1077 日本意外史  2

高松塚古墳はカマクラ(住居)か

 日本は万世一系の国だが、株主総会で役員が変るごとく、王朝も天(あま)の朝は
天照大神を最後に、崇神、仁徳、継体と変遷がある。
 さて、高松塚古墳が作られたとみられる飛鳥朝の欽明、推古期は、六世紀の後半か
ら七世紀へかけてである。
 その欽明朝は、継体帝第四子天国排開広尊だが、もちろん上にアマの字がついても、
これは『日本書紀』を作った藤原体制の都合での命名で、天の朝とは無関係である。
 なにしろ日本列島は、この時代から、
「世の中が変わった」という現象を示し、仏教が入ってきたり、唐風にすべてが変り、
「弁髪」と称して男でも豪い人は三つ編みのお下げを、だらりと垂らしていたから、
「‥‥長い物には巻かれろ」とする日本人的精神が地下(ぢげ)人達の間にここに芽
生え、今でいえば英会話学校のようなのが出来て、そこで、会計や計算を、
「イ、アル、サン、スウ」とやったものらしい。

 今日でも数の数え方を、「算数」とよんだり教科書のタイトルにするのも、その頃
の名残りである。もちろん若い人は物覚えが早かったが、中年以上の者はそうはゆか
ず、といってカンニング・ペーパーを作ろうにも紙があまりなかった時代なので、木
片を削って、
「何であるか‥‥シヨマ」「判りました‥‥ミンパイ」「早く‥‥カイカイジー」
 などと、会話早判りを細かく書きつけたものを、みな持ち歩くようになった。
 しかし、あんまり大きなのを担ぎ廻っては後の主婦連に間違えられるから、その範
囲を一坪つまり3.3平方メートルの百分の一以下に定めて勺(しゃく)とよんだ。
今では何坪何合何勺といった使い方をされ、木片の方は「笏(しゃく)」の字が当て
られている。イチイ、ヒイラギ、桜といった書き直しに便利な削りやすい物ばかりだ
けでなく、竹の太いのも使われていたのだろう。
 しかし明治になると、この笏のすこしの大小でも問題になり、「爵位」となって、
お公卿さんは公、侯、伯、に分けられ、旧大名は子爵となった。
 さて、高松塚古墳は、ちょうどその頃のものゆえ、壁画のカラフルな美人画が、カ
ラ風(ふう)な下ぶくれ型であっても別に可笑しくない。
 しかし、藤原氏は天下を握りだすと、
「カラ=唐」という用語は禁じてしまい、
「韓=カラ」と呼ばせるようにしだした。
 いわゆるカラ神と称されるのが、高句麗系だったり百済のであるのはこのせいであ
る。
 そしてカラを韓にすり替えただけでなく、「漢」の字も、天の朝に似通ったアの発
音をつけてアヤと称せしめた。『延喜式』などの「今来漢人(いまきあやひと)」も、
漢つまり唐から来たばかりの新知識というのではなく、百済人をさして用いている。
つまり作成者の都合で、カラはすべて、みな唐ではないように書かれている。では、
日本史で彼ら自身のことは何と自称したかといえば、そこは漢字の国の出身ゆえ、
「トウはトウでも、藤」としたものらしい。
 うがった見方をすれば、春夏秋冬季節の移り変りがはっきりしていて、当時はスモ
ック公害もない日本列島へやってきて、
「これ、桃源郷か」と、「トウゲン」とよび、それが藤原の名のりになったのかも知
れぬ。
 なにしろ高松塚古墳の見つかったところも、「藤原京」というが音読では「トウゲ
ンキョウ」なのである。
 なにしろ日本では明治中期までは、
「漢字は当て字、つまり発音さえそれで通れば差し支えない」とされていたので、新
選組が新撰組になったり、今の秋刀魚も昔の『浮き世風呂』や『吾が輩は猫である』
では、三馬と書かれているくらいのものである。
 誤字とか当て字がうるさくなったのは、入社試験の問題にフルイとして意地悪く使
