなければならなかったというか
ら、ニコラス以下もし如何に利をもって誘われたにしろ、異邦人の国へきていて、徳
川家の為に、もし島原城に天帝の旗がはためいていたものなら、半月もの間に亘って
連日これを砲撃などするわけはなかろうと想われる。
 しかし日本史では、益田四郎時貞が、天草四郎と名のって信徒を集め、賛美歌を高
らかに斉唱しつつ抗戦したというのだから、てんで辻つまが合わんのである。
 それにいくら徹底抗戦といっても限度があるし、攻める側にしろ殺人鬼でもない限
り、同胞なのだから女子供まで殺掠すべき筈はなかろうと思うのだが、この島原の乱
にあっては前もって降参して裏切りをしていたとされる山田右衛作一人の他は、嬰児
まで皆殺しにしている。
 もちろん日本史では、彼ら篭城者は自分から殉難の道を選び、一人と雖も降人する
者はなく、みなみずからの命を絶ったといわれている。
 しかし百人や千人ではない三万人からの人間がいたのである。
 人間は十人いれば十色という。どうして三万からの人間が各個撃破の落城時におい
て、みな同じように揃って自決という単一行動がとれたものか、疑わしいと思うのは、
それは僻みだろうか。
 玉砕と伝えられた激戦地でも、サイパンや沖縄でも、死のうとして死ねずに助かっ
てしまい生き延びるのを余儀なくされた多くの人がいた。それを思うと手榴弾のよう
に叩きつけたら、即死できる可能性のものを渡されていなかった筈の何万かの老若男
女が、自分らから一人残らず潔く死についたという記録には信じがたいものがある。
つまりこれは、みな死んでいたとは、‥‥命令で皆殺しにされたものとして思えない。
 本来ならばこうした叛乱事件は最終的には殺してしまうものでも、初めは生存者は
みな押さえ、背後関係とか色々よく調査をし、そしてそれから処分するのが常道であ
る。なのに何故か、初めから皆殺しというのは、一人でも生かしておいては、何かそ
れらの口から洩れては困ることが攻撃側の体制軍にあったのではあるまいか。

 さて、事件勃発に遡って、この島原の乱で見逃され、そして誤られている点が二つ
ある。
 最初に、一揆のたてこもった原城が、
「原城跡」とか「原の古城」とよばれ無人の廃城のような受け取り方をしている事で
ある。しかし実際は、そうではなかった。
 信長の存世中はマカオ・堺間に年一回の定期航路があったが、彼の爆死後イエズス
派が追われる形で、フランシスコ派がそれに代りつつあったから、秀吉の代には口の
津がその港であった。これは『フロイス日本史』などにも、
「口の津発」とでてくる地名である。そして、そこの津にあったのが原の城で、そこ
は輸入硝石の集積所だったのである。
 だからして其処を押さえた一揆方は、緒戦から火器を多く揃えて、現地の侍の討伐
隊を手もなく追い払い撃退していた。
 つまり彼らが強かったのは、熱狂的な宗教心の為ではなく、火薬庫を押さえていた
せいなのである。
 次に、口の津は、当時の外人の溜り場だったから、そこにはフランシスコ派にしろ
イエズス派にしろ、必ずや青い目の宣教師やその他の南蛮人がいた筈である。だった
ら彼らは、天草四郎時貞といった少年を担ぎ出すより、その異邦人達をこそ主将とし
て、
「キリシタン一揆」ならば立てるべきだったろう。その方が篭城している者の士気を
鼓舞したろうし、また、日本人より外人の方が、
「神の御名は讃えんかな」と扇動するにしても効果的だった筈である。なのに一揆は
それをしていない。何故だろうか。この戦いでの一揆方唯一の投降者である山田右衛
門作は、
「こういう旗をたてていた」と、キリシタン一揆であることを証明するように、デウ
スの旗をかいている。これは、証拠品とされて、
「天草四郎の旗」として今も残っている。
 しかし、おかしなことにその絵旗は、イエズス派やフランシスコ派というったカト
