1075 八切日本史 11(最終)

仮面の奥の黒い荒野

「荒野」はLandesとかき、ゴール人の、「Landa」からフランス人が転化させたものだ
というが、英語になってからは、ただ「ランド」と使われ、ハイランドや、キディラ
ンドとなってしまっている。
 しかしフランスでは、今でも西南部からアンドロ共和国へかけての、ブドウ畑の山
間地帯をさす特異の呼称にして使われている。
 アンドロは今でこそ、フランスとスペインの両国から司祭と政務官が送られ、共同
で運営しているピレネー山間の観光国だが、ここはもともとバスク人の土地である。
 三十一年前のスペイン革命のとき。
 バスク人は、イベリヤ無政府主義革命軍に加わって、ファッショと戦い敗れてしま
った。
 だからフランコ政権には睨まれ、大日本帝国時代の朝鮮人の如き立場に置かれてい
る。
 しかし、ここは、かつてフランシスコ・ザヴィエルやロヨラの、ナバアール土候国
の後であって、彼らバスク人は、自分らは最古のヨーロッパ人といい、他からは、
「東洋人」と昔から見なされ、
「人種的」にも言語学上でもヨーロッパでは、異端の民とされている。
 だから、ザヴィエルやロヨラの時代は、「敗戦国民としてのフランスの命令で軍兵
にされ、角笛一つで千名、二つで二千の歩兵供出を強制割り当て」されていたし、ス
ペイン側へ連れてゆかれた者は、イサベラ女王の趣味と実益による国家事業、つまり、
「魔女狩り」の刑吏とされていた。
 これは日本でも、小塚原の刑場で首斬りをしていた山田浅右の組子や、張付柱にか
けた生きた胴へ錆び槍をぶっ刺す連中が、弾左衛門輩下と決まっていたのと同じこと
である。
 だから、ザヴィエルと共に日本へきて残ったファンなどは、向こうで女人を丸裸に
ひんむき手足を四方から引っ張った下にあって、手足が伸びて垂れ下がるのを防ぐた
め、支え棒を立てるのに、臍のところでは外れるからと、窪みに尖端をこじ入れる仕
草や、丸太ん棒にくくりつけて焙り焼きをする役をやっていたのである。
 ----今でもマドリッドやリスボアナには、豚の丸焼専門店が多く、名物になってい
る。
 これはこの魔女焼きの時のヒントによるものだそうで、日本ではパンにソーセージ
を挟んだのを、ホット・ドッグというが、イベリア半島では「コラア・ムリエール」
つまり、ホット・レデーと脂肪の焼けた塊りをいう。
 さて、日本人の西欧崇拝主義の現われか、フランシスコ・ザヴィエルといえば、
「吾国へ初めて神の福音をもたらした有難い御坊さま」という事になっている。彼の
属していたイエズス派が、僅か十名で結成された戦闘教団として、パウロ三世によっ
て特別認可された理由も、日本ではすこしも詮索されない。
 また彼らは白人としては認められていなかったから、印度人、アメリカ人、東洋人
の教化しか許されていなかったこと。1979年の今でさえインド・ケララ州の同派
神父プテンプラが、インド人の少女をヨーロッパへ身売りさせ、世間を騒がせている
こと。そしてヒットラーが、
「純粋白人主義」をスローガンにしてヨーロッパを席巻するや、ゲシュタポや親衛隊
によって、各イエズス派教会が襲撃され古文書類を奪われ焼かれたのも、その理由が
判らぬから日本へは伝わっていない。バスク人フランシスコ・ザヴィエル隠しの為で
あるらしい。
