1084 日本意外史  9

細川ガラシャ殺しの秘密

 ガラシャことお玉は、当時、長岡与一郎といっていた、後の細川忠興の嫁となった
が、天性まるで玉をあざむくような麗質だったゆえ、忠興は二なき者として熱愛した、
といわれている。
 それゆえ本能寺の変のあった時も、彼女に災いが及んではと三戸野(みとの)に秘
かに匿し、秀吉に対して命乞いをした。そこで、その情にほだされ、
「明智光秀の娘とはいえ、そこもとへ嫁入りしてござったからには、なんの係りもな
いことゆえ、心配などせんでよろしい」と、秀吉も彼女がそのまま忠興の妻であるこ
とを許した。
 のち秀吉が亡くなって、関東関西お手切れとなったとき。
 忠興が家康について東下りしていたのを、なんとか味方に引き入れんと西軍は、彼
女を大坂城へ人質に迎え入れんとした。しかし、己れの玉をあざむく美貌をよくわき
まえていたお玉は、
「私のような美しい女が大阪城へ連れてゆかれては、貞操を奪われるやも知れませぬ。
それでは愛してくれている夫に申しわけとてなし」
 と留守居家老小笠原少斎をよびよせ、己れを槍で突き刺すように命じた。
 少斎も、忠興の嫉妬が強いのはよく知っていたから、部屋へは入らず廊下から刺殺
し、自分も屠腹して、屋敷に火を放った。
 そのため、戻ってきた忠興は、最愛の妻の死を悲しみ、少斎の黒焦げの屍を蹴飛ば
すと、涙をこぼし男泣きに喚きたて、
「よくも早まった事をしおった」と口惜しがって泣き喚き、足蹴にしたとまで伝わっ
ているが‥‥この話、はたして大衆作家が書くようなそんな愛妻物語だったのだろう
か。

 長岡の姓を何故か改めてしまった細川忠興というのは、あの時代にあっては「きけ
もの」として知られた人物である。それが、そこまで取り乱すとはヒイキの引き倒し
で変ではないかといった気がする。
 それにこういった話は実際に有ったにしても、今でいえばプライバシーにも当たる
事柄ゆえ、伏せられてしまうのが当然である。なのにどうして『細川家記』とよぶ家
伝史にまで、これが入れられているかという謎である。
 普通なら匿し通すべきことが、事さらに記入されているのは、見せつけではないか
といった疑いなのである。
 そこで、美人ではなく、この話を裏返しに組み立て直すと、
1.お玉はきわめてブスだった。が信長の命令ゆえやむなく嫁にした。
2.本能寺の変後、秀吉は何らかの必要上、お玉を殺し差し出すよう細川忠興に命
  じた。しかし細川家では、幽斎が、何かの生き証人になるからと、出奔して行
  方知れずと報告して、その実は三戸野へ、切り札として隠しておいた。
3.このため秀吉としては、お玉を殺させる時機を逸したが、その内に、関白とな
  り、もはや天下に憚るものもなくなったので、その儘で放任しておいた。
4.処が慶長三年(1598)八月に秀吉が他界。一年おいて慶長五年。上杉景勝
  がその有する黄金にものをいわせ、独力で天下を相手に謀叛せんとする企てに
  徳川家康は討伐隊を率いて東上。これに細川忠興も従った。
5.さて小山まで兵を進めていた家康も、石田三成が旗上げしたとの報に接するや
  江戸城まで引き返し善後策をねった。その時に、忠興が家康に命ぜられたのは
  伏見長岡屋敷へ住まわせてあるお玉の口ふさぎであった。
6.お玉が何かを知っていて彼女の口からそれが洩れでもすると困ると、かつて秀
  吉もおおいに案じたが、家康もこれからの合戦を前にして、これにはすこぶる
  難色を示した。
7.しかし忠興は、長年の妻でござればとこれをまず拒んだ。すると家康は恩にき
  るから大事の前ゆえ頼むとまでそれを求めた。よって忠興はそれではというの
  で、安心して託せる小笠原少斎の許へすぐさま使いをだした。
8.もし、お玉が大坂城へつれてゆかれこの明智光秀の娘が、知っている事をもし
  責められ口外したとしたら、家康の信用はがた落ちして、関ヶ原合戦に先立ち
  東軍についた諸大名は、みな四散してしまう恐れがあったらしい‥‥ことにこ
  れではなる。
 つまり、逆にすると、こうした結果になる。
 もちろん当て推量であって、唯まるっきり正反対にしてみた迄のことで、これには
なんら援用できる資料など有りようもない。
 だが、こうした大胆な推理ができるのは、信長殺しの斉藤内蔵介の娘阿福が、
「春日局」の名で江戸の実権を握るや、後述のごとく、片っ端から外様大名の取潰し