リックの物ではなく、プロテスタントつまり新教の、
「カルヴィン派」の、それは旗なのである。
 カトリックが種をまいた地方で、神の御教えを守って彼らが殉教のために、三万余
が玉砕したものなら話も通じるが、プロテスタントの旗をたてて戦ったというのでは
辻つまが合わない。例えていえば、
「南無妙法蓮華経」の日蓮宗の旗をたてて、本願寺派の門徒が戦をしたようなものだ
から、てんで変てこなのである。だからして日本の、
「長崎二十六聖人処刑」というのは有名で、海外でも取上げられているのに、その千
倍以上も殉死したことになっている島原一揆が、まったく無視されているというのも、
その理由はこれである。
 もし伝えられているようなキリシタン一揆なら、せめて、
「十字架を首にかけ捧げもっていた事になっている天草四郎」一人だけにでも、ヴァ
チカン法王方より、
「聖人(セイント)」の称号ぐらいは出されてもよい筈なのに、放っておかれている
のは、やはり理屈に合わず殉教とは認め難いからであろう。
 これは宗教問題であるから、日本史よりもローマ法王庁の見解に従えば、
「島原の乱はキリシタン一揆ではない事になる」のである。
 だから、その当時も、キリスト教国オランダのニコラス・クーケバッケル艦長は、
ライプ号に砲弾をあるだけ積んで、平戸から島原を攻撃しにゆき、二週間にわたって
撃ちまくっている。
 もしキリスト教徒が異教徒の迫害に対し、レジスタンスをしていたものなら、クー
ケルバッケル艦長は、一揆の応援をして徳川勢へ弾丸を飛ばさなければ、本国へ帰っ
てから教会より破門をうけて、
「悪魔に味方したサバトの一味」として処刑されたろうことは間違いない。
 またライプ号の乗組員一同も、一揆の連中がデウスの御為に戦っているものなら、
それを半月も腰を落ち着けドカパン撃っていられたろうか。
 つまりこの真相たるや、
「一揆側は、口の津へ乱入して、その当時は硝石の輸入業者をかねていた青い目の宣
教師を、みな殺しにして火薬庫を奪取した」
 のに起因していまいか。だからこそ、その仇討ちに、ライプ号も攻撃側に協力した
のだろう。
 しかしである。徳川方では、こうした騒動が各地に波及しては困るから、局地解決
をして他へ伝播しないように、後に切支丹くずれも加入しにいっているのに眼をつけ、
これを一緒くたにして、
「キリシタン一揆」としてしまい、その裏づけのため、クーケルバッケルから借りた
聖旗を、山田右衛門作に、模写させたのだろうが、その際、
「キリスト教に新教と旧教の別のあること」まで、さすがの智慧伊豆も気づかず、オ
ランダのカルヴィン派のものを今に残してしまったのだろう。
 さて松平伊豆守が、なぜ、そのような窮余の手をうち、
『島原文書』として残されている当時の公文書に、みなキリスト教徒の叛乱のような
扱いをさせねばならなかったかというと、それにはそれなりの理由がある。
 表面は紫下賜事件だが、その実は櫛笥(くしげ)中将の姫を寵愛なさり、御子を設
けられたのが、徳川秀忠の娘和子の悋気にふれ、退位を余儀なくされていた後水尾上
皇に、そのとき、
「討幕の院宣を出される」という動きがあったからである。
 もちろん徳川家は素早く数万の兵を京へ送り込み、用心して御所を取り囲んだ。
 この時、それら兵の慰安所として、それまで大角にあった廓が丹波口へ拡張されて
移転。奈良本辻や大坂ひょうたん町の遊里からも女をよびよせ、でき上がったのが、
今でも、
「島原」とよばれる廓のあった地である。
 さて、伊豆守の手腕により、島原騒動は局地的解決でかたがつき、上皇の院宣はと
うとう出ずじまいで済んだ。
 しかしそのうちに上皇と櫛笥中将の姫の間に誕生された良仁(よしひと)親王が、
やがて後西天皇さまになられた。
 さて、その頃、中将の末姫(見[貝?]姫)が仙台へ売られてゆき、そこで生んだ
巳之助が成人し、
