1082 日本意外史  7

切った首利用法

『戦国武家事典』という本によれば、「首実験」は、
「大将右の手に扇子を持ち床机に腰かけ、その背後に弓持ちやその他の役人が立った
り列座している。首を持参してきた奏者は、すこし離れて右の方に座す。その座り方
は両膝を伏せて前にて足を組み、(これすべて軍中にての坐りようなりの註がついて
いる)さて次に大将の着座定まりて、弓持ちの役人座を立ちて、弓を大将にまいらせ
る。(首実験するのに何故、弓が入用かの註はついていない)よって大将は持ちたる
扇を腰にさし(或いは鎧の引き合にさすの註がある。要するにジャマッケだから、落
さぬように何処かへ挟んでおけということだろう)左手に弓を受けとりて、直ちに弦
を内側へなし右の方へ曲げて向け突くべし。よって弓を進めたる人は左へ巡って戻っ
てきて、もとの座へ帰って座る」
 というのが始まりで、
「首板にすえた首の元取りを右手で提げ、左手を首板の下にすえ、受け持つ格好でも
って出て、門外または幕を巻き上げた処で坐して待ち、さて大将の実験となると、首
の耳へ親指を入れ他の四本の指で顎をささえ、首を仰向けにしたまま、すこし左へひ
ねって持ってゆき、首の右側を見せるのが作法である」となっている。
 しかし血なまぐさい食うか食われるかの戦国時代に、こんな舞台でカブキ役者が、
メリハリをつけるようなカッコウの首実験のため、わざわざ重い思いをして、首を斬
って持ち戻ってきたのだろうかと首を傾げたくなる。
 もちろん立派な武将の首ならばそれだけの値打ちもあり、重い思いをして持ち運ん
でも酬れるだろうが、豪い武将は小数でその他大勢の雑兵ぐらいの方がなんといって
も多い。そういう首など担いで持ち帰ったところで、それではまるで徒労のようにも
想えるが、何故なのか判らない。
 それに封建時代というのは身分制がはっきり決っていたのである。
 講談や大衆よみものでは、下郎階級の足軽小者でも首をとってくれば、
「よくやった」と昇進し、やがて将校クラスに当たる武者にもなれたようになってい
るが、実際はああいうことはなく、非士分の者は手柄をよしたてたとしても、その頭
分か主人の功績ということにされてしまい、当人へは、
「褒美」という形で銭か米の一時賞与がでたにすぎないのである。
 決して非士分の者が手柄によって取立てられるという事がなかったのは、現在のよ
うに個人のバイタリーで能率給や手当のつく自由競争の時代ではなかったからである。
「家名」「家門」といったものに重きをおかれた封建時代は、扶持とよばれた年俸も、
個人ではなくそれに与えられるの定めだったからである。
 となると、いくらの儲けにもならぬのに、足軽小者までが重い思いで担ぎ帰ったの
は、「首は叩っ斬って持ち戻るもの」といった概念から離れて考えると、まことに奇
妙すぎて変である。

「切腹作法」といったものがあるが、それと同じことで、この首実験のやり方も、芝
居のト書きというよりも見にいった観客が、舞台の役者たちの動きを、持っていった
矢立で帖面へ写しとって、それを纏めて、版元が適当にもっともらしい題名をつけ、
文化文政時代に木版ですって売らんがために刊行したものなのであろう。
(白砂に裏返しの黄畳、それに赤い毛せん。水色の青い裃に白衣の主役が、飴色の三
宝へ一礼して、白紙をまいた短刀をきらりと抜いて、腹にあて、赤い血綿を引っぱり
出す)
 といったそのままカラフルな絵になる切腹の舞台と、この首実験も同じであるらし
い。
 しかし実際は、切腹も首実験も、それらは、
「死」という凄惨なものと生者との対面である。
 そんな絵になったり、またはめりはりがつく演技であろう筈がなかろうと想う。も