 それよりもおかしいのは、ザヴィエルはその死後すぐ有名となり、その奇蹟によっ
て、世界中に知れ渡ったなどと、色々の伝記には有難がって出ているが、その後一世
紀たって、フランス人のボルドー高等法院判事ド・ランクルは、同僚と護衛隊に守ら
れ、ザヴィエルをうんだ地帯へのりこんでゆき、
「その捕らえてきた女は、前からみては倦怠を覚えるどころか、もっと嫌悪さえ催さ
せた。やむなく裸にしたバスク女へ廻れ右を命じた。しかし何人もの子をうんだであ
ろう女のそこは背後からみると、雌牛のそれのようにたるんだのがたれていた。そこ
で群がってくる銀蝿を追うために、作られてあったシュロの蝿叩きで、私はピシャピ
シャそこを叩き、他の魔女の名前を1ダース告げるまでイン・パーセ(土牢)へ戻っ
ているがよいと、法の名において宣告をし、また追い帰した」
 と、魔女狩りにことよせ、したい放題をなしたことを、堂々とその記録にし、
「呪術における不信心と背神行為の図」
「堕落天使が悪魔に変節してゆく構図」
 といった二冊をまとめて後世に残し、ミラノの僧院では、御堂修理費用捻出のため
と、
「千リラ(邦貨六千円)以上喜捨の方に、安易な英訳のさわりの部分の小冊子を進呈」
と配布しているので私も入手したが、(ザヴィエルさんが豪い人なら、その誕生地へ
のりこんで、フランス人の判官が何故そんなに荒らし廻れたのか)不思議でならない。
 なにしろ----ザヴィエルの妹の曾孫にあたる女までが、このとき喘息病みか、ぜい
ぜい犬みたいな咳をした罪状によって魔女とされ、脚と脚を引っ張って股さきにされ
る刑にあい、そこの中心部の皮を普段から、よく使いこなし鍛練しておかなかったせ
いか、中心で二つ割りにならず、彼女(年齢不詳)は膝の関節がもげ、死んだとの記
載すらあるからである。
 今でこそ、観光客目当てにザヴィエル城まで作られているが、十六世紀の頃は、バ
スク人はあくまで被征服民として蔑視されていたのだろう。また、船は帆まかせ、帆
は風まかせの時代に一流や二流の人材が遠い日本まで、六、七年掛りでやってくるは
ずもない。


ジャンル・ダルクはいぼいぼ顔だった

 私なんかは原爆問題もあるし、それに他国でもアメリカさんからは、日本人と判る
と属国民扱いをされるので、あんまり嬉しくはないが、若い娘さんなどは憧れて行き
たがる。
 がアメリカでは日系女子は、バスルームの中で裸で殺されないまでも、よくトライ
をされる。
「日本女性は世界的に素晴らしいそうだから」
 と、ご当人たちがそう思いこんでいるから世話はないが、そのくせ、さて改まって、
「何処がワンダフルと思われているのか」
 と質問してこれに答えられるのはいない。
 しかし知らぬは当人ばかりなりで、これはフジヤマ、ゲイシャ、ソニー、ホンダよ
り、海外では知れ渡っている事なのである‥‥
 が、それを明らかにする前に、「魔女は日本へ行った」といった75セントのアメ
リカの娯楽本のタイトルや、ナポレオン・ソロやバロンといったテレビ映画で、「日
本は魔女の国」といったセリフがよく出てくる。
 またそれを誉め言葉と受取ったらしく、
「東洋の魔女」とよばれ、喜び勇んで帰国してきたバレーボールのチームもあったの
を、まだ覚えている方もおられるだろう。
 が、何故、日本の女性は魔女なのか?
