1081 日本意外史  6

ほら吹きは奴隷の叫び

「素波」「乱波」といった当て字をされているが、三田村鳶魚の考証では、このスッ
パやラッパというのは、多くは近江の甲賀の者か、さもなければ伊賀の者であると説
明をされ、何をするものかといえば、ラッパは使われている国の悪人を探して見つけ
たり、出先では、山賊、海賊なんでもやってのけた。すなわち敵国を荒らすので、こ
れはなかなか智慧がないと出来ない。謀略も巧みでなければ勤まらぬものである、と
いった具合になっていて、この、
『江戸の白浪』の中の一文が、ずっとその後も信用され今でも一般に引用されている。
 つまり、それからというものは、彼らはさながら特殊な者の扱いで、
「スッパ」「ラッパ」といった類は、甲賀者、伊賀者と同義語に扱われだしている。
しかし、そうなると彼らは近江の甲賀、そして伊勢の両地方にだけ発生した存在だっ
たということになるけれど、そういう解釈で、はたしてよいものだろうか。
 また「江戸の白浪」の中では、山鹿素行が松平定信の祖父定綱のために書いて提出
したと伝わる『武教全書』を引例してからが、三田村説は、
「忍びとは、海賊、山賊、強盗、窃盗の内の窃盗で、人知れず働く者ゆえ、気づかれ
ぬように適地へ忍びこみ、敵の物を奪ってくるのだから、偵察であると同時に窃盗な
のである」と、はっきりいいきってもいる。
「忍び」という言葉から、「忍びこむ」となり、そして、何かを持ち出してくるから
盗みであるという極めつけ方であるが、はたしてラッパやスッパは泥棒だったのだろ
うか。
 また、せっかく乱波素波と区分しているのに、その違いも研究せずに一緒くたにし
ているけれど、似たようなもので名称だけの差であったと彼はいうつもりだったのか、
そこの処が他には何も書いてないから判らないのである。
 しかし明治、大正、昭和にかけて、
「時代考証家」として令名のあった人ゆえ誰も疑わずみなそのまま鵜呑みにしている
が、こういう無茶な考証が荒唐無稽な「忍びの者」や「くの一」などを生みだしたも
とだろう。
 もちろん彼は江戸物の考証にかけては、信頼のおける人である。しかし専門でない
戦国時代に関しては、どうだろうかといいたいだけである。
 というのは、スッパ、ラッパと縮めてしまうから、それで判らなくなるが、これは
もともと、
「スッ八」「ラッ八」が正しいからである。
「八」というのは前にも書いたが、八世紀に山中や孤島へ追われた原住系の民のこと
で頼朝の死後、北条政権によってやはり終われ、それらと混じった源氏の者の集団。
つまり足利時代には前述してあるごとく、
「白旗党余類」とよばれていた連中がこれなのである。刀伊の来攻の時に山から狩り
出されてきた彼らは、その後、前九年、後三年の役をやらされ、生還した者の一部は、
ときの後鳥羽上皇の有難い思召しで、北面の武士に採用されたが、その他の者は、ま
た山奥へ戻った。
 これらの者が応仁の乱の人手不足で、人買いの手をへて山から連れ出されてきた。
そして山名、細川の両陣営へ奴隷として生涯奉公で売り渡され、死ぬまでいわば矢よ
けの人間楯として使われていた足軽がそれである。
 さて、それまで、平城(ひらじろ)とよばれる従来の物は、
(いつ何時ふいに敵に攻められるか)といった戦乱の時代になってくると、どうして
も、
「これでは用心が悪い」というのであろうか、それぞれ山城に変わってきた。
 こうなると築くにしろ、また守るにしろ、山に馴れた八の者が使いやすいので、お
おいに需要がふえ、集団で山から買われてくるようになった。というのは、築くとか
守るといった他に、攻める側の方でも、攻撃用には山馴れした彼らを必要としたから
である。
 さて、平城の場合は物見櫓に上って見渡せば、
「やや彼処に何十人、此方にはおよそ百」
 と、いった具合に押寄せてくる人数をすぐ読みとれるが、これが山城となるとそう
はゆかぬ。
「はてあの杉木立辺りが怪しいし、櫟林の方にも敵が迫っているらしいが、てんで姿