をした家光の時代なのに、やはり取潰しにあっても仕方のない外様大名の細川忠興に
対し、十二万石から五十四万石へと常識では考えられぬような大巾の加増がなされる
という奇怪さからである。

 とはいうものの、これまでの説を、まず順を追って当たって行かぬことには、話が
飛躍しすぎるからそれに戻ってみるが、どうも話しは、もちろんみな真赤な嘘である
らしい。いくらお玉が美人であったとしても、その夫を味方にする目的で、大阪城へ
連れてゆこうとした西軍が、彼女の操など奪う筈はなかろう。これは常識である。
 それに、このとき彼女は既に三十八歳。長子の忠隆も二十歳になっていたのである。
いくら美人であったにしろ、ろくな化粧品もなかった時代の、しかも四十近い女にそ
んな心配があろうか。
 また忠興は激怒して、少斎の遺骸を足蹴にしたというが、関ヶ原合戦の始まる前に
火をつけたのが、凱旋してきた数ヶ月後まで、そのままだったというのも変てこだが、
熊本市に残っている『小笠原家記』をみると、
「小笠原少斎の跡目長基に、細川忠興は姪のたね(後に千女)を己れの養女として一
緒にさせ、その間にできた長之という伜に、その二十三年後の話だが、忠興はやはり
弟の娘のこまんを己が養女として縁づけ」て居るのである。
 これは『細川家記』の方にも、その裏付けが、「細川幽斎の孫娘にあたる千(せん)
女が、小笠原少斎の次男長基に嫁した」
 と、はっきり記録されている。
 さてこうなると、妬情けにかられ屍に鞭うつように蹴飛ばした男の跡目に、なぜ自
分の養女を縁づけたのか。そしてその生まれた子にまで、また養女を作って一緒にさ
せ、二重三重に縁結びして、少斎の遺族を雁字絡めにする必要が、どうしてあったの
かと怪しくなる。
 さて寛永九年(1632)十月のことである。それまでも、それから先も徳川家と
いうのは諸大名の取潰しや、減封ばかりしていた筈なのが、
「恐れ多くも、上さまの思召しである」と、春日局は、将軍家光の台命として豊前小
倉十万石の細川をよびだし、
「其方は、わが亡父斉藤内蔵介とも入魂(じっこん)の者なれば‥‥」
 つまり、斉藤内蔵介の遺児の阿福として、亡父と仲良しだったから取り計ってあげ
ましたのだと、先によく断ってから、
「肥後十二万石、豊後三郡しめて五十四万石」
 と、これまでの十万石に比べると、5.4倍のベースアップをした。しかも肥後の国と
いうのは豪気な秀吉でさえ、
「彼地は収穫の多い美国である」と惜しがって、気に入りの加藤清正や小西行長にさ
え、吝って半国ずつしかやらなかった処である。
 そうした屈指の最上等の国を、まるまる忠興に、格別これといった手柄もないのに、
急にやってしまったのは、何故だろうか‥‥
 さて貰った忠興はどうしたかというと、お玉が産んだ長子忠隆は山城北野へ追放、
次男興秋は江戸へ送り(途中で脱走し山城東林院で、首つり自殺を遂ぐ)、お玉の死
後に別の女に産ませた三男忠利をもって、五十四万石の当主にたてた。これでは忠興
が、
(お玉を熱愛していた)という愛妻美談は、どう見てもまったくの嘘になる。
 そして、お玉を殺し自分も死んだ小笠原少斎の遺族を、何重もの婚姻政策で縛った
のも、そこには秘密漏洩を気づかっての、糊塗策としかみられぬものがある。つまり
忠興にとって、お玉を大坂城へ入れずに少斎が殺したのは、非常な恩恵であり、その
ために五十四万石になれたような、何かがあったものらしい。
 ということは初めに疑わしく書いておいたが明智光秀の娘であるお玉が、大坂城内
へ連れてゆかれ、そこで口を割って、もしも本当の処を、
「実は、信長殺しの真相は、かくかくでございました」
 とでも真相を明らかにしていたら、東軍に加担していた大名の中でも、旧織田系は
いたから、それらが家康から離れて東軍は危うくなり、関ヶ原合戦で勝てなかったか
も知れぬ、というキーポイントがそこには秘められていたのだろうと推理される。だ
から、
「その口をふさぐ為に、お玉を殺し、自分も格好をつけるため死んでくれた少斎は、
細川家にとっては大忠臣」という事になって、代々殿様の御養女を下賜されるご一門
の扱いになったものらしい。
 では、その秘密とはなにかというと、
「天正十年六月二日の夜明けに、信長のいた本能寺を包囲した軍勢は、丹波口から京
へ入ってきた」
 という事実によるものである。