 私はそれを、かつて七十万から七百万に及ぶ女性が、生きながら焼かれた魔女狩り
が、インドのゴアやマカオまでは行われたが、日本本土ではなかったらしいから、そ
れで、
「魔女なるものが箒にまたがった大行進」
 で日本へ逃げてきたもの、とでも解釈してのそうした寓話であろうと想っていた。
 ところが、これにはジャンヌ・ダルクが、からまっているのである。ジャンヌとい
うと日本では、童話的な受け取り方をされているが、二十世紀の1920年までは、
カトリック総本山ヴァチカン法王庁でも、
「聖女」などとは認めなかった彼女は、岸田今日子演ずるような、あんな美女でなく、
ジェンナーが種痘を始める前ゆえ仕方もないが、いぼいぼの顔で、ガマともよばれて
いた。
 さて、唐もろこしみたいな髪をしたガマ娘では、実物をみせると男共の士気が阻喪
するから、白銀の面甲をすっぽりいつも冠っていたが、運悪く1430年5月23日
にコンピェーニエ城へ応援に行ったとき、
「暑くって‥‥」うっかり面甲を外したところを見られ、伴っていった兵士たちから、
「あんな豚みたいな百姓女の為に、おかしくって」と逃げ出されてしまい、ジャンヌ
は敵側ブルゴーニュ派に捕われの身となった。
 好色の英国貴族共は、噂高きジャンヌを、「戦利品」として、くじ引きで一晩ずつ
抱く順位まで決めたが、実物をみては、みなその気をなくしてしまい、同じフランス
のソルボンヌ大学の教授たちも、美人には弱いがブスは女とは扱わぬ連中だったので、
同胞なのに、
「あんな女が、ドーヴァーを渡って英国へつれて行かれ、引き廻されたら国辱もので
ある」という見解から、翌年5月30日に、ルーアンの広場で、
「火あぶりの刑」をジャンヌに課した。
 しかし当時の一般大衆は、今の日本人のように、「聖処女」といったイメージを抱
いていた。
 だから煙の中のガマ娘を、男と見誤って、「にせものだ」と群集が激昂し騒ぎだし
た。
 刑吏はやむなく燃えている薪を脇へよせ、スカートが焼け落ち露出している彼女の
シンボルを、群集に見せ納得させようとした。
 が、それでも人々は、
「ぶら下がっていた物が焼け落ちたにすぎぬ」
 とジャンヌを女と認めようとしなかった。ワアワア騒然たる有様となった。
 そこで刑吏はやむなく燃えた丸太ん棒の先端を、そこへ突きこむ事によって女性で
ある事を証明しようとした。が彼女は股間へ挟まれたのえ跨る恰好で、北東80キロ
のパリの空へ向かうがごとく見せかけて大きく旋回し、遥か東洋へと飛び去ったとい
うのである。
「一陰年つまり大魔女は百年後に生まれ変わる」
 といわれていたから、イエズス派は日本へ魔女を探しに、ジャンヌの生れ変りの魔
女狩りにきたのであるが、その時の、
「魔女鑑別法」というのが、常人の女性自身は、タテの口だが、魔女はヨコに口があ
いているというのである。だから、これが、いつの間にか向こうの愚かしき男共に広
まってしまい、
「日本の女性は素晴らしい。何故かなれば、ヨコにそこが開いているからである」
 となってしまい、日本ではモテないオカメさんでも、向こうでもモテるごとき錯覚
を当人に与えたり、日本を属国視している国では、
「ちょっと試させろ」とんだ災難にも逢わされる。それゆえ私は「魔女」を書いたの
である。が、どうか、「日本の女性は素晴らしい」と自分でも想っている方は、念の
ために鏡に跨って、伝説通りかどうかを覗いて先に確かめて頂きたい。
 そして通説や俗説とはいかに、洋の東西を問わず他愛ないものか判ってほしいもの
である。
 つまりモノを書くのも後世に残してゆきたいと、当人は思っているのだろうが、そ
れも頼りない願望でしかないかも知れぬ。その時代には女湯を空っぽにしても死後1
0年たてば見むきもされぬ。つまり優等生なみの安全無害でもてはやされたものは、
本人が死んだらそれで終りである。
 なのに哀れなもので己が死後も、まだ本が保存され読みつがれてゆくものと、はか