が見あたらぬ。気配はすれども影なし、ほんにやつらは‥‥のような」ともなりかね
ない。
 こうなると攻めるも守るも、平地の城合戦の時とは違って、一種の神経戦になって
くる。そして、この足利末期から戦国初期の戦争というのは、『加越闘諍記』の巻一
にも、
「それ仏法の大魔は、武士にとっては怨敵なれば、本願寺より上人が下りきて、吉崎
と申す所に道場をもうけ、御山と号し布教を始め、超越寺、勝厳寺など出来て繁昌す
るを、加州の守護富樫介は面白からず、よって種々の妨害を加えしかば、長享二年
[1488]九月九日門徒の面々、城を取り巻きて力攻めにし、ついに富樫介一党は
みな自尽しおえぬ」とあるような有様だった。
 つまり白衣を纏い白紙の御幣をふる神主や行者、修験者を先頭にした武士団と、墨
染の僧衣をきた法師団との衝突である。中世期はヨーロッパでも日本でも宗教戦争だ
ったのだ。
 さて、寺というのは昔から平地にあると、反仏的な連中の襲撃をうけていたので、
難をさけるため山の上に造営し、よって、
「本山」などと号していた。しかし当時のことゆえケーブルカーやロープウェイなど
はない。それに昔は空中から農薬散布などしなかったから、山には獣も多くいた。そ
こで、
『千手経』に、「諸元善神を招き呼ばんと欲する時は、まさに宝螺(ほら)を吹くべ
し」とあるホラ貝をば、
(天にまします神を迎えるためという‥‥インド教の伝え)
 とは違って、狼や山犬を迎えぬために、つまり近よせず追っ払ってしまうために、
ヴォウヴォウと僧兵は吹きならして山から麓へおりていた。
 さて、戦になるとこのホラ貝が、
(ホルンの角笛同様に極めて遠くまで達するこの貝の音は、高麗王朝恭悪愍王の時か
ら、軍楽器として重用され使用されていた故事)
 にならってかどうか、まず仏教側が用いだした。加賀の守護富樫介の城が落ちたの
も、万雷の轟きわたるようなこだまする貝の音に、
「これは容易ならぬ大軍に囲まれたりとみゆ。もはや落城は火をみるより明らかなり、
いで潔よく早々に自害をこそ致すべけり」
 すっかり度肝を抜かれた富樫介が、もはやこれまでと見切りをつけ、己が妻子に刃
をあて先に殺したゆえと伝わっている。
 さて音響効果というものは、ハイファイのなかった頃でも充分に有ったのである。
山で吹きならすとコダマして轟き鳴り渡るホラ貝は、
「味方の志気を鼓舞するのに極めて宜しい」
「敵を攻める際にホラ貝を吹きたてると、味方の実勢が三、四倍にも聴こえて、向こ
うがひるむから、場合によっては戦わずして勝つ事もできる」
 というように新兵器として、もてはやされるようになった。
 つまり今でも、オーバーないい方をするのを、「ホラを吹く」と称するのはこれか
らであるが、さて仏徒側には山法師などという、
「ホラ吹き」が揃っていたが、白旗党の武士団には、そうした輸入楽器の奏者はいな
い。しかも、それら奏者は、まっ先駈けて突進して、最前線でブオウブオッと吹かな
い事には効果がない。
 そこで眼をつけられたのが山者、つまり別所から買われてくる者達である。かつて
の軍隊経験者なら知っていようが、ラッパというのは肺活量の大きな者でないと、い
くら吹いても音が出ない。
 ましてシンチュウ[真鍮]製のピカピカしたラッパより、遥かに原始的なホラ貝で
ある。そこで吹いて音が出るか出ないか、最初から口へ当てがわせて、ブオウとやら
せてみると、すぐ合格、不合格の判定がついた。だからして人買いブローカーは、そ
れでまず選び分け、
「ホラの音の出せるのは、らっ八」
「ホラ貝の吹けぬ連中は、素っ八」
 といったふうに分類して、買ってきた男共をセールスしたものらしい。
「ラッパ」というのはポルトガル語で、天文年間(1532〜54)の輸入のように
思われているが、足利末期の『永亨記』にも、
「羅八の輩」の字もでてくるから、明国経由でもう伝わっていたのかも知れない。し
かし一般には、「貝」または「かい」で、ホラ貝のことは通っていた。
 さて日本ではとれず、海外から輸入されていたホラ貝は、足利末期で米二十俵に一