 丹波は誰、丹後は誰と、国別に大名領の区画整理ができたのは、関ヶ原合戦から後
のことで、天正十年の頃はまだ入りまじっていて、丹後でも三戸野辺りは明智領だっ
たが、丹後も京への入口の船津、桑田の二郡は、これは当時長岡藤孝を名のっていた
細川家の領地である。
 つまり、その昔、
「大江山」とよばれた老の坂から京の入口までは、
「長岡番所」とよばれる細川家の見張番小屋が何ヵ所も続いていて、京への出入りを
監視する役目をいいつかっていた。なのに、
「敵は本能寺にあり」と叫んだかどうかは判らぬが、斉藤内蔵介の率いる軍勢が、こ
の何ヵ所もの細川番所の関所を、六月一日夜から二日にかけて、堂々と通ってきたの
である。しかも僅かの人数が巧く身をひそめ、隙を窺って通り抜けてきたというので
はない。
 一万三千の頭数が堂々と大手をふり、フリーパスで通行してきたのである。
 こうなると、細川忠興やその父の幽斎は、斉藤内蔵介としめし合せていたか、前も
って徳川家康に頼まれてOKしていたか。
 そうでなければ、一万三千の内の何パーセントかは、細川忠興または幽斎の率いて
いた丹波桑田か船津の兵ということにもなる。
 つまり細川家こそ、巧く生き残った信長殺しの下手人の一人で、
「その汚名をかぶせられた明智光秀の三女であるお玉」
 は、その真相を知っていたからこそ、もし大坂方に暴露されては、徳川家の不為と
考え、少斎がこれを刺殺したのだろうし、
「その時の借りを返すため」に徳川家は、斉藤内蔵介の遺児の春日局の手をへて、5.
4倍の増禄をあえてしたのだろう。なお、
『細川家記』には、明智光秀の手紙と称する物が入れられてある。
 光秀自身が自分が謀叛をしたのは与一郎(忠興)の為であるといった内容のもので
ある。これは、文章が次々とおかしく、与一郎に敬語をつけている点などから、細川
家の家来の贋作ではなかろうかと、故高柳光寿氏も指摘しておられたが、細川家とい
えば名家という事にはなっているが、十二万石から明確でない理由で熊本一国の領主
になっただけあって、なんとか取りつくろおうと懸命になって、その係りの専属家臣
をも代々おいて、さも尤もらしい色々な話を創作したというか贋作させ、それをまと
めて、
「細川家記」として今に伝えているのだろう。もちろん後半はなんということはない
が、幽斎、忠興の二代の間の記録ときたらみな眉つばものであるといっては過言では
あるまいといえる。
 なにしろ、イギリスの推理作家アガサ・クリステー[クリスティ]でさえ、
「アリバイが揃いすぎ、もっとも尤もらしいのこそ怪しい」といい切っているのが、
細川父子にも当てはまるのではなかろうか。
 だが、それは信長や光秀、そして殺されたお玉お側からいうことであって、五十四
万石に所領を増やし家臣一同をうるおした忠興の存在は、細川の家来にとっては神様
みたいな存在だったから、肥後一国の全力を結集して色々と庇うように、手作りの史
料などを付け加えたのでもあろうか。

              [八切止夫著『日本意外史』(番町書房刊)より]
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 なお、細川家と徳川家康、本能寺の変との関係については、同じく八切氏の労作
「信長殺し、光秀ではない」に詳しいです。このボードの#9644以降にアップし
てありますので、御参照下さいませ。

御先祖様の事はとにかく、細川の殿! アメリカで頑張ってね(^_^)


豊臣秀吉は猿でない

「うん、うぬは猿そっくりじゃな。まこと珍妙なつらじゃ。よし、今日よりは、猿め
とよんでつかわそうかい」
「はい、はい、召し使うてさえ頂けるものなら、てまえは猿でもなんでも、結構にご
ざります」と信長に奉公の初めから、いと気軽に、
「さるめ、さるめ」といわれた事に、あらゆる『太閤記』でされている。
 しかし、
『両朝平壌録』という朝鮮の役のときに向こうから交渉にきた者の、帰国後の見聞録
ともいうべき報告書には、
「つらつら関白秀吉を、間近かに観察するに、左頬に黒あざのごとき汚点(しみ)が
数点浮きでており、口が尖っていて、その顔つきは一見、犬に相似していた」とでて
いる。
 日本の講談では、猿だとか猿面冠者とあるが、実際に面会した人間は、はっきりと
秀吉を、
「犬に似ている」といい切っているのである。
 はたして、どちらが本当だろうか?