ちろん負けていては、敵の首を並べて確認している暇もないから、これは勝利の祝典
もかねるからして、
「めでたやのう」「祝着至極」と景気は良かったらしいが、それだからといって大相
撲の結びの一番が終った後のように、大将自身が、
「ただ今より、弓とり」といった行事をおこなうのも可笑しい。それに敵の首級をと
るという事自体が、その死を確認させるための証拠物件ゆえ、実際は大将に見せる前
に、その下準備として、
「目明し」とよばれた死者を生前から見知りの者に、面通しをさせ、
「何某の首に相違ない」と決まってから、各札を元取にぶら下げたり、耳へ穴をあけ
イヤリングのようにして提出したものである。
 もちろん怨めしそうな顔をした死首など、とても、
「これは、これは」と鑑賞するものではないから、大抵の場合は、
「何某、誰某の首級にて間違いなきものにござります」
 と係りの者が言上すると、大将なる者はろくすっぽ見もせずに、
「あっ、そうか」「ふん」と、夏ならば鼻をふさいでいったろう。
(死者に礼をつくすため、恭々しく生首と対面した)などとは、余程のサディストで
なくてはしなかったろうと想える。
 というのは、取った首を持ち戻るのが、なにも大将の検分にそなえるのが主要目的
でないなら、それは早く一般公開で提示し、
「敵の誰某をかくは討ち取ったるぞ」とPRし味方の士気を高揚させるか、または
「勝利」を現実的に誇示するために必要だった故、「‥‥早うに」と、おん大将には
ろくすっぽ見せもせず、青竹の先につき立て、高張り提灯のように飾ったものであろ
う。
 さて、敵将クラスの首は、持ち戻れば大将に見てもらえ恩賞にあずかるか、または
一般に公開されて、己れの名を弘めることも出来るが、名もなき敵の首までどうして
重たいのに、持ち戻ったかという疑問が湧いてくる。
 ふつうの生首で七キロはあるが、もし冑でも冠っていようものなら十五キロは越す。
 これを鎧具足を見につけ槍を抱えこんだ者が、どうして、
「えんやこら」と抱えて持ち帰ったのかということである。
 もちろん、首を持ち帰るのは、それだけ敢闘をした証拠であり、
士分には「昇進」という戦功報酬もあった。
 しかし封建時代の戦国の世では、前述したごとく士分以下の者の取った首は、あっ
さり主人の手柄とされてしまい、その主人から当人へは、
「平首なら一個につき銭何文、冑をつけた『もつけ』の首ならば、その何倍」という
給与規定が、何処でも一律に定まっていた。
 だから捲き上げる主人の側は、冑つきの首は、もっけの幸いであっても、運んでく
る側では倍の褒美を貰っても目方が、二つ分なら、とんとんであって、たいして果報
にはならない。
 処が、この時代は初めに書いたように、みなせっせと足軽の首でも叩っ斬って、
「重い重い」と、ふうふういいながら抱え戻ってきたのは、なんのためだったかとな
るが、それを考える前に、現在の日本では、
「大衆保健薬は、はたして効き目があるのか」とか、
「不良薬品を摘発する家庭薬の取締官が、その発明者とは情けない‥‥」
 などと騒がれつつも、国民一人平均年間七千円の薬代を払っている事実。つまり日
本人はきわめて薬を呑むのが好きな国民だということを、まず想起してみたい。
 というのは今でこそ色々の名称で新薬が出るのに、戦国期というのは曲直瀬道三の
著をみても、いわゆる草根皮の煎じ薬のみである。
 これでは薬好きの当時の人間が困ったろうことは、想像にかたくない気がする。
さて現在でも名称が残って通用しているが、漢方薬で、
「生薬(きぐすり)」というのがある。生きる薬というのではなく、生きていた物を