個という位に、極めて高価なものだった。
 武将や大名だからといって、誰もが皆そんな高値な物を簡単に揃えられるわけもな
く、そこで家来を出陣させる時でも、
「それ、ほら貝吹きの者らをつれてゆけ」
 と片っ端から配属するといった事もなかった。
 だが貝をもっていた部隊と、そうでない部隊とは士気が違う。
 それゆえ負けて戻ってきた部隊は、敗因を貝にかこつけ、
「貝なければ」などといったし、それを持たない不甲斐ない大将を、
「かいなき大将」ともいう。ホラ貝が案外早く実戦に用いられたとみられるのは、
『源平盛衰記』や『吾妻鑑』の中にも現れてくるからである。
(どうも当時の平氏が福原の港から沢山輸入していたのではないかとも想える。これ
に関しては山中鹿之助が、布部合戦で毛利氏に負け尼子勝久を伴って海賊をしていた
とき、瀬戸内海の離島に匿してある昔のホラ貝の有り場所をみつけて歩き、それを売
って作った軍資金で天正四年(1576)に因幡の国で旗あげ、のち播磨の上月城に
たてこもった、という話もあるのである)
 だから、ラッパの吹けるのがラッ八、吹けないのが、唯のスッ八といわれても、な
にも伊賀や甲賀の者と限ってはいなかった。
 それを結びつけたのは、どうも後年のこじつけに他ならない。
 というのは、足利後期には、ラッパ、スッパから「足白、足軽」と呼ばれていたに
せよ、彼らは打ち続く戦乱にかり出され命がけで揉まれている内に、戦場で落ちてい
る槍や刀を手に入れ、敵の鎧や冑を奪って己れの物となし、上から下まで見なり[身
なり?]の恰好を整え、
「寸法(ずんぽう)武者」とよばれる戦国武者になるが、やがて運の良い者は、戦国
大名にまでなり上がった。そこで、昔が昔ゆえに彼らには、
「切り取り強盗、武士の慣い」といった不文律さえ生れてくる。
 徳川体制の最下級に組入れられ有名になった甲賀や伊賀者だけに、ラッパスッパは
しぼれない。彼らは東北から九州まで日本全国二千余の別所から出ていて、近江浅井
別所出身脇坂甚内のような大名さえもいる。つまり甲賀伊賀というのは、そこからの
出身大名がいなくて、施政上差し障りなかったせいではあるまいかと想う。また戦前
の修身教科書で、
「死ぬまで口からラッパを放しませんでした」で有名な主人公の名が、ある名前から
突然に、「木口小平」に変わったのも、その白神姓が別所特有の白山神の姓だったの
が判明した為といわれる。
 つまり、かつての貝は貴重品だったゆえ、初期の奴隷ラッパである別所者は死んで
も大切にしていた名残りでもあろうか。いたましい話である。


忍びと忍術の差異

 村山知義がアカハタの日曜版に『忍びの者』を書いてから、忍法ブームが復活した
が、かつての立川文庫の『猿飛佐助』『霧隠才蔵』たるや、
「おのれ狸親爺めッ、ひとつ眼にものみせてくれんと、佐助が九字をきりますれば、
家康の面前の朱盃が、満々と酒をたたえた侭で、ひらりひらりと、花に戯むれる蝶の
ごとくに舞いまする。そこで、おのれッと控えて居りまする豪傑共が、不敵なり曲者
ッと立ち上がらんとしますと、これへ拳固がポカリポカリと飛んできて、みなコブだ
らけの有様。そのとき怪しき影が障子に映り、それッと寄ってたかって取り押えます
と、なんとこれが庭前の石どうろう」
 といった具合に、きわめて実害のない、おおらかな忍術だったのに、これが忍者に
なってしまってからは、まったく殺気をおびてしまい、
「ビシッ、ビシッと息をつく間もなく、角々に刃のついた忍者特有のまきびしが飛ん
できて、当たれば命も危うくなろうという有様ゆえ、そこで己れッと鉄砲隊で包囲を
すれば、水上下駄をつっかけ、濠をすいすい水すましのように駈けてゆき、それなり
葭の茂みへ‥‥」
 といった具合に、一見科学的みたいな変貌をとげてしまったが、そうした忍びの者
と、かつての、のんびりムードの忍術使いと、同じ系譜とは認めがたいし、それにど
う考えても忍法が実存ならば、
「ぱあっと印を結んで、さあっと姿を消してしまえる」といった便利調法[重宝?]