 また秀吉を、土百姓の子とか、鉄砲足軽の子であったなどというが、その頃、日本
へ宣教師としてきていたシュタインシェンの、
『キリシタン大名』には「樵夫」とあるし、
『日本西教史』にも「秀吉は若年の頃は木こり、たきつけ火付け用に柴の束を担ぎて、
売りひさぎ歩きし」とでている。また、
「講談」では「相当豪かった丹羽長秀や柴田勝家にあやかろうと、羽柴と姓をつけた」
というが、『古語辞典』では、
「はしば=枯柴の尖端で点火用にした端柴[はしば?]のこと。形状より羽柴ともい
う」とあるが、どちらが本当だろうか‥‥この方が論理的だと思われるが、これまで
そうした説は全然といってよい程とりあげられていない。まあ、講談とか、それに類
する読物ではそこまでの詮索は、煩わしくなるだけで必要がないのかも知れない。
 しかし徳川の世が終って明治になった途端に持てはやされ、西郷隆盛ら征韓論者ら
によって、「豊太閤に続け」と叫ばれて以来、やがて日清日露と続く大陸進出作戦に
際しては、かつての先覚者、国民的大英雄として、小学校読本や絵本の主人公にされ、
しまいには一大人気者にさえのし上がってしまった彼には、
「これ藤吉、いやさ猿め」といったようなそんないわれ方でないと、一般の親しみが
得られなかったというのでもあろうか。
 そうなると、秀吉という存在も、明治軍部が担ぎあげたジンギスカン義経と同じよ
うに、大陸開拓先進者という国民指導用の偶像だったにすぎない存在だったとも考え
られるのである。つまり明治以降、ある時代ごとに秀吉が、猿だ猿だと面白可笑しく
脚光を浴びさせられるのは、なにも木下藤吉郎の出世功名譚が世人から求められ、そ
れで引張り出されるのではなく、朝鮮とか中国を国民に身近かに感じさせねばならぬ
ような状態のときに、それはチンドンヤのごとく真先に、引張り出される道化ではな
かろうかと勘ぐりたくもなる。まったくそんな感じさえもするのである。
 というのは徳川時代には秀吉の研究などされておらず幕末の、『真書太閤記』や
『絵本太閤記』ぐらいの、いわば講談本のはしりしか出ていない。だから乃木大将程
の人でさえ、
『真田十五代記』といった講談本の類しか読まなかったそうだから、それよりも年か
さの明治の元勲などが読んでいた本は、それ以下のものとしか考えられぬ。
 だから秀吉を大陸進攻のパイオニアとして、小学校教科書などでおおいに取り上げ
たはよいが、朝鮮史料や当時のイエズス派の書簡などはみていなかったろう。だから
して、その内に、秀吉が正親町帝を追って自分が帝位につかんとしたとか、それに反
対した山科、四条卿らの大坂落ちといた新事態が明るみにでてくると、「勤皇精神」
を国民指導要領にしていた軍部も困ったのであろう。
 そこで、秀吉の新事実は一切みな伏せてしまい江戸末期のままの秀吉像を凍結させ
たのである。
 このため秀吉伝説は、文化文政の頃の版本から、すこしも解明されぬままに大手を
ふって今も、まかり通っているのだろう。
 後述する大和興福寺多聞院英俊の当時の日記から、史家の中には、秀吉というのは
歴史知らずの明治政府が、正一位を贈りあがめ奉ってしまったが、実際は日本人にも
あるまじき思い上りの不届き者だった‥‥位は知っていた者もいたであろう。
 だが、明治大正昭和の間ですっかり金字塔のように出来上がってしまった秀吉の虚
像に、正面から突き掛かるような勇気は誰も持ち合せていなかったのか、それとも、
もはや定説となってしまった伝説をぶち破っても、誰からも賞められはしなかろうと、
そんなばかげた徒労をあえて、強引にするような愚かしさはしないのであろう。
 だが敢えてそれを改めて推理し直してみるとこうなるのである。

 加藤清正を有名にしたのは、なんといっても日蓮宗である。
 それと同様に、塚原卜伝を世にひろめたのも、常陸鹿島神社が幕末の剣術流行時代
に、当社こそ武の神と宣伝し、
「参篭した卜伝は、神のご庇護で剣の名人となった。剣を志す者は当社へ参詣すれば、