なくも夢をかける。またそうでなければ、真剣にはとても調べに調べては書いてゆけ
ない。
 だからして、みな精魂をうつこんで書くのだろうが、これが結果的には、あまり期
待できないものであるらしい。私はマセていて十八歳から原稿料生活を始め、二十五
歳までに三十七冊の単行本を出し、今でいうベストセラーに当る十万部以上のものも、
三、四点あった。しかし書くのを止めてしまっているうちに、それらの本は古本屋の
ゴミ本の棚にも見当たらなくなっている。
 どうして、そうなってしまったのかと云えば、一つの時代にもてはやされたものは、
その時代が終わると共に一緒に押し流されてゆくためであろう。といって、その時代
に先走ったものを書いても、これまた残るという保証はないのである。では何ならば
後世にまで伝えられるのかとなると、割り切って考えれば、「後世の人間がそれを利
用して利益をあげられるものだけ」しか残らぬことになる。
 復刻して売れる見通しがつかなければ、いくら優れた内容のものであっても、後世
の出版社は再刊などはしてくれないものらしい。
 つまり利用価値という需要が後世に起きない限り、いくら精魂こめて書いたもので
も、当人が死んでしまえばそれまでである。
 もちろん違う次元でみれば、姿三四郎や宮本武蔵をかいておけば、半世紀ぐらいの
間は、エンターテイメントは理解しやすいようにと考えられがちだから、そういうも
のは蘇って再刻もされよう。
 となると、何世紀も持ちのよいもの。後世の人間の種本となるような、利用価値の
あるものを残しておくのが、もっとも妥当な途ということになる。そこで、ここ十年
間せっせと書いてきたのだ。

「拳銃を、こめかみに当てれば自殺だが、もし銃口を腹部に当てがったら、見ている
ものは笑いはしないか?」という命題を提起したもので、ハラキリというものは、今
では盲腸手術のため割腹しても、縫いはせずクリップで止めておく程度だし、夏にな
るとビキニ水着の関係で、臍の整形で腹切りする女性が多いが、一滴の血も出ないも
のである。
 つまり腹部には脂肪が溜まっているから、腹を切ると白い脂肪がでてくると思うの
は間違いで、脂も生きているうちは赤く、白く凝固するのは死んでからの状態で、肉
屋の店先のロースや霜ふりのようなものではないらしい。
 切腹作法で説明されるような1センチ位の深さに斬るのでは、内臓に切先がくいこ
まぬ限り、腹部には静脈も動脈も通っていないから、決して血はこぼれ噴き出ない。
 それに腹部というのは、すぐに横に裂けるようになっていて、たとえ半センチにし
ろ口をあけると、すうっと直線に広がる。
 お恥ずかしいが、私は終戦時、旧関東軍将校の連中が割腹するという場面にゆきあ
って、
「では、一緒にやりますか」と、つきあいが良いのも時によりけりで、おっかなびっ
くり腹に軍刀を突き刺したことがある。
 そのとき、しみじみ覗きこんだ体験だが、「わが腹は赤かりき」で、左右にパック
リ口をあいたと思ったら、10センチ位に横にすうっと広がって、血は出ていなかっ
たが、そこは安物のマグロの刺身みたいな色だった。そのとき、
「俺は腹の黒い人間ではなかったなあ‥‥」
 と思ったが、その反面、
「芝居で、血にみせる赤綿を出すのは嘘だ」
 とも悟りをひらいた。さて、そのとき誰かが、背後からエイッと首をはねていたら、
腹に口をあけたまま死んでいたろうが、何しろ肝心な将校連中が中止した。私も老酒
(ラオチュー)をかけられ繃帯されたら二週間で傷は癒着した。
 しかし今でも、ひきつれになっていて、冬は時々鈍痛がするし、夏はいたがゆい。
 「自腹を切ると損をする」とは、このことの戒めでもあろうか。そこで戦後、体験
上「ハラキリで自殺はできぬ」という考えの許に、なぜ日本では切腹がこんなに間違
えられるのかと、こけの一念、腹を通している位だから、岩をも通さんばかり張りき
った。