なものが、どうして、なぜ無くなってしまったのだろうかと残念でならない。
 これに関して、これまでの説は、
「江戸期に入って戦がなくなり天下泰平になった。それゆえもはや需要がなくなり、
それで消滅してしまったものらしい」ということになっている。
 だが、在郷軍人の奉公袋ではあるまいし、戦時中だけ必要で、平和になったらもう
不用といったものではあるまいと想う。
 現在だって、テレビのショウ番組などへ、
「何々流何十代目」と名のって、門下を従えて現われ立合いの真似事をしてみせる見
世物みたいなのもあって、評論家の中には、
「今も残っている忍術」などと臆面もなく書いている観察度の甘いひともあるけれど、
実際にそんなのが有ったとしたら、どういう事になるか、そりゃ迷惑する向きもある
だろうが、試験中に蝿ブンブンに化けて、ひとの答案をみて廻る事もできるし、憧れ
のタレント嬢の居室へ潜りこみ、ヌードポスターでなく被写体の実物の方をとっくり
眺められ、そのうえ相手を、
「不動金縛りの法」にかければなんでもできる。催眠術より確実だろうし、もし露見
しても、旧式忍術ならば、さあっと石地蔵に化けてしまえばよいし、新派の方なら、
さあっと黒装束のまま、逆回転してマンションの階上へ飛び上り、マキビシなるもの
をパッパと飛ばせ相手を煙にまいて逃げてしまえばよいのである。
 まあ道義的にそれは悪い事だから見合わせるにしても、そういう技術があって習得
できれば、テレビのビックリショウにだって出られる。
 たとえ私みたいな音痴でも、姿をパアッと消してから唄ってみせたら、
「姿なき歌手」ということになって、レコード歌唱特別賞位はとれるかも知れぬ。
 そこまで派手にしなくとも、尾行専門の私立探偵でも始めれば、密室のモーテルへ
もはいって行けて、のぞき趣味も満足させられるかも知れぬなどと、愚劣なことまで
つい考えさせられてしまう程である。
 つまり忍術にしろ、忍びの術にしろ、どっちにしても結構なものである。それを平
和になった位で消してしまうのは勿体ない話である。
 とはいうものの、まったく多くの人が半信半疑で信じているだけに変てこな話であ
る。

 前術した村山知義の『忍びの者』が大向こうの喝采を博しえたのは、百々地三太夫、
藤林某という二人の伊賀の頭目は同一人だったという設定が当たったのだが、これに
は実在のモデルがある。
 新徴組へ入って有名な甲州の博徒祐天仙之助の親分三井楼宇吉というのが、別に、
「猿屋の勘助」という名で、甲府の内外を押えていたという話があったから、それか
ら得たヒントだろう。
 さて、戦争にさえ鉄の楯はもってゆけず、木楯はとても両手でもきつく、やむなく
雑兵は両刀を振って、飛びくる矢を払いのけつつ、いわゆる「露払い」となって出陣
したような国で、
(今でも鉄の生産はすくなく、戦前は中国の大冶鉱山の鉄、今でも外国よりの輸入鉄
で賄っている)
「矢尻一ヶが米三升」とされていた国で、やはり本物ならば一個で米五升にも当たろ
うとする高値な鉄製のまきびしを、あんなに気前よく忍びの者が撒けただろうか。
 もちろん今では観光ブームに便乗して、伊賀市の市役所では、吏員の一人が黒装束
に身をやつして実演してみせたり、名張では、
「忍術羊かん」なども売っているが、鋳物のまきびしも本物らしくやはり並べ陳列し
ている。
 しかしガラスのケースに入っているそれを、
「ほおうッ」と覗きこむよりも、かつて百々地三太夫らのいたといわれる、その忍術
のメッカの入口の字名が、今の左右ともに、
「界外(かいげ)」と名が残っていることへ、眼をむけ留意したいものである。
 そこを通らねば他の部落へ出られぬ地帯が、界外ならば、その鎖(とざ)された一
廓は、「外界」でなければならぬからである。そうなると、
「村里へでて百姓に見つかりそうになった時は、獣の皮をかぶりて化けて通り抜ける
べし」とか、
「もし見つかりかけたら、田の中へとびこみ足を揃えて垂直に立ち、かかりに化ける
べし」
 といったユーモラスな化け方がでているのも、決して面白半分のものではなく、も
っと切実な現実の厳しさを感じさせまいか。というのは、
「忍者の里」といわれる地帯は、例外なく何処でも別所だからである。かつての刀伊