ご利益できっと上達すること間違いなし」
 と弘めさせたせいだというが、秀吉もまた、「山王権現さま」とよばれる日吉神社
の信者獲得用にPRされていたものらしい。つまり日吉さまに願って生まれた子だか
ら、「日吉丸」であって、お稲荷さんの使いが狐なのに対し、
「日吉さまのつかわしめは、猿だったから日吉丸は猿とよばれた」
 という論法なのである。もともと猿というのは、
「馬屋神」といわれ、信長や秀吉の頃は、馬が病気した時には、厩へ猿にきて貰って
小さな御幣を振らせれば直るとされていた。
 つまり獣医というより、神聖な神の使いとみられ、猿飼部族は、
「神人」の扱いをされていた。という事は、今のようにモンキーセンターや、動物園、
それに家畜商もなかった時代では、
「猿は深山にすむ霊長類の動物」として、猟師でもなければ、実物は滅多に見られる
わけのものでもなく、一般の人間は薄気味悪がって、拝まんばかりにしていたのだろ
う。
 処が天保の飢饉からの米価の値上がりで、非農耕の猿飼部族は食してゆけなくなり、
猿を伴って門付けして歩くようになったので、かつては恐れ敬われていた神人が、今
度はあべこべに、
「猿廻し」と軽蔑され、猿の方も、昔は、馬屋の神であったのが、多くの人目にさら
された結果が、価値を安っぽくさせ、
「テレツクテンのエテ公」となってしまったのである。
 だからこそ『真書太閤記』や『絵本太閤記」の類も、初めは発禁版本没収の憂目を
秀吉ものを、そうした、「サルメ」「サル」の扱いにしたため、後には大目にみられ
て、どんどん売りまくられたのではなかろうか。
 しかし異説もある。その頃、将軍家茂に、恐れ多くも京から和宮が御降嫁になって
いた。そこで一般庶民は蔭へ廻って、「将軍さまも天朝さまから嫁とりされては、頭
が上がるまい」
 下世話にいうカカア天下を想像し愉しんでいた気味があるので、この「サルメ」と
いうのは広まったのだとする説である。これは、
『続日本紀』にある古い昔話だが、小野の姓を名のる一族の長(おさ)が、
「わが部族の男共が、前から住んでおりまする女尊系の部族の女に引っかけられ、次
々と連れ去られてしまい、今や小野族は滅びかけようとしています。どうか異種の民
でありまする猿女族を、この際討伐して下さって、わが氏族をお守り下さい」と願い
でたゆえ、
「よし、女ごに引っかけられ、しぼられ苛められておるとは不憫である」と、時の帝
は憐れみたまい、すぐ猿女部落を急襲させた。
 処が猿女たちは「小野」の姓を自らにつけ、関所の眼をくらまし、もはや早いとこ
散らばって逃げてしまった。
 そして旅にでた彼女らは、自分という一人称を、やがて、
「おの」といったいい廻しをなし、「おのが姿を影とみて‥‥」といったようなのを
唄って、旅芸人の元祖となり、「語り部」になったというが、追捕に後から行った男
たちも、ウスクダラではないが、逆に捕虜(とりこ)となって、「夫」という名の奴
隷にされた。
 もちろん一部の女は捕らえられてきて、御所の中で、力仕事をする賎業につかされ、
これは「猿女」の名を伝え幕末まで続いているが、
「さるめ」というのは江戸時代にあっては、
「強い女」「かかあ天下」の意味だった。
 そこで藤吉郎も、おねねに頭の上がらぬサルメだったろうという受け取り方で、将
軍家への当てこすりみたいに、「サルメ、サルメ」といったのが当たったものらしい。
処が明治になって、もう猿女の本当の意味が判らなくなり、「小男であった」といわ
れる秀吉に、その猿自体を押しつけ、
「猿面冠者」にしてしまったものと思われる。
 そして、なにしろ明治新政府というのは、有能な士は幕末のテロで大かた倒され、
生き残れたのは、たいした事もない連中ばかりだったので、「王政復古」が成ると、
直ちに、
「豊国神社復興」の命令をだして勅使を派遣して正一位を贈った。
 これは、織豊両氏の統一事業が、近代国家前期工作であったことが認められた結果
だと、故白柳秀湖はとくが、真相は、