われ出した時からで、まるでそれが常識や教養を計るバロメーターなみになったのだ
が、昔は、当て字どころか当て絵で、暦さえ出来ていた程である。
 さて、今ではあまり豪くはないらしいが、かつては家長として威張っていたのを、
「トウさん」とあがめて呼んだり、
「良家の子女」つまり京都大阪方面の、大きな商家の娘に対して、
「嬢さん」と文字はかくが、これを、「トウさん」「トウはん」とよぶのも、現代な
らば、やはり「唐さん」と書かねばならぬところなのだろう。なにしろ河竹黙阿弥の、
『白浪五人男』の浜松屋の店先の場でも、
「これは、トイチな御嬢さま」と、江戸でも判るような台辞になっているが、この場
合でも字を当てるなら、(唐でも一番の)といった最高級の賞め言葉であろう。
「といち、はいち」といった俗語もそれからでているし、『枕の草子』に、
「近衛の中将を、頭(とう)の中将と申しはべる」
 とか、「蔵人の頭」というのもあって、
「頭はトウ、つまり唐」を意味するから、最高位をやはり公家ではそう発音し、適当
に当て字をして用いていたものだろう。
 また、人形屋やデパートの宣伝で、
「ひな祭りは古くから宮中でまつられた由緒正しき奥ゆかしいもので‥‥」と勿体を
つけるけど、御所が平安京の京都にあった明治までは、絶対にそんなことはないので
ある。
『続日本紀』によれば、
「唐武た太后の故事をしのび神護景雲元年三月三日より、文士を西大寺法院に集め、
帝は曲水の賦をなさしめ、頭初(第一位)に賞扶を賜わる」とさえ明記される。
『事物起源』では、だからして、
「三月三日は曲水宴[きょくすいのえん]とよび、御所では流水に漢文の七言絶句の
色紙を浮かべ、文武百官酒盛りをなす。夷祭は明正帝の御代のみ、御生母中福門院
(徳川英忠の娘の和子)がなせしが、その後は忌み嫌われて、これは斥けられる」と
出ている。
 つまり内裏さまや親王さまが並ぶお白神の元型で、今のこけしの原点であるお雛さ
まであっても、三月三日、御所で行われる唐武太后の曲水宴には、到底うち勝てなか
ったくらいである。
「トウ」と名のつくものは、つまりすべてにおいて立ち勝り豪かったのが、高松塚古
墳のできた頃から始まった日本風俗なのである、といっても決して過言ではなかろう。
 さて、日本史の根本資料の『日本書紀』では、
「日本には確定した国家が既にあって、そこへ唐に滅ぼされた百済などの人間が、現
在の言葉でいえば逃亡奴隷のごとく、亡命してくるのを帰化人として受け入れ、それ
らへ保護を加えた」といったような書き方をしている。
 しかし、これは藤原体制によって編さんされた歴史だから、彼らに百済人が降伏帰
化したのがそうなっているだけの話にすぎない。
 なにしろ三韓時代から一衣帯水の距離にあった日本は、そのコロニーの状態だった。
つまり、弁韓、辰韓、馬韓の三つが、それぞれ日本へ植民地を持っていたらしい。そ
の名残りは、
「ムネサシ(胸刺)の国が、今の埼玉」
「ムウサシ(武蔵)の国が、今の東京」
「サネサシ(実刺)の国が、今の神奈川県」
の例は前にも述べたが、サネは、「首城、主城、中核城」をいうのだろう。
「むね」とか「むう」というのは、その後、
「仰せをむねとし」とか「むうと念じ」などと日本語に転化し、「さねさし」の方も、
「相模の枕言葉」とされていたが、やがて、
「女性自身の枕言葉」とされていたが、やがて、
「女性自身の中核」をさすようにもなる。
 つまり日本中が、かつては、
「備前、備中、備後」「越前、越中、越後」「羽前、羽中、羽後」とよぶごとく、三
つに分かれていたのも、なんといっても三韓の頃の名残りであろう。ということは、
俗にいう、