「伊達綱宗」となっていたので、伝奏園地中納言をもって、帝は討幕の策をめぐらさ
れた。しかしそれも事前に洩れてしまい、
「綱宗は二十二歳で若隠居を命ぜられ」やがて、帝も、そのとき十歳の霊元天皇さま
に御即位となるのである。
 しかし綱宗の志をつぎ原田会らは討幕に志すが、伊達家の佐幕派伊達安芸に訴えら
れ、
「寛文十年事件となって、原田甲斐の伜や孫まで斬刑、母は餓死」
 という悲惨な結末をみるが、俗に、
「伊達騒動は、島原一揆の後日譚」といわれる謎も、このことによるとみるのは誤り
であろうか。
 が、そうなると徳川家の立場では、島原の古城へ立て篭った輩は反体制の暴徒にす
ぎなかろうが、日本全体からみれば、彼らはかつて金剛や千早の天嶮によって御醍醐
帝の御為に旗上げした楠木一族となんら変りがないことになる。
 なのに皆殺しにされてしまって、もはや証拠がないからとはいえ、
「切支丹一揆」といった扱いだけで葬り去られてしまうのは、余りにも哀れではなか
ろうか。
 歴史というものは、その時の権力者によって、如何ようにもなるものだとはいいな
がら、島原で殺された三万の同胞が、時の天朝さまの御為に散華していったものなら、
合掌してその冥福を心から祈らずにはいられないのである。


日本岩窟王・怨念の天皇

「樅の木は残った」のテレビは大原誠ディレクターらの努力で美しい画面が見られた
が、終ってしまうと伊達騒動も次第に人々から忘れ去られてゆく。
 すると恐れ多いが、おいたわしい天皇さまの事を書く機会もやはり遠のくかも知れ
ない。
 それでは、せっかく、
「天皇さまがいつの世も体制側にあったよう、誤り伝えられてきた歴史常識に対し、
そういう事はなく天皇さまといえど庶民同様、時には体制側に苛められ給い、よって
民草はお尽くし申し上げる事に意義を感じ、無宗教だといわれる吾々日本人は、勿体
ないが天皇教のような信仰を故に心に秘めているのだ」
 という解明のため、今まで誰も判らずだったこの帝の御事績を明らかにする折りも、
やがて、これでは逸してしまう恐れすらあろう。
 さて、私が初めて、この天皇さまに奇異を感じたのは、明治大正の国史教科書編纂
官であった重田定一が、大正五年刊の、『史説史話』[1981年10月『謎だらけ
の日本史』として、日本シェル出版より復刻。校閲・補注 八切止夫。その一部は#
9735にアップ済み]において、
「明治になってから歴代天皇に院号をつけるのは廃止になったのに、なぜか人皇百十
一代後西帝御一方だけに、後西院天皇と院号がつくのかと、宮内庁にも色々御伺いし
調べて貰ったが、一切不明である。まこと奇怪な謎だが判らない」とあるのに眼を止
めてからである。
 が大正の末年からは、なんの説明もなく院号をとられ目立たなくなり、その後の八
代国治の国史大辞典では、「読書喫茶優遊戯を卒(お)えらる」とある。
 これでは優雅な生涯をおえられた天皇さまのようだが、それでは何故、特殊な扱い
で、
「院」をつけ差別されたのか私は不思議でならなかった。
 処が満州事変に突入した昭和六年、黒板勝美が編集した『国史大系』の各巻頭には、
それぞれ、
「京都御所東山御文庫の、日本書紀を始とする六国史は、後西天皇がおんみずから筆
をとって著作された尊いもので、この御本を拝観でき校訂できたのは、まこと無上の
光栄なり」
 天皇さまの御直筆ゆえ、間違えのないものとうたってある。

『六国史』は、日本書記、続日本書紀、日本後紀、文徳実録、三代実録と、膨大なも
のである。
 これをみずから書写されたとは、「優遊戯ばかりされていた御方」の出来る事では
なくなる。
 そこで矛盾を感じている内に京都御苑拝観の機会をえた。
「桂宮邸趾」の史蹟の日蔭に、
「後西院天皇の仙洞凝華洞趾」
 棒杭みたいな標識があった。
 北向きの陰湿な地面にかつて存在した凝華洞とは何なのか?