(豊臣は徳川に滅ぼされているから、諸政一新のため)といった早とちりだったのだ
ろう。処が歴史家はそれを裏づけなければならぬから、故黒板勝美のごときは、その
『国史概観』『国史研究』といった旧制高校、専門学校の教科書用にかいたものでも、
「秀吉は京都内野の地を相して邸宅を造営。聚楽第と名づけ宏大壮麗目もさめるばか
りで、翌年四月に後陽成帝の行幸を仰ぎ、盛儀古今に比なしといわれる位に、勤王の
まことを示したものである」
 と、なっているが、彼は歴史屋のくせしてその当時の、
『奈良興福寺多聞院英俊の日記』をみた事がなかったのだろうか。
 その日記によると秀吉は、自分は先帝と持萩中納言の娘との間にできた子種である
からと、時の正親町帝を脅かし奉り、女御をみな裸にむいて磔にかけるとまで、紫宸
殿で喚きたて、あげくのはては皇太子誠仁(ことひと)親王のお命を縮めまいらせて
いる。
 御所に向かいあった下立売通りから十町四方の民家を取払い、そこへ万博なみの規
模で造営したという聚楽第は、これは取りも直さず秀吉が自分が帝位につくための新
御所に他ならない。
 そして、誠仁親王の亡霊にとり殺されると脅かされた結果が、親王の遺児をもって
帝となし、その御方を招いて聚楽第をおみせしたのが、
「秀吉の勤皇」とは、なんたる無智であろうか。その帝の謚号(おくりな)が、かつ
て廃帝の陽成さまの御名に「後」がつけてあるのをみても、歴史家なら判りそうなも
のを、教科書にまでするとは情けない。
 さて、秀吉の幼児には、まだ鉄砲は尾張まで入っておらず、
「鉄砲足軽木下弥右衛門の子」となすのも間違いだが、
「太閤検地」によって、二公一民つまり六割六分まで年貢にとるという重税をかけ、
百姓に同情も理解もなく、ただ憎悪しか示さなかった秀吉は農耕階級出身者ではなく、
木こり、つまり山がつの子という素性の者だった方が正しかろう。
 が、だからといって、それが秀吉の価値を損なう程のことでもない。
 食うやくわずの木こりの伜が関白になれたという男のシンデレラ物語は、彼が野卑
であり傲慢であればある程、それは魅力的であり男性的でもあるのである。
 つまり責められるのは、秀吉その人ではなく、彼を勝手に自分らに都合よくでっち
あげ、歴史というものをまったく歪めてしまう、利用者の側の方であるだろう。


釜ゆで石川五右衛門

前述したごとく『多聞院日記』に、
「一品(誠仁)親王さまが、急におかくれになった。はしかというが大人のかかる病
ではない。恐れ多い話ではあるが、殺害されたもうたか、御自害であろう。が、皇太
子さまが亡くなられたからには、次の帝の御位には、秀吉がつくのはもう確定したよ
うなものである」
 とまで書かれている時代、今ではあまり知られていないが、山科言経、冷泉為満、
四条隆昌の三卿が、敢然として、
「秀吉ずれが帝位につくは絶対反対」と、正親町帝に申しあげた。処がこれが洩れ、
そこで、やむなく帝も勅勘(ちょくかん)という形で、三卿を追放処分となされた事
がある。
 冷泉の姉が西本願寺門跡の裏方だったので、このとき都落ちした三卿は、西本願寺
敷地のいまの大阪中の島公演の処で逼塞していたが、この儘では大変なことになると
いうので、
「亡き一品親王さまの霊が天界で荒れ狂い、秀吉の命を縮めんと、あちこちの寺に落
雷させたり、火の雨を降らせ焼き尽している」
 と門徒たちに流言蜚語をとばさせ、打倒秀吉のため活躍していた話は書いたことが
ある。
 が、そうした折りに、
「おのれ秀吉め、命は貰った‥‥」と、忍びこんだ石川五右衛門というのは当時の秀
吉の実状からみれば、まこと惜しくも仙石権兵衛に捕らえられたとはいえ、
「尽忠勤王の士」として立派であると思うのだが、それよりも、秀吉伝説の方が強力
なので今では、
「浜の真砂はつきるとも、世に盗人の種はつきまじ」の歌だけが伝わり、あくまでも
泥棒としてのみ扱われているがそれでよいのだろうかと疑問が生ずる。