「神功皇后の三韓征伐」などは、本当のところ三韓よりの征伐であったのが正しかろ
う。
 しかし大陸の魏が乱れ五胡十六国に分かれるような世になると、朝鮮半島に鼎立し
ていた三韓も、次々と唐に滅ぼされた。
 オランダがナポレオンに屈伏した際も、日本の長崎の出島だけには、オランダ国旗
が世界でただ一流はためいていたというが、普通は本国が滅ぼされると植民地も奪わ
れる。
 それにフランスから長崎では速すぎるが、中国大陸から日本はきわめて近いのであ
る。
『日本書紀』の「天智紀」に出ている処の、
「白鳳二年八月二十七日、吾軍唐軍と白村江に戦って利あらず」とされる六六三年が、
どうも日本へ彼らの進駐の、きっかけを与えたものではあるまいかと想われる。
 つまり、高句麗らの北鮮系を追い、南鮮系の百済人がもっとも勢力をえていて、
「百済にあらざれば人にあらず」とされ、
「百済ではない‥‥詰らぬやつ」というのが、「‥‥クダラないやつ」と今でも訛っ
て残っているくらいの権勢をもち、百済語で、
「国」を意味するところの、ナアラをもって、「奈良」の都まで建てていたのが、次
第にその勢力を増してきたトウ氏によって、
「本国の百済はすでに滅び亡国の民のくせに、汝らはよい加減にしたらどうや」と、
せっかくそれまで営々として築いてきた地盤を、百済人が奪われてしまうのが、ちょ
うど高松塚古墳が出来たと推理されている八世紀の初頭に当たる。
 つまり紺屋の白袴というのか。これまでの文部省検定パスの自分の本が、教科書と
して売れなくなるのを怖れてか、歴史家の肩書きをつけられる人は、まだ、
「遺骨は帰化人貴族の百済人か?」などと、臆面もなくコメントを発表しているが、
その点はっきりと松本清張は、
「日本と朝鮮は、同一民族」の説をうち出している。つまり、その意見は、
「皆が思っているように吾々が朝鮮文化を吸収したのではなく、もともと同一民族で
極言すれば、日本は朝鮮から分かれた国で、対馬海峡があるので向こうが動乱のとき
日本は独立し、先住原住民の風習を融合しより日本的になった。つまりアメリカが英
国から独立したごとく‥‥」というのである。
 凡俗の歴史家の述べるところよりは卓越なものである。
 だが、竿頭一歩すすめれば、これでも違う。
 つまり八世紀に大陸から独立をしたのは、なにも日本の国そのものではない。進駐
してきていた藤原勢力が、
「もはや、われらは唐ではなく藤である」
 と、彼らは勝手に独立したのだろう。征圧されていた高句麗系の北鮮人や、土着の
天の朝系の西南種らの日本原住民を、奴隷化して、ここに独立したのである。
 いうなれば、故マッカーサー将軍以下が、あのまま住みついて日本各地に、その後
も基地を置きっ放しで、新アメリカ日本州として独立させてしまったようなものであ
る。
 これに関しては朝日新聞社刊の『日本原住民史』に、詳しく、その経緯がでている。
 さて、日本古代史が専門という井上光貞説では、
「七世紀後半の物と高松塚古墳は推定できる。八世紀に入ってからとは考えられない。
文武天皇の時から火葬になっているのに、高松塚には骨が残っていない」と、きわめ
て明快だが、これではあまりに単純すぎる。東大で講座をもっている方の説だから傾
聴したいが、どうも感心しない。これは六国史の中の、
『日本文徳天皇実録』の中からの援用だろうが、高句麗人は西南系土着民と混じって
から、「拝火教」の宣撫をうけ彼らの火葬に同化するが、百済人は土葬であって、こ
れは858年の文徳帝の死後も、河内交野を初め百済系の多かった墳墓の発掘によっ
ても、明白にされていることである。
 それでは、その首級のない高松塚古墳の遺骨が誰なのか?