 歴代の帝は退位後は仙洞御所へ入らせ給う慣しなのに、この帝のみが畳十四、五枚
の狭隘な、「凝華洞」に入れられ給うた謎はなんであるのか。それに、ことさらに、
こうした標識が残されているのは、余程それが特殊な建物であったろうし、また一面
それは見せしめの為といった感じさえする。そこで管理の役人にきいたが判らなかっ
た。
 処が、それから二年程して、『近世文芸叢書』の中の、
「京都叢書」に入っている、
「京羽二重」の底本が、寛文五年刊の著者不明の『京すずめ』と判って原本を探して
いると、その初版の写本が入手できた。
「御苑にて雀や鳥をかいたもうにや、あみ張りの小屋ありて」
 の一節が、その冒頭にある。
「そうか‥‥」私は謎がとけた喜びよりも、おいたわしくて涙がこぼれた。
「凝華洞」とは、恐れ多くも京所司代牧野佐渡守が、二十七歳の帝を退位させ十歳の
霊元帝を御位につけた後、二十二年の長きに渡って幽屏(ゆうへい)し奉った獄舎だ
ったのである。
『京すずめ』が書かれた寛文五年は、御退位後三年目ゆえ、作者は、先帝救出の悲願
から。
「あみ張りの御小屋」と、竹矢来を張られた状況を、謎かけのように書いたものであ
ろう。
 もちろん京所司代は躍気になって揉み消しを計ったらしい。
 体制側の儒臣を動員し、これを叩いたらしく『古語辞典』では、
「京すずめ=口さがなき者の取るにたらぬ流言蜚語」とある。だから今でも、
「口さがなき京雀」といったような書き方をしたのをよく見かけるのは、この時のせ
いによるらしいのである。

 では後西さまは何故に、そうした目にあわれたかとなるが、一言にしていえば、
「謀叛の帝」しかも史上ただ御一方の、挫折された例だからであろう。
 天皇さまで時の体制を倒さんとされた方は、あえて後西さまだけではなく、清和帝
の御子陽成さまも旗上げなされかけたが、藤原氏に終われ山奥深く身を匿され木地師
の祖となり、「後醍醐帝」も、その当時、やぎゅう者と呼ばれていた大柳生小柳生俘
囚郷の者らをたよられ、笠置山に旗を立てられたが、やがて北条氏を打ち滅ぼされた。
 が後西さまだけは不運にも失敗なされ、捕らえられ他への見せしめに竹矢来の中に
入れられ、「岩窟王」ともいうべき、
「凝華洞王」として幽屏され給うたのであろう。
 しかも徳川体制は幕末まで、
「天皇さまと申せ公儀へ弓引かんとなさるにおいては、かくのごとき目にあいまする
ぞ」
 恫喝のために、洞の跡を故意に残していたのは酷にすぎる。
 明治維新となって体制が変わった時、本来ならば後西さまの事も明るみに出て、凝
華洞趾の棒杭も撤去せられるべきだった。
 処が、講談で有名な大岡越前守忠相が、出版統制令と共に、「ご当家(徳川)に益
なきの書は一切無用のこと」を発令した為に、京所司代土岐丹後守が、恐れ多くも御
所内の後西さま一件書類をも没取焼却した。
 よって、明治から大正に変わっても、何故、後西さまにだけ、「院」を徳川家の命
令で付け御所に伝わってきたか、皆目不明の儘うやむやになった。
 だから後西さまの討幕の確定史料は、今となってはない。
 が、推理してゆくとなると、
 帝の御生母は、四条家より分かれた櫛笥家の一の姫である。
 さて、彼女への後水尾帝の寵愛を憤った徳川秀忠の娘の中宮和子は、寛永六年[1
629]十一月八日に帝に退位を迫り、己れがうみ奉った七歳の女一宮に譲位を求め
明正帝として即位させた。
 そして和子が宮中で権勢をますます振るったから、櫛笥家は生活に窮し末の娘を、
奥州へ身売り同然に銀子引換えで送っている。この貝姫のうんだ己之助が長兄次兄若
死のため、やがて伊達綱宗となるのである。
 そして、その四年前には‥‥
 先帝に御子がなかったため、高松宮家をつぎ、そこの明子姫と既に婚儀をあげられ
ていた良仁親王さまが帝位を継がれていた。