ああ軍神乃木大将

 しかし日本で出ている「切腹の資料」たるや、白砂に黄色い畳を裏返しにしき、水
色のカミシモを白衣の上にきたのが、ベージュ色の三宝にのせた白紙をまいた短刀を
「では、御免」と押し頂き、腰を浮かして踵を尻にあて、腹をひろげておもむろに突
きたてるといった順序ばかりが書いてあって、「作法」と、それは説明されている。
 しかし本当に腹部に刃を当てるなら、腰は沈め尾テイ骨を下につけなくては、とて
も力は入るものではない。なのに腰をもち上げるというのは、これは他人に見えやす
くするためでしかないものである。それに、「白、黄、水色、ベージュ色」といった
色彩構成は、最後に、「ううん」と引っ張り出す血綿を、効果的に見せる役割をはた
しているとしか思えない。つまり「切腹作法」なるものは、芝居の描写以外の何物で
もないことになる。
「死」というものは酷にして、無惨なものである。
 それをこれだけ様式的に、美化したカブキの演出効果は素晴らしい、とはいえ、だ
からといって、それと実際とを混同しては困る。
 しかし切腹というものは、幕末の妙国寺事件のように公開実演される場合は、滅多
にあるものではなく、これは非公開が殆どで、
「矢野内記伝書」にある江戸伝馬町牢獄の、切腹記録では、元禄年間から幕末まで僅
か四十件ぐらいで、しかも、その半数は安政の大獄による受刑人である。また各大名
家でも、それぞれ若干の切腹はあったろうが、これとても見世物として行われたので
はない。
 だから一般では、武家とはいえ、
「切腹」など見たこともないのが多く、そこで、講釈師みてきたような嘘をつきと当
時の売文業者が芝居見物に行き、それをそのまま書きとめ、これを本にして版元から、
いくらかの銭をせしめ酒代にしたのだろう。
 ところが、それをそうと知らぬ現代の作家が孫引きして、おちも悲壮なる場面を、
自らの正を絶つという感慨の中で、巧みに描写しているのだろうが、私のような実証
体験主義からしてみると、どうも絵空事にすぎない。
 というのも、これは、
「腹を切るのが、切腹ならば」腹部脂肪の溜まっている筋肉層が、横に裂ける性質上、
その範囲内で切らねばならない。
 深く突き立て内臓を破いてしまったら、切先が絡みついて動きがとれなくなる。
 それに十二指腸や小腸がトグロを巻いているところだったら、毛糸の玉へ差しこん
だ編み棒のようになってしまう。これでは、
「腹を切る、のではなく、腹に絡みつく」
 ことになってしまい、これでは切腹にならない。といって筋肉の横裂けを利用して、
口をぱかっと開けるだけでは、見た眼はマグロの赤身が出たみたいで派手だが、これ
ではろくに血も出ないし死にはしない。
 なにしろ大病院へ行って腹痛を訴えれば、
「ちょっと開けて内部を見てみましょう。胃カメラをのみこんだり、レントゲン撮影
するより、はっきり判りますし、安全ですから」
 と外科へ廻され、すぐ開腹されてしまう。
 また近頃は、皮下脂肪の多い中年夫人など、腹を切って溜まった脂肪をひっぱり出
し、たるんだ腹の皮を詰めると臍が下がってしまうから作り変えるというヘソ博士の
話もある。
 だから現実には、腹を切ることは、今では命に別条ないことになっているのに、絵
空事の芝居や無責任な読物のせいであろうか、1970年代になっても青年が一人、
代々木で割腹をし救急病院へ運ばれた事が、過日東京新聞には小さく出ていた。
 つまり、切腹が自殺行為の一つという妄想が、まだ生きている亡霊として、考えら
れているこれは証左であろう。
 というのは、切腹なるものが一番多く、日本人によって行われたのが、江戸時代で
も戦国時代でもなく、今から二十五年前の終戦時で、まだ記憶に生々しいせいであろ
う。
 外地内地を問わず、この時くらい多くの日本人が、阿南陸相から大東塾の烈士達ま
で、「切腹こそ日本武士道の精華」といった歴史屋の嘘のため、のたうち廻る苦しい