 つまり何族人なのか?というので、いろいろ談義されているが、草壁皇子にしろ高
市皇子であっても、百済人であるとみれば問題ない。
 それを七世紀後半の日本列島に、ちゃんとした日本国が厳然としてあって、そこに、
「日本人」とよぶ民族が既に今のごとく、存在していたとするからすべてが可笑しく
なる。
 つまり『日本文徳天皇実録』をも含む六国史が、渡来したトウの人の漢文によって
書かれたものと正確につかめず、それを、
(日本国なるものがイザナギ、イザナミの二神によって、天の浮橋より天の鉾にて創
られた時から、ある程度の国家形態をととのえ七世紀まで確固として存続。百済が滅
びた時も断固武力にて本土防衛をして、亡命した帰化人を保護し得るだけの実力があ
った)
 とするような妄想に取りつかれるからして、ために種々の揣摩臆測が出るのだろう。
「皇子」なる文字からして、どうも誤まるのだろうが、
『日本書紀』の中でも堂々と、中大兄皇子が蘇我入鹿を大極殿で仆してしまう条を、
「韓人、鞍作りを殺す」と、中大兄皇子のことを頭ごなしにそう呼び、後に皮はぎし
て馬鞍や馬具作りとなる北鮮系の、騎馬民族の末裔の蘇我氏を侮るごとくに書いてい
る。
 だから、その遺骸から首級がなくなっているのも、埋葬後何人かが入って荒らして
いる事実も、盗人の仕業ではなく、つまり、
「政争で世の中が変わり、敗者となり反体制となった被葬者への、制裁か報復での墓
あばきとみられる」と、奈良県種原考古学研究所でも、高松塚への意見を発表してい
る。
 ということは、これも、
(クダラ系が押さえていた天下を、やがて藤原氏と自称する唐からの人たちに奪われ、
かつては吾らの事をさえ、クダラでないのはクダラねえと罵りおった不届き者め‥‥)
と、その墓を荒らされたのだとする裏書きともなるのだろう。
 なにしろ高松塚古墳の場所が、
「藤原京」ともよばれた橿原の朱雀大路の下ってきたところ。大極殿の建物のあった
個所から真っすぐの地点にあるゆえ、そこの地元の研究所の意見は正しかろうと想え
る。
 また、被埋葬者を、持統・天武の御子、とされる草壁皇子や高市皇子とする推測の
他に、
「天武帝の九番目の御子の刑部親王」
 ではないかとする説も出ている。
 しかし、後の戦国時代以降になっても、藤原体制の公家なるものは、七世紀から八
世紀へかけての彼らの建国の際に、あくまでも抗戦したゲリラの末裔。つまり捕らえ
た後、
「別所、散所、院地、院内」の名でよばれた捕虜隔離収容所へ抑留した俘囚の子孫の
武家に対しては、それが大名でも、
「清掃人夫取締役----掃部守(かもんのかみ)」
「配膳台所勝手役----内膳正(ないぜんのしょう)」
「水くみ運搬の役----主水正(もんどのしょう)」
「税金を徴収の役----主税(ちから)」
 そして、現今と違って裁判官を、他から怨嗟の的となる嫌われ者の役としていたか
ら、
「弾正」の名称で、武家につけたが、
「刑部」も、おさかべとは読ませたが、今でいうなら捕物に向かう刑事のことで、こ
れも、やはり嫌われ役として武家に限った。
 これは、千金の子は盗賊に死せず、とする中国の格言からきていて、
「トウとい藤原氏の子孫のする役ではない」