原料にしたという動物性蛋白質のもので、なんとかの黒焼といった物が売られている。
イモリの黒焼もこの分類である。
 岡崎城の築山御前が武田方の減敬とよぶ唐人医と秘かに通じていたのが見つかって、
謀叛の疑いを掛けられ、家康に殺されたという話もあるが、甲斐の山中にまで入りこ
んでいた程に、この時代には、
「唐人(からうど)」と呼ばれる明国人や高麗人の、医者とか薬屋というのが多く、
それが中国地方から関東そして九州にまで沢山に日本へきていた。
 何をしに来ていたかというと、徐福が東海の日本へ不老不死の妙薬を探しにきたと
いう伝説にのっとってか、彼らは仙薬を仕入れにきていたものという。かつて私が
『謀殺』をかいた時の種本に用いた、貝原益軒門下樫原重軒の『養生訓読解例集』に
は、
「戦国の頃、武者どもが持ち来たる生首はさながら西瓜のごとく十個ずつ竹篭に入れ
られ、これを唐人の手下が縄でひきずってゆき、人気なき所にて、たがねにて頭骨を
割り味噌をすくい出し、乾し固めて丸薬となし、これを唐(みん)国へ送りて、大い
なる利をあぐという。のち泰平の世となりて、打ち首なくなり彼らは帰国すといえど、
その神効は本朝にも伝えられ、富士吉田の番太郎長兵衛は死罪人の頭を割ってこれを
製す。富士の妙薬、浅間六神丸というはこれなり」とある。
 輸出ばかりでなく、やはり薬好きの国民性はその頃からで、国内需要もずっと盛ん
だったらしい。
 つまり鼻や耳でも切ってくればよいのに、重い思いをして首を運んできたのは、決
まった定額の恩賞の他に、生首一個につきいくらと、当時の六神丸本舗の出張人が買
取りに出張していたからで、
「ええコウラ、もう一つおまけにええコウラ」
 昔の武者は汗をかきつつ、何個もひきずって持ってきたものらしい。
 現代はすべて使い棄ての世の中だが、昔はそうではなくなんでも大切にし廃物利用
を心がけ、死人を埋めるのにも、こやし代りに蜜柑の木の根方などを選んでいたもの
である。
 だからして人間とても同様。死んだからといって焼いて灰にするような勿体ないこ
とはせず、普段でも生血は竹筒に入れて、
「労咳」にきくと、今なら胸部疾患特効薬とされ、肛門のところは抉り取られ、
「黄花剤」の名でレプラとよばれた天刑病の薬とされていた位のものである。
「ど頭[たま]かちわって味噌ぬいたるで」という喧嘩言葉が河内あたりには今も残
っているように、頭蓋骨をかち割って味噌抜きする位は、当たり前のことで当時の常
識といえ、格別珍しい事でもなかったのだろう。


戦国ウーマン・リブ

「江戸時代の司法が女性を避けるような傾向があったのは、これは戦国時代に女武者
が陣頭に現れると、勇士とか大将といわれた者は、相手にするのを恥じたものである
から、その名残りで女子供が相手にせずといった心持ちが、江戸の法律にも有ったよ
うである」という説がある。
 それからして戦国時代の女は哀れだったなどと、臆面もなく書く連中が多くて困っ
たものである。
 元禄以降(1688)は儒教隆昌とあいまって女は哀れとなったが前はそうでもな
い。
 なにしろ徳川四天王の一人で、天文十七年(1548)から慶長十五年(1610)
まで生きていた、その当時の人間である本多平八郎忠勝は、
「わしの若い頃は、まだ人手不足で共に戦にでていた戦国の名残りで、武家の女房は、
みな、いざという時に顔を強くみせるよう太い描き眉をつける関係上、眉はすり落し、
口中も敵を威嚇するため、人間をくらってきたようにおはぐろというもので歯を染め
ていた。もちろん今でも武家の女房は古式を守って眉を落し口を染めているが、近頃
は美布や化粧品などが弘まり軟弱化してきたから、昔程かどうか判らん‥‥しかし戦