の来攻で狩り出された山者の中で、後鳥羽上皇さま御仁慈によって、皇居警察官に採
用されたのが一部だけであったごとく、足利時代の末からの動乱期に、運よく戦国武
者になり、戦国大名になれたのが、やはり限られた者のみで、大半は鎖[とざ]され
た橋板の掛っていない川向こうに追いやられていたのである。
 今でも五月五日を、男の子の節句といって、鯉のぼりをたて、ちまきで祝う。が、
あれも起こりは、『右近記』によれば、
「国府宮祭の五月五日に限り、田夷(農耕奴隷となって年貢を納め、編戸の民となっ
たもの)に俘囚の囲地を襲うを許す古例あり、その囲地を院地、印地というゆえ、こ
れを因地打ちという。双方共に石を投げあい、終には河原で投げ合いをなすゆえ、地
方にては<河原石合戦>などともいう」
 とでている。つまり早まって占領系の宣撫策にのって、年貢を納める編戸の民であ
る百姓になった連中を慰撫するため、年に一回、
(院地へ日頃の鬱憤ばらしに何をやっても可、大目にみてやる)といった政治的な配
慮がなされたのだろう。
 足利期の『東夷詠集』などみると、当時のお公卿さんは、この流血沙汰の石投げに、
今の南米人がサッカー試合に賭けるみたいに、やはり財物をだしあっている。当日つ
まり五月五日が、雨天になっては石合戦がお流れになってしまうと心配した詠草も入
っている。
 襲った側が勝つと、堀の中に飼ってある鯉など掻っ払ってきて青竹につきさし、己
れの戸口に立てたり、あやめの葉が硬いからこれを投げる石にまきつけたしょうぶ石
を「千巻(ちまき)」ともいって、これが形式的に今も伝わっている。だが、さて表
向きは一日きりとなっていても、それは彼らが囲地の中にひっそり暮していての話で、
もし外へ出てきたら百姓に叩き殺されても仕方がなかったものらしい。
 となると別所の者たちに伝わってきた術、それを「忍びの術」というなら、界外か
ら安全に外部へ忍び出る術なのであって、それを、
「忍術」というならば、
「いくら苛められ迫害されても、それにじっと堪えて、長い物にはまかれろと、おか
みのいいなりになって、それで生きてゆくことを許されようと忍ぶことの術」とみる
他はなかろう。
 さて話は戻って、『後鑑附録』というのがある。それに、
「足利九代将軍義尚が足利尊氏の作った鈎(まがり)御殿に陣取り、そこから佐々木
高頼を攻めたとき、伊賀の河合安芸ら一族家士、忍において大功あり、ここに伊賀者
の名は世に高くなりぬ」
 とあって、これが日本における忍術の初の出現とされ、後にはもっともらしく、河
合安芸らの一族が佐々木陣所へ忍びこみ、おおいに荒し廻り、神妙奇異の働きをなし
たように作られている。
 しかし徳川家康の天正十年のかぶと越えのとき、ガードマンとして採用され白子の
浦までついてきた甲賀三十六家の和田八郎の書き残したものという『和田伝書』には、
「ささき方に召され、こが(くこの実)叺(かます)に入れてまきしに将軍家足をや
まれ(踏みぬき)河合らに探しあてられ、のち吾らきわめて難儀す」
 とでている。つまりカラタチとかクコといわれる、コガの実を叺に入れて持って行
き、陣所の廻りへ防禦用に撒いていたら将軍家が誤ってそれを踏んづけ、夏のことな
ので化膿した。
 そこで掃部(かもん)係として供していた河合伊賀らが踏まぬように熊手で集めて
処分したゆえ、彼らは取りたてられたが、自分らはおかげでひどい目にあったという
のである。しかし、そういう河合らも、
『甲州軍学記書』によれば、
「沼地にある固き四つ目菱を敵の進路にまき、半長や裸足の尖兵共をくいとめるは甲
州流の軍学なるに、近頃、丹波や伊勢の者ら、固き山栗のいがを乾し固めて、甲州菱
の代用になし、いが者などと呼ばれ各所に傭われてゆく」とある。
 つまり、「まきびし」というのは、武田信玄流に沼地の固い菱の実をまくのが正統
派だが、丹波や伊勢の連中は代用品に乾燥させた栗のいがを撒いたというのである。
 つまり忍術博物館陳列の鋳物のまきびしは、大正時代に、伊藤銀月という忍術研究
家が、
「忍術巻物一揃いにつき、郵券一円送れ」と、「少年世界」に広告していた時、鋳物
では角がついていても、当たっても突き刺さりはしないからと、警察で許可になった
通信販売セット物の残品なのだろう。