 この親王が後西さまで、櫛笥左中将一の姫の御子なのである。

 二十二歳の若き帝が、従弟にあたる十九歳の綱宗が仙台六十二万石の当主、となっ
たと聞こし召されたとき。後水尾帝のご無念を知り、徳川の圧政に立腹しておられた
だけに、共に、
「討幕」を志されたとしても、これは無理もない事だろう。
 しかし京所司代の知る処となり、先に綱宗が二十二歳の若さをもって、小石川堀工
事中なるも隠退させられて処分。ついで後西さまも、十歳の霊元帝に譲位せられる結
果となった。
 もし退位された後西さまが、仙洞御所へ入られ優遊戯にあけくれするような、優雅
な余生を送られたものなら、隠居させられた綱宗もその儘だったろう。
 が、凝華洞に閉じこめられ給うというのを洩れ聞いては、
「恐れ多し、なんとか致さねば」
 となったのであろう。テレビでは、伊達兵部が悪役で御家乗っ取りの騒動になって
いるが、実際は原田甲斐も兵部も日本人として勤皇の至誠を尽し、それを佐幕派とい
うか御家大事の伊達安芸が幕閣へ訴えたらしい。
 なにも幕末になって初めて、勤皇の士が現れ討幕運動が起こったのではない。仙台
城には、「帝座の間」または「上々段間」とよばれた御座所さえ作られていた程であ
る。これは後西さまを凝華洞から救い奉って、お移し申し上げる為だったらしい。
 しかし維新の頃になると、もうこれも判らなくなって、
「朝敵となり抗命した仙台城に菊花御紋の御座所はおかしい」
 という事になってしまった。
『宮城県史』においても、
「聚楽第を模して作ったものか用途は不明」となっている。
 が、歴代の藩主は、その帝座の間に必ず拝礼してから一段下った席についていたも
のだと、
『伊達史料』には出ている。
 つまり公儀の眼目が取潰しならば、六十二万石没取も訳なかったものを、伊達騒動
の決着が泰山鳴動に終ったのは、その蔭に後西さまがもう処分済みになっていた故も
あるだろう。しかし原田甲斐の遺児は二十五歳の帯刀(たてわき)以下四名、その帯
刀の長男で五歳の采女(うぬめ)、当歳の伊織(いおり)までが、公儀目付佐藤作右
衛門立会の下に酷たらしく殺された。
 しかし、これを耳に入れ給うた後西さまの御心境は如何であったろう。この年寛文
十一年[1671]より、不幸な生涯をおえられた貞享二年[1685]二月二十二
日まで、十五年間の歳月は、その怨念を、
「徳川体制は誤っているのだ」
 と、これに抗議なされる為、かの『神皇正統記』にも比すべき天皇制の正しさを主
張なさるため、自ら書写されたのが『日本書紀』以下のご労作であった事を想うと、
民草の一人としてまこと恐れ多い極みである。
 これを七百枚にわたって書き上げた、「真説・原田甲斐」を文芸春秋社から刊行し
たが、もし、おいたわしい後西帝のことをしのびたい方は一読してほしいし、なにも
幕末になって初めて討幕運動が起きたのではない事も判って頂けよう。「八切史」と
か「八切史観」というのは、
「何が真実なのか?」というテーゼの下に、「本当は何であったのか?」と取り組ん
でゆくものだからであることも理解してほしいものである。


大久保彦左と一心太助

 ----これは講談口演本より抜粋して、まず先に援用してみるとことにする。
「大変だ大変だァ、天下の一大事だァ」
「なんじゃ太助、騒々しいにも程がある。そうガアガア大声で怒鳴ってばかりおらん
と、もそっと落着いて話をしてみい、出来ぬか」
「てやあガンでえ‥‥おう親玉。おめえさんいくら天下の御意見番大久保彦左衛門だ
と、威張ってなすったって、年よりだから金つんぼは仕様もねえが‥‥目まで風穴同
然。なんにも見えなさらねえのか。情けねえったら有りゃしねえよ」
「なんじゃ、太助、うぬは泣いているのか。それでは腕に彫った一心鏡の如しの文句
の方が、泣くぞ、いうてみい、なんじゃ」