 と定まっていたものである。なのに、その刑部をもって名とされているという事は、
いくら天武さまの御子でも、その御生母がぱっとしなかったせいではなかろうか。
 また『日本書紀』の持統帝五年の記に、
「百済王義慈の伜にて持統帝より、百済王の名のりを許され公卿となって、飲食物や
衣裳などを拝受した」とでている善広が、その遺骨の主ではないかとする説もある。
 だが、みなれっきとした百済系ゆえ、これなら火葬してないのも当然だし、壁画の
女人が、顔は唐風でも、チョコリ[チョゴリ]やチョマ[チマ]を身につけているの
もうなずける。
 さて、木棺を布で巻き、漆をかけた棺として発見されたので、墳墓と扱われている。
 しかし宮殿や公共の建物、社寺は別として、十一世紀頃になっても、日本人の一般
は堅穴を掘って生活していたのは事実である。
 百済人もまた横穴を大きく掘り、石材で周りをかため、住居にしたのは、建築技術
の進まなかった当時、冷暖房上きわめて自然だった。
 という事は、棺があっても墳墓でなく、マイホームだったかも知れぬ疑問である。
 なにしろ、そのマイホームの事を古代朝鮮語では、「カマクラ」とよぶ。
 のち騎馬民族の末裔で、自分らこそ、
「ミナモトの民なり」と自称した連中が、相州釜利谷(かまりや)別所の山にたてた
鎌倉幕府の、
「カマクラ」だが、今も東北で雪をかためて作る小さな氷室をよぶごとく、朝鮮系の
マイホームは小さな円形横穴だったのである。

 さて、日本では、
「木が流れ、石が沈む」という譬がある。
 というのは、遺骸の主かともされている高市皇子が、十市(といち)(唐一)皇女
の死をなげき、
(山吹の咲く泉への道を知らぬのは悲しい)
 とうたっている挽歌について、
「これは、シルクロードを通って伝えられた生命の泉の絵があったのだと、K・Dさ
んがいっているのを、高松塚古墳の墳墓の絵をみて俄然私の中によみがえってきた」
 と、四月十八日付のY紙の夕刊に、成城大の某さんという人が書いている。
 さて、高松塚古墳の副葬品の中に白銅鏡が発見されている。「海獣葡萄鏡」とよば
れるもので、法隆寺五重塔の心礎から発見されている葡萄鏡と図柄が酷似している。
また同じく正倉院御物の、
「金銀鈿荘唐太刀(でんかざりからたち)」の刀の柄と同じ唐草形の透かし彫りが、
やはり副葬品の中にある。
 これと壁画の「白虎」の後足にみられるなつめ椰子の葉をイラストしたとされる、
「パルメット模様」について、高名な歴史家達は同じように筆を揃えて、
「シルクロードを通ってペルシャあたりから唐へ入り、それが日本へ伝来してきたも
の」
 と、まことあっさりとかたづけられている。
 もちろん、なにもこれは今になって始まったことではなく、素戔嗚尊を祀る祇園祭
のときに、山車に吊り下げられる古代ペルシャの布も、正倉院御物に入っているペル
シャ布も、
「これらはシルクロードを通って、遥々と日本へ運ばれてきたものである」と注釈が
つけられ、それが今では定説になっている。
 だから高名な歴史家達も成城大学の先生も、あっさりそのまま鵜呑みにしているら
しい。
 しかしである。
「シルクロードが西暦何年頃に出来たのか?」
 はたして調べてみたり、その研究書でも見たことが彼らにはあるのだろうか?