 では火遁水遁の面白い忍術はというと、これにもそれぞれの手品の種みたいなもの
は、あるのだろうが、現実は厳しいというのが、本当のことをいってしまっては、身
も蓋もないというのは、こういう事をさすのでもあろうか。「遁」の一字も忍と同じ
で逃げることを意味している。
 それにしても、かつては苛められ差別され、それを堪え忍ぶ為に生まれた忍術が、
観光ブームにのって羊かんや饅頭の冠名になったり、またはエロを売る大衆小説のオ
ブラートという偽装にされているのは、かつてそれらの人々の匿された歴史を顧みた
とき、これが人間の歴史というものかと、そんな侘しさをひたひたと胸の裡にうず高
く波うたせ、かさを増せさせてしまうのである。


悪人毛利元就

 最近つぶれた出版社から出た国定教科書の復刻版が、まだ出廻っているのを見かけ
る。
『尋常小学校修身書』も本屋の店先で売られているが、その巻三の、第二十三章をあ
けると、
「三つ矢の教え」というのが出てくる。原文は長くて廻りくどいから要約すると、毛
利元就が、その子の隆元、元春、隆景の三人を集めて矢を一本ずつ持たせ、
「折ってみよ」と次々に折らせてから、今度は三本かためて渡し、折れぬのをみすま
してから、
「一本の矢ならたやすく折れるが、三本一緒では折れまい。お前たち兄弟も一人ずつ
では敵に負けるかも知れないが、三人兄弟が一つになって仲良く手を握りあえば、決
して他から侮られたり、戦を仕掛けられて負けることもない」といってきかせれば、
「はい、われらはこの世で三人きりの兄弟、今の御教訓をよく守りますでございまし
ょう」と、幼い三人は手をつき、白髯をしごく元就に対して固く誓いました。
 このため毛利家は、三人の兄弟が互いに力を合せて助け合いましたから、いつまで
も栄えました----という内容である。
「一本の矢は折れても三本かためてなら折れない」
 というのは力学をもち出さなくとも、常識で考えて当然のことだが、昭和四十三年
五月から十一月までは読売新聞連載の、
『戦国意外史』では、「元就の子供は三人ではない、男女とも十二人いた。この話は
<鳩翁道話>という江戸末期に流行した心学ものといった説教話にすぎぬ」とは解明
しておいたが、かつての修身とは、そんな頼りない作り話で吾々を道徳教育してくれ
たのかと思うと、教えてくれた先生が怨めしくなるし、気の毒にもなる。
 しかし、瞞(だま)されたと気がついた時から、
「真実とは何か、それは何処にあるのか」と、そんな怨念に私はとりつかれ、土地を
売り飛ばしあらゆる物を換金し、資料になる古文書を買い漁り、そして人並な生活も
投げ出してしまって、他から押しつけられたり教わったものでない私なりの常識をも
って、
「過去は固定している。こびりついている。だから岩肌に貼りついている貝殻をこじ
りあけるようにしてゆけば、なんとかそこに閉じこもっている真実も見つかろう」と、
ひっしもっしに十有六年かかって、やがて、八切史観とよばれるものへうちこんでし
まった。
 だから私の史観は、怨念の産物かも知れない。そして、それへ導いたのが、この毛
利元就の三つ矢の嘘だったとしたら、これに引っ掛かったのが私という人間にとって
生涯の、とんでもない取り返しもつかぬ誤りだったか、はたまた、これまで誰も手の
つけられぬ解明をし得た事について、生けるあかしありと歓ぶべきか‥‥本当のとこ
ろ今の私は判らない。
 その内に一人でのたれ死するのだと覚悟はしているものの、やはりもの侘しいから
だろう。

 さて、三つ矢の話は、大正時代には、尋常小学校読本巻五。五年生のときに習う
『読み方』の本にものっていて、
「第三、父の教え」という題で、名前も毛利元就ではなく、
「ある侍」となっているが、内容は修身の本と同じである。
 だから、大正、昭和を通じて、学校の教科書でこれを習った中年の日本人にはこの、
「毛利三つ矢」説は常識みたいなものに、なってしまっていて、それを、今さら、
「間違っている」などと指摘しようものなら、殆どの人が、
「何をっ、ばかばかしい」と不快な表情で顔を横にそ向けてしまうだろう。
 しかしどうも本当の事よりも、広く弘まっていることの方が、ともすれば正しいよ
うな錯覚を与えてしまい、それを是とし別に考えもせず、といったおざなりな国民性