「てへッ、なんだもこうだも有りゃあしません。公害問題を放ったらかしにしようっ
て有様なんですぜ」
「えッ、そりゃまことか。それでは天下御政道が、めちゃらくちゃらではないか。こ
れ喜内ッ馬をひけッ、天下の一大事じゃ。さあ太助ついて参れ、何をもたもたいたし
おるか」
「へえ、合点承知の介で、そうこなくちゃ話にもならねえ、行きやしょう」
 当今ならこういう事にもなろう彦左と太助の間柄を、かつて関西の作家は、
「大阪の人間には、太助みたいに体制べったりな、いやらしいのはいませんよと某さ
んからいわれまして、成程とがっくりしました」
 といっていたが、一心太助とは、そんなべったりタイプのいやな奴だったのだろう
か。もちろん実在ではなく講談の張り扇から生まれ出た人物であるが‥‥すっかり考
えさせられてしまう。
 なお、更に引掛るのは、何故そのフィクションの一心太助を、実在の大久保彦左と
組合わせたかという関連性である。
 現在の吾々の眼からもってすれば、旗本一万騎と号した中には、あの時代のことゆ
え、水野十郎左衛門とか加賀爪甚十郎といった若くて、もっとばりばりした有名人が
沢山いた筈なのに、どうして選りも選ってあんな老人と勇み肌の太助を結びつけたの
か、まさか当時の講釈師がドン・キホーテとサンチョの組合わせを、転用の形で当て
はめたとも考えられぬし、奇妙に想う。
 が、見台を張り扇で叩きながら、なまの聴衆を前にして口演した際には、一心太助
という人物をそれらしく浮び出される為には、水野十郎左では駄目で大久保に限った
必然性が何かしら有ったのではなかろうか。
 今では、その講談は太助が大久保家へ奉公していた小者上りで、やはり女中だった
お仲と結びつき、邸を出て魚屋を開業したのだから、彦左衛門は里親みたいなもの‥
‥といった納得しやすいような設定に作り変えられているが‥‥まさか当初から、そ
こ迄は話が出来てはいなかったろう。
 すると、「旗本と魚屋」といった取り合わせが、聴衆をして不自然さを感じさせな
かった裏には、職業も居住地も勝手に変えられなかった江戸時代にあっては、誰もが
旗本になろうとしてもなれなかったように、魚屋も限定されていて、今のように河岸
の魚市場へ仕入れに行って、荷さえ持ってきたら、それで始められるというわけのも
のではなかったらしい[現代においても、勝手に魚屋を始められるものではないが‥
‥]。
 そして現代でこそ無神論者も多いが、江戸期では西方極楽浄土をとく宗旨が、だん
な寺として百姓町人の、人別帖とよばれる戸籍を握って、今の村役場や区役所をかね
ていたのだから、信仰というものが人間の差別や区別をもしていた。となると、身分
は旗本と魚屋とは違っていても、彦左と太助は同一信仰グループでないことには話に
ならない。
 そして当時の寺のたてまえたるや、魚肉は生臭として拒んでいたのだから、それを
扱う魚屋が公然と寺の管轄に入っていたとは考えられもしない。
 となると彦左の方も、決して西方極楽浄土を願いお寺の信者ではなかった事になる。
またそうした同類でなくては、この結びつきが江戸時代の聴衆の耳に入れられる筈も
ない。
 だから、その関連性は何かと、それから先に解明して掛らねばならないようである。

 さて彦左衛門という男。彼も実際は講談のごとく馬や駕篭で登城するのを差し止め
られれば、
「なら盥なら構わんじゃろ」と横紙破りするような、そうしたむちゃな人物でもない。
彼の本貫は、その著『三河物語』の冒頭に、
「ワレ老人ノ事ナレバ今日ノ夕方ニ死ンデシマウカモ知レヌ身デアル。ソレユエ唯今
コウシテ生キテ居ル内ニ、コレヲ書キ残シテオコウト思イツイタノダ。ト云フノハ御
主(将軍家)サマハ、譜代ノ家来ノコトヲ一向ニ御存ナク、マタ譜代の家来衆モ他ノ