 レニングラード大学モナザビスキー教授の1969年版の、
「シルクロード、その歴史」なる研究論文によれば、13世紀初頭の元の遠征のとき、
 今日のハンガリヤへ進軍路をひらくため、トルキスタンの多くの捕虜を使役にして、
軍用道路として何万頭もの羊を通すため開発したものが、後には荒廃したが、14世
紀になって隊商によってまた踏み固められ、どうにか通れるようになったのだとある。
 なにもロスキーの教授を信用して、日本の学者をとやかくいうのではない。
 しかしソ連では、もし怠惰とか研究不熱心を学生から告発されたら、大学教授とい
えど罷免されて、地方のウチーチェリとよばれる公学校の教員へ飛ばされてしまう国
である。
 日本のように十年一日のごとき講義をしたり、己れの本が多くの学校の教科書に採
用されて、隠れたベストセラーになることだけを生き甲斐にしているのとは違う。
 私もN大やM大で講師をしてきているのであまり何もいえないが、シルクロードを
トラックで何度も往復している教授の研究論文では、これまでのように、なんでもシ
ルクロードを通して日本へ入ってきたのだと胡麻かしている学説は、みな消し飛んで
しまう。
 日本のようにインフレ政策をとるため、産業道路をどんどん作るのは滅多にない例
で、普通、ロードと呼ばれるのは、昔の軍用道路があとで民間人に使われだした例が
多い。
 やはりジンギスカンの羊の群れが踏み固め開発したとするのが、常識的にも正しい
ようだ。
 もちろん日本列島は暖流寒流が交互に、突き当たるように流れてくるから、なにも
シルクロードがなかった頃でも、ペルシャ湾からでも、潮流とよぶ時速6ノットから
10ノットに及ぶ水中エスカレーターににのれば、筏でもこられないことはない。
「スメラミコト」の「スメラ山脈」や、「男山のスサノオ」「女山のオマン」が、そ
のペルシャ湾には今も面して聳えているのである。
 そして十六枚の花弁をもつ菊も、原産地は朝鮮や中国ではなくて、ペルシャなので
ある。
 だからして、ペルシャ独特の「パルメット図案」や、アラベスクの副葬品をみると、
遺骨の主はペルシャ人だったかも知れない。
 壁画そっくりの下ぶくれの型が、今でも向こうではビューティとされているから、
姿や形はチョマリでも、ペルシャ女でなかったとする反証はないようである。


タイ民族の日本移住

 今でも北海道のアイヌ系の人が、内地人のことを、
「シャモ(和人)」とよんだり、また今でも関西の河内あたりで、蹴合いに用いる闘
鶏を、やはり「シャモ」と称し、また吾々の御飯をもりつけする板片を、
「シャモジ」とよぶのは、何か関連があってなのか、どうも引っ掛かるものがあるよ
うである。
 梵語の「シャモ」が、日本の仏教用語では、「沙門」となり、「桑門」同様に出家
の僧のことをさすから関係があるとする説もあるが、唯それだけの結びつきであろう
か。

「シャモ」というと、現代のタイ国の古名が、「シャム国」または「シャモロ国」と
いわれ、昔はカンボジアから今のベトナムまでの版図をもつ、広大な国だったが、そ
こと日本とは関り合いが有ったのだろうか。これまでの日本歴史では、
「山田長政がシャモロ国へ渡航し、のち六昆王となり、元和七年(大坂夏の陣六年後)
九月に、ときの老中筆頭土井利勝に、新煙硝二百斤と虎皮の進物を届く」
 と江戸中期になって、国交が初めて開け、江戸誓願寺を宿所としたシャモロ人が、
山田長政の使者にきた旧九州浪人伊東久太夫を、通弁として貿易を始めたようにでて
いるが、その以前からも、交流はあったものだろうか。
「ベトナム戦記」のニュースなどを見ると、日本人そっくりの容貌をしたのが多いし、
また、キック・ボクシングの試合でも、よく日本人に似たタイ国の選手が出てきて、
びっくりさせられる。どうして東南アジア系は同じ有色人種とはいえ、ああまで日本
人の一部にそっくりなのだろうか。また日本人がベトナム戦にわが事にように心を痛
める関連はなんであろうかと疑いたくもなる。