が出来上がったのは、後述する大岡越前守忠相の弾圧政策からのことであろう。
 しかし真実はあくまでも、どこまでも真実であらねばならない。
 別に毛利元就の作った子供が、三人でも十人でも差支えないようなものだが、それ
でも引っ掛かりがでてくるのは、
「隆元、元春、隆景の三人兄弟が仲良く力を合わせましたから、毛利家はさかえまし
た」
 という結びの一章からだろう。

 なにしろ関ヶ原の天下分け目の合戦のとき。
 既に毛利元就は亡く、その長男の隆元も死に、伜輝元の代になっていたが、小早川
隆景の方も、おねねの方こと秀吉の未亡人北の政所の甥にあたる秀秋が養子に入って
いて、
「金吾中納言秀秋」を名のっていたが、その血筋から関ヶ原では西軍の大将のような
立場にあった。
 なのに、この小早川が、東西両軍激突の最中に松尾山から、それまでの味方の大谷
方へ鉄砲を射ちかけ俄かに裏切った。このため、それまで勝っていた西軍も総崩れと
なり敗走といった結果になる。
 毛利家三つ矢の教えからすれば、いくら秀秋が養子とはいえ、毛利本家や吉川家が、
彼のなす儘に勝手に寝返りさせたとは、とても思えない。どうもこれは一つ穴のムジ
ナだったのだろう。
 となると、三つ矢の教訓とは、
「儲かる方へ寝返りをうて、裏切りをしろ」という教えで、それを承知で修身や国語
の時間に、「教科書」という絶対的権威のもとに、なにも知らぬ児童に教えていたこ
とになるのだろうか。
 さて、その小早川秀秋は裏切りの褒美に、
「五万一千五百石」を新たに家康から加増され、それまでの筑前名島から、備前岡山
城へと移ったが、二年たった慶長七年(1602)十月十八日に二十一歳で死んだ。
すると家康は、
「跡目の相続人の届出がでていなかった」
 と幼い男児がいたのにこれを無視して、先に渡した五万一千五百石はもとより、そ
れ以前から秀秋が領していた筑前筑後五十二万二千五百石までエビで鯛を釣ったみた
いに一切を没取してしまった。
 秀秋に裏切りさせた吉川元春の子の吉川元家や、西軍大将として兵一万人で大坂城
の留守居をしていた毛利輝元は、もし、
「三つ矢の家訓があるならば」そういう時こそ一緒に掛け合って、小早川の存続に尽
力すべきだと思うが、てんで何もしていない。
 それどころか『吉川家譜』では、
「御本家毛利輝元さまとて西軍大将だったゆえ、もし吉川元家のすすめで小早川が裏
切らなかったら百二十万五千石は全部没取、その御命もなかった処である。それを助
命され周防長門三十六万石にてあれ家名が残れたは、吉川家の策よろしきを得た為で
ある」
 ぬけぬけと裏切りの正当性をといている。
 しかし毛利百二十万五千石、小早川五十二万二千五百石、吉川十四万二千石、しめ
て百八十七万石が、裏切りなどせず、
「毛利輝元が西軍総大将ゆえ、みっともない真似はできぬ」
 と三家が揃って西軍のままで戦っていたら、これは誰が考えても、東軍の負けで、
「毛利家百二十万五千石」を三分の一以下に滅ぼされることもなく、小早川家とて秀
秋が死んだにせよ五十二万石はそのままで家名は残ったろう。
 この当時、毛利三家の裏切りで西軍に組した大名はみな取り潰され、浪人が天下に
溢れたので、彼らはみな口を揃え、
「毛利の三馬鹿大将」と罵ったものだという。
 これでは三つ矢の教えたるや、どうも本当のところはインチキでしかなくなる。
 しかし毛利の危機は、その前にもあったのである。
 秀吉は備中高松を攻めている最中、本能寺の変を知り、すぐさま取って返すため、
毛利と和約を結んだが、これは仕方なくしたことで、本心からなにも仲直りがしたか
った訳ではない。
 折あらば毛利を滅ぼそうとしている内に、朝鮮征伐となった。
 そこで九州名護屋へ行っていた処、
「大政所さま御危篤」の知らせが入った。そこで取るものもとりあえず秀吉は引き返
したが、今の門司と下関間の柳浦のところで、乗っていた船が海中の岩に衝突し沈ん
でしまった。
 幸い海面に突き出ている岩へ泳ぎついたが、折柄の満潮にどんどん海水が上がって
きて、今にも岩は呑まれかけんとする有様。
 こうなっては秀吉とても、どうできるものでもない。すでに足の踝まで浸してくる
海水に、歯の根をがたがたさせている処へ、