国時代の女武者の働きというは、今どきの男共など足許へもよれぬ程のものがあった
のだ」
 という回想談をかき残している。これが徳川中期に見つかり、原文は内閣総理府図
書館に保存されているが、明治時代には、
「稀有な戦国史料」として活字本にもなっている。非売品だったし数も僅かなので初
めにその説を引用させて貰った故三田村鳶魚は見ていなかったらしい模様だが、こん
なに両極端に意見が違うと、どちらが真実か迷わざるをえない。
 しかし世のおおかたの女性は、
「強かった」といわれるよりは、「哀れであった」と伝えられる方が、被害者意識的
でお涙頂戴と思うのか、あまりこれに意見はのべず、今の時代の方が増しなんだろう
と満足しているのか、
「涙にあけくれした戦国女性」といったのが、どうもよく読まれているらしい。
 もちろん男のひとも、女が強かったなどというのは聞く耳持たぬ、といった風潮が
残っているせいなのか、
「戦後の女性は強くなった。されど昔の女性は清く美しく、それなりに哀れでありし
か」
 といった感慨のもとに、そうしたでたらめなものに眼をそむけようともしないので
ある。
 とはいえアメリカ模倣のウーマン・リブの時代では、
「はたして昔は弱く悲しく哀れだったのか、どうか」を改めて解明する必要もあるの
ではなかろうか。
 なにしろ真実というものは一つである。楯の両面みたいに極端に分かれていてはい
けないのである。

 さて、「講釈師みてきたような嘘をいい」というが、明治大正の頃の人間の書いた
ものより、その当時の天文生まれの本多平八郎の方が正しいのではなかろうか。
 三田村鳶魚は江戸の刑法が、女人を避けるような設定の仕方がされているからと、
その点から遡って、そうした舞文曲筆をしたものらしいが、江戸の法律の根本をなす
処の、
「武家法度」の改正から諸政令が一斉に発布されたのは、寛永六年(1629)から
十年の間で将軍家光の時に当たる。そして、その時代というのは、
「寛永通宝の鋳造を下命された鳴海屋平蔵が、ときの老中筆頭の大老職土井甚三郎利
勝をさして<春日御局(おんつぼね)ご家老土井大炊頭(おおいのかみ)>と、その
鋳銭受け書の公文書にかいているような世の中」なのである。
 この春日局が何故それ程までに権勢をふるっていたかは、後述するが、寛永六年か
らは恐れ多くも主上も女帝の明正さまであらせられる。だから東西ともに女上位の時
代だったのだから、その間に制定公布された法律で女人を敬遠し、なるべく処罰の対
象から外したのは、これまた当然なことである。
 なにしろ一口に、江戸時代といっても三百年にわたっているのである。
 元禄期以降からの、「女は三界に家なし」とか「女三従の教え」といった、女権が
落ちてしまった男尊時代の考えで、戦国から江戸初期を判断するのは三田村鳶魚の誤
りであろう。
『フロイス日本史』をみても、
「城主の夫に金を貸し高利をつけ、支払い不能とみるや己れの家臣をもって、強制執
行してその城や領地をとりあげ女城主になる例」
 も当時は珍しくなかったと、青い目の彼がもの珍しげに、日本における女上位を、
他にも例をあげ本国へ報告している程である。フロイスといえばイエズス派の彼の先
輩の修道士らが、
「上杉謙信」と今日、その死後の戒名で名を伝えられている政虎(まんとら)が、
「勇猛なる女城主であったこと」を報告しているのは、私の『魔女拷問』にも紹介し
ておいたが、それを裏書する当時の舟乗りの書簡も残されている。
 それはスペインのトレドの司書館に1571〜80年の報告書として保管されてい
る。日本でも、
『豊薩軍記』にでてくる高尾城の十七歳の女城主の勇戦敢闘ぶり。