死を選んだ例は他になかった。
 なにしろ宮城前に集団で自決をはかった男女のごときは、幸い手榴弾を前もって所
持していたので、突き刺し動かなくなった刀はそのままに、壮烈な爆死をとげている
程だ。
 さていくら歴史屋とか講釈師が、
「粟津で敵の矢をうけた新田義貞は、もはやこれまでなりと、鎧をとり腹を十文字に
かき切り、返す刃で首を落し、これを深田の中へ埋めその上を胴で覆って隠した」
 といったスーパーマン物語をかいたとしても、何もそれに刺戟されて、有為の青年
が割腹したのではない。これは明治大帝御葬礼の時、その御後を慕って殉死をとげた
乃木大将が、「軍神」として、それ以後の日本人の精神教育用にされていたから、
「日本武士道」とは「軍神乃木大将に続く道である」と、なったためである。
 つまり日本人たるものは、乃木大将にあやかるべきであるという根本理念が、昭和
二十年の日本人の心に確り教育されていたゆえ、「切腹」こそ、軍神につぐ道である
とも考えられ、多くの立派な男が屠腹をあえてしたのであろう。その乃木大将の割腹
の模様は、拙著『切腹論考』[『論考八切史観』のこと。当コーナーにアップ済み]
に詳しく引用してあるので、ここでの引用は差控えるが、
「それでは、将軍を切腹に追いつめた根本理念」は、では何処からかという事になる。
 これを、乃木大将の性格や、その人自身の問題として、近頃は色々論議され、その、
「軍神」や「殉死」の各著者に対して、
「云うをやめよ」式の投書さえ大新聞に出る有様である。
 しかし真実は別のところにある。乃木大将は長州人である。彼の義兄弟が松下村塾
の後をついだ玉木文之進である。つまり、
「大将の切腹」の根本をなすものは、大将個人の性格でも、またその人間自身でもな
く、幕末長州の藩士教育によるものだ、という事が見逃されているのである。
 舌をかみ切って唇から血をたらせば即死と決めてかかるが、ウィークエンダーの番
組で半分かみきられても平気だった痴漢の紹介もあった。すぐ死なせたがる国民性の
せいか、腹に切先を当てれば直ぐ死ねるような勘違いを、一般に与えてしまったのも、
これまでの歴史の嘘のせいなのか。
 長州でも始めのうちは、
「腹を切るということは苦しいだけで、それだけでは死ねない。誰かに止めをさして
もらうか、首でも落とされねば死ねるものではない。だから一端有事の際は卑怯者と
そしられ、切腹させられるよりは、進んで敵中に突入しろ、死中に活を求めるとはそ
の事ぞ」
 といった教訓にその「御家誠」は用いられていたが、幕末になるとエスカレートし
て、
「切腹とはこうしてやるんだ。長州人は一人といえど腹を切れん者がいてはならんの
だ」
 本末を誤った教育がされるようになった。
 もちろん、その「御家誠」の解釈が、とんでもない間違いであったことをの解明は
『切腹論考』の方へ御預けとするが、「切腹」が軍神乃木さんから広まり、それも長
州の教育からと帰納し、その教育のテキストが実は誤られた完全なミスによるものと
なると、
「では、何であるか」ということになる。
 さて、確定史料の上で、切腹の元祖は、
「細川の家人薬師寺与一」が、室町御所に捕らえられ、腹を突いて死ねと命じられた
とき、「わが名は与一に候はば、腹をも一文字に斬り申し候」と刀をあてて死んだの
が最初であって、足利末期から戦国時代にかけて広まったように、これまでは説明さ
れている。
 しかし間違えてはならないのは、それは自決ではないということである。
 よく戦記ものでは、すぐ名のある武将は、
「もはやこれ迄なり、敵の手に掛からんよりはいざ潔く、いでや死出の旅をせん」
 と、もろ肌ぬいで一文字に切ったとか、十文字に切ったと出てくるが、
「自殺」というものは、クイック・アンド・イージーが原則である。
 筋肉層だけなら、サアッと横へ割れ、熟した西瓜みたいに赤いのが覗けるが、それ
は赤身の肉でろくに血も出ないのは前述した。