 そして近頃は、泥棒から一歩進化したのが、「忍びの者」ということになってしま
った。
 南禅寺山門の上で金ぴかのどてらみたいな打掛けをきて百日かつらの大きな頭をふ
りふり、「絶景かな」とやっている五右衛門と、黒装束で身軽にすいすい飛び廻るの
では、まったくイメージが違う。
 しかし泥棒よりは忍術使いにされた方が彼にも名誉であろうというのか、近頃はそ
ちらが定説になりかけている。
 だから今の内に疑義を差し挟んでおかないと、やがていつかは、泥棒の五右衛門は
消滅してしまい、忍術使いの方にだけ名が残り、それが一般的概念となって常識化し
てしまう惧れがある。
 が、初めにことわっておくが、
「石川五右衛門」なる存在は、後述するごとく林羅山という江戸時代の公儀御用儒学
者が勝手にこしらえた架空の人物である。なにしろ日本人というのは思いやりがあっ
て心優しい民族なので、明治時代の尾崎紅葉が『金色夜叉』をかけば、熱海海岸に、
お宮の松をつくったり、すぐ物語中の人間をも実際にいたようにしたがり、一般もす
ぐ信じやすい人の良さがある。それが悪いというのではないが、鰯の頭も信心からと
称されるが、おかげで芝居講談までが歴史視されてしまう。

 さて、前にもすこしだけふれておいたが、吾国の忍術なるものについては、
「藤林保武口述と伝わる、万川集海」
「服部半蔵口伝といわれる、忍秘伝」
「名取青竜軒の一子相伝の、正忍記」
 というのが古典とされ、近世では、
「伊藤銀月利法公開、忍術極意皆伝」
「藤田西湖伝授秘技、忍術の実際」
 といったのがある。銀月のは、昔の「少年世界」や「譚海」に一頁の広告が入って
いて、
「一円送れ切手可」とかいてあった。そこで取り寄せ、
「天狗飛び切りの術」というのを公開実演しようと思って、近くの寺の鐘楼から、や
あっと九字を切って飛んだら尾てい骨を打って気を失い、近所の悪童に担いでゆかれ
たのが、校医の処で、これが学校にばれてしまい、一年の初めから級長だったのが、
この時から落されてしまう羽目になった。通信教育では私も巧くできなかったのだろ
う。
 藤田西湖は故江戸川乱歩に誘われて浅草の伝通院へ実演をみに行った。色々の道具
をもってきて、天井をコウモリのように逆さに歩くというのが呼び物だったが、剣道
の稽古着をきた肩巾の広いおっさんは、この本の中の写真にある通りですと、本を二
円で売りつけたきりだった。
 そこで故乱歩氏は残念がって、
「伝通院で、天井板が痛むと急に休止をいってきたそうだ」
 と誘った手前しきりに弁解しておられた。
 が、さて、銀月や西湖の方は、忍術でなく銭儲けの算術に徹していたようだから、
古典の、『万川集海』から解明にかかりたいが、実はこれは、朝鮮の兵書の『間林精
要』と、中国明の軍書『武備志』の二つを糊と鋏でくっつけあった当時の海賊版でし
かない。
 だが、『列子』や『史記』、『文選』にでてくるところの、
「奇幻たちまち起これば、万物その姿を異物に変え、大地を蹴ればドドンと姿が潜り
こんで消え、刀を口へ咥えて火を吐けば、カトンカトンと燃え広がって、あたりは紅
蓮の焔。スットンスットン呪文を唱えれば、雲霧たなびき辺り一面が暗くなって、天
より沛然たる雨となり、大地は割れて川となり水遁の術が行なえる魔可不思議さ」
 といったような内容の、鬼神や方仙の行なったと称する、
「神仙術」が、忍術とされているから、これから児雷也のガマの妖術、天竺徳兵衛の
大蛇術。そして原田甲斐こと芝居の仁木弾正のチュウチュウ鼠術が、芝居から、目玉
の松ちゃんの忍術映画になり、これが後の円谷式特殊撮影技術の原点となったのであ
ろう。
「忍秘伝」の方は、伊賀流忍術虎の巻というので、これはややリアルで、
「軍法の忍は漢高相帝の時より窃盗をもって間(かん)とよび、間者とは忍び盗む者
をいう。つまり窃盗術こそ忍術の精華なりと伝わる」
 まるで泥棒教科書のような事が、巻頭にかかれてある。
 だから石川五右衛門が泥棒兼忍術使いであっても、それこそ精華であるといった書