 というのも、実際の処では徳川時代は、すべてが各藩単位で日本全体の歴史などは
どうでもよく、「日本歴史」なるものは、明治二十年代の後半から四十年代までにか
けて纏めあげられたものなので、どうしても、日清、日露の二大戦争で、
(下関----関釜連絡セ船----釜山。そして京城から新義州。鴨緑江から南満州鉄道で
奉天)
 といったコースが、強烈に植え付けられた歴史になっている。また、それが大衆に
もすっかり馴染みになってしまったせいか。
 日本の対外相手は、これ朝鮮半島と中国に限定してしまった感がある。しかし釜山
浦まで出て、そこから朝鮮半島経由で大陸へというコースより、実際は海上を年に二
回交互に吹く季節風や貿易風によって、南支那海や東支那海を往復していた方が、遥
かに多かったのではあるまいか。織田信長の頃でさえ、香港に近いマカオと日本の泉
州堺の間には、定期航路があった程である。
 そして、その頃のポルトガル人は、マカオと印度のゴア、そこからリスボンとやは
り潮流にのって航行していた位である。
 だからタイ国、当時のシャモロ国から、日本へ吹いてくる風の季節には、彼らもま
た、やはり黒潮を利用して、日本列島へ渡ってきたのだろう。
 なにしろ『古事記』にでてくる処の、「野見の宿禰と当麻(たいま)の蹴速(けは
や)の垂仁天皇天覧御前試合の情景」たるや、
「日本の国技相撲の始め」とされているが、「ハッケヨイ、ノコッタ」と、土俵で四
股を踏むといった相撲ではなかった。つまり双方ともに正面で取り組むような勝負で
はないのである。
 野見の宿禰は西方に向かって三拝九拝。
 当麻の蹴速は南方に膝まずいて叩頭。
「ゴーン・ゴン」とゴングがなると、
「やあやあ」向き合った両人は、まわしなど当時はしめていなかったせいか、手など
伸ばさず脚を高々とあげ、互いに相手の胸や腹にアタックを加えあい、
「ハオ、ハオ」と声援をうけ、軍鶏の蹴り合いのような試合を続け、とうとう最後に
は、
「KO」で宿禰が、蹴速をキック・ダウンさせてしまい、今でいえばタイトルマッチ
をとって、勝名乗りをうける事となったと出ているのである。
 だから、キック・ボクシングの選手が、宿禰神社へお詣りするのなら話は判るがそ
うではない。
 今では日本相撲協会の、役員が初場所をあける前に、横綱を従えて、
「どうぞ大入満員、札止めになりますよう」
 と羽織袴で威儀を正して、恭しく参拝する慣わしになっている。すこし変てこであ
る。
 しかしヤバダイ国の連合グループに、投馬国というのが入っているのは前述したが、
発音からすると、そのトウマと当麻は同じような感じもする。それゆえ、この勝負と
いうのは、
(旧インド系と推理される倭人の国が、東南アジアから転入してきた国家体制に打ち
破られた事実)を相撲に仮託して物語っている寓話かも知れないのである。
 だが、とはいうものの、いくら野見の宿禰がタイトル防衛を続けて勝ったからとい
って、それで当時のシャモロ国の名が日本列島に響き渡り、色々の物にシャモの名が
付いたとは考えられもしない。
 これはやはりある時点において、彼らが大量に集団移住してきたものと見るべきだ
ろう。
 しかし、そんなに大勢の異邦人が、一度にどっと南の国から、
「今日は」とやってきたら、これはどうなったろうか。
 現代の感覚なら、万博かオリンピック見物といった受け取り方もあろうが、昔そん
なものが有る筈もないから、とても歓迎されて、「ウエルカム」と招じ入れられるよ
うな事は、いくら古代でもまあなかったろう。となると友好的に入国できたという事
実は、観光目的でなければ、彼らが今日の国連軍のような恰好で堂々と進駐してきた
ものと、みなすことは飛躍であろうか。
 また、それ程の大掛かりな進駐が有った裏には(何か突発事が有ったものと見なし
うる)といった事実を意味すると考えてはいけなかろうか。
 これまでの日本歴史では、
「仏教伝来は宋の国から、唐の国から」と、中国からみな来たことになっている。