 血を流すためには筋肉層の下の内臓まで深く刺すのだが、胃下垂でない限りは直腸
十二指腸大腸小腸の個所だから、せっかくの刀の切先が、毛糸の編棒どころか、もり
そばに突きこんだ箸みたいに絡まってしまい、
「どうすりゃいいのさ」と、引くにも引けず押すにも押せぬことになってしまう。
 これではクイックでも、イージーでもない。まだ咽喉をつくとか手首の動脈を切っ
た方が、出血多量で死にやすい。
 平和な時代と違って足利末期は、
「応仁の乱」から始まって、各地で殺し合いばかりしていた世相だから、そうした、
「死」への知慧は当時の人間は、みな持っていたはずである。
 ならば武将が、どうして死にやすくない切腹方式で自決などするものだろうか。
 誰だって痛いのは一回で済ませたいだろうに、第一ラウンドで自腹を切り、第二ラ
ウンド、もう一回、他人に首を斬らせるなどというのは、自虐精神もよいところで、
知らずにやるのなら間違えてともいえるが、戦国時代にその常識のない奴はいなかっ
たろうから、辻つまが合わない。
 では、切腹はなかったかといえば、これは有ったろう。薬師寺与一のように捕らえ
られたり降参した者には、勝利者が、
「スパリと殺してしまうには憎々しい。自分の手で散々苦しませて、なぶり殺しにし
てくれん」と、残忍きわまる処刑法として、この切腹が採用されたのであろうことは
確かだ。
 しかし切腹させられる方は、いつの場合でも時の敗者であったのに対し、させる側
は体制側なので、これを講釈師がおもねって、
「これ町人百姓ならば打首でスパリと、首を落されしまう処でございましょうが、其
方も武士。よって切腹をさし許すとお沙汰が出ますると、有難き仕合せ。これぞ武門
の名誉と喜び、そこで双肌(もろはだ)ぬいで氷のような一刀を抜き放って割腹。前
へ倒れかかります処を、目にも止まらぬ早業で検使の太刀が介錯」
 とやってのけ、それがそのまま、あまり物事を考える思考力のない人に受けつがれ、
「一度でさあっと殺されるより、ゆっくり生かしておいて、突いて斬り落す二段構え
の方が、手が掛かるから上等な殺され方、つまり有難い仕合せだったのだろう」
 と、死ぬ身にはまったく思いやりのない解釈で、
「名誉の死」といったように今日まで伝えられたものらしい。しかし目にも止らぬ早
業で首を打ち落してくれたらよいが不安定な位置などで何度も仕損じをする。だから
何度も痛く変な話である。
 なにしろ切腹が、いくら舌先三寸や舞文曲筆で、美名に飾られたとしても、これが、
「自分の手で自分を死なせる‥‥もっとも酷たらしい処刑」だったことは、これの古
名が「八」に繋がっていることでも明解である。
「ハチ、鉢、蜂、八」というのが、日本原住民の、つまり俘囚の裔の蔑称であること
は、これまで述べてきたが、例えば、前にかいたように、
「ハリツケ」といって木へくくりつけ殺すのでも、縄でくくりつけて槍でブスッと一
気に仕止めるのは、「張付」というが、
「手足を五寸釘でうちつけ、採取した昆虫のようにピン止めにして、カラスがつつく
にまかせ、放っておいてじわじわ殺す」のは、
「八付」という。千宗易が戻橋で殺された時は、木像が身代りに釘づけだったから、
「八付なり」と仙台鈴木文書の記録にある。
 それと同様に、この切腹という苦しい死ぬに死ねない死罪も、「古名拾遺」では、
「八切=腹切りの古語。元禄年間介錯人が打首するようになってから切腹という」
 とでている。八を片仮名のハと誤り、ラを入れてハラキリとするよりは「八」を知
らぬ人の解釈であろう。だから、これで私の筆名の由来も判って頂けたであろうが、
古来、切腹は俘囚の裔の地家に限られ、公家の御方は一人も切腹はなさらぬ由縁も実
にここにあるのである。



何故に書いたかといえば‥‥八切止夫

 私がこの後とり組んだのは「八切忠臣蔵」です。静岡の松本検さんから、大野九郎