き方であって、前述した、
「まき菱」「水中下駄」「結び梯子」の類が、もっともらしく羅列され、次になると、
「火器、火術こそ、忍術なり」と、今日のプラスチック爆弾のような「風爆火」の名
称もでて、これは『万川集海』の末尾にも、
「狼の糞の乾いたのに、もぐさ草をまぶして、それに硫黄と硝石をまぜたものが、の
ろし火薬」
「太い松の木の根株を細く裂いたのに、硝石をよくまぶして、これを闇夜に用いるの
が、卯花月夜」
 とでている。つまり忍術というのは、大なり小なり、硝石を使わなくては、白い煙
ひとつ出せないものらしい。
 処が、島原の乱以後、一般の硝石入手が困難になった。
 厠の縁の下の土を掘って天日に何日もさらせば、小匙半分位は取れるというのは前
にも書いたが、塊っては今でも何処にも硝石の産出する鉱山などはない。
 だから今でも日本ではすべて輸入依存だが、これが徳川家独占になって一般に出廻
らなくなっては、もはや忍術はやりたくても出来なくなり、それでドロンドロンと消
えて行ったのであろう。
 さて石川五右衛門というのは、これは実在ではなく、十七世紀後半の、
『禁賊秘誠談』というのにでてくる泥棒で、のち『絵本太閤記』に登場させられるが、
作られた架空の人物であり、これが有名になったのは、やはり芝居の影響で、
「石川五右衛門一代記」から「釜が淵、二つ巴」といった浄瑠璃でまず操り人形芝居
として広まり、これが後になると、
「ああ絶景かな、春の眺めは価(あたい)千金」と南禅寺山門で、百日かつらで見得
をきる「金門五三桐」といった芝居で知れ渡った。
 しかし芝居だと、のちに上演された「艶競べ石川染」でも、五右衛門は忍術など使
っていない。つまり彼を忍者にしてしまったのは、大正時代の玉田玉秀斎と、昭和に
入っての村山知義ということになる。さて前述した従二位権中納言山科言経の残した
日記の、
「文禄三年[1594]八月二十四日」の条に、
「京三条河原にて盗賊十名釜ゆでの刑にあう」という個所がある。
 これは、林羅山が、その釜ゆでにされた者は石川五右衛門なりと、公儀儒官の権威
をもっていいきった。そこで、丁度その頃、美濃関で鋳造され売り出された一人用湯
釜に、その名が利用され、
「五右衛門風呂」という名称は今に到るも使用されている。
 実在しなかった物語の主人公石川五右衛門を、なぜ林羅山が実在みたいに言明した
か、これは久しく謎とされていたが、真相は徳川家御為を計っての配慮によるものら
しい。
 というのは、賎ヶ谷七本槍の一人で討死した石川一光の弟に、長松という者がいて、
これが代りに秀吉から千石を貰い、のち慶長三年[1598]六月二十二日付けで播
磨丹波で六千四百五十石にまで昇進したが、秀吉が死ぬと、彼は伏見城にいた徳川家
康を、
「あの狸親爺の息の根を止めない事には、豊家の運命が危ない」
 と暗殺するために忍びこんだが、武運つたなく捕えられ、三条河原に梟首された。
これが、
『武家盛衰記』という題名で出された本に、はっきり、
「石川長松は忍びの名人にて」とあるのが当たって、その頃としては極めてよく売れ
たらしい。そこで林羅山としては、
「神君権現さまに刃を向けんとしたような不埒の輩が、もてはやされるとは何事か」
と町奉行に指示して発禁にした上で、反対に秀吉を狙ったという架空の石川五右衛門
を、それとすり変えるために、当時のおかみが後押しする形で公けに認めたのが、
「長松改め石川五右衛門」ということになるのであるらしい。どうも、[←なぜか、
ここで文章が切れております、誤植かな‥‥影丸]
 さて、こういう具合に、おかみが泥棒行為は奨励しなくとも、
「泥棒五右衛門の肩をもつ」ような事をしたからして、やがて、
「白波五人男」といったような集団強盗が、芝居の当たり狂言の一つにもなり、
「盗みはすれども非道はせぬ、日本駄右衛門とは、俺がこったァ」と舞台で大見得を
きるのに観客が、
「そうだ、盗みは、非道ではない」と手を叩くようなことにもなったらしい。