 が、あれはどうも誤りではなかろうかという仮説のもとでのことだが、
「中国から印度まで」の間を現在旅行してみても判ることだが、もっとも仏教の盛ん
な国は、それは朝鮮でも中国でもなく、なんといってもカンボジアとかタイである。
 なにしろ1970年9月5日の外電によれば、ベトナム解放軍の女兵が全裸体とな
って前線に現れたそうである。するとである。
(女人の裸体を己れの眼で見ると、戒律によって仏果がえられず、仏罰をうける)と
教育されているカンボジア兵は、そのため、みな狼狽して、
「眼の汚れになり、色慾を勃起させては、御仏の戒めにそむくことになる」と、みな
視ないように眼をとじてしまい、とてもこれでは迎撃にならず、次々と解放軍に攻め
落とされ弱らされているとのニュースが伝えられている。
 日本では黄ばく宗[黄檗宗?]というのか、茶道具を包んだりする時に用いる、黄
赤色の布地の長いのを、肩から曳ずり気味の托鉢の群れが、バンコックの町へゆくと
集団で朝は町に溢れている。[『黄檗宗』とは、隠元を開祖とする江戸初期の禅宗の
一派。いわゆる『北方仏教』であり、ここで関連あるタイ国の『南方仏教』とは関係
ないようです]
 男は成人式みたいに一度は仏門へ入って、こうした修行をして仏果をうるのだそう
だが、ぞろぞろ歩いているのは壮観である。
 だからして陸路重点に考え、仏教伝来は中国からとみるより、釈尊の生まれたもう
た本場のインドや旧シャムロのタイから、船舶民族によって吾国へ直接導入されたと
いうような、発想はできぬものであろうか。
 そうでないと足でキックするような相撲の原点は、やはり貿易風によって彼らに持
ちこまれた体技としか思えないからである。
 そして、キックボクシングや、シャモとよばれる軍用鶏をもちこんだ民族によって、
それまでの騎馬民族系はとうとう征服されたか、または、
「仏の功徳」によって折伏してしまう世になったのだろう。このため対抗上、クダラ
系の人々は、「韓(から)神」さまを守って、仏派に対して各地に分散したらしく思
われる。もちろん既得権益を守るために、朝鮮半島からの人々は結集もしたのであろ
う。
 そこでシャモロ側も、「護法」のために貿易風を利用して、大兵団を日本へ送りこ
み、彼らは、その当時クダラ系のコロニーであった河内から八尾方面を、まっ先に占
領したろうことも考えられる。
 そうでなくては、今もその地方に、闘鶏として、南方系軍用鶏が飼われ、
「河内名物、軍鶏のかけ合わせ」となった由来が判らなくなるのである。
 そしてバラバラのタイ国米になれていた彼らは、日本米のべたつくのに弱って、便
箋に用いていた木片の古いのを削って、これで飯盛りをしていたのだが、文字が残っ
ている物もあったからして、「文字のついたシャク」ゆえ「シャモジ」
 と転化し、それゆえ海路安全の守護神である安芸の宮島の厳島神社が、現在に到る
も、日本全国のシャモジの75パーセントまでの製造販売を独占しているのかも知れ
ない。
 そういえば厳島神社の赤塗りは、香港あたりの水上飯店の建物によく似通っている
し、「蛋民(たんみん)」とよばれる水上生活者が用いているサンパンと同じ物が、
社宝の、「平家御一門参拝之図」の供奉船には描かれている。
 だから寿永三年の壇の浦海戦のときは、たまたま西南へ貿易風が吹きだす季節だっ
たから、平家の軍船の内で流されて行ってしまったものがあるのかとも想いたくなる。
「中国民族史」や「香港案内」にも、
「蛋民というのは氏族不明の漂流民である」などとでている。
 もちろん逆に考察して、シャムかもっと西南から季節風が北東に吹く冬季に、向こ
うから流れてきて、それが戻ろうとした際、香港あたりに足止めになってしまって、
そこに定着したのがそのままになったか。
 これは、大陸からの久米の子らが、そちらへ戻ろうとしてならず、中間の沖縄に辿
りついたきりになってしまったような見方もできるからして、それらと同じようなケ
ースでなかったとは、とてもいい切れないものがある。