譜代衆ノ筋目(家来)ヲ知ラナイユエ、予ガ知ッテ居ルコトダケヲ書キオクナリ、ガ
吾ガ子孫ニワレラガ筋目ヲ知ラセンタメニ残すモノユエ、カマエテ門外不出トイフナ
リ」といった文章に要約される。
 一見なんでもないようだが、よく眼を通せば奇怪すぎる内容である。
 この時代は三代将軍家光の頃だが、その家光が、新参の家来や外様大名の事ならい
ざ知らず、譜代の家来のこれまでの家系を一向に御存知ないというのである。世にこ
んな可笑しな、断絶した主従関係がはたして有るものだろうか。また、
「その譜代の家臣」も、譜代どうしであるなら親や祖父、先祖代々から知り合いでな
くてはならぬ筈なのに、彦左は、はっきりと、
「譜代ノ衆モ他ノ譜代ノ衆ノ筋目ヲ全然知ッテ居ラヌ」
 と暴露するみたいなことまで、それには書いているのである。
 常識で考えれば、譜代とは先祖から引き続き仕えている家臣団のことゆえ、こんな
バカげたことはなく、それに大久保彦左は、
「三河者ならば、かいえき(改易、頭ごなしにさっと)に御譜代の者と思食(思召)
されるやの間、そうした訳も子供らが、知っておらねば困るだろうから、書き残すな
り」とも、つけ加えているが、
「三河譜代」とはよく講談に使われる表現だが、これでは、
「三河の者となれば、どうしても頭ごなしに御譜代の者と思われ、間違われやすいか
らして、色々のことをこの際覚えておくよう、子供らに書いておくから、それを覚え
て信じこめ」
 といった意味にしか取れず、何がなんだか判らなくなる。
 といって三河とはいえ、大久保党の出身は、いわゆる松平家領国の地方ではない。
彼の在所は、灯台で名高い伊良湖岬の渥美半島の中心部あたりで、今も彦左衛門の幼
名をとった「兵助畑」の地名が残っていて、
「大久保」とよぶバス停留所の右手奥にある。
 彦左の幼時は、この半島は田原の戸田家の領地であって、戸田党は信長の父の織田
信秀と結び、松平の三河党[三河の松平党?]とは戦いをしていた。
 そうした間柄の戸田領の大久保党が、どうして、
「御譜代衆であるのか」と知らぬ者から間違われる事があるのだろう。そして、それ
に対し、
「はい、そうであります」と、ばつを合せて、自分の家系を先祖伝来の譜代に仕立て
たり、将軍家光の家系すらも、皆が知らぬからと作って覚えこませることの必要がど
うしてあったかと謎になる。
 しかし、これは後述する御三家の尾張7代目徳川宗春の、
「徳川家康は二人だった」
 という考証が判ればなんでもない。つまり大久保彦左は、
「家光さまの三代前の権現さまという御方は、三河松平の御出身のようになっている
が、実際はそうではないからして、家来の者もご素性をあまりよく知らぬ者が多い。
また将軍家におかせられても‥‥なにしろ、われら旗本は御譜代衆とはいわれている
が、わが大久保は渥美、水野十郎左は苅屋、加賀爪甚十郎らは遠江白須賀、榊原小平
太の身内共は伊勢白子浦、服部半蔵らは伊勢かぶと山と、口では三河譜代といっても、
みな非三河系ばかりゆえ、----これでは譜代の者の家筋など、とてもお判りになられ
よう筈はない」
 という意味をのべているのであって、それゆえ、序文の末尾に、
「各々方にあっても、ご譜代はご譜代らしく筋目をつけた家系を、この際こしらえ子
孫に残されることが、御家(徳川家)に対する忠節というものでありましょう」と、
しめくくっているのである。
 しかし内容は大久保党が木こりをしていて、初めて畑を貰ったときに感激したとい
ったような、楽屋落ちの話は一切かかず、
「徳川の出自」の第一章は、いざなぎいざなみの二神から始め、新田系をもって将軍
家の祖先とし、親氏から代々を次の章にかき、いわゆる徳川伝説を一人で書きこんで
いる。
 もちろんこれは、『大久保忠敬日記』『彦左衛門筆記』『参河記大全』の名で類本
も多く、これが林大学頭の手によって、