「あいや難波なされてか‥‥」と、小舟を漕ぎよせてきた若者が、
「さあお年より、救って進ぜましょう」
 まさか秀吉とは知らず裸ん坊の相手を、抱えるようにして救命した。死中に生をえ
てほっと人心地ついた秀吉が、くだんの若者に、
「これ其方は何者じゃ」と尋ねると、
「礼儀を知らぬ爺さまだ。年よりのことゆえ勘弁してとらせるが、こういう時には助
けて貰った礼の一言ぐらいはいい、それから自分の方から私は何のなにがしでござい
ますと、先に言うものだ」
 と口ではきつくいったが、寒かろうと自分の木綿織りの厚司(あつし)を肩にはお
らせた。そこで秀吉も、
「成程、いわれてみればその通り、こりゃわしの粗忽であった」
 すぐ大きなくさめをしつつうなずき、
「危うい処を助けてくれ済まなんだ、礼をいうぞ‥‥実は、わしは太閤秀吉であるぞ」
とうちあけた。これには若者も、
「うへッ」とびっくりして三拝九拝。
「てまえ、四郎元清の伜めにてござりますして、今は亡き毛利元就の四男にて安芸猿
掛五千貫を領する者の跡目‥‥今までの御無礼は存ぜぬことと云いながら、平に平に
御容赦を程を」と詫びながら、白布の巻いたのを持ち出してきて、
「これは、てまえの替えの下帯でございますが、よお洗ってございますれば‥‥」と、
しなびた一物を股ぐらに挟んで居る秀吉へ、
「‥‥御免」と近よって背後から、六尺褌を廻し締め、
「いくらか暖うなりましてござりまするか」
 と、伺いをたてた。すると、
「元就が四男というと、吉川御前の死後、五十余歳の元就が迎えた来島海賊衆の、十
五歳の孫のような嫁女に生まれさせた子の伜なるか‥‥」
 毛利とは信長在世中から戦っていた秀吉は、よく知っていた。
「はい、その奈々は、てまえのおばばにござりまする」
「左様か、怒涛を漕ぎ切る手つきの鮮やかさには見とれていたが、来島の河野通有の
血をひくとあれば、生まれながらにして海に馴れとるも道理というもの」
 すっかり感心したように秀吉は唸り、
「おれが名を一字くれてやらす、今日より秀元と名のるがよい」
 そのまま大坂城へつれ戻り、丁度、城へきていた毛利元就の孫の輝元をすぐさま呼
びよせ、
「わしは、いつか毛利を滅ぼす気でいたが、この秀元に助けられたゆえ放念する。し
かし其方は百二十万石の大身で、同じ元就の孫のこれが五千石とはなんじゃ、今すぐ
譲れとはいわんが養子にでもせいやい」といいつけたが、せっかちな秀吉は、取りあ
えず、
「領所長門周防山口城は秀元の分、何人もこれを奪うべからず」と三十六万石分だけ
別扱いするよう五大老徳川家康らの加判までとった。‥‥このため関ヶ原役後毛利家
を丸ごと取ってしまうつもりだった家康も、周防長門三十六万石だけは毛利輝元に認
めざるをえなかったのである。
 つまり本当に毛利家を幕末まで残すことのできた功績は、己れの下帯まで差しだし
た四郎元清の伜秀元の働きであるゆえ、これが三つ矢に入っていないのは怪しからん
といいたいのである。
 その当座は、恐らく徳川家の権勢を恐れた重臣共が、
「四郎元清さまは故太閤に目をかけられた御方ゆえ、今の世では反体制‥‥」という
ので名を削ったにしろ、明治になっては、もう徳川家に気兼ねすることもないから、
せめて
「毛利は四つ矢」にすべきなのにしなかったのは、横着というか。それとも、
「論語よみの論語知らず」といった具合に、なにも判らなかったのかどちらかであろ
う。
 なにしろ己が家来のこととか、茶器を値良く売るためにしか、歴史は必要でないと
いった考え方が伝統的で、自分本位にしか視野を向けぬ傾向が多く、純粋の歴史のた
めの歴史をといった風潮は、かつては希薄だったようである。
 しかし民族の歴史とか真実の歴史とかいうものは、欲得抜きで誰かが取り組むしか
ないものであると想う。だからこの話の詳しくは『新戦国意外史』に入れてある。
 だからといって、私がそれをしているというのではない。ただ「意外史」「裏がえ
史」と嫌いな向きには蛇蝎のごとく忌まれても、莫迦を承知で私は突破口をぎりぎり
に切り開くため、金てこでこつんこつんとやっているだけである。
 といっても、曳かれ者の小唄か、負け惜しみのように受けとられるかも知れぬと、
つい自嘲めいた感慨の裡に筆が滑ってしまい、余計なことをつけたしたようである。