『当代記』にある、信州高遠城の祝女の大奮戦記。
『備中兵乱記』の、常山城主三村高徳の妻の激闘。
『今川家記』の、引馬城主飯尾豊前の妻が、米ぬかで血止めした大薙刀で敵二十余騎
を倒し、傷つきた夫を庇って死んで行った話。
 数えだしたら切りがない位に、板額や巴御前以降でも、女武者の奮闘ぶりは残され
ている。
 これは白人の女などは、すぐキャアッと叫んで失神するが、ヤマドナデシコは火事
などの際にも、男は周章狼狽しきっても、そこは落着き払って重たい物でも、
「よいこらしょ」と抱えだして持ち出してしまう例が多いから、かつての彼女らも、
夫のため吾が子のため勇ましく戦ったのだろう。
『アーニーパイル戦記』によれば、オキナワ戦では伊江島の比嘉姉妹は、十八歳と十
六歳の少女二人だが火薬箱を抱き、アメリカ軍戦車のキャタピラに飛びこんで玉砕し
ながら擱坐*(かくざ)させてしまい、
「日本の女性は強い」と彼に書かせている。にもかかわらず、
「女は哀れだった」というのは男の自己満足なのか、またはそういって欲しい女の甘
えなのか、そのどちらかだろう。
 *かく‐ざ【擱坐・擱座】
  船が浅瀬に乗りあげること。戦車などがこわれて動けなくなることにも
  いう。(『EB広辞苑第四版』‥‥影丸)

 しかし近頃のように女子中学生がしごきをしたり、女の暴力団さえ現れるような世
相では、とても格好がつかぬから、時代を逆行させてしまい、
「戦国時代の女性は哀れであった」といったいい方をして、
「戦の時に奥方や娘が人質にとられたり、磔にかけられて殺されなどして、いたまし
くも不憫であった」と説明されている。
 もちろん人質にとられたり磔にされ、ブスッと槍で突かれること自体は気の毒であ
るが、考えてみれば、なにも女性だけがそうした目にあわされたわけではなく、男も
磔にされたり首をちょん斬られ、その頭をかち割られ脳味噌を抜かれていた時代であ
る。
 それに今でも質屋へAB二つの物をもってゆけば、「此方のほうを預かります」と
値打ちのある方を取られる。
 という事は、戦国時代にあっては、女性の方が野郎よりも値打ちがあったからこそ、
それで人質にとられたのではあるまいか。
 それに現代のように、
「女性を庇ってやるのが民主主義だ、騎士道なんだ」
 といった考え方をもってしては判りにくいが、もし敵も味方もフェミニスト揃いで
あったと仮定するならば、
「女を磔にかけて殺すとは残酷ではないか」
 ということになって、そんな事をしたら向こうの敵愾心を煽ってしまい、味方から
も批難抗議を浴びせられる羽目になってしまう。
 しかし戦争というものは、何をやるにしても味方の士気を高揚させ、敵の士気は沮
喪(そそう)させねばならぬものであるから、今と違って、恐らくその時代にあって
は、
「よくぞ女を磔にかけて、ブスッと殺してくれよった」
 と、すっかり男はみな快哉を叫んで、味方は勇気百倍。敵の方も城主の妻や娘で、
自分のではないからして、
「口うるさく、威張りくさっとる女ごを、気持ちようやってくれ、これまでの溜飲が
下がったわい」と、すっかり歓び勇みたち、
「男心は男でなけりゃ判るものか」と手をふって、
「昨日の敵は今日の友」と城門を開いて、双方が仲よくバンザイをしあったものでは
あるまいか。
 ----と書くと、今の観念をもってして、まさかと苦笑するむきも有るだろうが、日
本の戦国時代から江戸初期にかけては、ちょうど海の彼方のヨーロッパでも、
「男につべこべ文句をつける女」
「意地悪で手におえぬような女」
「怠け者で食っちゃあ寝てる女」
 といったのは、優先扱いで、「魔女」のレッテルをはられ、最低七十万人から最高