『徳川史』の底本になったというから、後から色々と書きこみをされ、いま伝わって
いるようなものになり、それでは内容的に不自然だというので、彦左が、
「自分はこんなに御奉公しているのに、報われる処がすくない」といった愚痴めいた
個所も、そこは抜かりなく挿入されているのである。
 しかし徳川家のために、こうしたもっともらしい史料めいたものを残したという事
は、まったく欠けがえのない大忠臣であった。
 この余恵で大久保本家は、大久保長安事件に引っ掛かったがすぐ許され、小田原十
万石も春日局のためその子の稲葉正勝に奪われたが、貞享三年(1686)からは大
久保家へ戻されている。
 また彼の書いた「徳川神話」を守ってゆくためには、
「彦左衛門とはなんだ。そんなのがいたのか」
 では困るから、明治軍部推薦で桃中軒雲右衛門が、
「武士道鼓吹、赤穂義士伝」をやらされたごとく、江戸時代の講釈師は奉行所のお指
図で、辻々に小屋をもうけ、そこで、
「只今より、大久保彦左衛門のお話を一席‥‥」とやって、彦左の実在を一般に強調
している内、話を面白可笑しくするため、ドン・キホーテに対するサンチョパンサの
ごとく、一心太助も張り扇で叩き出されて生まれてしまったのである。
 しかし江戸時代というのは、今の日本橋の橋の左右に、
「あまだな」とよぶ魚河岸の魚問屋四十軒があったが、
「生臭きもの」といわれた生魚乾魚一切の販売権は、エビス、ダイコクら七福神や白
山系統の信心衆、つまり昔は別所に入れられていた原住系の者らの限定職業で、
「千の利休」といわれる宗易も、堺で魚屋の元締めをしていたが、江戸でも魚河岸は
これは弾左衛門家取締りで、そのため、
「棒手ふり」とよばれる板台を天びんで担いで歩くような小前(こまえ)者でも、魚
を商う者は、同信仰でなくては許されなかった。
 つまり今は八百屋をやろうが魚屋をやろうが勝手だが、昔は、八百屋は百姓系だが、
魚屋は製革業と同じ素性の者に限られていた。
 だから一心太助も、ナムアミダの宗旨ではなかった。
 やはり、ビシャモンか、エビスの神徒ということになる。
 さて話は戻るが、大久保彦左衛門一党の出身地である渥美半島は、今は観光バスが
豊橋から一周しているが、雨天でなければ、半島を七つに分割しているビシャモン、
エビス、ダイコクの各社の、赤青黄だんだら染め幟旗(のぼり)がはためいているの
が見られる。
 何も今急にそうなったのではなく、ここは半島全部が昔は別所だったし、権現さま
が危うくなったとき、此処へ逃げこんで隠れていた徳川家創業の由縁ある土地である。
 だからでもあろうか、大久保彦左は、徳川家を守るために努力したのであるし、こ
れが講釈師の口から語られるとき。
 江戸時代の常識では、
「魚屋というのは、表むきの身分の差は、旗本の大久保彦左との間にあったにせよ、
一心太助は同じ宗旨のひとつもんだ」
 ということが周知であったから、心安げに、
「おう親分はいねえかッ、大変だァ、天下の一大事だ」
 と、ねじり鉢巻のままの太助が、神田駿河台の大久保邸へ、無遠慮におしかけてく
る場面をのべても、講釈場の聴衆は、
「確りやれ」とやんやと手を叩き声援をし、彼らが決して違和感を覚えなかったのも
理由はそのせいだろう。
 つまり徳川政権に大久保彦左という男は、べったりどころか自分が糊刷毛をもって、
せっせと徳川神話を作りあげた功労者なのである。
 だからして、彦左を話の中心にもってきて、彼の奇骨ぶりをおおいに語らせるとい
う事は、
(そうした曲がった事の大嫌いな正直一途の、頑固者の彦左でさえ認め、ちゃんと書
き残している徳川家の歴史というは間違いないものだ)といった裏書き的効果が有っ
たからして、講釈師が公けに口にするのをおおいに、おかみから認められていたのだ
ろう。