兵衛ら16人が板谷峠で二番手として待機していたが、大石らの討入りが伝わって自
決したのを新説として紹介した静岡新聞を送ってくれました。しかし松本さんも指摘
されたように私は七年前に板谷峠へゆき何も彫っていない石墓も撮ってきています。
それより大石や大野といった若党や仲間しか使っていない文官である家老らが決行す
るよりも、武官派である城代が何故にとの疑問を抱きました。
 芝居や講談で、城代家老と一つにしてしまうけれど、野戦の時に城の代りに主君の
周囲をかため守るのが城代なのです。算勘事務畑の家老は戦の時には糧食や馬匹の手
当だけで、実戦参加は城代から各組の侍大将であります。文官には縦の繋がりはあり
ませんが、城代には生死を共にする命令系統が各組とも堅くできてます。それがどう
して表面にでてこないのか不審でなりません。
 江戸中期の兵制上まことに不自然きわまる話で、これは事後処理しやすいようにと
武官派の城代岡野らは押さえつけ、始末しやすい大石らを援助した黒幕があったとみ
るが至当でしょう。
 討入り直前に大石らに加盟していた武臣派が次々とおりているのも、当初からの予
定だろうし城代岡野が実兄の旗本邸で自尽したことになっているのも、上からの圧力
とみられます。祇園一力の内蔵介は嵐山の衣装比べを妻が始めだした小判作りの中村
内蔵介であって、すべてが元禄銅小判作り隠しが真相で時の大老柳沢や老中小笠原ら
の策謀とわかるのまでに五年掛かりました。

 さて、英国の歴史家アイザノア・バーリンの説によると、
「歴史の解明」なるものは、貴族に勲位や学士会へ斡旋してもらうために、栄えある
過去を見つけ出すことでもなく、城の由緒をその売値をつり上げるためにするもので
もないという。そして、メアリー・スチュアートは悪の権化で、エリザベス一世こそ
英国の偉大な女王であると、教わった通りに思いこめる者は仕合せな人たちである。
何故かなれば、メアリー女王の方こそ正しい継承者であり、彼女が何故息子のジェー
ムス一世にまで裏切られたかを探るためには、仕合せな人々には想像もつかぬような
解明の苦労をしなければならぬからである。というのは、何故かといえば、
「歴史の研究に打ちこむというのは、ある個人が何らかの理由で、現実社会と摩擦を
生じ、敗北感をひしひしと覚えたとき、そこから何んとかして立ち直ろうと喘ぎなが
ら、つまり真実とはいったい何処にあるのか、それは何んなのかと、血みどろな復讐
手段の一つとして、あるいは現実から逃避しようとする方法として、没頭できる過去
の墓石の中へ進んで自分を挺し、深い洞穴の死の棲家へ潜りこむような作業だからで
ある」といいきっているのである。
 つまり、歴史の解明に打ちこむとは、これまでの通説や俗説を打ち破って、一つし
かない真実をつかみ出そうとする努力で、興味本位や、骨董いじり的な考証とは違い、
それは自分を放棄して別個の生き方をしてゆく過程にのみ生命を擲つ行為。云うなれ
ば、自殺の変型でもあり得る。と、その見解をのべています。
 これは‥‥日本におけるようなごとき政権護持を意企とする皇国史観的な、教科書
に採用されて隠れたベストセラーになるのを目的としたもの。江戸時代から明治、大
正、昭和と続いてきたような、特定の人間に栄光を与えんとする事によって、報酬を
もらってきた系図屋歴史。そして茶器道具刀剣の値段や宣伝を心掛けて、商売の利潤
追求に媚び実存の史実よりも儲けのみにはしる茶碗歴史‥‥といったような、国家と
か斯界のために貢献して、それによって報酬をうけたり利益の配分を意企するものが、
歴史のあり方ではない。あくまでも、個人が、己れの真実を追求するため、一つの定
まった具象である過去の実在や実存の本当のあり方を、欲得ぬきで追いかけるのが、
それこそ歴史の解明でないかと、彼はいっているのであります。

 これは八切日本史として、二年間にわたって、連載したものへ加筆訂正したもので
あります。

[了]