七百万人の間、数ははっきりしていないが、ジェームズ一世の英国でもイサベラ女王
のスペインでも、みな丸裸にむかれて丸焼きされていたのである。
 バスク人の刑吏が馬車につんできた女達を、生きた儘でローストにしたり、馬に引
張らせて股裂きするのをみて、西半球の男共が、
「讃えんかな神の御名を、アーメン」と、ヤンヤと喜んで見物し、口笛を吹き手を叩
いていた時に、東半球の日本人の男だけが、
「女を殺すは勿体ない、使えるものを惜しい、可哀想ではないか」
 唯たんに好色だけで、それにあくまで反対していたとは考えられない。
 どうも悪いのは、中世紀の魔女狩りで子宮ごと焼かれ消滅しているから、現代の女
性は、みなセレクトされた残りの後裔ゆえ屑はいなくてみな素晴らしいのばかりだろ
う。
 が、その当時の玉石混淆の女人は、ヨーロッパでも日本でも、男の立場からすれば
手のつけられぬような悪いのが多かったからなのだろう。
『加越闘諍記』という前述した天文元亀頃の古史料によれば、一向門徒が越中越後の
反仏的な城をみな押さえたとき、まずまっ先にしたことは、
「広大無辺の御仏の慈悲をもってしても、何々御前(ごぜ)さまとか、北の方とよば
れて、これまで城にふんぞり返って、男の武者どもを顎の先で使い威張りくさってい
た女ごだけは、衆生済度の枠には、なんとしても入れようがない」
 と、みな縫針を束にしたので眼をつぶし、無明地獄におとしこれを放逐したという
のである。
だから彼女らのことを、
「盲女」とか「瞽女」とかいて、「ごぜ」とよむのは、御前さまとよばれていた名残
りから、反仏の者らが悼んでのせいである。
 だから一向宗の顕如上人の妹を義妻にもち、権大僧正だった武田信玄に対し、敢然
と迎え討った上杉政虎(まんとら)をたたえる瞽女唄には、
「とら年とら月とらの日、生まれ給いしまんとらさまは、白山さまおん為に赤槍立て
ての御出陣、男もおよばぬ強力無双」があり、
『越後瞽女屋敷、世襲山本ごい名』の唄本の中に、総平仮名で入っていたのが今は点
字で伝わっているのである。つまり今は上杉謙信と男のごとく誤られている彼女も、
かつては、
「捕らえられて盲にされてはかなわん」と気張って、川中島で戦ったのだろう。しか
し、こうしたガムシャラ女武者が多くて、寺側は困ったらしく、高野山のごときは、
つい最近まで「女人禁制」を厳しく励行して、女性は絶対に山に入れぬよう、敬して
遠ざけていた。
 という事は、戦国期のウーマン・リブたるや、現代のごとく延々七時間もパンや肉
まんをかじって大掛りな井戸端会議をしているようなものではなく、
「不言実行」というか、しきりに武闘をもって、「戦う女のぐるうぷ」の実存をしめ
していたことになる。
『本多平八郎遺文』に、女は優しくみえる眉毛をすり落し口中を染めて敵を脅したと
あるが、
「女は三界に家なし」といわれたように圧迫されていた江戸時代でも、武家の女房は、
眉を落し口をお歯黒で染めて、一旦緩急あれば夫と共に共闘する体勢をとっていた。
 なのに当今の女性は、アメリカ兵にガムやチョコレートを貰った半世紀前の時点か
ら、すっかり堕落しきっている。
 まだ終戦時の日本女性は、それでも精神的支柱があったからこそ、あの敗戦の苦し
みにも堪えてこられたのだろうが、今度もし、ああした時代がきた時、いまの若い女
の人たちはどうするのだろうか。
 余計なことかも知れないが、まったく冷や汗ものである。
 女も人間であるとばかみたいな事をいう暇に、その怒りを胸に自分自身を振返って
ほしいものである。でないと、せっかく戦国時代の女の勇猛ぶりを、四百年前に書き
残しておいてくれた本多平八郎忠勝に、申訳ないことになってしまう。